午前一時。テレビのニュースは、ようやく息を潜めたような落ち着きを取り戻しはじめていた。画面の下には『ホークス二次災害も無事解決』と流れるテロップ。それ以上の詳細は語られずに、現場の喧騒だけが、遠い映像として残っている。彼女が一つ、ようやく許されたように息を吐いたそのときだった。ベランダ側の窓が、控えめに、コンコンと鳴った。反射的に心臓が跳ねて次いでカーテンの向こうから小さな声がした。
「……開けてもらっていいですか」
彼女は勢いよく立ち上がり鏡の前を通りすがる間際、髪を手で整える。意味もなく部屋着の裾を引っ張って、ほんの少しだけためらってから窓に向かった。
「……早く、入って」
窓を開けた瞬間、冷気と一緒に紅い羽根が数枚ひらりと室内へ舞い込んだ。ホークスがベランダから身を滑り込ませる。着地は静かだったが目に入ったのは、負傷した左手だけではない。右手の甲にも新しい切り傷。額には乾いた血の筋が一本残っている。それでも意識は、はっきりしていて彼は靴を脱ぎながら、いつものように、へらりと笑った。
「ただいま、じゃないですね……お邪魔します」
「怪我、増えてません?」
彼は額の血を指で拭い、そのまま何もなかったかのように手を下ろした。視線はわずかに泳ぎ、室内のどこにも焦点を結ばない。ごまかし慣れた仕草だった。そうやって、いつも痛みや不安を、軽く扱ってきたのだと言葉にしなくても伝わってくる。
「これは……前からあったやつです」
「嘘つき」
「そこは流してもらえると、助かるんですけど」
軽口の裏にはっきりと疲労が滲んでいた。声の調子はいつも通り軽いのに息の深さが足りない。翼を畳んだ背中が、わずかに重そうにも見える。
「シャワー浴びます?ご飯、簡単だけど用意しておくので」
一瞬だけ遠慮が先に立った気配があった。言葉を探す前の、ほんの短い沈黙。だが彼は、それを引っ込めるように、小さくうなずいた。
「借ります。……食べます」
そう言った声音は、さっきよりも少しだけ素直だった。バスルームの扉が閉まり、しばらくしてシャワーの音が響く。その間に彼女は、冷蔵庫を開けた。鶏もも肉が半分。卵、ネギ、残りご飯。迷う余地はない。親子丼一択だ。鍋に出汁を張り火にかける。手が自然と動いた。
十五分ほどでバスルームの水音が止んだ。出てきたホークスは、数時間前に彼女が適当に背中に切り込みを入れた父用のスウェットを着ていた。肩幅に対して微妙に余り、袖も少し長い。濡れた黄土色の髪が額に張り付き、翼は器用に体の脇へ畳まれている。その姿は、ヒーローというより、夜更けに転がり込んできた大学生のようだった。
ホークスは、くんくんと、音が鳴る勢いで鼻をひくつかせた。
「あ、いい匂い」
「ちょうど、できました」
「腹へってたんで助かります、ほんと」
「うん。ほら、座って」
ローテーブルの前にあぐらをかいて座る。目の前に置かれた親子丼と、即席の味噌汁。湯気が、二人のあいだに、ゆらりと立ちのぼった。
「もう呼ばれたりしないですか? 片付いた?」
「今んとこは。……三件目は、さすがに勘弁してほしいっすね」
箸を手に取りながら肩を竦める。食べ始めると早かった。鶏肉を噛むたびに体の奥へ力が戻っていくのがわかるのか、紅い羽根の毛先がかすかに揺れていた。丼の底が見えかけたところで、彼が不意に、ぽつりとこぼす。
「……うまか」
「それならよかったです。そういえばさっき……ネットニュースで、また二名確保したって……」
ホークスは箸を止め、丼を置いた。少しの間を置いてから、低く息を吐く。
「ええ。逃げ道、塞いどったやつらです」
「……大変でしたね」
「まぁ、いつものことです」
言葉は軽いが、視線は、湯気の向こうに落ちている。そこにあったのはヒーローの顔ではなく、ただの疲れた、一人の男の顔だった。そうして、「でも……」と、小さく続けてから。
「今日は……戻る場所があったけん。だいぶ違いました」
