翌日、午後二時。目を覚ました瞬間に、彼女は自分がずいぶん長く眠っていたことを身体の重さで知った。安アパートの薄いカーテンの隙間から昼の白い光が刃物のように差し込んでいて部屋の輪郭をやけに正直に浮かび上がらせていた。
 ベッドの中で手探りにスマホを探し出し結局、枕元に転がっていたそれを掴むと画面が点灯して通知がいくつか縦に並んでいた。昨夜の客からの事務的なメッセージが数件。それから、見慣れた名前がひとつ。時刻は午前十一過ぎ。


ホークス

起きたらでいいんで


ホークス

今日の夜空いてます?
マジで焼肉行きたい








ホークス

昨日ちゃんと帰れました?


ホークス

まあ帰れたか


ホークス

おはよう、名前さん








 送信時刻からして、朝のパトロールの合間か、終わってすぐのタイミングだろう。文面は相変わらず軽くいつもの調子で絵文字もスタンプもない素っ気なさ。それでも何通かに分けて送ってくるところが少しだけ引っかかった。ベッドのシーツには昨夜使った香水の匂いがまだ薄く残っていて喉の奥は、ずっと乾いている。



名前

今起きた


名前

焼肉いくー!
ヒーローのおごりね♡








 立て続けに送信して、画面を伏せるより早く、数秒と経たないうちに既読がついた。速すぎる男の反応速度は伊達じゃないらしい。間髪入れずに返信が、ぽんぽんと飛んでくる。



ホークス

おごり前提(笑)


ホークス

まあいいけど
俺の財布No.2なんで


ホークス

じゃあ夜6時に迎え行きます
いる場所、住所送っといて


ホークス

ちなみに今日行く店
ここでーす↓


ホークス

【URL】








 テンポの良さだけは妙に業務連絡じみているのに最後に添付された地図のピンがそれを少しだけ裏切っていた。人目につきにくそうな店。あえて選んだ場所だということは考えなくても分かる。
 彼女はスマホを握ったまま、天井を見上げる。染みの浮いた白がぼんやり広がっていて、午後の光は容赦がない。体のあちこちに鈍い疲労が残り昨夜の痕跡をまだ、抱え込んでいるのが分かる。返事の代わりに窓から撮った空の写真を一枚だけ送った。雲ひとつない無意味なくらい澄んだ青。そして、少しして返事が届く。



ホークス

いい天気


ホークス

てか寝てないでしょ








 それだけ。絵文字もスタンプも、余計な言葉もやはりなかった。ただ見透かすような一言だけが画面に並んでいる。余計な飾りがない分、それが妙に胸に残ってしまう。



名前

寝たよ。
泥のように








 送信してから今度は既読がつくまでに少し間が空いた。その隙に画面を伏せてシャワーを浴び、他人の気配をすべて洗い流す。その間、スマホは沈黙したままだった。一時間ほど経ってようやく一言だけ届く。



名前

寝たよ。
泥のように


ホークス

泥のように(笑)








 それ以上は、何も来なかった。彼なりの了解の合図なのか、あるいは、画面の向こうで何か別のことに、気を取られたのか。どちらにせよ、追及しないという判断だけは明確で、それが彼なりの距離の取り方だった。


 *


 午後はいつも通り何も生まないまま過ぎていった。コンビニのおにぎりを頬張りテレビもつけずスマホの中のゲームの音だけが、部屋に満ちる。
 午後五時。クローゼットの前に立って少しだけ迷う。夜に会う相手がヒーローだという事実が、選択を鈍らせた。今更ながら妙な緊張感がある。いつもは客に合わせて服を選ぶ。今日は誰のためでもないはずなのに鏡の前では、首を傾げている自分がいた。
 午後六時、五分前。支度を終えてベランダから外を覗くと、遠くの空に赤い点がひとつ見えた。鳥にしては大きすぎるそれは、一直線にこちらへ向かってきて、あっという間にアパートの上空に到達し、速度を落としながら裏手の路地へ降りていった。時間ぴったり。階段を降りると、路地の行き止まりに、ホークスが、壁にもたれて立っていた。ヒーロースーツのまま髪は少し崩れ前髪が数本落ちている。仕事終わりの姿だ。手にはコンビニの袋が下がっていて、缶ビールが二本、薄く透けて見えた。彼は彼女に気づくとぱっと表情を明るくする。袋を持ち替え、空いた手で壁を軽く叩く。

