昼を少し回った頃。公安本部の建物を出たホークスは、眩しさに目を細めながら空を見上げた。七月の空はどこまでも青く高く、雲ひとつない。今朝、会議室で自分が書いた短冊の文字が、ふと脳裏をよぎる。喉の奥で、小さく息を吐く。
「……叶えてくれよ」
それが誰へ向けた願いなのかは、自分でもよく分からない。星でも神様でもなくただ空へ零した独り言だった。その声は風にさらわれ誰の耳にも届かない。だからこそ、本音のままでいられた。
ほどなくして、正面の自動ドアが開く。彼女が小走りで近づいてきた。その姿を見つけた途端、張っていた気持ちがゆるむ。目元が自然と和らぎ口元にも笑みが浮かんだ。
「もー。遅いですって」
「ごめん、ごめん」
「決めました?」
「うん。ラーメンにしよっか」
その一言だけでホークスの表情がぱっと明るくなった。本当に、彼女の前だけでは分かりやすい男だった。
「いいすね。俺もちょうどラーメン食べたい気分でした。あそこの替え玉、無料ですし」
「ダイエット中だから替え玉はしませーん」
並んで歩きながら、ホークスは、信じられないものでも見る目で、思わず彼女を見やる。視線が頭の先から足元まで一往復する。
「ダイエット?名前さんの、どこをです?」
「色々悩みはあるの。脱いだらすごいんだから」
その瞬間、足運びがわずかにもつれた。歩みが一瞬だけ乱れ、つんのめりかけて翼のバランスで立て直す。脱いだらすごい。その言葉だけが頭の中を、何度も反響していた。ホークスは前だけを見たまま、小さく咳払いをする。
「……聞かなかったことにします」
本人だけは何事もなかったような顔をしているが、耳だけが少し赤い。それ以上、考えたら負けだ。自分にそう言い聞かせた矢先だった。
「そういえば今夜、合コンあるんだよね」
話題を変えられたのはよかったが、その内容が大問題だった。今度は別の意味で思考が止まった。足が完全にぴたりと止まり、背中の翼が音を立てるように、ぶわっと膨らむ。
「……誰とです?」
穏やかな声だった。穏やかすぎて、逆に感情が消えている。
「ほら、二階のさ」
「二階ってどこの部署」
表情は、変えない。声が平坦になった。感情を完全に殺している証拠だ。
「もう、細かいなぁ。人数合わせなの」
彼女は笑う。その一言で、張り詰めていた翼がゆっくりと閉じていく。安心したことがその羽を見れば彼女もすぐに分かった。ホークスは、少しだけ考えてから、口を開く。
「……だったら。行かなくても、いいんじゃないですか、人数合わせなら」
「そうもいかないよ。付き合いもあるし。まあ、行きたくないけどね」
「ですよね……」
そう言いつつも、納得はしていない。それでも否定できる立場ではないことも理解はしていた。ホークスは、ポケットから手を出して、後頭部をがりがりと掻く。
「相手、どんな人たちなんです?」
「ホークスも知ってる人ばっかだよ」
「俺も?」
ホークスは少し考え込む。頭の中で指折り数え始め、公安の部署や、内部の人間関係、顔ぶれを頭の中で展開し、一人ずつ並べていく。
「知らんし。誰?」
「——表向き
その瞬間どうやら思い当たる顔ぶれが浮かんだらしい。ホークスは「あー」とあえて声に出し、ため息を吐き散らした。体育会系で飲み会好き。合コンの幹事役も、よく引き受ける連中だ。
「あいつらかぁ……」
「あいつら、って言い方」
「いや、別に悪い意味じゃないですよ」
「そう?」
「元気な人たちですよね」
苦笑しながら、肩をすくめる。しかし、口ではそう言ったものの、表情は少しだけ曇っていた。歩き出した彼はいつの間にか歩幅を狭めている。彼女に合わせたわけではない。この時間が終わるのを、ほんの少しでも、先延ばしにしたかった。そんな子どもじみた願いが、無意識のうちに足を遅くしていた。
