その日俺は、極秘ルートで彼女が関係しているらしい結婚式の詳細を掴んでいた。場所は事務所のすぐ近く。予定よりもだいぶ早く着いたくせに落ち着かなくて、式場の裏手にあるガーデンへと足を向けた。深くひとつ息を吸ったそのときだった。視界の端に映ったひとつの影。背中越しでも絶対に見間違えようのないあの姿。清潔感のある髪。すっと伸びた細い指。張り詰めた空気を纏っていながらもどこか、やわらかな存在感。仕事の合間にも気を緩めることのなかった、あの人だ。
懐かしい、というよりもつい最近まで隣にいたはずなのに。なのに、どうしようもなく、遠くに感じた。
「おつかれさまでーす。あいかわらず、キャリアウーマンしてますね」
声をかけると彼女は驚いたように振り向いた。しかし、すぐにあの��プロの顔�≠ノ戻る。それは笑顔だった。でも違った。花火の夜──俺の隣で線香花火に見惚れていた彼女の横顔には、確かに何かが灯っていたはずだった。そっと触れた唇に彼女は目を閉じずに応えてくれた。それなのに、今の彼女はまるであの夜なんてなかったみたいな顔をして笑う。ん?なんだ、この違和感。なんでそんな目をするんだろう……。
「大変お忙しい中、他人の結婚式に寄り道されるなんてさすが人の集まるところを嗅ぎつけるのがお得意ですね。ファンが多いのも納得です」
その言葉が妙に引っかかった。��ファンが多いのも納得�>氛氓サれは彼女の仕事柄、ありふれた社交辞令のようにも聞こえた。でも、どうしてかどこか刺すような響きを感じてしまった。ほんの数歩ぶん、距離が開いていた。近づこうとすればできた。けれどできなかった。あの夜、俺が先に口を近づけて彼女の気配を確かめたときとは違っていたから。今日は、彼女のほうが気配を消していた。それに気づいたとき俺の胸に冷たい疑問が沈んでいく。
(え……ウソでしょ。俺、なんか……した?)
*
ほんとうにもう終わってしまったのだろうか。
『気まぐれでキスして、それをさっさとなかったことみたいにして、何食わぬ顔で笑って……』
あんなふうに突き放すみたいに言われたあとでいったい俺の何を信じてくれと言えるんだろう。正直、それがわからなかった。
ヒーローっていう肩書きは便利なようで、こういうときに限ってやけに無力だ。誰かのためにと言えば、全部が許されるような気になっていた。けど本当はずっと自分の気持ちに向き合うことを誰かに向かうことを、後回しにしてきただけだ。そして今、そのツケが回ってきている。静かに、確実に──。遅すぎるとわかっていてもまだ心のどこかで願ってしまっている自分がいる。
夜の街はいつもどおりの顔をしていた。喧騒と静寂のあいだ。その狭間に身を置いたまま、俺は高層ビルの屋上から、ただ流れる車の光を見下ろしていた。見慣れた景色。変わらない風。なのに心だけは妙に騒がしい。
なぜだろう。どうしてあの人じゃなきゃ、駄目なんだろう。職業柄、人との出会いは多い。誰とでも自然に会話できて、気まずくならない程度の距離感も保てる。それはもう自分にとって当たり前のスキルだった。そう振る舞うことが癖になっていたし、実際それが武器にもなっていた。
でも──彼女にだけは、それができなかった。うまくやろうとすればするほど嘘っぽくなって。少し冗談を言っただけでも、どこかで本気を見透かされてしまうようで。彼女の前では、取り繕うことが、だんだん怖くなっていった。
気づけば俺は��ホークス�≠カゃなかった。ヒーローとして積み上げてきた仮面も距離感も、あの人の前では無力だった。ただ、遠い過去に捨ててきたはずの��タカミケイゴ�≠ニしてしか、呼吸ができなかった。それが、良いことなのか悪いことなのかは、今の俺にはわからない。
『婚約者がいるのに、平気で他の女にキスとかできちゃうタイプなんですね、我が国の、ナンバーツーヒーローって』
あのとき正直、本当に何のことかわからなかった。 は?婚約者?誰の話をしてるんだ?って。
