翌日の七夕当日。時刻は、六時半を少し回った頃だった。雲ひとつない青空が街をまだ柔らかな光で包んでいる。ホークスは約束どおり、彼女の住むマンションの前へと降り立った。背中の赤い翼を畳み、周囲を見回す。
朝の住宅街は思った以上に静かでその静けさを破るように二階の窓がそっと開いた。住人らしい女性が顔を覗かせ、次いで向かいのベランダからも視線を感じる。現役トップヒーローが住宅街へ降り立てば目立たないはずがない。ホークスは、慣れたように苦笑して、小さく、会釈を返した。
すると、エントランスから姿を見せた彼女が、笑顔で手を振ってこちらに向かって歩いてきた。それに対してホークスも、自然と笑って肩をすくめる。
「おはよう。寝坊しなかったんだね、珍しい」
「おはようございます。今日はさすがにちゃんと起きましたよ。迎えに来るって約束でしたし」
「そっか。あ、見て見て。ネイル」
彼女がそう言って、手先を差し出した。視線が自然と指先へ落ちる。淡い青を基調にしたグラデーションに金色が散りばめられ、朝日を受けて、小さくきらめいていた。どうやらセルフらしい。そこまで派手ではない。けれどそれは季節を指先へと閉じ込めたような色合いで、思わず、笑みが漏れる。
「……へえ。綺麗ですね」
「七夕っぽくしてみたの」
「すごい似合ってます」
飾らない言葉だった。口にしてから、自分でも少しだけ驚く。昨日の別れ際ほど動揺はしない。朝の空気が、頭を冷やしてくれたのか、それとも一晩眠って、気持ちを整理できたのか。理由は、分からなかった。ただ、今日はちゃんと笑えた。
ホークスは彼女を見下ろし、少しだけ、口角を上げて言った。
「——で。俺には何もないんですか」
「なにが」
「ほら。いつもの褒め言葉とか」
彼女は「んー」と、少しだけ斜め上を見遣って肩から掛けていた鞄をごそごそ探り小さな何かを取り出し、「じゃあ、これ」と、ホークスの掌へ乗せる。それを見て彼は怪訝そうに目を細めた。
「……アヒル?」
「鳥じゃん。仲間でしょ」
彼女は悪びれもなく笑った。掌の中の、黄色いプラスチックの小さなアヒル。首には赤いリボンまで巻かれている。どう見ても、ペットボトルか何かのおまけだった。ホークスは苦笑する。
「鳥っちゃ鳥ですけど……これ、スマホにつけろってことですか」
文句を言いながらも、手は止まらない。器用にストラップをスマートフォンへ通す。ちゃり、と軽い音が鳴る。トップヒーローの持ち物にしてはあまりにも似合わない、安っぽいアヒルが一羽、ヒーロースーツの胸元からぶら下がった。絵面としては、完全にふざけている。だが、彼女からの贈り物でもある以上、無碍にもできない。
「似合うじゃん」
「どこがですか」
抑揚をつけてため息を吐きながらも、外す気はないらしい。それでもホークスは肩をすくめる。
「……まあ。せっかくもらったし」
「うん?」
「もらっときます」
「あら、素直」
その一言への返事の代わりに、ホークスは翼を広げた。赤い羽根が、ふわりと二人を包み込む。ほんの一瞬だけ、朝日を遮るように翼が重なり、それだけで彼女を抱き寄せた。
「素直にさせてんの、誰だと思ってるんですか」
苦笑混じりにそう言ってそのまま彼女を軽々と抱え上げた。通勤途中の会社員が思わず立ち止まり、目を丸くしている。誰かがスマートフォンを取り出した気配もした。そんな視線には、慣れている。ホークスは、地面を蹴るように翼を打ち、青空へ舞い上がった。街並みが、ゆっくり足元へ遠ざかっていく。そんな中で、風に乗せるように彼女が言う。
「そういえばさぁー?」
「はーい?」
「今教育してるホークスの後釜の子ね、結構いい感じだよ〜」
その瞬間だった。背中の翼のリズムがわずかに乱れる。しかし「……後釜?」と、聞き返す声は穏やかなままだ。
「誰です?それ」
「十五歳。炎系の男の子」
彼女は、空を見ながら続ける。ホークスの表情から、笑みが消えた。その数字と個性だけで胸の奥が小さく疼く。彼女を見下ろす目にさっきまでとは違う色がある。
「十五……。炎、ですか」
短く繰り返す。頭の片隅に昔の記憶がよぎった。十五歳。炎——その二つの言葉は彼にとって偶然として片づけられるほど軽いものではない。ホークスは彼女を支える腕の力をほんの少しだけ確かめるように入れ直し、片方の手で顎へ指先を添えた。考え事をするときの、昔から変わらない癖だった。
「名前は」
「それは非公開」
間髪入れず返されて、ホークスは、小さく舌を鳴らした。公安の仕事である以上、それが正しいことくらい分かっている。それでも、妙に面白くなかった。彼女がこれから育てる十五歳の少年のことを、自分だけが知らない。たったそれだけのことなのに、胸の奥へ小さな棘が刺さる。公安という組織の実態をこういう時に思い知らされる。それでも彼はヘラヘラと、肩をすくめて笑う。
「ずっる。俺には守秘義務だなんだって情報くれんくせに、名前さんは見られるんですね」
「教育係の特権だからねー」
