通知が鳴るたび今度こそあの人かもしれないとそれが、彼の名を連れてくるのではないかと──そんな希望をもう、何度繰り返しただろう。愚かしいほど繰り返し、同じ希望にすがってしまう。確かめるたびに裏切られて、けれどなお期待することをやめられなかった。
 しかし画面に表示されるのは限定セールの広告や、ポイント更新のお知らせばかりで、それでも諦めきれず、ふとした拍子にまた確認してしまう自分の指先が、いっそ滑稽で哀れに思えた。
 「もう騙されない」なんて強がって、スマホを裏返して放り投げた日。今度は彼から届いたメッセージに私が気づいた頃には半日が過ぎていて、返した言葉はもう、彼には届かなくて……。

 どちらが悪かったのだろう……。伝えなかった言葉があまりにも多すぎて私たちは、ただ想いが擦れ合う音を聞きながら触れられないまま想いがあるぶんだけ傷ついて、心が行き違うことでしか自分たちを守れなかった。そうやって何度もすれ違いながらの五年間だった。

 彼がまだこの部屋に顔を出していた頃。正確にいえば��帰ってきていた�″�の話。きっかけは、たしか、一個のハンガーだった。

「ここさぁ〜俺の羽、引っかかるんスよねぇー」

 そう呟いて狭い玄関先で小さく息を吐いた彼はその数分後にはスマホを手に『羽根/かけられる/収納』と検索を始めていた。笑ってしまった。だけどそれは心の奥にじんわりと滲む��この人はほんとうにここに棲みつこうとしているんだ�≠ニいう、小さな幸福でもあった。
 そして翌週末。「ちょっとだけ模様替え♪」と言っていたのに彼はIK○A帰りのような大荷物を抱えてやってきた。

「これ絶対便利なやつ。しかもさ、見て見てっ!見た目も、め〜ちゃくちゃ可愛いでしょ〜?」
「可愛いって基準、必要かなぁ……?」
「必要でしょっ!だってさ?ここが俺にとっての��巣�≠ノ、なる予定なんでねっ」

 そう言って笑い嬉しそうに部屋の真ん中に箱を広げて羽を愉快そうに飛ばしながら家具を動かしはじめた彼の姿はまるで、日常という名の未来を作っているようだった。
 羽をぶつけないように棚を移動し、カーテンは風が抜ける生地に替え、ソファには低反発のクッション。

「ついでにここの照明、色温度あげます?」
「……え、なんで?」
「好きな人の顔は明るい光で、ちゃ〜んと見たい派なんで、俺」
「変な派閥……」
「変でもいーんです!俺だけの好みですから!」

 あのとき、あの頃……私は何度笑っただろう。何度、言葉の隙間に��好き�≠�感じただろう。
 夜がきて、二人並んで少し広くなったソファに座っていたときふいに彼がぽつりと呟いた言葉。

「ねえ〜名前さんの好きな香りってさ〜どんなだったっけー」
「え……急に?」
「うん♪なんかさ〜この部屋に名前さんの匂いがあるのも好きなんスけどぉ、ふたりの匂いになったらいいなぁって、思っちゃったりして」
「……」
「……って、あれ? 俺ちょっと、ロマンチスト入りすぎました?」
「……ちょっとどころじゃないよ」

 そう言いながらも頬が緩んでしまう自分に気づいて私は照れ隠しのように彼の肩に頭を乗せた。その瞬間、彼の背中の羽根がふわりと広がって、まるで全身を包み込むように、やわらかく、私を抱き寄せてくれた。
 あの感触をいまでも思い出せる。ここが二人の巣になっていく気がした、あの日の夜のことは。


 *


 初めて彼と言葉を交わしたのは、まだ肌寒さの残る春の朝だった。ヒーローとしての彼ではなく名も知らないただのひとりの人として出会った。緩やかな坂の上にあるコンビニのまえで落とした小銭を拾ってくれたその手がまさかあの��剛翼のヒーロー・ホークス�≠フものだったなんて思いもしなかった。

「そこ行くお姉さんっ、落ちましたよー」

 それだけの、飾り気のない声。でも顔を上げたときに目が合ったあの一瞬、胸の奥がほんの少しだけ熱を帯びたのを今でも憶えている。それから数週間後、街はずれのカフェで偶然、再会した。

