返事を待つ時間は、夜よりも静かだった。七夕飾りが風に鳴る音だけが二人の間を細く通り抜けていく。街の喧騒はすぐそばにあるはずなのに、その輪の外へ、取り残されたような感覚だった。
彼女が次の言葉を選ぶまでのわずかな沈黙が、ひどく長い。何百ものヴィランを前にしても乱れなかった呼吸が、たった一人の返事を待つだけでこんなにも心許なくなるとは思わなかった。剛翼がわずかに震え、それを止めようと意識するほど鼓動だけが正直に、速くなっていく。彼女が何を口にするのか、その一言だけを待つ世界に今彼は立っていた。
「……本気? いくつ離れてると思ってるの」
「知ってますよ。だから何ですか」
迷いなく返された一言に、彼女は少しだけ目を伏せる。
「いや。もっと、同じくらいの歳の子と恋愛した方が……」
その言葉を聞いた途端、ホークスの表情がわずかに曇り眉が寄る。苛立ちではない。怒ったわけでもない。ただ傷ついたのだと、見ているだけでわかる顔だった。
「年齢の話するの、やめてもらっていいですか」
声は低く穏やかでも、有無を言わせない響きがあった。けれど、その静けさには、これ以上その話題を続けさせないだけの強さがあり、成人した男に向ける言葉ではないと暗に突き返している。
「俺が選んだのは……初めて好きになったのは、他の誰でもない。名前さんです」
「うん……昔から、その気持ちは、痛いほど伝わってた」
「……」
「……とっても、嬉しいよ。でもね?」
その「でもね」が落ちた瞬間、赤い翼の羽先がわずかに強張る。彼女はその気配を察して困ったように笑った。ホークスは、恐る恐る聞き返す。
「……その、先は?」
「あなたは、思春期の頃に出会った相手を、少し特別に見ちゃってるだけなんじゃないかなって」
「……」
「フィルターが、かかってるだけだと思うの」
ホークスは何も言わなかった。金色の瞳だけが静かに、彼女を見つめる。それから、ゆっくりと笑みが消えた。
「フィルター......」
「十五歳だったでしょう、あの頃」
「......十五歳」
ホークスはそこで、ようやく息を吐く。小さく繰り返した声は妙に静かだった。その静けさが、かえって彼女の胸を締めつける。
「名前さん」
「……」
「俺のこと、まだその頃のままだと思ってるんですか」
「そういう意味じゃ——」
「八年ですよ」
彼女の言葉を途中で遮った。声に棘が混じる。初めてではない。この男の声に刃物のような鋭さが乗ったのは。ホークスは静かに、だが、確かな怒りを滲ませて続ける。
「あのとき十五だったからって八年経っても同じままだと思うほうがおかしいでしょ。八年間俺はずっと名前さんを見てきた。隣で、ずっと」
声を荒らげるでもなく。ただ一つひとつ言葉を積み重ねていく。
十五歳。確かにそうだった。あの頃の自分は、まだ子供だった。背も今より低くて声も高くて、何もかもが、未熟だった。否定できない事実が、そこにある。だがホークスは引かなかった。拳を一度握り、開いて、また口を開く。
「仕事で無理して笑うとこも。新人が失敗したら誰より先にフォローに回るとこも。疲れてる日に限って、夕飯を適当に済ませるとこも。夜中まで残ってて、隠れて甘いもん食べてるとこも」
少しだけ彼女の目尻が下がった。言葉を重ねるごとに声が熱を帯びていく。夜風が頬を撫でる。
「ぜんぶ……ぜんぶ、見てきた」
「……」
「フィルターなんかじゃなか。ちゃんと見てきたんです、ずっと」
「……」
「ちゃんと見て、それでも好きなんです」
「わかってるよ」
彼女は、小さく笑う。その返事にホークスは、わずかに息を詰めた。わかっている。なら、どうして——。その問いだけが喉元までせり上がる。
夜風が凪いだ。街路樹の影がふたつ、アスファルトに並んでいる。どこかの居酒屋から笑い声が漏れていたが、それすら今は遠い。
「私も、あなたのことは大好き。もちろん、大切だとも思ってる」
「……」
「でも、あなたはこれからの日本を背負っていくヒーローでしょう?」
柔らかな声だった。だからこそ、続く言葉が、彼には何より苦しかった。
ホークスは黙って聞いていた。最後まで遮らず全てを受け止めて。そして、ふっと息が抜けた。怒りでも失望でもない。諦めに似た、けれども、折れない、何か。
「それは……」
そこまで声にして静かに息を吐く。それから、ゆっくりと首を横に振った。
「俺の人生を、俺以外が決めていい理由にはならない」
「そうなんだけど……でも、どうかな……」
まただ。また「でも」——。ポケットに入れた手に力が入る。震えているのを悟られたくなくて少し乱暴に翼を一度だけ広げた。ばさりと夜気が鳴る。そのまま収め直してから目を伏せる。その表情は笑っているようで、笑っていない。
「……でもでもって、さっきから、全部『でも』ばっかり」
「……」
「きっとこの先も、全部『でも』でしょうね」
「あなたみたいに若さで突っ走れないからだよ」
彼女は困ったように笑う。その一言にぴくりと反応した。彼の胸には深く刺さったらしい。
若いから。まだ知らないから。いつか気持ちが変わるから。そう、言われ続けている気がした。ホークスは彼女との距離を一気に詰めた。両腕で囲うように追いやり壁に手をつく。逃げ道を塞ぐつもりはなかった。それでも、彼女が後ずさったぶんだけ距離は縮まり、背中が街路樹の脇に立つ壁へ触れる。顔が近い。吐息が届くほど近い距離で、金色の瞳だけが静かに彼女を見つめていた。もう、冗談で誤魔化すつもりはなかった。
「じゃあ、突っ走らなくていい。立ち止まっててください。俺がそっちまで行くんで」
言い切ったあとホークスは少しだけ息をついて口元を緩める。金色の瞳が真っ直ぐ彼女を映す。しかし、彼女はここで思わず吹き出してしまう。
「ふふ……」
「……なんですか」
「いつの間に、こんな男らしくなったんだろう、って……」
壁についていたホークスの手が微かに震えた。耳まで赤くなる。
