バスルームから、かすかに鼻歌が漏れていた。普段なら仕事終わりに風呂へ直行しても、無音の男だ。音程は悪くない。ただやけに弾んでいる。その浮き立つ調子だけで、機嫌がどれほどいいのかが、伝わってきた。
途中、剛翼を洗っているのだろう、水音が急にばしゃばしゃと派手になったかと思えば、不意に静まり返る。羽根の隙間に、泡でも残ったのか、小さく「あれ?」と漏らす声まで聞こえてきて、彼女は思わず口元を緩めた。二十分ほどして水音が止む。続いてドライヤーの低い駆動音が響き、それもやがて途切れた。
ほどなくしてリビングへ戻ってきたホークスは借りたバスタオルを肩へと無造作に掛けたまま、立っていた。濡れていた金髪はまだ少しだけ水気を残しているが、赤い翼だけは、丁寧に乾かしたらしく、ふわりと柔らかく膨らんでいた。
「お先でした」
「はーい、私も入ってくるから先寝てていいよ。寝室、あっちね」
——寝室。その単語に思考が一瞬だけ止まる。一緒に寝るという意味なのか、それとも部屋だけ貸してくれるということなのか。聞けば、済む話なのに、聞いた瞬間、自分の期待まで知られてしまいそうで口が開けなかった。聞きたいが、聞けないもどかしさ。
「……了解でーす」
それでも返事だけは、妙に素直だった。彼女はそのままバスタオルを抱えて浴室へ消えていく。
入れ替わるようにして寝室へ入ったホークスはベッドの縁へ腰を下ろした。思ったより小さい。おそらくセミダブルだ。一人で眠るには十分でも自分の翼まで考えれば決して広くはない。そっと横になると、枕から、洗いたてのシャンプーとも柔軟剤とも違う、彼女自身の匂いらしきものが、かすかにした。心拍数が上がる。胸の奥が、落ち着かないくらい静かに騒ぎ始めて、翼を広げれば壁にぶつかる。仕方なく胸の前へ抱え込むように折り畳み、仰向けになって天井を見つめた。
ふと、浴室から聞こえるシャワーの音に、耳を澄ませている自分に気づく。耳が勝手に反応してしまうのだから、仕方がない。聞くつもりなんてない。なのに聞こえてしまう。そのたびに自分へ呆れて、小さく息を吐いた。
「寝れるわけないでしょうが……」
思わず漏れた独り言に、自分で苦笑する。今日だけで人生がひっくり返った。ずっと好きだった人が恋人になった。それだけで眠気なんてどこかへ飛んでしまっていた。しばらくして浴室の音が止み、ドライヤーの風が壁越しに響く。やがて、寝室の扉が静かに開いた。部屋着に着替えたらしい彼女が、何のためらいもなくベッドへ上がる。そのまま彼の背中へ身体を寄せ、後ろからそっと抱きついた。細く柔らかな腕が腰へ回る。背中へ伝わる体温に、ホークスの身体は、ぴたりと固まった。翼まで、動きを止める。息を吸うことすら忘れてしまったように、かろうじて声を発した。
「……名前さん」
「あ、起きてた?」
寝られるわけがない。とは言えなかった。そう言いたかったのに、喉の奥で、言葉が絡まった。
「……ええ、まあ」
「ただいま」
その何気ない一言が、どうしてこんなにも胸へ沁みるのだろう。おかえり、と言おうとして声が掠れた。背中の体温が思考を全部溶かしていく。ホークスは小さく笑ってから、ようやく返した。
「……おかえり、なさい」
「狭くてごめんね」
狭い。確かに狭い。だがその原因の半分以上は自分が原因であることくらい理解している。翼が空間を圧迫している自覚はある。
「俺のほうこそ。剛翼、邪魔じゃないですか」
「こうしてくっついてたら、落ちないで済むから大丈夫」
その答えに胸の奥が静かに鳴った。『こうしてくっついていたら』。つまり、この体勢が続くということだ。後ろから抱かれたまま。幸せすぎて逆に眠れそうにない。ベッドには、大人が二人。物理的には限界だった。翼まで含めれば、少し、身じろぎするだけで、どちらかが落ちてしまう。だから自然と身体は寄り添う。言い訳としては、これ以上ないほど完璧だった。
ホークスはゆっくりと右手を持ち上げる。腰へ回された彼女の手へ、自分の指先を重ねた。壊れ物にでも触れるような、慎重な手つきで。
「……今日、楽しかったです」
「告白がうまくいったから?」
その問いにホークスは小さく笑った。喉の奥でほどけるような、ごく静かな笑いだった。重ねた指先へ、さらに、そっと力を込める。
