好きな場所で好きな事を好きなだけしている。そんな自分をそのまま好きだと言ってくれる人を何より大切にしたいと思う。
 すこし背伸びをした自分を愛されたところで、その先に残るものは、案外、少ない。遠慮ばかり覚えた人間は気づけば自分の輪郭まで薄くなってしまう。だからもう、嘘は吐かない。隠れない。隠さない。好きなものは好きだと言い嫌いなものには、ちゃんと首を振る。誰かの期待に合わせて形を変えるよりも自分の形のまま笑っていたい。それが、二十代を生きる、最低条件なのかもしれない。

 シンデレラはいない。白馬の王子様もいない。けれど世界のどこかには特別な一人が必ずいる。
 同じような魂を持つ、自分と似た孤独を抱えた誰かがいる。そんな一人に出会うまでとりあえず一人で、生き延びればいい。少しくらい理解されなくても訳の分からないことを言い続けていればいい。
 人に好かれることにさえ飽きてしまったなら、財布と携帯だけを鞄へ放り込み、地図を持たない旅へ何度でも出ればいい。振り返れば、いちばん痛かった記憶ほど、不思議と、美しく光っているものだから——。


 *


 都心の真ん中に建つ、ヒーロー公安本庁舎は、昼下がりになると独特の静けさをまとい始める。忙しなく人は行き交うのに誰も余計な言葉を口にしない。革靴の音だけが、長い廊下を規則正しく転がっていく。その静寂を、遠慮なく踏み荒らす声が、廊下の奥から聞こえてきた。物が壊れる音ではない。誰かが声を荒らげているだけだ。それなのに、空気の密度まで変わるような騒がしさがあった。

「えぇ〜?だから、なんで俺なんすか。ほかにも適任おるでしょー?」

 それはずいぶんと聞き慣れた声だった。福岡を拠点に活動する、��空を翔る正義の翼��——プロヒーローホークス。世間では人気絶頂のヒーローとして知られているが、ごく限られた人間だけが知る、もう一つの顔もある。ウィングヒーロー・ホークスはヒーロー公安委員会直属だ。彼が時折こうして公安へ姿を見せる理由を公に語れる者は多くはいない。
 彼女は、ため息を飲み込みながら、会議室前の自販機で缶コーヒーを一本買った。どうせ、この中に彼がいるのだろうと思いながら扉を開ける。案の定、スーツ姿の公安職員と向かい合ったホークスが、いかにも面倒くさそうな顔で文句を並べ立てていた。腰に手を当て少しだけ顎を突き出しながら話す癖までいつも通りでその姿だけ見れば国の極秘任務に関わる男には、到底見えない。

「いや、ほんと……勘弁してくださいってぇー」

 困ったような顔をしているくせに、逃げる気は最初から、ない。結局は、引き受けるのだろうと分かってしまうから、このやり取りは半分ほど、様式美みたいなものだった。
 そして、ふと、人の気配に気付いたホークスが振り返る。その瞬間、先ほどまで公安職員に向けていた面倒くさそうな表情がまるで、陽だまりに置いた氷の如く、あっさり溶ける。

「あー、名前さぁん」

 口元に浮かんでいた笑みが、そのまま目元までゆるやかにほどけていく。つい数秒前までの渋い顔は跡形もなく消え失せていて、その変わり身の早さに、彼女は思わず苦笑した。

「ちょうどよかった。見てくださいよ、これぇ」

 そう言って彼は会議室の机の上に置かれていた書類の束を、指先で軽く、ぺしっと叩く。

「公安が持ってきた案件なんですけどね? 俺にやれって言うんですよー?ひどくないですか?」

 背中の赤い翼が気持ちを代弁するようにわずかに開き不満を全身で表現している。愚痴をこぼしながらも、本気で断るつもりはない。そのことを彼女はもう知っている。
 彼は、昔からそうだ。文句はいくらでも言う。面倒だとも口にする。それでも最後にはきちんと引き受ける。その順番まで含めて、��ホークス�≠ネのだ。彼は机から離れると、ひらりと、彼女のそばへ歩いてくる。

「俺の平和な日常、どこ行ったんでしょうねぇ。名前さんなら俺の味方してくれますよね?……ね?」

 甘えるような声音に、苦笑がこぼれる。会議室にはホークスのほかに公安職員が二人いた。一人は机越しに書類を整理し、もう一人は部屋の隅で腕を組んだまま、成り行きを見守っている。口は挟まない。ただ、彼女へ一瞬だけ視線を向けた。値踏みするようでもありこの騒ぎの収拾役を期待するようでもある、曖昧な眼差しだった。そんな居心地の悪さを振り払うように彼女はホークスへ向き直った。

「どんな内容なの?」

 瞬間、ホークスの口角が愉しげに吊り上がる。「ん〜、聞いちゃいます?」と書類を持ち上げて差し出したかと思えば渡す寸前で指先に力を残しするりと引き止める。

「聞いたら最後、もう他人事じゃ済まんですよ」

 部屋の隅から小さく咳払いが聞こえる。長引くやり取りに水を差すような、控えめでいて、十分すぎる催促だった。ホークスはそちらへ目だけを向けて「せっかちですねぇ」と、ぼそりと零して肩をすくめると、また彼女へと向き直った。

「ヴィラン連合の残党っす。幹部じゃなくて末端の動きが見えたらしくて、その接触役を俺にやれって話」

 思ったより普通に公安委員会直属のヒーローに与えられそうな案件だった。彼のその軽い口調につられそうになるけれど、内容だけを聞けば笑い話では済まされない。

「それはそれは。重大だぁ」
「ねえ、聞いてました?」

 そう言って困ったように眉を下げるホークス。彼女が思わず、くすりと笑うと彼もつられて鼻で笑った。

「末端連中すよ?俺じゃなくてもできるヒーローおるでしょ」
「もう、そういう言い方」
「あ、すんません……まあ。要は囮ですね、囮」
「囮というか、潜入捜査ね」
「向こうに警戒されんよう近づいて信用取って、そこから芋づる式にって作戦らしいんですけど」

 そこまで話すと背中の剛翼がばさりと一度だけ鳴った。個性の羽根は、感情を隠せない。本人がどれだけ飄々としていても、この剛翼だけは正直だった。

「俺が潜るんすよ?勘弁してほしいっちゃけど。忙しいんすよ、俺は」
「あら」
「何より、こんだけ派手な羽根背負っとる人間に目立たんよう動けって、無茶言いますよね」
「それは……少し可哀想かも」
「ねぇ!?でしょう?かわいそうでしょー!?」

 返事は思った以上に早かった。さすが速すぎる男である。ホークスは、自身の剛翼を親指で示しながら、先まで任務への不満を並べていた男とは思えないほど嬉しそうに身を乗り出してくる。

