この上ない幸せを追い求めるほど人はかえって混乱していく。自分を見失いやがては自分が何者なのかさえ分からなくなるほどに。そうならないようにと人は笑顔を貼りつける。理想とする人間を演じ『幸せなふり』を身に纏う。それが処世術であり、壊れないための、防御でもあるからだ。けれどいつか気づく瞬間が来る。��幸せ�≠ヘ遠くに探しに行くものではなかったのだと。

 夢に思い描いていたかたちとは違う。派手でも劇的でもない。ただ妙に馴染みがよく、息を整えられる場所。何気ない日常の中に、それは静かに息づいている。


 *


 夜の街は、いつ来てもおなじ匂いがする。欲とアルコールと言葉になる前に胸の奥で擦り切れてしまった感情が、湿った空気の中で混ざり合ったような匂い。彼女はグラスの縁に指を添えたまま氷がゆっくりと角を失っていく音に耳を澄ませていた。店内は薄暗く照明は必要以上に何も照らさない。だからこそ、この場所では、余計なことを考えずにいられる。
 ここへ足を運ぶのはたいてい仕事へ向かう前か仕事を終えたあとだった。化粧を落としきれないまま時間に追われる夜もあれば、今日みたいに、落としすぎてしまって、素顔が少しだけ寒い夜もある。どちらにしても、彼女にとってこの店は、現実に入る前の呼吸を整える場所だった。
 向かいの席に座るのはプロヒーロー・ホークス。肩肘を張らず、それでいて完全に気を抜いているわけでもない曖昧な姿勢のまま、彼は椅子に背を預けている。昼間、街の上空を切り裂くように飛ぶ姿とこうして夜の街でグラスを傾ける姿。その落差を彼女はもう驚かない。ただ、どちらの顔も知ってしまったことだけが、時折、胸の奥で静かに重みを持つのだった。

「今日ちょっと道、混んでたでしょ」

 低く抑えられた声は探るようでも踏み込むようでもない。ただの気遣いの形をした問いかけだと彼女にはわかる。仕事のことを直接、口にしないのは、彼なりの線引きだと彼女は理解していた。
 その絶妙な距離感があるからこそ、こうして、向かい合っていられるのだ。

「まあね。週末だし」

 短く返しグラスに口をつける。喉を通る液体は思ったよりも温度を持っていて、身体の内側に、わずかに遅れて広がった。視線を戻すと彼の目が一瞬だけ彼女の指先に落ちた。ネイルは落としてある。理由を説明するつもりはないし、彼もまた理由を問わない。不思議な関係だと彼女は思う。恋人でもなく客でもない。友人と呼ぶには互いの事情を知りすぎている。それでも名前のない関係ほど夜には馴染みやすい。輪郭が曖昧だからこそ痛みも期待も、ここでは少し鈍くなる。

「無理せんでくださいよ」

 そう言って自分のグラスを軽く持ち上げる彼。乾杯とも忠告ともつかない、ただの合図のような動作。気遣いを言葉にするのが苦手な人間の不器用な表現にも見えた。

「ホークスこそ。ちゃんと休んでる?」
「まあ、ほどほどに」

 その答えが信用できないことくらい彼女も知っている。それでもそれ以上は追及はしない。踏み込まない。踏み込まないことで保たれる均衡が、この二人のあいだにはあった。
 彼の笑い方は軽い。けれど、場の空気を撫でるような笑顔の奥に沈んでいる疲労の影も彼女には見えてしまう。自分の事情を語らない代わりに、他人の沈黙には敏感になる。そんな癖が、いつの間にか身についていた。
 グラスの中で、氷がもう一度、からりと鳴る。夜はまだ長い。何も起こらないことをほんの少しだけ期待して願いながら、彼女は、その音に耳を澄ませていた。