「全部です」
「ぜんぶ?」
「昼のラーメンも、予定より、早く迎えに行ったことも、帰り道も……今、こうしてる時間も」
どれか一つじゃない。一つじゃ足りない。今日という一日そのものが彼にとっては大切だった。そのときふと、背中越しに、彼女が柔らかく笑う気配がした。
「そっか。よかった」
それだけで、十分すぎた。その一言が胸の奥へ静かに沈み、長いあいだ張りつめていた何かを、ゆっくりとほどいていく。重ねたままの指先から彼女の体温が伝わる。暗闇の中、背中越しには、規則正しい鼓動が聞こえた。その心音を数える。ひとつ、また、ひとつ。その、穏やかなリズムを数えているうちに、彼女の呼吸は少しずつ深く、静かな寝息へと変わっていく。
今日一日互いに働きづめだったのだ。そのうえ自分の突然の告白に、付き合ってくれた。疲れていないはずがない。ホークスは、耳を澄ませる。眠ったのだろうか。それともただ目を閉じているだけなのだろうか。もう、どちらでもいい。それでも確かめるように、小さく息を吸う。
「……おやすみなさい」
返事はなかった。その代わり、腰へ回された腕だけが、ほんの少しだけ、きゅっと締まって力を増す。抱き寄せるというより、そこにいることを確かめるような無意識の温もりだった。胸の奥がじわりと熱くなる。彼は、翼をさらに小さく畳み直し、彼女が寝返りを打っても落ちないように、そっと背中を支える形へ整えた。守ることには、慣れている。けれど、誰かに寄りかかられたまま眠る夜は、生まれて初めてだった。
しばらくのあいだぼんやりと天井を見つめる。今日の出来事が、夢だったのではないかと何度も思う。合コンの帰り道。思わず、こぼれた本音。震える声で伝えた「好きだ」という言葉。そして今、この背中にある温もり。七夕の短冊へ書いた願いが、ふと脳裏をよぎる。
『 一人じゃない夜がほしい 』
もう書かなくていい。願い続けなくてもいい。その答えは言葉よりも確かな温度になって、今、自分を包んでいる。背中の温度がそれを証明しているから——。
瞼が、ゆっくりと重くなる。眠りへ沈む寸前、ホークスの唇だけがかすかに動いた。声にはならない小さな「ありがとう」が夜の静けさへ溶けていく。エアコンの控えめな駆動音だけが、部屋を満たし、やがて二人の寝息が穏やかに重なった。窓の外では夏の星が静かに瞬いている。その夜はもう、誰にとっても��一人�≠フ夜ではなかった。
*
朝、カーテンの隙間から差し込む淡い陽射しが静かな寝室をゆっくりと照らしていく。柔らかな光はベッドの上まで伸び、寄り添う二人の輪郭を静かになぞっていた。時刻は午前六時を少しだけ回った頃。早いようで昨夜のことを思えばむしろ遅い目覚めだったかもしれない。
先に目を覚ましたのは、ホークスだった。まだ眠気の残る瞼をゆっくり持ち上げると、すぐ目の前に彼女の寝顔がある。まるで眠れる森の美女である。昨夜、狭いベッドの中で、向き合うように眠りについたせいだろう。寝返りを打ったまま、その距離はほとんど残っていない。まつ毛の一本一本まで数えられそうなほど近い。
寝息は穏やかで規則正しい。起きているときの凛とした眼差しも、誰かを導く強さも今はすべて柔らかな眠りの中へ溶けていた。こんな無防備な表情を知っている人間は、きっとそう多くない。その事実だけで、胸の奥が満たされていく。
(……かわいい。)
思わずそんな言葉が浮かんでしまい慌てて飲み込んだ。
ホークスは、動けなかった。少しでも身じろぎすれば起こしてしまいそうだし、このまま見つめ続ければ、今度は自分の心臓が破裂する。絶対にもたない。背中の翼が、無意識に小さく震える。慌てて力を入れて抑えたものの、一枚だけ羽根がするりと抜け落ちて、彼女の額へ、ふわりと舞い降りた。
「……ん、」
くすぐったかったのだろう。細い眉がわずかに寄る。起きるか、と息を潜めた。けれど、彼女は目を覚まさない。その代わり小さく身体を寄せるように身動ぎするとホークスの胸元へと頬を預けそのまま安心しきったように、再び眠りの森へ、沈んでいった。
心臓に悪い。悪すぎる事案。胸に顔を押し付けられた状態で、平常心を保てるわけがなかった。
(えー......これは、やばか。)
