風が、強い日だった。ふいに吹いた風に前髪を揺らしたそれは耳元で雨粒が弾け季節の終わりを告げる匂いとしてほんのかすかに鼻をくすぐる。
六月の空は曇天で、どこか呼吸すらも霞むような午下がり。記憶に降る無音の雨は霧雨を降らせ続け、私は傘を持たずにその場に立ち尽くし目の前にいるその人の姿をただ静かに見つめていた。濡れてしまうのが嫌なのではなく濡れてしまえばきっと泣いている事にも気づかれずに済むから。そんな子どもじみた言い訳を心の奥に押し込んで私はひとつ、息を吸った。
ここは雄英高校の裏庭。特別講義の依頼で久方ぶりに足を踏み入れた場所。今では私もヒーローの後方支援に従事する者として現場に出るよりも研修や講演に呼ばれることが多くなっていた。
馴染みの教師たち、すれ違う、生徒たち。何もかもが少しずつ変わっていく。なのに、彼だけは変わっていなかった。黒髪を無造作に束ね、あのスカーフにも似た捕縛布を首に巻いた彼はかつて私のファーストネームを誰よりも多く呼び、その声の温度を私以外には決して見せようとしなかった人だった。歩き方、背中の丸まり具合、足音のリズムまで記憶がそのまま抜け落ちたように正確で、まるで昨日も今朝も隣にいたかのような錯覚に陥った。
「……お久しぶり、です」
ようやく絞り出した言葉はあまりに月並みで、何の棘も、温度もない。ただ、それ以上に適した言葉が見つからなかった。そういう再会だった。
相澤消太。またの名を、イレイザー・ヘッド。私がかつて愛した人。恋人という言葉の意味を、身をもって教えてくれた人。でも今はもう、他人よりも、もっと遠くの他人になった人。
「講義、来てたんだな」
低音で変わらぬ落ち着いた声だった。昔と同じようにぼそりと呟くその口調に胸がじわりと熱を持つ。緊張ではない。懐かしさとも違う、けれど確かに私の中に眠っていた感情がゆっくりと目を覚ましかけていた。覚めたらいけないのに。
「たまたま空きができたんです。本当は、断ろうかとも思ったけど」
「断ればよかったのに。どうせ、気まずいだろ」
嫌味でもなんでもなく、それが、彼なりの照れ隠しだとわかってしまう自分がまだいることに、少しだけ苦笑が漏れた。
「……そういうところ、変わらないですね」
「……そう?」
「ん。あと相変わらず、眠たそうな顔してる」
冗談のように言って目を細めた私に彼はほんのわずかに眉を動かす。かつて何度も見た気を抜いたときに見せる仕草だ。それは、あのころの夜にそっと肩越しにこぼしてくれた何気ない微笑みによく似ていた。
「……おまえこそ、変わってないな」
その声が風に溶けていった。まるで誰にも聞かれたくないと願うように、けれど確実にそれは、私だけに向けられた声だった。
「今は……どんな生活、してるんですか?」
聞かなくてもいいことなのかもしれない。でもどうしても、知りたかった。あれから何を見て、何を守って、誰と、笑っていたのかを——。
「相変わらず授業とパトロール。あと猫が増えたくらいだ」
「え……。猫ちゃん、増えたんですか?」
「あぁ。あと二匹。世話の手間が倍になった」
そう話す彼の口調はごく淡々としていて、でも不思議とあたたかかった。ふと、思い出す。私が家にいた頃、夜中に迷い込んできた子猫を二人でタオルにくるんで震える身体を交代に温め合った夜のこと。朝になって彼が小さく「残るか?」と私にだけ聞いてきた、あのときの声音を——。
「……懐かしいなぁ。私、キャットフードの種類覚えるのに、やたら必死でしたよね」
「何回も間違えて一人で怒ってたろ」
「怒ってません。あれは、ちょっと落ち込んでただけで……」
互いに笑いそうになって、それでも笑わなかった。笑ってしまえば壊れてしまう気がしたから。