「名前さん、今日は?」
「今日は珍しく休み」

 そう告げると彼は蜂蜜色の目を細め口角だけを上げた。その表情には、からかいとも、安堵ともつかない色が滲んでいる。

「へえ、珍しいじゃないですか。じゃあ今日は、俺の相手してくれるってことで」

 カウンターに頬杖をつき、無意識の仕草で羽を一枚抜き取って、指先でくるくると回している。赤い羽根は、光を受けて微かに艶を帯びていた。

「あ、そうだ。焼き鳥屋でも行きません?俺いい店知ってるんすよ。今日は奢りますから」
「え。もう二次会の話?」

 彼は楽しそうに、けらけら笑ってグラスの氷を手にしていた羽の先で、カチンと軽く鳴らした。

「いやまだ一軒目も始まったばっかりですけど。名前さんと飲むの久しぶりなんで。つい先のこと考えちゃって」

 羽を弄んでいた手を止め、ぽん、と彼女の方へ投げるようにカウンターへ置く。赤い羽は小さく跳ねて、そのまま静かになった。

「それにさ、休みの日にわざわざ俺に会いに来てくれたんでしょ。光栄だなあ」

 薄暗い照明が彼の金髪を琥珀色に染めている。週末だというのに店の客はまばらで、奥の席ではスーツ姿の中年男が一人すでに舟を漕いでいる。初めの頃、彼女は一人でこの店を利用していた。けれどホークスと顔を合わせるようになってからは二人でこうして杯を交わすことがいつの間にか当たり前になっていた。何がきっかけだったのかいつからこうなったのか。偶然のように始まったこの習慣が、いつしか、必然のように続いていることを、彼女はまだうまく言葉にできずにいる。

「誘ったのはそっちでしょ。しかも、突然」

 そう言うとホークスは「あぁ、そうだっけ」とわざとらしく首を傾げてみせた。白々しいほどの仕草なのに不思議と腹は立たない。彼がこういうふうに振る舞うときは、たいてい場の空気を軽くしたいときだと、彼女はもう知っている。

「でも来たのは名前さんですよね。嫌なら断ればよかったのに」

 にっと笑う。その笑顔には棘がない。けれど、ほんの一瞬だけ獲物の距離を測る鷹のような鋭さが滲んだ気がして彼女は思わず視線を逸らした。気づかなかったふりをするのも、この関係では、大事な作法なのだ。

「まあ、いいや。せっかくの休日ですし。俺に、ちょっとくださいよ」

 ホークスはスマホを取り出し、片手で次の店の予約を入れ始めた。迷いのない指の動きは、夜の街に慣れきった人間のそれだ。誰かを誘う事にも断られる可能性を、最初から織り込んでおくことにも——背中の羽が微かに揺れているのは周囲のざわめきを拾っているからか、それとも、ただ、機嫌がいいだけなのか。

「そういう言い方みんなにしてたら、勘違いする人も出てくるよ」

 彼女が軽く釘を刺すように言うと、ホークスはスマホから目を離さないまま、喉の奥でくく、と低く笑った。

「勘違いさせとくのも、案外楽しいっすよ」

 予約完了の画面をタップしてスマホをポケットにしまう。ようやく向けられた視線が彼女を真っ直ぐ捉えた。逃げ場を塞ぐようでもあり、ただ、確認しているだけのようでもある、その目。

「まあ……冗談ですけど。名前さん以外にこんなこと言いませんよ、面倒くさい」

 店員に軽く手を挙げて、追加のドリンクを頼む素振りをしてから、彼は、ふと思い出したように続けた。

「次、何飲みます?好きなの頼んでいいすよー。今日は全部、俺が持ちますんで」
「じゃあ……今日は、少し強いのにしようかな」

 言葉にすると、自分でも意外な選択に思えた。しかし彼は片眉を上げて、面白そうに口角を吊り上げる。

「お、いいすねぇ。強いの、いけるタイプです?じゃあ、こっちも合わせてちょっと攻めますか」
「賛成」
「すんません。日本酒ふたつ……いや、一つは、女の子向けで度数弱めのやつ、お願いしまーす」

 ホークスが店員の方へ向き直り指を二本立てた。「強いの」と言ったのに、あえて弱いものを選んでくれるあたりにやはり彼の優しさが滲んでいる気がした。
 ほどなくして、彼女の前に琥珀がかった透明な液体が置かれた。グラスの縁にはオレンジピールが添えられていて、鼻先に柑橘の香りがふわりと立つ。常連だからなのだろう、店員は何も聞かず迷いのない手つきだ。一方、彼のグラスからは、きりりとした、日本酒の香りが立ち上っている。並んだ二つの酒は似ているようでどこか決定的に違う。その差を眺めながら彼女は思う。この夜もまた、同じ温度にはならないまま、静かに進んでいくのだろう、と。