彼女は何も言わなかった。ただ少しだけ湯気の向こうで微笑んだ。今はそれで、十分だった。
「出張先でも、だいたいは、こういうのばっかり対応してる感じなんですよね」
「んー......まあ。公安の案件とかも、絡んでたりするんで、詳しくは言えないんですけど」
声は軽く、語尾だけがふわりと逃げる。けれどその裏側で踏み込ませない線がきちんと引かれているのがわかった。彼女はそれを、もう何度か、見てきた。笑っているヒーローと、何も渡さないヒーロー。その二つは彼の中で矛盾なく同居している。ホークスは、味噌汁を一口すすり、小さく息を吐いた。
「まあ、ただの愉快犯じゃないすね」
「えー......ってことは、大事件じゃないですか。年の瀬に」
「すね」
「……ほら、食べ終わったら手当てしますから」
ソファを促すと、彼は一瞬だけ逡巡してから、素直にソファに座って、両手を差し出した。店で応急的に巻いた左腕の包帯は、いつの間にか血を吸って赤く滲んでいる。右手の切り傷も浅いとは言い難い。こうして落ち着いて見ると、よくこの状態で夜空を飛んでいたものだと、彼女は思う。
「……改めて見ると、結構やらかしてますよね」
「そう言われると急に痛くなってくるんでやめてほしいんすけど」
冗談めかした言い方だったが笑いきれていないのがわかる。彼女はそれ以上突っ込まず、小さく笑った。心配をそのまま口に出してしまえば彼はきっとまた軽く受け流す。だから、その微笑みは言葉にならなかった分の感情を、静かに追い出すためのものだった。
「青い薔薇の花束——」
「……」
「渡す予定だった相手には、連絡しました?会う約束、してたんでしょう」
消毒液が右手に触れた瞬間、ホークスはほんのわずかに肩を強張らせた。視線が逸れる。答えが出るまで、数秒。それから、ぽつりと落ちる声。
「……連絡先、知らないんですよ」
「ふーん」
その間の抜けた相槌が思っていた以上に効いたらしい。ホークスは、わずかに声の調子を崩し、困ったように眉を下げてみせた。
「ふーん、って」
「ふーん、ですよ。傷、痛みますか?」
話題を切り替えられたことに、気づいていないはずがない。それでも彼は、それ以上踏み込まず彼女の話に乗った。
「痛くないって言ったら、嘘になりますね」
「でしょうね。見た目以上に、辛そうですし」
「はは」
「なんか。ほんと災難ですね……せっかくのイブなのに」
包帯を巻かれる左手を彼は黙ったまま見つめている。白いガーゼが少しずつ肌を覆っていくのを追うように、その視線は、落ち着きなく揺れて、まるでそこに、意識を縫い留めていないと何かを零してしまいそうだった。
「せっかくのイブに怪我人の手当てさせられとるあなたの方が災難ですよ」
「私はいいんです」
「……嘘つき」
低く、けれど責める響きではなかった。彼女は一瞬だけ言葉に詰まり、それから視線を落としたまま、静かに尋ねる。
「ねえ……花束を渡したかった子って、どんな人なんですか」
「へ?」
「どんな人」
「……どんな人、かぁ……」
ホークスはふと、天井を見上げた。視線が遠く言葉を探している。多くを見て多くを聞いてきたはずの英雄が、たった一人の話になると、ひどく慎重で、語るのに時間がかかっている。
「……花が、好きな人です」
「へえ。女子ですね」
「女子じゃなかったら、俺が困ります」
当然でしょう、という顔で彼が言うものだから彼女は思わず、笑いそうになった。
「たしかに。ホークスに想われる人って幸せなんだろうな」
「どうして?」
「鉄則を守るヒーローだから」
彼は一瞬だけ目を見開き、それから、否定するように、首を横に振った。湿布を貼られながら、その視線だけが床に落ちる。
「どうですかね」
「ん?」
「俺みたいなのが近くにおると、ろくなことに、ならないんで」
ずいぶんと自信のなさそうな声だった。テレビカメラの前で何万人の喝采を浴びる男のものとは思えないほど静かで、弱い呟き。彼女はその声を聞き逃さなかった。