「今、そういう感想いいんで」
「だって、ほら。耳、真っ赤」
反射的に耳に手を当てる。「あ……」と覆ったところで、もう遅かった。ばつが悪そうに、眉を寄せる。
「見ないでくださいっ」
「かわいい」
その一言に肩が落ちて耳から手が離れた。もう誤魔化す気も失せたらしい。ついでに、へらりと笑う余裕もない。
「……かわいいじゃなくて」
ぽつりと零れた声音には、拗ねたような響きが混じっていた。格好いいと、言われたい。だが、どうしても声に覇気がない。そんな年相応の意地が透けて見えて、彼女はまた笑う。
日本中から憧れられるトップヒーローも彼女の前ではどうにも調子が狂う。ホークスは、小さく息を吐きゆっくりと身を屈めた。額が触れそうな距離まで近づく。
「……返事」
「いらないって、さっき自分で言わなかった?」
ホークスは、くっ、と喉の奥で、小さく笑う。その音は、不思議なくらい優しかった。額同士がそっと、触れ合う。彼女が、わずかでも抵抗しなかったことに安堵しながら。
「撤回します。やっぱ、いる」
「……」
「やっぱ、欲しい」
「もう……」
「もう、じゃない」
「……」
「もう、はぐらかさんで——」
真剣だった。近いまま目を逸らさない。金色の瞳が至近距離で揺らぐことを知らない。彼女も、そこで笑みを消した。こんな真っ直ぐな眼差しを彼が向けてくることを、八年前から知っている。だからこそ、冗談では返せなかった。
「聞かせてください、名前さんの気持ち」
相変わらず、静かな声だった。彼女は観念したように小さく息を吸った。
「だから、私も好きだよ。でも——」
そこで言葉が止まった。その続きを、最後まで言わせなかった。彼が先に唇が塞いだから。もう待てなかった。
何度も聞いてきた「でも」——。年齢。立場。未来——。きっとまた自分ではない何かを理由に距離を置こうとする。そう思った瞬間には、もう体が動いていた。長くはない。触れたことを確かめるだけの不器用な口づけだった。離れた瞬間、今度はホークスの方が固まっていた。また耳まで真っ赤になり、肩が忙しなく上下する。心臓が、口から飛び出そうだった。自分からしておいて、自分が一番、動揺している。深く息を吸い、どうにか呼吸を整える。そうして、その照れ隠しごと諦めたように笑った。
「……好き同士なら、それで、よくないですか」
「……これは、ずるい男のやり方だねぇ」
彼女は、呆れたように目を細めた。その言葉にホークスは少しだけ開き直った笑みを浮かべる。さきほどまでの赤面は、どこへやら。
「ええ。ずるくても、勝ちは勝ちです」
「……」
「譲れないんで」
「……もう一回、聞くけど」
「はい」
「本気なの?」
ホークスは、ふっと笑って首を傾げた。金髪の前髪が、さらりと揺れて、額にかかる。
「逆に聞きますけど、俺がこの手のことを冗談で言うと思います?」
そう言って彼は自分から半歩だけ距離を取った。追い詰めるためではなく彼女が自分の意思で前を向けるだけの、余白を残すためだった。それでも見下ろす高さは変わらず、その差が、残酷なほど、はっきりと浮き彫りになった。
夜の街灯が二人の影を長く伸ばしている。いつの間にか人通りは途切れ、この一角だけが、喧騒から切り離されたように静まり返っていた。翼の羽先が、微かに震えた。振動を拾っているのだ、周囲の気配を。誰も来ないことを確認するようにその口角がわずかに上げるともう一度だけ彼女を見つめた。その鷹のような瞳には迷いも逃げ道もない。
「名前さん」
「……」
「目、めちゃくちゃ泳いでますよ」
その声はもう先ほどまでの張りつめたものではなかった。笑いを堪えきれないまま指先がそっと彼女の前髪を払う。触れるか触れないかほどの、ごく小さな仕草だった。その金色の瞳が、悪戯を見つけた子どものように細まる。
「動揺してるでしょ」
「……!」
「……脈アリってことで、いいですか」
「……っ、ずるい」
その瞬間、数秒前まで張りつめていた彼の顔がゆっくりと抑えきれないほど柔らかく、とろけるように崩れていく。
「……ずるい? 俺が?」
思わず聞き返す。嬉しさを隠す気などどこにも残っていないと言わんばかりに、歓喜が喉の奥で弾けている。拒絶なら、きっともっと違う言葉が返ってきていたはずだ。「ずるい」は困っている人の声だ。そして、困る理由は、少なくとも嫌いだからではない。そう結論づけた瞬間、胸の奥で何かが解けた。ホークスは照れ隠しのように肩を竦める。笑い混じりの声が漏れる。
「えー、どこがですか。俺、ちゃんと正面から、好きって言っただけなんですけど」
そう言いながらもその声はどこか弾んでいて、口元が緩み、隠しきれない喜びが滲み出ている。
ホークスは「それに……」と一度離れた距離を戻すと、もう一歩、距離を詰めて彼女に顔を寄せ至近距離で、その瞳の中を覗き込む。
「名前さん、否定しないんですね」
「……」
「嫌じゃ、ないんでしょ」
聴きながら背中では翼の羽先がぱたぱたと落ち着きなく揺れていた。まるで犬が尻尾を振るのと同じ原理だ。嬉しいときは羽が正直になる。本人だけがそれに気づいていないだけで。
彼女は諦めたように小さく息をついて、また、困ったように笑った。そして彼と視線を合わせたまま呟く。
「……じゃあ、付き合ってみる?」
世界が止まったようだった。いや、少なくともホークスの時間だけは本当に止まっていた。彼は息を呑んだままぴたりと動きを止める。目の前で告げられた言葉を、脳が必死に噛み砕こうとしていた。瞬きすら忘れたような顔で、彼女を見つめ続け、それでも理解は追いつかない。そうして、「え……」と掠れた声が、ようやく、喉から零れ落ちる。
「付き合って、みる……?」
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、繰り返してみた。確かめるためなのかそれとも現実として受け止めるためなのか自分でもわからない。その語尾は、どうしようもなく疑問形で、思わず「……軽っ」と漏れたホークスの声に彼女は肩を揺らして笑う。
