恋とは、誰かの未来を背負ってしまうことなのかもしれない。そう思ったのは、ある夜の雨音がやけに優しかったせいだった。
あの夜、窓の外に降る粒たちがまるで私の涙を誤魔化してくれるように思えて、それにどれほど救われたことだろう。あのときの、私にとってのヒーローは、目の前にいる彼ではなく、たしかにあの、雨音だった。
私はウィングヒーロー・ホークス──鷹見啓悟と別れた。
確かに最初のうちは彼があんなにも笑っていてあんなにも軽やかに「俺と付き合うなんてヒーローの中でも相当ヤバい選択っすよー?」なんて、冗談まじりに言っていたから、私はどこかで安心していたのかもしれない。こんなふうに、冗談の中に守ってもらえるのならずっとこのままでいいなんて、ほんのすこし、甘えていたのだと思う。
けれど彼は空を飛ぶ人で、私は地べたに立って日々を送る人だった。
ヒーローとしての責務。公安からの圧力。明るく振る舞う彼の眼差しの奥に日を追うごとに疲れのような翳りが濃くなっていくのを見逃すほど、私は鈍感ではなかった。いつか彼の翼が折れるのではないか……そう思うたびに自分の存在がその一因になるのではないかという不安に喉が詰まりそうになった。それでも彼、剛翼のヒーローは、最後まで笑ってくれた。
「……別れよっか」
そう告げた夜の彼の沈黙は今でも耳の奥に残っている。返ってきた言葉はずっと遅れて、そしてあまりにも、彼らしいものだった。
「それって��今�≠セけですか?それとも──俺が死んでも、一緒にいちゃダメなやつ?」
笑っていた。彼は、泣いてなんかいなかった。いつものように軽く、冗談めかして。けれど私はあの瞬間、彼のなかでなにかが静かに壊れた音が聴こえた気がしたのだ。ほんのわずかな間、空気がひりつくように張り詰めて私の心臓は深く痛いほどに沈んだ。
──『��死んでも�∴齒盾ノいちゃダメなやつ』
それが肉体としてこの世からいなくなることを指していたのか。あるいは、��ホークス�≠ニいうヒーローがこの世界から姿を消すという意味だったのか……その真意はわからない。けれど、あの言葉には確かに彼の人生の輪郭がにじんでいた。生きてきた軌跡も背負ってきた重さもそのたったひと言、すべてに。ヒーローとしての運命も幼い頃から背負わされた使命も、そして彼自身がどこかでずっと長く誰かの隣にいられる人間じゃないと思い込んでいることも。全部そのたった一言に詰まっていた。私はそのとき何も言えなかった。言葉が出なかったわけじゃない。言ってしまえば自分の決意の輪郭が壊れてしまいそうだったから。たった一歩、彼の方へ寄ってしまえば、私はもう戻れなくなる。だから私は、黙ってただ彼を見つめることしかできなかった。
彼の目は笑っていた。けれどその奥には誰にも触れられない、深さがあった。その場所に触れるにはまだ私の覚悟は浅すぎると思ってしまった。ヒーロー、ホークスの��死�≠ニいう言葉に込めた��生�≠ヨの願いと私がそれを抱きとめきれなかった苦しさ。それが悔しかった。愛しているのに。彼の声が痛いほど優しく響いたから私はなおさらそれに甘えることができなかった。だから私は、答えなかった。その沈黙だけが私にできる誠実な返事だった。
しかしそのあと彼は何度も私のもとに現れた。私が駅から帰る時間を見計らったようにアパートの角に背をもたれて立っていた日もあれば、早朝ゴミ捨てに出た私と鉢合わせて、私よりも驚いたような顔をして「あ!おはようございまぁーす」なんて、挨拶してくる朝もあった。
連絡も、訪問も、待ち伏せも。彼のやることはどれも��ホークスらしくない�≠ニ言ってしまえばそうだった。けれどそれは裏を返せば、彼がそれほどまでに��普通のひとりの男性�≠ノなって私と向き合おうとしていた証だったのかもしれない。
「名前さんの好きなアイス、近所に売ってる店、見つけたんですよー。冷凍庫の中、まだ俺の位置空いてます?」
そんなふうに笑いながらけれどその目はどこか怯えたように揺れていた。私が、なにも返せずに黙っていると「あ、今のやっぱナシで。忘れてください」なんて頭を掻きながら逃げるように飛んでいく背中が、やけに小さく見えた日もあった。
何度も何度も彼は同じ言葉を違う形でぶつけてきた。『やり直そう』の一言を彼なりにあらゆる角度で言い換えて。連絡も訪問も待ち伏せすらもらしくないほど強引で、しつこくて。どこかに、ほんの少しでも迷いが見えればその隙間から入り込もうとするかのように彼は、欲しいものが手に入らない子どものように、必死だった。
『──俺、
私は困った。けれどそれ以上に戸惑っていた。彼がどこまで本気なのかが怖くて。それに応えられない自分がもどかしくて。でも、その必死さが次第に私を苦しめた。だって私は、愛していた。今も変わらず彼が好きだった。けれど、その愛で彼を疲れさせたくなかった。私が願ったのは彼の自由だ。彼の未来。だから私はどれほど胸が張り裂けそうでも、一度たりとも振り向かなかった。
しかし、ある日を境に突然、すべてがやんだ。連絡は途絶え姿も見えなくなり、風のようだった彼が本当に風になってしまったかのように、私の世界から消えた。残ったのは静けさだけ。まるで嵐のあとの海のように何かが過ぎ去って、何かが終わった事だけが痛いほどはっきりとわかった。
代わりに耳にしたのは──彼が誰かと付き合い始めたという噂話。最初は、聞き流した。ただのゴシップの一つだろうと。けれど週刊誌の小さな写真、テレビ番組で並んで笑い合う映像、そしてネットニュースの見出しに並ぶ『新たなヒーローカップル誕生!?』という言葉たちはじわじわと現実味を帯びて、私の心の皮膚を蝕んでいった。