「どう? 最近、ヒーロー活動のほうは」

 そう訊ねながら彼女はグラスを軽く揺らした。彼はそれを横目で見てから、んー、と間延びした声を漏らし、天井を仰いだ。

「まあぼちぼち。相変わらず速すぎるってサイドキックの二人に怒られてます」

 視線を手元に戻して一口含み喉を鳴らしてからふっと息を吐く。その所作は軽いが疲労を完全に隠しきれてはいない。

「この前なんてコンビニ強盗を瞬殺で取り押さえたら、被害者のおばあちゃんに『風で髪がぐちゃぐちゃだわ〜』って、クレームもらいましたよ」

 笑い話の調子で語る声。けれど、その裏にあるトップヒーローの業務量がどれほど過酷なものか常人の想像を遥かに超えているのかを彼女は想像できてしまう。パトロール、救助、個性犯罪への対応、途切れない取材。それを当たり前のようにこなすこの男の内側を本当に知っている人間は、そう多くない。

「あはは。福岡は平和だね。あなたがいるから」

 冗談めかして言いながら彼女は、グラスの底を指で弾く。すると、ちん、と乾いた音が、二人のあいだに落ちた。

「だといいんですけどねー」

 笑みは崩さないままほんの一瞬、彼の目だけが遠くを見る。その視線の先に何があるのか彼女は聞かない。すぐに、いつもの、飄々とした表情に戻ってしまうのを、ただ見届けるだけ。

「平和に見えるのが一番ですよ。ヒーローなんて暇を持て余すくらいがちょうどいい」

 それは、世間に向けて何度も繰り返されてきた言葉だ。それでも今この距離で聞く声にはわずかに、別の温度が混じっている。酒のせいか、それとも彼女が相手だからなのか。答えは出ないまま夜だけが静かに深まっていった。

「出た、名言」
「名言ってほどじゃないでしょ。本心ですし」

 照れたように首の後ろを掻く仕草はヒーローとして見せる姿よりも、ずっと人間らしい。彼女は思わず笑ってしまい視線を彼のグラスから自分の手元へ戻した。そこでホークスは彼女のグラスにふと目を留める。

「それ、美味いです?結構、あとからアルコール来るやつだと思うんですけど」
「飲んでみる? 意外と飲みやすいよ」

 言い切る前に差し出すと彼は躊躇なくグラスを受け取り、軽く口をつけた。

「……あ、ほんとだ。甘めで飲みやすい。これ、油断すると危ないやつすね」

 唇の端を指で拭い何の含みも持たせずにグラスを返す。その自然さに、彼女はかえって落ち着かない気持ちになる。意味を持たせないという選択を、彼はいつも無意識にやってのけるから。

「名前さん、こういうのばっか頼んでたら、気づいたら潰れてそう」

 そう言われて彼女はようやく時計に目をやる。針は、二十二時を少し回っていた。店内はさらに静まり返り奥の席ではスーツ姿の中年男が完全に突っ伏している。グラスの触れ合う音すら、もうほとんど聞こえない。隣に座るホークスの羽が、時折ぴくりと小さく震える。本人は意識していない様子だが、周囲の気配を拾っている証だろう。職業病という言葉が一番近い。

「頼んだのはホークスだけどね?」
「はは。それはそう」
「潰れても、今日はヒーローがいるから」

 半ば冗談で言うと彼は思わず、ぷっと吹き出しそれから少しだけ困ったように笑った。

「それ、便利屋扱いしてません?」

 そう言いながらも、否定はしない。彼は彼女のグラスに残っていた酒を、そのまま自然に一口、煽った。そして何事もなかったような顔でスマホを取り出して、先ほど予約していた二件目の店をキャンセルしている。その動作を、彼女は黙って見ていた。