けれど彼女の言葉が、脳の奥に釘みたいに刺さって離れない。たとえ、意味がわからなくても、その場で否定すればよかった。「違うんだ」ってたとえ言葉が追いつかなくても、声に出して伝えればよかった。でも、できなかった。彼女の瞳があまりにも真剣で、切実で。その表情を前にして俺の言葉なんか、きっと何をどう言ったって届かない──そう勝手に決めつけてまた口を閉ざしてしまった。
思えば、ずっとそうだった。感じているくせに言葉にしない。好きになっても、向き合おうとしない。大事に思うほど、不器用に距離を取ってしまう。誰かを守ることには慣れていても、誰かに向き合って愛することなんて、俺はきっと知らなかった。
『……もう、関わることもありません。どうぞ、お幸せに』
そう告げられた瞬間、胸の奥にひびが入る音がした気がした。冷たいものがじわじわと心を蝕んでいく感覚が妙にリアルだった。あの夜の余韻が急速に氷に変わっていった。
花火をしたあの夜のことは今でも鮮明に覚えている。あれは俺の方から距離を詰めた。触れたいと思って、触れた。彼女は逃げなかった。だからきっと同じ気持ちだとどこかで思っていた。けれど、それが彼女をどれほど傷つけていたかなんてそのときの俺には、想像が及ばなかった。自分の甘さと浅はかさに、ようやく気づいたのだ。
後日、事務所の広報に調べてもらった。あの晩彼女に言われた��婚約者�≠フワードがどうしても引っかかっていたから。予想はしていたけれど、やっぱりだった。すべてはSNS上の誰かの投稿が発端で、たまたま俺がパトロールの合間に立ち寄ったブライダルフェアで撮られた、一枚の写真。それに尾ひれがついて雑誌の記者が都合よく脚色して、できあがった噂話だった。
だれにも迷惑をかけていないはずの気まぐれな足取りが、彼女の信頼を傷つける刃になってしまっていた。
「はぁ〜? もぉー……はあ、マジかよ……」
思わず声が漏れた。けれどその声を受け止める人は、もうここにはいなかった。いや仮に誰かがいたとしてももうどうでもよかった。遅かった。あんな顔を、させてしまったのだから。
何が��ヒーロー�≠セ。本当に守るべきものを、守り抜きたいものを、こんなにも簡単にすり抜けさせていたなんて──。
知らなかったなんてただの言い訳だ。俺がいつものようになんでもない顔で笑っていたあいだ、彼女はひとりで誤解の棘を抱きしめて、それでも気丈に笑って、距離を取り、そして最後には──��さよなら�≠�選んだ。
あの夜から、何日が経っただろう。俺は仕事が終わると決まってあの公園へ足を向けた。羽根を使うことも車に頼ることもなかった。ただ自分の足で、ビルの隙間から洩れる街のざわめきの中に彼女の足音がまぎれていないかと耳を澄ましながら、いつものベンチに腰を下ろし、ただ、夜空を見上げていた。けれど彼女は一度も、現れなかった。通っていたルートを変えたのか、それとも、もうあの公園自体を避けているのか。あるいは、俺の気配に気づいて、近づかないようにしているのかもしれない。いずれにしてもあの場所に彼女の気配は、もう戻ってこなかった。
秋の風が少しずつ冷たさを帯びてゆく。あんなに騒がしかった蝉の声はもうどこにもなく、代わりに、木の葉の擦れる音が、寂しげに耳を撫でていった。
何も伝えられなかった。あの一度きりのキスに込めた想いも、線香花火の灯りの下、彼女を見つめていた心も。すべてが置き去りになったまま、誤解の濁流に流されて、彼女の心ごと、遠くへ、遠くへと、運ばれてしまった。
「もう一回だけで、よかけん……」
俺は──あんたと、話がしたか……。
掠れるようにこぼれた呟きは、風にさらわれて消えていった。
そしてまた、夜が来る。彼女のいないベンチに変わらぬ空がただ、広がっている。時間だけが、優しげな顔をして残酷に流れていくだけだった。
あの花火の夜。線香花火の灯りが彼女の睫毛の先でふるえるように光っていた。あのとき本当に触れたかったのは、唇なんかじゃない。彼女の、心の奥。その一番やわらかいところにそっと手を伸ばしたかった。
もう二度と触れられないのだろうか。あの温度も、目線も、吐息さえも。もう一度だけでいい、自分の言葉で伝えたい。ちゃんと彼女の目を見てただ一言──『好きです』と。いや、違う。今も好きなんだ。ずっと、変わらずに。