「あ! 覚えててくれました〜?小銭拾った男」

 とぼけたように笑うその人懐っこさに、つい、微笑み返してしまった自分がいた。
 彼は軽やかで、どこか透明だった。忙しいはずなのに、ふとしたタイミングで現れて「会いたくなったから来ちゃいました」なんて、風のように言ってのける。
 わたしの時間が彼によって緩やかに侵食されていったのは、ごく自然な流れだったように思う。気が付けば、恋に落ちていた。恋に落ちるという選択肢しかなかったかのようにして。
 告白という、形式ばったものはなかった。それでも、手を繋いだあの夜が私たちの��はじまり�≠セった。

「あなたのこと、ずっと考えてます」

 そう言った彼の声が夏の夜風に溶けていくのを聞いたとき私も返すように彼の指を握り返した。けれどその関係はどこか壊れやすいガラス細工のようなものだった。彼の職業は私が想像していたよりもずっと深くて重くて危うくて。彼は決して言葉にしなかったけれど疲れた夜には無言で部屋の床に座り込んで、そのまま眠ってしまうことも増えていった。
 私は彼の無言を最初は��信頼�≠セと勘違いしていた。でもあるときからそれが��壁�≠ノ変わっていったのだと気づいた。

「無理はしないでって……言ってるでしょ?」
「はいはい、わかってますよー」
「ほんとに?」
「たぶん……ていうか、どこまで言えばいいのか逆にわかんなくなるときあって、俺」

 彼は遠ざかるように笑った。ほんとうは泣いていたのかもしれない。それでも彼はいつも笑っていた。私のことを守るために。私を心配させないために。その優しさが、いちばん私を遠ざけた。
 言えなかった『一緒にいて』が、言わせなかった『助けて』が、ふたりのあいだに沈黙を連れてきた。最後の夜、彼は、ほんとうに静かだった。

「……ごめんね。」

 低く、けれど軽やかに笑うようなその声に私はただその場で、口を噤むことしかできなかった。熱を孕んだ夏の風が羽ばたきの余韻を連れて私の髪を揺らした夜。

「好きとか、守りたいとか、そういう気持ちは、ずっとあった。……でも、それだけじゃ足りない世界に、やっぱり俺はいるから」

 その言葉は私にとって、漫画や映画の中にしか存在しない幻想のようで、でも、目の裏に浮かぶ彼の背に広がる翼や空から舞い降りる姿が、その現実をあまりにも鮮やかで残酷に裏付けていた。

「君まで、巻き込んじゃいけなかった」

 私の胸がドクンと鳴った。彼は情けなさそうに薄く笑っていたけれど、なぜかその言葉だけが、核心を突いていた。

「ごめん……でもこれ以上、巻き込みたくない」

 そう言って去っていった彼の背中を、わたしは呼び止められず、ただその場に立ち尽くして見つめているしかなかった。不思議と涙も声も、出てこなかった。

 『名前さんは何も、間違ってないですよ』

 なんて、彼はいつも言っていたのに結局最後に別れを告げたのはその彼だった。けれど私が先に��あきらめた心�≠�持ってしまっていたのかもしれない。伝えることを恐れて、黙ることで傷つかないふりをして。そんな私の脆い心を彼はきっと見透かしていた。気づいていたのだろうと思う。その証拠にあのときの彼の声はどこか、悲しみの代弁のように響いていた。そしてそのまま五年という月日が経った。


 *


 冷蔵庫の奥で、しなびた小松菜の束を見つけたとき「またやっちゃったな」と笑った自分の声がキッチンの壁に虚しく反響していた。もう誰かに向けて話すことがないと知っていると独り言さえどこか空虚な演技に見えてしまう。
 独りきりの部屋に足音はひとつしか響かない。ダイニングの椅子はいつも一つしか引かれない。彼が、最後に座っていた場所の背もたれに触れるたびそこに残っているはずもない体温を無意識に探して、またそっと手を引っ込めた。