胸へ伝わる温もりに、鼓動が一気に速くなる。耳の先まで真っ赤になり、剛翼は石のように硬直してしまった。ダメだ、動けば起こしてしまう。だから動けないし動かない。幸せなのに苦しいという、どうにも贅沢な拷問だった。
そのとき——そんな空気を打ち破るかの如く、不意に電子音が鳴った。枕元のサイドテーブルへ置いていたスマートフォンが震えて、画面が淡く光る。表示された通知欄には、見慣れた二文字。『公安』の文字が。休日だろうと早朝だろうと、お構いなしに届く仕事の連絡。ほんの数秒前まで恋人だった男をまたヒーローへ引き戻そうとする現実だった。
ホークスは、眉をわずかに下げながら、片手を伸ばし画面だけを確認する。緊急招集ではない。それを確認すると小さく息を吐きそのまま画面を伏せた。
「……。」
無視。今は無理。今くらいは見なかったことにしてもいい。そう、思った。ところが、置き方が悪かった。スマートフォンはベッドの縁を滑り、そのまま床へ落下する。ごとん、と、乾いた音が静かな寝室へ響いた。——あ、やってしまった。思ったのも束の間、その音で彼女の瞼がぱちりと開く。もっと、眠れる森の美女みたいにゆっくり目を覚ましてくれたらよかったのに。現実は驚くほど勢いがよかった。思わず、苦笑が漏れる。
「もっと穏やかな起き方、なかったんですかね」
寝ぼけたまま彼女は彼を見つめる。状況を整理するまで、少し、時間がかかったらしい。視線が交わったまま、数秒。
「……は?」
「いや……その顔やめてもらってもいいですか」
「……え?」
「夜這いでもされたみたいな顔してますよ」
彼女の寝起きのぼんやりした表情があまりにも面白くて、つい口元が緩む。金色の瞳も柔らかく細められた。
「おはようございます、名前さん」
距離は昨夜とほとんど変わらない。少し寝癖のついた髪に、まだ眠たそうな目。いろんな意味で破壊力が凄まじい。視界の暴力とは、まさにこのこと。そんな姿まで愛おしく思えてしまう自分にホークスは、苦笑するしかなかった。
「……お、おはよ」
「よく眠れました?」
「うん……ぐっすり。ホークスは?」
一瞬だけ言葉に詰まる。三十分おきに目が覚めて、そのたび彼女がちゃんと隣にいるか確かめていた、なんて言えるはずもない。なのでここは、曖昧に笑って誤魔化すことにした。
「……まあ、それなりに」
「やっぱり狭いね、このベッド」
彼女は身体を起こしながら大きく伸びをした。問題は広さじゃない。そう思いながらも、口には出さず、代わりに自分の剛翼を見下ろす。
「まじで羽根、邪魔じゃなかったですか」
「全然。むしろ、暖かかった。羽毛布団みたいで気持ちよかったよ」
彼女はあっさり笑った。羽毛布団。なんとも、複雑な例えである。けれど、嫌ではない。むしろ少し誇らしいくらいだった。そんなことを考えた矢先、床に転がっていたスマートフォンが、再び震え出した。画面にはまた『公安』の文字。二通目の通知が、現実は待ってくれないのだと静かに告げていた。
「いいの?」
「はい、きっと目良さんからなんで」
画面を見なくても、送り主くらい予想がつく。あの寝不足上司が、こんな朝っぱらから、何度も連絡を寄越す理由など、一つしかない。それでも彼女は、くすりと笑う。
「かわいそう、目良さん」
「いつもこんな感じっすよ」
「知ってる。てかさ、次からホークスが泊まりに来るなら、どっちか一人はソファだね」
彼女が、ベッドから降りようとした、その瞬間だった。腰に腕が回る。「ぎゃっ」と、まったく色気もへったくれもない悲鳴が、部屋に響く。
引き寄せた彼女を抱えたままホークスは至って真面目な顔で大きく首を振る。迷いがなかった。
「それは嫌です、却下」
「嫌って言われてもねぇ」
「名前さんがベッド使ってください。俺、隣で、寝袋でもなんでも平気なんで」
「寝袋!まあ……別々に寝るのはちょっと寂しいけど、仕方ないよね」
仕方なくない。全然、仕方なくなどない。頭の中で、何かが勢いよく回り始める。もっと、いい方法があるはずだ。数秒後、その答えはそのまま口から飛び出した。
「そうだ……ダブルベッド買いません?」
「え?」
「もっと大きいやつ」
「ここに?」
言われて、言外の意味に、自分でも気づいた。ここに。つまり、この部屋に。つまり、は——。