「何時からですか」
「十九時かな」
「二十一時には終わるでしょ。迎え行きますよ」
抑えた声だったが、その中に「決定事項です」とでも言いたげな響きが混じっていた。
「え、大丈夫だよ。忙しい人気ヒーローにお迎えなんて頼めません」
その返事に、ホークスは足を止めるでもなく、ゆっくりと、彼女を振り返った。さっきまで浮かべていた笑みは、もう消えている。
「大丈夫じゃないから言ってるんですよ。あん人たち、酒入ると距離感バグるんで」
「シラフで距離感バグってる子が、それ言う?」
ぐ、と言葉に詰まった。なんとも見事な、返り討ちだった。自分の腰回し事件が、ブーメランになって返ってきた。しかも無意識だったと言い訳までつかない。「それは」と、否定しようとしてできない。自分でも思い当たる節がありすぎた。「シラフで距離感バグってる」の筆頭が今まさに隣を歩いている男なのだから。ホークスは、数秒視線を泳がせた末、諦めたように肩をすくめて、開き直った。
「俺は許されてるんで」
「私が寛容だからねえ」
その返事に、ようやく、口元が緩む。そうだ。その��寛容�≠ノどれだけ甘えてきたことか本人は気づいていないのだろう。彼女が受け入れてくれるから触れられる。近づける。そんな当たり前が彼にとってはずっと、特別だった。
「じゃあ、お迎えも寛容に許してください」
「引く気はなさそうだね」
「ええ。ないですね、さらさら」
「……まあ、時間があったらで大丈夫だからね?任務が入ったら、そっち優先して。絶対」
それでも結局、最後には彼女が折れてくれる。寛容だから。しかし、その「絶対」は彼を気遣う言葉だった。だからこそホークスは、小さく息を吐く。
「……はいはい」
返事は軽い。けれど本当に任務が入らない限り迎えに行くつもりなのは自分が一番よく分かっていた。
駅前のラーメン屋が見えてくる。昼時のピークは少し過ぎたらしく、店先に行列はない。豚骨の濃い香りが風に乗って漂ってきて思わず腹が鳴りそうになる。ホークスは暖簾を持ち上げ、彼女が入りやすいよう先に身体を引いた。
「どうぞ」
「ありがと」
自然と隣同士のカウンター席へと腰を下ろす。ホークスはメニューも見ずに店員に声をかけた。注文は迷いがなかった。
「味玉ラーメン、麺硬めで。名前さんは?」
「私は博多とんこつ。バリカタ」
注文のメモを取り水を置いてから店員が去ったあと、ホークスは、遠慮もなく吹き出した。
「ダイエット、どこ行ったんすか」
「ラーメンは別腹」
「便利な理論ですねぇ」
「でしょ?」
ほどなくして、湯気を立てる丼が、二人の前へ並ぶ。「いただきます」と、自然に声が重なる。箸を入れると、細麺がつやりとスープをまとって持ち上がった。彼女は勢いよく麺をすすり小気味いい音を立てながら頬張る。美味しいものを食べる時は、本当に遠慮がない。その素直な食べ方を見ているだけで、こちらまで、満たされた気分になるのだから不思議だった。ホークスは、自分も麺をすすりながら、横目でその様子を盗み見る。頬が少し緩んでいる。まるで自分が作った料理を喜んでもらえた時みたいな顔だった。もちろん、このラーメンを作ったのは、店主なのだけれど。そんな自分がおかしくなって小さく笑う。そして少しだけ身を寄せると誰にも聞こえないくらいの声で彼女へ囁いた。
「ちょっと、お手洗い行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