ほんのささいなやりとりでさえ、心のどこかが軋む。こんなふうに、並んで言葉を交わすことがもう一生ないとあのとき確かに思っていたのに。
「……なんで、別れたんでしたっけ、私たち」
自分で言っておきながら声が震えそうになったのを感じた。過去に戻るつもりはない。でも——きちんと終わった気がしなかった。あの夜、背を向けたままの彼に何ひとつ聞けなかったことが、今もずっと胸の中でかたちにならないまま残っている。
「時間が、合わなかった」
その言葉はあまりにも簡潔で、あまりにも正しくて、でも、だからこそ、ひどく残酷に思えた。合わなかった時間があった。それは事実だ。だがそれだけで終わっていい関係だったのだろうか。
「変ですね。こうして話すと全然、そんな気……しないのに」
「……俺もだよ」
静かな沈黙が落ちた。木々の葉を打つ雨の音だけがふたりの間を満たしていた。肌寒いわけでもないのに少しだけ肩をすくめた私は、言いかけた言葉を呑み込んで、視線を下に落とした。教員としての立場。かつての関係。過ぎた時間。それらすべてが今の私たちを分けている。なのに距離は不思議と遠くはなかった。ちょうど二人で並んで歩いていたころと同じくらいの距離感。あと一歩近づけば、あの頃の私たちに戻れそうな錯覚すらしてしまう。戻れないと、わかっているのに。
「元気……そうで、なによりでした。」
自らの口が発した他人行儀な言葉が、喉に棘のようにひっかかる。心では何度も会いたかったと言っていたのに、口にすれば全てが崩れてしまいそうで、ただ当たり障りのない言葉だけを器用に紡ぐ。だって、もう大人だから。
「おまえもな。現場で見るたび、生きてるんだなって思ってたよ」
「はい、生きてますよ、なんとか」
「んで——なに、敬語になったの」
「……、まあ、一応。」
「あ、そう。」
「……。」
言い方が、なんとも彼らしいと思った。きっとこれ以上踏み込む気はないのだと、そう感じた。
どちらからともなく言葉が尽きた。教室のガラス窓が風に鳴って、どこか遠くで生徒の笑い声が聞こえる。時間だけが粛々と流れている。私は、そっと背を向けて別れの合図のように、一歩だけ彼から遠ざかる。もう、これで終わりだ。互いに互いを大切に思いながらも、選べなかった未来。すれ違った時間をいまさら綴り直すほど私たちは器用じゃない。そう思った矢先——彼の声がもう一度、雨のなかで響いた。
「参ったよ、」
その一言だけで私は振り返ってしまった。彼の声があまりにも、なんか、苦しそうだったから。
「──忘れられなくて。」
まるで心の奥にずっとしまっていた言葉が雨の音に紛れて零れてしまったかのような、そんな、小さくて、弱い呟きだった。その言葉に私は何も言えなかった。どこにも逃げ場のないまま、胸の奥に仕舞い込んだ感情がふたたび息を吹き返してしまったから。ただ、目の奥がじんわりと滲んでいくのを感じながらその言葉だけを胸に深く深くしまい込んだ。
いまの彼に私は何も返せない。ただ、それでもたった、ひとつだけ──。
「……ありがとう、そう言ってくれて」
それが、やっとの想いだった。
ふたりの間にある過去は、もう戻らない。でも確かに残っている。あの夜、互いに離れたはずの心が今また、わずかに呼び合っていた気配。彼はそれ以上、何も言わずに歩き出した。私もそれを見送るだけ。だけどきっと今日という日は互いの記憶に深く沈んでそう簡単には消えてくれない。そう思えるほど静かでそして苦しい再会だった。雨が頬を打っていく。けれど濡れているのが頬だけではないことは自分が一番よくわかっていた。