「もっと言ってください」
「別に、加勢してるわけじゃないよ」
「分かってますって。でも、味方がおるって大事なんですよ」

 その笑顔があまりにも素直で、彼女は肩の力を抜いた。そして、手にしていた缶コーヒーを持ち直す。

「——じゃあ、仕方ないから」
「ん? なに」
「お姉さんがご飯くらいご馳走してあげようか」

 ホークスは一瞬きょとんとして目を丸くした。ほんの少しだけ言葉を忘れたような顔になって、それから、ぱあっと花が咲いたみたいに、表情が明るくなる。感情の切り替えが、驚くほど速い。

「マジですか?」
「マジですよ。その代わり、ちゃんとお仕事してきてね」

 その一言だけで十分だったらしい。彼は、目に見えて、機嫌を持ち直した。その口元がゆるむ。さっきまでここにいた男と同一人物とは思えないほど、その笑顔は屈託がなかった。

「します、しますとも!やったー。じゃあ焼肉がいいです。あの駅前に新しくできた店ずっと気になってたんですよね〜」

 現金だ。彼女は思わず、吹き出しそうになる。けれど、それくらい分かりやすいほうが彼らしいとも思う。しかし会議室の空気だけはその笑いにつられなかった。ホークスへ案件を説明していた公安職員は、眉間に深い皺を刻んだまま、二人を見比べている。
 極秘任務の説明の最中だというのに、当事者は焼肉の話をしている。呆れる気持ちも分からなくはない。職員が何か言おうと口を開きかけたそのときだった。ホークスが、視線だけを公安職員に向ける。ひらり、と片手を振る仕草は軽いのに、その場の主導権だけは、自然と握ってしまう。

「はいはい、お疲れ様でーす。ここの件はいったん持ち帰りで。上にはそう伝えといてください」

 柔らかな口調だった。けれどそこにはこれ以上話を続ける気はないという意思がきちんと滲んでいる。職員のこめかみに青筋が浮いた。何か言い返したそうに唇を動かしたものの、結局は言葉を飲み込み、踵を返す。静かにドアが開く。続いて壁際に立っていたもう一人の職員も後を追った。すれ違いざま、彼女へ短く視線を向ける。何かを測るような、あるいは諦めたような目だったが、声は掛けず、そのまま部屋を出ていく。二人分の足音が廊下の奥へ消えていくとようやく会議室に静けさが戻った。ホークスは「はぁ……」と長く息を吐いた。見るからに肩から力が抜けていく。さっきまで仕事用に張りつめていた空気が、ようやくほどけたようだ。そして彼はくるりと彼女へ向き直って、にっと笑った。

「さーて、じゃあ今から行きます?善は急げってやつですよ」
「調子いいなぁ。まだ昼だよ?」

 ホークスはけらけら笑いながら翼を器用に畳み両手はポケットへと差し込んで少し肩を竦める。

「いやいやだって名前さんとご飯ですよ?そりゃ調子も良くなりますって。普段ろくなもん食ってないんですから、俺」
「またまた。いいものばかり食べてるんじゃないの?」
「やだなあ、この俺にそんな時間あるように見えます?」
「どうだか」
「まあ、いいじゃないですか、ほら行きましょ」

 苦笑混じりの返事だった。それは謙遜でも冗談でもない。実際のところ彼の生活を少しでも知る人間なら誰もが頷く話だった。食事は栄養を摂るための作業になりがちでコンビニのサラダチキンと栄養補助食品、それにエナジードリンクだけで一日を終えることも珍しくない。チャート上位を走り続ける男の生活は、世間が想像する華やかさとは案外かけ離れている。だからこそ、こうして誰かと向かい合って食卓を囲む時間は彼にとって思いのほか貴重なのだろう。もっともその理由を本人が素直に認めることは、きっとない。
 ホークスは、机の上に放っていたジャケットを肩へ引っ掛ける。その足取りには、迷いがない。任務の話をしていた数分前より軽やかでもう頭の中は焼肉で、いっぱいなのだと分かってしまう。彼は彼女より一足先に出入口へ向かいドアノブへ手を掛けたまま振り返って、口元だけで笑った。

「あ、そうそう」
「ん?」
「奢りって言ったの、撤回しないでくださいね?ちゃんと聞きましたからね〜」
「わ〜、しつこい系ヒーローのお出ましだ」
「こういうのは忘れんタイプなんですよ、俺は」

 廊下へ差し込む日差しが、金色の髪を柔らかく照らす。その光の中へ歩いていく後ろ姿は数分前まで公安職員を相手に任務の愚痴をこぼしていた男と同じ人物とは思えないほど、軽やかだった。
 それでも彼女は知っている。あの背中は、このあと危険な現場へ向かうことになる。焼肉の約束ひとつで浮かれていられるほど彼の仕事は穏やかではないことを。


 *


 ホークスと出会ったのは、もう八年も前の事になる。当時の彼女は今のホークスと同じ年齢だった。公安で教育係を任されることになり、初めて担当した学習者が、まだ十五歳を迎えたばかりの彼だった。細い肩。着慣れないヒーロースーツの袖から覗く腕は頼りなく、背中に抱えた、赤い翼ばかりが、ひどく大きく見えた。
 今のように人懐こく笑うこともなければ、自分から、雑談を振ることもない。必要最低限の返事だけを返し、感情らしい感情は、いつも奥へ押し込めていた。あの頃の彼は人との距離の測り方を知らなかったのだと思う。近づきすぎることも、甘えることも、頼ることも。誰かに「大丈夫」と言われてもその言葉を信じていいのかさえ分からないような少年だった。そんな彼が、八年という時間をかけて人前で肩の力を抜いて笑えるようになった。それは決して一人で辿り着いた場所ではない。公安の目良をはじめ、彼の傍に立ち続けた大人たちがいた。そして、その時間のほんの一部だけでも自分も隣を歩けていたのなら——それは少しだけ誇ってもいいことなのかもしれないと、彼女は思う。
 駅前通りから一本入った細い路地。ホークスが前から気になっていたという焼肉店は昼の混雑もひと段落した頃だったこともあり、店内にはゆったりとした空気が流れていた。天井では換気扇が絶え間なく唸り、炭の熱を含んだ香ばしい匂いが店いっぱいに漂っている。
 案内されたカウンター席は隣同士だった。肩が少し動けば触れ合ってしまうくらいの距離。ホークスは席へ腰を下ろすなり、メニューを開いて、思わず、といったように「おぉ」と声を漏らす。
 目を輝かせる様子があまりにも素直で、彼女は小さく笑った。その横顔はまるで初めて焼肉屋へ連れてきてもらった少年のようだった。ホークスは指先でメニューをなぞる。

「名前さん、見ました?」
「んー?見てるよ」
「特選カルビ盛り合わせにハラミ三種……。ここ結構いい値段しますけど本当に大丈夫です?」
「ん?」
「あとから『やっぱナシ』は、ナシですよ?」

 口では確認しているくせに返事を待つ気は最初からない。その証拠に、もう手を挙げて「すみませーん」と店員を呼んでいた。彼は慣れた口調で注文を始める。注文の速度が、異常だった。

