毎日、ヒーローとしての顔を貼り付けていた。社会に必要とされる自分であろうとするほどに、��本当の自分�≠ヘ、どんどん遠のいていった。
 現場に出て、人を助けて、笑って見せる。でも夜になると彼女のいない部屋の静けさが骨にまで沁みてきてどうしようもなかった。

 俺が空に帰った日──あの夜の空は、不思議なほどに、穏やかだった。風もなければ雲もなく、ただ乾いた夏の熱が、地面に残っていた。羽根が重たくて、音も立てずに背にまとわりつくようでまるでここに居続けたいという未練の塊そのものだった。
 彼女の部屋の灯りは、いつもより少しだけ暗く見えた。いや、部屋がじゃない。俺の目の方が、もう現実をまっすぐに見るのを、拒んでたのかもしれない。
 冷房の音が妙に耳について本当は、冷えすぎていたんだと思う。自分でも寒いと感じてた。でもそれを口にすれば彼女は「温度、上げようか?」って聞くだろう。それが、どうしようもなく優しすぎて怖かった。何かを期待させてしまうことがこの期に及んで一番残酷だと思った。
 彼女はいつも通りだった。変わらず、コップに冷たい麦茶を注いでくれてソファのクッションをぽんと叩いて「座って」と、目で促してくれた。それがいちばん、苦しかった。あんなふうに変わらずに笑われたら、言えなくなってしまうから。

 この部屋の中には俺が置いていったものばかりで溢れかえっていて羽根が引っかからないように天井近くに設けた収納も香り付きのカーテンも、あの、柔らかすぎるクッションも。まるでそこに俺がまだいるみたいに全部が変わらずに存在していた。でも俺は、いられなかった。

「……ごめんね。」

 ようやく発したその声が、あまりに軽すぎて、言葉というものに、責任が宿らなかった。もっと重たく響いてほしかったのに喉はそれすら許してくれなかったのだ。
 彼女は黙っていた。いや、たぶん、気づいてたんだろう。この沈黙が会話ではなく別れの始まりだってことに。

「好きとか、守りたいとか、そういう気持ちは、ずっとあった。……でも、それだけじゃ足りない世界に、やっぱり俺はいるから」

 本当は、もっとずっと前から言うべきだった。でも、言えなかった。甘えてたんだ。彼女なら、察してくれると、どこかで信じてしまっていた。でも彼女が察するたびに俺は甘え、黙るたびに、彼女は諦めていったんだと思う。

「君まで、巻き込んじゃいけなかった」

 これは嘘じゃない。本音だった。この世界に、彼女の笑顔が似合う場所はあっても戦いの隣には置きたくなかった。報道に俺の名前が載るたびに震える手や、無事の通知を待つ夜の不安に彼女をさらし続けたくなかった。
 でも。本当は、俺自身が一番、怖かったんだ。彼女の存在が俺にとってあまりにも安らかすぎて安定を望んでしまう自分が怖かった。情に溺れてはいけないと教えられて育ったこの背中に戻れる場所なんてものを刻んでしまったら、きっと俺はもう��飛べなくなる�≠ニ感じていた。
 だから、笑ったんだ。最後まで軽く、ふざけているように。深刻になればなるほど彼女が追ってくる気がした。そうさせたら俺は絶対、離れられなくなってしまうと、わかっていたから。

 『じゃあね、さよなら。』

 その言葉は言わなかった。代わりに彼女の視線を避けるように、ただ、ドアを開けた。羽ばたく風が部屋の空気を揺らす。背中の羽根がひとつ、そっと彼女の方へ流れていったような気がした。振り返ればよかったのかもしれない。でもそれをしてしまったら、涙を堪える自信がなかった。
 扉の向こうに出た瞬間、深呼吸した。何も言わない彼女の沈黙が、ずっと背中にまとわりついていた。
 夜風が吹いた。彼女の部屋の灯りがほんの少し揺れた。それはまるで心のどこかでまだ「戻ってきてもいいよ」と囁かれているようで。
 でも、その優しさに甘える資格を、あのときの俺は持っていなかった。だから、飛んだ。声も、名も、香りも、全部を、風の音に紛れさせて。
 そうして俺は、空に帰った。自分がだれよりもどこよりも愛した��巣�≠�、置き去りにして。