「軽くないよ。ただ……断る理由を、考えるのをやめただけ」
その一言でホークスはまた何も言えなくなる。遠くで誰かが笑い声を上げる声が反響して消えていく。彼女の顔をじっと見つめたまま彼は瞬きを一つした。そのまま小さく息を吸ってぽつりと。
「……考えるのを、やめた」
口元を手で覆う。肩が震えた。笑いなのか安堵なのか自分でも区別がつかない。「やば」と声が漏れる。抑えようとしても、抑えられない。
「それって……」
「……」
「裏を返せば、もう、断る理由がなくなったってことですよね」
ゆっくり口元から手を下ろした。そこにあった笑顔は、さっきまでの余裕ぶったヒーローのものではない。恋が報われた男、そのものだった。
「ほんと、ポジティブだね」
「楽観的なんすよ、俺は」
金色の瞳がきらきらと光る。嬉しさを抱えきれず、翼が大きくふわりと広がった。夜風を受けて赤い羽がさらさらと鳴る。ホークスはだらしなく頬を緩ませたまま、へらっと笑った。
「……じゃあ、今日から俺たち、恋人ですね」
「え……」
「俺、そういうことで受け取りますけど」
あまりの急展開に追いつけないでいる彼女と、少しだけ照れたように眉を下げる彼。その声は、どこまでも軽やかなのに、瞳だけは真剣だった。
「今日から俺たち付き合ってるってことで。はい決定。異論は受け付けません」
そう言って彼は人差し指をぴしりと彼女へ向けた。勝ち誇ったような笑みを浮かべているくせに耳の先だけは、まだほんのりと赤い。強引に話をまとめたように見えて、その実、返事をもらえた事が嬉しくて仕方がないのが隠せていなかった。
「もう……ほんと調子いいんだから」
呆れたように笑われても、その言葉すら、今のホークスには肯定にしか聞こえない。広げた翼が夜気を柔らかくはらみ、そのまま、彼女の周囲をゆるりと一周する。羽ばたくというより弾む心が翼に伝染したような動きだった。
「調子いい?……いやいや、俺は至って、真面目ですよ」
彼はまた彼女に歩み寄ると、そっと耳元へ顔を寄せた。
「大好きな人に、大好きって言ってるだけです」
「返品不可だよ?」
疑うような目でそう言われると、ホークスは、思わず抑える気もなく、吹き出した。それから、今日いちばんの笑顔を見せる。
「それ、こっちのセリフです」
「ローンも、可?」
彼は思わず目を丸くしたあと喉の奥で笑い声が漏れた。その勢いのまま腕を回す。抱き寄せるというより、ようやく、触れていい理由をもらえた人間の抱擁だった。小柄な身体は、驚くほどすんなり腕の中へ収まりホークスは息を呑む。ずっと想像していた距離なのに、実際は想像よりずっと近くて、柔らかくて、温かかった。
「分割でも何でも受け付けますよ」
「……うわ、」
「なんすか」
「香水なんてつけちゃってさぁ」
腕の中でわざとらしく、クンクンと鼻を鳴らし匂いを嗅ぐ彼女にホークスも照れくさそうに鼻の頭を掻く。そして、照れ隠しのように肩をすくめながら。
「任務前だったんで、ちょっとだけ気合い入れたんですよ」
「へえ」
「……まさか、こんな展開になるとは思ってなかったですけど」
その声は小さかったが、幸せだけは隠しようがなかった。住宅街の夜は静かだった。街灯の下、赤い翼を持つ青年が小柄な女性を抱き締めている光景は、どこか現実味が薄い。通りがかった野良猫がこちらを一瞥すると「関わらない方がいい」とでも言いたげに足早に路地へ消えていく。
ホークスはようやく腕を緩めると少し名残惜しそうに彼女を見下ろした。胸の奥に長く居座っていた重たいものが、今は驚くほど軽い。
願いが叶う音なんて、本当はしないのかもしれない。長いあいだ胸の中で鳴り続けていた鐘は、あっけないほど静かに止んだ。叶うときはもっと劇的に叶うものだと思っていた。けれど現実は、拍子抜けするほどあっさりとしていて長い年月をかけて抱え続けた想いの終着点がこんな何気ない一言だったことに、肩透かしを食らったみたいに笑ってしまう。
「帰りましょうか。ちゃんと送ります」
「お願いします」
「了解です」
二人の声音は穏やかだった。そのまま並んで、歩き始める。数歩、進いたところで、彼女がふと思い出したように口を開いた。
「最近、洒落っ気あるなぁとは思ってたけどさ」
その一言に翼の先がぴくりと震えた。気づいていたのか。そう思った瞬間、胸が熱くなる。気づかれていないと思っていた。髪を整えることも、香水を変えたことも、服を選ぶ時間が、少し長くなったことも。全部、一人で空回りしているだけだと思っていた。ホークスは、彼女の手をそっと取る。恋人になったから、と理由を付けて繋いだその手は、思っていたよりずっと緊張した。指を絡める動きがどこかぎこちない。ヒーローとしては誰より器用なのに恋人としては驚くほど不器用だった。恋愛経験値の低さが指先に滲んでいる。それでも彼女は、手を振りほどかない。その事実だけで十分だった。歩きながら彼は小さく呟く。
「反応ないから、全部空振りだと思ってました」
「いや、モテたいのかな〜って思ってた」
その瞬間、彼の足がぴたりと止まった。彼女も自然と足を止める。ホークスは、その距離のままゆっくりと、彼女を見やる。
「……誰のためだと思ってたんですか」
「んー、女性全般?」
その返事に、肩ががくりと落ちた。繋いだ手に思わず力が入る。これほど努力が報われない瞬間が人生にあっただろうか、と本気で考える。血の滲む訓練よりも命懸けの任務よりも、今の一言の方がよほど胸に刺さる。それでも繋いだ手だけは離さない。そして、少しだけ掠れた声で、小さく笑った。
「……俺の八年間、なんだったんだろ」
拗ねたようなその横顔に夜風が触れる。彼女はまた、困ったように笑いながら、その手をほんの少しだけ握り返した。その小さな力だけで、落ち込んでいた心は、驚くほど簡単に浮かび上がる。