あっさりと言われてしまえば、それ以上は踏み込めない。公安に所属する以上、自分も、情報を守る側の人間だ。その線引きを破れと言うつもりはない。ただやはり、それとは別に胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
「いい子だから安心して」
その一言で、ホークスは、彼女の横顔を見る。安心しろと言われて安心できるほど単純ではないが、彼女は、人を見誤らない。少なくとも、彼はそう信じて、ここまで来た。十五歳だった自分を名前で呼び、人として、扱い続けてくれた人だ。その見る目だけは、疑ったことがない。
しばらく、じっと彼女の顔を見つめていたが、彼はやがて、ふっと力を抜いて、小さく笑った。
「いい子、ね……名前さんがそう言うならまあ、そうなんでしょうね」
完全に納得したわけではない。けれど、彼女の言葉を疑うほうが難しく彼女を信用する気持ちの方が、ほんの少しだけ勝った。
翼を大きく打ち、ゆるやかに、高度を上げる。やがて公安庁舎が見えてきて、ホークスは建物の前へ静かに降り立った。ふわりと、彼女を地面へ降ろす。けれど、胸に引っ掛かったものだけは、まだ消えなかった。「でも……」と声が少し低くなる。彼女がホークスの方に振り返る。
「気をつけてくださいよ。炎の個性で十五歳って扱いひとつ間違えたら、自分も周りも燃やしますから」
「……」
「大事故になる。そういう、年頃でしょ」
「……大丈夫、大丈夫。可愛い子だよ」
しかし彼女は、笑って手を振った。そうして、悪びれもなく、何でもないことのように続けた。
「二十歳になったら、私と結婚するって言ってるから」
その物騒な言葉とほぼ同時に、がっ!と、彼のつま先が縁石へ引っ掛かり危うく体勢を崩しかけた。転びこそしなかったものの背中の剛翼だけはばさりと逆立つ。
「……は?」
思わず素の声が漏れた。通りすがりの人が驚いてこちらを振り返る。けれど、そんな視線を気にする余裕は、どこにもなかった。鳥類が威嚇するときの反応と、ほぼ同じ速さだった。
「可愛いよねぇ」
彼女は、楽しそうだ。当の本人だけが、まるで笑えない。ホークスは、完全に足を止めた。額へ手を当て、大きく息を吐く。目が据わっている。そのままこめかみを押さえて、頭の中を整理するように言葉を選ぶ。
「いや、待って。ちょっと待ってください。整理させてください」
「ん?」
「十五そこそこのガキが、本気で名前さんと結婚するって宣言してるってことですか」
「『お姉さんは俺だと子供っぽくて嫌ですか?』だってさ」
ホークスはもう一度、深く息を吐いた。ぎり、と、奥歯を噛む音がして、笑顔が貼り付く。口角だけは、しっかり上がっている。けれど目の奥は少しも笑っていなかった。そうして、低く呟く。
「それ……俺の台詞パクってません?」
「んー、ちょっと違うんじゃない?」
「違うって?」
「ホークスは十七歳のとき、『二十歳になったら名前さんって呼んでもいいですか』って言ってたじゃない」
時間が止まる。ホークスの顔から、一気に血の気が引いて、次の瞬間、赤を通り越して紫に近い色になっていた。胸の奥へしまい込んでいた記憶を、不意打ちみたいに引きずり出された。
十七歳。新しいヒーロースーツを支給された日だった。ようやく胸を張って彼女の前へ立てると思えた日。周囲が番号やコードネームでしか自分を呼ばなかったあの頃、この人だけは、当たり前みたいに「鷹見くん」と呼び続けてくれた。
嬉しくて。照れくさくて。背伸びしたくて——あの頃の自分は、精一杯、大人ぶった顔でそんなことを口走った。本人としてはとっくに墓場まで持っていく予定の、黒歴史だった。
「なんっで——!なんで覚えてるんですか、そういうの……!」
今度は耳まで真っ赤になり情けない声漏れる。彼女は肩を揺らして笑うばかりだった。朝のヒーロー公安本庁前——それは、トップヒーローらしからぬ姿だった。剛翼だけが、恥ずかしさを隠すみたいに大きく広がり彼の背中をすっぽり覆っていた。
「あぁ、もう……。」
ホークスは両手で顔を挟むように抑えてうずくまった。それなのに。目の前の人は、ただの軽い思い出話をすみたいに、平然と掘り返してくる。「終わった……」と、指の隙間から、くぐもった声だけが漏れる。大きく広がった翼までしゅんと力を失って垂れ下がる。
「俺の十七歳、まだ生きてた……」
彼女はその様子を見て、小さく肩を震わせた。笑われている。分かっている。それでも今だけは顔を上げる勇気が出なかった。
「……消してください、その記憶。今すぐ」
「やだ」
「や——だ!?」
「だって、可愛かったもん。あれ、不覚にもさ。ちゃんと、キュンってしちゃったし」
立ち上がりかけたホークスは、その一言でまたしゃがみ込んでしまった。顔を覆ったまま、剛翼だけが、ばたばたと暴れている。赤い羽根が朝の歩道へ散らばりそうな勢いで揺れて、感情だけが制御を失っていた。恥ずかしさと、情けなさと、どうしようもない照れ臭さ。その全部が翼へそのまま表れてしまう。通勤途中の会社員が二度見をして、近くを通り過ぎる主婦が、足を止める。