「お、来た来た。はい、とりあえず予行練習」

 ホークスは袋から一本取り出し、差し出される缶を、彼女が受け取る。

「王子様かと思った。もしくはアラジン」
「アラジン?俺、ランプ出せない側なんすけど」

 軽口を叩きながら、彼の視線が一瞬だけ彼女の全身をさらりとなぞった。値踏みというほど意識的なものではなく、呼吸の合間に落ちてしまったようなほとんど反射に近い視線だったのだろう。すぐに彼は目線を戻し、いつもの軽い笑みを貼り付ける。その切り替えの早さが、かえって彼女の胸に、小さな引っかかりを残した。

「あなたがアラジン役って意味で言ったの」

 言われた瞬間、ホークスは、きょとんと瞬きをした。数拍遅れて意味が追いついたのか、口元がゆるく歪む。

「ああ、ランプの魔人じゃなくて、魔法の絨毯で迎えに来る王子様のほうね」

 彼は壁から背中を離し、わざとらしく胸に手を当てる。

「光栄です。でも俺、王子様って柄じゃないでしょ。せいぜいアブーがいいとこじゃないです?」

 ホークスは喉でくくっと笑った。そのまま歩き出す仕草は、ずいぶんと軽い。

「さ、行きましょ。腹減って死にそうなんすよ。今日、パトロール中に屋台の匂い嗅いじゃって、あれ、拷問でした」
「食べたらよかったじゃん」
「勤務中に焼きとうもろこし頬張ってたら、エンデヴァーさんに怒られるでしょ。事務所の前だったんすよ」

 ホークスはそう言いながら肩をすくめた。その光景を想像したのか、自分で言って、自分で吹き出している。

「なんか……エンデヴァーに失礼だよ、それ」
「だって、あの顔で見られてたら無理ですって。落ち着いて食えない」
「……好きだねえ、エンデヴァー」

 ホークスは笑いを止めて横目で彼女を見ると、少しだけ楽しげに眉を上げる。

「好きっていうか、面白い人なんすよ?あの人。天然で真面目すぎて、逆にギャグ」

 そう言いながら赤い翼を小さく広げ、羽ばたきひとつ。ふわりと体が浮き、彼女の手首をそっと掴む。気づいたときにはもう横抱きに抱えられていた。慣れた要領、手慣れた動作。

「しっかり掴まっててくださいね、お姫様」
「ジャスミンでーす!」

 その呼び名に、彼女を抱えた腕へ一瞬だけ力がこもった。ホークスは「言うねえ」と低く呟いてビルの隙間を抜けて、夕暮れの名残をまだ抱えた空へいつもよりも少しだけ高く飛ぶ。風は冷たくけれど、やけに澄んでいて肌を撫でる感触が心地いい。
 足元には夜景が広がり始めていた。まだ完全に暮れきっていない空の端がオレンジと紫のグラデーションを残していて眼下の街は昼と夜の境目で呼吸している。ネオンが点き始める時間帯。彼女がいつも向かうあのビルも今夜また灯りを抱えるのだろう。すると、前を向いたままホークスが、ぽつりと言う。

