※原作ネタバレ+捏造のため閲覧注意。原作・アニメ5期以降を未視聴の方はご注意ください※
この街には、風がよく通る。
それが、このマンションを選んだ理由のひとつだった。
春と夏の狭間、夕暮れの色がまだ宙を名残惜しそうに滞留している時間帯。ベランダに出て今日洗ったシャツが、ほんのり柔軟剤の香りを漂わせながら揺れているのをぼんやり眺めるのが習慣になっている。干された布と金物の物干し竿が軋む音、それから、遠くで小さく鳴る車のクラクション──そんな些細な音のなかにいると、忙しなく回っていた心の時計も少しだけ緩やかになる気がして、つい深呼吸をしてしまう。
「……今日も、風強いな」
そのときだった。隣のベランダから、ぼそりと声がした。最初は誰かの独り言かと思った。でも気配がこちらに向いていることに気づき私は反射的に振り向いた。目が合った。低く、掠れた声と鋭さを含んだ眼差し。けれどそれは不思議と冷たい印象とはまた違ったものだった。
隣に住む男性──背は高く、黒い長髪をラフに後ろで束ね、常から洗濯物を干す姿すら見かけることがなかったその人と私は初めてきちんと顔を合わせた。
「……あ、はい。風、強いですね」
間抜けな返事しかできなかった自分に、内心で苦笑しながらも彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ──口の端が微かに動いたように見えた。笑った……の、だろうか。それが私たちの、最初の会話だった。
それからというもの、夕暮れどきになると私は少しだけ、ほんの少しだけ期待してしまう自分に気づくようになった。ベランダに出るたび、隣のカーテンが揺れていないか、物干し台に、誰かの影が映っていないか無意識に目を向けてしまう。そして彼もまた、決まってその時間帯になると、ふらりと姿を現すのだった。
「仕事帰りですか」
「ええ、まぁ。……あの、」
「……?」
「ご職業、もしかして……教員とか、されてるんですか?」
「……」
「あ、ほら。その今手に持たれてる教科書……」
「……そう。高校の、ね。ちょっと変わった学校ですがね」
私はその言葉を聞きながら、どこか納得した。雰囲気があるというか静かに見えて実は厳格さを持っている人という印象が、教師という肩書きに妙にしっくりきたからだった。しかし、「どんな教科を?」と聞いたとき彼はわずかに視線を逸らしながら「まぁ、実技みたいなもんです」とだけ答えた。それ以上はなんとなく訊いてはいけないような気がして口を噤んだ。
たぶん彼が教師であるということすら、本当は簡単に人に話すべきことではなかったのかもしれない。けれどそれをわたしに話したということになにか小さな信頼のようなものを感じてしまったのは、勝手な錯覚だっただろうか。
ある日の夕方、空がやけに赤く滲んだ日。ベランダで干したばかりのタオルが風に煽られて隣へ飛びそうになったとき、彼が無言で手を伸ばし、それを受け取ってくれた。
「わっ!手、長いんですね……ありがとうございます」
「気にしないで。たまにあります」
そのとき差し出されたタオルを受け取る指先がふと、触れた。その一瞬、時間が止まったように思えたのは私の鼓動が唐突に跳ねたせいだった。この人の手はこんなにも体温があるのだと知って息をするのが少しだけ苦しくなった。それなのに相手は、何事もなかったように視線を空に戻していた。私が心のどこかで勝手に抱いていた��冷たそう�≠ニいう印象は触れた指先の温もりによってあっさりと、覆されてしまったのだった。
そうして日々が重なっていくうちに私の中で、ひとつだけ確かなことが生まれていった。この人の隣に住んでいることが私にとって偶然ではなくなっていく感覚。名前も趣味もほとんど知らないくせに、その沈黙すら苦ではない人が世の中には存在するのだという、初めての感覚。
私は今日も風に揺れるシャツを眺めながら隣の気配を、そっと確かめている。まるで風の向こう側にある、誰かのまなざしを探すように──。
*
夜風が窓の隙間からふいに忍び込んでくるようになった夏の終わりの訪れを告げるその気配は、どこかしら淋しさを連れてきて、何もかもが少しだけ静まりかえったように思える。