そう思った瞬間、呼吸が不意に深くなった。
だれかを守るための力なんて、とっくの昔に手に入れたはずだった。けれど、守りたい感情だけはどうしても不器用で自分の掌からこぼれてばかりだった。でも、それでも──
「……それでも、俺……諦められん……」
かすれた声が夜ににじむ。誰かにとってのヒーローじゃなくて、あの人にとってのたった一人でいたかった。今になってようやく自分が何を守るべきだったのかを、知ってしまった。その想いを抱えたこの胸はもうどこへも行き場を持たない。
夜の風が、背中の羽根を、そっと撫でていく。遠くで車のクラクションが鳴り、どこかのビルの窓が音もなく灯りを落とす。世界はこんな夜にも変わらず回っている。だけど俺の中には止まったままの時間がある。
彼女の声、背中、あのときの瞳。残された静かな怒り──そのすべてを越えてもう一度、出会い直したい。『好き』を告げることすらできなかった臆病な過去を、塗り替えるように。
心のどこかで彼女がまだ俺を嫌いきれずにいてくれたらと。そんな、あまりに都合のいい奇跡を祈るように願ってしまう。
そして今はもう、ヒーローとしてじゃなくて、ひとりの男として、ただ、誠実で在りたいと──そう、心から願っていた。
*
彼女の強がりの裏にある、本当の傷み。ふだん決して見せることのない泣き顔を人前で、しかもきっと絶対に見せたくなかったであろう、あの、��二人�≠フ前で晒してしまうほど、心の糸がほどけた夜。
彼女の背中が、振り返らずに遠ざかっていく。背中に背負っている赤い羽根は、動かなかった。追いかけようとさえすれば一瞬だったはずなのにその場に、立ち尽くしていた。目の前に残されたのは、彼女の元婚約者だという男と、それに腕を絡めている女。花屋のショーウィンドウに彼女の強がる声がまだ少しだけ残響のように漂っているような気がした。
「やだ。バレちゃったんじゃない?子供──できたこと。」
女の声はわずかに揺れていた。けれどそれには目を向けもしなかった。あの彼女の、かすかに、涙の匂いのする後ろ姿が視界から消えていくほうばかり見ていた。そもそもこんな奴らとこれ以上言葉を交わす価値も感じなかった。目の前の二人はもう何も言わずばつが悪そうに目を逸らして、やがてどこかへと消えていった。けれど俺はその場に未だ留まったまま、すぐには動けなかった。
『──こちら、私の元婚約者です。そして、隣の女性は……』
笑っていた。でも、それは、本当の笑顔なんかじゃなかった。きっと心の中では泣きながら無理やり笑っていた。痛くて悔しくて壊れそうだったはずなのに。それでも彼女は、あんなにも強く、この場に立っていた。言葉を並べる声も少しだけ震えていた。だけど瞳だけは、まっすぐだった。
誰かを傷つけようとしたわけじゃない。ただ、自分の痛みを自分の手で受け止めようとしていたんだ。
『彼の現在の婚約者、いや──もう奥様ですね』
あんな皮肉を言えるほどの強がりで自分をなんとか保っていたのだと思う。それを俺は、真正面から、受け止めることさえできなかった。いや、ちがう。ただ、見ているだけだった。笑っていた彼女の目は今にも泣き出しそうで。助けてほしいなんて、きっとひと言も言えなかったはずなのに背中の翼はちゃんと俺の意志を待っていたのに。それでも俺は、ただ立ち尽くすだけで……追えなかった。
『私の車の中で、不純異性交遊をしていた──』
その言葉を口にしたときの彼女の顔が、何度も脳裏に焼き戻ってくる。淡々としていた。けれどその静けさの奥にはもう怒りでも憎しみでもない深い哀しみが宿っていた。それはきっと、ずっと誰にも言えずに積もり続けていた感情の澱がようやくあふれ出たときの音だった。俺は彼女の過去なんてなにひとつ知らなかった。でも今になってやっとわかる気がする。あのときの、張りつめたような笑顔も。あの夜、触れた唇の奥にあったものも──それはきっと、ずっと昔から彼女が心に抱えていた��痛み�≠フ上に立っていた。そう思った瞬間、ようやく足が自然と動いていた。背中の剛翼がわずかな風を感じとっていた。彼女の匂いを、声の残り香を、どこかに探していた。