「……そうかな?」
彼女は彼の膝の上に視線を落としたまま、呟くように言った。それは、自分の言葉を自分で確かめるような声音でもあった。
「そうでしょ。だって……いつ死ぬかもわからん人間と、一緒にいたって、ねえ」
「ねえ、って」
「……ほんと。ねえ、ですよ」
「でも——」
「ん?」
「死なないで、って願うことで、その人も毎日をちゃんと丁寧に生きようって思えるんじゃない」
その瞬間ホークスが顔を上げた。包帯だらけの体がほんの少しだけ彼女の方へ向く。無意識に、何かを確かめる距離。
「……ん?」
首を傾げる彼女を見て、彼は口を開きかけて、いったん閉じた。そして、言葉を選び直すようにもう一度。
「名前さん……たまにすごいこと言いますよね」
「え、そう?」
彼女は小さく息を吐いた。笑みとも、溜息ともつかない曖昧な音。壁の時計は午前二時を指している。暖房の温もりが部屋を満たして、外のざわめきは、もう届かない。聖夜の夜は深いところで静かに眠りに入ろうとしていた。すると彼女が、ぽつりと呟く。
「でも、羨ましいな」
「うらやましい?」
「うん。私、花を扱う仕事してても、花束なんてもらったこと、ないから」
ホークスはほんの一瞬だけ瞬きを忘れたように目を見開いた。それは驚きというよりも、意外な事実が胸の内で静かに反響したときの、あの短い空白に近い。
「へえ。……意外ですねぇ」
軽く返した声はいつもの調子を保っていたが、語尾がわずかに伸びていた。彼女はそれをあえて聞き逃しながら、肩をすくめる。
「誰かいないかなあ〜。私にも、青い薔薇を十本くれる王子様」
冗談めかしたような言い方だったはずなのに、その言葉が落ちた途端、空気の温度が、わずかに変わった。ホークスの視線が、ふと逸れる。辿り着いた先は、彼女の右手薬指。彼女自身も気づかないままそこを親指でなぞりながら立ち上がって彼の隣のソファへ深く沈み込む。距離は詰まったまま、逃げる素振りもない。ただ、夜の静けさに身を預けるようにして、彼が、ぽつりと。
「……いるじゃないですか、王子様」
それは、独り言に近い声音だった。彼は自身の左手を持ち上げて、ためらいがちに彼女を指す。いや、正確には、その右手の薬指の小さな輪郭をなぞるように——。
「その……指の、」
「え、」
言葉が途切れて沈黙が落ちた。暖房の低い駆動音だけが、規則正しく部屋を満たし、二人の間に薄い膜のように張りつく。
彼女は、はっとしたように指を引っ込め、逃げ場を探す代わりに自分の裾を掴んだ。意味もなく指先に力を込めて誤魔化すように視線を伏せる。その仕草がかえって何かを語ってしまったことにまだ、気づかないまま。
「あー......いや。すみません。今のは......」
「あ、ううん......」
気まずさが、二人の間に、そっと降りてくる。ソファの隣。近いはずなのに、どこか遠い距離。さっきまであった応急処置の気安さが嘘みたいに引いていく。
午前三時。街は完全に、寝静まっていた。カーテンの隙間から覗く夜景は、星の代わりにビルの灯りだけを瞬かせている。その沈黙を破ったのはホークスだった。彼は左足を無意識に庇いながらゆっくりと立ち上がる。
「……俺、床で寝ますね」
「あ、ベッドで寝て? 来るのわかってたから、きれいにしてある」
その一言で、彼の動きが止まった。立ち上がりかけた体勢のまま、ほんの一瞬。逡巡が背中越しにもわかる。
「いや……それは、さすがに」
「私はソファで寝るから。ほら、私……ショートスリーパーだし」
言い切るように笑ってみせるとホークスは何か言いかけて、結局諦めたように、肩を落とした。無理に張っていた気遣いの糸が、ぷつりと切れる音がした気がした。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「どうぞどうぞ」