「とりあえず、これ二人前。あとこっちも二人前に、ライス大盛りひとつ……あ、名前さん。飲み物、何にします?」」

 注文の手際だけは妙にいい。仕事でも食事でも決めるときは迷わない男だった。
 店の奥では店主が炭を起こし始めている。網の温まる音と、どこかのテーブルで鳴る食器の音。平和そのものの風景。数時間前の不穏な空気が、まるで別世界のようで、この店には、ありふれた日常だけが流れている。
 ホークスはそんな空気の中へ、何のためらいもなく溶け込んでいた。彼女がメニューを捲ると、ごく自然な動作で身体を寄せて、肩へと軽く顎を預ける。体重はほとんど掛かっていない。ただ、同じページを覗き込みたい、それだけの距離で、横からぴったりくっつく形になっている。温もりだけが、じんわりと肩越しに伝わる。彼の指先が彼女の眺めているメニューの上を滑る。

「これも美味そうじゃないです?」
「んー?」
「ユッケもあるし……。あ、このタン塩見てください。二種盛りですって。天才でしょ、この店」

 そう言って彼は、嬉しそうに目を細めた。彼にとっては、ごく当たり前の距離感だった。パーソナルスペースという概念が個性と一緒にどこかへ飛んでいった男、とは誰が言ったか。翼を持って生まれたせいなのか、人との間に元々、見えない境界線を引くことが彼の在り方だったはずなのに彼女にはまるでその境界線を引こうともしない。
 店員が肉を運んでくる。二人の近さに一瞬だけ目を丸くしたものの、何も見なかったような顔で皿を並べ、静かに去っていく。ホークスは彼女の肩に乗せていた顎を少しだけずらし、今度は額を肩に預けた。彼女が見ているメニューをそのまま横目で追いながら、楽しそうに声を弾ませる。

「名前さん、決まりました?」

 彼女はホークスに一度も視線を向けることなくメニューを眺めたまま曖昧な相槌を打っている。その横顔を見つめていた彼は、ついに痺れを切らしたように、身を乗り出した。ひょい、と彼女の肩越しから覗き込むように顔を寄せ、そのまま、至近距離で彼女の表情を窺う。

「まだなら、俺が勝手に追加で頼みますけど……あ、デザートもいっときます?ここのアイス妙に気になるんですよねー」
「……今日もよく喋るね。それに、近い」

 彼女が肩越しにそう言うと、ホークスは離れるどころか、むしろ、頬を彼女にくっつけるようにして笑って、同じメニューへ視線を落とす。笑い混じりの声が、耳元で転がる。

「えぇ?いつもこんなもんでしょう。名前さんが慣れてないだけですよ」

 その言葉に、彼女は小さく眉を上げた。慣れていないどころかもうとっくに慣れ過ぎてしまっている。肩越しに、こうして体温を感じることも、話すたびに距離が縮まることも、気付けば当たり前になっていた。それが、普通ではないのだと、たまに周囲の反応を見て思い出すくらいで、当の本人たちは、自分が人との距離を詰めすぎる癖を持っている事におそらく一度も気付いていない。
 彼女がようやくメニューを閉じるとホークスは身体を起こした。網の上へ肉を並べ始める手つきは意外なほど繊細だ。脂の多い部位は、火の強い場所を避け、厚みのある肉は、焼きむらが出ないよう少しずつ位置を変える。普段の大雑把そうな振る舞いからは想像もつかない几帳面さだった。

「てか名前さん、今日も忙しかったでしょ」

 肉を並べながら彼が、何気ない調子で尋ねる。ひっくり返したカルビからじゅわっと落ちた脂が炭を弾き小さな炎が立ち上る。ホークスはそれを翼でぱたぱたと扇いで、煙を追い払おうとした。しかし、追い払うどころか、自分の顔へと全部、流れてきてしまい、思わず目を細めていた。

「ねえ……何をやってるの」
「……いや、風向き読み間違えました」
「今のなんか、おもしろかった」
「俺の失敗は無視でいいんで、それよりちゃんと休憩取れてます?」

 本人も少しだけ、苦笑していた。彼女はそれを見て「まあね」と、笑いながら答える。

「まあ、俺みたいにサボってないでしょうけど」
「そうねえ。少なくとも、勤務中に焼肉の予定を立てるヒーローよりは、真面目に働いてるかな」
「わぁ、耳が痛かですねぇ」

 そう返しながらも悪びれる様子はない。仕事を放り出したわけではない。終わらせるべきことはきちんと終わらせる。その上で隙を見つけるのが彼らしい生き方だった。

「あ、そうだ。そういえばさ——」

 そこで彼女は思い出したように口を開く。ホークスは一度、箸を止めて、素直に顔を向けた。

「ん? なんです?」

 その間にも、網の上ではカルビが勢いよく音を立てている。端の一枚が、じわじわと、色を変え始めた。彼女の視線がそこへと吸い寄せられて、思わず声が大きくなった。

「……って、ちょっと! お肉! 焦げる!」
「えっ」

 彼もようやく、網へ目を戻した。「うわっ」と慌ててトングを掴み肉を裏返す。しかし時すでに遅く端はこんがりを通り越して少し黒く色づいていた。ホークスは数秒の間、その肉を見つめた。そうして、何事もなかったような顔で頷く。

「……まあ。これくらいなら全然セーフです」
「そう?」
「焦げたとこだけ食べなければ実質ノーダメージですって」

 妙な理屈を口にしながらも、器用に黒くなった端だけを避けて皿へ移す。救出された肉はどこか誇らしげですらあった。彼は次の一枚を網へ乗せ終えると改めて彼女へと向き直り「……で?」と首を少し傾ける。さっき遮られた話の続きを待つように、柔らかな笑みだけを浮かべていた。

「てかさ、の続き。なんですか? 気になるじゃないですか、途中で止められると余計に」
「……もう、私が焼くから」

 彼女が手を差し出すと、彼は抵抗もせず彼女が持ちやすいようにトングを渡し焼く係を譲った。案外、そういうところは、聞き分けがいいのだ。

「——いや、公安の若い子にね?」

 その一言で、彼の動きがほんの少し止まった。
「……若い子?」と、問い返す声は、いつも通り軽い。けれど、背中の翼だけが小さく波打った。羽根が何枚か音もなく逆立つ。本人よりも先に、感情だけが翼へ出てしまう。その癖を彼女はもう知っていた。彼女は、肉を返しながら続ける。

「ホークスと付き合ってるんですかー?って聞かれたの」
「……」
「もちろん違うって言ったよ。それはあり得ないからって」

 返事はすぐには返ってこなかった。ホークスは箸を持ったまま、ゆっくりと網に視線を落とす。焼け始めたハラミから脂が落ちて、小さく、火が跳ねた。焼けていく肉を見つめる横顔は無表情で本心までは、読めない。