——やっぱり敵わない。そう思いながら、ホークスはもう一度だけ恋人になったばかりの彼女の手を大切そうに握り直した。
「全部、名前さんに振り向いてほしくてやってたんですよ」
隣を歩きながら、ホークスは照れ隠しもせずにそう言った。どこか観念したような口調だった。もう隠す理由もない。今さら格好をつけても仕方がないと思えるくらいには肩の力が抜けていた。
「六年越し?」
彼女が、首を傾げる。その数字にホークスは、小さく笑って首を振った。数字にされると改めて重いな、と思う。だが、否定はしなかった。
「正確には八年です」
「そっかぁ……もう、そんなになるんだね」
八年——。その響きだけで、積み重ねた季節の重みが改めて胸に滲む。ワールドカップならば、二大会分。そんな途方もない時間を、彼女だけを想って過ごしてきたのだと思うと、我ながら執念深いな、と思わず苦笑した。
十五歳だった自分が二十二歳になって、それでもまだ同じ人を見ている。長いようで短く、短いようで長かった。歩きながら、繋いだ手に親指がそっと滑る。手の甲をなぞるように、ゆっくりと動いた指先は、本人にも自覚のない仕草だった。嬉しいのか、緊張しているのか。たぶんその両方だった。
「長かったですよ」
「あの頃は私も、まだ二十二だったのになー」
その言葉にホークスは、横目でじろりと彼女を見やった。
「……また、年齢の話」
「可愛かったでしょ? あの頃の、わ・た・し」
思わずまた、足が止まりそうになった。彼女の何気ない一言に、何度心を持っていかれれば気が済むのだろう。それでも、歩みだけは止めずに、彼女を見たホークスは、すぐに迷いなく答えた。
「今も可愛いです」
「きゃー!言ってくれるじゃん」
照れをごまかすように笑う彼女につられ、ホークスの口元も、ゆるやかにほころぶ。気づけば、強張っていた肩の力もすっかり抜けていた。その笑みはようやく胸の内と噛み合ったような自然なものだった。
「事実なんで」
「じゃあ、聞いてみようかな」
「何をです?」
「私の、どの辺が好きなの?」
ホークスは一瞬だけ目を見開き、「んー」と、少しだけ、考えるように夜空を見上げる。街灯の光が金色のまつ毛を照らしていた。
「……全部」
「適当だなぁ」
「適当じゃないです」
心外とでも言いたげにホークスが真面目な顔になった。歩く速度が少しだけ落ちる。そして彼は言葉を選ぶように前を見ながら続けた。
「飯食ってるとき、美味しいって顔するでしょ。あれ」
「そう?」
「自分じゃわかんないですよね、鈍感なんで」
「こら」
「あの顔見ると、ああ、今日も平和だなぁって、思える。幸せを感じる瞬間なんで」
戦いも任務も関係ない。そんな何気ない瞬間が自分にとっては一番、安心できる景色だった。
彼女は少しだけ考えるように視線を泳がせて、それから、そっと笑う。
「私はね、ホークスが昼寝してるときの顔」
「……俺、どんな顔して寝てます?」
「平和な顔」
ぐっ、と言葉が喉につかえた。照れを押し隠すように口元へ手を添える。けれどそのささやかな抵抗さえ、彼女には容易く見透かされてしまうのだろう。
「見てたんですか」
「写真も撮ってるよ」
その瞬間、手が口元から落ちた。「は?」と、思わず素の声が出る。しかし彼女は悪びれる様子もなく、自身のスマートフォンを取り出した。
「待ち受けにしてる。ほら」
差し出された画面には公安の仮眠室のソファに横になり昼寝をしているホークスが映っていた。そこには、起きているときの、どこか計算された笑みも皮肉も、人を煙に巻くような笑みも、ヒーローとして気を張っている表情もない。無防備で穏やかで安心しきった寝顔。それは自分でも見たことのない顔だった。ホークスは画面を見つめたまま、しばらく固まっていた。耳から首筋まで、ゆっくり熱が広がっていく。
「……消してください、今すぐ」
「だめ。これは宝物なの」
即座に却下されて、ホークスは言葉を失った。彼女は、本当に大切そうにスマホを胸に抱く。
「これのおかげで変な虫も寄ってこなくて好都合だったし」
その一言で、空気が変わった。歩いていたホークスの足が、またぴたりと止まる。「変な虫」という言葉が妙に引っかかったのは、明白だった。
「……虫?寄ってきたの?」
「男の人ってことね」
低い声で問い返すと彼女は気軽にそう答えた。そんなことは言われなくてもわかっている。ホークスの顔から笑みが消えた。さっきまで柔らかく細められていた金色の瞳が、すっ、と細くなる。恋人になったばかりの、なんとも彼らしい独占欲が、隠しようもなく、その表情に滲んでいた。
繋いだ手だけが、わずかに強く握り返される。本人は力を入れたつもりなどなかったのだろう。それでも、その小さな変化だけで、十分だった。その「変な虫」が誰だったのか。それだけが今のホークスには、妙に気になって仕方がなかった。
「誰ですか」
「特定してどうするの」
「いいから、早く。誰です?」
「いろんな人だよ。いろんな人」
また、歩き始めていたはずなのに、その言葉を境に、ホークスの歩調がふっと鈍る。ついさっきまで胸いっぱいに満ちていた幸福感に小さな棘が一本、音もなく刺さった気がした。過去の話だと頭では理解している。それでも、自分の知らない時間に彼女を見つめていた誰かがいたのだと思うと、どうしても受け流せなかった。
「……いろんな、って。具体的には?」
視線が、躊躇うことなく彼女に向く。穏やかな声を装っているものの、低く抑えられた響きが、隠しきれていなかった。
「……もういいでしょ、今はあなたが彼氏なんだから」
「彼氏……」
と、小さく反芻する。自分のことだと理解するまでに数秒かかった。彼氏。自分が。その言葉が脳内で反響したのか、一瞬ぽかんとした。数秒前まで、胸を占めていた嫉妬も不機嫌も、その一言だけで、いとも簡単に崩されてしまった。感情のジェットコースターが忙しい。公安直属のトップヒーローがヴィラン相手には冷静沈着に立ち回れるというのに、その肩書きを恋人から与えられただけで、思考が止まるのだから救えない。