「ジャスミンかあ。いい匂いしそうだもんね」

 その声は何気ない調子だったが風にかき消されないぎりぎりの音量で、わざと耳元に落とされたようにも聞こえた。

「いい匂い?」
「そ。いー匂い」
「す・け・べ!」

 彼女がわざとホークスの耳元に近づいて言えば彼は声を上げて笑った。体が揺れて、危うくバランスを崩しかける。

「ちょ、笑わせんで! 落ちるって!」

 焦ったような言葉とは裏腹に、速度は落ちず、むしろ楽しそうに高度を上げる。その瞬間、街の光が一段と近づいた。

「その言葉、今どき聞きます?死語じゃなか?」
「まだギリギリ生きてますぅ〜」

 ホークスは笑い涙を目尻に浮かべたまま彼女を見下ろした。その表情は、昼間の作り物みたいな笑顔とは少し違っていて、どこか無防備だった。
 やがて、目的の焼肉店が見えてくる。路地裏に面した小ぢんまりした店で筆文字の看板が静かに揺れている。派手さはないが、煙突から立ち上る煙が否応なく食欲を刺激する。

「ここタン塩がさ、めちゃくちゃ美味いんすよ。あと、カルビとハラミも外せない」

 彼は慣れた動きで裏手の駐車場の陰に、すとんと降り立った。着地すると同時に、背中の剛翼を畳む。その流れで店の前まで歩いて行き引き戸に手をかけて、ふと振り返る。

「……ていうか、その服」
「ん?」
「いいじゃないすか、似合ってる」

 それだけ言って、彼は、がらりと戸を開けた。暖簾をくぐった瞬間、炭の焦げた匂いと換気扇の唸りが一気に押し寄せた。日常の温度が、二人を包み込む。

「おじさん、二人で」

 短く告げると店主は手元の作業を止めもせず、「奥、座敷空いてる」と顎でしゃくって示した。二人は靴を脱ぎ、年季の入った木の廊下を軋ませながら奥へと進む。掘りごたつ式の小上がりは、壁に染みついた煙の匂いと長年ここで交わされてきた会話の残響を、そのまま溜め込んでいるようだった。向かい合って腰を下ろすと、ホークスはメニューを開くこともなく慣れた指つきでタッチパネルを操作し始めた。迷いがない。画面を見つめる横顔から、この店が、彼の日常の延長線上にあることが、自然と伝わってくる。ビールを二つ注文し終えると、彼はおしぼりで指先まで丁寧に拭いながら、ふと顔を上げた。

「名前さん、昨日から何も食べてないでしょ」

 言い切りの断定だった。質問や問いかけというより彼の中ではすでに確認済みの事実を口にしただけの調子だ。彼女は、おしぼりを畳みながら、曖昧に鼻を鳴らす。

「とりあえず眠りたくてさ」
「でしょうね」

 それ以上理由を掘り下げようとはしなかった。ちょうどそのタイミングで店員がビールを運んできて、厚手のジョッキが低い音を立てて、卓上に置かれる。彼は自分のグラスを持ち、彼女の方へ軽く寄せた。

「じゃあ今日は、ちゃんと食べましょ。痩せたら俺が困るんで」

 冗談めいた口調の奥に、彼女はほんのわずかな本音を感じ取った。彼女がジョッキを手に取るのを待って、乾杯を促すようにグラスを持ち上げ、にっと笑って、そのまま動きを止めた。

「かんぱい」
「……かんぱい」

 こつん、と、ジョッキが触れ合い、低く澄んだ音が鳴る。彼は一口目で半分ほどを喉に流し込み息を吐いた。そのまま間髪入れずにタン塩、カルビ、ハラミを追加注文する。流れるような所作は空腹を待たせないための、配慮にも見えた。肉が来るまでのあいだ、ビールの泡はゆっくりと形を崩していく。厨房から聞こえる音と換気扇の低い唸りが沈黙を不自然にしない。
 ホークスは早々に二杯目のビールを頼み、壁にもたれて天井を仰いだ。視線はぼんやり換気扇の羽根を追っているが意識はどうやら別のところにあるようだった。それを察したようにジョッキを置いた彼女が口火を切る。

「ねえ、見たよ? モデルとの密会報道ー」

 彼女の声に、ビールを口に運びかけた彼の手がぴたっと止まった。ジョッキを持ち上げたまま、ほんのわずかに固まり、それからゆっくりとテーブルに戻した。目線だけで彼女を見て、次にまた意識を天井へ逃がすと「あー」と、頭の後ろをがりがりと掻いた。