「まあ、潰れたらちゃんと送りますよ。家まで。あ……家、で合ってます?」

 ただの確認のような口調だった。彼は、彼女のことをよく知っている。けれど肝心なところには踏み込まない。休日にどこで寝ているのか本当の住所がどこなのか。そういう部分は、いつも触れないままだ。聞かないのか、聞けないのか……。どちらにせよ、その距離は保たれている。

「送り狼にならない?」

 彼女の言葉に、ホークスは一瞬、目を丸くしてから、ゆっくりと口元を歪めた。

「なりませんよ。俺を何だと思ってんの」

 その声音は軽いのに、目の奥は笑っていない。酔っている雰囲気でもないし、かと言って冗談を冗談として流す顔ではなく、真正面から見返してくる視線だった。

「……名前さんが望むなら、話は別ですけど」

 数秒の沈黙が落ちる。氷が溶ける音が、やけに大きく響いた。ホークスはすぐに視線をグラスへ落とし、何事もなかったかのように、次の一杯を注文し始める。彼女はこのまま気まずくならないように、すぐに言葉を返した。

「残念、望みませーん。私を何だと思ってんの」

 彼は「ですよね」と軽く返した。けれど、その声にはほんのわずか躊躇うような響きがあった。

「賢明な判断です」

 その言葉と重なるようにして届いたのは、ハイボールだった。泡の弾ける音が、先までの空気を押し流すように広がる。
 それ以上何かが起こることはなかった。二人のあいだに生まれた妙な緊張は、酒と雑談に紛れて薄まっていく。彼は、すぐにいつもの調子に戻り最近休憩の合間に観た映画の話やサイドキックが靴紐を踏んで派手に転んだ話なんかをして彼女を笑わせた。ときどき、背中の羽がふわりと彼女の肩に触れる。くすぐったい、と払いのけると彼は悪びれもせず肩をすくめる。踏み込みすぎない。離れすぎもしない。そういう、夜だった。
 気づけば、時刻はもう午前零時を回っていた。店内の照明は先ほどよりも落とされ、時間だけが静かに進んでいく。彼女のグラスが空になる間隔は、いつの間にか短くなっていた。飲みやすさに油断していたが、体は正直で内側からじんわりと熱が回っているのがわかる。ホークスが少し身を乗り出して、彼女の顔を横から覗き込んだ。

「……目、とろんとしてきてますよ。大丈夫?」
「うそぉ? ぜんぜん、よゆーなんだけどなぁ」

 自分でも語尾が、緩んでいるのがわかる。その瞬間、彼は「はいはい」と棒読みで返しながら、さりげなく、彼女側の肘を支えた。その手つきは自然で、助けていることを主張しない。

「その��よゆー�≠ェ一番、怪しいやつなんすよ」

 空になったグラスを一瞥し彼は店員に向かって首を横に振る。これ以上は止める、という静かな意思表示だった。彼女は抗議するように唇を尖らせたが、どうも声に力が入らない。椅子の背もたれに預ける体重が少しずつ深くなっていくのを、自分でも、止められなかった。テーブルで会計を済ませたホークスが、先に立ち上がる。

「ほら、そろそろ出ましょ。今日が休みでもこれ以上飲んだら、明日に響くんで」

 慣れた動作で腕を取られ立たされる。力は強くない。急かされている感じもしない。ただ当たり前のようにそうする人の動きだった。ホークスはむくれたままの彼女を一度だけ見下ろして小さく笑う。
 立ち上がった拍子に、足元がふらついた。その瞬間を見逃さず彼は肩を差し出した。彼女も抵抗することなくそのまま体を預ける。考える余地もないほど、自然だった。

「タクシー拾いますね。歩けます?」
「ふぁ〜い」
「……駄目だ、こりゃ」

 間の抜けた返事に彼は小さく息をついた。肩を貸したまま店を出る。夜風が火照った肌をなぞるように冷やした。外の空気は澄んでいてアルコールで重くなった頭には、かえって心地いい。彼は羽をわずかに広げ、通りの気配を探る。深夜でも流しのタクシーがいることを、彼はもう把握していた。路地裏を抜ける風は冷たく彼女の足取りはおぼつかない。ほとんど体重を預ける形になってしまっているのに、彼は何も言わない。
 数十メートル先にタクシーの赤いテールランプが見えた。歩きながら彼が、ぽつりと口を開く。