「……へぇ。」

 それだけだった。短い相槌。しかしその声音は普段の彼からすると、明らかに温度が低かった。声は穏やかなままなのに、さっきまで焼肉を前に浮かれていた男とは、どこか空気が違っていた。網の熱とは関係なく、背中の羽根だけがふわりと膨らむ。隠そうとしているつもりなのだろう。
けれど、翼は驚くほど正直だった。
 少ししてホークスは鼻から細く息を吐く。顔を上げる頃には口元には、もう笑みが戻っていた。

「あり得ない、ですか」

 笑っている。そう見えるのに、彼女にはどこか無理をしているようにも映った。しかし素知らぬふりで彼女はトングで肉を返す。

「お姉ちゃんと一緒なんだと思うよ、って言っといた。——姉弟?的な位置でさ」

 ホークスはぱちりと瞬きを二つ。それから肩の力を抜くように笑った。「……ああ」と、今度の笑みは、少し自然だった。『姉弟』という響きを転がすように、口の中で繰り返す。

「……なるほど。俺と名前さんが、姉弟」

 言われてみれば不思議ではない。身長差といい雰囲気といい、そう、見えなくもない。年齢差もある彼女のほうが落ち着いて見えることも多い。隣に並べばそういう関係だと受け取る人がいてもおかしくはなかった。問題は、ホークスがそれで納得するかどうか、だが。
 ホークスは焼き上がった肉を口へ運ぶ。何度か噛んで飲み込んでから、小さく頷いた。

「まあ確かに。名前さん、俺よりちっちゃいですもんね」
「ん? 喧嘩売ってる?」
「小柄。小柄ですもんね」
「うん」
「そう見える人もおるでしょうね。年の差的にもそう、見えるか……」

 そこまで言って、言葉が途切れる。ホークスの箸先が宙で止まった。それを彼女は横目に見る。それから彼は、ぼそりと漏らした。

「でも……姉弟って言われるんは、ちょっと複雑かもしれん」
「あら。嫌だった?」

 彼女は空気が重苦しくならないよう笑って焼き上がった肉を皿へと取り分ける。そのまま、彼の皿にも一枚載せた。

「——ほら、食べな。弟くん」

 彼は、差し出された肉を見もせずに、じとっとした目で、彼女を見上げた。隣同士のカウンター席だからこそ成立する、近い視線——上目遣い。それは少しだけ拗ねたような目だった。年下扱いされたことが気に入らないのか、それとも、別の何かに引っ掛かっているのか。彼女にはその境目までは分からない。ただ、その視線だけは思いのほか真っ直ぐで、焼き網の熱よりも少しだけ落ち着かない温度を帯びていた。

「……弟くんは、やめてもらっていいですか」

 そう言いながらも、彼女が箸で差し出した肉は素直に口を開けて受け取る。拒否したいのか甘えたいのか。言葉と行動がきれいに食い違っていて彼女は思わず笑いそうになった。ホークスは静かに咀嚼する。肉の旨味を味わうというより、何か考えごとを飲み込むみたいな顔だった。ようやく飲み込んで、小さく息をついて言葉を探す。

「嫌っていうか……いや、嫌なんですけど」

 結局どうやら自分でもうまく説明できなかったらしい。後頭部へ手を回して、髪を、がしがしとかき乱す。それに合わせるように、背中の翼まで落ち着きなく揺れていた。

「あなたがいつも私に近すぎるから勘違いされるんだよ」

 その一言に、ホークスの手が止まる。ぐっと、言葉に詰まり何か言い返そうと唇を開きかける。
 反論しようと口を開きかけたらしいが、言葉は続かず、そのまま口を、閉じてしまった。図星を突かれた人間の典型的な挙動だった。数秒、網の上の肉だけを見つめていて、やがて、小さく声が落ちた。

「……近づくなって、ことですか」

 彼女は思わず顔を上げた「違う違う」と慌てて首と手を大げさに振る。

「なんでそうなるの。ほんと大袈裟なんだから」

 呆れ半分、可笑しさ半分。彼女は網の上の肉を返しながら笑った。彼女のその、余裕たっぷりの様子に、ホークスは、不服そうに眉を寄せた。

「十五歳の頃から、本当にそこは変わらないね」
「……」
「今はもう、二十二でしょ?」
「……う。」

 年齢を突きつけられると、弱い。しっかりと、自覚はあるらしい。ホークスは少しだけ渋い顔になって視線を逸らす。

「六年経っても変わらんもんは変わらんですよ」

 ぽつりと返ってきた声に、彼女は心の中だけで苦笑した。彼は昔から不思議なくらい『六年』という数字にこだわっていた。しかし出会ったのは八年前。それなのに、自分たちの時間を語るときだけは決まって六年と言う。理由を尋ねてもはぐらかされるばかりだった。だから彼女もいつしか数え直すことをやめた。数字がどうであれ少なくともあの頃から彼は、人との距離を測るのが少しだけ、下手だった。親しい相手ほど、その癖は、隠れなくなるものだ。
 網の上で最後の一枚が焼けていく。ホークスは彼女がトングで肉を返している様子に視線を落としたまま、口を開く。その声は、さっきまでより少しだけ、低かった。

「……大袈裟じゃないです」
「……」
「近くにいたいから、近くにいるだけ」

 彼女が肉を返し終えると、じゅっと脂が弾ける音だけが、二人のあいだへと静かに落ちた。

「……それの、何がいけないんですか」

 言い終えた瞬間だった。ホークスの肩がほんのわずかに止まる。——しまった。そんなふうに、心の声が聞こえたのは、きっと、彼女の気のせいではない。本人も、口に出すつもりはなかったのだろう。あまりにも自然に本音だけが先に零れてしまった。そのことに気付いた途端、彼は視線を逸らし誤魔化すように茶碗を持ち上げ、大盛りの白飯を勢いよく口へ運ぶ。
 普段ならば、軽口の一つでも返して、その場の空気を笑いに変えてしまう男だ。なのに今はそれすらできない。らしくないな、と、そう思った。しかし彼女は、何も言わなかった。聞かなかったことにも気付かなかったことにもできる。だから静かに網の上の肉を救出して、その横顔だけを、そっと、見つめた。炭火の赤い光が、伏せられた睫毛の影を、ゆっくりと揺らしていた。

「懐いてるのは結構ですけど?でも、あなたさ」

 彼女は焼き上がった肉の乗った皿を彼のほうへ滑らせながら、そう言って、少しだけ視線を横に向けた。

「自分がどれだけ人気あるか、分かってる?」

 ホークスは茶碗を持ったまま、きょとんとした顔で首を傾げた。ごくんと音でも鳴らすみたいに口いっぱいに頬張っていたご飯を飲み込み、ようやく「人気?」と、返事をする。その言葉自体が意外だったような顔をしている。

