昼を少し回った頃。公安本部の建物を出たホークスは、眩しさに目を細めながら空を見上げた。七月の空はどこまでも青く高く、雲ひとつない。今朝、会議室で自分が書いた短冊の文字が、ふと脳裏をよぎる。喉の奥で、小さく息を吐く。

「……叶えてくれよ」

 それが誰へ向けた願いなのかは、自分でもよく分からない。星でも神様でもなくただ空へ零した独り言だった。その声は風にさらわれ誰の耳にも届かない。だからこそ、本音のままでいられた。
 ほどなくして、正面の自動ドアが開く。彼女が小走りで近づいてきた。その姿を見つけた途端、張っていた気持ちがゆるむ。目元が自然と和らぎ口元にも笑みが浮かんだ。

「もー。遅いですって」
「ごめん、ごめん」
「決めました?」
「うん。ラーメンにしよっか」

 その一言だけでホークスの表情がぱっと明るくなった。本当に、彼女の前だけでは分かりやすい男だった。

「いいすね。俺もちょうどラーメン食べたい気分でした。あそこの替え玉、無料ですし」
「ダイエット中だから替え玉はしませーん」

 並んで歩きながら、ホークスは、信じられないものでも見る目で、思わず彼女を見やる。視線が頭の先から足元まで一往復する。

「ダイエット?名前さんの、どこをです?」
「色々悩みはあるの。脱いだらすごいんだから」

 その瞬間、足運びがわずかにもつれた。歩みが一瞬だけ乱れ、つんのめりかけて翼のバランスで立て直す。脱いだらすごい。その言葉だけが頭の中を、何度も反響していた。ホークスは前だけを見たまま、小さく咳払いをする。

「……聞かなかったことにします」

 本人だけは何事もなかったような顔をしているが、耳だけが少し赤い。それ以上、考えたら負けだ。自分にそう言い聞かせた矢先だった。

「そういえば今夜、合コンあるんだよね」

 話題を変えられたのはよかったが、その内容が大問題だった。今度は別の意味で思考が止まった。足が完全にぴたりと止まり、背中の翼が音を立てるように、ぶわっと膨らむ。

「……誰とです?」

 穏やかな声だった。穏やかすぎて、逆に感情が消えている。

「ほら、二階のさ」
「二階ってどこの部署」

 表情は、変えない。声が平坦になった。感情を完全に殺している証拠だ。

「もう、細かいなぁ。人数合わせなの」

 彼女は笑う。その一言で、張り詰めていた翼がゆっくりと閉じていく。安心したことがその羽を見れば彼女もすぐに分かった。ホークスは、少しだけ考えてから、口を開く。

「……だったら。行かなくても、いいんじゃないですか、人数合わせなら」
「そうもいかないよ。付き合いもあるし。まあ、行きたくないけどね」
「ですよね……」

 そう言いつつも、納得はしていない。それでも否定できる立場ではないことも理解はしていた。ホークスは、ポケットから手を出して、後頭部をがりがりと掻く。

「相手、どんな人たちなんです?」
「ホークスも知ってる人ばっかだよ」
「俺も?」

 ホークスは少し考え込む。頭の中で指折り数え始め、公安の部署や、内部の人間関係、顔ぶれを頭の中で展開し、一人ずつ並べていく。

「知らんし。誰?」
「——表向き表向き(・・・)、生活安全部の人たち」

 その瞬間どうやら思い当たる顔ぶれが浮かんだらしい。ホークスは「あー」とあえて声に出し、ため息を吐き散らした。体育会系で飲み会好き。合コンの幹事役も、よく引き受ける連中だ。

「あいつらかぁ……」
「あいつら、って言い方」
「いや、別に悪い意味じゃないですよ」
「そう?」
「元気な人たちですよね」

 苦笑しながら、肩をすくめる。しかし、口ではそう言ったものの、表情は少しだけ曇っていた。歩き出した彼はいつの間にか歩幅を狭めている。彼女に合わせたわけではない。この時間が終わるのを、ほんの少しでも、先延ばしにしたかった。そんな子どもじみた願いが、無意識のうちに足を遅くしていた。

「何時からですか」
「十九時かな」
「二十一時には終わるでしょ。迎え行きますよ」

 抑えた声だったが、その中に「決定事項です」とでも言いたげな響きが混じっていた。

「え、大丈夫だよ。忙しい人気ヒーローにお迎えなんて頼めません」

 その返事に、ホークスは足を止めるでもなく、ゆっくりと、彼女を振り返った。さっきまで浮かべていた笑みは、もう消えている。

「大丈夫じゃないから言ってるんですよ。あん人たち、酒入ると距離感バグるんで」
「シラフで距離感バグってる子が、それ言う?」

 ぐ、と言葉に詰まった。なんとも見事な、返り討ちだった。自分の腰回し事件が、ブーメランになって返ってきた。しかも無意識だったと言い訳までつかない。「それは」と、否定しようとしてできない。自分でも思い当たる節がありすぎた。「シラフで距離感バグってる」の筆頭が今まさに隣を歩いている男なのだから。ホークスは、数秒視線を泳がせた末、諦めたように肩をすくめて、開き直った。

「俺は許されてるんで」
「私が寛容だからねえ」

 その返事に、ようやく、口元が緩む。そうだ。その��寛容�≠ノどれだけ甘えてきたことか本人は気づいていないのだろう。彼女が受け入れてくれるから触れられる。近づける。そんな当たり前が彼にとってはずっと、特別だった。

「じゃあ、お迎えも寛容に許してください」
「引く気はなさそうだね」
「ええ。ないですね、さらさら」
「……まあ、時間があったらで大丈夫だからね?任務が入ったら、そっち優先して。絶対」

 それでも結局、最後には彼女が折れてくれる。寛容だから。しかし、その「絶対」は彼を気遣う言葉だった。だからこそホークスは、小さく息を吐く。

「……はいはい」

 返事は軽い。けれど本当に任務が入らない限り迎えに行くつもりなのは自分が一番よく分かっていた。
 駅前のラーメン屋が見えてくる。昼時のピークは少し過ぎたらしく、店先に行列はない。豚骨の濃い香りが風に乗って漂ってきて思わず腹が鳴りそうになる。ホークスは暖簾を持ち上げ、彼女が入りやすいよう先に身体を引いた。

「どうぞ」
「ありがと」

 自然と隣同士のカウンター席へと腰を下ろす。ホークスはメニューも見ずに店員に声をかけた。注文は迷いがなかった。

「味玉ラーメン、麺硬めで。名前さんは?」
「私は博多とんこつ。バリカタ」

 注文のメモを取り水を置いてから店員が去ったあと、ホークスは、遠慮もなく吹き出した。

「ダイエット、どこ行ったんすか」
「ラーメンは別腹」
「便利な理論ですねぇ」
「でしょ?」

 ほどなくして、湯気を立てる丼が、二人の前へ並ぶ。「いただきます」と、自然に声が重なる。箸を入れると、細麺がつやりとスープをまとって持ち上がった。彼女は勢いよく麺をすすり小気味いい音を立てながら頬張る。美味しいものを食べる時は、本当に遠慮がない。その素直な食べ方を見ているだけで、こちらまで、満たされた気分になるのだから不思議だった。ホークスは、自分も麺をすすりながら、横目でその様子を盗み見る。頬が少し緩んでいる。まるで自分が作った料理を喜んでもらえた時みたいな顔だった。もちろん、このラーメンを作ったのは、店主なのだけれど。そんな自分がおかしくなって小さく笑う。そして少しだけ身を寄せると誰にも聞こえないくらいの声で彼女へ囁いた。