ホークスは口を閉じた。付き合って、一晩目。早すぎるにも、程がある。数秒、沈黙が落ちた。けれど、今さら「違います」とも言えなかった。訂正しなかった。できなかった。彼女はその顔を見て堪えきれずに吹き出し、肩を揺らして笑う。
「ほんと、何をするにも速すぎる男だね」
「……っ、」
「判断も行動も一直線」
「……すんません」
「買うのはいいけどさ。もし別れたらそのベッドどうするの?」
笑いながら言われた、現実的すぎる指摘。胸の真ん中へ、ぐさっ、ときれいに刺さる。それでもホークスは、真顔で言い切った。
「別れないんで、大丈夫です」
彼のあまりにも自然で迷いのない声に、彼女は一瞬だけ目を見開かせたものの、すぐに、口角をつり上げて、人差し指を向ける。
「言ったからね?」
「はい、言いました」
「振ったら地の果てまで追いかけて殺しに——」
そこまで言ったところで不意に唇が塞がれた。触れるだけの短いキス。小さなリップ音が室内に響く。昨夜の帰り道と同じことが、繰り返されている。目を開けたまま固まっている彼女に、唇を離したホークスが少しだけ笑う。そしてそのまま彼女の下唇を親指で、そっとなぞった。
「それ、俺がヴィラン相手に言う台詞です」
「……ばれた?」
「ばればれです」
彼が喉の奥で、くくっと笑いながら、彼女から距離を取り大きく伸びをすると広がりかけた翼が天井を軽く擦った。その音に重なるように、床のスマートフォンが三度目の通知を震わせる。画面には短く『至急連絡を』とだけ表示されている。さすがに、これは見過ごせない。彼女が見兼ねて顎で、そのスマートフォンを示した。
「——ほら、応対しないと」
横目にスマホを見やったホークスは露骨に顔をしかめる。幸せな時間は、どうしてこうも短いのだろう。渋々、スマホを拾い上げて画面を開く。
『本日八時/本部緊急会議/欠席不可』
なんとも簡潔なその文面には、有無を言わせぬ圧があった。だからこそ、逃げ道がない。
ホークスは小さく息を吐きいて頭を掻き、舌をひとつ、打ち鳴らした。
「……八時まで公安です」
「じゃあ、支度しよっか」
その一言が妙に嬉しかった。『行ってらっしゃい』ではない。『支度しよっか』。
当たり前のように、自分をその朝の中へ含めてくれる言葉だった。「はぁい」と返事をしただけなのに、頬が緩むのを抑えられなかった。
七月初旬の朝。洗面所ではホークスが鏡を覗き込み、少し寝癖のついた金髪を整えながら、翼の羽根を一枚ずつ丁寧に撫でていく。
キッチンでは彼女がトースターへ食パンを入れコーヒーを淹れる香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がっていた。どちらも特別な事はしていない。けれど、その何気ない朝の風景は不思議なくらい馴染んで見えた。まるで何年も前から、こうして一緒に朝を迎えてきたかのように。
簡単な朝食を向かい合って食べ終え、二人は、並んで玄関を出る。エレベーターを降りる頃には夏の陽射しはすっかり、街を照らしていた。昨夜より少しだけ強い日差しが、アスファルトを白く照り返し、新しく始まった二人の日常を、静かに祝福しているようだった。
歩幅を合わせて歩く。ホークスは翼を少しだけ開き、朝の風を受け流しながら、隣を歩く彼女へそっと視線を向ける。昨日までは隣にいる理由を必死に探していた。けれど今日からは違う。隣にいることが、もう理由になっていた。
「名前さんも公安本部?」
「ううん。今日はちょっと寄るところがあって」
「えー。どこです?」
「あるヒーロー事務所」
その答えにホークスは「ヒーロー事務所?」と繰り返しながら、不思議そうに少し首を傾げた。
「送りますよ。飛んだほうが早いでしょ」
「大丈夫。今日は一人で行く」
そう言って笑う彼女の顔を見つめて、少しだけ口を尖らせる。送り届けたかった。それは単なる親切ではなく、恋人になったばかりの、浮かれた男の、ごく単純な願望だった。
「……そっか」
それでも、残念そうに笑って、それ以上は何も言わない。無理強いはしたくない。その代わり、隣を歩く歩幅だけは自然と彼女に合わせていた。
他愛ない話を交わしながら歩く朝の街は、昨日までと何も変わらないはずなのに不思議なくらい景色が違って見えた。信号待ちの人の列も、通勤途中の会社員も、開店準備をする店先も、全部が穏やかに目に映る。