「そう、人気。支持率」
「……まあ、一応No.3ですし、そりゃ知られとるほうではあると思いますけど」

 その返しに、彼女は思わずため息をこぼした。そういう話ではない。この男は、本当にわかっていないのだ。
 街を歩けば黄色い歓声が飛ぶ。写真は瞬く間にSNSへ流れ、誰とどこにいたかまで話題になる。女性人気はヒーローの中でも、群を抜いている。そんな男が、親しい女性へ、何の警戒もなく肩を寄せて歩いていたら——。困るのは彼女ではなく彼のほうだ。

「変な噂が立って困るのはホークスでしょう?」
「……あ。」

 短く漏れた間の抜けた声。その反応でようやく話が繋がったのだと分かった。ホークスは箸先で網の縁をつつく。

「……俺が、ってことですか。雛鳥ちゃんたちがどうこうとか、そういう」
「そういうこと」

 さすがに、察しは良かった。彼はそれきり黙り込んだ。さっきまで軽快に動いていた箸が止まり焼き網から立ち上る煙だけが二人の間をゆっくり流れていった。やがて彼は箸を置き、椅子の背もたれへ身体を預ける。そして天井を見上げたまま深く息を吐いた。

「……めんど。」

 それは心底そう思っているふうな声音だった。彼女は一瞬だけ、きょとんとして、次の瞬間には吹き出す。

「わー、見せてあげたいなぁ」
「何をです?」
「その顔」
「顔?」
「ブラックホークスを、雛鳥ちゃんたちに」

 彼女が笑いを堪えながらそう言うとホークスは天井を見たままわざとらしく片手で口元を覆う。指の隙間から、声だけが落ちてくる。

「ブラックって何ですか、ブラックって。ひどい言われようすねー」

 ホークスの肩が楽しげに小さく揺れる。そして少し間を置いてから、ふ、っと笑った。

「……まあ、否定はできんですけど」

 表の華やかさと裏の面倒臭がりが同居しているのがこの男の、厄介なところだった。ファンの前では爽やかに笑い舞台裏では翼で周囲を遮断してそのまま、仮眠を始めることさえある。気を張り続けることに慣れすぎた人間の、小さな、息抜きだった。そんな姿を知る人は、案外少ない。
 ホークスは身体を起こし、横目で彼女を見る。どこか、拗ねたようにも、諦めたようにも見える表情だった。そして、少しだけ口角を上げる。

「じゃあ、離れたほうがいいです?今から。席、ひとつ分空けて、座り直しましょうか」

 言葉だけはもっともらしい。けれどその本人はまるで動く気配がない。肩は触れたまま。肘も、隣り合ったまま。翼の先まで、彼女の椅子へ寄り添っている。彼女はその様子を見て笑った。そうして、わざとらしく頷いた。

「あら〜、どうぞどうぞ、離れてください?」

 ホークスの動きが数秒だけ止まった。それから本当にゆっくりと身体をずらし始める。肘が離れ次に肩が少し遠ざかる。そして背中の翼の先端もカウンターに当たらないよう、器用に畳み直される。じり、じり、と。ほんの数センチ。それだけ距離を空けるのにずいぶん時間をかける。あまりにも名残惜しそうなその動きがおかしくて彼女は思わず笑みを噛み殺した。
 本人はきっと大真面目なのだ。けれど、その数センチが彼にとってどれほど大きな距離なのかを思うと、可笑しさと少しだけ愛おしさが胸の奥で静かに混ざり合っていた。

「……はい。離れましたけど」

 ホークスは満足そうに言った。彼女は反射的に隣を見やる。離れた、というには、あまりにも、慎ましい変化だった。たかだか、数センチ。肩と肩の間にできた隙間は、せいぜい指が何本か入る程度。誤差と言ってしまえば、それまでである。
 それでも本人は「離れろと言われたから離れました」という事実を作り上げることに成功して、満足げな顔をしている。もっとも背中の翼だけは別だった。畳まれた羽の先端が相変わらず彼女の腕へかすかに触れている。気付いていないのか。それとも気付かないふりをしているのか彼女には判別がつかなかった。

「数ミリしか離れてないでしょうが」
「え」
「こんなの、離れたって言いません」

 思わず笑い混じりの声が漏れる。ホークスも、耐えきれずに、ぶっと吹き出した。そして、肩を震わせながら笑う。

「数ミリって。ちゃんと目視で測ったんですか?名前さん、目ぇ良すぎません?」

 結局、その数センチの努力も長くは続かずに、話しているうちに肘はまた元の位置へ戻り、肩の距離も、自然と縮まっていく。何も変わらない。変える気もないらしい。どちらから近付いたのか分からないほど、ごく当たり前に。
 その間に、店員が食後のアイスを運んできた。二人の様子を一瞬だけ見たものの、今度も、何も言わず静かにカップを置いていく。おそらく恋人同士だと思われたのだろう。それともあえて何も考えないことにしたのか。ここまでくればどちらでも構わなかった。彼女はアイスをひと匙すくいながら笑う。

「舐めないでよ?」
「ん? アイス?」
「違うくて。数センチの話」
「ああ、引っ張るんすねー」
「ホークスに数理科学を徹底的に叩き込んだの、この私なんだからね」

 その言葉にホークスの表情が見る見る曇った。あからさまに顔をしかめて「うわ……」と、心底嫌そうな声が漏れる。アイスを口へ運びながら、眉までも、しかめてみせる。

「やめてくださいよ、その話。トラウマ蘇る」
「トラウマ?」
「微分とか積分とか聞くだけで頭痛くなるんで」

 公安に連れてこられた頃の彼は、義務教育すら満足に受けられていなかった。文字を書き計算を覚え、社会を知る。その基礎を教えた一人が彼女だった。当時の彼は「こんなん覚えて何になるんですか」と、何度もぼやいていた。それでも翌週には課題を終わらせ、さらに、予習まで済ませてくる。結局全部を身につけた。文句を垂れながら従うあたり、昔から本質的には変わっていない。
 一丁前に文句は言う。けれど、決して投げ出さない。その頑固さは、昔から少しも変わらない。ホークスはアイスをもうひと口食べると、ふいにカップを、彼女のほうへと押し出した。

「こっちも一口どーぞ」

 それは、照れ隠しのような声音だった。そして少し間を置いてから、ぽつりと。

「……感謝はしてますよ。一応。」

 さらに「ほんとに一応ね」と、強調するように付け足した。それだけでやはり照れ隠しだったのだと、察してしまう。彼女は自然に頬を緩めた。

「ほんとかなぁ」
「ん? なにが」
「あなた、ませてたからなぁ〜」

 ホークスはアイスを引き戻し、また、アイスを口に運びながら、じとっと目を細めた。そのまま小さく肩をすくめて、苦笑する。

「ませてたって……中学生なんて、みんなあんなもんじゃないです?」
「そう?」
「背伸びくらいしますよ、大人ぶってただけで」

 さらりと言ったものの、その横顔にはやはり、少しだけ照れが滲んでいた。十五、六歳の少年が年上の女性相手に背伸びしていた姿は想像に難くない。年上の彼女を相手に、妙なところで格好をつけたがった。勉強なんて教わらなくてもできると強がってみせては、翌週には真面目に予習してくるのだから思い返せば十分、可愛げのある少年だったかもしれない。けれど、その不器用さが、どこか放っておけなかったことも、彼女は覚えている。
 ホークスは、スプーンを一度、口元で止めた。そして、何かを思い出したように視線を落とす。