「あれね。違うんすよ、ほんとに。取材の流れでたまたま写真撮られただけで」

 言葉の端に苦笑が混じる。自分でも釈明じみていると分かっているのだろう。その証拠に、肩が少し落ちていた。

「ネットのコメント欄、えぐかったでしょ」
「まあね。向こうはインスタで好きアピール全開だったけど」

 彼はあからさまに顔をしかめて、うへえ、と、短く息を漏らした。

「やっぱり?通知切っててもメンションばんばん飛んできてたから。さすがに目に入ってきてさ」
「へえ」

 ホークスはジョッキの中身を、ぐいっと一気に飲み干した。すると、空になったジョッキを置く音が少しだけその場に強く響いた。

「仕事中は普通なんすけどねぇー。ああいうのが続くと、さすがに疲れます」
「ヒーローなのに、芸能人みたい」

 その言葉に反論する前に、肉が運ばれてきた。彼は自然な動きでタン塩を網に並べる。じゅっと音を立てて煙が立ち上り炭の匂いが一気に空間を満たした。トングを操る手つきは手慣れていて、焼き加減を見極める視線には迷いがない。

「まあ、俺には名前さんがいるんで」
「私は、飲み友達枠でしょ」

 互いのさらりと口にした言葉が、煙の向こうで一瞬だけ重さを持つ。ホークスはタン塩を裏返しながら、自分の手元に視線を落としたまま「飲み友達ねぇ」と呟いた。そのまま焼けた一枚を彼女の皿に置き自分も一切れ口に運ぶ。そして、よく噛みしめてから、ようやく言葉を探すように口を開いた。

「まあ、そういうことにしときます」

 その言い方は肯定とも否定ともつかない曖昧な響きだった。ホークスは、次のカルビを網に並べながら、視線は肉に落としたままで、小さく息を吐いた。両耳の赤いピアスが換気扇の風に、ちらちらと揺れていた。

「まあでも。あれよ?」
「なんすか」
「そろそろ、借金——返せそう」

 カルビを裏返しかけたホークスの手がわずかに止まった。網の上で脂がはぜる音だけが続いて、「そう」と、声の高さがほんの少し落ちる。その変化を自分で察したのか、すぐに軽さを足して、言葉を重ねる。

「じゃあ焼肉の回数、控えめにしないとですね」
「……え? どうして?」
「だって。お祝いに奢る分、残しとかないとなくなるんで」

 そう言いながら、慣れた手つきで焼けた肉を、ひょいひょいと皿に移して三杯目のビールを注文する。通りがかった店員に、空のジョッキを差し出す横顔は笑っているのに、目の奥の温度だけがさっきと少し違っていて、なんだか、違う場所を見ているようだった。

「全部、返せたらさ……あんな店さっさと辞めてやるんだ」

 ホークスは、新しい肉を網に並べると、じゅうじゅうと立ち上る煙を眺めたままの声で「そりゃそうだ」と、短く当然のことのように返す。その言葉に含まれる重さを正確に量れるのはこの場にいる二人だけだった。彼は、トングで肉を丁寧に動かし続ける。焦がさないように、けれど自分のペースは崩さずに。
 彼女が、借金を返し終えたあと——。夜の街に立つ理由がなくなったあと。その先の話題には、どちらも触れない。網の脂が炎を上げ、一瞬だけ明るく燃えてあがって、すぐに消えた。

「笑っちゃうよね。ヒーローだって、嘘ついてたヴィランに騙されて借金、肩代わりしてさ」

 その言葉にホークスは音も立てず怒りとは違う静けさでトングを脇に置いた。そして目を伏せたまま、言葉を返す。

「嘘ついてたヴィラン、ね」

 そのままビールのジョッキを両手で包み込み、琥珀色の液体を見下ろす。そうして顔を上げないまま、声だけが続く。

「俺は、知った上で払ったんすよ。騙されたわけじゃない」
「……」
「あのとき、あの金がなかったら名前さんがどうなってたか考えるだけで、寝れなくなるんで」
「……ありがとう。それに捕まえてくれた。あのヴィランを、ヒーローホークスが」