「ちょっと、お手洗い行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」

 彼を見送り、彼女はふと、箸を止めた。店内は食器の洗う音、店員が電話を受ける、威勢のいい声。そんな日常の音に紛れるように壁掛けテレビからはニュース番組が流れていた。映し出されているのは今日開催される七夕祭りの特集だった。色とりどりの短冊が風に揺れて、商店街では飾り付けの準備が進んでいる。インタビューを受けた親子連れが、笑顔で願い事を話し、その横には、『今年は、過去最多の来場者が見込まれます』というテロップが踊る。
 平和だ。平和すぎるそんな何気ない光景を見られること自体がこの仕事では案外、奇跡みたいなものだった。すると、ほどなくしてホークスが、戻ってくる。

「ただいまでーす」
「おかえりなさい」

 席へ腰を下ろした彼も自然とテレビへ目を向け「うげ、俺の今日の任務」と、文句を漏らした。

「彦星と織姫って、悪いことしたから離れ離れにされたんだっけ」

 ふと彼女がそう言って、その問いにホークスは危うく残りの麺を丸飲みしかけた。軽く咳き込み慌てて水を飲んで、喉を落ち着かせる。

「……そうすよ。会いすぎて、仕事しなくなったから引き離された——らしい」
「ふーん」

 どこかで聞いた事のある何気ない昔話。けれどホークスの頭には、違う光景が浮かんでしまう。仕事が終われば同じ場所へ帰って他愛もない話をしながら食事をして、眠くなれば隣で眠る。ごく当たり前の毎日。そんな、人間の姿が、天の川の向こうから見下ろされている気がした。
 ——もし、それを理由に、引き離されるのだとしたら。そんな未来なら、笑えなし、いらない。ホークスは味玉を箸で半分に崩しながら、小さく息をつく。

「……まあ、一年に一回会えるだけマシなんじゃないですかね」
「そう? 好きな人とは、毎日会いたくない?」

 彼女は首を傾げた。ホークスの箸先から味玉がするりと滑り落ちて、ぽちゃん、と、小さな音を立ててスープの中に沈む。
 好きな人、とは。その言葉だけが、胸の奥へと真っ直ぐ落ちてくる。一般論なのか。それとも、特定の誰かを思い浮かべて言ったのか。ホークスには、判断がつかなかった。つけたくなかった。つけてしまったら、考え始めたら止まらなくなるから。心臓が、また破裂するから。だから黙って味玉を拾い上げ、ゆっくり口へ運んだ。咀嚼する時間だけ、考えることを先延ばしにするように。

「ホークスは? 年イチでいい派?」

 今度こそ、逃げられなくなった。ホークスは、箸を置く。丼の底を見つめていた目線が、すっと彼女に移った。静かに彼女を見る。その視線は、まっすぐだった。

「……会いたいでしょ、普通に」
「……」
「一年に一回なんて無理です」

 少し笑って肩をすくめる。それでもその声には冗談の気配が、一切ない。

「毎秒でも、会いたいくらい」

 それは、彼の飾らない本音だった。軽口に紛らせることもできた。笑わせることだってできた。それでも、その瞬間だけは、どうしても誤魔化したくなかった。

「そうなんだ」

 しかし返ってきたのは、それだけだった。相槌とも、感想ともつかない、短い一言。彼女がそれ以上掘り下げてこないことを彼はわかっていた。いつもそうだ。深く踏み込まないし、問い返しもしない。いつだって、するりと、受け流される。そう、いつも通り。
 ホークスは小さく笑う。笑えたつもりだった。けれど翼の羽先は、自分でも気づかないほどかすかに揺れている。店主が寸胴鍋を混ぜる音だけが静かな間を埋めていた。彼は、レンゲでスープをひと口すくい、その熱をゆっくり喉へ流し込む。

「名前さんは?」
「私は、相手が頑張ってるなら我慢できる派」

 その答えに、猫背になっていた身体が、自然と起き上がる。手持ち無沙汰をごまかすように水の入ったグラスへ手を伸ばした。視線は、コップの水面へ落ちたままで。

「……じゃあ、それさ」
「うん?」
「相手が、頑張ってなかったら?」
「そんな人、最初から好きにならないもん」

 迷いのない返事だった。その一言には、打算も駆け引きもない。だからこそ、胸へまっすぐ刺さる。努力している人を好きになる。誰かのために懸命になれる人を。それが、きっと彼女の価値観なのだろう。自分を好きにさせたいなら、努力し続けるしかないということを笑顔で言っている。残酷なほど真っ当な条件だった。そしてその条件を曲がりなりにもヒーローであるこの男は、とっくに満たしているつもりでいた。
 ホークスは目を閉じて深く息を吐いた。公安で育ち、ヒーローになってからも休むことなく飛び続けてきた。誰かを守るために。期待を、裏切らないために。そしていつか彼女に一人の男として見てもらえる日が来るのなら、そのためにも——そんな思いまで、今さら否定する気はなかった。
 彼はもう一度、静かに息を吐いて、目を開く。そうして、口元を緩ませて、いつもの笑みを貼り付けた。少しだけ遅れて形になったその笑顔は、本人が思っている以上に、ぎこちなかった。

「厳しいなぁ」
「まあ、でも」
「ん?」
「ヒーローはみんな、頑張ってくれてるからさ。そこは全然、許容範囲!」

 その言葉に、笑みだけが、そのまま止まった。ヒーローは、みんな。その一言で、十分だった。その括りの中に自分も入っている。そのみんなの中に、自分もいる。特別でも何でもない。等しく許容範囲。肩書きではなく、努力を、見てくれている。それは、救いでもあり、拷問でもあった。どれだけ飛び続けても、どれだけ手を伸ばしてもその輪の外へは出られないのだと突きつけられたようで。
 ホークスは卓上の爪楊枝を一本、手に取った。指先で軽く力を入れると、ぱきり、と乾いた音が響く。それは、自分を落ち着かせるための動作で真っ二つになった細い木片を見つめながら小さく息を吐いた。

「……じゃあ、もっと頑張んないとですね」
「ホークスは、もう十分頑張ってるでしょ」
「え?」
「下半期のランキングも、二位は固いんだから」

 箸を手に取り、残った麺を軽くまとめながら、ホークスは苦く笑う。

「ランキングなんかで好きになってくれるなら、苦労しないんですけどね」

 言った瞬間、自分でしまったと思った。慌てて麺をすすって誤魔化す。口に詰め込んだ麺の量で言葉の続きを飲み込めたつもりだった。完全に、失言だった。好きという言葉を、自分から出してしまった。案の定、彼女が「え?」と首を傾げているのが目の端に映る。