「あら、大丈夫かしら」
「え、あれホークスじゃない?」
と、ひそひそと交わされる声が耳へ届く。だが今は、飛び立って逃げる気力すら湧かなかった。やがて、観念したように立ち上がる。金色の髪は乱れヒーロースーツの膝には薄く埃が付いていた。らしくない姿だ。それでも彼は、彼女だけを見た。
「……で。そいつ、には——」
「ん?」
「……キュンって、したんですか」
口を開いた声は震えていたが真剣だった。その震えが残る声で尋ねる。喉が乾く。彼女は、少しだけ首を傾げた。
「したら、嫌?」
その問い掛けは軽かった。けれど、彼に届いた瞬間、世界から音が消える。風も、人の話し声も車の走る音も、何も聞こえなかった。ただ、彼女だけが、そこにいる。
「……嫌です」
数秒の沈黙のあと、短く、それだけ。ようやく開いた口から零れたのは、なんとも飾り気のない言葉だった。けれど、その言葉に乗った感情は、これまで口にしてきたどんな軽口よりも重かったかもしれない。いつもの軽薄さも、照れたような誤魔化しもない剥き出しの声音。彼女は思わず、困ったように笑った。
「独占欲強いね、相変わらず……所有欲っていうのかな」
ホークスも、小さく笑う。だが目だけは少しも笑っていない。そのまま、自嘲するように、息を漏らす。
「相変わらずって……変わってないってことは、ずっとそうって、ことですよ」
彼女から、目を逸らさない。ずっと。昔から。十五歳の頃も。十七歳の頃も。そして二十二歳になった今も。名前なんて付けられないまま抱えてきた感情は少しも薄れてはいなかった。気付けば一歩、彼女との距離を詰めていた。見下ろす目は真っ直ぐだった。剛翼が自然とゆっくり、左右へ開く。威嚇でも、防御でもない。ただ無意識に、彼女を囲うような形になっていた。
「弟じゃ嫌です。……俺は」
その先を言えば、もう引き返せない。彼自身がいちばん、それを知っていた。しかし、彼女は、ぱっと表情を明るくする。
「あ、そうだ」
「……はい?」
「アイス食べながら出勤しちゃおっか」
開いた翼ごと、がくりと脱力した。人生で一番勇気を出しかけた言葉が、アイス一本で流されてしまった。彼女はもうコンビニの方へ歩き始めている。返事を待つ様子もない。
聞こえなかったのか。聞こえた上で受け流したのか。ホークスには分からなかった。数歩遅れて立ち尽くし、大きく息を吐くと、羽根が小さく、風に乗って揺れた。
「名前さん……」
届かないくらいの小さな声で名前を呼ぶ。それから苦笑して頭を掻いた。昔から、そうだった。この人には、本気で踏み込もうとすると、いつもするりと、かわされる。逃げられているわけではない。拒絶されてもいない。ただ届きそうな距離だけが、いつも絶妙に残される。その距離が苦しくて——。それでも、嫌いになれなかった。
ホークスは諦めたように肩をすくめて、彼女の背中を追い掛ける。
「……ガリガリ君でいいです」
結局ついて行く。懲りない男だった。あるいは懲りることを、自分に許していないのか。それが悔しいくらい、自然な動きだ。
コンビニでアイスを二本買い包装を開けながら並んで歩く。朝日に照らされた二人の影は、寄り添うように歩道へ長く伸びていた。傍から見ればごく普通の恋人同士にしか見えない。その曖昧さだけが当人たちには、いちばん遠かった。
公安本部のビルが見え始めて、エントランスが近づく。ガラス張りの自動扉の向こうでは、朝の慌ただしさがすでに始まっていた。出勤する職員たちが資料を抱えて足早に行き交い冷房の効いたロビーの空気が、開いた扉から流れ出してくる。その入口前に、一人の青年が立っていた。昨日、ロビーで書類を盛大にぶちまけていた、若い公安職員だった。彼女が彼を助けていた光景を、ホークスも目にしていた。
今日は髪も整えられ、皺ひとつないスーツ姿で腕にはクリアファイルを抱えている。二人の姿を見つけた途端、その表情が、ぱっと明るくなって足早に駆け寄って来る。
「おはようございます!先輩!」
「おはよう」
「昨日は本当に失礼しました!これ、今日の会議資料です!」
差し出されたファイルには『七夕キャンペーン企画』の文字。昨日の失敗を、取り返そうとでもするような、生真面目さが滲んでいた。彼女は、自然にそれを受け取り、柔らかく笑う。
「ありがとう、助かる」
その笑顔に青年も安心したように笑い返しもう一度、頭を下げて去っていった。その背中をホークスは、アイスの棒を咥えたまま見送る。昨日と同じ顔。昨日と同じ青年。それなのに今日の彼を見る自分の目は少しだけ違っていた。その視線にほんの少しだけ、昨日より冷たいものが混じっているのは、気のせいではないだろう。
「……
「実際、私が先輩だもの」
あえて声に出して、ぼそりと漏らすと、淡々と返ってくる彼女の声。ホークスは、アイスの棒を口から離す。
「そりゃそうなんですけど……」
「うん」
「名前さんって、年下が守備範囲でしたっけ」
「は? もう……何を言ってるの」