「……名前さんはさ、」
「うん?」
「俺のこと、面倒だったりしませんでした?」

 それは、とても静かな問いだった。ホークスの笑みが少しだけ薄れる。

「ガキの面倒なんて、うんざりだったんじゃないかなって」

 彼女はじっと彼を見つめてから首を横に振る。そして、火力の落ちた焼き網の火を見つめながら穏やかに答えた。

「全然」
「……」
「公安で育てた子たちの中じゃ、あなたが一番、利口だったよ」

 その言葉に、ホークスの剛翼が小さく震えた。ぴくり、と。ほんの一瞬だけ。『公安で育てた子たち』。その括りが引っ掛かったのだろう。彼女には、そう見えた。けれど、彼は何も言わない。言葉を飲み込むようにアイスを口へ運び、小さく笑っただけだった。その笑みは、どこか照れくさそうで、少しだけ、自嘲にも似ていた。

「利口ねぇー。まあ……必死に頑張らんと、生き残れんかったんで」

 静かな口調だった。その一言だけで、この話は終わる。施設でのことを、彼は自分からあまり、語りたがらない。公安の保護下で育った子どもは彼一人ではなかった。けれど、その中で一番利口だったと評されることは素直な褒め言葉であると同時に、あの場所が子どもへ何を求めていたのかその過酷さを物語ってもいる。空気を読み、人の機嫌を読み危険を読み違えないこと。賢さというより生き延びるための術だった。彼女はそれ以上踏み込まなかった。踏み込まれたくない記憶が、誰にでもあることを知っているから。
 ホークスは溶け始めたアイスを急ぐように口へ運ぶ。空になったカップを、静かにカウンターの上へ置くと不意に笑った。少しだけ声が柔らかくなる。

「でも、名前さんだけでしたよ」
「なにが」
「ちゃんと名前で呼んでくれたの。番号とかじゃなくて」
「……鷹見くん、って?」

 その名前が、口をついて出た瞬間だった。ホークスが、ぴたりと動きを止める。目を見開いて、それから、照れ隠しみたいに、ふいと視線を逸らした。耳の先が少しだけ赤くなっている。

「……それ、ここで呼ばないでくださいよ」

 鷹見啓悟——それが、彼の本当の名前だった。世間は、知らない。ヒーローとしての彼しか知らない人間には、一生届かない名前だ。公安の特別施設では番号で呼ばれることのほうが多かった。外へ出れば『ホークス』、『速すぎる男』という名だけが独り歩きした。そもそも彼は、その名を捨てた身だ。
 だからだろうか。その名を口にされると今でも少しだけ居心地が悪そうな顔をする。ホークスは水の入ったグラスを、指先でゆっくりと回した。しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。続いて出たのは笑うような、困った声だった。

「……なんか。名前さんに呼ばれると、むず痒いんですよね」
「あ、ごめん……非公開だったね」
「謝らんでくださいよ。別に、怒ってるわけじゃないんで」

 ホークスは首を横に振りながら赤くなった耳を羽先で隠そうとする。もちろん隠しきれるはずもない。器用な翼も自分の照れまでは覆い隠せないらしかった。彼女はその様子を見て笑わないよう唇を結ぶ。八年という歳月が流れても本名を呼ばれただけで、こんなふうに照れるところは、昔と少しも、変わっていなかった。
 食事を終えると、ホークスは伝票へと手を伸ばした。立ち上がり際、彼女を振り返る。口元が、ゆっくり持ち上がる。

「ごちそう様でした。お付き合いいただきましてありがとうございました、お姉さん」

 その、にっと笑った笑顔を見た瞬間、彼女にも分かった。きっとこれは、さっきの「弟くん」の仕返しだ、と。「ちょっと」と、思わず笑う。

「私が払うって言ったでしょう?」

 財布を取り出そうとする彼女を、ホークスは、ひらりと片手で制して、レジの方へと、さっさと向かって行ってしまった。そして、背中を向けたまま、あっさりと言う。

「いいですよ、ここは俺が」
「えぇ?」
「誘ってくれたのは名前さんですけど乗ったのは俺なんで」

 彼は軽い調子だった。そもそも、最初からそのつもりだったのか、あるいは、姉弟のくだりへの意趣返しか。けれど、こういうところだけは妙に譲らない。彼女がもう一度何か言おうとしても、その前に会計を済ませてしまう。昔からそうだ。人へ借りを作ることには鈍感なくせに自分が返す側になることだけは、驚くほど律儀なヒーロー。
 店を出ると、昼下がりの風が、ゆるやかに通り抜けた。焼肉の匂いをまとった服の熱が少しずつほどけて初夏の陽射しの下でも風だけは心地よく頬を撫でていく。
 ホークスは眩しそうに目を細めると気持ちよさそうに息を吸って、大きく両腕を上へ伸ばした。背中の翼まで一緒にゆるりと広がる。昼の陽射しを受けた真紅の羽根が艶やかに光を弾き、歩道へ淡い影を落としている。

「はぁー、食った食った」

 歩きながらホークスは、満ち足りたように息を吐く。その穏やかな呼吸に合わせるように背中の翼も主の機嫌を隠しきれないまま、柔らかな風を受けて軽く揺れた。

「さ、名前さん。行きましょ」
「あの……ありがとう」

 隣へ並びながら彼女がそう言うと、ホークスは首だけをこちらへ向けて、「ん?」と、その首を傾げてみせる。その仕草に彼女は少しだけ笑う。

「いや、ごちそうさま。なんか、調子狂うなぁ」

 その言葉に、彼は喉の奥で、くつりと笑った。そして何も言わないまま、歩き出す。気付けば、自然と彼女より車道側へ身体を寄せていた。意識している様子はない。誰かと並んで歩けば危険がある側へ自分が立つ。それが彼にとっては考えるまでもない癖だった。ホークスは前を向いたまま笑って聞き返す。

「何が調子狂うんですか? いつも通りでしょ」

 その横顔を見ながら、彼女も釣られて、小さく笑った。確かに、いつも通り。何も変わらない。隣を歩く距離も、何気ない会話も。だからこそ、この光景だけ切り取れば、誰が見ても、仲のいい男女——カップルにしか映らないのだろう。公安の若い職員が勘違いしたのも無理はない。彼女は歩幅を合わせながら言った。