 仕事が忙しかったのは事実だ。それに甘えて、向き合うことから逃げたのも事実だった。誰より速く空を飛べてもいちばん傍にいた彼女の心には届かなかった。
 ベッドに倒れこんだ夜、いつも最後に思い出すのは、やっぱり彼女の、あの、笑顔だった。

「ほんきで……好いとったけん、だから──」

 何度もつぶやいては、誰にも聞かれないように羽根で口を覆った。
 あのとき伝えられなかった『好き』が羽ばたくたびに、胸の中で鈍く残った。
 あの日、自分が選んだ選択は、彼女を守るためじゃなかった。傷つけることが怖かった自分を、守るためだけだった。そのことに気づいたのは、本当に守りたかった人の不在が、一日も癒えないことに気づいた夜だった。

 こっちから連絡することなんてできるわけなかった。たとえ指先が、メッセージの画面を何度も開いて、未送信の言葉で埋め尽くされていても、そのひとつをどうしても『送信』に変える勇気が持てなかった。自分があの日、選んだ沈黙の重さを、どれほど彼女が抱えたかを思うたび、今さら何を言えるんだろうという声が、喉を締めつけて離さなかった。
 『会いたいよ』なんて言う資格はないと思っていた。それは彼女が幸せであることを願いながらその幸せの中に、自分がいない可能性を想像してしまったから。彼女が新しい日常に馴染んで誰か知らない人と笑っていて、そこに��ホークス�≠フ居場所なんてないことのほうが、ずっと、現実的だった。
 だから……ずっと見ていた。SNSのアイコンが変わるたび、少しだけホッとして、誰かと写っている写真に心がざわついて。だけどそれを嫉妬と呼ぶには、俺はもう��恋人�≠ナはなかった。
 ヒーロー名で記事に載るたび、彼女のスマホが鳴らないことに願い、仮に鳴ったとて、通知音が悲報でなかったことに勝手に安心して、勝手に、彼女を想い続けた。
 未練はなかったと言えば嘘になる。でもそれを想いにしてしまった瞬間にまた彼女を巻き込んでしまう気がした。だから自分の感情は過去として処理するしかなかった。

 なのに──。
 それはほんとうに、何気ない夜だった。仕事は詰めきった報告書をようやく公安に投げ終えて、汗をかいたヒーロースーツを洗濯機に放り込み、コンビニで買ってきたカップ麺にお湯を注いで、三分が過ぎるのを待っていた──ただそれだけの何の変哲もない夜だった。
 スマホを開いたのは無意識。もはや習慣的なものに近い。たぶん通知を確認したつもりだった。でも、ホーム画面をスライドする手が、勝手に、あのアプリを開いていた。彼女とのラインの専用画面。ずっと既読のつかなかった、たった一つの言葉。それをふと開いた。理由なんてなかった。とくに思い出したわけでもない。ただ、指がそう動いた。画面には、自分が最後に送った短い一文だけが並んでいた。


ホークス

あなたなら大丈夫。

    既読




 その言葉はいつも、彼女からもらっていたものだった。「大丈夫だよ」って、どんなときも俺を支えてくれていた。だから、最後はどうしても、俺から彼女に届けたかった。
 愛しいその名前も呼べなかった。想いも告げられなかった。罪と、距離と、覚悟と、逃避だけを込めた最後のメッセージ。いつもと変わらない、その画面。変わるはずがないと思っていた、その画面にふと、ある文字が浮かんでいた。無機質で機械的な『既読』のたった二文字が今まで必死に蓋をしてきた想いを暴力的なほどの優しさで叩き起こしてしまった。
 一瞬にして時間が止まった。心臓が、わずかに跳ねた。まだ、見てくれていた。
 画面を見つめる瞳が揺れる。呼吸が浅くなったのを自分でも気づいた。手の中のスマホがやけに熱を持って熱くて、指先が微かに汗ばんでいた。間違いかと思って一度アプリを閉じてから再度、開いてみたりした。バグかもしれないと、再起動までしてみた。でも、変わらなかった。