ああ、本当に、そうなんだ。彼は前を向いて、進んでいったのだ。私ではない、誰かと。なのに私は立ち止まったまま。彼のためにと信じて選んだ別れが、ただの自己満足だったのではないか。いや、違う。違うはずだ。そう思いながら私は、自分の中に残った小さな迷いに、ゆっくりと飲み込まれていった。
私は泣かなかった。いや、泣けなかった。泣く資格なんてなかった。だって私は彼の未来のために、手を離したはずだったから。
部屋の隅、棚の引き出し。見ないふりをし続けていた小さな箱を私はある日、開けてしまった。きっかけは、曇り空だった。洗濯物を取り込んだあとやけに部屋が静かで、ふとした弾みで、手が伸びてしまった。
中には束ねられた写真。何枚も何十枚も。フィルムでもインスタントでもない、スマホで撮ったものを彼がわざわざ現像してくれたのだ。どれも私が撮らせた覚えのないものばかり。キッチンで料理している後ろ姿、眠っているときの顔、ソファでうたた寝しているときの少し油断した横顔。そういう何気ない瞬間を彼はたぶん、愛おしさの気持ちのぶんだけ残していた。
私は写真を撮られるのが嫌いだった。見返したときそこにあるのは記憶じゃなくて、過去の自分だから。あまりにも無防備であまりにも終わってしまう予感を含んでいて。とくに彼は、未来の話ばかりをしていたから、なおさら。
「やだ、やめて」「撮らないでよ」とカメラを向けられるたびに顔を隠していた。不意打ちで、シャッターの音が鳴るたび苛立ちを隠せない日もあった。でも、彼はいつも笑っていた。
「いいじゃないですかー、記録ですよぉ?記録。生きてた証ってやつです」
「だから……そういうのが、嫌なんだってば」
「えー、どうしてです?これは未来の名前さんが『あ〜私、こんな顔してたんだ〜』って懐かしむための布石ですよ!」
そう言って撮った写真を私に見せては嬉しそうに言葉を添えた。
「ね、ね!これ見て。俺がいちばん好きな顔〜」
「あっ、これは俺だけの宝物ですっ」
「これ、今すぐラミネートして財布に入れていいです?」
そして……ほんとうに入れていた。思い出しただけで、つい笑ってしまう。あのときの真顔と、くしゃっとした笑い声と、ちょっと、誇らしげな後ろ姿まで、ぜんぶ鮮明に浮かんでくる。
彼、ホークスというヒーローは、ほんとうに、そういう人だった。愛し方がまっすぐでちょっと不器用で、でも、誰よりも一生懸命で。
別れてから、何度も捨てようと思った。でも、手が動かなかった。写真はもの言わぬ記憶のかたまりだ。シャッター音が鳴ったその瞬間の空気と匂いと、彼の声までを封じ込めている。だから、怖い。だから……あたたかい。
「これ、将来結婚したらぜったい見返すやつですよ。俺、未来の自分に手紙送ってる気分で撮ってるんで」
真面目な顔をして、そんなことも言っていた。そんな未来があの頃は、ほんとうに来るものだと信じて止まなかった。
「絶対、将来見返す日が来ますから。ぜったい、ふたりだけの宝物ですよ〜、これ」
そして彼はよく言った『絶対』という言葉を。ホークスという男は軽薄に見せて、じつは何より言葉を信じる人だった。約束も決意も願いさえも��絶対�≠ニいう一語に込めて口にするのが癖だった。けれど私はその言葉が少しだけ、怖かった。
「絶対、ってさ……なんか、怖い言葉だよね」
「え、怖い? なんでです?」
「もし冷めたら、それすら、嘘になるでしょ」
そう言ったとき彼はほんの少しだけ驚いた顔をしてから──。
「冷めないっすよー? 絶対にね。」
と、やっぱりまた笑った。でも本当はずっと、思っていたことがある。人の心は冷める。失う。変わってしまう事からどうしても逃れられない。だからこそ��絶対�≠ネんて、あまりにも怖くて、愛しくて、私にとっては、残酷な言葉だった。
私は手に取った写真たちを見つめながら笑っている彼の声を思い出していた。からかいながらも本気で私を好きだと言ってくれたあの声を。あのシャッターの音が、まだこの胸に響いている。
何度も捨てようと思ったそれらの記憶は今日もこの小さな箱の中に束ねられたまま残っている。捨てられないのはやっぱり私がまだどこかであの��絶対�≠ェ嘘にならなければよかったのにと願っているからだ。もう一度その言葉を聞いたとき、今度こそ信じられる日が来るのなら私は、そっと笑って「うん」と、返せる気がしていた。
写真は結局また元の箱に戻した。でも今度は、丁寧に束ね直して、少しだけ、手触りのいい紐で結んだ。捨てられないからもう一度ちゃんと向き合うまで預けておく。それは私なりの小さな決意でもあった。
*
職場のリフレッシュスペース。テレビの画面に映っていたのは元カレ──ホークスだった。もう何度目かもわからないくらい、偶然という言葉が意味を失ってしまうほどの回数で、最近はどこを向いても、彼が映っている。番宣のバラエティ、ヒーロー特集、そしてコマーシャルの合間に差し込まれる笑顔と、その左隣には……女性の影。
柔らかな口元と上品な衣装。たしか特別な個性を持つ局の新人アナウンサーだったはずだ。彼女は彼に向かって微笑んでいて彼もまたいつもの軽さで視聴者の目を意識した、余裕のある顔で応じていた。
そのとき、私の手の中にあったマグカップが、ほんのわずかに震えた。けれど落とさなかった。そのまま落として壊してしまえば、もっと壊れてしまいそうだったから。私はただカップのなかのコーヒーがかすかに波打つのを、無言で見つめていることしか出来なかった。
その夜、私はまっすぐ自宅には帰れずにいた。冷えきった風が容赦なく首元を抜けていくなか、寄り道の理由もなく足が勝手に向かったのは昔、彼と待ち合わせによく使った、駅裏の小さな公園だった。誰もいないブランコと、錆びた鉄棒と、街灯のもとにぽつんと置かれたベンチ。私はそのベンチに腰を下ろす。時計の針は午後八時を指していた。足元の落ち葉が風に転がる音が不自然なほどに耳に残る。手袋もせずに来てしまった指先がかじかんでひりついていたのに、それさえ気づかないほど胸のなかは、ただ静かで、空っぽで、なにも動かない。