彼女が呆れたように笑う。また軽く流された。それだけのことなのに、胸の奥には小さく何かが沈んでいく。
保護される側と、保護する側。その境界線は、八年前から一度も、崩れていない。十五歳だった自分。教育係だった彼女。その始まりがある限り自分はいつまで経っても��保護対象�≠フままなのではないか。保護対象——その言葉がホークスの中ではずっと引っかかっていた。この構図が崩れない限り、対等には、なれない。わかっている。それでも、もし。もし大人になってから出会っていたら。そんな仮定には意味がないと知りながら考えずにはいられない。だからこそさっき自分は踏み込んだのだ。「嫌です」と口にした。けれど返ってきたのは、アイスを食べようという、笑顔だった。拒絶ではない。逆に受け入れでもない。その曖昧さが一番、苦しかった。
ホークスは、食べ終えたアイスの棒をゴミ箱へ放り込む。ちょうどそのとき別の公安職員が声を掛けてきた。
「あっ、ホークス! 名字さん!」
「あら、おはよう」
「おはよーございまーす」
「おはようございます。ホークス、この前お願いされていた資料、できましたよ」
その瞬間だった。胸の奥に沈んでいたものへ、蓋をするように、ホークスの表情が切り替わる。口角が上がる。目尻が、柔らかく下がる。誰もがテレビで知っている��ホークス�≠ェそこにいた。彼は慣れたように、人懐っこく笑って返した。
「ああ、助かりまーす。ありがとデス」
その笑顔に、職員もつられて笑った。誰にでも優しい。誰とでも同じ距離を保つ。それが、今の��ホークス�≠ニいうヒーローだった。だからこそ本心は見せない。見せないように、生きてきた。なのに彼女だけがその境界を何度も越えてくる。けれど、彼女自身はそこに、気付いてもいない。
そのまま職員の視線が、彼女に移った。自然な流れで仕事の話をする二人を横目に見ながら彼は一足先にエレベーターホールへと向かう。
「先、行ってまーす」
「え、あ……ちょっと」
慣れたように『△』のボタンを押して開くのを待つ。そうして、振り返らないまま、小さく声を落とした。
「短冊、ちゃんと書きますよ」
「え?」
「……願い事、決まったんで」
「え、ほんと?」
ちょうどそのタイミングでエレベーターの扉が開いた。ホークスは、少しだけ笑う。彼女が楽しそうに目を見開いている気配がして、彼はそこでようやく振り返った。
「はい」
「なんだろ〜。こっそり盗み見しようかな」
ホークスは少しだけ目を細めて「内緒です」と人差し指を唇に当てた。そこには、いつもの悪戯っぽい笑みが浮かぶ。けれど、どこか、切なさを滲ませていて、その奥には誰にも見せない静かな熱があった。
「見たら、本気で怒りますからね〜」
そのままホークスは、片手をひらひらとさせてエレベーターに乗った。扉が静かに閉じる。階数表示だけが、一つずつ上がっていく。
怒る、と言いながら、口元は笑っていて、隠すつもりのない秘密を抱えた人間の顔をしていた。その願い事は、隠したいから秘密なのではない。もし見られたら、この人には全部伝わってしまう気がしたからだった。
ロビーに残された彼女の隣で今まで仕事の話をしていたはずの若い女性職員が、ぽつりと呟く。
「……やっぱり、お似合い。」
彼女はその声を、聞こえなかったふりをして、小さく資料を抱え直し、自分もエレベーターへと向かった。
数分後。会議室へ入ると長机には色とりどりの短冊とペンが人数分、並べられていた。ホワイトボードには大きく、『第七回 七夕キャンペーン企画会議』と、書かれている。第七回。その数字だけで、この会議が毎年同じように揉めながらも続いてきたことが何となく伝わってくる。
眼鏡を掛けた公安職員が資料を配り終えると、淡々と説明を始める。
「今年は近隣区との合同開催。商店街にはすでに飾りを設置し一般来場者の願い事を集計中。上位三件は例年どおり商品化し、ヒーロー広報企画として展開する予定」
資料をめくる音が静かに重なり誰かが走り書きをするペン先の音だけが、会議室の空気を、細く震わせていた。
「ただし——今年は例年とは違う追加企画を一つ用意している」
職員は資料からふと目を上げると指先で眼鏡のフレームを押し上げ、集まった面々を、ゆっくり見回す。淡々とした説明が続く。
「本日、ホークスには市民向けの短冊配りパフォーマンスをお願いしたい」
「え」
「個性を使って風を起こし、短冊を空に舞わせる演出を予定している」
風を操って短冊を飛ばす。なんとも平和な仕事だった。拍子抜けするほどに。ヴィラン関連でも潜入任務でもない。ただ短冊を配り子どもたちの歓声を浴びるだけの仕事。ホークスは椅子に深くもたれるように体重を預けながら、わざとらしく「べっ」と、舌を出して、天井を見上げる。
「平和やねぇ……」