「……はい」
結局、それしか返せなかった。剛翼ごと無力化された瞬間だった。情けないほど単純だ。彼女はそんな反応がおかしかったのか、くすりと笑う。
「……まあ、無理やりキスしてきたのはちょっとあれだったけどね」
彼の視線がふっと彷徨った。今度はさっきまでとは違う種類の、沈黙だった。何か言おうとして口を開くものの、言葉が喉につかえたように出てこない。ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、頼りなかった。
「……すみません」
「ふふ、若いねえ」
「あ、またそれ」
今度は反射的だった。思わず彼女を指差すと、やんわりと、その指を下げられて面食らう。
「……もう、若いって言うの禁止にしません?」
「どうして?」
「その一言で全部、片づけられるんで」
拗ねたように言うと、彼女は声を立てて笑う。その笑い声につられそうになりながらもホークスは、小さく息を吐いた。まだ、聞かなければならないことが残っている。
「……で、」
「ん?」
「さっきの質問。答えてないですよね」
「質問?」
ホークスはそこで、立ち止まった。繋いだ手は離さないまま、今度は身体ごと彼女に向き直る。
「男が寄ってきてた件」
「……ああ。もう、前の話だよ」
あっさり頷かれて、ホークスは、じっと彼女を見つめた。嘘を探すような探りたいけど探したくないような視線。
問い詰めたいわけではない。知ったところで、過去は変わらないこともわかっている。それでもどうしても、知らずにはいられなかった。
「前でも気になります」
「知ってどうするのよ」
「……潰します」
「こら」
「徹底的に」
真顔だった。そのあまりの真剣さに彼女は眉を下げて「怖い、怖いから……」と呆れ半分、笑い半分で返す。すると、ようやくホークスも口元を緩めた。
「冗談ですよ」
そう言ったのに、その蜂蜜色の瞳だけは、最後まで誤魔化せなかった。笑って流せるほど、軽い気持ちではない。冗談が二割、残りは、口にしてしまうには物騒すぎる本気だった。もし、本当に彼女に近づく誰かがいるなら自分はきっと笑って見過ごせない。その自覚だけが、胸の奥に静かに居座っていた。
街灯に照らされた二人の影が、歩幅に合わせて細長く伸びる。重なったかと思えばまたわずかに離れ、そのたびに、終点が少しずつ近づいてくることを思い知らされた。マンションまでの、残りわずかな道のりが今夜に限ってはやけに短く感じられた。終わりが、近づいている。
「まさか、ホークスが彼氏になるとはね」
何気なく零された言葉に、背中の翼がふわりと持ち上がる。ホークスは照れ隠しのように笑ってみせた。
「……それ、こっちの台詞ですよ」
角を曲がると、見慣れたマンションが夜の中に姿を現した。エントランスの灯りが柔らかく足元を照らしている。そこへ近づくにつれホークスの歩幅は自然と小さくなっていった。
急ぐ理由は、もうない。むしろこの数分が少しでも、長く続けばいいと思ってしまう。着きたくない——。そんな未練を口にできるほど、まだ、恋人という関係に、慣れてはいなかった。ただ、繋いだ手だけは離さない。翼の動きがぎこちなくなっている。
「ホークス?」
「はい」
「急に歩くの遅くなったけど?」
ばれた——。繋いだ手に残る温もりを確かめるように、ほんの少しだけ握る力が、強くなった。自分では隠せているつもりだったのに、こういうところだけは、いつも簡単に見抜かれてしまう。ホークスは、観念したように肩をすくめた。
「バレます?」
「バレますね」
空いた手で後頭部を、がりがりと掻く。恋人になった途端、取り繕う余裕まで、どこかへ飛んでいってしまったらしい。彼は少しだけ視線を落として、小さく笑った。
「帰したくないって言ったら……重いですか」
その声だけは、冗談ではなかった。彼女は少しだけ目を丸くしたあと、ふっ、と表情を和らげ、そのままの笑顔で、穏やかに言葉を続けた。
「全然」
「え……」
「よかったら、あがっていく?」
思考が止まる。もう一度「え……?」と遅れて意味を理解した。次の瞬間、背中の翼が勢いよくばさりと全開して、夜気を揺らす音が響いた。
「いいんですか」
「いいよ?送ってもらったしお茶くらい出すよ」
何でもないことのように頷く彼女に、拍子抜けした。——お茶。そうだ、お茶だ。頭のどこかで勝手に別の方向へ走りかけた自分を、ホークスは全力で引き戻した。何を期待しているんだ、と。自分の思考に内心で頭を抱えながら、それでも、平静を装った。
「……じゃあ、お邪魔します」
だが、しかし。装えているつもりなのは、本人だけだった。翼はまだ、半分ほど開いたままで、嬉しさをまるで隠せていない。
オートロックが解除されて、自動ドアが開き、二人でエントランスを抜け、エレベーターへ乗り込んだ。狭い箱の中に流れる、静かな沈黙。ホークスは天井の表示灯を見つめたまま何度も小さく息を吐いていた。……平常心、平常心。と、言い聞かせていることくらい、隣にいる彼女には手に取るように伝わっていた。ここに来たのは初めてではない。仕事帰りに資料を届けたりしたことはあった。けれど、今日は違う。
「どうぞー」
恋人として初めて踏み入れる部屋は、どこか、別の場所のようだった。靴を脱いで上がる。翼を畳もうとして、途中でやめた。無理に閉じるよりこのままの方が落ち着く気がしたから。
中に入るとソファには座らず、その前のラグへ腰を下ろした。翼がある身体では背もたれに寄りかかるより、こちらの方が楽だったから。物理的にも、精神的にも——。
部屋には生活の匂いがあった。読みかけらしい文庫本。飲みかけの、マグカップ。クッションの置き方まで、どれも彼女らしいなぁと思う。その空間に自分がいることがまだ少し信じられない。何気なく、きょろきょろと部屋を見回した視線がふと、寝室へ続く扉に吸い寄せられる。