世界は何ひとつ変わっていない。変わったのは自分のほうだった。昨夜まで、届かないものだと思っていた人が、今は隣を歩いている。その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かかった。
やがて公安本部のビルが見えてくる。ホークスの足が、自然と止まった。ここから先は、仕事の時間だ。分かっている。分かっているのに、別れ際というだけで、足が重くなる自分に苦笑する。
そのときだった。胸ポケットのスマートフォンが、短く震える。緊急要請だ。画面を見た瞬間、それまで柔らかかった眼差しがすっと研ぎ澄まされた。恋人ではなく、ヒーローの顔へと。
彼は、慣れた手つきでゴーグルを掛ける。その一連の動作には一切の無駄がなく数秒前まで照れ笑いを浮かべていた青年と同じ人物とは思えないほどだった。
「会議、出られなそう?」
「んー、っすね……連絡しておきます」
「いや、伝えておくよ。目良さんね?」
「お願いします……じゃ、俺はここで」
飛び立とうとした彼の襟元に彼女の手がそっと伸びた。「ん?」と聞き返すや否や、その指先がヒーロースーツのジャケットの襟を軽く整える。ほんの少し曲がっていた襟が真っ直ぐになった。
「これでよし」
まるで毎朝繰り返してきた習慣みたいな、ごく自然な仕草だった。ホークスは一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように笑う。昨日までなら元教育係として身だしなみを整えられたと思っただろう。けれど今日は違う。恋人として送り出されている。たったそれだけの違いが、胸の奥を、どうしようもなく満たしていく。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
「あの、また連絡します。——で、今日……」
言い淀んだ声が少しだけ照れていた。ホークスはそのまま、先の言葉を飲み込んで視線を空へと逃がす。彼女は、そんな彼の仕草に小さく笑って頷いた。
「うん、待ってる」
その一言だけで十分だった。ホークスは小さく息をついてから翼を大きく広げる。朝日を受けた真紅の羽根が、きらりと光を弾いた。
「——じゃ、行ってきます」
地面を蹴る。風が巻き起こり彼の身体は一瞬で空へ躍り上がった。何度も見てきた飛び立つ姿のはずなのに今日は少しだけ違って見える。それは帰る場所ができた人間の飛び方だった。彼女は、小さくなっていく背中をしばらく見送っていた。公安の思惑も、ヒーローとして、背負う責任も、これから先に待つ、数え切れないほどの困難も、何ひとつ終わってはいない。けれど、今はただ、この確かな温もりだけを信じていたかった。それでもあのヒーローは帰ってくる、と。そう思える場所が、今日から自分になった、と——。
その事実が、夏の朝の光よりも、眩しかった。空を見上げる彼女の唇が、誰にも聞こえない声で形作った。誰にも届かないほど小さな声で、その空へと向かって微笑む。
「……いってらっしゃい。」
青く澄み切った空の彼方で、小さな赤い翼が、一度だけ大きく、羽ばたいた気がした。まるで、その声がちゃんと届いたと、返事をするように。
*
九月に入り、朝晩の風にはようやく秋の匂いが混じり始めていた。蝉の声は少しずつ遠ざかり、窓を開ければ、夏とは違う乾いた風がカーテンを静かに揺らしていく。
あの七夕の夜から、もう二か月。彼の長かった片想いが、終わりを迎えてからの日々は、劇的な変化に満ちていたわけではない。それどころか、拍子抜けするほど、穏やかだった。けれど、その穏やかさこそが二人の関係を少しずつ当たり前のものへと変えていた。
「また鍵、閉め忘れてますよー?」
玄関から聞こえてきた声に続いてカチャリ、と施錠の音が鳴る。それだけでは終わらない。彼はいつものように、ドアノブを二度、三度と回し、きちんと鍵が掛かっていることを確認してから、ようやく満足そうに息をついた。この一連の動作も、もうすっかり日課になっている。彼女が閉め忘れる。ホークスが閉め直す。注意する。彼女は曖昧に笑って流す。その、繰り返し。