夜空に飛び立ったとき、秋の風が頬を撫でた。肌寒さがじわりと骨に沁みていく。それでも羽ばたいた。探すあても確かな道筋もなかった。でもそれで構わなかった。目的地じゃなくて、彼女に会うこと、それがすべてだったから。
彼女の職場、花を卸している市場、それから、ふたりで手持ち花火を買ったあのコンビニ。どこにも姿はなかった。時間ばかりが、静かに過ぎていく。最後、足が向いたのは、あの場所だった。ふたりで花火をした、夏の夜の記憶が焼きついている──あの、公園。
夜の風が冷たさを増し、秋がもうすぐ深くなることを告げていた。月が、雲の切れ間から覗いている。木々のあいだからこぼれる風が、かすかに葉を鳴らしてすり抜けていく。その音が、やけに胸に沁みた。
思い出していた。小さな花火の灯を見つめながら声を殺して笑ってくれた彼女の横顔を。あの夜の沈黙のなかで感じていた、あたたかくて切なくて、言葉より雄弁な時間。何度も何度も、記憶の中でその横顔を抱きしめた。逃げたことを悔いて届かなかった言葉を悔いて。
そして──ようやく視界の奥に、あのベンチが見えてきた。
……いた。街灯のぼんやりとした光の下、まるで舞台を降りたピエロのように、コンビニ袋と、ワインボトルを片手にぐったりと腰かける彼女がいた。背中を丸め、髪を揺らし、夜風に晒されたその姿はどこか壊れやすいもののように見えた。彼女は俺に気づいたのかゆっくりと目を細める。酔っているのはすぐにわかった。いつもは崩さないはずの姿勢が今日はふにゃりと柔らかく揺れていたから。けれどその分、彼女の素顔が滲むように浮かび上がって見えて、どうしようもなく……愛おしかった。
「……ヒーローだぁ!わあ……っ、さっすがですねぇ〜」
ワインをラッパ飲みした直後、彼女は、両手を無邪気に広げて笑った。けれどその笑顔はあまりにも不安定で明るさの下に寂しさを潜ませていてまるで、自分の影ごと誤魔化そうとするような、そんな笑い方だった。
「ねえ、ねえ?��私が来たァ!�≠チて、やらないんですかぁ〜?」
その��平和の象徴�≠ナある誰かの真似がどこか可愛らしくもあって痛々しくもあって。ふざけているように見えて、ほんとうは、ふざけなければ立っていられない夜だったんだと思う。
俺は何も言わなかった。ただ静かに羽根をたたみ、風の音すらも殺すように、そっと爪先から、地面へ降り立つ。あえて言葉を選ばなかったのは彼女の強がりに、強がりで返さないためだった。黙ってそばに寄ることしか、今の俺にはできなかっただけ。
「すごいですね〜、ヒーローって。困ってる人をほんと、見過ごせないんですねぇ。さっすが!」
その口調は、明るくて、軽やかで──けれど、どこか壊れかけたガラスみたいに、ひびが入っていた。
俺は黙って彼女のもとまで歩きそっと目の前にしゃがみ込む。視線の高さが逆転する。ふたりの間に風が通り抜けた。俺はヒーローという肩書きではなく彼女の��弱さ�≠ノ耳を傾けられる立派なひとりの男になりたいと、心から思った。
「……飲みすぎです」
「うるさいっ……飲んでなきゃ、やってられないの!」
噛みつくように言い返すその声に、心がざわついた。顔を歪めた彼女の頬を一筋の涙が音もなく滑り落ちる。その小さな雫が夜の街灯に淡く照らされて、きらめいた。
「……見た? 今日……あの女」
言葉の温度が急に下がる。震えていた。怒りではなかった。悲しみと悔しさと、傷ついた過去のすべてが混ざり合った声色だった。
彼女の手はワインの瓶をしがみつくように握りしめていた。まるで気持ちの拠り所をそこにしか置けないかのようにして。
「私……あの人の婚約者だったんですよ?ドレスも選んで、会場も整えて……全部。それなのに、結婚式の前日に……あの女に、奪われたんです」
まるで、呪いのような告白。彼女の声には怒りでも悲しみでもない冷えきった喪失だけが滲んでいた。俺は何も答えられない。言葉にしてしまえば、すべてが彼女を余計に傷つけてしまいそうでただ、黙っているしかなかった。