呟いてから視線だけを横へ流した。少し離れた端の席では、彼女が頬杖をつきながら資料を流し読みしている。話は聞いているのだろうがどこか退屈そうで、手の中のペンだけが、器用に指先を転がっていた。その何気ない仕草を見ているだけで、肩から力が抜け、口の端が緩んだ。この人は昔からそうだった。会議中でも講義中でも考え事をすると無意識にペンを遊ばせる。八年経っても変わらない癖を見つけるたび、不思議と安心してしまう自分がいる。
「——以上、何か質問がある者がいれば挙手を」
ホークスの沈黙を肯定と受け取ったのか職員は話を進める。周囲を見回すが誰も手を挙げない。毎年恒例なのだろう。反応の薄さに進行していた職員も慣れているらしく、呆れたように資料へと目を落とした。
ホークスは、小さく息を吐き、机の上の短冊を一枚、つまみ上げる。ペン先を滑らせる時間は、ほんの数秒だった。「はい」と、ひらりと短冊を持ち上げる。
「俺、書けました」
「……早いな。差し支えなければ読み上げてもらっても?」
「えぇ?」
職員のかけていた眼鏡の奥の視線がホークスに鋭く向いた。彼は、困ったように後頭部をかいたあと、にっと笑って短冊をくるりと裏へ返した。そこに書かれていたのは『ダメ』という、たった二文字。
「これは商品化しないでくださいね〜」
一瞬だけ会議室が静まり返る。ホークスのその軽い調子の物言いに、眼鏡の職員は眉を寄せた。
「……ヒーロー個人の短冊は、集計対象外だ」
「よかったぁ」
そう言って笑う。けれど、その二文字の意味を知っている人間は、この部屋にはいない。いや。一人だけいるかもしれない。ホークスは、短冊を指先で軽く弾きながら、端の席へと視線を送る。彼女は資料に目を落としたままで、こちら側を、見ようとはしない。
気付いていないのか。それとも気付かないふりをしているのか。昔から、その境界線だけは読めなかった。近くの席では若い女性職員が隣の席の同僚へと身を寄せて、小さく囁く。
「……絶対あれ、名字さん宛てですよね」
「しっ」
もう一人が慌てて制する。ホークスは、聞こえないふりをしたまま短冊の角をペンの尻でとん、とん、と軽く叩く。それから何でもない顔で立ち上がると空いていた椅子を引き、彼女の隣へ腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音に、何人かが、ちらりと視線を向ける。だが誰も何も言わない。彼は、そんな視線など意にも介さず、机の上からもう一枚、短冊を取ると、彼女の前へそっと差し出した。
「名前さんも書いてくださいよ」
差し出した短冊を指先で軽く揺らす。その口元だけが、愉しげに笑っている。
「ね、つまんなそうな顔してないでさ」
「どうしてわざわざ、こっちに座り直すのよ」
「いいじゃないですか別に。席空いてたんだし」
「……けっ。なんじゃそりゃ」
「ね、ね。せっかくならさ、本気の願い事、書いてくださいよ」
悪びれもせず笑う。窓の外では、夏の日差しが街の輪郭を白く滲ませていた。会議室には空調の低い唸りと、紙をめくる乾いた音だけが、淡々と流れ続けている。その中で誰かのスマートフォンが一度だけ短く震えた。ホークスも、ポケットの中の振動に気付いて画面を覗いたが、内容を確認するだけで、そのまま伏せる。今はそれよりも、隣の人が何を書くのかの方が、気になって仕方がなかった。彼女は肩をすくめて言い返す。
「……まったく、失礼しちゃう」
「ん?」
「ちゃんと聞いてましたけど?」
彼女はペンを持ったまま、ちらりと横を見る。ホークスはそんな彼女を疑わしげに目を細めた。
「ペン回しながら?」
「……よく、見てるね」
その言葉に、ホークスの喉が詰まる。しまったと、内心だけで舌打ちした。これでは自分から、見ていたことを、認めてしまったようなものだ。少し離れたの席では職員の一人が書く手を止めたものの、聞こえなかったふりを続けている。ホークスは、そこで咳払いをひとつ落とした。
「まあ……仕事柄ですって。視野広いんで」
苦しい。自分で言っていて、苦しすぎる言い訳だった。街全体を見渡すための目が遠くで器用に回る一本のペンばかり追いかけていたなど、到底プロヒーローらしい理由にはならない。しかし、その空気を切るように、隣の列から控えめな声が掛かった。
「ホークス」
栗色のボブ髪が揺れる。新人らしい緊張を隠せない若い女性職員が企画書を抱えたままこちらを向いていた。
「あの……短冊の飾り付けなんですけど。ハート型を増やしたらカップルの方にも喜んでもらえるかなって……」
「あー、いいと思いますよ」
ホークスはそちらへ顔だけをちらっと向けた。一応、機械のように営業用の笑顔は貼り付ける。
「イベントですし、写真映えもしそうですね」
女性職員の表情がぱっと明るくなる。そのまま矢継ぎ早に言葉が飛んできた。
「あ、ありがとうございます!あと衣装なんですけど、ヒーロースーツじゃなくてもう少しラフな服装の方が市民受けするかな、って……」
「んー、その辺は任せます」
穏やかに笑ったまま返す。二、三往復で会話が終わった。それでも女性職員は目を潤ませながら「分かりました!」と、嬉しそうに頷き企画書に慌ただしく『衣装:本人希望なし』と書き込んでいく。仕事として必要な受け答えはする。けれどそれ以上、広がることもない。