 その言葉で、ようやく彼は顔を上げた。戻ってきたのは、いつもの笑みだった。

「当たり前でしょ。No.2舐めんでくださいよ」

 ホークスは少し誇らしげな顔をして、ビールを一口飲み、また、何事もなかったように網の上の肉を裏返す。

「それに、名前さんが情報くれたから捕まえられたんだしさ。共同作業」
「感謝してもしきれないよ。欲しいもの、ない?借金返せたらお礼させて」

 焼けた肉を彼女の皿に置きながら彼は「んー、欲しいものねえ」と唸って少しだけ考える素振りを見せて天井を仰ぎ、指を折るふりをする。その仕草が冗談なのか、本気で考えているのかいないのか、判然としなかった。

「じゃあ、飯で。借金返したあとも、たまに飯、付き合ってくださいよ。それでいいです」

 さらりと言ってホークスは手元のビールに口をつける。まるでそれは、取るに足らない、願いのような口調だった。

「今と、そんな変わらないじゃん」

 その返しに、ホークスは思わずぶっと吹き出し慌てて口元を手で押さえた。

「……まあ、そうとも言いますね」

 誤魔化すように咳払いをしてビールジョッキを置き、少し照れたように首の後ろを掻く。視線は自然と網のほうへ落ちた。肉はもうすっかり焼き上がっている。沈黙が降りたが、不快なものではなかった。炭火の匂い、換気扇の低い音、どこかの席からこぼれる笑い声。そうしたものに包まれたぬるい夜の時間。
 ホークスは空になった網の端をぼんやり見つめ何か言いかけては飲み込むという動作を、絶えず繰り返しているようだった。

「でもさ。こうやって、助けた人と仲良くなってご飯行ったりするタイプなの?ホークスって」

 彼はアルミホイルで網をがしがしと擦りながらしばらく黙っていた。やがて手を止め、顔を上げる。その顔は、笑っていなかった。目も口元も。彼には珍しい、飾りのない表情だった。そして、ぽつりと声を落とすように言った。

「行かないっすね。普通は」
「ふーん」
「後処理して報告書書いて、それで終わりです。それ以上、関わる理由ないでしょ。俺には」

 また網の掃除を再開し、今度は視線を伏せる。次の言葉が出るまで、少しだけ時間がかかった。

「でも……名前さんは、なんか。放っとけなかったんすよね。理由は分かんないけど」
「うわ、出た。無自覚で人を誑かす系ヒーロー」

 彼女の明るげな声音にホークスは、ぱっと顔を上げて、隠す気もなく、口をへの字に曲げる。

「誑かしてないでしょ!真面目に言ってるんですからね!?」

 ばんっと演技っぽくテーブルを軽く叩いた音で店員がちらりとこちらを見る。ホークスは小さく「すみません」と頭を下げ、ふん、と鼻を鳴らした。しかし、耳だけでなく、首元まで赤くなっていることに、きっと本人だけが気づいていない。

「ホークスのそういうウブなとこ、好きよ」
「す……っ! ぅ、ぶ……」
「そう、ウブ♡」
「ゃ、やめてくださいよ、そういうの……天下のアラジンに、めちゃ失礼です」
「おお〜? 言うねえ」

 ホークスの首の赤みがさらに広がって、顔まで染まった。慌てて、追加のビールを頼もうとしてタブレットを持ち上げた手が僅かに震えていた。酔いのせいにするには、まだ少し早い時間帯だ。
 トップヒーロー��速すぎる男�≠ヘたった一言の「好き」で、見事にペースを乱されていた。敵の攻撃には即座に反応できるのにこういう不意打ちにはまるで、耐性も免疫もない。自覚があるのかないのか、タブレットを睨む目は、文字をまるで追っていなかった。彼女は何も言わず、ただ楽しそうにそんなヒーローを眺めている。その視線に気づきホークスがちらりと目を上げる。その瞬間ばちりと視線がぶつかった。