彼を見送り、彼女はふと、箸を止めた。店内は食器の洗う音、店員が電話を受ける、威勢のいい声。そんな日常の音に紛れるように壁掛けテレビからはニュース番組が流れていた。映し出されているのは今日開催される七夕祭りの特集だった。色とりどりの短冊が風に揺れて、商店街では飾り付けの準備が進んでいる。インタビューを受けた親子連れが、笑顔で願い事を話し、その横には、『今年は、過去最多の来場者が見込まれます』というテロップが踊る。
平和だ。平和すぎるそんな何気ない光景を見られること自体がこの仕事では案外、奇跡みたいなものだった。すると、ほどなくしてホークスが、戻ってくる。
「ただいまでーす」
「おかえりなさい」
席へ腰を下ろした彼も自然とテレビへ目を向け「うげ、俺の今日の任務」と、文句を漏らした。
「彦星と織姫って、悪いことしたから離れ離れにされたんだっけ」
ふと彼女がそう言って、その問いにホークスは危うく残りの麺を丸飲みしかけた。軽く咳き込み慌てて水を飲んで、喉を落ち着かせる。
「……そうすよ。会いすぎて、仕事しなくなったから引き離された——らしい」
「ふーん」
どこかで聞いた事のある何気ない昔話。けれどホークスの頭には、違う光景が浮かんでしまう。仕事が終われば同じ場所へ帰って他愛もない話をしながら食事をして、眠くなれば隣で眠る。ごく当たり前の毎日。そんな、人間の姿が、天の川の向こうから見下ろされている気がした。
——もし、それを理由に、引き離されるのだとしたら。そんな未来なら、笑えなし、いらない。ホークスは味玉を箸で半分に崩しながら、小さく息をつく。
「……まあ、一年に一回会えるだけマシなんじゃないですかね」
「そう? 好きな人とは、毎日会いたくない?」
彼女は首を傾げた。ホークスの箸先から味玉がするりと滑り落ちて、ぽちゃん、と、小さな音を立ててスープの中に沈む。
好きな人、とは。その言葉だけが、胸の奥へと真っ直ぐ落ちてくる。一般論なのか。それとも、特定の誰かを思い浮かべて言ったのか。ホークスには、判断がつかなかった。つけたくなかった。つけてしまったら、考え始めたら止まらなくなるから。心臓が、また破裂するから。だから黙って味玉を拾い上げ、ゆっくり口へ運んだ。咀嚼する時間だけ、考えることを先延ばしにするように。
「ホークスは? 年イチでいい派?」
今度こそ、逃げられなくなった。ホークスは、箸を置く。丼の底を見つめていた目線が、すっと彼女に移った。静かに彼女を見る。その視線は、まっすぐだった。
「……会いたいでしょ、普通に」
「……」
「一年に一回なんて無理です」
少し笑って肩をすくめる。それでもその声には冗談の気配が、一切ない。
「毎秒でも、会いたいくらい」
それは、彼の飾らない本音だった。軽口に紛らせることもできた。笑わせることだってできた。それでも、その瞬間だけは、どうしても誤魔化したくなかった。
「そうなんだ」
しかし返ってきたのは、それだけだった。相槌とも、感想ともつかない、短い一言。彼女がそれ以上掘り下げてこないことを彼はわかっていた。いつもそうだ。深く踏み込まないし、問い返しもしない。いつだって、するりと、受け流される。そう、いつも通り。
ホークスは小さく笑う。笑えたつもりだった。けれど翼の羽先は、自分でも気づかないほどかすかに揺れている。店主が寸胴鍋を混ぜる音だけが静かな間を埋めていた。彼は、レンゲでスープをひと口すくい、その熱をゆっくり喉へ流し込む。
「名前さんは?」
「私は、相手が頑張ってるなら我慢できる派」
その答えに、猫背になっていた身体が、自然と起き上がる。手持ち無沙汰をごまかすように水の入ったグラスへ手を伸ばした。視線は、コップの水面へ落ちたままで。
「……じゃあ、それさ」
「うん?」
「相手が、頑張ってなかったら?」
「そんな人、最初から好きにならないもん」