「……おい。こんなとこで何してんだ」
ふいに低い声が聞こえた。振り返るとそこにはある人物が立っていた。かつて私に社会の不条理と静かな強さを教えてくれた雄英高校の元担任、相澤先生だ。
「え……。相澤……先生?」
声を出したことで自分の声がかすれている事にこのとき初めて気づく。
「風邪ひくぞ。こんな冷える夜に」
変わらない落ち着いた声。変わらない無表情。けれどその無愛想のなかにある静かな気遣いが、まるで胸に染み渡る湯のようで私は、その瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた音が聴こえた気がした。そして、声をあげずに泣いた。最初は肩を震わせるだけだったが、それはやがて抑えきれない嗚咽となってあふれ出し、私はひとことも言わないうちに、涙の波に呑まれていた。
相澤先生は、黙って隣に座った。何も言わなかった。ただ、差し出された捕縛布の端に私は顔をうずめた。ヒーローの温度だった。あの頃、授業中に感じていた厳しさと、目の奥に見え隠れしていた優しさが、今も変わらずそこにはあった。
「……先生、わたし……大失恋……しました、」
「そうか」
「私から、別れたのに……勝手に……自分でそうしたのに、やっぱり……好きで──っ、」
「……」
「彼のため……だから、もう、諦めないと──」
うまく、話せなかった。言葉は途中で詰まり、息継ぎも下手で、言いたいことが何だったのかももう、わからなかった。けれどそんな支離滅裂な言葉を先生はひとつもさえぎらずに全部、黙って聞いてくれた。
「……別れの理由は、正しかったんだろう」
「……っ、」
「なら、合理的だろ。」
その一言に私はもう一度静かに涙をこぼした。正しさだけでは、どうにもならないことがある。でも、それでも。私は誰よりも彼の幸せを祈っていた。あのとき確かにそうだった。そう決断した自分を否定なんか、したくない。絶対に──。
*
収録を終えたあと、化粧鏡の前で缶コーヒーを片手になんとなく寛いだふりをしていた。隣には現在��恋人�≠ニ噂されている女性アナウンサー。スタジオの隅では、スタッフがまだ数人談笑していたけれど、正直、もう何も聞こえてなかった。
「さっきの恋人と過ごす理想の休日の質問、あれすごく自然でしたねっ!」
そんな質問あったっけ……なんて思いつつも、彼女の明るい声に俺は、なんとか笑ってみせる。
「そうスか?……まあ、演技派ってことで」
声が少しだけ低くなったのはたぶん苦めのコーヒーのせいじゃない。喉の奥に、言い訳みたいな空気が詰まっていたからだ。
「ふふ。ねえ、ホークスさぁ〜ん?私たち、噂になってるって知ってますぅ?」
「……あー、はい。ですねー」
「実際のところ、ほんとに誰か好きな人、いないんですかぁ〜?」
「……」
「だってぇー、さっきの答え方、まるで経験者!みたいな口ぶりだったんですも〜ん」
一瞬、手が止まった。缶を握る指先が緩んで、背中の羽がわずかに揺れる。それはきっとただの番組用の軽口だったんだろう。でも俺の中では、反射のように心臓が緊張していた。
視線がずれる。笑顔が一瞬、遅れた。自分でもわかった。完璧にやれてない。この空気に気づいたスタッフがひとり、少しだけ、怪訝そうな目をしたのを鏡越しに見てようやく笑顔を貼り直す。
「……さあ。昔の話っすよ。過去形」
その言葉がこんなにも重く喉に残るなんて想定してなかった。自分で��過去形�≠ニ言った瞬間、自分の中のなにかが、冷えていくのがわかった。羽根の一本が抜けて、床にはらりと落ちる。俺はそれに気づかなかった。いや、気づかないふりをした。
……あの夜、彼女に一方的に別れを告げられたとき、俺はどこかで信じていた。寂しさに負けて戻ってくるって。あれは、一時の感情だって。
何度でも俺が会いに行けば、気持ちは戻るって。でも、甘かった。何度求めても、どれだけ近づいても彼女の目はもう、俺を見ていなかった。そのときようやく理解した。そっか、あの日の『さよなら』は、本気のやつだったんだな、って。
だから俺は決めた。未練を見せ続けるのはもうやめようと。俺が彼女の空にしがみついていたら彼女は地上で呼吸ができなくなる。だったら俺も終わらせる。彼女の未来を切り離すために、俺が��幸せそうなふり�≠�してみせる。誰でもいい。だれかと付き合ってるように振る舞えば彼女への気持ちにも止めを刺せる。それなら──ちゃんと終われるだろうって。
それからは、お得意の演技派ヒーローだった。笑ってカメラの前に立ち、誰かの手を取って幸せそうな顔をして。でも、その手は軽くても、心は空の中で、いつまでも漂っていた。
ほんとうは……本心では、いまも、夢みたいに願っていた。彼女がふと扉を開けて「啓悟くん」って。「まだ好きだよ」って言ってくれるそんな都合のいい幻を。
それを自分で終わらせたくて、笑ってる。でも時々、シャッター音のように記憶が脳裏で響く。だから必死だった。本当に終わったってことを、笑顔の裏でずっと、噛みしめるようにして。
*
「飲みにでも行くか。もうとっくに成人迎えてんだろ」
公園のベンチ。二人で並んで座っていた、ふとした間に相澤先生がそう言葉を放った。無表情の中にほんの少しだけ慰めのような声音が混じっていたのは、きっと気のせいではない。
「……え、いいんですか?元教え子だった相手をそんなふうに、誘っちゃって。教師なのに……」
「もうお前の教師じゃないだろ。別に問題ない」
「……まあ、そうですけど」
「酔って誰かに迷惑かけるくらいなら、俺が付き合ってやるよ。失恋女の……ひとりきりの夜ってやつにな」
「ちょ……! 言い方ぁ……」
「事実だろ」
「……はい、事実ですけどぉ……」