「……何すか、その顔」

 ホークスは、居心地悪そうに目を逸らし、結局ビールは頼まず、水を注文していた。喉の渇きが酒のせいではないと、自ら察したのだろう。水が運ばれて来て、グラスを一気に半分ほど空ける。ふう、と長い息を吐いてから観念したように彼女を見る。首や耳の赤みは引いていたが、いつもの余裕はどこかに置いてきたらしく、ひどく泳いだ目をしていた。

「……性格、悪いっすよ。ほんと」
「可愛いんだもん。あんたが」

 水のグラスを握ったまま、ホークスはしばらく固まっていた。言葉の意味を測るように、時間が身体の内側で止まる。それから、肩の力が抜けたみたいに、ふっと小さな笑みがこぼれた。

「可愛いって言われたの初めてかも。かっこいいなら……まあ、腐るほど言われますけど」

 彼はグラスの外側についた水滴を指先でなぞりながら誰に聞かせるでもない独り言のような調子で続ける。

「名前さんにだけっすよ、俺、こうなんの」
「へえ」

 短い相槌だった。それが逆に、妙に重たく胸に落ちる。興味がなさそうで、でも、聞いていないわけじゃない。距離を詰めすぎず離れもしない、その間合いにホークスは弱かった。水をもう一口飲み、喉を鳴らす。背筋を伸ばし、ようやく平静を取り戻したらしい。いつもの軽さを、薄く貼り直したような笑みを浮かべる。

「……さて。デザート、いきます?ここの杏仁、うまいんすよ」

 話題を切り替えようとする手つきは、あまりに分かりやすかった。メニュー画面を開いて彼女に見せようとする指先がまだほんの少しだけ震えている事を本人は必死に隠しているつもりらしい。

「いいねえ。杏仁豆腐すき」

 彼女があえて突っ込まずに、顔をぱっと明るくさせるとその反応にホークスは露骨に安堵した。

「でしょ。普通のがおすすめ。あ、白玉ぜんざいもありますよ」

 嬉しそうに、画面をスクロールして見せるその勢いは、先までの微妙な空気を帳消しにしようとするかのようだった。結局、二人とも同じものを頼み、器が並んで、テーブルに置かれた。優しい甘さが、アルコールの余韻を静かに流していく。ホークスは、スプーンで杏仁豆腐を掬いながら、ふと思い出したように口を開いた。

「あ、そうだ。来週の土曜、空いてます?」

 何でもない調子を装っているがスプーンを持つ親指が、落ち着きなく動いている。

「……土曜? 何時くらいだろ?」

 彼女は味わうようにわざとゆっくり杏仁豆腐を口に運んでから聞き返す。

「夕方過ぎ。今日みたいに、六時くらいとか」
「……」
「新しい水炊き屋できたらしくてさ。ちょっと、チェックしに行こうかなと」

 ホークスはスプーンで器の縁を、こつこつ、と軽く叩く。「一人で」とも「一緒に」とも言わない。ただ、時間と場所だけを差し出して、判断は彼女に委ねる。押しつけがましくならないようにそれでいて断られるのが怖い、不器用で、誠実な誘い方だった。彼女はスプーンを口から離して、しばらく黙ってホークスを見る。換気扇の音と、遠くの席の笑い声が間を埋める。

「……水炊きかあ、いいね」

 彼女が楽しそうに少しだけ口角を上げる。その一言にホークスの表情が、一瞬で緩んだ。勝ったとか、負けたとか、そういう話じゃない。ただ、胸の奥に溜まっていた何かが、静かに落ち着いた顔だった。

