毎日、ヒーローとしての顔を貼り付けていた。社会に必要とされる自分であろうとするほどに、��本当の自分�≠ヘ、どんどん遠のいていった。
現場に出て、人を助けて、笑って見せる。でも夜になると彼女のいない部屋の静けさが骨にまで沁みてきてどうしようもなかった。
俺が空に帰った日──あの夜の空は、不思議なほどに、穏やかだった。風もなければ雲もなく、ただ乾いた夏の熱が、地面に残っていた。羽根が重たくて、音も立てずに背にまとわりつくようでまるでここに居続けたいという未練の塊そのものだった。
彼女の部屋の灯りは、いつもより少しだけ暗く見えた。いや、部屋がじゃない。俺の目の方が、もう現実をまっすぐに見るのを、拒んでたのかもしれない。
冷房の音が妙に耳について本当は、冷えすぎていたんだと思う。自分でも寒いと感じてた。でもそれを口にすれば彼女は「温度、上げようか?」って聞くだろう。それが、どうしようもなく優しすぎて怖かった。何かを期待させてしまうことがこの期に及んで一番残酷だと思った。
彼女はいつも通りだった。変わらず、コップに冷たい麦茶を注いでくれてソファのクッションをぽんと叩いて「座って」と、目で促してくれた。それがいちばん、苦しかった。あんなふうに変わらずに笑われたら、言えなくなってしまうから。
この部屋の中には俺が置いていったものばかりで溢れかえっていて羽根が引っかからないように天井近くに設けた収納も香り付きのカーテンも、あの、柔らかすぎるクッションも。まるでそこに俺がまだいるみたいに全部が変わらずに存在していた。でも俺は、いられなかった。
「……ごめんね。」
ようやく発したその声が、あまりに軽すぎて、言葉というものに、責任が宿らなかった。もっと重たく響いてほしかったのに喉はそれすら許してくれなかったのだ。
彼女は黙っていた。いや、たぶん、気づいてたんだろう。この沈黙が会話ではなく別れの始まりだってことに。
「好きとか、守りたいとか、そういう気持ちは、ずっとあった。……でも、それだけじゃ足りない世界に、やっぱり俺はいるから」
本当は、もっとずっと前から言うべきだった。でも、言えなかった。甘えてたんだ。彼女なら、察してくれると、どこかで信じてしまっていた。でも彼女が察するたびに俺は甘え、黙るたびに、彼女は諦めていったんだと思う。
「君まで、巻き込んじゃいけなかった」
これは嘘じゃない。本音だった。この世界に、彼女の笑顔が似合う場所はあっても戦いの隣には置きたくなかった。報道に俺の名前が載るたびに震える手や、無事の通知を待つ夜の不安に彼女をさらし続けたくなかった。
でも。本当は、俺自身が一番、怖かったんだ。彼女の存在が俺にとってあまりにも安らかすぎて安定を望んでしまう自分が怖かった。情に溺れてはいけないと教えられて育ったこの背中に戻れる場所なんてものを刻んでしまったら、きっと俺はもう��飛べなくなる�≠ニ感じていた。
だから、笑ったんだ。最後まで軽く、ふざけているように。深刻になればなるほど彼女が追ってくる気がした。そうさせたら俺は絶対、離れられなくなってしまうと、わかっていたから。
『じゃあね、さよなら。』
その言葉は言わなかった。代わりに彼女の視線を避けるように、ただ、ドアを開けた。羽ばたく風が部屋の空気を揺らす。背中の羽根がひとつ、そっと彼女の方へ流れていったような気がした。振り返ればよかったのかもしれない。でもそれをしてしまったら、涙を堪える自信がなかった。
扉の向こうに出た瞬間、深呼吸した。何も言わない彼女の沈黙が、ずっと背中にまとわりついていた。
夜風が吹いた。彼女の部屋の灯りがほんの少し揺れた。それはまるで心のどこかでまだ「戻ってきてもいいよ」と囁かれているようで。
でも、その優しさに甘える資格を、あのときの俺は持っていなかった。だから、飛んだ。声も、名も、香りも、全部を、風の音に紛れさせて。
そうして俺は、空に帰った。自分がだれよりもどこよりも愛した��巣�≠�、置き去りにして。
仕事が忙しかったのは事実だ。それに甘えて、向き合うことから逃げたのも事実だった。誰より速く空を飛べてもいちばん傍にいた彼女の心には届かなかった。
ベッドに倒れこんだ夜、いつも最後に思い出すのは、やっぱり彼女の、あの、笑顔だった。
「ほんきで……好いとったけん、だから──」
何度もつぶやいては、誰にも聞かれないように羽根で口を覆った。
あのとき伝えられなかった『好き』が羽ばたくたびに、胸の中で鈍く残った。
あの日、自分が選んだ選択は、彼女を守るためじゃなかった。傷つけることが怖かった自分を、守るためだけだった。そのことに気づいたのは、本当に守りたかった人の不在が、一日も癒えないことに気づいた夜だった。
こっちから連絡することなんてできるわけなかった。たとえ指先が、メッセージの画面を何度も開いて、未送信の言葉で埋め尽くされていても、そのひとつをどうしても『送信』に変える勇気が持てなかった。自分があの日、選んだ沈黙の重さを、どれほど彼女が抱えたかを思うたび、今さら何を言えるんだろうという声が、喉を締めつけて離さなかった。
『会いたいよ』なんて言う資格はないと思っていた。それは彼女が幸せであることを願いながらその幸せの中に、自分がいない可能性を想像してしまったから。彼女が新しい日常に馴染んで誰か知らない人と笑っていて、そこに��ホークス�≠フ居場所なんてないことのほうが、ずっと、現実的だった。
だから……ずっと見ていた。SNSのアイコンが変わるたび、少しだけホッとして、誰かと写っている写真に心がざわついて。だけどそれを嫉妬と呼ぶには、俺はもう��恋人�≠ナはなかった。
ヒーロー名で記事に載るたび、彼女のスマホが鳴らないことに願い、仮に鳴ったとて、通知音が悲報でなかったことに勝手に安心して、勝手に、彼女を想い続けた。
未練はなかったと言えば嘘になる。でもそれを想いにしてしまった瞬間にまた彼女を巻き込んでしまう気がした。だから自分の感情は過去として処理するしかなかった。
なのに──。
それはほんとうに、何気ない夜だった。仕事は詰めきった報告書をようやく公安に投げ終えて、汗をかいたヒーロースーツを洗濯機に放り込み、コンビニで買ってきたカップ麺にお湯を注いで、三分が過ぎるのを待っていた──ただそれだけの何の変哲もない夜だった。
スマホを開いたのは無意識。もはや習慣的なものに近い。たぶん通知を確認したつもりだった。でも、ホーム画面をスライドする手が、勝手に、あのアプリを開いていた。彼女とのラインの専用画面。ずっと既読のつかなかった、たった一つの言葉。それをふと開いた。理由なんてなかった。とくに思い出したわけでもない。ただ、指がそう動いた。画面には、自分が最後に送った短い一文だけが並んでいた。

あなたなら大丈夫。

あなたなら大丈夫。

あなたなら大丈夫。

寝ぐせ、ひどいでしょ