そう言って立ち上がった先生の背中について、公園を出た。
街は金曜日の夜で、駅前の居酒屋には明かりが灯り、どこも賑わっていたけれど、先生が選んだのは裏通りの古びたビルの二階、看板も何も出ていない静かな店だった。木の扉をくぐった瞬間、ふわりと漂ってきたのは炭火と出汁の香り。カウンター席だけの店内には、他に客は一組だけで、間接照明がぼんやりと私たちの影を映していた。
「量を飲めるのは、まだ変わってないのか?」
「強くなったと思ってたんですけど、今日は……ちょっと自信ないかも」
「なら、なおさら飲め」
苦笑して、差し出された冷酒のグラス。静かに喉を通ったその透明な液体は、まるで冷たい記憶そのもののようで胸の奥に染みこんでゆっくりと火を灯していった。
何杯目だっただろう。顔が熱く視界が霞んで、けれど、気持ちだけは不思議なほど澄んでいた。
「先生、わたし……彼と別れるとき、ちゃんと、言えなかったんですよ……」
「なんて」
「──あなたのこと、まだ好き、って……」
言葉にした瞬間に、涙がこぼれた。わざとじゃない。ただそれはまるで口が勝手に開いたように心の底から浮かび上がってきた感情で、もうどうにも止めようがなかった。
「私が手を離したのは、彼の未来を思ってのことだったけど、でも……いまは、後悔してないって言ったら……嘘になります……」
先生は黙ってグラスを持ち上げ、ひとくちだけ飲んだ。それから、ぽつりと言った。
「好きって感情は、我慢と似てるよな。自分じゃなくて、相手を守りたくてするもんだ」
その言葉に胸の奥がきゅうっと締めつけられるのを感じた。酔いはすでにまわっていた。けれどそれ以上に心が揺れていた。ひとつ、またひとつ未練がこぼれて私は、テーブルの端に額を預けるようにして、そのまま言葉をなくしたのだった。
*
「立てるか?」
「……無理です」
「……ったく、しょうがねぇな」
店を出て外気に触れた瞬間、ふらりと足がもつれた。自分の脚が、頼りなく震えるのを情けなく思いながら、けれど言葉にする余裕もなく、ただ先生の背中に身を預けた。
「吐くなよ」
「それは、大丈夫かと……でも、センセ……」
「ん」
「……ごめん、なさい。」
「気にすんな。元教え子ひとりぐらい背負えねぇほど落ちぶれちゃいないよ」
低く、静かなその声が、夜の空気に滲むように溶けていく。私は、胸の奥がくすぐられるような感覚のまま小さく笑った。そのときかすかな風の音が、ふっと耳をかすめた。ああ、この風は……あなたですか──?
心の中でそう問いかけたその瞬間、羽根に似た気配が、確かに背中を通りすぎた気がした。
──見てしまった、と思った瞬間には、もう、目が離せなくなっていた。
交差点の向こう側。少し先の歩道に、ふたつの人影。背中に背負われている見慣れた女性の姿。誰だか知らない男の背に身を預けて、眠っているように見えた。いや、眠っていたんだろう。あの綺麗な髪の毛先が風に揺れて、指先が無防備に、垂れ下がっていたから。
あの、俺の羽根よりも軽い手が、別の、誰かの背中で揺れている。
俺は横断歩道のこちら側で立ち尽くしていた。視線はまっすぐに彼女たちに向けられたまま動けなかった。足元の地面がまるで抜け落ちたみたいに、息をすることすら、うまくいかなかった。
苦しかった。泣くとか怒るとか、そういう次元じゃなかった。……ああ、俺だけが、まだそこに立ってるつもりだったんだ、って。あの日から、何も変わってないと思っていたのは俺だけだったんだ、って。
相手の顔は見えなかった。彼女が……俺以外の誰かの背中で、無防備に安心して、あんな顔で
眠ってる──その事実だけで、胸の奥がなにか、禍々しいものをこじ開けられるように痛んだ。
どこの誰だよ、ほんと。全然わからん。俺の、長年の拗らせと重さを、甘く見んなよ。たいして彼女のことを知りもしないやつが、たかが数分、数時間、隣にいたくらいで彼女を預かってる気になってんじゃねえ。そんなどこん馬ん骨とも知れんヤツに、簡単に奪われるとか、ナイ。マジで。
「……ちくしょう」
声が漏れたのも、自分で気づかないくらいだった。羽根が一枚、風にかすかに反応して震える。けれど俺はただ帽子を目深にかぶったまま、その場から動くこともできずにふたりの背中を黙って見送るしかなかった。
彼女の頬があんなにも静かにどこかの知らない男の肩に触れていた事実。それを、目の前で見てしまった。それだけで、俺のなかで張りつけた
��終わったふり�≠ネんてもんは、いとも簡単に、剥がれてしまった。
「……それ、俺じゃなきゃダメでしょ。」
誰にも聞こえないように、自分のなかに、呪いみたいに言葉を落とした。
その夜、俺は終わらせることよりも、もう一度始めたいと──ふたりの間にあった��過去形�≠フ全部を、どうにかして、未来に変えたいと思ってしまったのだった。
*
知らない天井を見上げたのは何年ぶりだっただろう。白い蛍光灯の輪郭が微かにぼやけて滲んでいる。枕元には、見覚えのない黒いマグカップ。そして肩にはブランケット。それらが静かに整然と置かれている部屋の空気に私はようやく思い出した。昨夜、自分がどれほどみっともない醜態を晒して、泣き上戸に成り下がったのかを。
あのあと、先生はタクシーで私を連れて帰ってくれた。この部屋の本棚は黒と紺と灰色の背表紙で統一され、キッチンには使用感のある片手鍋が干されていた。生活感は薄いが清潔で男性の一人暮らしを無言で物語っていた。
「ほら、これ使え」
差し出されたのは、ジャージの上下。さすがにブカブカで袖が手の甲まで覆ってしまったけれどそれがかえって落ち着いたのは、私がまだ酔っていたからだろう。
それからの時間は、記憶がにじんでいる。ただ何度も「もう大丈夫です」と言ったのに先生は、一歩も下がらなかった。声を荒げて泣いたあと、私はそのまま床に座り込んで、いつしか、先生のマグカップを両手で抱えていた。