「ホークス……好きな子、いるの?」

 麺が気管に入りかけて、げほっ、と盛大に咳き込んで止まらない。目尻が熱くなる。涙が滲んでいるのは、咳のせいだけではなかった。自分から零した言葉に、自分で撃ち抜かれている。彼女に悪気はない。ないからこそ、容赦がなく、致命傷だった。この人はいつもそうだ。人の心の急所を本人だけが気づかないまま無自覚に真っ直ぐ踏み抜いていく。ホークスはグラスを掴み一気に水を飲み干した。冷たい水が喉を通っても胸の熱だけは、下がらない。

「……いますよ。ずっと」

 ようやく絞り出した声は、思ったよりも、静かだった。しかし、返ってきたのは心配そうな笑い声だった。

「もう、そんな慌てて食べるから。ゆっくり食べてよね?」

 彼女は、自然な仕草で、ホークスの背中へ手を添える。ゆっくり、二度、三度。まるで子どもをあやすように優しくさすってくれる。その温もりだけが背中越しにじんわり伝わった。告白めいた言葉は彼女の耳を素通りした。少なくとも本人は「好きだ」と、言ったつもりだった。けれど彼女には『急いで食べるせっかちな人』にしか見えていない。どこまでも噛み合わない。絶望的なまでに。近いようで、届かない。ずっと。それでも、やさしく摩ってくれるその手が、嬉しいと思ってしまう自分が、やっぱり、情けなかった。
 ホークスはほんの一瞬だけ、その温もりへ身を預ける。それから小さく翼を開き、羽ばたきで、乱れた呼吸を整えた。赤い羽根がふわりと揺れ、涙で滲んだ目元へと、風が触れる。カウンターの向こうからは、店主が心配そうに声を掛けた。

「ヒーローさん、大丈夫か?」
「……大丈夫です」

 反射的にそう返したものの、本当は少しだって大丈夫ではなかった。胸の奥だけが忙しなく音を立てている。ホークスは背筋を伸ばし、ふーっと長く息を吐いた。そうして、彼女を見る。結局、笑ってしまう。この人の前では、それ以外の顔を見せる術を知らなかった。そのまま、立ち上がりながら、伝票を手に取る。

「ごちそうさまでした。さ、行きましょ」
「え、待って。お支払い——」
「もう、済ませましたよ」

 振り返りもせずに、軽く手を振る。店の暖簾をくぐると真夏を思わせる日差しが、彼を迎えた。その後ろ姿を追うように、彼女も店を出てきた。昼の街は相変わらず賑やかで人の流れは絶えない。その喧騒の中をホークスは彼女と歩幅を揃えながら、何事もなかったような顔で歩き始めた。

「ねえ、払ったっていつ?」
「さあ、いつでしょう」
「はあ?」
「名前さんの分も、もう払っときました」
「だめ。最近ご馳走になってばっかりなんだから今日は私が払う」
「はは、遅いんすよ。いいですって」

 財布へ伸ばしかけた彼女の手を、ホークスは、そっと、押し返した。そのままこの話は、ここで終わると思っていた。ところが次の瞬間、彼女は財布から無理やり紙幣を抜き取り、ためらいなくホークスの手へ中へと押し込んだ。

「だーめ」
「え、ちょ……」
「いいの」

 彼女は指先で、軽く握らせるようにして笑う。触れ合っている部分だけが妙に熱を持っている。ホークスは、そこから手を離せないでいた。

「いや、でも……」
「ホークスとは、フェアな関係でいたいから」

 フェア——その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。ホークスは心の中で反芻した。対等。守る側でも守られる側でもない。教える人と、教えられる子でもない。彼女はそういう関係でいたいと言った。それがどれほどの意味を持つのか、どれほど嬉しい言葉なのか、きっと彼女は知らない。分かっていない。
 ずっと、追いつきたかった。隣へ立てる人間になりたかった。彼女の隣が許されるという事を。そんな願いを何気ない一言で少しだけ叶えられてしまう。
 ホークスは、紙幣を見つめ、それから観念したようにポケットへしまった。どこか、悔しくて。けれど、それ以上に嬉しい。そして少しだけ照れくさそうに笑った。

「……じゃあ、ごちそうさまです」

 午後の風が、通りをゆっくり吹き抜けていく。夏へ向かう熱を含みながらも、時折り頬を撫でる風は、まだどこか柔らかい。商店街の軒先では、七夕飾りの準備が少しずつ進んでいた。色鮮やかな吹き流しが揺れ、その下では子どもたちが短冊へ願い事を書いている。
 平和だ、と、ホークスは思う。こういう景色を守るために飛んでいるのだと、改めて、実感するような昼下がりだった。

「午後は? 任務?」

 歩きながら尋ねられ、ホークスはスマホを取り出した。公安から届いているスケジュールを確認する。そして画面を閉じ、胸ポケットへ戻した。

「夕方から一件だけですね。それまでは、フリーです」
「フリーじゃなくて、七夕の仕事があるでしょ」
「あー、忘れてました」

 言いながら、ちらりと彼女を見る。このまま、時間が止まればいいのに——とまでは思わない。けれど、あと少しだけ、こうして隣を歩いていたかった。任務の時間は、正確に頭へ入っている。だからこそ、その時刻までは、彼女との何気ない時間を惜しむように噛み締めてしまう。

「じゃあ、お茶でもします?」
「え、ラーメン食べたばっかりじゃん」
「甘い物は別腹って、さっき誰か、言ってましたよね」
「それはラーメンね。でもまあ、甘い物は好き」
「ほらね」

 楽しそうに笑う彼女につられ、ホークスも肩を揺らした。そんな笑顔を見ているだけで昼休みは十分だった。そこでホークスは、不意に、何かを思いついたように足を止める。

「……なんか、熱っぽいんですよねぇ」
「え? ほんと?」
「ちょっと、手当ててみてもらってもいいです?熱ないですか、俺」
「えー?どれどれ」

 彼女は何の疑いもなく手を伸ばした。ひんやりした掌が額へ触れる。その瞬間ホークスは静かに目を閉じる。熱なんてあるわけがない。心拍数が跳ね上がっているのは、熱のせいではなかった。あるのは落ち着きどころを知らない心臓だけだ。
 こんな距離で触れられたら、鼓動まで相手に、伝わってしまいそうで。彼女がくすりと笑う声がやけに近く感じる。