ベッドルームに消えていくホークスの背中は、翼の分だけ不格好に膨らんでいた。人ひとり分の存在感が、廊下を通って奥へと遠ざかる。ドアが静かに閉まる音は、思ったよりも、小さかった。彼女は電気を落としてソファに横になり、そばにあったブランケットを引き上げる。目を閉じても眠りはすぐには来なかった。さっきの彼の、少し間の抜けた声と——「その、指の」という続きを持たなかった言葉だけが、頭の中で何度も、反芻される。
午前四時半。空が、ゆっくりと白み始める頃、寝室側から微かな風切り音がした。羽根の振動を使って、周囲を、警戒しているのだろう。眠っていないのかもしれない、と思う。彼女は、ブランケットの中で、そっと右手を握った。この指輪が亡くなった祖母の形見だということ。どうして、言えなかったのだろう。言えなかったのではなく言いたくなかったのかもしれない。あのヒーローには、花束を渡したい相手がいる。その事実を、もう知ってしまったから。
白んでいく空を、閉じたままの瞼の裏で想像しながら、彼女は静かに、息を整えた。
*
夜が完全に明けて空が白む。十二月二十五日。クリスマス当日、午前六時。
寝室からは、まだ物音ひとつ聞こえてこない。キッチンに立つ彼女はすでに、朝の支度を整えていた。トースターの中でパンが、ぱちりと弾け、コーヒーの苦味を含んだ香りが、部屋に満ちる。昨夜の親子丼の残りは出汁を足して雑炊に仕立て直して、弱火で温めていた。夜の延長線のような静けさの中で、その湯気だけが律儀に立ち上る。
しばらくして、ようやく、寝室のドアが静かに開く音がした。現れたトップヒーローは、髪が、見事に乱れていた。寝癖のままの金色があちこち跳ね、翼の羽根も同じ調子で、不揃いに逆立っている。目つきは、まだ焦点が定まらず、ヒーロービルボードチャート二位の面影など、どこにも、見当たらない。ただの、寝起きの男だった。
それでも、ほんのわずかでも、眠りの底に身を預けられたのだろうと、彼女は胸の奥で静かに、息をついた。
「わあ……ボサボサの鳥さんだ」
半ば反射のように口をついた言葉に彼は自分の頭を探るように触れている。
「……まじですか」
「ちょっと可愛い。あ、おはようございます」
「……おはよう、ございます」
テーブルにはトーストと雑炊、コーンスープ。派手さのない、けれど、きちんと二人分の朝食が並んでいる。ホークスが床に腰を下ろすと、翼の収まりが悪く、片方の羽根が、テーブルの上を、さらりと撫でた。その感触で目が覚めたのか彼は一瞬だけ、背筋を正す。
「うまそー。あ!ていうか、可愛いって。鳥扱いせんでくださいよ」
「してないよ」
「してました」
「なんだかんだ、クリスマスに男性と過ごすの、初めてなんですよね」
話題をずらすような私の言葉に、彼は一瞬だけ不服を滲ませて「あ、また話逸らしたやーん」と眉根を動かした。
とはいえ、切り替えだけは、相変わらず早く、その感情を長く抱え込む性分ではないのだろう。いつの間にかトーストを齧りながら、考えを巡らせるような顔で、言葉を返してくる。
「俺もですよ」
「嘘つき」
即座に返した彼女に、彼は冗談めかすことなく真顔で「本当です」と言い切った。冗談の応酬が続くと思っていたのか、その真剣な声音に彼女は思わず、右手の指輪に触れてから短く息を吐く。
「……ふーん。そっか」
スープを一口だけ含み、カップを置く。その、一連の仕草をホークスは見逃さなかった。羽根が震えたわけではない。ただ、彼の目が、よく見ていただけだ。
「名前さん」
「はい」
「今日みたいな日に……もし、
「え?」
唐突に投げ込まれた問いに彼女はすぐに言葉を返せなかった。湯気の残るカップの縁を、指で、そっとなぞりながら、その��完璧�≠ェ何を指しているのか、彼の声の奥に潜んだ温度を探るように間だけが落ちる。
「聞いてます?」
「聞いてます」
「だからその。特別に思っとる人に、花束渡すとしたら、ですよ?」