その日、雨はいつまでも降り止まず空は曇ったままだったけれど二人の記憶の中には確かに灯るものがあった。それはたぶん、愛の残り火と呼ぶには、あまりに静かで、やさしい光——。
*
帰り道、雨は未だ懲りずに降り続いていた。
もうほとんど濡れてしまった髪の毛をそのままに私は、駅までの道を歩いていた。足元から冷えてくる感覚があったけれどそれすらも何かに沈んでいくようで、ちょっとだけ、心地よかった。
「……」
──どうして、あんな言葉を、今になって。
『参ったよ、忘れられなくて——』
頭の中で繰り返すたび胸の奥の一部がじんわりと熱を持つ。
期待なんてしていなかった。もう、関係の終わった相手。やり直そうなんて思ってもいなかった。それでも、そのひとことはずっと乾いたままだった心の片隅にゆっくりと水を滲ませるようなそんな静かな衝撃だった。
きっと彼にとっても今日の再会は予定調和じゃなかっただろう。会わずに済むなら、それが一番だとどこかで思っていたのかもしれない。なのに互いに目を逸らさずにちゃんと向き合ってしまった。それだけでもう戻れない何かが心の中に舞い戻ってきてしまったような気がしていた。
部屋に着いても何も手につかず、コンロの火は点けたのに沸かした湯を注ぐこともせずぼんやりとソファに腰を下ろし部屋のどこにも焦点の合わない視線を漂わせる。
携帯の画面を見ても、何も通知は来ていない。それが当たり前なのに、今までだってそんな日常が当たり前だったのに、どこか、寂しいと感じてしまう自分がいて、それがまたやるせなかった。
──時間が、合わなかった。
そう。時間が、合わなかっただけ。あのときの彼の言葉を思い出す。確かにそうだ。あのころは互いに忙しくて会えない日が続いて不安と苛立ちと、どうしようもない距離感が募っていって……すれ違うだけの日々の中に、お互いがいた。
大きな喧嘩も、別れの言葉もなかった。ただ、最後に見た彼の背中が、どうしようもなく遠かった。そして今日ふたたび見たあの背中は変わらず不器用で、でも確かに私の心の一部をまだ掴んだままだった。
『参ったよ、忘れられなくて』
たったそれだけ。たったそれだけのことで……こんなにも心が乱されるなんて。もしかすると、忘れたつもりだったのは、私のほうだったのかもしれない。
その夜の終わりに二人が見た夢がもし同じならそれは、ふたりが同じ場所に立っていた記憶の夢かもしれない。あるいは何も変わらずそばにいたままの未来の幻かもしれない。
どちらにせよ、胸に滲むあの言葉は——まだ、��終わっていない証�≠セった。
*
『また、会いましたね』
そんなふうに軽やかに笑ってみせることができたのなら、どんなに良かっただろう。
次に顔を合わせたのはそれから十日ほど経った頃だった。都内某所で開かれた、プロヒーローの合同会議。私は分析官として提出資料を確認していた。ふと顔を上げると、入口から静かに入ってくる彼の姿が目に入った。スーツではなく、ヒーロースーツを身につけている。鋭い眼差しとだるげな肩の落とし方がそのまま記憶と地続きで私は息を呑んだ。けれど彼は視線をすっと流したまま私を見つけることなく奥へと進んでいった。
知っていたはずだ。ここに私がいることくらいは。それでも彼は声もかけてこなかった。それはもう言わば、気づかないふりの達人だった。
会議の間中、私は何度もさりげなく、彼の後ろ姿に目をやってしまっていた。けれど彼は一度もこちらを振り向かなかった。
その後も、妙な偶然が何度か続いた。講演会の会場の廊下、警備の打ち合わせで同じ資料を手にしていたとき。駅の構内、ほんの数メートル先に彼が立っていた夜──。こんなにもすれ違うのになぜ声をかけられないのだろう。なぜ彼はまるで何もなかったように、ただ、通り過ぎていくのだろう。