近くの職員が資料で口元を隠しながら、小さく囁いた。
「……相変わらずだね、全然興味なし」
「ね。感じはいいのに、全然広がらないもの」
聞こえていた。聞こえていたが、気にもならない。実際もうホークスの視線は隣へ戻っていた。彼女が短冊に何を書くか、ということしか、気にしていなかった。頬杖をつき、椅子を少しだけ、彼女の方へと寄せる。短冊ではなく、その手元。横目でちらちらと、彼女のペン先を追っている。赤い紙に向かうペン先が動くたび、何を書こうとしているのかが、知りたくて仕方がない。
「ホークス」
不意に名前を呼ばれて、肩がぴくりと跳ねた。待ってました、と言わんばかりの速さで顔を上げそうになり、どうにか平静を装う。
「何です?」
「平等に自然な笑顔で、優しく対応しなさい」
胸の奥を小さく突かれた気がした。眉がわずかに寄る。図星だった。新人の職員へ向けた自分の態度は、仕事としては問題ない。けれど、温度は違った。彼女には、気付かれていた。いや、この人は昔から、そういう小さな偏りを見逃さない。出会った頃もそうだった。表情一つ、声色一つで隠したつもりの感情まで、簡単に見抜いてしまう人だった。ホークスは小さく息を吐いて頭を掻きそのまま口先を少しだけ、尖らせた。
「……善処します」
渋々と返したその一言は、素直とは言い難かった。反論はいくらでも思いつく。仕事はちゃんとしている、必要なことは話している。だから愛想まで振りまく義務はない。そう言い返そうとして結局、飲み込んだ。隣に座る新人職員が傷ついたように視線を伏せていたことに気づいてしまったからだ。そして何より、この人にだけは、昔から勝てない。出会った頃からずっと叱られれば直し諭されれば考え自分でも気づかない癖まで簡単に見抜かれてきた。その積み重ねは二十二になった今でも変わらない。ホークスは渋々姿勢を正し、隣の新人へと向き直る。営業用の笑みを浮かべること自体は慣れていた。けれど今度はその笑みの奥に、ほんの少しだけ柔らかさを足した。
「状況まとまったら、また見せてください。気になるんで」
「あ、はい!素敵な七夕祭りにしましょうね!」
さっきまでとは、あきらかに違う温度の返事が返ってくる。彼もしっかりと、笑い返していた。それを見届けたように彼女が手元の短冊を見つめたまま「書けた」と、小さく呟く。その声に反応する速さだけは、相変わらずだったけれども。
「見せて」
「はい、どうぞ」
ホークスが身を乗り出して覗き込む。赤い短冊には、丁寧な文字で一文だけ。『ヒーローが暇を持て余す世の中になりますように』と、書かれていた。ホークスの視線がその文字の上で止まる。短冊を見つめたまま、しばらく黙った。
ヒーローが暇を持て余す世の中——。それは、裏を返せば誰も助けを求めない世界。サイレンも鳴らず悲鳴も上がらず、自分たちが必要なくなるほどに、平和な日常。ヒーローである自分たちにとって、それは仕事がなくなる願いでありながら誰より望むべき未来だった。
事件が起きない、平和な世の中。それが、この仕事をしている人間にとってどれほど眩しい願いか。ホークスの口元から、ふ、と息が漏れた。
「……いい、願い事ですね」
短く返したつもりだったけれどその一言には、ヒーローとして、そして、公安の犬として生きる一人の人間としての重みが、確かに乗っていた。
彼は、そっと短冊を持ち上げる。文字を指先でなぞり窓から差し込む光にかざしてみたり角度を変えて眺めたり。まるで、願い事そのものを壊さないように、大切に扱っているかのようだった。
「……こら。」
「はい?」
「なんで、持って帰ろうとしてるの」
そのまま、短冊をポケットへ滑り込ませようとしていたホークスの手が、ぴたりと止まる。
「ちぇ……バレた」
ホークスは小さく肩を落とした。さっきまで、自分の短冊だけは、頑として見せなかった男が、人の願い事は平然と持ち帰ろうとしている。この矛盾を本人だけが気づいていない。そして、その自覚も、本人には、まるでないのだ。彼女が顎で彼の短冊を示す。
「ホークスは? 結局、表に何書いたの?」
ホークスは、すぐさま自分の短冊を指先でくるりと回した。こちら側に見えているのは、たった二文字。『ダメ』の文字が堂々と主張している。
「これですけど」
「いや。その表」
「ないですよ」
「え、本当にそれだけ?」
彼は口笛でも吹きそうな面持ちで、視線だけを窓の外へと逃がした。指先はペンを回している。夏の陽射しがガラスいっぱいに広がり風に揺れる木々が白く光っている。
「……それだけです」
嘘だった。短冊を折り返した内側。誰にも見えない位置へ、小さな文字で、もう一つだけ願いを書いている。それを知っているのは、書いた本人だけだ。自分ですら口にできない願いを。だから絶対に見せられない。
「じゃあ、なにが��ダメ�≠ネの」
問いかけられた瞬間、指先で遊ばせていたペンがするりと落ちた。乾いた音を立てて、床の上を転がっていく。拾わない。今は、拾う気にはなれなかった。その代わりに、小さく息を吐いた。