「熱、ないね」
「ええ?」
「またそうやって、からかって」

 ホークスはゆっくり目を開けた。至近距離で、視界いっぱいに彼女の顔がある。思っていたより近すぎて、思わず、息が止まりそうになった。

「……からかってないんですけど」
「うそつき」
「いや、ほんとですよ。ほら、ちゃんと測るならおでことおでこで測らないと」

 そんなことを言いながらホークスは、わずかに首を傾けた。その口元だけが、少し笑っている。彼女が呆れたように「はいはい」と笑いながら、手を引こうとした瞬間、その温もりが離れていくのが惜しくてホークスは、ごく自然な顔のまま、半歩だけ、前へ出る。逃がさないためではない。そんな素振りは、微塵も見せない。ただ、距離が縮まることが当たり前であるかのように。
 額と額が触れそうなところで、動きを止める。前髪が揺れ、互いの呼吸がかすかに混じるほどの近さだった。

「ね?」
「……おバカで熱が上がったみたいですね。お薬出しておきまーす」

 言うなり彼女の中指がホークスの額を弾いた。ぺちん、と、小気味よく乾いた音が鳴る。思わず両手で額を押さえて仰け反り、身を引いた。

「っ、てぇ……」

 ヴィラン相手なら、躊躇なく飛び込める男が、たった一発のデコピンで、情けなく顔をしかめている。痛みそのものは大したことはない。堪えたのは、その距離まで踏み込んでおきながら、あっさりとかわされた、事実のほうだった。

「ほんとさ、なんで私にだけこんな近いわけ?」

 彼女は呆れたように笑って一歩、距離を取る。指先が触れていた場所だけが妙に赤くなって熱を持っていた。

「近いです?」

 何でもないことのように首を傾げる。ずいぶんとぼけた声だった。その顔を見れば、自覚がないとは到底思えない。それでも悪びれる様子もなく笑うあたりが、この男らしかった。ホークスは、こてん、と首を傾げたまま、ふっ、と笑う。

「嫌ですか?」

 問いかけながらも、返事を待たずにまた半歩、距離を詰めて戻す。少し窮屈そうに首を傾けて、それでも器用に、彼女の肩へと顎を預けた。翼で重心を取っているせいか、不思議と、体勢は崩れない。嫌か、と聞いておきながら嫌だと言われる前に既成事実を作る。交渉術としては最低だが、効果は抜群だった。少なくともホークスの心臓に対しては。

「……歩きにくいなぁ、もう」
「そのうち慣れますって。てか慣れてください」

 退かない。むしろ少し体重を預けた。彼女は、喉の奥で笑っていた。彼女だけに、許されている距離なのか、自分が勝手に、許されていると思い込んでいるだけなのか、その境界は曖昧だった。それでも、離れる理由を探すより、もう少しだけこうしていたかった。

「彼女できたら、こういうのやめなさいよ?」
「んー?」
「彼女さんが、可哀想だから」

 肩越しに聞こえた言葉にホークスの笑みが少しだけ薄れる。

「彼女できないんで大丈夫です」
「……え、もしかして男性が好きとか?」

 さらりと返した声だけが、不思議なくらい静かだったのに、彼女からの言葉に「は?」と、間の抜けた声が漏れてしまった。

「やっぱり、エンデヴァーがタイプ?」

 ばさっと羽根ごと揺らして肩から顔を上げた。今日一番の勢いだったかもしれない。ホークスは全力で首を振る。

「なんでそうなるんですか!絶対ない!」
「そうかなぁ〜?」
「そこ飛びます?いや、ないない。フレイムヒーローはないです、絶対」

 今ごろNo.2ヒーロー炎の男エンデヴァー本人は何も知らずにヒーロー活動をしているだろうが、とんでもない流れ弾だった。

「エンデヴァーさん、エンデヴァーさんって口を開けば言ってるくせに」
「あぁ……そこですか」

 ホークスは膝から力が抜けそうになって小さく夏空を仰いだ。尊敬も、執着も、競争心もある。だからといってそれを恋愛感情に変換されるとは思わなかった。彼は肩を落としたまま諦め半分に笑う。

「俺、さっきも言いましたけど……好きな人いるんで。他の人にはこんなことしませんよ」
「……ああ、そういえば言ってたね」
「ちゃんと聞いてたんすね、流されたとばかり」
「その子も、エンデヴァー推しだといいけどね」

 その返事を聞いた瞬間に、何かを期待していた自分が馬鹿らしくなり、もう何も言えなかった。口を開く気力すら残っていない。今日だけで何度目だろう。好きだと言葉を選び、遠回しに伝え、そのたびに綺麗に受け流される。肩に顎を預けたことも距離を詰めた理由も「他の人にはしない」という一言も、彼女の中ではただの会話の流れでしかない。だからこそ、責められない。責められないことが一番、苦しかった。ホークスは小さくため息を吐く。空を飛ぶことより難しいことが、この世には、ちゃんとあるらしい。

「さてと〜。午後も頑張ろっと」

 軽やかな声を残して、彼女は先に、歩き出す。ホークスはその背中をしばらく目で追っていた。
 綺麗な髪が午後の風に揺れ、差し込む陽射しを受けて、柔らかく光る。彼女がこちらを振り返ることはない。その後ろ姿を見送ることには、もう慣れているはずだった。

「……頑張ろ。」

 ホークスは、誰にも届かないほど小さく呟いて自分にも言い聞かせるように、息を吐き切った。
 午後からはパトロールと事務処理、それから、夕方には、七夕の任務が一本。予定はきっちり、詰まっている。それでも頭の片隅では、夜七時という時刻だけが、妙に存在感を持っていた。
 ——合コン。あの場に、行く必要なんてない。そう思う一方で、「迎えに行きます」と口にした瞬間から、その約束はもう自分の中で決定事項になっていた。仕事はきっちり終わらせる。終わらせて迎えに行く。それだけを胸の中で静かに組み立てながらホークスは、翼を大きく広げる。今はもう彼女の隣を歩ける気力がなかった。赤い羽根が陽射しを受けてきらりと光り、その身体は音もなく空へと溶けていった。


 *


 仕事を終えた彼女は、更衣室のロッカーの前で軽く身支度を整えていた。仕事帰りのまま向かうのも味気ない。だからといって気合いが入りすぎていると思われるのも、少し違う。
 鏡を覗き込みながら髪を指先で整えて、リップだけ塗り直す。結局、朝と同じ色を選んだ。控えめにファンデーションを重ねたあと最後にボディコロンを、ひと吹き。甘すぎず、ほのかに柑橘が香る。
 ふと腕時計を見る。十八時半。十九時集合ならちょうどいい時間だった。バッグを肩に掛けようとしたところでスマートフォンが震える。画面に表示された名前を見て、彼女は、小さく笑った。ホークスからのメッセージだ。



21時に終わりそうです?