「今日……あのふたりを見て。私、笑ってたんですよ?自分でもびっくりするくらい、冷静に」
その笑っていたという言葉の奥にある、笑えなかった心が透けて見える。声のトーンが、次第に高く、脆くなっていく。悲鳴のように、それでも懸命に整えようとする彼女の姿が痛ましかった。
「……ねえ、……ホークス、さん……」
「……」
「ヒーローってさぁ……ヒーローって、誰のこと守ってくれるんですか?」
その問いかけは空を仰いでも地面を見つめても答えの見つからないものだった。俺に向けられた言葉なのに彼女自身に向けた問いのようで、痛かった。風が吹いた。夜気がふたりのあいだをすり抜けていく。
「弱き者の味方に、酔った女の涙は……救えますか──?」
その一言が胸の奥に石を落としたように響く。言葉を探した。でもどれも虚しくて彼女の本当の悲しみに触れられるものではなかった。だから、黙って沈黙でしかできない誠意があると信じて。
彼女の痛みに寄り添うように、夜の風だけが、そっと彼女の髪を揺らしていた。
「……ごめんなさい。こんなとこで、こんな情けない姿、見せちゃって」
その謝罪の言葉は、自分自身へ向けた、呪文のようだった。それがどれほど強く、美しい言葉に思えたかを、うまく伝える術がなかった。
……違う。そんなことない。そう、言ってあげたかった。あれもこれも、全部、情けなくなんてない。自分で、終わらせたんだ。終わったって、やっと思えたから今日、あの男に言えたんだよ。ちゃんと、痛かったって伝えられたじゃん。声を震わせても、笑ってごまかしても、それでも……自分の言葉で、過去に区切りをつけたんだ。すごいよ。ちゃんと、すごいよ。
でもその言葉たちは喉の奥で絡まってどうしても声にならなかった。代わりに、胸の奥がじんと熱くなって彼女の横顔を見るのが精一杯だった。背中に手を添えてあげたかった。ただのヒーローとしてじゃなくて、名前も過去も、全部背負ったままの俺自身として。けれど、その一歩すら踏み出せずにいた。
「……送ります」
ようやく出た言葉は、それだけ。彼女の肩が、静かに、でも確かに震えていた。
今夜だけは、泣いてもいい。その涙は、誰にも見せられなかったぶん、溜めてきたものだから。
足元にはもう空になったワインの瓶が転がっていた。その代わり、彼女の心の重さだけが、少しずつ俺の腕の中に流れ込んできた気がした。静かに、でも確実な熱を帯びて。
風がひとすじ、ふたりの間を抜けていく。秋の夜は深く彼女の嗚咽のかわりにただ静けさだけが夜に溶けていった夜。
*
あの距離で目を見つめられて呼吸まで感じて。彼女が一瞬、目を伏せる気配に、俺の心臓はもう跳ね上がっていた。ああ、この距離なら。今ならたぶん……でも、違う。これじゃだめだと、心のどこかがそっと、ブレーキをかけた。それは臆病とかじゃなくて、ほんとうに大事なものを焦って壊したくないっていう、俺には珍しく、ちゃんと自分のためじゃなく誰か──いや、二人のために考えた末の答えだった。
彼女の呼吸が、わずかに揺れていた。俺も息を殺した。触れたい。でも、触れたらきっと、戻れない。いまじゃない。今ここでしてしまったら、それは気持ちが溢れたキスじゃなくて逃げ場所を探すキスになってしまう。俺は彼女にそんな言い訳みたいな気持ちで、触れたくなかった。
「……もう、遅い時間ですね」
そう言って、目をそらした。彼女は何も言わなかった。ただ、寂しそうに笑った気がした。
靴を履く。玄関を出る。扉が閉まる音──それを背に、ゆっくりと歩き始めた。今日は飛ばなかった。飛んでしまえばすぐにでも自宅に着くやもしれない。でも今夜は彼女の歩いた道を、自分の足で辿りたかった。階段を一段、また一段。足が勝手に重くなる。心臓が静かに喉を叩いている。
このままで……いいのか?彼女に触れなかったことを正しかったって言えるのか?それは、俺の本音? たしかに、焦っちゃだめだ。でも──
(……ほんとにこれで、いいと……?)