「……全部、終わったんです」
そう呟いたとき、先生は頷きも、否定もせず、ただ黙って、私の横に座っていた。あの沈黙は、慰めでも否定でもなかった。ただそばにいてくれるということの重さだけが胸に染みて、私はまた涙が出た。
翌朝、目が覚めると、先生はすでに起きていて洗濯物を干していた。淡々としたその背中には、まるで一晩中何もなかったかのようで、私は何も言えずに、ただバスルームを借りて、シャワーを浴びた。
鏡の前で髪を拭きながらふと、自分の頬がほんのり赤くなっていることに気づいた。これは酔いの残りか、それとも──吊り橋の上に立たされた錯覚か。
優しさに触れて、心が揺れた。先生の背中が、どこか安心できる居場所に見えてしまったのだ。でも、違う。これは、恋じゃない。これはただの感情の余熱。寂しさと夜と温度の錯覚。そう言い聞かせながら私は駅へと向かう道を先生と並んで歩いた。
「──じゃあ、わたし……こっちなんで」
「……ああ」
「昨日は本当に、ありがとうございました……」
駅の構内に足を踏み入れたとき、先生はふいに立ち止まり、ポケットから、スマホを取り出して言った。
「なんかあれば、いつでも連絡よこせ」
「……はい」
短い言葉。けれどそれがどれほど救いになったことか。その声にもう一度甘えてしまいそうで、私は頭を下げてそのまま改札に向かった。
けれど、そのとき。私は気づかなかった。柱の陰に立ち、ただじっとこちらを見つめていた視線に。街に溶けるような服装で、帽子を目深にかぶった、ある��ヒーロー�≠ェ、そこにいたことを。
俺は駅の雑踏のなかで、固まっていた。笑顔も羽ばたきも、いつもの軽口もなく。ただ、言葉をなくして目の前の光景を見つめていた。彼女だ。彼女が、誰かと一緒にいる。しかもそれは一晩を共にした直後のような親密さだった。男物のジャージを着て髪を少し濡らしたままの彼女が微笑みながら頭を下げるその姿はあまりにも事後の朝のそれで──。
拳がゆっくりと握られる。感情が、逆流する。終わらせたはずの未練が、理性の奥を突き破って浮上してくる。
「……俺、何やっとーとや」
喉の奥で呟きにもならない声が漏れる。彼女を幸せにするために追いかけるのをやめた。自分が彼女に戻らないよう、恋人がいるふりを演じて、世間に向けて��終わった恋�≠ニ、宣言までした。
なのに、どうしてこんなにも、苦しいのか。
──違う。俺はまだ、彼女が、あの人が……。知らん誰かの隣で笑ってるのが、耐えられない。
その瞬間、俺は心に決めた。どんなに格好悪くても後戻りでも、傷ついても。もう一度、彼女に会いに行こうと。まだ間に合うなら。まだ名前を呼んでもいいのなら──。
そのとき、羽根がそっと肩から浮き上がった、確かな感触を俺は、はっきりと感じていた。
*
彼の気配を感じたのはほんの一瞬だった。私が部屋を出る、数分前のこと。廊下の影が、揺れた気がして、けれど、誰もいなかった。
ふと胸騒ぎがして扉の取っ手に手をかけたまま一度だけ振り返ったけれど、部屋の中は変わらず静かで、時計の針の音だけが、淡々と時を刻んでいた。結局私は玄関を開けて何も知らないまま、また、いつもの日常に足を踏み出したのだった。
その頃──ほんの数分違いで俺はそこにいた。かつて何度も通った慣れたはずの扉の前。けれど今は、まるで見知らぬ場所みたいに、心臓がバクバクとうるさかった。
帽子もマスクもしていない。ヒーローでもナンバーツーでもなく、ただの一人の男として呼び鈴にも触れられないまま何度も深呼吸を繰り返していた。拳を握っては開き、開いてはまた握りなおして、名前を呼ぶ練習を唇の裏で何度も何度も。
「……名前さん……いる?」
ちゃんと声に出ていたかも怪しい。心の中で、かすかに震える声だけが扉に届かないまま消えていった気がした。応える気配はない。その代わり郵便受けの隙間から、ひとすじ風が抜けていっただけだった。
「当たり前や……そんな都合よく、おらんよな」
誰にともなく呟いて、ゆっくりと踵を返した。けれど、ただそれだけで帰るつもりはなかった。今日じゃなくてもいい。タイミングなんて、もうどうでもよかった。だって、諦める理由がもう、どこにも残っていなかったから。
背中の羽根が、わずかに震えた。それは、風のせいじゃない。抑え込んだままの感情が、どこかから漏れ出していたせいだ。胸の奥で何かがゆっくりと動き出す音がした。始まりかもしれない。あるいは、まだ終われないという、確信だったのかもしれない。
*
翌日の仕事の帰り。まるで、偶然を装うようにして彼はその道に立っていた。角を曲がった先、帰宅途中の私と、ばったりと視線がぶつかった。私は一瞬、足を止めた。彼もまた立ち止まった。通行人の中で時間が止まったような感覚。夕暮れの空が茜に染まり、町の輪郭がやわらかく滲んでいくその風景のなか、彼の姿だけがはっきりと、鮮やかすぎて、眩しかった。
「……や、偶然。いま、帰りですか?」
そう問う彼は笑っていた。けれど、わかった。その笑顔が、どれほど無理に引き上げられたものなのかを。私にはわかった。わかってしまった。
「昨日、ちょっと寄ったっちゃけど……留守で。あ、別に、ストーカーとかじゃないスよ? 安心して。ていうか……もう、今さらか」
冗談を含ませたいつも通りの言い回し。言い訳にも似た言葉の端々。けれどその目は、真っ直ぐだった。どんなに軽口を叩いても、隠しきれない本音が、にじみ出ていた。
「俺……その。まだ終わったって、思えなくて」
「……」
「いろいろ考えました。俺のせいで名前さんが、苦しかったって今ならちゃんとわかる気がして」
「……、」
「でも、それでも……また、もう一回だけ、やり直せたらって」
「……っ、」
「だから、俺──」