ていうか場所どこですか

変なのいたらすぐ
連絡してくださいね







 数分もしないうちに、もう一件、そしてさらに間髪入れずに、もう一件。結果、怒涛の三連投だった。夕方から任務だと言っていたはずなのに、余裕がないのか、気になって仕方がないらしい。画面の上では『入力中…』の表示が現れては消えまた現れる。まだ何か送る気なのだろう。彼女は彼からのメッセージが届く前に、返信をした。



駅前の鳥天狗だよ

了解です
21時に迎えに行きます







 既読は、一瞬の出来事だった。ほどなく返信も返ってきた。やはり来るつもりだ。「時間があったらでいいから」と伝えた言葉など最初から採用する気は、なかったらしい。時間があろうがなかろうが必要な時間は作る。その前提で動いている男だった。
 店に着く頃には、すでに中は、仕事帰りの客で賑わっていた。焼き物の香ばしい匂いとジョッキが触れ合う高い音。座敷からは笑い声が絶えず、店員が忙しなく通路を行き来している。
 案内された席には、すでに男女数人が集まっていた。見覚えのある公安職員ばかりだがこうして仕事を離れた席で向かい合うのは初めてだった。彼女の姿を見つけるなり幹事らしい男性がぱっと立ち上がる。

「おっ、来た来た。名字さん! 待ってました!こっちこっち、いい席空いてますよ」

 促されるまま座ると、向かいには男性が三人。どの顔にも、なんとなく見覚えはある。けれど、ネクタイを緩めて笑っている姿は職場で見る表情とは少し違って見えた。ほどなく全員のグラスが揃い、幹事が満足そうに辺りを見回す。

「じゃあ全員揃ったところで——出会いと平和にかんぱーい!」
「「かんぱーい」」

 高く鳴ったグラスの音が、座敷の中いっぱいに広がる。最初の一杯は、決まってビール。料理が次々と運ばれ、揚げ物の湯気や焼き鳥の香ばしい匂いが卓上を満たしていく。乾杯から数分も経たないうちに場はすっかり温まり幹事がパンと手を叩いた。

「じゃあ改めて、自己紹介いきましょう!男性陣から順番で!」

 真っ先に手を挙げたのは、背が高く人当たりの良さそうな青年だった。人前に立つ事にも慣れているのだろう。笑顔を崩さず淡々と名を名乗る。

「——趣味はフットサルで、最近、彼女に振られました〜! よろしくお願いしまーす!」

 あちこちから「早速重っ!」「かわいそー!」など、笑いと野次が飛ぶ。本人も苦笑いしながら頭を掻き場は和やかな空気のまま次の自己紹介へ移った。二人、三人と順番が進み、それぞれが、仕事や趣味を手短に話していく。ようやく女性陣の番になると、幹事が彼女へ視線を向けた。

「はい、それじゃ名字さん!」

 急に自己紹介を振られ、彼女は少しだけ困ったように笑う。とりあえず「名字名前です」とだけ告げた。あまりにも簡潔すぎる自己紹介だった。すると、最初に名乗った青年が身を乗り出す。

「えっ、名字さんって教育担当の?」
「……はい、そうですけど」
「やっぱり!あの有名な人じゃないですか!」

 周囲も「ああ」と納得したように頷く。すると別の男性が笑いながらジョッキを傾けて言った。

「年下の教育、結構やってるよね」

 すかさず幹事の男性が「公安じゃ、知らない人いないですよ」と付け加えた。しかし場の空気を読めない者が一名。先ほど、元気よくトップバッターで自己紹介をした、長身の青年であった。

「でも、それだけじゃ足りないなぁ〜。もっと、好きなタイプとか聞きたいです!」

 その一言で、空気が少し変わる。座敷全体が、一気に『そういう方向』に傾いた。女性陣の視線が集まり、男性陣もさりげなくグラスを置いて、耳をそばだてている。

「俺、前から話してみたかったんですよー。せっかくだし、教えてくださいよ」
「うーん。タイプで言うなら、ホークスみたいな人かな」

 彼女は少しだけ考えるようにしてから、視線を上げて言い切った。一瞬。本当に一瞬だけ座敷が静まり返り、そして次の瞬間、笑い声が弾ける。

「えっ!?ホークス!?まさかの、あの!?」
「はい、あのホークスです」

 視線を皿に落としたまま、さらりと言われて、彼が目を丸くする。それでも勢いは止まらない。

「え、じゃあ名字さんってホークスと仕事で結構関わってるんですか?」

 その質問に枝豆を口へ運んでいた女性職員が、呆れたように笑った。

「あんた知らないの?彼女、ホークスがまだ若い頃から面倒見てた人よ」
「えっ、マジ?」
「そう、教育担当の一人。ね、名字さん」
「あ、まあ……」

 彼は「へぇ」と感心したあと、どこか対抗心を燃やしたように肩をすくめる。そして、鼻で笑いながら言った。

「でも逆にそれってハードル高すぎません?ホークス見たあとじゃ、普通の男なんて霞みそう」
「私、理想は高く、が信条なので」

 彼女も肩をすくめて小さく笑った。間髪入れず返ってきたその答えに、青年は、降参したようにわざとらしく両手を上げる。

「それは俺じゃ勝てないなぁ……そもそも俺は、翼なんてないし」

 少し考えて付け足された言葉に「そこ!?」や「翼は努力じゃ生えないだろ!」などと、一斉に突っ込みが飛び交い、ジョッキを持つ手が揺れ、あちこちで「それはそう」と、相槌が重なった。
 ひとしきり笑いが落ち着くと、話題は自然と、彼女とホークスの話へと移っていき、幹事が興味津々といった様子で身を乗り出した。

「じゃあ、実際のホークスってどんな人なの?」
「え……?」
「どうなの? やっぱり噂通り、仲いいの?」
「仕事以外でも、結構しゃべる感じですか?」

 まるでついでのように幹事とは別の男性も身を乗り出して、ストレートに問う。彼女は苦笑して少しだけ考えるふうを装ってから頷いた。

「まあ……十五歳の頃から知ってるので、今でも話す機会は多いですね」

 その答えに、それまで黙々と料理を食べていた三人目の男性職員が顔を上げる。それから、しみじみ「十五歳かぁ……」と、感心したように息を漏らした。

「新人時代のホークスって正直あんまり想像つかないな」
「確かに……昔からあの飄々とした感じだったのかと思ってたわ、俺」

 幹事の男性も「わかる!」と頷く中、向かいの男性が勢いよくテーブルを叩いた。全員の視線が一気に集まる。

「いや、待って。それってすごくない?教育担当だった人が、次期No.2ヒーローと普通にご飯食べたりする仲ってこと?」
「え、今さら? 公安じゃ有名な話じゃない」

 女性職員の一人が笑って返すと、隣の女性も、「そうそう」と、苦笑しながら頷いた。

「というか、ホークスのほうが勝手に名字さんのところ行ってるだけだよね」
「あー、それ」
「うんうん、わかる」

 あちこちから同意の声が上がる。彼女を狙っていたらしい青年の笑顔が、わずかに固くなった。それを横目に女性陣の一人は枝豆をつまみながら小さく肩をすくめて言った。

「マジで知らなかったの?有名な話だよ」

 話が大きくなりそうなのを察したのか、慌てて彼女は「違う違う」と苦笑しながら手を振って、話を割った。

「ただの同僚なので。今は普通に……対等な関係ですよ」
 
 幹事の男性が思わず「対等?」と聞き返した。他の数人も「あのホークスと、対等?」と、顔を見合わせている。誰も笑わなかった。むしろ本気で驚いている顔だった。教育係だった頃ならまだ理解できる。けれど今のホークスは日本中が知るトップヒーローだ。そんな相手を『対等』と言い切れる人間が、果たしてどれだけいるのだろう。