『参ったよ、忘れられなくて——』
あの言葉を信じてしまった自分が、あの一言に希望なんて抱いた自分がばかみたいだとひたすら思った。たった一言に縋ってしまった心が、いまさらになって音もなく崩れていく。
信じたことを悔やむには遅すぎて、笑うには、少し、哀しすぎた。
その日も、偶然だった。仕事帰り、書類を受け取りに立ち寄ったヒーロー事務所の廊下の向こう。彼が無言で階段の方へ向かって歩いていく。私は気づかれたくて、わざと、靴音を響かせた。しかし彼は、やっぱり振り返らない。廊下の窓に沈む夕日が彼の端正な横顔を一瞬照らしたけれどそこに揺れる影には懐かしさも、痛みも、なにも映っていなかった。
「……
思わず声に出していた。しかもヒーロー名を。でもそれは、小さな私の抵抗だったのだと思う。けれど彼の背は止まらず、そのまま階段を降りていった。見えていなかったのかもしれない。聞こえなかったのかもしれない。気づかないふりを、していただけかもしれない……。
私は踊り場の窓辺に立ち尽くして、その背中をじっと見送った。見送ることしか出来なかった。コートの裾がふわりと風に揺れる。足音が、だんだん遠ざかっていく。それだけだった。それ以上何も、私のもとには返ってこなかった。
その夜は、ひとりきりの部屋でカップに注いだ紅茶が冷めていく音さえも、妙にうるさく感じられた。
会えないならまだ良かった。偶然さえなければきっともっと楽に忘れられたのに。再会が偶然を呼び、偶然が未練をつついて、けれど本人は何もなかったように離れていく。そんな連鎖の中で、立ち止まっているのは、私だけ。いつもそうだ。私だけが取り残される。
ほんの一言。たった一言。名前を呼んでくれる声だけでよかったのに。彼の逸らしたあの視線がどうしようもなく、心に刺さった。
「……私だけが、足を止めてるみたいだ。」
声に出しても、答える人はいない。それでも、どこかに彼の姿がないかと私はまだ心のどこかで探している。
それから数日間。何度も思い切って彼にメッセージを打とうとして、消した。着信履歴の画面を見て、何度も指を押しかけては止まった。結局、ただ携帯を握りしめたまま、何も出来なかった。
「気づいてないわけ、ないのに……」
私の視線に、気づいていないはずがない。私が靴音を立てたことにも、あの階段で呼んだ声にもきっと彼は全部、わかっていたはずだ。それでも彼は、見ないふりをした。私がまだ未練を持っていることも心の奥にひっかかっていた言葉も全て気づいたうえで、あえて距離を取っていた。そう思った瞬間、胸の内に広がっていたのは怒りでも悲しみでもなく、ただただ深い、愛しさだった。
夜の終わりに、またひとつ空を見ていた。それぞれの部屋で、灯りを落とした窓辺。同じ雨音に耳を澄ませながら言葉にはしなかった想いを胸の奥で確かめるように——。
��会いたい�≠ニは言わない。��まだ好き�≠ニも言えない。でもまだ、心のどこかでは、終わっていないと感じていた。いや、感じていたかった。
*
その日私はヒーロー支援局の応援要請で都内の小規模な事件対応に駆り出されていた。とはいえ私に求められていたのは戦闘ではなく避難誘導と後方の情報整理。怪我人の搬送ルートを確認し、瓦礫の中から住民の足取りを追う。それは、私にとってはいつもの仕事だった。
ただそこに、まさか、いるとは思わなかった。崩れた廊下の向こう、救助活動の最前線。冷静に指示を飛ばしながら、ひとりの子どもを背負って彼は迷いなく駆けていた。汗に濡れた髪、手首の出血、乱れた操縛布。それでも目だけは何もかもを見通すように鋭く真っ直ぐだった。あのとき、私は目を逸らさなかった。彼も初めて視線を逸らさなかった。しかし次の瞬間、天井の一部が音を立てて崩れ、私の視界は土煙に飲まれた。