マンションの外に出ると夜風が頬に当たった。月が浮かんでいる。どこかで犬の鳴き声が遠くに響いている。その一瞬、ふと。さっきまで、俺の触れた手に身を委ねていた彼女のぬくもりが、
ふいに痛いほどに恋しくなった。歩みが止まる。そして、胸が騒ぐ。体の奥から、ひとつの言葉が浮かび上がる。
(こんまま……帰れるわけ、なかろ──っ)
足が自然と、地面を蹴っていた。一段飛ばしで階段を駆け上がる。こんなに真剣に走って、息を切らすなんて、どれくらいぶりだろう。
彼女の部屋の前に立ったとき、俺は思わず手を止めた。インターホンを押すべきか、それとも、ノックか──いや、違う。迷っている時間なんてもう、とうに過ぎている。
ドアの向こうは、静かだった。でも、それでも絶対に彼女はそこにいる。そう信じた。だから、俺は伝える。たとえ言葉のすべてが届かなくてもそれでも──。
震える手でドアノブを握る。当然、鍵はかかっていた。当たり前だ。女の子のひとり暮らしなんだから……すぐにインターホンを押す。胸の内の焦りだけが、指先を強くしていた。ドアの向こうからほんのわずかな音。それは、鍵が外れる音。そしてゆっくりと、ごくわずかにドアが開いた。薄暗い隙間の向こうに、彼女の気配だけが確かにあった。だから俺は一歩踏み込む。彼女の心に。せめてこれだけは、言わせてほしい。
「……公園。──あの夜の、公園の花火、」
声が思った以上に震えていた。でも止めない。止まれない。
「あの日を……思い出したり、します?」
息が上がる。胸が、きゅうっと締めつけられるように痛んだ。彼女がその心の鍵を少しでも開けてくれなければ、それが彼女の答え。それでも、俺は今、自分の言葉で届けたい。
「……俺は、あなたのことを知らない」
言ったあと、思わず小さく笑ってしまう。それでも、情けないなと思いながらも続ける。
「あなたの両親の名前も、普段コンタクトか眼鏡なのかも。なんで今の仕事を選んだのかも──」
そこまで言って、言葉が、少しだけ途切れた。それでも、目だけは絶対に逸らさない。
「……でも──」
深く息を吸い込む。そして、まっすぐに、もう一度だけ気持ちを、差し出すように。
「でも、あなたの顔の形と目の輝きは、ちゃんと覚えてる。……ずっと、忘れたことなんてないんです。記憶の中に、ちゃんと残ってます」
自分で言葉にした瞬間、胸の奥に、じんわりと疼くような痛みが広がっていく。思い出したのではなく、ずっとそこにあったものが、あらためて輪郭を持ってぶわっと浮かび上がってきたような感覚だった。
「それから──あの日。あの夜の公園。あの……小さな、手持ち花火と……それと……」
言葉が、喉の奥で絡んだ。ほんの一瞬、呼吸とともに、間を置いてから。
「その、やわらかい……くちびる。」
彼女がかすかに、息を呑む音がした。沈黙が、まるで夜の風のように、ふたりの間をゆっくりと流れていく。
「最高に、楽しかったです」
それだけで良かった。かたちはなくても未来を約束しなくても──あの夜、たしかに、心がふれあっていたという真実だけで、十分に胸があたたかくなったから。
一緒に夏の終わりに腰をかけた公園のベンチ。風の向きも夜気の冷たさも、すべてが記憶に焼きついている。俺がただ黙って隣に座っていただけの、あの夜のことも。
もし──もう一度だけ出会えるなら。今度こそ俺は、何を言えるだろう。どんな言葉を選んだとしてもそれが彼女の胸に届くと信じて、ちゃんと言えるだろうか。
『あなたのこと、愛してる。……だからお願い、幸せになって』
あの一言が今も胸のどこかで鈍く響いている。正しさの棘ではなく自分の未熟さを静かに照らす光のように。それを放った彼女の目がまっすぐで痛いほどやさしかったことまで思い出せてしまうから、なおさらだった。
俺も同じ想いです。幸せにしてあげたい。
俺は、あなただけを愛してる──。
*
あの朝焼けから数えて、どれくらいの時間が
過ぎただろう。季節はゆっくりとめぐり気づけば街には春のにおいが漂っていた。
私はいつもどおりに式場へ向かいドレスのチェックや花の選定に追われていたけれど、その中にふと、名前のない安心感が混ざるようになった。
「なあ? なんでドレス、赤に拘ってんの?」
「え?エンデヴァーの色だよ!推しカラー!」
「あ、そういうこと?なんだ、聞いて損したわ」
「はぁ!? あ、ねえねえ。プランナーさんは、誰か、ヒーローで��推し�≠ニか居ます?」