 『──既読。』

 それだけだった。それだけのことがどれほどの赦しになるかをそのときの俺は思い知らされた。スマホを持つ手が震えた。でも返事はなかった。新しい言葉はなにもなかった。ただ読んでくれたというたった一点が、俺の時間を動かした。その二文字が喉の奥に刺さって抜けなかった。嬉しいとも怖いとも言えない感情が胸の奥で破裂した。言葉じゃない。涙でもない。ただ心臓がとてつもなく痛かった。まだそこに、彼女がいる。この、唯一の��線(ライン)�≠ェ生きている。ただそれだけで、声を失うほど感情が波のように打ち寄せてくる。瞬間、何かを打ち返したい衝動に駆られた。

 『今から会いに行ってもいい?』
 『今、どこにいるの?』
 『寂しかった』
 『元気だった?』
 『会いたいよ』

 そんな短い言葉すら、ひとつも送れなかった。なぜなら俺は、彼女から返信をもらえる自分ではないことを、五年前、自分自身で決めてしまった人間だったから。それでも、ただひとつ。画面を閉じる前、俺は心の中で、たった一言だけをつぶやいた。

「……見よったけんね、ありがと。」

 それが、ようやく、あの扉の前に立つ、覚悟になった。期待なんてしていなかった。いや、してたのかもしれない。ピンポンの音に彼女が、反応してくれるかもしれないって、ドアの向こうで、ずっと、手が止まってるんじゃないかって。
 我ながら情けない男だなと思う。五年も放っておいて勝手に戻って勝手に会いに来て、そのくせ「怒られたくない」「泣かれたら、困る」なんてくだらない臆病をまだ持ってる。でもそれ以上に顔が見たいって、たったそれだけの願いをずっと諦められなかった。彼女がまだそこに住んでるかどうかも正直自信はなかった。部屋の灯りを見ても確信が持てなくて、空を仰いで、少しだけ風を読んだ。翼を広げるほどの風じゃない。けど──背中がざわつく感覚。まるで羽そのものが彼女の気配を探しているかのようにして。

 ──行こう。あの扉を、叩こう。
 「君を愛していたことを、伝えるために来た」とは言えなくても。せめて「まだ遅すぎなければいいな」という想いだけでも伝えたかった。俺の足音は、ゆっくりと静かな階段を登る。この夜が彼女にとってまた、傷になる夜になりませんように。けれど、もしもまたあの笑顔が見られるなら俺はもう一度だけ「ただいま」と言いたかった。それは敗北でも、勝利でもない。けれど俺の中の何かが、確かに動いた音だった。

 *

 スマホの画面を拭きながら、ふと、思った。
なぜまだこのやりとりを残しているのだろうと。なぜ削除しなかったのだろうって。いや、本当はわかっている。できなかったのだ。消せなかったただ、それだけのこと。
 リビングに差す陽はもう傾きかけていて、洗いかけのマグカップがシンクの端に置かれたまま、少しずつ冷たくなっていく音がした。通知は来ていない。来るわけもない。それでも、指が勝手に動く。
 メッセージアプリを開いたのはたぶん、無意識だった。並んだやりとりの中にひとつだけ時間が止まったままの会話がある。五年前の──最後の宛先。彼の名が表示されたまま既読もつけられずずっと、そのままだった場所。
 怖かった。あの言葉を見るのがあまりにも遅すぎて。でも、それよりも。見てしまったあとで、自分の心がどう動くかが、いちばん怖かった。