 ──五年。数字に起こすと、1826日。
 短いようでいてそれは、充分に、人の心を擦り減らせる時間だった。
 互いに忙しかった。互いに立場があった。すれ違いは偶然ではなくて、必然だったのだと今なら思える。
 それでも……スマホの通知が鳴るたびに彼かもしれないという淡い期待が理性よりも先に感情を立ち上がらせた。SNSのアイコンが変わっただけで、鼓動が速くなる。ニュースに名前が載るたび無傷であることに安堵して、でもそこに私の存在がないことに、少しずつ傷ついていった。
 心は壊れるとき音を立てたりしない。静かに、ゆっくりと、日常の隙間から冷えていくだけだ。それでも嫌いになれなかった。あのヒーローを。きっと、私の中にまだ生きているあの頃の彼が、��あの日々は嘘じゃなかった�≠ニ��あなたは何も間違っていないですよ�≠ニ信じさせてくれていたから。
 それでも。だからこそ。どこかで終わりを受け入れなくちゃならないと、少しずつ��失恋�≠ニの距離のとり方を覚えていく自分がいた。
 通知を見ても開かなくなり未読の数が増えても焦らなくなった。もう騙されない、などと強がることなくスマホを気にしない癖がついた。けれどある日の夜。その癖が裏目に出た。いつかのように、ほんとうに彼からの連絡が届いていたのに、気づいたのはやっぱり半日も経ってからだった。

「……なんで、今さら……」

 そう呟いた声は、思っていたよりずっと掠れていた。指先が震えたのは怒りでもなく悲しみでもなく��会いたい�≠フ感情が時間の中でまだ残っていたせいだった。
 未返信のまま、時が過ぎた。別れを告げられたあの時と同じようにこのまま何も言わず終わってしまうんだろうと思っていた。

 朝は同じ時間に起きるようにした。目覚ましを一度で止めて、彼がいたころと変わらぬリズムでコーヒーを淹れて。それが生活を壊さないための唯一の��抵抗�≠セった。
 スマートフォンの中に残る、やり取りの履歴。削除すれば楽になるとわかっていたのに、できなかった。彼の名がニュースに出るたび無事を確認して安心した自分にまだ気持ちが残っていることを、まざまざと認めさせられた。けれど、再会を願うほどの勇気は持てなかった。彼に必要なのは私ではない。そう信じこもうとするたびに、胸の奥が擦れて痛んだ。
 ��恋�≠ヘもうどこにも存在しないのだと、そう思い込ませるために、毎日を、ただ淡々とこなすように生きていた。
 忘れたふりをしていた。でも、忘れてなどいなかった。その証拠にあの声を、今でも容易に思い出せる。別れ際の、あの目の色も、体温も、泣きそうに笑った、口元も──。

 今日も夜がゆっくりと降りていく。熱を忘れた蛍光灯が、窓のガラスに映る。空気は冷えていてカーテンは閉めきったまま、窓の外が晴れているのかさえもう確認する気力もなかった。テレビは点けていても内容はなにひとつ頭に入ってこなかった。しかし耳だけがなぜかやけに敏感だった。独りきりの部屋は生活音さえ持たないまま静かに呼吸だけが聞こえるような沈黙のなかに、沈んでいた。

 ──……ピンポーン。

 そのときだった。無機質な機械音。自宅のインターホンの音が鳴った。ずいぶんと遅い時間だ。誰よ、こんな夜遅くに……。しかし一瞬、背筋をなにかが走る。警戒よりも呆れるほど真っ先に、��まさか�≠ェ胸をよぎるのが悔しい。でも、ありえない。どうせまた勧誘かセールスだ。最近やたらと増えている見直しプランの押し売りか──。

「……電気代、見直しませんかー?」

 扉の向こう──やや声を張り上げた聞き覚えのある、でも少しだけふざけた声。その瞬間、何かが胸の奥で弾けた。世界でいちばん懐かしくて、世界でいちばん、聞きたかった声。
 無言のまま立ち上がる。鼓動が、早鐘を打つ。夜の静寂を破ったその音は、まるで、凍っていた記憶に指を触れたように現実(リアル)だった。モニターを覗けば曇った画質の向こう側に人影がある。扉の向こうにその人はいる。しかし、モニター越しのぼやけた映像では確信が持てず、なのに指先は、鍵にかけた手を、離せなくなっていた。
 鼓動の速さが、自分のものとは思えないほどに胸を打つ。緊張でもない、恐怖でもない。それはきっと、五年ぶりの──��期待�≠フ音だった。