「名前さん、ちゃんと寝れてます?」

 酔いに紛れたような、いつもならあまり深くは踏み込まない類の問いだった。

「んー......寝れてると思う。なんでぇ?」
「いや別に。顔色、ちょっと悪いなと思って」

 ホークスは前を向いたまま肩を貸している手にほんの少しだけ力を込めた。それ以上は続けず、彼は、タクシーに手を挙げる。黒い車体が静かに減速し、二人の前に滑り込んできた。夜はまだ、終わらない。そのことを、彼女はぼんやりとした意識の奥で、確かに感じていた。

「あー。今の働いてるお店、結構ハードだから」

 ホークスの後部座席のドアを開ける動作がほんの一瞬だけ止まった。その一言に含まれたものを誤解しようもなく理解してしまう。理解した上で踏み込まない。踏み込めない。いつも、そうだ。

「……ハードね。」

 それ以上を続ける代わりに彼女の体を促すようにして車内へ乗せ、自分も隣に滑り込む。ドアが閉まり、外の音が遠のいた。

「どの辺です、家」
「知ってて聞くやつ〜」
「知ってますけど。本人の口から聞くのが礼儀でしょ」

 軽口の応酬。その流れのままホークスは運転手に自分のマンションの住所を告げた。理由は説明しない。説明する気にもならなかった。
 タクシーは静かに走り出し深夜の街を切り裂くように進む。人影は少なく街灯のオレンジ色だけが、規則正しく窓の外を流れていく。彼女の頭がゆっくりと、ホークスの肩に傾いてきた。酔いと眠気が、一緒に来ているのだろう。本人に自覚があるかどうかは怪しい。それでも肩にかかる重みを彼は払いのけなかった。窓の外を見つめたまま何も言わない。信号で車が止まる。赤い光が車内に滲んで横目で彼女を見やる。肩から流れ落ちた髪、近くで見なければ気づかない、目の下の薄い影。こういうものは、距離が縮まったときにだけ見えてしまうものだ。

「……無理せんでよ、ほんと」

 ほとんど、独り言のような声だった。届いたかどうかは、確かめない。彼女からの返事はなく、代わりに規則正しい寝息が聞こえてくる。完全に眠っている。ホークスは横目でそれを確認して、ふっ、と息だけで小さく笑った。
 タクシーがマンションの前に着く。料金を払い眠ったままの彼女を見下ろす。起こすべきかそれとも——迷いは短かった。すぐさま後者を選ぶ。

「すみません、荷物(・・)おろすんで。少しだけ待ってもらえます?」

 そう告げて、彼女を抱え上げる。羽がある分、人ひとり分の重さは問題にならない。
 タクシーのドアが閉まり、軽く会釈してから、エントランスを抜けて、エレベーターに乗り込み部屋の前へ。鍵は、羽で器用に開けた。ソファにそっと下ろし靴だけを脱がせる。毛布を引っ張り出してかけると、彼女は小さく身じろぎしたが、目は覚まさない。しゃがみ込んでしばらく寝顔を見つめる。蜂蜜色の瞳に浮かぶ感情は、自分でも整理がつかない。

「……なんで、こんなことしてんだろ、俺」

 誰にも聞かれない声音。答えは返ってこない。彼女は深い眠りの中だ。仕事の疲れか酒のせいかその両方か。毛布の中で丸まった体は無防備で、夜の仕事で纏っている鎧のようなものが、すべて剥がれ落ちている。彼は、冷蔵庫から取り出した水のペットボトルを一本だけテーブルに置いた。彼女が、目を覚ましたときのために。
 しばらく、ソファの傍に座っていたが、やがて立ち上がり、彼女を横抱きにして寝室へ向かう。とりあえずドアは、半分だけ、開けておくことにした。何かあれば剛翼が振動を拾う。近すぎず、遠すぎない距離。そういう距離感だった。
 それから一人でソファに横になってもすぐには眠れなかった。天井を睨むように見つめながら、頭の中で反芻するのは、居酒屋での彼女の言葉。