「動くな。……肩、やられてる」
意識を取り戻したとき私は狭い通路の隅で抱きかかえられていた。彼の手が、私の背中を支え、左腕を庇うようにしていた。自分が瓦礫に当たったのだと気づいたのは彼の腕に巻かれた血の滲む布を見た瞬間だった。
「……どうして、こんな、こと……っ」
「おまえが無事じゃないと、俺が困る」
言いかけた言葉が喉で止まった。その声に乗ったわずかな震えがふいに胸の奥を揺らしたから。返そうとした言葉があったのに、唇の裏で震えただけで喉の奥にすとんと落ちていった。彼の目を見てしまったせいだった。あまりにもまっすぐであまりにも真剣で、そんな顔をするくらいなら、どうして今まで何も言ってくれなかったのか──そう思ってしまったから。
「ずっと黙ってたが——」
「……」
「おまえに何かあったらって考えるだけで今でも俺、だめなんだよ」
その声はいつものように抑揚の少ない低く落ち着いたものだった。けれど、たしかに震えていたその声が、今言った言葉を現実だと認識させる。彼が言葉に感情を乗せるとき、それはもう嘘ではないのだと、知っていたから。
「怖かったんだ。もう一度、踏み込んで……また守れなかったらって」
「……」
「あのとき別れたのも、そうしなきゃおまえが、俺のせいで傷つくと思ってた」
「——それは、」
「……」
「それは、勝手な……思い込みです」
私は涙が込み上げるのを堪えながら静かに言った。私はあの頃だって傷ついてなかったわけじゃない。ただ、何も言ってくれないその背中を——
「その、背中を——」
「……」
「ひとりで見るのが、いちばん……つらかった」
言葉が熱を持って、胸の奥から湧き出てくる。そうだ、あの夜も、今日までも。ずっと、ずっと言いたかった。
「なにも言わないで離れていく方がよっぽど怖かった」
「……」
「好きなまま置いていかれるのが……いちばん、こたえるのに——」
彼は、ぐっと奥歯を噛んだように見えた。言葉ではなく動作で感情を押しとどめるその不器用な姿を私はもう見慣れている。けれど今だけは目を逸らさずに私を見ていた。
「言えばよかったな……どんなに未練があっても口にしなきゃ伝わらないのに」
「……」
「……」
「——今、聞いたから」
「……、」
「もう、怖くない……よ。」
外へ出たときには、夜風が静かに吹いていた。
応急処置を受けたあとの帰り道。二人きりで歩くには、あまりにも久しぶりすぎる距離。それでも二人を照らす月の明かりだけは、まるで何も変わっていないかのように優しく、互いの影をそっと寄り添わせていた。
「……送るよ。」
それだけ言って彼は私の隣に立った。腕に巻かれた包帯が、月明かりに浮かんで白く見えた。
しばらく沈黙のまま歩いたあと、彼のほうからふいに、声がこぼれた。
「おまえさ、」
「……」
「また……俺の隣にいる気、ある?」
私の胸が、小さく跳ねた。それは懺悔でもなく後悔でもなく未来に向かって放たれた、あまりに不器用で、まっすぐな問いだった。
「あるよ。」
「……」
「……ずっと、あったよ」
そう答えた私の声が震えていたのは寒さのせいではない。
「で——なに。敬語はもう戻ったの」
「……やめた。疲れた。慣れないことして」
「ふっ……あ、そう」
「うん……。」
その夜二人はもう背を向けなかった。別れ際の沈黙も、未練の影も、すべてを含めて——。
いまはまだ、恋人という言葉には戻れないかもしれない。けれど確かに、この夜からふたりは、ふたたび歩き始めていた。
*