「いや……どんどん、いい男になっていくなって思って」

 その瞬間、彼の足がほんのわずかにもつれる。転ぶほどではない。すぐに歩調は戻ったが、それでも半歩だけ乱れた足並みが彼女の目には、はっきり映った。二人の間へ短い沈黙が落ちる。昼の風が街路樹を揺らして、葉擦れの音だけが静かに続いた。ホークスは前を向いたまま、小さく息を吐く。それから、少し困ったように笑った。

「……ほんとそういうの、さらっと言いますよね昔から」

 照れ隠しみたいに肩をすくめる。その証拠に、背中の翼が、身体へ寄るように畳まれる。これも照れたときに無意識に見せる、彼の小さな癖だ。

「心臓に悪いんで、勘弁してください」
「ふふ。色男が、何言っちゃってんの」
「……!? いろ——っ」

 言い返しかけた言葉が、不意に止まる。彼女はそれを見て見ぬふりをして、そのまま、何気ない調子で続けた。青く澄んだ空を見上げるように、視線を少しだけ、遠くへ向ける。

「私さ。また別れちゃった。半年付き合ってた、彼氏さんと」

 彼女のその声には、泣きそうな響きも強がりもなかった。ホークスの足が止まる。靴底が、アスファルトへ張り付いたように、動かない。彼女が振り返ると彼は、じっとこちらを見ていた。その目がどこか鋭い。さっきまでの柔らかな笑みは、もうどこにも残っていない。そして「は?」と、小さく漏れる声。

「別れたって。なんで」
「振られたの」

 その一言だけで、十分だった。ホークスは何も返さない。彼女は肩をすくめる。

「私が忙しくて。仕事ばっかりだったから」

 ホークスの眉間へ静かに皺が寄る。何か言葉を探しているようにも飲み込んでいるようにも見えた。彼女には、その沈黙の理由までは分からなかった。ただ彼の横顔だけが、さっきまでより少しだけ遠く感じられた。理解できない、というより理解したくないというような顔で、ホークスは、低く言った。

「忙しいからって。そんな理由で手ぇ放すほうがおかしいでしょ。このヒーロー社会の時代に」

 その声に滲んでいたのは、怒りだった。彼女へ向けたものではない。顔も名前も知らない相手に対して、静かに燃えるような苛立ち。歩き出した彼は、気付けばさっきよりも少しだけ彼女の隣へ寄っている。無意識なのか、それとも、意図的にそうしたかったのか、彼女には分からない。彼は前だけを見たまま続ける。

「半年でしょ。半年も一緒におって、それで終わらせる理由がそれって」
「……」
「見る目、なさすぎですよ。そいつ」

 短く息を吐いて言い切ったそれは吐き捨てるというよりどこか諦めにも似た響きだった。彼女は苦く笑って、また少しだけ肩をすくめる。

「半年って言っても会えたの四回くらいだから」

 ホークスの口がわずかに開き何か言おうとして結局、閉じた。また、もう一度だけ開いて今度は小さく問い返した。目だけが彼女の方を向く。

「……それ。付き合ってたって、言うんですか」

 至極真っ当な指摘。それでも責める声ではなく純粋な疑問だった。月に一度、会えるかどうか。『恋人』という言葉を当てはめるにはあまりにも少ない時間。彼にはそんな関係を��恋愛�≠ニ呼ぶことのほうが不思議だった。ホークスはしばらく黙って歩く。二人の間に風が吹き抜けて、やがてぽつりと口を開いた。

「……寂しく、なかったですか」
「全然。職場に行けば、可愛い弟もいたし?」

 彼女は、笑って答える。ホークスも釣られて、ぷっと吹き出しかけるが笑いきれずにその笑いは途中で止まった。そして呆れたように小さく首を振って苦笑する。

「……それ、弟でしょ。彼氏じゃないでしょ」

 そう言った声は、どこか肩の力が抜けていた。
自分から「弟はやめて」と強調しておきながら、今はその呼び方に、どこか安堵したような声色が混じっていた。その矛盾に自分でも気付いたのかホークスは首の後ろをくしゃりと乱暴に掻いた。
 しばらくそのまま歩いて、信号待ちの人混みを避けるように歩幅を緩めた、その時。「なら」と言葉を探すように息をつき独り言のような小さな声で、彼は言った。

「俺でよかったのに。そんな奴より」

 彼女は思わず横を見た。本人も、口にしてから気付いたらしい。視線がほんのわずかに揺れて、息を止める。言った本人が一番、驚いた顔をしていた。けれど、もう取り消せない。それでも足は止めない。前だけを向いて歩き続ける横顔は翼の羽根一枚すら動かさず、いつもと何も変わらないように見えた。それでも耳だけが昼の陽射しにも負けないくらい赤く染まっていた。彼女は敢えて何も聞き返さなかったが、聞こえなかったふりをするには近すぎて問い返すにはあまりにも静かな本音だった。

「うわ〜。なに、それ」
「……、」
「そうやって、女の子を落としてるの?」

 彼女は思わず笑い肩を揺らしながら覗き込むとホークスの歩幅が少しだけ開いて、早足になる。まるで、逃げるように。それでも返事は、すぐに返ってくる。

「落としてないです。事実を言っただけです」

 前を向いたまま、言い切る。平静を装っているつもりなのだろう。けれど僅かに上擦った声までは隠しきれていなかった。彼は、こういう台詞を器用に口説き文句へ変えられる男ではない。思ったことが、そのまま零れる。だから厄介なのだ。
 すると、数歩先まで歩いたところでホークスは足を止めて振り返る。昼の陽射しが逆光になって表情まではよく見えない。それでも、声だけは、不思議なくらい真っすぐ届いた。

「……俺、誰にでもこんなこと言うわけじゃないんで」

 その声音だけが妙に真面目で、彼女は、返事に困ってしまう。だから、笑って誤魔化した。

「どうだか……あ、そうだ。明日、ミーティング出るよね?」

 彼女はわざとらしく視線を逸らして、少しだけ間を置いてから話題を切り替えた。ホークスは、一瞬だけ黙った。露骨な話題転換だと気付いたのだろう。それでも何も言わずに、その流れに乗っかる。彼もまた、この気まずい空気を、引きずる勇気までは、なかったのだ。

「ミーティング?ああ……何時からでしたっけ」

 少し考えるふりをして眉を寄せる。あきらかに顔を顰めつつも聞かれて時間を確認するあたり、行く気はあるが、本音は行きたくはない、という微妙な温度感が伝わる。

「七時」

 ホークスは今度こそ「うげ」とでもいいたげに心底嫌そうな顔をしてそれを隠しもしなかった。彼はそのまま空を仰ぐ。そして、ため息交じりに笑った。

「うわぁ……早い。早すぎません?俺からしたらまだ、夜なんですけど」

 プロヒーローらしからぬ発言だった。もっとも昼夜の区別なく現場を飛び回る生活を考えれば、それも本音なのだろう。ホークスは、翼を大きく広げる。肩甲骨をほぐすように、ゆっくり羽根をぐるぐると回し固まった身体を伸ばした。そして渋々という顔で笑う。