ホークス

あなたなら大丈夫。






 その一言。
 何度も何度も、夢の中で、幻の中で、想像していた言葉。何百通も心の中で返したはずなのに、現実の指先は、なぜかいつも、動かせなかった。私も伝えたかった、あなたがいないと大丈夫じゃないって。
 けれど、今日は違った。理由なんてない。ただなぜか今日だった。きっかけなんて些細だった。スマホの容量を見直そうとしただけ。でも、そのときふいに、あの人の名前が画面の端に映った。まるで見つけてほしかったみたいにして。そして指が、触れた。ほんの一瞬。けれど、それだけで『既読』という二文字が、彼の画面に表示されたことを私は知っている。
 今さらだって自分でも思う。何を期待しているわけでもない。でも、何かが、ほんの少しだけ、動いた。
 彼がいまもこの番号を持っているのかどうかもわからない。けれどそのメッセージが届いたその時の彼がたしかに存在していたということを私はようやく、受け入れることができた。


ホークス

あなたなら大丈夫。






 その言葉に赦しも謝罪も、全ての意味を込めてくれたのなら……。私もそろそろ自分の心の鍵をひとつだけ、外してみてもいいかもしれない。

 返信はしない。でもいまなら──既読をつけるくらいの強さはある。それは私の中で十分すぎるほどの変化だった。指先が、微かに震えた。その余韻だけを残してスマホの画面をそっと伏せた。静かな部屋に何かがほどける音がした気がした。

 *

 もう、五年も経ったのだから。五年も経って、今さら何をしに行くんだよって、自分でも思う。思うけど、それでも──向かっていた。

 マンションのエントランスに入るまえ、最後の一歩をなかなか踏み出せなくて、街灯の下で空を見上げた。夜風は思ったより冷たくて羽根の先が少しだけ揺れた。あの頃ならこんな風の具合だって「飛べるかどうか」の判断材料になってたのに今日はただ、背中にある翼がどう見えてしまうかばかりを考えていた。
 笑ってくれるかな、それとも泣くかな。いや、泣かせるつもりなんて、なかったんだけどさ。

 ポケットの中で、スマホが微かに震える。着信じゃない。ただのリマインダー。そう……決めた日、決意の日のお知らせ。あの日の未送信のままだったメッセージに二文字がついたその瞬間から時計の針がやっと動いた気がしていた。
 でも、彼女がその二文字の意志をつけたのは、たった一度きり。あれからまた沈黙の時間が流れた。その二文字の向こうにある沈黙ほど、たちの悪いものはない。
 インターホンの前で深く息を吸って、それからゆっくりと押した。ピンポーンが、やけに乾いた音に聞こえた。待つあいだの数秒がまるで羽ばたく前の無音の高度みたいに喉を締めつけてくる。応答は、ない。やっぱり、いきなりすぎたか……
 少しだけ、笑ってみせる。いつもの癖だ。けど出ないのなら──せめて。

「……電気代、見直しませんかー?」

 我ながらしょうもない。頼むから、雛鳥ちゃんたちが、そばにいませんように……けど、あの人ならきっとこのバカなおふざけを、懐かしがってくれるんじゃないかって。
 沈黙。ほんの数秒。でも、その気配が、内側で確かに動いた。気配って不思議なものだ。モニター越しの曇った画質よりも先に、気持ちの変化が伝わってくる。ロックの音。──ガチリ。音が、響いた。その音はずっと閉ざされてた場所の鍵がひとつだけ開く、それを証明する音だった。扉の向こうからあふれ出したのは、記憶にある、あの部屋の匂いだった。いや、あの頃とは違う。空気が、少しだけ冷たい。それでも彼女はそこにいて俺の姿を見た瞬間、なにも言わずに固まって──目だけが、何かを追いかけるように震えていた。
 その顔を見た瞬間、もう、何を言うべきだったのか全部、吹っ飛んだ。