すこしずつ風景が変わりはじめていた。週末の夜にふたりで並んで歩く道も、コンビニで買ったコーヒーを無言で渡される手つきも、職場で偶然目が合った瞬間の沈黙も——そのすべてがどこか懐かしくて、それでいて新しくて。まるで何年も前からこうだったような自然さで私たちはまた、日常の輪郭をなぞりはじめていた。
だれかに説明する必要も、特別な言葉を交わす必要もなかった。ただふたりでいる時間が静かに積み重なっていく。
けれどこの夜だけは、どうしても、言葉が必要だった。
彼の相変わらず殺風景な部屋。小さな卓上鍋をつついてテレビもつけずにお互いの湯気混じりの呼吸を聞き合っていた。愛猫がカーペットの上で丸くなり、ストーブの熱がじんわりと壁に溶けている。
「……ひとつ、聞いてもいい?」
食器を片付けたあと、私はそっと問うた。彼は黙って頷いた。
「もし……名前で呼ばれたら、さ。きっとまた、泣いちゃう気がするけど、」
声に出した瞬間、自分でも情けなくなるほどに胸が詰まった。
「でも、もう一度だけ。その声で呼んでほしい」
一拍の沈黙。彼の指先がわずかに止まる。こぼれかけた息をのみ込むように肩が微かに動きゆっくりと彼が私を見た。その瞳はまるで名前を呼ぶ前に心ごと確かめようとするかのようにまっすぐで、そして静かに、でも揺るぎなく彼は言った。
「──……名前」
それは、かつて恋人として呼ばれていた名前。ヒーロー名ではない、私の、ファーストネーム。何気ないようでいて、もう二度と耳にできないと思っていた柔らかで、あたたかい響き。胸の奥に言葉にならない波が押し寄せた。ただ名前を呼ばれただけなのに、凄く心が満たされた気がした。
「……好きだ。」
彼が言った。低く、たしかな声音で。見つめる視線には、迷いも、躊躇もなかった。私は、目を閉じて震える声で答える。
「わたしも……ずっと、好きだった。」
口にしてしまえば、それはもう言葉ではなく、溶けていく温度だった。ふたりの間に横たわっていた長い夜が静かに、やわらかく解けていくのがわかった。
そんな静けさの中で、彼はふと視線を落とし、少しだけ口元を緩めながら懐かしさを撫でるかのように、そのひとことを零した。
「……泣き虫。」
——と。その一言で、不思議と胸の奥で何かがそっとほどけた。私は、ようやく気づいたのだ。いつの間にか頬を伝っていた雫に、自分でも驚くほどに気づいていなかったことに。
そうか、泣いていたんだ。もうずっと前から。その自覚が押し寄せた瞬間、堰を切ったように、涙がこぼれた。止めどなく溢れてきて、彼の胸に顔をうずめると、その鼓動がひどく穏やかであたたかくて。何も言わず、けれど迷いなく彼の腕がそっと私の背を包んだ。力強くもなく、けれども決して離さないというようにゆっくりと確かに。
そのぬくもりに触れた瞬間、心の奥の深いところで凍てついていた何かが、ふわりと解けていくのがわかった。
呼吸の中、心の奥の深いところで確かに何かが芽吹いている。これはきっと、冬を越えたあとの静かでやさしい春のような、そんなふたりだけの再生だ。
笑って泣いて、泣いて笑って……なにもかもがぐしゃぐしゃになった顔を彼は黙って受け止めてくれる。まるで初めて出会ったあの日のように。まるで、やっと帰ってこられたように。
離れ離れだった夜が、ようやくまた、ふたりの朝へと続いていく。もう背中は向けない。言葉はもう飲み込まない。名前も、気持ちも、涙も——ぜんぶを伝えると決めた夜。
そしてなによりも泣いても、笑っても、どんな顔をしていても。そのすべてを誰よりも愛おしいと思ってくれる人がいま、確かに自分の隣にいるということ。それだけでこの夜は、幸福に満ちていた。まるでふたりで歩いていく未来の始まりがそっと、芽吹いていたかのように。