「え? 私、ですか?」
「うん!やっぱ、ホークスとか?あ、ベストジーニストとか好きそう!」
「はは。んー……どうなんでしょうね」
私だけの��ヒーロー�≠ェいるという事実が私の日々を支えてくれていた。恋人、という言葉を、あえて使ったことはない。でも彼がいつのまにか私の部屋の冷蔵庫に牛乳を補充するようになったとき、それがもう特別の証明だったのだと思う。
私は彼の髪に触れることも、彼が私の肩に手を置くことも、まるでずっと前からそうだったかのように受け入れていた。��好き�≠ヘもう言葉じゃなくて日々のかたちになっていた。
今日もいつもと変わらない穏やかな日だった。こうして控え室で新郎新婦との打ち合わせをしていると、受付から突然、内線が入った。
『ご対応中、申し訳ありません。』
「いいえ、どうぞ?」
『あの、どうしても通して欲しいと仰っている、お客様がいらしていまして……』
「はい、お名前は?」
『そ、それが……』
「……?」
『��ホークス�@l、という方で──』
私は思わずペンを落としそうになった。彼から事前に何も聞いていない。そして私の頭の中には緊急事態?怪我でもした?空から、落ちてきた?という謎の心配が渦を巻く。
新郎新婦に断りを入れて足早にロビーへ向かうと、そこには花粉まみれになった黒いマスク姿の男が立っていた。
「……なんで、ここに……?」
言ってから、思わず息を呑んでしまった。目の前の彼は、颯爽とした立ち姿に、なぜかスーツ。彼のスーツ姿は見慣れないはずなのに、妙に様になっていて腹立たしい。
「ちょっと、結婚式の相談に来まして」
さらりと告げられたその一言に、私の思考は、フリーズする。
「…………はい?」
目を見開いたまま、ようやく絞り出すと、彼はどこまでも真顔で、こくんと頷いた。その様子がまた迷子の子が『ママを探してます』と真面目に伝えるような素直さでなんだか、笑うに笑えなかった。
「サイドキックがですね〜、急遽、来月結婚することになったんですよ!」
「……」
「もう一人のSKに『式の段取り頼む!』とか言い出してですねぇ〜。まあ、任せるなって感じなんですけどね?」
「……」
「……まあ、で! 俺が、手配すれば間違いないかなぁ〜、と。」
口調こそ軽かったがその奥にちらりと責任感のようなものが覗く。その真面目さと、胡散臭さの境目みたいな笑顔を見ながら私はしばらく言葉を失っていた。どう受け止めればいいのか頭の中で答えを探して、それでも結局は口を開いた。
「……え、じゃあ、その��サイドキック�≠フフルネームとお相手の名前と、あとはご希望の式場と予算を──」
「それがねぇ〜、まだ全然決まってないんです」
「いや、なにしに来たんですか?」
まるでその言葉を待っていたかのように彼は、にんまりと笑みを貼り付けて悪びれも、はたまた恥ずかしげもなく、さらりと言ってのけた。
「……あなたに、会いに来たんですよ」
「仕事中です」
「ええ、だからちゃんと名目持ってきましたよ?��式の相談�≠チていう」
私はため息をついた。けれど内心、笑いをこらえるのに必死だった。
「まったく……ヒーローがそんなことで職権乱用していいんですか?」
「いやいや。ヒーローも恋人の顔を見たいときはあるんです」
突然そんなことを言い出すものだから私は顔が赤くなるのを、どうにかして誤魔化した。
「もう……わかりました。一時間後に休憩があるので、そのときなら少しだけ……」
「やった。じゃあ、その間にちゃんと式場プランも見学させてください」
「え? あなたの結婚式じゃないでしょ?」
「いつか、することになるかもしれないじゃないですかぁー」
私はカウンター越しに資料で顔を隠しながら、その言葉の真意を測りかねていた。けれどそんなふうに、この人は��未来�≠�冗談混じりに語ってくれる。それが何より嬉しいのだと、私は自分の胸に問いかけるまでもなく、気づいていた。
式場のチャペルは平日だったこともあり、いつもより静かだった。誰もいないバージンロード、誰も座っていない参列席、スポットライトさえも落ちたその場所は、それでも、どこか特別な光を湛えていた。
「じゃーん!ほら、貸し切り。どう?本物の式場だよ、すごくない?」
私は、ステージ脇の演出台の影から顔を出して言った。彼──ホークスさんは、どこか目を細めながら周囲を見渡している。