迷いのない返事だった。その一言には、打算も駆け引きもない。だからこそ、胸へまっすぐ刺さる。努力している人を好きになる。誰かのために懸命になれる人を。それが、きっと彼女の価値観なのだろう。自分を好きにさせたいなら、努力し続けるしかないということを笑顔で言っている。残酷なほど真っ当な条件だった。そしてその条件を曲がりなりにもヒーローであるこの男は、とっくに満たしているつもりでいた。
ホークスは目を閉じて深く息を吐いた。公安で育ち、ヒーローになってからも休むことなく飛び続けてきた。誰かを守るために。期待を、裏切らないために。そしていつか彼女に一人の男として見てもらえる日が来るのなら、そのためにも——そんな思いまで、今さら否定する気はなかった。
彼はもう一度、静かに息を吐いて、目を開く。そうして、口元を緩ませて、いつもの笑みを貼り付けた。少しだけ遅れて形になったその笑顔は、本人が思っている以上に、ぎこちなかった。
「厳しいなぁ」
「まあ、でも」
「ん?」
「ヒーローはみんな、頑張ってくれてるからさ。そこは全然、許容範囲!」
その言葉に、笑みだけが、そのまま止まった。ヒーローは、みんな。その一言で、十分だった。その括りの中に自分も入っている。そのみんなの中に、自分もいる。特別でも何でもない。等しく許容範囲。肩書きではなく、努力を、見てくれている。それは、救いでもあり、拷問でもあった。どれだけ飛び続けても、どれだけ手を伸ばしてもその輪の外へは出られないのだと突きつけられたようで。
ホークスは卓上の爪楊枝を一本、手に取った。指先で軽く力を入れると、ぱきり、と乾いた音が響く。それは、自分を落ち着かせるための動作で真っ二つになった細い木片を見つめながら小さく息を吐いた。
「……じゃあ、もっと頑張んないとですね」
「ホークスは、もう十分頑張ってるでしょ」
「え?」
「下半期のランキングも、二位は固いんだから」
箸を手に取り、残った麺を軽くまとめながら、ホークスは苦く笑う。
「ランキングなんかで好きになってくれるなら、苦労しないんですけどね」
言った瞬間、自分でしまったと思った。慌てて麺をすすって誤魔化す。口に詰め込んだ麺の量で言葉の続きを飲み込めたつもりだった。完全に、失言だった。好きという言葉を、自分から出してしまった。案の定、彼女が「え?」と首を傾げているのが目の端に映る。
「ホークス……好きな子、いるの?」
麺が気管に入りかけて、げほっ、と盛大に咳き込んで止まらない。目尻が熱くなる。涙が滲んでいるのは、咳のせいだけではなかった。自分から零した言葉に、自分で撃ち抜かれている。彼女に悪気はない。ないからこそ、容赦がなく、致命傷だった。この人はいつもそうだ。人の心の急所を本人だけが気づかないまま無自覚に真っ直ぐ踏み抜いていく。ホークスはグラスを掴み一気に水を飲み干した。冷たい水が喉を通っても胸の熱だけは、下がらない。
「……いますよ。ずっと」
ようやく絞り出した声は、思ったよりも、静かだった。しかし、返ってきたのは心配そうな笑い声だった。
「もう、そんな慌てて食べるから。ゆっくり食べてよね?」
彼女は、自然な仕草で、ホークスの背中へ手を添える。ゆっくり、二度、三度。まるで子どもをあやすように優しくさすってくれる。その温もりだけが背中越しにじんわり伝わった。告白めいた言葉は彼女の耳を素通りした。少なくとも本人は「好きだ」と、言ったつもりだった。けれど彼女には『急いで食べるせっかちな人』にしか見えていない。どこまでも噛み合わない。絶望的なまでに。近いようで、届かない。ずっと。それでも、やさしく摩ってくれるその手が、嬉しいと思ってしまう自分が、やっぱり、情けなかった。