「いや……すごいな」

 誰かがぽつりと漏らしても彼女は、きょとんとして「そうですかね?」と、ただ首を傾げるだけだった。その自然さがかえって周囲を黙らせる。
 少し間を置いて彼女を狙っていた青年が空いたジョッキをテーブルへ戻した。そして話題を切り替えるように笑う。

「じゃあ、今は彼氏いないんですよね?」

 ずいぶんと直球すぎる質問だった。酒の勢いもあるのだろうが、それ以上に今しかないと思ったのだろう。しかし彼女は、あっさり頷く。

「いないですよ」

 その返事を聞いた瞬間、彼の表情が目に見えて明るくなる。それまでは探るようだった視線が、一気に前のめりになった。

「あの……今度二人で食事でもどうですか。俺、美味しい店、結構知ってるんですよ」

 ずいぶんと露骨で真っ直ぐな誘いだった。周囲から「おお」と小さなどよめきが上がる。青年は爽やかな笑顔を崩さないまま空になりかけた彼女のグラスへさりげなくビールを注いだ。こういう場には慣れているのだろう。その隣では別の男性が「抜け駆けかよ」と、肩を小突くように笑う。しかし青年は悪びれもせず肩をすくめてにやっと笑った。牽制だ。「早い者勝ちでしょ」という、無言の宣言。そんな空気に押されるように彼女は苦笑する。

「あー、まあ……機会があれば」

 社交辞令のつもりだった。だが相手は「機会があれば」を「了承」と変換する脳の持ち主だったらしく、彼女の曖昧さを前向きな返事として受け取り、嬉しそうに身じろぎする。

「じゃあ連絡先交換しましょう。LINEで大丈夫ですか?」

 そう言って迷いなくスマートフォンを差し出してくる。幹事が「お、攻めるねぇ」と口笛を吹き女性陣も面白そうに顔を見合わせた。場の空気はすっかり、彼のペースになっていた。だが、そのとき。彼女のスマートフォンが、小さく震える。画面には、メッセージの通知。送り主はホークスからだった。



楽しんでます?







 男性職員へ当たり障りのない笑みを返しながらテーブルの下では、届いたメッセージに目を走らせる。読み終える頃には、胸の奥がふっと温かくなり口元が緩むのを止められなかった。そのまま表情だけは崩さぬよう、静かに返信を打ち込んで送信した。



楽しんでます?

めんどくさいからタイプはホークスって言ったのに全然引いてくれなくて困ってる笑







 送信した瞬間に、『既読』が付いた。そして、すぐに『入力中』が表示される。けれど、いつもなら間髪入れず返ってくるはずの返信が、珍しく数秒止まった。そうして、ようやく届いたのは、『誰ですか』の、たった一文だった。それに続くように『名前は』。さらには『写真送って』と、短く区切られた文章は、どれも余計な飾りがなかった。焦っているときほど、彼は言葉数が減る。彼女は耐えきれず肩を揺らして笑いながら写真を撮る代わりに言葉で返す。



誰ですか

名前は

写真送って

無理だよ笑







 やはり��既読�≠フ印はすぐについた。そして、数秒後、今度は『入力中』の表示が一度も途切れないまま、返信が届く。言葉を選び直した気配はない。思ったことを、そのまま打ち込んだような短い文だった。



迎え20時にします

早いって笑

19時半

短くなってる!笑







 値切ったつもりなのか、むしろ前倒しになっている。もはや、交渉にすらなっていなかった。
 彼女は思わず息を漏らし一度スマートフォンをテーブルの上に伏せる。このまま、メッセージを無視してここにいても、どうせあの男は、迎えに来る。最悪の場合、乗り込んできそうでもある。そう思うとこれ以上、ここに長居する理由も見つからなかった。彼女はスマートフォンをバッグにしまい込み手早く荷物をまとめて立ち上がった。

「ごめんなさい、急に仕事の連絡が入ってしまいまして……私、先に失礼します」

 彼女の教科書通りのその言葉に向かいの青年が驚いたように顔を上げ「えっ、もうですか?」と思わず彼も立ち上がり名残惜しそうにして持ったままの自身のスマートフォンを握り締める。

「まだ、一時間も経ってないですよ」
「すみません。本当に、ちょっと立て込んでて。また、職場で」

 それ以上、期待を持たせないように、柔らかく笑って頭を下げる。幹事へ会費を渡し、もう一度だけ会釈をして引き戸を閉めた。その向こうから宴会の笑い声が遠ざかっていく。残された面々はしばらく、ぽかんと入口を見つめていた。誰かが不意に「速ぇな」と呟く。「機会があれば」は、結局のところ、本当にいつかの機会のまま消えてしまった。彼女狙いの青年は仕方なさそうに苦笑して、ジョッキを持ち上げる。

「……速すぎる男には、勝てないかぁー」

 その独り言に突っ込む者はいない。ただ乾いた笑いが座敷に広がるだけだった。
 彼女が店を出ると、昼間の熱気が嘘のように、和らいでいた。夜風が首筋をすべり駅前には七夕飾りが静かに揺れている。色とりどりの短冊が、街灯を受けてかすかに光り、人の流れに合わせるように、さらさらと鳴っていた。
 時刻は十九時四十五分——。予定より、ずっと早く店を出てしまったものの「十九時半」と言い張ったヒーローとの合流地点が決まっていない。場所が送られてきていないかを確認するために、スマートフォンを開く。画面には、ホークスから新しいメッセージが三件も届いていた。



どこですか

駅前います

ついた







 見つけるのは、簡単だった。駅前ロータリーの植え込み脇、壁にもたれるように立つ赤い羽根を背負ったヒーローは、この時間帯でもひどく目立つ。翼は半分だけ開かれ、夜風を受けてわずかに揺れている。行き交う人々が、「あれ、ホークスじゃない?」と、視線を送っても、本人は気にも留めない。彼が見ているのは自分の元へと歩いてくる一人の人影だけだった。その姿を認めた瞬間金色の瞳が、ふっと和らぐ。だが次の瞬間には、その安堵ごと胸の奥へ押し込めてしまった。

「お待たせ」

 近づいてきた彼女を、ホークスは、頭の先から足元まで静かに眺める。服装も表情も歩き方も。どこか、乱れた様子はないか。それを確認して、ようやく、安堵の息を吐いた。

「……遅かったですね」
「十五分ね!?」
「ペナルティです」
「そもそもさ、ボディーガードさんが早く来すぎなんだってば」

 その呼び方に、ホークスは小さく笑う。笑ったはずなのに、それは、口元だけだった。「ボディーガードて」と短く漏らし、彼は踵を返す。行き先を告げることもなく歩き出す背中は「来るならどうぞ」とでも言いたげだった。彼女は、苦笑しながらそのあとを追い、すぐに隣へ並ぶ。