「ほんとに結婚式場なんですねぇー。なァ〜んか俺には、異世界みたいです」
「まあ確かにそうかもね。でも、あなたのサイドキックの結婚式相談のついでなんですからね?」
「はいはい、わかってますよー」
「これはあくまで、あなたがどんなことするのか知りたいって言ってたからであって……」
私はそう言いながらも、テーブルにそっと置かれたリングピローとブーケが、なんだかくすぐったくて、自分でも少し笑ってしまった。
「──じゃあ新郎さま。バージンロード、歩いてください。私は、立会人として見届けます」
「ええ? 新婦はいないんです?」
「いるわけないでしょ。これ、模擬挙式なんですから」
呆れたようにもからかうように笑って私が言い放った、その瞬間だった。
「……じゃあ、あなたで。」
その声は冗談とも取れた。けれどどこかにまっすぐな温度があって、私は反射的に息をのんだ。
「名前さんが俺の新婦役、やってください。」
冗談を装うにはあまりにも真っ直ぐに言い切ったその言葉に、一瞬、動けなくなってしまう。
「いいじゃないですか。あなたがずっと作ってきた空間で、あなたが一番似合う場所で、ちょっとくらい、未来予想図立てても」
軽口の裏にあるものを探そうとして、けれど、それを言葉にするには勇気が足りなかった。私はごまかすように、わずかに笑って肩をすくめる。
「……なに、その理屈」
そう言いながらも私は小さく息をついて、彼の隣にそっと横に並んだ。
ふたりで歩くバージンロードは、たった数メートルしかなかった。でもそれはこれまでの距離をたどるように感じられて、なんだか目の奥が熱くなった。演台の前に、立ち止まる。だれもいない空間に、ふたりきり。
「……それでは」
私は軽く咳払いをしてからブライダル司会者の口調をまねて言った。
「──新郎、新婦、互いの名前を名乗り、誓いの言葉をどうぞ。」
その刹那、彼がふっ、と笑った。それに思わず見惚れてしまったが、なぜかほんのすこしだけ、空気が変わった気がした。
「俺の名前は──」
その一言に私はふと彼の瞳に吸い込まれるような感覚に陥った。逃げる理由も逸らす理由も見当たらなくて私はそのまま、静かに彼の目を見つめ返した。
「
まるで時間が、すっと引き伸ばされたようだった。彼の口から出たその名前が、耳より先に心に届く。知らないはずの音なのにどうしようもなく胸の奥に馴染んだ。
「もう、とっくの昔に捨てた名前ですけど……」
彼は照れ隠しのように小さく微笑んだ。でも、視線だけは真っ直ぐで、一度たりとも私から逸れなかった。
「あなたにだけは、渡してもいいと思いました」
その言葉は静かに私の中に降ってきた。重くもなく、軽くもなく、胸の奥がじわりと熱くなって何かが込み上げた。でもそれを言葉にするには、まだ少し時間が必要だった。だから私は、黙っていた。ただ彼の名を、心の中でそっと繰り返していた。それは、彼が私にだけ差し出してくれた、��本当�≠セったから。
「……もらってくれますか?」
そう言った彼は、どこかふざけたような口調のまま、けれどその瞳だけはまったく冗談を言っていなかった。私は自然と、目を伏せた。それでも首を縦に一度だけ静かに、けれどはっきりと振った。その仕草を合図のようにして彼がそっと私の手を取る。まるで何かを確かめるように、時間をかけてゆっくりと。そのぬくもりが掌から心へと静かに伝っていく。
「あ……指輪はないですよ?さすがにそこまでは用意してませんでした」
いつもの調子で照れ隠しのように笑う彼に私はゆっくり首を振った。
「いりませんよ、そんなの」
「え!?いらない!?や、あとでちゃんと買わせてくださいよ!俺こう見えて結構お金持ち──」
「あなたの──名前だけで、充分です。」
彼の言葉に重ねるようにして返した私の声は、ほんの少し震えていたかもしれない。けれど彼はそれを全部包み込むように、ふっと、あたたかく笑った。
ふざけた始まりだったはずの模擬挙式は、気づけばふたりだけの��はじまりの儀式�≠ノ変わっていた。決して派手じゃない。けれど、どこまでも誠実な、たったふたりだけの、誓い。
──この人となら、きっと……ちゃんと笑っていられる。そんな予感を胸いっぱいに抱えながら私はそっと、チャペルの高い天井を見上げた。
午後の陽射しがステンドグラスをやさしく透かして床に揺れる光の模様を落としていた。それはまるで、ふたりの未来をそっと祝福しているようだった。