ホークスはほんの一瞬だけ、その温もりへ身を預ける。それから小さく翼を開き、羽ばたきで、乱れた呼吸を整えた。赤い羽根がふわりと揺れ、涙で滲んだ目元へと、風が触れる。カウンターの向こうからは、店主が心配そうに声を掛けた。
「ヒーローさん、大丈夫か?」
「……大丈夫です」
反射的にそう返したものの、本当は少しだって大丈夫ではなかった。胸の奥だけが忙しなく音を立てている。ホークスは背筋を伸ばし、ふーっと長く息を吐いた。そうして、彼女を見る。結局、笑ってしまう。この人の前では、それ以外の顔を見せる術を知らなかった。そのまま、立ち上がりながら、伝票を手に取る。
「ごちそうさまでした。さ、行きましょ」
「え、待って。お支払い——」
「もう、済ませましたよ」
振り返りもせずに、軽く手を振る。店の暖簾をくぐると真夏を思わせる日差しが、彼を迎えた。その後ろ姿を追うように、彼女も店を出てきた。昼の街は相変わらず賑やかで人の流れは絶えない。その喧騒の中をホークスは彼女と歩幅を揃えながら、何事もなかったような顔で歩き始めた。
「ねえ、払ったっていつ?」
「さあ、いつでしょう」
「はあ?」
「名前さんの分も、もう払っときました」
「だめ。最近ご馳走になってばっかりなんだから今日は私が払う」
「はは、遅いんすよ。いいですって」
財布へ伸ばしかけた彼女の手を、ホークスは、そっと、押し返した。そのままこの話は、ここで終わると思っていた。ところが次の瞬間、彼女は財布から無理やり紙幣を抜き取り、ためらいなくホークスの手へ中へと押し込んだ。
「だーめ」
「え、ちょ……」
「いいの」
彼女は指先で、軽く握らせるようにして笑う。触れ合っている部分だけが妙に熱を持っている。ホークスは、そこから手を離せないでいた。
「いや、でも……」
「ホークスとは、フェアな関係でいたいから」
フェア——その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。ホークスは心の中で反芻した。対等。守る側でも守られる側でもない。教える人と、教えられる子でもない。彼女はそういう関係でいたいと言った。それがどれほどの意味を持つのか、どれほど嬉しい言葉なのか、きっと彼女は知らない。分かっていない。
ずっと、追いつきたかった。隣へ立てる人間になりたかった。彼女の隣が許されるという事を。そんな願いを何気ない一言で少しだけ叶えられてしまう。
ホークスは、紙幣を見つめ、それから観念したようにポケットへしまった。どこか、悔しくて。けれど、それ以上に嬉しい。そして少しだけ照れくさそうに笑った。
「……じゃあ、ごちそうさまです」
午後の風が、通りをゆっくり吹き抜けていく。夏へ向かう熱を含みながらも、時折り頬を撫でる風は、まだどこか柔らかい。商店街の軒先では、七夕飾りの準備が少しずつ進んでいた。色鮮やかな吹き流しが揺れ、その下では子どもたちが短冊へ願い事を書いている。
平和だ、と、ホークスは思う。こういう景色を守るために飛んでいるのだと、改めて、実感するような昼下がりだった。
「午後は? 任務?」
歩きながら尋ねられ、ホークスはスマホを取り出した。公安から届いているスケジュールを確認する。そして画面を閉じ、胸ポケットへ戻した。
「夕方から一件だけですね。それまでは、フリーです」
「フリーじゃなくて、七夕の仕事があるでしょ」
「あー、忘れてました」
言いながら、ちらりと彼女を見る。このまま、時間が止まればいいのに——とまでは思わない。けれど、あと少しだけ、こうして隣を歩いていたかった。任務の時間は、正確に頭へ入っている。だからこそ、その時刻までは、彼女との何気ない時間を惜しむように噛み締めてしまう。