 ──ガチリ。ロックを外す音が耳の奥でやけに響いた。玄関の鍵を開ける手がなぜだか震えた。怒っていたはずだった。哀しみで埋め尽くされていたはずだった。本当はどこかでばったり会ったのなら一発殴ってやるって……でも、本当はね、その顔を見てしまったら、泣いてしまうんだろうなって、声すら出せなくなってしまうんだろうなって。なのに扉を開けて飛び込んできたその姿に私は、何ひとつとして文句が浮かばなかった。

 手が勝手に動いていた。扉のロックを外す音が涙より先に部屋に落ちた。目の前に現れた現実に息が詰まる。そこにいたのは、五年前と同じ声で笑う、でもほんの少しだけ疲れた顔をした、私のたったひとりの、ヒーローだった。

「──嘘。……元気、でした?」
 
 夢ならば、きっと、こんなに細かい皺や、香りまでは、再現されない。こんなに胸が、痛くなるはずがない。
 彼は少しも動かずに、私の反応を、ただ待っていた。自慢の羽根もたたんだまま、まるで自分が来ることを許されていないと知っていたように。
 私は言葉を失ったまま彼の顔を見つめていた。目元、口元、どれも変わっていないのに瞳の奥に後悔と、未練と、寂しさと……それでもやっぱり��わたし�≠セけが居た──。

「なんで……今さら……」

 いつだったか彼からの連絡を時間差で確認したときと同じ台詞だ。だが、その言葉しか出てこなかった。声が震えるのを止められなかった。そう言った声は、自分でも驚くほどにかすれていた。しかし彼は変わらない笑みを浮かべて、ふわりと両手を広げた。

「会いたくなっただけ。……遅かった、ですね」

 そのひとことが、心の奥をぐしゃりと潰した。唇を噛んで肩が震えた。顔を背けた。でも、腕の中に飛び込むまでに、時間はかからなかった。
 ぎゅ、と、強く、あたたかく、わたしを包んでくれる。背中に置かれた彼の手のひらは五年ぶりなのに何ひとつ変わらず安心と疼きを同時に呼び起こした。

「連絡、取れなかった。勇気が出なくて怖くて。君に、もう好きって言っちゃいけない気がして」
「…………馬鹿、」

 わたしは彼の胸元に顔を押しつけながら、そう呟いた。

「わたしだって通知──ずっと待ってた。ずっとあの日から、ずっと……」

 涙が頬を滑った瞬間、私は思わず目を伏せた。拭う手も出せないまま、ただ黙って泣くことしかできなかった。彼は何も言わずにその涙の軌道を指先でそっとなぞってやわらかく拭ってくれた。まるで傷に触れるように、壊さないように──。
 そして、ほんのすこしだけ呼吸を整えるような間を置いてから、五年前とまったくおなじ声で、でも今度は、もう少し深く、あたたかく──。

「……ただいま、名前さん。」

 と、囁いた。その言葉が私の時間を動かした。止まっていた五年間がようやく進みはじめた気がした。

「おかえり……啓悟、くん──。」

 その一言が、夜の静けさに滲むように響いた。彼は安心したように目を細めてから、ゆっくりと笑った。言葉より先に伝わるものがあるとしたらそれはいま彼の目に宿ったあたたかい光だろう。遠くで風が揺れる。カーテンのすき間から漏れた街の灯が、部屋の壁をかすかに照らしている。
 彼がただそこに立っているだけで、この部屋はもうずっと昔からふたりの帰る場所だったように思えた。名前も約束も、未来の形さえまだ曖昧なままだけれど、それでも今夜たしかに戻ってきた心があった。
 指先がそっと重なり、温かさが、何も言わずに胸に染みていく。そしてようやくふたりの時間が止まっていた時計の針のように、静かにまた歩きはじめた。

 再び「はじめまして」と言えるなら、今度こそもうすれ違わないように、ちゃんと、手を握っていたい。
 たとえこの先また不安に襲われる夜が訪れてももう二度と電気代の勧誘だなんて思わないから。





 

解けたる鍵に、恋ふる音


(遅くなっちゃいました、ね。)
(……ううん。)
(……あれ? じゃあ、早かったです?)
(いちばん、会いたいときに来てくれたよ)

※image song『 今 逢いに行く/Uru 』


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