——いや。違う。慌てて視線を戻した。自分で自分に呆れてしまう。
「……なんか、緊張してきた」
「ふふ。可愛いねえ」
その一言だけでまた耳が熱くなる。ホークスは居た堪れなくなって、視線を落とした。
「着替える? 元カレが置いていった服だけど、どうせ捨てる予定だったし」
「……モトカレ?」
そう聞き返した声が、思ったより低く落ちる。着替えの申し出には一瞬だけ心が揺れたがすぐにその『元カレ』という言葉で完全に凍りついた。
「あ、やっぱ嫌?」
誰でも、嫌だろうと思う。嫌に決まっている。驚くほど嫌だった。本人は取り繕っているつもりでも、翼が正直だった。羽先が、ぴんと逆立つ。ホークスは、静かに息を吸う。なるべく今出せる自分の一番、落ち着いた声を選ぶ。
「……その人。ここ、何回くらい来たんですか」
「んー、一回?」
一回——その数字が、妙に胸に引っ掛かった。自分だってこの部屋へ足を踏み入れたのは今日が初めてだ。だからこそ、その「一回」が、やけに生々しく思えてしまう。過ぎたことだと、頭では理解している。彼女にとっては、もう、終わった話なのだとも。今、彼女の隣にいるのは自分だということも。それでも、感情だけがどうしても、追いつかなかった。ホークスは小さく息を吐き、ゆっくりと肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「捨ててください、今すぐ」
「はいはい」
軽く返されても、まだ翼は落ち着かなかった。羽を自分の体へ寄せるように抱え込む。気持ちを落ち着かせようとするときの昔からの癖だった。
彼女はクローゼットを開け、適当な服を一式、持ってくる。黙って受け取ったホークスは広げて眺めたが、数秒沈黙する。それから、苦笑した。あきらかに小さい。肩幅も袖丈も、何もかも足りない。彼は眉間に皺を寄せ無言で戻すが、彼女は何故かそれを受け取ってくれない。
「なに?」
「着れないです、これ……」
「あ、ほんとだ」
「俺、そんな小さく見えてました?」
本人は、至って大真面目だった。しかし、その必死さが却っておかしかったのか彼女は遠慮なく肩を揺らして笑い、そのまま笑い声を零しながらホークスが無言で差し出していた服を、ようやく受け取った。
「見えてないけど、なんとかなるかなって」
「なんそれ……」
「じゃあ、残念。ヒーロースーツのままで」
「そうします」
その方が楽だった。気持ちも個性も。キッチンからは、湯の沸く音が聞こえる。彼女は、慣れた手つきでカップを並べお茶の支度を始めていた。
静かな夜は、いつの間にか日付を越えていた。時計の秒針だけが規則正しく、時を刻んでいる。ホークスは壁に背中を預け、翼をゆるく畳んだ。ようやく身体は落ち着いてきたのに頭の中だけはまだ落ち着かない。目の奥で『元カレ』の残像と戦っている気配があって、妙に鮮明なまま残っていた。少しの沈黙のあと小さく息を吐いて呟く。
「……その人のこと、好きだったんですか」
ぽつりと落ちた問いは、カップに湯が注がれる音に紛れるほど小さかった。彼女は手を止めないまま、少しだけ首を傾げる。
「いや、それほどじゃないよ」
それほどじゃない——。その言葉に、胸の奥がほんの少しだけざわつく。それほどではなかったということは少しは好きだったのだろう。そんな理屈にもならない理屈を勝手に組み立てて自分で勝手に落ち込む。ついさっき恋人になれたばかりだというのに嫉妬という感情は容赦がなかった。
「なんで別れたんですか」
「振られた。私が忙しすぎて。……あれ?この前話さなかったっけ?」
「ああ……あの人が、その人」
胸の中で、ようやく、点と点が繋がる。振った側に殺意を覚えたが、同時に安堵もした。残っていないなら、それでいい。一瞬だけ腹の底が熱くなったものの不思議とすぐ静まった。今、彼女が隣にいるのは自分だ。その事実だけは誰にも奪えない。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女が湯気の立つカップを持って戻ってきて、片方をホークスに手渡した。受け取ったカップを両手で包む。湯気が立ち上り、じんわりと掌へと熱が移る。冷房で冷えていたのは、指先だけではないのかもしれない。緊張で強張っていた身体がようやく少しだけ緩んでいく。
部屋には湯の沸く音も消え、相変わらず時計の秒針だけが静かに時を刻んでいた。彼女が、隣へ腰を下ろす。肩が触れそうで触れない距離。その近さが嬉しくて、どこかまだ現実味がない。
「俺は振らないんで」
ぽつりと漏らした言葉に彼女は柔らかく笑って「それはどうかなぁ」と目を伏せながら呟いた。ホークスは、カップ越しに、じっと彼女を見る。
「振る理由がない」
「気持ちも状況も、変わるものだからね。未来は誰にもわからないよ」
「……」
「……ほら、温かいうちに飲みな?」
正論だった。だからこそ、反論しづらい。ホークスは、観念したようにカップへと口をつける。
「……苦い」
「お茶だから」
「ほんとにお茶出された」
「お茶くらいって言ったでしょ」
「はは、ですね」
ふっと笑う。その笑顔につられるように彼女も笑った。深夜の部屋は、本当に静かすぎるほど、音がない。窓の外では時折、車が通り過ぎる音が聞こえる。二人で並んで床に座りカップの湯気を眺めながらお茶を啜る。それだけの時間なのに、胸の奥が妙に、満たされていた。こんな時間を、八年間ずっと夢見ていたのだと思う。しかし彼の中では別の感情も渦巻いていた。そっとカップを床に置いて、ゆっくりと彼女へ向き直る。
「状況が変わっても、気持ちは変わりません」
「……」
「八年、証明済みです」
「一度も目移りしなかったの?」
「しなかった」
まっすぐ見つめたまま、言い切った。迷う余地など最初からなかった。他の誰かを想像する時間さえ、自分にはなかったから。
「全然、気づかなかったなぁ」