「……もう、本当にやめてほしい」
その言葉は自分の口から出たものとは思えないほど鋭く、そして震えていた。感情が先に出た。涙が追いかけた。抑えていたものが、堰を切って溢れてきた。
「これ以上、優しくしないで、私なんかにもう、関わらないで。それ以上、何も言わないで……」
「……」
「あなたが苦しいのも、私が苦しいのも、もう、終わりにしなきゃいけない、から……っ」
「名前さん──」
「お願い、もうやめて……これ以上、わたし……どうしたらいいか、わかんない……!」
涙は止まらないし、声は震えていたし、視界はにじんで彼の顔も見えなかった。けれど彼は何も言わなかった。ただそこに立っていた。目の前にいて何かを言おうとしてけれど声にならず羽根がわずかに揺れたまま、彼は言葉を失っていた。
私の涙がアスファルトに落ちた音がやけに大きく響いた。心も姿勢も、すべてが崩れそうで私は、一歩、二歩と、境界線を引くように彼から離れて距離を取る。
「……ごめん、ほんと、ごめんなさい……っ、」
最後の言葉はもう風に溶けるようにしか聞こえなかったと思う。私は彼に背を向けたまま、歩き出すことしかできなかった。背後からは何の音もしなかった。追いかける足音も、羽音も、なにもなかった。
きっとあのとき、彼もまたひとつの��絶望�≠�知ったのだと思う。まだ好きなのに──触れられない。もう一度伝えたのに……届かない。自分が選んだ��終わらせるための演技�≠ェ確かに効いてしまったという、皮肉な成果。
でも、それでも私は、心の奥でほんの少しだけ彼の温度を求めていたのも確かだった。それこそ皮肉すぎる成果だろう。
──静かだった。別れの言葉を口にしてから、風の音さえ心に届かないほど静まり返っていた。
私は何も考えずに歩き、帰宅して、鍵を閉め、靴を脱ぎ、ジャケットをハンガーにかけ、それらすべての動作を機械のように終えたあとソファに座り込んだ。
そして、気づく。あんなふうに拒絶したくせに胸の奥がどこまでも空っぽだったこと。吐き出すように「もうやめて」と言ったのにそれはまるで自分の中の小さな希望を自分の手で握りつぶしたような痛みだった。
彼の、射抜くような鋭さを持ったあの目が──揺れていた。ただ真っ直ぐに見つめ返されただけなのに言葉が出なくなった。あの瞳の奥に沈んでいたものを思い出すたび胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
どうして、泣いてしまったんだろう。どうして泣くのはいつも私の方なんだろう。もしかしたら本当は彼のほうが、何百倍も泣きたかったのかもしれないのに。あの瞳は泣くかわりに何もかもを抱え込んでいた。気づいていたのに見て見ぬふりをしていた。あの瞬間に立ち返るたび、心の奥でかすかな後悔が波紋のように広がる。
その夜、私は眠れなかった。まぶたを閉じても彼のあの鋭くも美しい炯眼が焼きついたままで。まるで夢の手前でずっと足止めされているようなそんな、雨の降る夜だった。
『答えなんか、最初からねぇよ。選ぶしかない』
『優しくしすぎた?ちゃんと傷つけた?……関係ないね』
『相手がまだ立ってるなら、もう一度向き合えばいいだけだ』
相澤先生の言葉はいつも不器用で、そして真っ直ぐだった。あの日、駅に向かうまでの道のりで私はふいに涙ではなく言葉にならなかった気持ちがこみ上げてきて思わず、口元をおさえて笑ってしまった。
泣くことと笑うことの境目が曖昧だった。人を愛するってたぶん、そういう、ことなのだろう。ですよね……? 相澤先生──。
*
あれほどはっきりと拒んだのにあの日から夜が来るたびに胸が、きりきりと痛んだ。
やめてほしい、と泣いて訴えたのは私だった。けれど、それでもなお私はあの人のことを考えてしまう。スマホの画面がたった一度でも光るのを待ってしまう自分が情けなくなった。けれども、その情けなさの裏側にまだあのヒーローのことを好きでいるという証拠が確かに残っていることの方が、もっともっと情けなかった。
『行ったほうがいいぞ』
『気持ちがあるうちに会わないと手遅れになる』
『お前も、相手も、遅れたら一生後悔すんだろ』
ふいに蘇ってきた相澤先生の言葉──。それはまるで自分の心の奥底に仕舞っていた扉が静かに開かれたような、そんな感覚だった。
その日の夜、私は静かにコートを羽織って家を出た。向かう先はまだ決まっていなかったけれどなんとなく、どこかで、会える気がしていた。
会わなければならない。��今でも好きです�≠ニいう言葉を、今度こそ最後まで言わなければならない。叶わなくてもいい。拒絶されてもいい……でも、もう、諦めたくなかった。
その道はなんでもない小径だった。仕事帰りの人々が足早に行き交い落ち葉の音と車の通過音が混じる、ごく普通の市街地の裏道。なのに私は、その道に足を踏み入れた瞬間、なぜか息を止めていた。風の匂いが変わった気がしたのだ。どこか懐かしく、遠くで聞いた声の残響のように胸の奥の古い傷がそっと疼くような、そんな風だった。そして次の角を曲がった瞬間──私は、見つけてしまった。
「……やっと、会えましたね」
その言葉に胸が締めつけられた。再会の台詞としてはあまりにもさりげなく、あまりにも彼らしかったから。私は、咄嗟に聞き返す。
「偶然……じゃ、ないよね?」
「うーん、七割偶然、三割くらい……会えたら
いいな、って」
「……嘘」
そう呟いた瞬間、何かが決壊した。張りつめていた糸がぷつりと切れたように私は呼吸を荒げ、声が震え、涙が視界を曇らせた。
「あなたのこと、嫌いになったわけじゃないの」
「知ってますよ」
「でも……ずっと、怖かったの。いつかあなたの羽根が、誰かを守るために、折れてしまうんじゃないかって……」
「……」
「あんなふうに、どこまでも遠くへ飛べる人が、私のせいで……地べたに落ちてしまったらって」