「──嘘。……元気、でした?」
「なんで……今さら……」

 彼女の声は細くて、触れれば崩れそうで、それでも、耳に届いただけで体の奥が震えた。ずっとその声が聞きたかった。ずっと、ずっと──。
 ああ……泣いてる。言葉じゃなくてもわかる。肩が、呼吸のたびに小さく揺れてる。泣かせたくなんて、なかったのにな。ほんと、最低だな俺。それでも、言葉が先に出た。

「会いたくなっただけ。……遅かった、ですね」

 精一杯だった。本当はもっと、カッコつけたかった。でもこの五年間、自分に許してやれなかった言葉が、やっと口からこぼれた。腕の中に飛び込んできたその体は、少しだけ痩せていて、それでもぬくもりはあの日のままだった。背中に羽をたたんだまま彼女の細い肩を包む。指先が触れた肌が、いまさらのように震えていた。

「連絡、取れなかった。勇気が出なくて怖くて。君に、もう好きって言っちゃいけない気がして」

 正直だった。きっと傷つけるとわかっていてもこれ以上もう、嘘だけはつけなかった。つきたくなかった。

「…………馬鹿、」

 彼女の声が胸のすぐ下で震えてる。……痛い。痛いのに、嬉しい。

「わたしだって通知──ずっと待ってた。ずっとあの日から、ずっと……」

 嗚咽混じりのその声が、心臓に直接突き刺さった。涙のしずくが、服の上からも伝わる。指が、そっと彼女の頬をなぞった。こんなふうに触れるのも、五年ぶりだった。五年。どれだけの好きを我慢すれば、この距離を埋められるのか、ずっとわからなかった。だから──。

「……ただいま、名前さん。」

 この一言に全部を込めた。遅すぎる帰還でも、言いたかった。いや、言わなきゃいけなかった。
 彼女が小さく息を呑んだ。そして頬を涙に濡らしながら、あの日よりもやわらかい声で囁いた。

「おかえり……啓悟、くん──。」

 その瞬間、心臓の奥で音がした。たぶん、鍵が回る音だ。閉じていたふたりの時間が、また動き出す音。ファーストネームで呼ばれるなんて何年ぶりだろう。照れくさいのになんだか涙が出そうになった。
 指先がそっと重なる。何も言わなくても、その温度が語っていた。もう一度はじめてもいいんだって。俺はこの夜を、きっと、忘れないだろう。


 *


 カーテン越しの朝光がまるで頬を撫でるように差し込んでいた。季節は初夏。やわらかな空気が私の腕の中に微かに熱を宿す。
 目を覚ましたときそこに彼がいるという事実がまずいちばん始めに信じられなかった。シーツの音ひとつが、耳の奥に残る。腕の中に沈むあたたかさは昨夜交わした約束と、ずっと信じたかった奇跡の重なり。

「……ん、おはよぉ……」

 彼が目を開ける前に声だけが先に届いた。やや寝癖のついた髪。まぶたの下には眠気の影。なのに口元にはいつものように、あっけらかんとした笑みが浮かんでいる。

「ちゃんと隣で、目ぇ覚しましたぁ……」
「うん」
「よかった……夢じゃなかったっちゃね」
「うん……朝になっても、まだいるんだね」

 思わずそう言ってしまって、言葉の幼さに頬が熱くなる。でも彼は、からかいもせずに、すっと指先をのばして、私の髪をほどくように撫でた。

「そりゃいるでしょ……やっと会えたんだもん」

 唇に、そっとキスが落ちた。深くない、けれど確かな朝のキスだった。まぶたを閉じると、彼の吐息が、肌に触れる。「好きだよ」なんて言葉がなくても、呼吸の温度がすべてを物語っていた。