『今の働いてるお店、結構ハードだから』

 あの軽い言い方が、やけに胸に刺さって残っている。自分には、権利がない。止める権利も心配する資格も——。彼女には彼女の生き方があり、それを否定する立場ではない。理屈ではちゃんと分かっている。それでも胸の奥が妙にざらついてしまう。砂を噛んだみたいに不快で飲み込めない感情がいつまでも経っても消えず居座っていた。


 *


 朝の光がカーテンの隙間から細く慎ましやかに差し込んでいた。時計は、午前十時を少し回ったところで、寝起きの身体には、まだ時間の感覚がうまく馴染まない。彼女がゆっくりと目を開くと最初に映ったのは見覚えのない天井だった。白く余計な装飾のないそれはどこか仮の場所のような印象を与える。身体を包むシーツの感触も、枕の高さも記憶の中にある『自分の部屋』とは微妙に違っていた。昨夜の断片を手繰ろうとしても頭の奥は曖昧なままだ。酒の残り香のような感覚だけが、まだ体内に薄く漂っている。
 ふと、枕元に置かれたペットボトルの水が目に入り、彼女は一瞬だけ眉を寄せた。
 ——ここ、どこだっけ。考えがまとまる前に、寝室のドアが半開きになっていることに気づく。その向こうから生活音がかすかに聞こえ、続いて声が飛んできた。

「起きました?」

 ひょこっと覗き込んできたのは見慣れた金色の前髪だった。彼女は上半身を起こして少し遅れて状況を理解する。

「……あれ。なんで、ホークスのとこに……?」

 喉が渇いているせいか、声が掠れた。彼はそれから、前髪だけではなく顔を覗かせるように姿を現し、寝室のドアに寄りかかったまま、肩をすくめた。

「とこ、って言われると語弊ありますけどね」
「……」
「正確にはセーフハウスです。昨日、タクシーで完全に寝ちゃってたんで。そのまま、連れ去ってきました」

 言い訳めいた調子でそう言い残して、彼はキッチンの方へ歩いていく。彼女も少し躊躇いながらベッドを抜け出し、のそのそと後を追った。
 キッチンカウンターに寄りかかると、彼の姿がよく見える。すでに、ヒーロースーツに着替え、金髪は、きっちりと撫でつけられていた。昨夜の気の抜けた雰囲気は影もなく、仕事用の顔に切り替わっている。

「……全然、覚えてない」
「でしょうね。タクシー乗って一分も経たずでしたし」

 彼は、苦笑しながら冷蔵庫を開けて、オレンジジュースを取り出す。グラスに注ぎそれを彼女の前にそっと置いた。

「飲んで。水分取らないと、あとで一気にきますんで。二日酔いには水分とビタミン」

 朝の光を透かしたオレンジ色が、やけに鮮やかだった。昨夜の居酒屋の雑音とは違い、部屋には静かな空気が、満ちている。誰かが生活している場所特有の落ち着いた匂いと温度。ホークスは、キッチンを出てリビングのソファに腰を下ろし、大きくあくびをした。

「俺、あんまり寝れなかったんですよね」
「あ……ごめん、私がベッド使ったから」
「まあ、それもありますけど……」

 首の付け根を、ごきごきと鳴らしながら彼は、曖昧に笑う。責める色はなく、むしろ、少しだけ楽しそうですらあった。

「別にいいです。朝飯、軽く食べてく?」
「ううん、帰る。ほんと……ありがとう」

 彼女は一瞬迷ったが、すぐに首を振って、そう言い返した。そのまま玄関へ向かおうとした彼女の前に、彼が一歩で距離を詰め、手のひらを軽く上げて制した。きっと飛んできたのだとわかったのは、彼女の髪が微かに風で靡いたからだった。

「待って。せめてそれ、全部飲んでから。途中で倒れられたら、後味悪いんで」

 彼女は言われるままキッチンカウンターに戻りグラスを手に取って中身を喉に流し込む。冷たさが食道を通り、身体の奥に染み込んでいく感覚が昨夜の疲れを否応なく思い出させた。空になったグラスを差し出すとホークスは呆れたように眉を上げる。