私はその夜もいつものようにベランダに出て、頬を撫でる涼しさに、小さく肩をすくめていた。その気配に気づいたのは、そのときだった。隣のベランダから聞こえた椅子の脚が軋む音。でも、あの日みたいな、声はなかった。
間仕切りの向こうにひとつの影が揺れている。私はしばらく迷って、それから意を決したように柵の向こうへ静かに声をかけてみた。
「……こんばんは。今日は、遅かったんですね」
しばらく返事はなかった。でも数秒後かすかに息を吐くような声が、夜の空気の奥で応えた。
「……ええ。少し、仕事が立て込んでましてね」
やや掠れた声だった。いつもの低音よりもさらにかすれて眠りかけた猫のように力の抜けた音。思わず胸の奥がちくりとした。その理由を言葉にする前に、私の唇がまた勝手に動いていた。
「……疲れてるんですね、今日は、とくに。」
その言葉に彼はもう何も返さなかった。けれど返事がないということが、かえって答えだった。無言という名の肯定。それが彼という人だった。それからまたしばらくの沈黙。隣に住む人の疲れを、柵越しの風と影だけで知ってしまう夜というのは、少しだけ切なかった。会話がないことが、こんなにも心をざわつかせるなんて、私は今まで知らなかった。どこかで彼はいつも一定の距離を保ち、言葉の数よりも視線や気配で世界を測っているように思っていたけれど今夜はその気配すら薄く、まるで誰かに取り残されたような静けさを纏っていた。
「……あの、よければ、スープ……持って、いきましょうか。夜風、冷たいし」
「……」
「な、なんか今日、作りすぎちゃって……」
こんな時代遅れな誘い文句があるか、と自分で自分を心の中で突っ込んでいたがそれは自分でも驚くほど自然な声だった。ためらいや遠慮よりも先に出たその一言に、ほんの少しだけ自身の心が誰かに寄っていこうとしていることを実感した。彼はまたすぐには返事をしなかった。あたりまえだろう。誰が、ただの隣人の手作りスープなんて飲みたいもんか。けれど数秒後、乾いた声でこう言われた。
「……あぁ、すみません。助かります」
その言葉は、いつもよりずっと柔らかかった。私は自分から提案しておいた分際で「えっ」と、声にならない声を喉の奥に沈めた。だが私はそれだけでじゅうぶんだった。「ちょっと、待っててくださいね」と吃りながら一度部屋に戻りすこし悩んだ末、温かいカップを二つ用意した。
数分後そっと自身の部屋のドアを開けて廊下を数歩進むと──ちょうど彼も、扉を開けたところだった。
「こっ! こんばんは、改めまして……」
だめ、失敗。声がうわずった。私のそんなとぎれとぎれの挨拶に彼は、目元だけで小さく頷く。
「こんばんは。悪いですね。こんな夜に」
「いえ!こんな夜だからこそ、かもしれません」
なにそれ。また失敗。私はいったい何を言っているのだろうか……。��こんな夜�≠ニは……?
とりあえずそう答えながら彼にスープカップを渡したとき彼の指先がわずかにぴくりと反応したのを私は見逃さなかった。それが冷えたせいなのかあるいは単なる疲労なのか、もしかしたら何か別の理由か──そこまではわからなかったけれどどちらにせよ彼は今日、自分では対処しきれないほどの疲れに、飲み込まれていたことだけは確かだった。
「……教師って、そんなに忙しいんですか?」
思い切って聞いた問いに彼は一口だけスープを少々熱そうに片目を細めながらすすり、わずかにカップから口許を離して答えた。
「普通の教師じゃないんでね……少し、変わった仕事なんですよ」
「そ——そう、ですか……」
言って私はもうひとつ手に持っていた自分用のスープを一口すすった。それ以上訊かなかった。その先にどんな世界があるのか知ることを望んではいけない気がして。ただ互いのスープの香りがほんのりと立ちのぼるその夜にそばで彼が静かに息をしていることが何よりの本音のようにも感じられた。
「でも……」
私はふと自分でも不思議なほど穏やかな声で、言葉を続けた。
「ちゃんと……休んでくださいね。誰かに頼っても、いいんですよ?」
一瞬、彼の目が見開かれた気がした。けれど、それもすぐにまたまぶたの奥へと落ちていった。まるでその言葉を、深い眠りのように受け取ったかのように──。
そんな会話を廊下でして、廊下で、私の手作りスープを飲み干した彼は「これ、洗って返しますね。ありがとう」と心地の良いトーンで言った。