「……起きる?」
「うぅ〜ん……もうちょっと、このままでも?」

 聞いた声は小さくて、ほとんど、囁きのようなもの。でも彼はすぐに私の体を抱き寄せるように背中に腕をまわして、そう返してきた。

「ふふ。そう言うと思った」

 その言葉に彼が太陽のような笑みを浮かべる。ふたりきりの朝。携帯もヒーローも世界の喧騒も何も鳴らない部屋の中で彼の鼓動と、自分の呼吸だけを、そっと聞いている。

「ねぇ、名前さん、さぁ……」
「……うん?」
「俺のこと、また……信じてくれると?」

 少しだけ間を置いてから頷く。そうしたら彼はまたもう一度、唇を寄せてきた。今度のキスは、すこしだけ長くて、夜の余韻をそのまま引き取るように、じんわりと心を溶かしていった。

 *

 キッチンから聞こえる食パンが焼ける軽やかな音。コーヒー豆を挽く香りに包まれながら、私はまだ、パジャマのまま椅子に腰掛けていた。

「コーヒー、ブラックだったよねぇ?味の好み、まだ変わっとらん?」
「うん、たぶん」
「たぶんって、俺が間違えたら、遠慮なく責めるつもりやろぉ〜?それぇ〜」

 そう言いながら彼は器用な手つきでマグカップを二つ並べた。キッチンに立つ彼は、あの大きな翼もヒーローコスチュームも脱いでいて、ただの朝食を作る男の人だったけれど、所作のすべてに無駄がなくて、それが妙に映えて、美しかった。

「てか……よく、覚えてたね」
「そりゃね。忘れるわけないじゃーん。……あと寝起きの顔も。その、くしゃくしゃの髪もね」
「やめて、それは忘れててほしかった」
「はい、無理ですね。あれ、俺の朝の癒しに登録されちゃってますんで」

 いつもの調子。でも、ふと沈黙が落ちると彼の手が止まった。

「……こんな朝が来るなんて、思ってなかった」

 ぽつりと、彼がこぼす。その声に私も自然と、視線を持ち上げた。

「……昨日、寝る直前まで、もし目が覚めて隣にいなかったらって考えとったと」
「……」
「五年も勝手に離れといて……それでもまだ好きって、言ってもらえるのかなァって」
「……言ったよ、昨日の夜」
「うん。……ほんと、嬉しかったです」

 目が合った瞬間、彼はすこしだけ照れたように目を細め、「おかわり、作りますね」と言って、キッチンに背を向けた。その背中にそっと日々の「いってらっしゃい」がまた浮かび始めていた。
 湯気の立つマグカップの向こうで、彼が微かに笑った。まるでやっと眠れた子どもみたいな顔をして安心の匂いを残して。この数時間が夢だったとしてもそれでいいと思えた。それほどに優しい朝だったから。

 だけど私は知っている。あの背中は、どんなに私の隣で丸くなっていても、羽を背負っている。その羽根が風を読むたびにきっと彼は誰かを守るための場所へと、呼び戻されてしまうのだということも。
 彼の指がマグカップを置いた音に、ふと現実の足音が重なる。あたたかいものに触れた直後ほど別れはやわらかく滲む。私は、それを止めなかった。止められないことを、この五年間でちゃんと学んでしまったから。それでも、背を向けた彼に「いってらっしゃい」と言うには、この手にいま彼の体温が、まだ残っていることが必要だった。だから私はぎゅっと両の掌を膝の上で閉じるようにして、祈るように息を吐いた。そうして今日も彼、ホークスはヒーローに戻る。だから今日またこの部屋に彼がいて、あたり前みたいにソファに腰を下ろして当たり前みたいにコーヒーを煎れてくれることがまるで、夢の続きを見ているみたいだった。けれどこれは夢じゃない。あの時間が、きちんとここに繋がっているという証拠だった。

 あの頃も笑いながら言っていた��巣�≠ヘ、いまやっと二人の帰る場所になったのかもしれない。
 私はそっと立ち上がり彼のそばへと歩み寄る。そしてあの日と同じように、彼の肩にもたれた。目を閉じると、羽根の音がすぐそばにある。もうすれ違わないように。もう、迷わないように。