「オレンジジュース一気にいく人、初めて見た」
「喉、渇いてたから」

 彼は小さく笑い、音を立てないようにグラスをそっとシンクに置いた。

「じゃあ、気をつけて帰ってください。……また飲みましょ。今度はちゃんと、記憶に残るやつ」
「うん。またね」
「また、って言いましたからね。約束ですよ」

 玄関まで見送りに出た彼は、ドア枠に肩を預けひらひらと手を振る。いつもの軽い笑顔だった。彼女がドアの向こうに消え、鍵の音がして初めてその手が静かに下りる。閉まったドアを見つめたままホークスは、しばらく動かなかった。やがて踵を返し、リビングに戻る。
 テーブルの上には開けていないペットボトルが一本、昨夜の名残を纏ってそのまま残っている。片付けようという気力は湧かずソファに倒れ込むように横になり、クッションに顔を埋めた。室内にはまだ彼女の気配がかすかに漂っているような気がした。

「……なんで、帰しちゃうんやろ」

 低く呟いた声は、クッションに吸い込まれて、答えを返さないまま消えていった。


 *


 それから、数日が過ぎた。彼女は変わらず夜の仕事に戻り、ホークスもまた、ヒーローとしての忙しない日々を滞りなくこなしていた。テレビをつければビルの屋上でインタビューを受ける彼の姿が流れ、SNSでは『速すぎる男』という言葉が半ば、お決まりの称号のように拡散されている。世間にとっては、何一つ変わらない日常だ。
 けれど彼女もホークスも、あの夜のことだけは互いに触れなかった。話題にしない、というよりうまく言葉にする場所を見つけられないまま時間だけが流れていった。

 その日、誘われるままに彼女は小さな飲み屋にいた。個室とはいえ、完全に遮断されているわけではなく、隣の部屋からは笑い声やグラスの触れ合う音がくぐもって伝わってくる。薄暗い照明の下、ホークスは、二杯目のハイボールのグラスを指先で軽く揺らし、溶けかけた氷を、からからと鳴らして探るようでも詮索するでもないいつもの調子で問いかける。

「で、今日は?仕事」
「うん、これから」

 彼女は頬杖をついたままグラスの縁をなぞる。何気ない仕草のはずなのに、ホークスの蜂蜜色の視線が一瞬だけ彼女の首筋あたりに落ちて、それから、何もなかったかのように逸れた。

「そっか」

 それだけ言って、彼は焼き鳥の串を一本取る。もも肉を噛みちぎり黙々と咀嚼する様子は話題を切り替えるための動作にも見えた。

「送りましょうか。どうせこのあともパトロールありますし」

 軽い提案のようでいて断られることを想定していない響きがあった。金髪が居酒屋の照明に柔らかく反射し壁に掛けられた時計の針は午後八時を少し過ぎている。店内の喧騒は隣の部屋から声が微かに漏れてくる程度でテーブルには空になったジョッキが二つとほとんど手を付けられていない枝豆の小皿が残されていた。
 彼女が立ち上がる気配を彼の剛翼の振動がもう捉えていたのかもしれない。

「……じゃあ、お願いしようかな」

 彼女がそう言うとホークスは、咥えていた串を置き、いつものように、にっと口角を上げた。

「了解。じゃ、これ飲んだら出ましょ」

 そう言って彼は自分のハイボールを一息に煽り氷だけが残ったグラスを、テーブルに置く。その瞬間、乾いた音だけが、その場に小さく響いた。
 会計を済ませて雑居ビルの裏口から外へ出ると夜風が肌を撫でた。路地裏には、街灯が等間隔に並び遠くで酔客の笑い声が滲んでいる。ホークスは歩きながら、赤い翼を軽く広げた。数枚の羽がふわりと宙に舞い周囲の気配を探るように四方へ散っていく。彼は彼女に背を向けたまま少しだけ腰を落とした。

「ほら。乗ってください。ちゃんと掴まらないと振り落とされますよ」

 声は、相変わらず軽い。けれど、振り返らない横顔が、街灯の光を受けてどんな表情をしているのか、彼女には分からなかった。その距離が近いようで、どこか、遠いままだった。