言葉が止まらなかった。ずっと、喉の奥に絡みついていたものが、ようやく、言葉になって流れ出すように、私は精一杯、話し続けた。
「あなたの未来を壊したくなかった……あなたを誰かのヒーローとして、ちゃんと、守ってあげたかった。でも私にはそれができなかった……!」
涙が、頬を伝って落ちる。もう姿も声もぐちゃぐちゃだった。けれどそれが、いまの自分自身の本当の気持ち、等身大の私だった。
私は振り返って彼に背を向ける。これ以上は、いけない。そう思ったから、背を向けた。でも。次の瞬間、手首を引かれた。振り返るより先に、彼の腕のなかに引き寄せられる。驚きも言葉も、間に合わなかった。ただ温度だけが先に伝わってきた。
「それ、全部……俺が言いたかったことなんですけど」
低く、掠れた声が、耳元で微かに震えていた。いつもの軽さはなかった。皮肉も冗談もどこにもなかった。ただ彼の真っ直ぐな心音だけが言葉の奥に響いていただけで。
「俺も、怖かったんですよ。あなたが俺のせいで苦しむの、もう見たくなくて」
胸の奥がわずかに軋んだ。誰よりも人の痛みに敏感で、誰よりも自分の痛みに鈍くなろうとするこの��ヒーロー�≠ヘそうしてずっと自分を後ろに追いやってきたのだ。
私は何も、言い返せなかった。言葉にすれば、もっと涙がこぼれてしまいそうで。
「でも、それ以上に怖かったのは、俺があなたのいない未来を、選んでしまうことだった」
その一言が静かに胸の底を貫く。震えるような痛みと、あたたかさが、同時に押し寄せてくる。どれほどの迷いと自制と愛しさの末に、彼はその言葉に辿り着いたのだろう。
彼の腕に、そっと力がこもる。優しく、けれど決して離さぬように、もう──絶対に。そう語る代わりのように、抱きしめるその手が私の胸の奥まで震わせた。
「誰かのヒーローになるより名前さんの隣にいたいって心のどこかでずっと思ってたくせに……」
「……」
「でもそれを言葉にしたら全部壊れる気がして、怖くて……逃げたの、俺のほうなんです」
彼の羽根がふわりと揺れて優しく私の肩を包み込む。それは、もう誰のためでもない、彼だけの私への翼だった。
「……終わらせるために、嘘ついて、遠ざけて、でもほんとは……誰かと付き合ってるふりなんかしてる暇があるなら、何百回でも名前さんに好きって、言いたかったと」
その声は弱さじゃなく誠実さの滲む音だった。言葉のひとつひとつが、胸の奥に沁みていくのがわかった。私はただ黙ってその胸に顔を埋めた。彼の鼓動が、ゆっくりと耳に届く。しっかりと、確かに、そこにある命の音。過去の嘘も後悔も、その温度がすべてを包んでくれるようで私もまた静かに目を閉じた。
「……今からでも、やり直さんですか?」
彼の声は、夜明けの手前で誰かを呼ぶように、遠慮がちで、けれど深く、真っ直ぐだった。
たしかに今この瞬間、私たちはもう一度触れ合った。けれど人の心はそんなに簡単に整形できるものじゃない。愛していることと、許せることは別だ。過去を抱いたまま現在を歩くことと未来を選び直すことは似ているようで、決定的に違う。
「……ありがとう。気持ちは、ちゃんと……受け取ったよ」
私はそっと、彼の腕の中から身を引いた。その行動も言った言葉もきっと全部、誠実さのつもりだった。今すぐに寄りかかってしまう事が本当の答えじゃないと、どこかで思っていたから。
けれど、その言葉を口にした直後、彼の目が、ほんのわずかに翳ったのを私は見逃さなかった。表情は変わっていない。笑おうとしているようにも見えた。けれど、その瞳が一瞬だけ、なにかをしまい込むように沈んだのだった。
「……受け取ったって、それ俺とまた始めるってことと捉えて、いいんです?」
「……わからない。ごめんなさい」
その答えが、彼を傷つけたのだと気づいたときにはもう遅くて、彼はふいに、一歩距離を詰めてきた。まるで踏み込まれたくない場所を踏まれたような、そんな衝動が、胸の奥で爆ぜた。
「じゃあ……あン男は?あの夜、背負われてた男──誰?」
その問いに、私は一瞬、呼吸を忘れた。ああ、見られていたのだ。あの夜。私が、あの人の背に寄りかかって放心していた、あの夜を──。
「……答えたく、ない」
「名前さん、」
「もう、話すことはない。ごめんなさい」
そう言って、私はまた彼に背を向けた。結局のところ私は逃げることを選んだのだ。自分でも、それをわかっていた。向き合うにはまだ、覚悟が足りなかった。
けれど、次の瞬間。背中越しに、ぐっと、腕を引かれた。先よりもはっきりと、強い力だった。ためらいのない意志のある動き。逃がさない──そう、言われた気がした。
「逃げんで」
低く、ずいぶんと、掠れた声だった。振り返る間もなく彼の腕が私の体を強く引き戻す。ふいに息をのむほどの、瞬間的な力。抱きしめる腕も、さっきより、ずっと強かった。ためらいも遠慮もなくて、まるでこの一瞬にすべてを賭けるような抱きしめ方だった。
「もう俺から、逃げんで……頼むけん。」
彼の額が、私の肩口に触れた。震えていた。
強さを隠すための軽口も、誤魔化すような微笑も今はなかった。
「全部、言ってほしい。苦しかったことも、不安だったことも、俺を遠ざけた理由も……もう俺、黙って飲み込むのは嫌です」
「……」
「無理して、嘘で、優しく突き放されるの……
もう、嫌たい……」
ぎゅっと抱きしめる力が、まるで涙のかわりのように感じられた。言葉ではもう届かない想いをその抱擁が、すべて物語っている気がした。私は何も言えなかった。喉の奥に言葉がつかえて声にならなかった。呼吸の仕方さえ、わからなくなるほど、胸がいっぱいだった。
「俺、ずっと見てた。名前さんが俺を諦めるために、一生懸命になっとるの、知っとった」
「……」