「……なぁに? 機嫌悪いじゃん」

 その声に、ホークスは街中では邪魔になる翼を静かに畳んだ。もう彼女は、隣にいる。警戒する理由は、本当は、どこにもないはずなのに——。

「別に」

 ぶっきらぼうすぎる返し。機嫌は、悪かった。あきらかに。本人は隠したつもりでも声はいつもより、少しだけ低い。夜の空気が二人のあいだを流れていく。
 行き先を尋ねる必要はない。このまま、彼女のマンションまで送るだけだと、お互い、最初から分かっていたから。

「……何かあった? 大丈夫?」

 歩幅を変えないまま、ホークスは横目で彼女を見る。本気で心配している顔だった。その視線を受けるたび、ホークスの胸の奥が少しだけ痛む。

「俺は平気です。名前さんこそ、大丈夫だった?変なのに絡まれたりしてない?」
「あ、そうそう。かわしたかわした」

 その一言でホークスの足がぴたりと止まった。「……かわした?」と聞き返す声は静かだったが温度がまるでない。

「誰ですか」
「え?」
「誰に、何されたんですか」

 抑えているぶんだけ、声は低くなる。彼女は、思い出すように首を傾げて、それから、肩をすくめた。

「んー......名前なんだっけ。忘れちゃった」

 彼女がそのままへらりと笑うとその表情を見た瞬間、彼の背中の剛翼が、ぶわっ!と逆立った。本人の意思とは無関係に。彼女は思わず「わ!」と、目を丸くする。ホークス自身も、その反応に気づいて、視線だけを背中に向けて、自分の翼を見下ろし、舌打ちした。思考より先に身体が反応してしまう。そういうところまで彼の個性は正直者だった。逆立った羽先を指先で撫でて宥める。落ち着けと言い聞かせるように。それでも数枚の羽はしばらく震えたままだった。

「……どうしたの。そんな急に興奮しちゃって」
「……何でもないです」

 それだけを返してホークスは、また歩き出す。いつもよりも少しだけ早い足取りだった。彼女はその場で立ち止まったまま、しばらく彼の背中を見つめていた。ややあって「ホークス」と背中に彼女の声が飛ぶ。

「止まって。こっち向いて」

 その一言には逆らえなかった。彼は素直に立ち止まり、ゆっくり振り返る。不機嫌さを隠しきれない顔。街灯を映した金色の瞳だけが、静かに、揺れている。彼女は、その前へ歩み寄ると、何も言わず両手を伸ばした。ひんやりした掌がそっと彼の頬を包む。その温度に触れた途端、張りつめていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。

「どうして機嫌悪いの? 言いなさい」

 両頬を包まれたままホークスは言葉を失った。彼女の手は小さい。それでも逃げようとすれば、逃げられないくらいには優しかった。自然と腰を折る。身長差がいくらかあるはずなのに今は自分のほうが見上げているような格好だった。夜風に揺れていた翼も、少しずつ落ち着きを取り戻していく。逆立っていた羽先が一枚また一枚と静かに寝ていった。

「任務で、嫌なことでもあった?」

 ホークスは視線を逸らそうとする。けれど頬を包まれているせいで、逃げ場がない。

「……任務じゃなか」
「じゃあ、なあに?」

 彼は、胸の奥でため込んでいた息を、ゆっくり吐き出した。長く、長く。それは、諦めにも似た吐息だった。それから、搾り出すように。

「……メッセージ」
「うん?」
「『引いてくれなくて困ってる』って送ってきたじゃないですか……俺、だから早く、迎えに行くつもりだったんですよ」
「うん。実際、来てくれたでしょ?」
「違うくて」
「違うの?」
「なのに……俺に助け求めたのに、俺が着く前に自分で抜けてきたから」

 彼は視線を落としたまま、小さな声で続けた。彼女はそこで思わず、きょとんと瞬きをした。

「……え。それで、拗ねてるの?」

 違うと反射的に言い返そうとして口が止まる。違わない気もした。怒っているわけでも責めたいわけでもない。もっと情けなくて、惨めな何か。
 自分でも名前をつけられない感情が、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まっている。ただ自分の役目がなくなってしまったことが妙に寂しかったのかもしれない。

「……ちゃんと断れたんだから、偉くない?」

 偉い。その通りだった。彼女は自分であの場を切り抜けた。上手くやった。何も問題は起きなかった。自分が出る幕なんてなかった。だからこそなかったのが嫌だった。その矛盾を飲み込めないまま自分が必要なかったという事実だけが残る。

「……偉いです」

 口ではそう言う。けれど、その声には、まるで納得している色がなかった。全く、心がこもっていない言葉が、夜道に転がった。

「じゃあ、何が引っ掛かってるの?」

 すぐに返事はこない。沈黙が落ちる。五秒——十秒、もっと。夜の道路をタクシーが一台、通り過ぎ、そのヘッドライトが、二人の影を長く引き伸ばしていく。やがて、ようやくホークスが口を開いた。

「……不満とかじゃ、ないです」

 言葉の半分くらいは本当だった。背中の剛翼がそれを語っている。赤い羽の先がかすかに震えていた。本人よりも、正直に。

「じゃあ?」

 優しく促される。逃げ道を塞がれたまま、彼は苦く笑った。

「……連絡先」
「ん?」
「俺も交換したかった、その人と」
「え?」
「俺の知らない人が、名前さんの連絡先知ってるの、嫌なんで」

 言い切ったあと「あ……」と、小さく漏らして目を伏せる。自分でも、何を口走っているのだと思ったらしく、耳まで赤く染まった。ホークスは慌てて言葉を繋ぐ。

「そ、それに、ライン……」
「うん?……ああ、ホークスとは、まだラインは交換してなかったっけ」
「……してない。します」
「うん。しよっか、交換」
「はい」

 そこで会話が終わる。本来終わるはずだった。しかし彼女は「それだけ?」と首を傾げて、まだ頬から手を離してはくれない。ホークスは黙ったままで、視線を泳がせた。

「言うまで離さないし、逃さないよ」
「……っ」
「そもそも、誰とも交換してないからね?番号もラインも」

 ホークスはぐしゃりと顔を歪めて困ったように笑った。泣き笑いに近い表情だった。嬉しくて、完全に、観念した笑い。『逃がさない』『誰とも交換していない』と言われて、ついに折れるしかなくなったのだ。「ずるか」と呟いてから小さく息を吐く。それでもまだ彼女の目は逸らしてくれない。逃げられない。だから、とうとう、零れてしまった。

「……俺以外の男の話……しないでほしい」

 一度、言葉が切れたが、その先を、どうしても飲み込めなかった。静かな声だった。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ、胸の奥に隠し続けていた本音だけが、そのまま形になったような声音だった。