言い直す声は軽いのに、逃げ道を塞ぐみたいに丁寧だった。彼女は、視線を少し上に逸らして、店先に並ぶ花々を思い浮かべる。色、香り——、重なり合う意味。そのどれもが簡単には選ばせてくれない。さらに少し考えてから、ようやく。
「……なんだろう。赤い薔薇、とか?」
「じゃあ、それで」
「……ん?」
「俺もあげます、それ」
言葉が落ちた瞬間、空気がひとつ下に沈んだ。気まずさが音もなく二人の間に降りてくる。それでもホークスは視線を逸らさなかった。昨日までより、ほんの少しだけ踏み込んだ目で、彼女を、まっすぐ見ている。
「今日、お店は? 仕事」
深追いはしなかった。代わりに今度は、彼の方から話題を切り替える。慣れた調子の奥に、探るような慎重さを忍ばせて。
「お休みです。出ますよって言ったんだけど」
「うん」
「毎回イベント事に仕事してるから、たまには、休んでって、店長が」
雑炊を、ゆっくりとすすりながら、彼女は肩をすくめる。湯気の向こうで朝の光が揺れていた。
「いい店長さんですね」
「ね」
穏やかすぎるほどの朝。ふとテレビをつければ昨夜の事件の続報が、淡々と流れ始める。だが、『ホークス二件連続、敵確保』というテロップが出た瞬間に、二人の手が同時に伸びて、ほとんど反射みたいにテレビの電源が落とされた。部屋に戻る静けさは意図的なものだったかもしれない。食べ終えて、二人そろって手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「はい。……ホークスは? どうする?」
彼は、「ん?」という顔をして、少しだけ間を置いてからゆっくりと立ち上がった。背中の翼がその反動で、わずかに揺れる。
「さすがに……お暇しないと」
「……そっか」
彼は窓の方へと向かい翼を広げかけて、途中で止めた。そして、考え直すように、くるりと振り返る。次いで、頭の後ろをがしがしと掻き視線を自分の足元へと落とした。その仕草はもう、昨夜までの、軽やかなヒーローのものではなかった。
「あの花束、実は。現場で無くしたってのは……嘘、で……」
最初だけ妙に言葉に勢いがあり、すぐに声量が落ちていき、どんどん語尾が小さくなっていく。
「ん?」
「その、家に……あるんすよね」
「うん」
「はい」
「いや、え?」
「だから、家、に……」
「えっ!?じゃあ、ほら!急いで渡しに行かないと!」
彼はわかりやすく肩を落とし、苦笑した。その笑いは自嘲が混じっていて少しだけ幼く見えた。
「いや、だから……その相手の番号知らないって昨日、言ったじゃないですか」
「え、一目惚れとか?相手もホークスを知らないとか? や、それはないか……」
ホークスは窓際まで歩いていくと、不意に外を見下ろした。彼はそのまま黙った。しかし、その沈黙こそがなにより雄弁な答えだった。公安直属速すぎるヒーロー。そんな肩書きの陰で、連絡先ひとつを尋ねられずにいる不器用さが確かに彼の中には前からあった。だからこそ、卑怯だとわかっていながら、あんな手段を、選んでしまったのだとしても——。
彼女は思わず息を呑み、次の瞬間にはなぜだかヒーローの恋路を応援したいという気持ちにまでなっていた。
「花言葉どおり完璧なんすよ。いや、ほんとに」
「ふーん?」
「花屋さん、やってる女の子で」
「へえ……。…………え?」
言葉の意味が追いつくまで、ほんの一瞬。彼は背中を向けたまま、続けた。
「すみません。連絡先知らないってのも、嘘つきました。知ってます。でも……渡す勇気がない」
矢継ぎ早に落とされたその告白はクリスマスの朝には刺激が強すぎた。暖房が低く唸り、部屋の空気だけが、やけに重くなる。
「何度も……助けてくれて。イブの、昨日も」
冗談ではなかった。彼女の心臓が、はっきりと強く鳴った。ゆっくりと瞬きをするが、声が出てこない。その気配を感じ取ったのか彼がようやく振り返る。視線が、真正面からぶつかった。