「でも、ごめん。仕事だ」

 スプーンを持つ手が止まった。彼は何も言わずほんの一瞬だけ、瞬きをした。間が落ちる。その短さを誤魔化すように、すぐに口角を上げる。

「あー、そっか。土曜だもんね」

 いつも通りの軽い笑みだった。声の調子も変わらない。ただ、スプーンは器の中に戻されたまま杏仁豆腐をゆっくりと、かき混ぜるだけになっている。白が少しずつ、形を失っていくのを見つめながら一口掬って、口に運んだ。何でもない顔を作るのだけは、本当に上手い男だった。

「残念。じゃあ日曜は?」

 軽く、自然に。逃げ道を用意するように防線を張るみたいにしてもう一つ、選択肢を差し出す。彼女はもう一度、杏仁豆腐を口に運んで「ん」と小さく喉を鳴らしてから「ごめん。仕事」と短く言葉を返した。

「了解。じゃあまた、別の週にしましょ」

 あっさり引く。未練がましく粘らない。それが彼女にとって、負担にならない距離だと分かっているから。深掘りしない。聞く権利がないことを彼はちゃんと理解している。ただ、器の中の杏仁豆腐だけが崩れて、形を失っていくだけだ。

「ホークスが、利用してくれたらいいのになぁ」

 形を崩した杏仁豆腐を掬うスプーンがかちゃんと器に当たって、小さな音を立てる。ホークスは顔を上げた。真正面から彼女を見やる。蜂蜜色の目には先ほどまでの軽さが一切なかった。冗談を排した、まっすぐな視線。

「それだけは無理」

 声は低く、静かだった。怒りではない。もっと奥——腹の底から出てくる種類の重さ。

「金払って隣に座る関係になったら、俺もう名前さんのこと守れなくなる。そういう線引き」
「……はぁーい」

 間延びした返事が、座敷に落ちる。それきり、二人の間に、沈黙が降りた。換気扇の一定の音。どこかの席から、絶えず聞こえる笑い声。完全に崩れてしまった、杏仁豆腐。夜はまだ続いているのに、このテーブルだけ時間がゆっくりになったみたいだった。ホークスはスプーンを置いて水を一口飲む。喉を鳴らしてふっと息を吐くと表情がほんの少しだけ和らいだ。

「……ごめん。重い空気になっちゃいました」
「……ううん?」
「会えない分、今日はちゃんと食べてください」
「奢りだもんね」

 彼女が言うと、ホークスは思わず吹き出した。ふと、指先で器についた水滴をなぞる。

「ちゃっかりしてるなあ」

 文句を言いながら財布を取り出す。その口元は今はもう、ちゃんと笑っていた。

「飲み物でもデザートでも。好きなだけ、頼んでください。俺はもう杏仁で腹いっぱいなんで」

 そのとき、彼女のスマホが震えた。テーブルの上で低く唸る振動。画面の光が彼女の表情を一瞬だけ白く照らす。彼女は画面を見て表情を曇らせた。送り主の名前が一瞬だけ視界に入る。見覚えのない名だった。ホークスからも笑みが消える。何も聞かない。ただ、視線だけが鋭さを帯びた。背中で羽が一枚、かすかに震えたことに彼自身は気づいていない。

「ホークス。帰り、送ってもらえる?」
「もちろん」

 彼女の言葉に彼はすぐに立ち上がった。会計を手早く済ませ、先に立って彼女を待つ。さきほどまで漂っていた柔らかな空気は引き、そこにいるのは仕事の顔をしたヒーローだった。余計なことは聞かない。その選択を、彼は迷いなく取る。