「じゃあ、お茶でもします?」
「え、ラーメン食べたばっかりじゃん」
「甘い物は別腹って、さっき誰か、言ってましたよね」
「それはラーメンね。でもまあ、甘い物は好き」
「ほらね」
楽しそうに笑う彼女につられ、ホークスも肩を揺らした。そんな笑顔を見ているだけで昼休みは十分だった。そこでホークスは、不意に、何かを思いついたように足を止める。
「……なんか、熱っぽいんですよねぇ」
「え? ほんと?」
「ちょっと、手当ててみてもらってもいいです?熱ないですか、俺」
「えー?どれどれ」
彼女は何の疑いもなく手を伸ばした。ひんやりした掌が額へ触れる。その瞬間ホークスは静かに目を閉じる。熱なんてあるわけがない。心拍数が跳ね上がっているのは、熱のせいではなかった。あるのは落ち着きどころを知らない心臓だけだ。
こんな距離で触れられたら、鼓動まで相手に、伝わってしまいそうで。彼女がくすりと笑う声がやけに近く感じる。
「熱、ないね」
「ええ?」
「またそうやって、からかって」
ホークスはゆっくり目を開けた。至近距離で、視界いっぱいに彼女の顔がある。思っていたより近すぎて、思わず、息が止まりそうになった。
「……からかってないんですけど」
「うそつき」
「いや、ほんとですよ。ほら、ちゃんと測るならおでことおでこで測らないと」
そんなことを言いながらホークスは、わずかに首を傾けた。その口元だけが、少し笑っている。彼女が呆れたように「はいはい」と笑いながら、手を引こうとした瞬間、その温もりが離れていくのが惜しくてホークスは、ごく自然な顔のまま、半歩だけ、前へ出る。逃がさないためではない。そんな素振りは、微塵も見せない。ただ、距離が縮まることが当たり前であるかのように。
額と額が触れそうなところで、動きを止める。前髪が揺れ、互いの呼吸がかすかに混じるほどの近さだった。
「ね?」
「……おバカで熱が上がったみたいですね。お薬出しておきまーす」
言うなり彼女の中指がホークスの額を弾いた。ぺちん、と、小気味よく乾いた音が鳴る。思わず両手で額を押さえて仰け反り、身を引いた。
「っ、てぇ……」
ヴィラン相手なら、躊躇なく飛び込める男が、たった一発のデコピンで、情けなく顔をしかめている。痛みそのものは大したことはない。堪えたのは、その距離まで踏み込んでおきながら、あっさりとかわされた、事実のほうだった。
「ほんとさ、なんで私にだけこんな近いわけ?」
彼女は呆れたように笑って一歩、距離を取る。指先が触れていた場所だけが妙に赤くなって熱を持っていた。
「近いです?」
何でもないことのように首を傾げる。ずいぶんとぼけた声だった。その顔を見れば、自覚がないとは到底思えない。それでも悪びれる様子もなく笑うあたりが、この男らしかった。ホークスは、こてん、と首を傾げたまま、ふっ、と笑う。
「嫌ですか?」
問いかけながらも、返事を待たずにまた半歩、距離を詰めて戻す。少し窮屈そうに首を傾けて、それでも器用に、彼女の肩へと顎を預けた。翼で重心を取っているせいか、不思議と、体勢は崩れない。嫌か、と聞いておきながら嫌だと言われる前に既成事実を作る。交渉術としては最低だが、効果は抜群だった。少なくともホークスの心臓に対しては。
「……歩きにくいなぁ、もう」
「そのうち慣れますって。てか慣れてください」
退かない。むしろ少し体重を預けた。彼女は、喉の奥で笑っていた。彼女だけに、許されている距離なのか、自分が勝手に、許されていると思い込んでいるだけなのか、その境界は曖昧だった。それでも、離れる理由を探すより、もう少しだけこうしていたかった。
「彼女できたら、こういうのやめなさいよ?」
「んー?」