彼女はとくに喜ぶでもなく、やはり、少しだけ困ったように笑ってそう言った。ホークスは苦笑して、肩をすくめる。
「でしょうね。鈍いから」
「なんか、今日ちょっと棘ない?」
「恨み言くらい言わせてくださいよ」
彼女を安心させたい一心でホークスは、にっと笑った。それでも本気で悪意はない。だって事実だから。
「香水変えても髪型変えても、服ちょっと気合い入れても、全部普通に流されてたんですよ、俺」
「ああ……」
「ほんと、俺の身にもなってくださいよ」
「でも、距離感が近いなぁとは思ってたよ?」
ホークスは、カップをまた持ちあげながら少しだけ唇を尖らせた。
「それ、距離詰めてたんです」
「え、そうだったの?」
「そうでしょ、どう考えても。……もしかして、気づいてなかったんですか」
「全然。懐かれてるんだなぁって」
その一言に、ホークスは目に見えてまた、肩をがくん、と落とした。
「……犬扱いじゃないですか、それ」
「似てるじゃん」
「どこがです?」
「ずっと隣いるし、いろんな異性に威嚇するし」
「否定できないのが悔しい……まあ、犬みたいなもんかもしれないですけどね」
「噛まれなくてよかった、飼い犬に」
自然と二人で笑い合う。その笑いが止んだ頃、彼女がふと「でも、そうだなあ……」と、小さく呟いた。ホークスも視線を再度、彼女に向ける。
「可愛くて、たまらない気持ちは、前からあったかもね」
ホークスの手の中のカップがぐらりと傾いた。中身がこぼれかけて、慌てて持ち直す。
「……可愛いて。またそれ」
「だって、可愛いんだもん」
「……っ」
「ホークスは、可愛いよ」
思わず頭を掻く。かっこいいじゃなく可愛い。今日だけで何度目になるだろうか。ホークスは、カップを膝の上に置いて、眉を顰める。
「俺としては、かっこいいって言われたいんですけど……」
「もちろん、かっこいいとも思ってるよ」
「けど?」
「でも、私の前では、可愛いのほうが勝っちゃうかな」
彼女は少しだけ、照れたように笑った。反論しようとして口を開く。けれど、何も出てこない。実際、彼女の前では翼も感情も勝手に動いてしまう。声も上擦るし自分でも情けないくらい制御が効かない。格好つけようとしても耳は赤くなるし平静を装っても羽根が先に本音を喋る。それでは確かに、格好いいとは言い難い。
公安直属のヒーロー。間もなくランキング二位に届く男。その肩書きを全部脱ぎ捨てれば、残るのは恋人に一喜一憂する、ごく普通の男だった。ホークスは、照れ隠しに小さく息を吐いてから、視線を落とす。
「……振らないでくださいね、名前さん」
彼女は少し驚いたように目を細め、それから、静かに頷いた。
「ほら、やっぱり可愛い」
「やけん、またそれ——」
「お付き合いしたからには、ちゃんと支えるよ。トップヒーローのあなたを」
その言葉が胸へ落ちた瞬間、ホークスは呼吸が止まりそうになった。冗談でも社交辞令でもない本気の言葉。守れ、と言われたことはある。期待されることも任されることも、数え切れないほどあった。けれど『支える』と言われたのは初めてだった。ヒーローだからではなく——ホークスだから、と。そう、言ってもらえた気がした。
言葉にならない熱が喉元まで込み上げる。彼はまたそっとカップを床へ置き、何も言わないまま腕を伸ばした。抱き締めるというより、確かめるように。壊れ物を包むような慎重さでその小さな身体を胸へ迎え入れる。赤い翼もゆっくりと閉じていき、二人を隠すように、柔らかく重なった。ようやく帰ってきた場所を見つけたように、彼の肩から、長い長い息が静かに零れた。
「……ありがとうございます」
「ああ、こんなに逞しくなってたんだね」
胸元から、くぐもった笑い混じりの声が返ってきた。抱き締めた腕の中で、彼女が小さく、肩を揺らして笑っている。
「そりゃ……八年も経ちましたから」
肩口へ静かに落ちるその言葉には、積み重ねてきた歳月へのささやかな誇らしさと、それを口にする照れくささが同居していた。
「あの頃なんて腕も細くて、ひょろひょろだったのに」
その言葉に、意図せず抱き寄せる腕へわずかに力が入る。
「あの頃と一緒にしないでください」
「ぐっ……く、苦しいって」
苦しそうな声にホークスは、はっと我に返る。力を入れすぎたかと焦り「あ、大丈夫ですか」と一瞬だけ腕を緩めるけれど、すぐに思い直して、そのままにした。完全には、離さなかった。ようやく手に入れた温もりを簡単に手放せるほど器用ではない。
「ごほっ……すごい力」
「鍛えてますんで」
少し照れたように笑うと、彼女は興味深そうに顔だけを持ちあげ、その丸い瞳を輝かせた。その表情が眩しすぎて今度はホークスのほうが固まる番だった。
「え、ちょっと触ってみてもいい?」
「……筋肉?」
「うん」
と、短く会話が交わされて数秒迷ってから彼は「どうぞ」と、躊躇いがちに、アンダースーツの袖を上まで捲る。露わになった腕は、少年の頃の面影を、ほとんど残していなかった。無駄のない筋肉が肩から前腕まで滑らかに付き、剛翼の付け根から伸びる赤い羽根模様が、淡く走っている。
それは明らかに、何度も空を飛び、何度も命を懸けてきたヒーローの身体だった。彼女の目が、「わぁ……!」と、隠すこともなく、丸くなる。
「すごい、硬い!がっちがち!」
「なんか、もっと他の表現……」
彼女は、ぺたぺたと遠慮なく二の腕を触って、前腕を指先でつつき、仕舞いには、胸筋に両手を当てて興味津々に頷いている。その反応があまりにも素直で、ホークスは思わず、口元が緩んだ。調子に乗って、少しだけ力を入れて腕を曲げる。その瞬間、筋肉が、きゅっと盛り上がった。
「……どうです?」
どこか得意げな声だった。彼女は何度も頷いて「いい、かっこいい」と、連呼する。その言葉が落ちた瞬間だった。ばさっ、と背中の剛翼が勢いよく広がる。低い天井へ羽根が触れて、ぱさりと乾いた音が鳴った。「あ」と二人の声が重なる。嬉しいと個性が勝手に動く癖は、相変わらず隠せない。彼女は、そんな様子がおかしくて肩を揺らした。