「傷だらけの
「……」
「青い薔薇、十本……受け取ってもらえますか」
その言葉が落ちた瞬間、彼女の身体はソファに縫い留められたように動かなかった。呼吸だけが浅く、そして、早くなる。
何度も助けてくれた花屋で働く女——それは、つまり。その言葉の輪郭が今さらになって鮮明に結びついていく。指先からじわじわと熱が抜けていく。右の薬指。祖母の形見である、銀の指輪。誰かに贈られたものではないそれを、彼はきっとずっと見ていたのだろう。「彼氏ですか?」と、あの軽い調子で訊いた声の裏にあった探るような沈黙を、今になって理解する。
十二月、クリスマス当日の朝。窓から差し込む光が、ヒーローの横顔を照らしていた。黄土色の寝癖頭に、包帯だらけの腕。少し大きすぎる父のスウェット。テレビの中の姿とは、似ても似つかないただの二十二歳の男が、そこに立っている。
「赤い薔薇でもいいですし。……なんなら、あの店ごとでも」
「あ、の……えっ、と」
「返事、急がなくていいです。俺、見ての通り、ボロボロですしね」
そう言って、包帯の巻かれた両手を、軽く持ち上げて笑った。その無理のある明るさが逆に今は胸に刺さる。
声が出ない。「はい」でも「いいえ」でもない言葉が、喉の奥で絡まり合って、形にならない。代わりに自然と涙が先に頬を伝った。ホークスが驚いた顔で、はっと目を見開く。
「え、ちょ……あ、いや、その……えぇ」
その慌てた声がどこか遠くで鳴っているように感じられた。時間が止まっていた。少なくとも、彼女の内側では。
「あ、の。ごめん、なさい……ほんとに……」
抑えきれないまま涙を零し彼女は右の薬指から指輪を抜いた。朝の光を受けて、銀色の細い輪が一瞬、淡くきらめく。家族の形見だと素直に口にできなかったもの。小さく息を呑む音がふたつ。同じ瞬間に同じ速度で、空気に重なった。
「え……名前さん、それ」
「これ……気にしてたよね。これね、亡くなった祖母の、形見で……」
「……」
「私……私が、その花束、受け取りたい——」
ホークスは瞬きをした。一度、二度。ずっと、気になっていたのだろう。右手を見つめる視線にいつも、わずかに影が差していたことを、彼女も今なら容易に、思い出せる。
彼はソファの前まで来ると静かに膝を折った。泣き伏す彼女と、同じ高さになるために。包帯の巻かれた指が、そっと頬へ伸びる。けれど触れるより先に、ためらいだけが空中に残り指先は一度そこで止まった。
「……聞けて、よかったです」
次の瞬間、彼女のほうから、その手を掴んだ。包帯ごと。ホークスは一瞬、驚いたように、目を伏せ、それから彼女を見た。泣き顔なのに笑っている。言葉はいらなかった。そのまま彼女の手を引く。距離が消えた。止まりかけていた指を彼女自身が選んだのだ。冷たい指先に彼女の体温が、ゆっくりと移る。額と額が、こつりとぶつかる。不器用に。互いの前髪が絡まり合う。そのまま、震える声で。
「……じゃあ、花束、取りに行かんとですね」
「……うん」
彼の頬に、彼女の涙が伝う。それを拭う彼女の指には、もう、指輪はない。その事実に気づいた瞬間、ホークスはくしゃりと顔を歪めた。まるで子供みたいな、隠しきれない笑い方だった。
「やば……。俺まで泣きそうなんで、ちょっと、泣き止んでもらえません?」
「無茶言わないで」
「あー、ダメですって。今、弱っとるんで!」
「……泣いても、いいよ?」
「——っ、それ言われるの、一番ダメなやつ!」
蜜色の瞳が潤む。目ざとくて、耳聡い。誰の前でも笑顔を崩さないヒーローが、包帯だらけで、彼女の涙の跡がついた顔で笑いながら泣くというおよそ、ヒーローらしくない姿を、晒している。そしてそれを見ているのは、世界でたった一人の速すぎる男が『完璧な人』だと思った、女性だけだった。
窓の外では静かな朝が始まっている。その日、彼は初めて、戦場ではなく日常へ向かうために、翼を休めた。