「彼女さんが、可哀想だから」
肩越しに聞こえた言葉にホークスの笑みが少しだけ薄れる。
「彼女できないんで大丈夫です」
「……え、もしかして男性が好きとか?」
さらりと返した声だけが、不思議なくらい静かだったのに、彼女からの言葉に「は?」と、間の抜けた声が漏れてしまった。
「やっぱり、エンデヴァーがタイプ?」
ばさっと羽根ごと揺らして肩から顔を上げた。今日一番の勢いだったかもしれない。ホークスは全力で首を振る。
「なんでそうなるんですか!絶対ない!」
「そうかなぁ〜?」
「そこ飛びます?いや、ないない。フレイムヒーローはないです、絶対」
今ごろNo.2ヒーロー炎の男エンデヴァー本人は何も知らずにヒーロー活動をしているだろうが、とんでもない流れ弾だった。
「エンデヴァーさん、エンデヴァーさんって口を開けば言ってるくせに」
「あぁ……そこですか」
ホークスは膝から力が抜けそうになって小さく夏空を仰いだ。尊敬も、執着も、競争心もある。だからといってそれを恋愛感情に変換されるとは思わなかった。彼は肩を落としたまま諦め半分に笑う。
「俺、さっきも言いましたけど……好きな人いるんで。他の人にはこんなことしませんよ」
「……ああ、そういえば言ってたね」
「ちゃんと聞いてたんすね、流されたとばかり」
「その子も、エンデヴァー推しだといいけどね」
その返事を聞いた瞬間に、何かを期待していた自分が馬鹿らしくなり、もう何も言えなかった。口を開く気力すら残っていない。今日だけで何度目だろう。好きだと言葉を選び、遠回しに伝え、そのたびに綺麗に受け流される。肩に顎を預けたことも距離を詰めた理由も「他の人にはしない」という一言も、彼女の中ではただの会話の流れでしかない。だからこそ、責められない。責められないことが一番、苦しかった。ホークスは小さくため息を吐く。空を飛ぶことより難しいことが、この世には、ちゃんとあるらしい。
「さてと〜。午後も頑張ろっと」
軽やかな声を残して、彼女は先に、歩き出す。ホークスはその背中をしばらく目で追っていた。
綺麗な髪が午後の風に揺れ、差し込む陽射しを受けて、柔らかく光る。彼女がこちらを振り返ることはない。その後ろ姿を見送ることには、もう慣れているはずだった。
「……頑張ろ。」
ホークスは、誰にも届かないほど小さく呟いて自分にも言い聞かせるように、息を吐き切った。
午後からはパトロールと事務処理、それから、夕方には、七夕の任務が一本。予定はきっちり、詰まっている。それでも頭の片隅では、夜七時という時刻だけが、妙に存在感を持っていた。
——合コン。あの場に、行く必要なんてない。そう思う一方で、「迎えに行きます」と口にした瞬間から、その約束はもう自分の中で決定事項になっていた。仕事はきっちり終わらせる。終わらせて迎えに行く。それだけを胸の中で静かに組み立てながらホークスは、翼を大きく広げる。今はもう彼女の隣を歩ける気力がなかった。赤い羽根が陽射しを受けてきらりと光り、その身体は音もなく空へと溶けていった。
*
仕事を終えた彼女は、更衣室のロッカーの前で軽く身支度を整えていた。仕事帰りのまま向かうのも味気ない。だからといって気合いが入りすぎていると思われるのも、少し違う。
鏡を覗き込みながら髪を指先で整えて、リップだけ塗り直す。結局、朝と同じ色を選んだ。控えめにファンデーションを重ねたあと最後にボディコロンを、ひと吹き。甘すぎず、ほのかに柑橘が香る。
ふと腕時計を見る。十八時半。十九時集合ならちょうどいい時間だった。バッグを肩に掛けようとしたところでスマートフォンが震える。画面に表示された名前を見て、彼女は、小さく笑った。ホークスからのメッセージだ。