「……ん?」

 彼女のその反応でホークスは自分で言った言葉の重さに気づいたのか、またしても、耳の先まで熱が駆け上がる。ホークスは耐えきれず、視線を夜空へと逃がした。

「……忘れてください、今の」
「いやいやいや、待って待って」

 彼女はくすりと笑いながらも、手は離さない。逃げ道を塞いだまま、赤く染まった耳を、興味深そうに眺めている。ホークスは星を見上げたまま動かなかった。夏の夜空には街明かりに負けじと小さな星がいくつか瞬いている。そのどれよりも落ち着かないのは、自分の心臓だった。背中では隠しきれない感情を映すように赤い羽が小刻みに震え続けていた。

「したっけ? 他の男の人の話なんて」

 彼女は彼の頬を包む手はそのままで首を傾げたまま、ホークスの顔を覗き込む。

「さっきの、合コンした同僚たちの話?」
「……っ、」
「その顔は、違うってことだよね?じゃあ——」

 ホークスは喉の奥で低く唸るような声を出す。息が詰まる。赤面しているのが自分でもわかる。それでも、視線だけが揺れず、彼女を映した。

「……してないです」

 ぽつりと落ちた声は、どこか、拗ねた子どものようでもあった。

「してないから……嫌なんです」
「んん?……わかんないぞ。どういうこと?」

 彼女は、ますます困ったように笑った。もう、誤魔化せなかった。逃げるようにまた夜空に向けようとした視線を引き剥がして、ゆっくり彼女へ戻す。近すぎる。至近距離。頬を包む両手はまだここにある。逃げられない。逃げ道は、どこにもない。心臓がうるさい。ホークスは、小さく息を吸った。胸の奥で何度も飲み込んできた言葉が、とうとう堰を切る。

「……だから」

 ホークスは、少しだけ眉を下げて笑う。それは困ったような、諦めたような笑みだった。

「好きなんですよ、俺」
「ん?」
「好きだって言ってんの」
「………え?」

 彼女の表情が止まった。まるで話の意味だけが数拍、遅れて届いたように。ホークスはその顔を見た瞬間、自分が何を口にしたのかを改めて理解した。「あー」と、夜空を仰ぎ見る。しまった。そんな声まで漏れそうになって口を引き結んだ。後悔と開き直りが入り混じり、結局どちらも中途半端なまま唇を噛んだ。街灯が、かすかに唸る。夏の夜風が二人の間をすり抜ける。背中では翼がふわりと広がりかけて、慌てて閉じられた。感情だけが、どうしても隠しきれない。

「……返事は、いらないんで」
「……」
「今は、それだけ知ってもらえれば」

 ようやく絞り出した声は思っていたより穏やかだった。それでも居た堪れなくなり頬から彼女の手を外そうと身じろぎした、その瞬間。

「いっ——」

 両頬が思いっきり、むにっと摘ままれた。人気ヒーローらしからぬ情けない悲鳴が夜道に響く。彼女はようやく彼の頬から手を離して、少しだけ眉間に皺を寄せ「酔ってる?」と問う。ホークスは摘まれた頬を押さえながら、顔をしかめた。

「飲んでないです!」
「シラフで?」
「……シラフで」

 ホークスは、少しだけ痛む頬に触れたままで、力なく笑って、そう答えた。もう取り繕う余裕も残っていなかった。彼女は少しだけ真面目な顔になって尋ねる。

「私のこと……好きなの?」

 ここまで気持ちを曝け出しておいて今さら隠す意味もない。ホークスは、静かに頷いた。

「そうです。ずっと」

 その短い返事は、何年分もの時間を抱えたまま夜に落ちた。彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。ホークスは思わず首の後ろへ手を回した。ばつが悪そうな顔。それは、照れ隠しの癖だった。

「えっと……じゃあ、短冊に書いたお願い事っていうのは」
「……見たんですか」
「見てない見てない!」

 彼女は一瞬、きょとんとして、すぐに慌てて、両手を横に、豪快に振る。

「ただ、何を書いたのかなって思って……」

 ホークスは思わず、小さく笑った。緊張で張りつめていた肩から少しだけ力が抜けて、ゆっくり息を吸って吐く。そして一回、二回。覚悟を決め直すように、呼吸を繰り返した。胸の奥にしまい続けてきた願いを、今度は、隠さずに言葉にするために——。視線は、彼女から逸らさない。

「……ずっと、」
「……」
「隣にいてほしかったから……」

 短冊に書いた願いは人に見せるためのものではなかった。『一人じゃない夜がほしい』。七夕の願いとして書いたその一文は、本当はもっと単純だった。その意味が今、全く違う形で彼女の前に差し出されていた。隣にいてほしい人は最初から一人しかいなかった。

「……隣にいるでしょ、ほぼ毎日」
「それは……」
「あなたが金魚のフンみたいについてくるから」

 その言葉にホークスは静かに首を横に振った。小さな動きだった。だが、はっきりと。そこにはどうしても、譲れないものがあった。

「そういう意味じゃない」

 毎日顔を合わせることでも仕事を共にすることでもない。彼が欲しかったのは、もっと単純で、もっと身勝手で、だからこそ口にする事をずっと恐れてきた居場所だった。一人の男として、その隣に立つこと。そういう意味だった。教育係と、後輩ではなく。守る側と、守られる側でもなく。ただ、好きな人として、彼女の隣にいたい。

「……ん? じゃあ、どういう意味?」

 彼女はまだ、わかっていない顔で首を傾げる。その無防備さに、思わず苦く笑いそうになった。好きになった相手は最後の最後まで自分の気持ちだけを、拾い損ねる。そんなところまで含めて、どうしようもなく愛おしかった。
 ホークスはもう半歩だけ距離を詰めた。夜風が二人の間を通り抜け、赤い羽をふわりと揺らす。彼女を見下ろすその視線はとても穏やかだった。

「鈍いところも、好きなんですけどね」
「うん?」

 間の抜けた返事が返ってくる。その声に、肩の力が抜けて同時に覚悟が決まった。もう遠回しな言葉では届かない。短冊に願いを書いても、何度「好き」と零しても、全部、彼女は笑って、受け流してしまうのだから。だから今度だけは、逃げ道を残さない。金色の瞳が真っすぐ彼女を映す。照れ隠しも、軽口も、いつもの飄々とした笑みもない。ただ、一人の男として——。

「付き合ってください」
「……」
「あなたの、彼氏になりたい」

 今度は声に、迷いがなかった。言葉は驚くほど静かに落ちた。けれど、それは彼が十五の頃から胸の奥に積み重ね、何度飲み込み、何度諦めようとしても諦めきれなかった年月そのものだった。
 街の喧騒は変わらず続いている。駅前では人が行き交い、七夕飾りが風に揺れて、色とりどりの短冊が、さらさらと擦れ合う音を立てていた。

 願い事は空へ向かって結ばれる。叶うかどうかは誰にもわからない。それでも今年の七夕だけは胸の奥にしまい続けた願いを、ようやく、大切な一人へと、手渡すことができた気がした。


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