「……色々、です」
答えになっていない、曖昧な返事だった。それ以上言葉にした瞬間、冗談では済まなくなる気がしたから。だからそれ以上は言わない。そもそも言えるはずがなかった。
『ダメ』で括られる『色々』の中身が何なのか本人以外には推測するしかない。ただ一つ確かなのは、それが彼女に関わる何かだということだけだった。ダメなこと。欲しくてたまらないこと。手を伸ばせば届きそうで、届かないこと。
��ダメ�≠ネのは、踏み越えようとする自分だ。弟でいたくないと思ってしまうことも。彼女が、誰かに笑いかけるたび胸がざわつくことも。何気ない仕草ひとつで、嬉しくなってしまうことも。この人の未来に自分だけを望んでしまうことも。全部ダメだ。そう何度言い聞かせても願いだけは短冊の裏に小さく残ってしまった。
それでも彼女は「ふぅん」とだけ返して、それ以上、追及してこない。その反応に安堵したのかそれとも少しだけ肩透かしを食らったのか、自分でも判別がつかなかった。ふと短冊の端を親指でなぞる。誰にも見せるつもりはない表側には細い文字が一行だけ隠れている。それは願い事というより、自分自身への、戒めだった。叶えてはいけない。望み続けてもいけない。そう何度言い聞かせても彼女が笑うたびその決意は簡単に揺らいでしまう。
「ホークス?」
不意に名前を呼ばれて彼は、はっと意識を引き戻した。
「……ん?」
「ぼーっとしてるから」
「あー......ちょっと、寝不足気味で」
笑って誤魔化す。いつもの調子で。それが彼にできる、いちばん安全な、距離の取り方だった。軽口で煙に巻いてしまえば、それ以上踏み込まれずに済む。その術だけは昔から身についている。
「短冊って願い事はちゃんと具体的に書いた方が叶うらしいよ? なのに、それでいいの?」
彼女はホークスより先に床に落ちたペンを拾い上げると『ダメ』とだけ書かれた短冊を、ペンの先端で軽く叩いた。彼は自身が書いたその二文字を見つめて、少しだけ目を伏せ、それから諦めたように笑った。
「……じゃあ、書き直します」
そう言うと、近くの束から、新しい短冊を一枚抜き取る。今度は迷いがなかった。さらさら、とペン先が紙を滑る。書き終えると、彼はそのまま隠さず、彼女の前へ掲げて見せた。
一行目には『俺の願いが全部叶いますように』そして——その下に、もう一行。
『でも名前さんの願いが先に叶いますように』
どちらも、絶対に叶えたい。けれど順番だけは決まっている。その二行だけで、彼らしい身勝手さと、不器用なくらい真っ直ぐな優しさが、同居していた。彼女は思わず、目を細める。
「俺……欲張りなんで」
「ほんと……人たらしヒーローめ」
呆れ半分に笑うとホークスもつられてにかっと笑った。隠す気もなく、口元が緩む。どうやら、人たらしの自覚だけはあるらしい。
「それ、褒め言葉として受け取っときます」
会議室の時計は八時を回っていた。最初こそ、二人のやり取りに視線を向けていた職員たちも、いつしかそれぞれの仕事へと意識を戻している。紙をめくる音、ペンが走る音、資料を綴じる音が静かに重なり、会議室は再びいつもの業務の姿を取り戻していた。
「それでは、会議はここまで。」
公安職員がホワイトボードへ手を伸ばし、書かれていた文字を、一息に消していく。その動きを境に室内の空気は、ふっとほどけた。椅子を引く音があちこちで重なり職員たちは思い思いに立ち上がって次の仕事へ向かい始める。
そんな静かな空気の中ホークスは短冊を丁寧に畳み、ジャケットの内ポケットへしまった。胸元では今朝、彼女から渡されたアヒルのチャームが小さく揺れている。そうして、彼が席を立った、そのときだった。
「ホークス」
声を掛けてきたのは長い黒髪をひとつに束ねた女性職員だった。入庁して三年目。仕事ぶりは、まだ粗さもあるが、人当たりの良さでは周囲から可愛がられている人物だ。書類を抱えたまま彼の前へ立ち、少しだけ緊張したように微笑む。
「来週の件で確認したいことがあって。それと、もしよければ今日お昼、一緒にどうですか?」
前半は業務。後半だけ声がほんの少し柔らかくなる。女性本人は隠しているつもりなのだろう。けれど、ホークスには、その程度の機微は見逃せない。彼は一度だけ、隣へ視線を流した。彼女は何事もないように資料に目を落としている。こちらを見てもいない。だからこそホークスは小さく息を吐いて営業用の笑みを崩さないまま続けた。
「確認は、今でも大丈夫っすよ」
「あ、ええ。じゃあ……これ。資料なので、目を通しておいてください」
「はーい。……あと、昼はごめんなさい。今日は先約あるんで」
断り方まで柔らかい。相手の顔を立てながら、期待だけは残さない。さきほど、彼女に叱られたばかりだからか、ちゃんと意識しているようだ。
「あ……そう、ですか」
「また進捗あったら、メールで送ってもらえたらすぐ確認して見ますんで」
「はい……了解しました」