「でも、だからこそ、余計に言えんかった。俺、誰よりも名前さんに甘えとった。ごめん」
その声には彼の全部がこもっていた。誤解も、後悔も、執着も、そして──愛も。私はようやく彼のジャケットの裾を握り返した。
本当は逃げたくなんかなかった。ただ怖かっただけだった。彼の愛に真っ直ぐ応えられない自分が怖かっただけ。だから私は小さく震えながら、囁いた。
「……わたしも、ごめん。」
その言葉に、彼はほっとしたようにひとつ息を吐いた。まるで、長い冬が静かに終わりを告げたあとの、穏やかな空気のようだった。
「……話そう、今。ちゃんと」
腕のなかで彼の声が震えを含んでいた。それは怒りや苛立ちではなく不安からくる微細な焦燥。逃げられたくない、また置いて行かれたくない、そういう本音が、滲んでいた。
私はそっと体を引き離し、彼の腕の中からまた一歩、後ずさる。
「ごめん……。」
それだけで、精一杯だった。彼は何も言わず、変わらずに、ただ私を見つめている。
「いまは、ちょっと無理。今日のことだけでもう胸がいっぱいで……気持ちが整理できてないの」
「それって……」
彼の目がわずかに細められる。戸惑い、察し、何かを飲み込もうとする瞬間。感情がゆっくりと顔の筋肉に表れる。その動きがあまりに人間らしくて、だからこそ、私の胸をほんの少しだけ締めつけた。
「……それ、ぜったいまた、逃げるやろう?」
口調こそ柔らかだったが、その声音にはどこか釘を刺すような、鋭さが滲んでいた。目だけは、笑っていなかった。羽根の動きがぴたりと止まり風そのものが、息をひそめたような、張りつめた静けさが、ふたりのあいだに落ちる。
「逃げないよ」
「ほんとに?」
「ほんと。ちゃんと向き合いたいから、ちゃんと考えたいの。……今日のまま、流されたくない」
「……」
「あなたとまたちゃんと……始められるかもしれないなら、なおさら」
言葉を繋ぐたびに、自分のなかの覚悟をひとつずつ置いていくような気がした。彼は眉間に皺を寄せたまましばらく何も言わなかった。それでも私の目を、じっと見ていた。まるで、ほんとうの答えが声じゃなく、視線の奥にあるかどうかを、探るようにして。
その視線に私は一歩も引かなかった。心の奥で風がふたたび流れ始める気配を、感じながら。
「……はぁ、もう……」
彼が頭をがしがしと掻いて、空を仰いだ。その仕草は言い場を失った少年のようでいて、けれどその背中には、逃げる気配など、一切なかった。
「……ほんと、ずるいですね、あなたって人は。俺、ぜったい今日のうちに決めたかったのに」
つぶやく声には、焦れたような苦笑と、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。それでもどこか照れくさそうに、彼は言葉を続けた。
「でもそういうとこ、やっぱ好きなんですよね。考えすぎて、抱え込みすぎて……俺にもちょっとくらい、分けてくれてもいいのに」
彼は、ふうっと長く息を吐いて、それからふと私のほうを見た。そのときの顔は、さっきまでの焦りも苛立ちもない、ただまっすぐに信じる事を選んだ人間の顔だった。
「わかりました。じゃあ今日は、これ以上もう、何も言わないです」
そう言って、彼は私の前髪にそっと指を伸ばし指先で静かにすくい上げた。ふだんなら、きっと冗談めかして「んじゃ、おでこにキスでも」なんて、軽口を挟んでいたはずなのに彼は何も言わなかった。指先は髪に触れただけで、それ以上は、踏み込まない。その沈黙こそが、彼の真剣さを、なによりも雄弁に物語っていた。
「……そのかわり、約束して。必ず、会うって」
その声は低く、淡々としていた。けれど確かに地面に根を張るような揺るがない響きがあった。私が曖昧に頷いてやり過ごすことなんて、きっと彼は許さない──そんな気配が、言葉の端々に、滲んでいた。
「わたし……逃げないって、言ったでしょ」
私の声は静かだったけれど、きっと少し震えていたと思う。それでも彼はじっと私の目を見据えていた。試すようでも疑うようでもなく、ただ、願うように──。
「でも、言葉だけじゃ足りないんすよ。会うってちゃんと、口で約束してほしい」
それが彼なりの��信じたい�≠ニいう、意思表示だった。私は一度だけ深く息を吸ってまっすぐに彼を見つめ返す。
「……会うよ。絶対。」
その言葉に、彼の表情がほんの少しだけやわらいで、安心したように、けれどどこかはにかんだように、視線をそっと伏せた。
「……オッケーです。んじゃ、今日はこのへんで引き下がります。偉くないです?今日の俺、ばり偉くないですか?」
そのふざけた口調に、思わず、吹き出しそうになる。けれども笑おうとした刹那、先に胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……うん。ちゃんと、偉いね」
そう言いながら笑顔のままふいに涙が滲みそうになる。なんでもない会話がこんなにも愛しくてこんなにも脆くて、こんなにも、嬉しかった。
彼も笑っていた。けれどその横顔にはやっぱりほんの少しだけ名残惜しそうな寂しさがにじんでいた。言葉にはしなくても、その沈黙には確かに『帰したくない』という想いが、静かに漂って
いた。
「おやすみなさい、名前さん」
「……おやすみ、啓悟くん」
私の返事を聞き届けると、彼はゆっくりと背を向けた。その肩越しに、羽根がふわりと宙を舞い上がり、街灯の淡い光を柔らかく受けて、静かにきらめいた。
歩き出したその背中を、私は黙って見送った。言葉はもういらなかった。ただ、この夜の先に、ふたりがほんとうに再び出会える日が来ることを信じるしかなかった。
そうして私はひとり残された風のなかで、彼の羽根が揺らした空気の余韻にそっと目を閉じた。約束の言葉が夜の空気に温かく漂っている。それだけで私はこの夜を忘れずにいられる気がした。