「もう一回、言ってもらっていいです?」
「えぇ?」
「お願いします」
少しだけ真面目な顔で頼まれてしまえば、笑うしかない。彼女は照れくさそうに笑って言った。
「かっこいいよ、ホークス」
自分で頼んだくせに、彼は顔を逸らして、翼を半分ほど持ち上げながら口元を片手で覆い隠す。にやけるのを止められない。肩は小刻みに震え、またしても、耳の先まで赤く染まっている。込み上げる喜びは、もう隠しようがなかった。
トップヒーローが恋人に「かっこいい」と言われただけで、これほど浮かれる姿を知る者はおそらく世界中で、彼女一人だけだろう。その秘密を抱えた部屋は窓の外の静けさとは裏腹に穏やかな熱を帯びていた。平和な夜だった。少なくとも、今だけは——。
「……え、ちょ——なん?」
不意に彼女の両手がホークスの頬を包み込む。冷房で少し冷えた掌が触れた途端、鼓動が大きく跳ねた。
——まただ。さっきまでなら、その視線から、逃げるように目を逸らしていただろう。けれど、今は違う。もう、恋人なのだから。そう言い聞かせるように小さく息を吸う。金色の瞳がまっすぐ彼女を映す。至近距離で、互いの吐息が、そっと重なるほど近くで、ホークスは逸らすことなく、その瞳を静かに見つめ返した。
「悲しいことも、寂しいことも、苦しいことも。包み隠さず私には話すこと。……いい?」
ふざけ合っていた空気が、静かに色を変えた。頬を包み込む彼女の掌は、冷たくも、生温かく、その熱だけが、今のホークスには、現実だった。金色の瞳が、小さく揺れる。七夕の短冊に書いた願い。一人じゃない夜がほしい——誰にも見せるつもりのなかった言葉。
弱さだと思っていた。本音を抱えたまま、飛び続けるのが自分の役目だと、ずっと思ってきた。だからこそ、その願いを、まるで最初から知っていたかのように受け止められたことが、胸の奥を静かに震わせる。ホークスは一度だけ唇を噛み、ゆっくりと息を吐いた。
「約束します」
声は、心なしか小さい。けれど、その返事には迷いがなかった。彼女も、目を逸らさず続ける。
「人の命を奪っても、投げやりにならないこと」
「……」
「必ず、ここに来ること。……わかった?」
その言葉に、息を呑んだ。彼女は知っている。公安の仕事を。表では語られない任務を。自分がいつか人を殺める側に立つかもしれないことも。それでも逃げずに、ここに来い、と言っている。帰る場所になってくれる、と。
彼女は逃げない。責めるでも慰めるでもなく、ただ、帰っておいで、と言ってくれた。
��人を殺す仕事をしているヒーロー�≠ノ、それでも帰る場所を与えようとする人間がいる。その事実がどれほど救いになるのか。ホークス自身が一番よく知っていた。頬に添えられた彼女の手へそっと自分の手を重ねて、目を閉じる。掌越しに伝わる温度を忘れないように胸へ刻む。もう一度目を開いたとき、その瞳には静かな決意が宿っていた。
「はい、必ず。」
その言葉を聞いて、彼女は、ようやく安心したように笑った。
「よし。それなら合格」
張り詰めていた空気が、ふっと、ほどけた気がした。ホークスも肩の力を抜き、小さく笑った。
「……なんか今の、面接みたいでしたね」
「えぇ? 感動のシーンだったんだけどなぁ」
「感動は、しましたよ」
少し照れたように笑ってからそう付け加える。本当に感動はしている。けれど、口に出すとまた恥ずかしくなってしまうから、茶化した。悪い癖だな、と自分でも思ってはいるけれど。
「だから、さっきのは照れ隠しです」
「素直じゃないねぇ」
「今さらっすねー」
二人で顔を見合わせて笑う。重かった空気は、まるで、最初からなかったかのように溶けていった。時計を見ると、針は深夜一時を回っている。外はすっかり暗闇だ。夜は、まだ深い。
「泊まって行きなよ。もう、遅いし」
断る理由は思いつかなかった。正確には、あっても作らなかった。たとえ思いついたとしても、そんなもの、採用する気がなかったから。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「ホークス用の部屋着とかも、そのうち、用意しないとねぇ」
「え」
「どうせ、用がなくても毎日寄るでしょ?」
何気ない口調だった。けれど、続く言葉に彼は思わず、笑ってしまう。否定できないというより否定する気がない。毎日、寄る前提で話をされて即座に否定できなかった自分自身に自嘲した。
「……まあ、その予定です」
「やっぱりね」
「歯ブラシ、置かせてもらっていいです?」
「もちろん。バスタオルも買い足さなきゃね」
付き合い始めて数時間。それなのに交わされる会話は��恋人�≠ニいうより、ずっと前から一緒に暮らしていたようでもあった。不思議と違和感はない。むしろ八年分の空白を埋めるように、積み重ねてきたこれまでの時間が、ようやく本来あるべき形へ収まっていくような心地よさがあった。
彼女は、クローゼットから新しいバスタオルを取り出し、ソファの上へと、ぽんと置く。
「シャワー、どうぞ?」
「ありがとうございます」
ホークスは立ち上がり、狭い室内で翼を器用に飛ばして、隅にまとめた。何度もしてきたはずの動作なのに、今日は、何もかもが違って見えた。
「ごゆっくり」
彼女の声に軽く会釈を返して、バスルームへと向かう。ドアが閉まる音。ほどなくしてシャワーの水音が静かに響き始めた。リビングには、彼女だけが残される。さっきまで、二人分の笑い声で満ちていた部屋は急に静けさを取り戻していた。テーブルの上には、飲み終わったカップが二つ。片方の縁には、ホークスが口をつけた跡が、薄く残っている。それをぼんやり眺めながら、彼女は小さく息を吐いた。
今日一日で、自分の人生は、思っていた以上に大きく形を変えたらしい。けれどその変化を不安だとは、不思議と思わなかった。