 *


 ヒーロー活動の合間。午後の、短い休憩時間。ビルの屋上に立てば、昼の風が高層ビルの谷間を抜けて、背中の羽根をさらりと揺らしていく。
 手袋を外し、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出す。画面に触れる指先はためらうようでいて、でもどこか確信めいていた彼女から送られてきたメッセージを開く。


名前

寝ぐせ、ひどいでしょ






 と添えられた下には、毛先がふわふわに跳ねた彼女の寝起き顔の画像。それは、彼女にとっては笑い話でも俺にとっては世界でいちばん愛しい、朝の記録だった。

「ぐっ…死ぬ。もぉ〜あいらしすぎるやろ……」

 ぽつりと、ひとりごとのように漏らす。思わず顔が、へにゃへにゃに緩んだその瞬間。

「……何をにやけているんだ、ホークス」

 不意に声がして、背後を振り返れば──

「うわ、ジーニストさん!?ちょ、急に現れないでくださいよ〜、足音立てましたぁ?」
「敵に存在を示すヒーローがどこにいると思う」
「敵て。」
「束の間、珍しく油断してたのではないか?」

 思わずスマホを裏返し、動揺を隠すように肩を竦めて笑った。

「や、油断じゃないっスよー?幸福の余韻、ってやつですから」
「珍しいな、お前が気を抜くなど」
「あ、見せませんよ?ぜったい。俺のたからものなんですからねっ!」
「……誰も見たいなどと言っていないが」

 冗談めかして言ったつもりだった。けれどその一言だけはどこかで本音だった。ふだんなら軽口で流すだけのやりとりも、そのときの俺はいつもよりほんの少しだけ愛しい彼女の存在を隠しきれていなかったと思う。まあ、仕方がない。本当に愛しすぎてしょうがないのだから。そして迎えた午後の会議中──

「ホークス……今日はなんだか手ボケしてるな」

 書類を一枚、読み違えた。俺にしてはあり得ないミス。指摘したサイドキックの声も遠慮がちで空気がすこしだけ張り詰める。でも俺は笑って、あっさりと認めた。

「え、マジ?ああ、すんません。昨夜ちょっと、眠れてなくて」

 誰もその先を聞かなかった。嘘ではなかった。眠れなかったのはほんとうだった。ただし理由は言っていない。ま……聞かれもしなかったけど。
 彼女が眠る横顔を、暗がりのなかで何度も見ていた。あたたかい毛布の下でようやく戻ってきた自分の居場所を失くすのが怖くてまるで子どものように、まばたきのたびに胸が痛んで睡眠不足。
 読み飛ばしたページを即座に補い関連データを三手先まで読んで軌道修正する。作業は完璧だった。誰が見てもいつも通り。けれど、自分だけは知っていた。ほんの少し視線の先に彼女の輪郭が滲んでいたことを。
 誰より冷静で、鋭くて、速すぎるはずの男が、ときおり、ふと遠くを見つめるような目をして、その目に宿っていたのは、たぶん──名前を口にせずに想う、愛しい誰かの気配だ。

『緊急事態!ずっと考えちゃって仕事にならん!朝の寝顔とか、チューしたときの』

 そうラインで打ちかけて途中で止めた。「いやいや俺、仕事中!」と独りごち、すぐに消した。代わりに立ち上がり、背中の羽をひと振りする。周りの人たちの不審がる視線を感じつつも、風が舞って、羽音が静かに溶けるその中で俺は誰にも届かない声で呟いた。

「またずっと、こんな朝が続いてほしかぁ……」

 ほんとうはずっと願っていた。あの夜、彼女が玄関の扉を開けてくれた瞬間──喉の奥まで込み上げた言葉。

 あなたが、世界でいちばん大切だった。
 俺、あなたがいてくれて、救われてた。

 そのどちらも、言えなかった。代わりに口から出たのは「会いたかった」だけだった。
 「ありがとう」も「愛してた」も全部、遺したままだった。
 何百回も想像した。あの夜に戻れたらもう一言ちゃんと伝えられたらって。でも後悔じゃ時間は戻らない。だからもう一度、俺はその玄関の前に立った。今度こそ「ただいま」と「愛してる」を伝えるために。