女性職員は少しだけ寂しそうに笑い、それでも礼を言って会議室を出ていった。ホークスはその背中を見送り、受け取った手元の書類へと、目を落とす。誰かを傷つけないように断ることもこの男は、昔から上手かった。優しいからではない。余計な期待を持たせる残酷さを、誰よりも知っているからだ。
気づけば彼女はもう席を立ち会議室を出ていたらしい。ホークスは、慌てて椅子を引くと、その背中を追って、廊下へ出る。数歩先を歩く彼女に追いついた瞬間、考えるより先に、体が動いた。自然と腕が伸びて、その細い腰へとそっと回る。あまりにも当たり前の動作だったせいで自分でも数秒遅れて「あ」と思う。けれどもう離す気にはなれなかった。そして出た声は、いつもより少しだけ、高い声だった。
「名前さんっ♪ 今日もお昼一緒に食べましょ」
「……もう。
「先約は断りました。何食べたいです?」
「こらこら。どうしたの、この手は」
視線が腰へ落ちる。それでもホークスは、その腕を外さなかった。むしろ、ごくわずかに、引き寄せる。
「虫除けです」
「なに言ってんのよ。あなたのほうが女の子に声掛けられてるでしょうが」
「俺は全部ちゃんと断ってるでしょ。名前さんはほら、誰にでも優しいから」
「人たらしみたいに言わないでくれる?」
その言葉にホークスは鼻先で小さく笑う。そのまま足を止めて見下ろした。真顔だった。彼女も釣られて足を止める。少し間を置いてから彼は、ぽつりと続けた。
「……人たらしでしょ。俺もですけど」
「やだー。仲間かぁ」
露骨に嫌そうな声が返ってきて思わず喉の奥でくっと笑った。彼女の腰に回していた手にほんの少しだけ力が入る。
「嫌がらないでくださいよ、仲間でしょ」
「——あ、そうだ。ホークスの短冊、飾っといてあげる。貸して?」
その、瞬間だった。ホークスの手が反射的に、内ポケットのあたりを押さえる。
「ダメです」
迷いがなかった。二十代のトップヒーローとは思えないほど必死で子供みたいな動きに、廊下を歩いていた職員が思わず二度見する。本人だけがそんなことには気づいていない。彼は、じり、と半歩だけ後ろへ下がった。翼の羽先まで警戒するように、わずかに開いている。そして、きっぱり言い切った。
「あっちは、本当に見せません」
「そんなに?」
「はい」
「へえ?」
「さっき善処するって言ったばっかなんで、怒るのもどうかとは思うんですけど……」
ここで少しだけ言い淀むようにして照れ隠しのように頭を掻きながら、彼は小さく笑った。
「……あれだけは、本当にダメ」
「どうして?」
問い返されると今度は視線が泳いだ。耳の先がじわじわと、赤く染まっていく。
「……本気で書いた願い事って、見られるの恥ずかしいじゃないですか」
半分だけ本当で、もう半分は、嘘だ。願いそのものも恥ずかしい。けれどそれ以上に見られたくないものがあるから——。
本当に隠したいのは誰にも見せるつもりのない裏側の一行だけ。それでも彼女は軽く場の空気を和ませるように「ふーん?」と、首を傾げる。
「……なんだろ、恋愛系だったり?」
びくっ、とホークスの肩が跳ねる。図星を突かれた人間の反射運動そのもので分かりやすすぎる反応だった。
「……違い、ますけど?」
否定した声だけが妙に高くなり完全に上擦っていた。違わない事は明白である。それでも彼女はその様子を見て、小さく笑うだけだった。
「叶うといいね」
その一言に胸の奥がきゅっと締めつけられる。それは短冊の中身を知らない人間が言う言葉だ。知らないから言えるのか。知っていて言っているのか。どちらなのか分からない。分からないからこそ、苦しい。
「……はい」
それだけを絞り出すのが精一杯だった。剛翼の羽先が、本人の意思とは無関係に小さく震える。廊下には空調の風が流れ蛍光灯がかすかに唸っていた。
「——さてと。お昼、何食べようか」
彼女は、また歩き出して何事もなかったように話題を切り替える。その軽さに、少しだけ救われる。深追いされていたら、心臓が保たなかった。これ以上踏み込まれていたら本当に何か口走っていたかもしれない。ホークスも急いで追いつく。
「……まだ、八時っすけどね」
「いいじゃん。午前中を頑張るための、楽しみがあったほうが」
「ああ、なるほど。そういう考え方、楽観的で、名前さんらしいすね」
「あなたには言われたくな〜い、楽観的なんて」
ホークスは「またまたぁ」と笑いながら、肩をすくめる。それでもその声音には、喜びが滲んでいた。
「んー。この辺なら、ラーメンもあるし。駅前の定食屋もいいですよね」
「そうねー、どこがいいかな」
「あ!そういえば、新しくカレー屋さんもできてましたよ?」
他愛のない昼の相談をしながら、並んで歩く。腰へ回していた腕はいつの間にか自然にほどけていた。それでも二人の間には半歩ほどの距離しかない。今はそれだけで十分だった。隣にこうしていてくれるだけで——。
窓から射し込む初夏の陽射しが、廊下を明るく照らし、その光の中で並んで歩く二人の影は寄り添うように、ひとつへと重なっていた。