いつからだろう。彼が、この部屋へ帰ってくることがあまりにも自然になったのは。歯ブラシも着替えも、剛翼用のシャンプーも、気づけば少しずつ増えていって、玄関には、彼のスニーカーが並ぶのが当たり前になっていた。週に一度だった泊まりは二度になり、三度になり、気がつけば、『帰る場所』の境界は、曖昧になっていた。
「名前さーん?ダーリンが戻りましたよー」
返事の代わりに聞こえてきたのはキッチンから響く食器の触れ合う音だった。覗き込けば彼女が昨夜の夕食の残りを、手際よくタッパーへ詰めている。ホークスはその背中を見つめ呆れたように「起きとった?」と小さく笑った。しかし、その声には、隠しきれない甘さが滲んでいた。
「それ、今日の俺の昼飯ですか?」
彼女は振り返らず、タッパーの蓋を、パチンと閉める。「そうだけど文句ある?」と、言わんばかりの背中だった。けれど、それだけで十分だった。毎朝こうして、自分の弁当を用意してくれていることも味付けが少しずつ自分好みに変わってきていることも、全部、知っているから。
実際ホークスは、彼女の手作りの弁当を毎日、待ち望んでいた。時間がなければ、公安の食堂で味よりも栄養を優先したような昼食を流し込んでいた頃と比べれば雲泥の差。だからこそ昼休みになるたび、この弁当を開ける時間が楽しみで仕方ないのだ。
「……別に? 文句なんてないすよ?」
「……」
「今日も、ありがたくいただきます」
「読心術使うの、やめてください?」
ホークスは軽く鼻で笑い、ソファの上に置いていた、剛翼用のブラシを手に取って戻ってくる。本来なら羽根を整えるための道具。けれど最近は別の用途にも使われていた。彼は彼女のすぐ後ろへ立つと、何も言わずに、髪にブラシを通した。「またそれ……?」と呆れたような声とは裏腹に彼女も、拒む気配はない。
「いいじゃないですか。絡まってますよ」
毛先から、ゆっくりと梳かしていく。ブラシが頭皮を撫でる感触は彼の翼の手入れを彷彿とさせた。羽根を傷めないよう一本一本を整えるときと同じくらい丁寧な手つきだった。ブラシが頭皮を優しく撫でるたび彼女の肩から余計な力が抜けていく。それを眺めてホークスは小さく笑った。
「ホークス」
「はぁい?」
「早朝任務、お疲れさまでした」
「ありがとうございまーす。おかげさまで今日も速く飛べて、絶好調でした」
「……その、『おかげでさまで』って、何?」
「ええ?いやぁ〜。だって昨日の夜はさ、ほら」
言い終わる前に、口の中に唐揚げがひとつ押し込まれた。「んぐっ」と、抗議する暇もなく彼は素直に、咀嚼する。数秒後には、何事もなかったように飲み込んでいた。
「……うまぁ」
「はいはい」
呆れた声が返ってくる。それでもホークスは、まったく気にする素振りも見せずに、口元を幸せそうに緩ませていた。
「あーあ、昼が楽しみだなぁ」
「そう?」
「楽しみですよ。仕事の唯一の楽しみですもん」
そう言いながらホークスは、もう一度ブラシを滑らせる。髪がさらりと肩へ落ちる。最後に掌でそっと整えてから、満足そうに頷いた。
「その代わり、今日の夜は俺が作ります」
「ほんと?」
「はい。何食べたいです?」
問い掛ける声が、少し弾んでいる。料理をすること自体より『食べてもらう相手がいる』という事実が嬉しいのだろう。彼女は、ブラシの名残に目を細めながら小さく息を吐いた。それは、猫が喉を鳴らす寸前のような気の抜けた表情だった。その表情を見るたび、ホークスは思う。この人は自分の前では、こんな顔もするんだ、と。誰にも見せない無防備さを自分だけが知っている。それだけで胸の奥が満たされる。
彼は梳かし終えた彼女の髪をもう一度、指先で名残惜しそうに撫でて、耳にかけた。その流れのまま、その耳元へと、少しだけ身を寄せる。
「……夜、楽しみにしててください」
甘い囁きが耳を掠めると、彼女の肩がぴくりと跳ねた。その反応だけで十分、満足したらしく、ホークスは、いたずらが成功した子どものように目を細めて「じゃ、行ってきま〜す」と保冷バッグを受け取ると軽く手を振って玄関へ向かった。
扉が閉まる。すぐあとに外側から施錠する音が聞こえた。
(……やっぱり閉めるんだ。)