 扉が開いたあの夜から、止まっていた時間が、すこしずつ、静かに動きはじめた。玄関の空気、キッチンに並ぶマグカップ、ふたり分の食器と、ふたり分のため息。ひとつひとつが過去じゃなく��現在(いま)�≠フものとして確かに、確実に、心の中に沁み込んでいった。
 もう、何日が過ぎたのか正確にはわからない。
けれど今夜こそ。やっと、この言葉を言えそうな気がしている。


 *


 灯りを落とした部屋で淡い照明のもとふたりはソファに寄り添って座っていた。彼は、私の手をそっと取り、何も言わずに撫でる。愛でるように確かめるように。指先が重なるたび静かな沈黙が私たちの過去を、やさしく包みなおしていくようだった。

「ねえ……覚えてる? 別れた日の夜のこと」

 不意に口を開いた私に彼は小さく呼吸を置いてから、短く「……うん」とうなずいた。
 あの頃とは違っていた。彼はちゃんと目を見ていた。逃げなかった。私はその視線を受けとめるように、静かに言葉を探しながら、ひとつひとつ確かめるように話しはじめた。

「ほんとはね……あの夜、引き止めたかったの。『行かないで』って言いたかった。でも……言えなかったの」

 彼のまなざしがわずかに揺れた。でも何も言わずに、ただ私の声に耳を傾けている。

「だって……あなたが私のためにそう決めたってわかってたから」

 その静かな告白に、彼の目がすこし潤んだ気がした。けれど彼は黙ったまままっすぐにこちらを見ていた。まるでもう逃げないと、その瞳で誓うように。

「ずっとね……言えなかったの。ごめんねって」
「……」
「あとね、あなたのことわたし……ずっと、好きだったよ」

 喉の奥で引っかかっていた言葉がようやく音になった瞬間だった。まるで、呼吸のしかたを思い出したように、胸がすうっと軽くなる。そのとき彼の手が私の手を、ぎゅっと握り返した。

「俺も……おんなじ」

 低く震えた声。けれどその響きはとてもあたたかかった。まるで、彼の背中に背負った羽根に、包まれているかのように。

「名前さんのこと好いとった。それは……ずっと変わらんかった」

 しばし、ふたりのあいだに沈黙が落ちた。でもそれはあの別れの夜のような痛みではなく過去を責めるでもなく、未来を急かすでもなく、ただ、��いまここにいる�≠アとを確かめあう、やさしい静けさだった。そして、ふたりの鼓動だけがその沈黙に、意味を与えてくれていた。

「ありがとう。帰ってきてくれて……」

 そう言った声に、彼はゆっくりと首を振った。

「……ううん。君が、俺の帰る場所だっただけ」

 やさしく額に触れる静かなキス。どこにも力は入っていないのに、不思議と、全身があたたかくなる。涙が頬を伝ったけれど、今度は泣きながらでも、ちゃんと笑えた。ごめんも、ありがとうも好きも。すべてがちゃんと、ここに還ってきた。
 あの夜、どうしても言えなかった、最後のひとこと。ようやくそれを、言葉にできた。だから、私たちはやっと��現実(いま)�≠ノ、たどり着けたのだと思う。
 あとはもうただこの静かな夜を、ふたりで抱きしめていけばいい。

「──おかえり、啓悟くん」
「ただいま、名前さん──」

 その言葉がこのふたりの時間の新しい始まりになりますようにと、胸の奥でそっと願いながら。





 

君こそ還る処


(……で、電気代の見直しは済みました?)
(まだです。営業さん、長居する気でしょー?)
(ええ。今日から俺、電気代いらないスよね?)
(え? どうして?)
(居候割ってことで)
(……むしろ、課金されてるんですけどぉ〜)

※image song『 愛の歌/川崎鷹也 』


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