「店まで、お願い」
「了解」

 ホークスは、一瞬だけ目を細め、それでも何も言わずに頷いた。店を出て裏口の駐車場へ。翼を広げて彼女を抱え上げる手つきは丁寧でその力に迷いはなかった。

「どこすか」
「今日は、いつものとこ」
「オッケー」

 短いやり取りのあと彼は夜空へと飛び上がる。街灯が下を流れ、光の帯が途切れ途切れに視界を横切る。彼女は、送ってもらう先を決めていた。仕事のある日は店、ない日は自宅。今日は、店。つまり、これから彼女の『仕事』が始まる。
 二十二時を過ぎた繁華街はネオンに満ち、彼はその隙間を縫うように飛ぶ。腕にわずかに力がこもったことに、彼女は気づいただろうか。彼女の手は、スマホを握りしめたままだった。先ほどの着信の主。用件。考えているのか考えないようにしているのか。
 夜風が髪を攫う中で、彼女の体温がいつもより低く感じられるのは、気温だけのせいではない。彼は、黙って飛び続ける。聞きたいことは多い。けれど、今それを口にするべきではないことも、分かっている。代わりに、飛ぶ速度をほんの少し落とした。急がなくていい。目的地に着くまでの時間を、少しでも引き延ばすために——。

「風、気持ちいいねー」
「っすね。風呂上がりみたいで最高でしょ」
「お風呂上がりねー。たしかに」

 彼女の声にちらりと視線を落とす。声は穏やかだった。彼女が作った明るさに、彼も合わせる。それが、正解かどうかは分からない。ただ、今はそれしか選べなかった。
 眼下に見覚えのある通りが近づいてくる。彼女の店がある一帯。看板の光が夜を裂くように並びその中のひとつへ向かって彼は静かに高度を下げ始めた。時間だけが正確に、残酷なほど淡々と、進んでいく。

「……ねえ、怒ってる?」
「怒ってないですよ」

 声は静かだった。夜気に溶けるような低さで、感情を押しつける響きはない。
 高度が下がりきる前にホークスは、小さく首を横に振った。それは控えめな動きだったが迷いのない動きでもあった。

「ただ……さっきの電話の相手が名前さんを困らせる人だったら。俺、たぶん黙ってはいられないかも」

 それは、怒りではなく、宣言に近かった。声を荒げるわけでも正義を振りかざすでもない。ただ自分がどうする人間かを淡々と示す言葉。

「それ、怒ってないって言える?羽根、逆立ってますけど?」

 言われて初めて、彼は自分の背中に意識を向けた。赤い翼が大きく広がり、夜の空気を切り裂くように張りつめている。ホークスが、ばつが悪そうに片手で撫でつけると羽はようやく静まった。

「……あー。無意識っすね。すんません」

 地上に降り立ち、彼女をそっと下ろす。翼は、きちんと畳まれているのに、彼の目だけはまだ、鋭さを失っていなかった。ネオンの光が、金髪を染めて、蜜色の瞳をいつもより暗く、深く見せている。彼女は彼の前に立ったまま何も言わない。スマホを握りしめた指は強く画面はもう沈黙している。店の入り口から漏れる暖色の光が、背後で揺れていた。中では、誰かが彼女を待っている。現実が、すぐそこまで来ている。
 彼は、その光を一度だけ見てから目を閉じて、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。 

「行ってらっしゃい」
「ん、いってきます」

 いつも通りの言葉。軽くて、優しくて、何度も繰り返してきたはずの挨拶なのに、どこか今日は区切りのようにも聞こえる。彼は、ポケットから手を出し、ひらりと振った。けれど、その動きが途中で止まり視線が彼女を捉えたまま離れない。

「……ん?」
「……いや、じゃあ」
「うん、じゃあね」

 彼女はふっと笑った。今度は作り物ではない、目元まで柔らかくなる、やさしい笑みだった。

「また、連絡して——っ」
「……はいはい」

 彼女が背を向けて、歩いていくのを見届ける。その姿が扉の向こうに消えるまで彼はその場から動かなかった。彼女の姿が完全に見えなくなってから、ようやく空を見上げた。星はない。都会の空はいつも曇っているみたいに光に塗り潰されている。息が詰まるほど暗いのに、何も映さない。
 ホークスは剛翼の一枚に微かな振動を乗せる。周囲に散らしていた偵察用の羽が、応えるように震えて、繁華街の音を拾い始めた。
 何かあったときのために——それだけだ。それ以上のことはしない。それしかできないと自分で線を引いているから。


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