「まあ。名前さんがおるなら、ちゃんと行きますよ……あ、迎え行きましょうか。朝」
「え。飛んでくれるの?」
「ええ、いいすよ?」
「タクシー代浮くじゃん、助かる。ラッキー」

 まるで、思い出したかのように付け加えられた言葉に彼女は目を輝かせて、間髪入れず言った。ホークスの肩が、目に見えて、がくっと落ちる。だがそれも半分くらいは演技なのだろう。しかしなんとも、ロマンのかけらもない、返答だった。ホークスは、呆れたように笑うしかなかった。

「タクシー代って……俺、配達員じゃないんですけど?」

 軽口は叩く。けれど、その誘いを取り消す気は最初からない。不満そうな顔をしていても、朝になればきっと彼は迎えに来る。そういう男だと、知っていた。彼女は、思い出したように言う。

「明日はね、短冊も書いてもらう予定だから」
「短冊?」

 ホークスが首を傾げながら復唱する。翼の先が小さく揺れていた。そう言えば七夕が近い。公安本庁で、季節の催しでもするのか、あるいは彼女個人の企画なのか、彼にはまだ分からない。

「願い事でも書くんですか」

 ただ、面倒な予感だけはしていた。歩きながらホークスは横目で彼女を見やる。今度はいったいどんな無茶を言われるのか……そんな諦め半分、期待半分の表情で、ホークスは片眉を上げた。

「書くのはいいですけど、それ何に使うんです?まさか、飾るとか言いませんよね?」
「飾るよ、公安のロビーに」

 嫌な予感が的中して目を見開く彼に対し彼女はあっさりとそう答えた。思わず「げ」と情けない声が漏れる。歩く速度まで目に見えて重くなり、背中の翼まで、だらりと垂れ下がる。

「公安のロビーって……。誰でも見れるとこじゃないですか」

 公安本部のロビーは来訪者の多い場所だ。そこへプロヒーローたちの短冊が並べば、それなりに人目を集める。書いた願い事まで見られるのだと思うと、気が重くなるのも無理はなかった。
 ホークスは翼の先で額を覆って小さく唸ると、少しだけ考え込んだ。

「変なこと書いたら終わりだし真面目に書いてもなんか気恥ずかしいし……」
「そう?」
「そうでしょ。あーあ、なんてこと企画してくれてんですか」

 ホークスが困ったように笑うと、彼女も、別の意味で笑顔を見せた。

「いいじゃん。何書くの?やっぱり世界平和?」

 ホークスは空を仰ぎ大げさにため息をついた。芝居がかった仕草だが、本音でもある。少しだけ間を置き、肩をすくめて苦笑する。

「世界平和ねぇ……。書けなくはないですけど、俺が書くと、白々しく見えません?」

 その言い方がおかしくて彼女は隠しもせずに、声を上げて、笑ってしまう。誰よりも人を救っているヒーローが、そんなふうに自分を見ている。その癖だけは、昔から少しも変わらない。
 また、しばらく歩き、ホークスがふと、何かを思いついたように足を緩めた。

「名前さんは?」
「ん?」
「何、書くんです?」

 彼女は「そうだなぁ」と、不意にまた青い空を見上げる。そして、少しだけ考えてから笑った。

「ヒーローたちが笑顔でいられる世界になりますように、とか」

 言葉が風の中へと溶けていく。ホークスは何も返さず黙った。数歩分の沈黙。ただ、隣を歩く。やがて、小さく息を吐いた。

「……そういうとこなんですよね」

 その声は笑っているようでもあり、困っているようでもあった。何が「そういうとこ」なのか、説明はない。けれど、その横顔はどこか穏やかでまるで、彼女の言葉を、静かに胸の奥へとしまい込んでいるように見えた。公安の建物が近付く。ホークスは立ち止まり、ポケットへ手を入れた。そのまま、独り言のように言った。

「分かりました、いいですよ」
「ん?」
「明日、ちゃんと書きます」

 そう言い置いて、彼女に背を向けたあと、翼をゆっくり広げる。次の現場へ行く合図だ。きっと彼はこのままパトロールにでも向かうのだろう。しかしそこで彼女が「あ、待って」と声をかけたことで、広げかけた剛翼が、ぴたりと止まった。ホークスが躊躇わず、振り返る。

「はい?」
「襟、汚れてる」

 反射的にホークスは首元へ手をやるが自分ではよく見えない。もどかしそうに顎を引いて、首を捻っている。

「え、どこ」
「もう……」

 彼女は一歩、近付いた。「ここ」と言いながら彼のジャケットの襟元へ伸ばした指先で、小さな汚れを摘まんで払った。

「——はい、とれた」

 ほんの一瞬の接近。それだけの、動作だった。けれど、その距離は思ったより近く、その感覚にホークスはぴたりと動きを止め、瞬きすら忘れたように立ち尽くした。
 近かった。彼女の指が、首筋をかすめた感触がまだ、残っている。ホークスは、ようやく再起動したように、一歩だけ後ろへ下がる。

「あ、ありがとう、ございます……」

 喉が詰まる。声が裏返りかけている。いつものヘラヘラした表情も、軽口も出てこない。照れを隠そうとした声だけが少しだけ掠れていた。それを見ていた彼女は、わざとらしく首を傾げる。

「ふふ……。今日もホークスは、可愛いね」

 その一言で耳まで熱くなる。ホークスはぐっと唇を引き結び、視線を逸らした。顔が熱いのを、なんとか風で冷まそうとしているが、まったく、追いついていない。彼は、困ったように笑う。

「……だから。可愛いって、やめてくださいって言ったでしょ、それ」

 声は低く抗議しているつもりなのに耳から首筋まで赤く染まっているせいで、説得力は、まるでない。
 トップヒーローが完全に翻弄されている図は、なかなかに滑稽だった。しかし当人にとっては、笑い事ではない。そんな自分が情けなくて思わず苦笑した。ホークスは、ばさっと大きく翼を広げ飛び立つ体勢をとった。赤い羽根が陽光を受け、鮮やかに輝く。これ以上ここにいたら、また何を口走るかわからないという本能的な判断だった。

「じゃ。明日、七時に迎えに行きますんで」

 剛翼が風を掴む。額にずらしていたゴーグルをかけ直し、ふわり、と身体が浮き上がる。

「午後も頑張ってくださいねー!」
「ちょっと——!」

 赤い翼は、昼の青空へ吸い込まれるように舞い上がり、あっという間に小さくなっていく。それでも、逃げるように飛び上がる赤い背中はいつもより少しだけ高度が低かったように感じて彼女は思わず笑った。

「……もう。速すぎるってば……」

 そう呟いたあともしばらくその赤を見送った。やがて踵を返し、静かに建物の中へ入っていく。
 七夕前日。季節は、何事もなかったような顔をしてゆっくりと次の日へ向かっていくのだった。


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