彼女は思わず小さく笑う。静かになった部屋には、さっきまでそこにいた男の気配だけが、まだ薄く残っていた。耳の奥にはあの低い声が残響のように留まっている。熱い——触れられた場所へ無意識に指先を添えると熱はもう引いているはずなのに、そこだけ体温が少し、高い気がした。
日常に溶け込んだ甘い毒。面倒だと思っていたはずの距離がいつの間にか当たり前になり当たり前だった一人の時間が少しだけ物足りなくなっている。それはきっと恋というよりも生活だった。
誰かが「ただいま」と帰ってきて「おかえり」と返す。「行ってきます」と出ていけば「いってらっしゃい」と見送る。そんなありふれた毎日が彼女の暮らしの真ん中に静かに根を下ろし始めていた。
*
九月の午後は、まだ夏の熱を名残として抱えていた。窓から差し込む陽射しは、強いままだが、空だけはどこまでも高く、季節が静かに、歩みを進めていることを教えてくれる。
彼女はデスクに向かったまま、積み上げられた書類へ赤字を入れていた。紙をめくる音と、キーボードを叩く音が交じる、いつもと変わらない、午後だった。そんな静けさを破るようにして隣のデスクから同僚が「ねえ」と、ひょいと身を乗り出してくる。その声だけで、嫌な予感がした。
「最近さ、やけに顔色いいけどなんかあった?」
鋭い観察眼だった。職場ではなるべく普段通りにしていたつもりだが、肌の艶や目の輝きだけはどうやら、隠せていなかったらしい。
同僚は、にやにやと笑いながら、さらに距離を詰めてきた。思わず、ペン先がぴたりと止まる。
「……そう?」
「そう。疲れてるはずなのに肌艶いいし、なんか機嫌もいいし」
じろじろと覗き込まれて、彼女は、苦笑した。恋人ができたことも生活が変わったことも、職場では出さないよう心がけていた。けれど毎日笑う時間が増え、誰かの帰りを待っている生活は案外簡単に人の表情を、変えてしまうらしい。同僚の口元が、にやりと吊り上がる。
「ははーん?もしかして、例の彼氏?」
「……」
「最近、幸せですって顔して歩いてるもんね?」
「まあ……実際、幸せなのよ。自分でもびっくりするくらい」
肩をすくめて笑って言い返すと同僚は目を丸くしたあと、堪えきれず吹き出して、無遠慮にも、けらけらと、声を立てて笑った。
「自分で言う!? そこはさ、もっと照れるとこじゃないのー?」
「照れても事実は変わらないし」
「あーっそ。で? 相手どこの部署?」
「内緒」
「公安? ヒーロー? 一般人?」
「それも、内緒」
かわされてもこんな事で諦める性格ではない。同僚はデスクへ肘をつき、すっかり昼休みの雑談モードになっていた。その証拠に、わざとらしく声を潜める。
「ねえ、それよりさ……どこまで進んだの?」
あまりにもストレートで、遠慮のない質問だ。配慮のかけらもない。彼女は思わず吹き出しそうになりながら、小さく肩を揺らした。
「そういうこと聞く?」
「聞く聞く」
「仕事中だけど?」
「だから、人がいない今なの」
同僚は周囲を確認すると、人がいないのをいいことにスカートの履いた足を豪快に広げて、また身を乗り出してくる。ずいぶんと、期待に満ちた目だった。
「……なんなの。その、期待に満ちた顔は」
「こっちの台詞よ。ニヤニヤしちゃってさ」
「してないから」
「してるしてる、顔が赤いですよ?お姉さん?」
完全に面白がっている。彼女は観念したようにため息をついて、視線をデスクへと戻した。
「ねえ、まさかもう、同棲してるとか言わないでしょうね?」
図星を突く嗅覚だけは一流だった。彼女の表情のわずかな変化を読み取ったのか、同僚の目が、きらりと光る。
「まあ……なんか流れで。一緒には、いるかな」
同僚が大袈裟に動いたことで椅子に足があたりがたんと、やや大きな音が響いた。一瞬、空気が止まる。
「え? 流れで……?」
「うん、流れで」
「ええぇぇぇっ!? いやいやいや! 流れって何!?」
「ちょ、声——静かに!」
慌てて彼女が口元へ人差し指を立てると、その声で同僚は、ようやく我に返ったらしい。口元を咄嗟に押さえたものの、興奮だけはまったく収まっていなかった。
「……え、本当に?」
「まあ……半分くらい?」
「半分って何よ」
「ほとんど、毎日来るから」
「それもう、半分じゃないじゃない!」