「……まさか、おんぶ?」

 その声に、ホークスは振り返らないまま、短く「……え?はい」と、息を吐いた。

「完全に羽、邪魔だよね」
「え、あー......」
「ここは、お姫様抱っこでしょ」

 ゆっくりと振り返った彼の顔には驚きと困惑が入り混じっていた。予想外の注文を受け取ったというより言い返す言葉を探している表情だった。

「注文、多くないです?」

 そう言いながらも、体はもう動いている。立ち上がった彼は迷いなく彼女の背と膝裏に腕を差し入れ、そのままひょいと抱え上げた。その動作は滑らかで、ためらいがない。

「……軽すぎ」

 ぽつりと零れた声に冗談の色はなかった。彼女を支える腕に、ほんのわずか、力がこもる。その変化に気づく間もなく、重力がふっと遠のいた。ホークスに抱えられながら上空で彼女が独り言のように声を落とした。

「夜の街ってさぁ……綺麗だよね」

 風を切る音に紛れて彼女の声が耳元に届いた。その言葉にホークスは視線を逸らす。翼が大きく羽ばたき、ビルの谷間を縫うように高度を上げていく。

「……まあ、見てるだけなら、ですけど」

 短い沈黙が落ちる。眼下にはネオンの海が広がっていた。繁華街の看板、ビル壁面を覆う広告、信号機の赤。地上では決して得られない角度から見る街は生き物のように明滅を繰り返している。その上を、赤い翼が一定のリズムで空気を叩いて進む。彼女の体重など存在しないかのように速度は変わらないまま彼も、独り言のように言った。

「汚いもんも上からだと、綺麗に見えるだけなんですけどね」

 それきり言葉は途切れ目的地が近づくにつれて高度が落ちていく。羽が風切り音を拾い、人目の少ない裏路地を正確に選んで降下した。
 非常階段の脇、影に紛れるような場所へふわりと着地する。彼が膝を折り、彼女を降ろしやすいようにわずかに前かがみになると、赤い翼は羽音ひとつ立てずに畳まれて、背中へと吸い込まれるようにその存在感を失っていった。見上げた先の彼の顔には、場の空気を和らげるためだけに用意されたような、いつもの軽い笑みが、貼り付いている。

「……はい、到着。お代は、ツケでいいっすよ。いつもの」

 ポケットに手を突っ込み、軽く片手を上げる。その仕草は飲み屋を出た時と何一つ変わらない。何気ない、何の感傷もない別れ方だ。けれど立ち去ろうとする足が、ほんの一瞬だけ止まった。
 雑居ビルの入口には、控えめなネオンがひとつ灯っている。見慣れた光景。彼女はこの中へ入り知らない男の隣に座り、求められればそれ以上を差し出す。彼はそれを分かっていて止める権利がないことも分かっていてただここに立っている。

「あんまり無理しないで」
「ありがとう。おやすみ、ホークス」
「……、おやすみ」

 ホークスは、小さく息を吐くと、ようやく踵を返した。しかし、数歩進んだところで、彼はふと思い出したように「あ、そうだ……」と言って、また足を止める。肩越しに振り返ると街灯の光が横顔を半分だけ照らした。金色の前髪は影に沈み表情の輪郭が曖昧になる。

「明日暇だったら連絡してくださいよ。焼肉でも行きましょ」

 それだけ言い残して今度こそ歩き出す。数メートルも進まないうちに赤い翼が大きく展開される音がして、次の瞬間には夜空に小さな影がひとつ浮かんだ。そうして、あっという間に、ネオンの向こうへ消えていく。その速さは、答えから目を逸らすときのもので、彼女の返事を待つ気もなかったのか、それとも聞くのが怖かったのか——。その速さは、いつも答えをはぐらかすときの彼、そのものだった。
 背後でビルの扉がかちゃりと音を立てて開く。顔を出した店の店長が短く「早く入れ」と、声をかけた。夜気は冷たく、さきほどまで触れていた翼の温もりはもう残っていない。ポケットの中のスマートフォンには、数時間前に届いたヒーローからの着信履歴が、まだ消えずに残っているだけだった。


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