その勢いのまま、同僚は、両手で机を叩いた。廊下を通りかかった別の公安職員が、怪訝な顔でこちらを見ていたが、同僚は構わず、彼女に食い下がった。
「待って待って。整理するから」
「何をよ……」
「つまり——告白されました。付き合いました。気づいたら半同棲です。しかも、順調です、と」
一つ一つ、わざわざ、指を立てて状況を並べる同僚の声は、もはや、書類仕事のBGMとしては、不適切な音量に達していた。同僚はそこで彼女を見やる。
「……それさ。完全に外堀、埋められてない?」
その言葉に彼女は笑ってしまった。外堀——。なるほど、と妙に腑に落ちる。思い返せば恋人になる前から彼は少しずつ距離を縮めてきた。昼食を一緒に食べるようになり送り迎えをするようになり、休日を共有するようになり、いつの間にか部屋へ泊まり、歯ブラシが置かれて、着替えが、増え、気づけば生活そのものへ静かに入り込んできていた。
「まあ……そうかも?」
「でしょう?」
「本人いわく、八年前から埋めてたらしいから」
同僚の表情が固まった。「は?」とまばたきも忘れたように止まった。続けて「……八年?」とその数字をゆっくり噛みしめるようにして、繰り返した。どうやら頭の中で計算しているらしい。理解が追いつかない顔で『八年』という単語を、脳内で、何度も反芻しているのが見て取れる。
「ちょっと待って」
「ん?」
「八年前って、あんたまだ二十代前半でしょ?」
「そう、だね……」
「じゃあ、相手は? え、あの頃からずっと狙われてたってわけ?」
「……まあ、らしいね」
「うわー......執念深っ!」
言い方が物騒だった。「狙われてた」は語弊があるが、あながち、間違いでもないのが、厄介なところではあった。
あまりに必死な同僚の顔がおかしくて、思わず吹き出した彼女に釣られて、同僚も笑う。
「いやいや、笑い事じゃないでしょうが。そんな長期戦ある?」
「私も知らなかったんだってば」
「あんたは、ほら。鈍感だから」
「あー、それ言っちゃう?」
知らないうちに積み重ねられていた八年という時間は、恋人になった今でも、ときどき現実味を失う。あの七夕の夜、真っ直ぐに「好きです」と告げてきた青年は衝動で飛び込んできたわけではなかった。八年という歳月を誰にも見せず一人で抱えてきた末に、その一歩を、踏み出したのだ。そう思うたび、胸の奥が少しだけ、温かくなるのだった。
「もしかして、古株プロヒーロー?」
「……はい?」
「ベストジーニストとか?……あっ!イレイザーヘッド!?」
思いつくままに名前を並べる同僚へ、彼女は、書類をまとめながら、肩を揺らして笑った。
「まあ……あの二人は確かに、かっこいいね」
「否定しないんだ」
「そこは別に、否定するところじゃないでしょ」
同僚は腕を組み、うんうんと何度も頷きながらそれでもまだ、納得しきれない顔をしていた。
「あんた、とんでもない男に捕まったんだねぇ」
その表現も語弊がある。きっと『好かれた』という言い回しの方が正しい気がする。もっとも、彼の発言を思い返せば『捕まった』という表現もあながち的外れでもなかった。蚊も殺さないような笑顔を貼り付けて『地の果てまで殺しに行きますよ』と、平然としてヴィランに言い放つ男だ。『別れたら、地の果てまで追いかけます』と言われているようなもの。
『別れないんで、大丈夫です』
と——あの真っ直ぐな蜂蜜色の瞳で、どこまで本気で、どこまでが冗談なのか分からない口調で言われた言葉を思い出して思わず、口元が緩む。
「ほんと……とんでもなく速くて、とんでもなく愛しい人かな」
その一言で十分だった。同僚は両手で顔を覆い椅子へと、ぐったりともたれかかって、溜め息を吐き散らした。指の隙間からじっと彼女を見る。
「うわぁ……惚気だ」
「別に惚気てないよ」
「惚気てる!しかも、無自覚だから質が悪いの。昔からそうだけどさらっと爆弾投げるのやめて」
「そんなつもりないけど」
「ないから質が悪いの!」
同僚が大げさに悶えてデスクを強く叩きながら騒いでいるとそばに置いてあった彼女のスマートフォンが小さく震えた。画面には見慣れた名前とアイコンが表示される。相手は、言わずもがな、ウィングヒーロー・ホークスだった。

今日、定時で終わりそうです?

夜ご飯、和食と洋食
どっちがいいですか?