その夜、扉は静かに閉まり、わたしたちはまたいままでどおりの、ただの��隣人�≠ヨと戻った。けれど扉の向こうの彼がいつもより少しだけ深く息を吐いたことを私は確かに感じていた。それはきっと私の知らない彼の夜に少しだけ足音を残した証。そしてそれはまた、彼という人間の疲れを言葉よりも先に、私の胸が知った夜だった。
*
夜の雨は昼のそれよりずっと優しく聞こえる。叩きつけるような音ではなく、まるで誰かが遠い場所で静かに涙を流しているようなそんな濡れた響きを持っていた。
私はその日、いつものようにカーテンを開けてベランダに出たが、空気は湿っていて、洗濯物を干すにはあまりに無力な日だった。
風がない夜。代わりに雨の匂いが重たく空気を抱えこんでいた。そんな夜に限って隣の彼がベランダに出ていた。フードを被った薄手のパーカーに掌をポケットに入れたままじっと遠くの街灯を見つめている。声をかけるか、やめるか──数秒迷った末に……。
「……雨、降ってますよ」
囁くようにそう言った私に彼はゆっくりと顔を向けた。灯りに濡れたその瞳は、普段よりずっと深いところを見ているような気がして思わず息を呑んだ。
「……ええ。わかってますよ。濡れてでも、見ておきたい夜って、ありませんか」
それは、独白に近い声だった。私に語りかけているようでいて、きっと半分は、自分自身に言い聞かせているのだと思った。
彼の過去について、私はこれまで一度も訊かなかった。名前さえ、きちんと名乗り合ったことがない。けれど私はなぜだか今夜に限ってそのまま黙っていられなかった。
「……そんな夜があるって、誰かに言えたこと、ありますか?」
言い終えたあと自分の声が少し震えていたことに気づいた。しかし彼は驚いた様子もなくどこか遠くを見つめたまま低く、息を吐いた。
「……俺には、親友がいましてね。まだ若くて、底抜けに明るくて、とっても信じたくなるようなやつで──」
まるでそこにその子が立っているかのように、彼は静かに話し始めた。私は自然と息を潜める。
「そいつを、守れなかった」
その言葉のあと、長い沈黙があった。私は口を開けなかった。たとえ何も知らずともその重さがたったひとつの言葉で伝わってくることは確かにある。
「──ヒーローってのは、正しさを振りかざして間違えられない職業です。だけど、人間なんだ」
「……」
「判断を誤ることもある。」
「……」
「俺はあの日——ひとりの命に、正しく届かなかった」
ヒーロー......。どういう、ことだろうか。彼はたしか高校教師だったはず……。あれ?私の聞き間違いだったのだろうか。いや、聞き間違いで、あるはずがない。だってたしかにあのとき彼は。
そのとき、ポツ、ポツ、と雨の音が肩に降ってきた。彼の言葉のひとつひとつが、それに重なるようにして、静かに私の胸を打つ。
「それからずっと、夢に出る。雨の夜になると、彼の声が聞こえる気がするんだ」
「……」
「『なんであのとき、助けてくれなかったんだ』
──って。」
初めてだった。
この人が��先生�≠ニ呼ばれている姿を、ほんの少しだけ、想像できた夜。そして、過去の重さを背負って、それでも教壇に立ち続けている理由がただの職業の義務なんかじゃないと私はようやく理解した。
「……それでも、生徒の前では笑うんですか?」
私の問いに彼は被っていたフードを下ろして、髪から滴る水をそのままに小さくひとつ頷いた。
「それが教師ってもんです。ヒーローなんて言葉より、ずっとしんどい役割ですけどね」
──ヒーロー。
その言葉にまた胸がかすかに揺れた。でも今夜だけはもうその先を追及することはしなかった。その代わりに私はただもう一歩、彼に近づいた。
「……もし、あなたがまたその夢を見たときは」
「……?」
「目が覚めたあと、ベランダのカーテン、開けてください」
「……」
「わたしも、そこで待ってますから」
一瞬、彼の表情が動いた。それは、きっと──笑ったのだと思う。わずかに、ほんの少し、雨の夜に溶けるようにして。
「……おかしな、方ですね」
「それ褒め言葉として受け取っていいですか?」
「……あぁ。いいよ」
言葉がまっすぐに届いた夜だった。静かに降る雨と灯りに滲んだ彼の横顔。それを見つめながら私は初めて彼の痛みの一部を共有したような気がしていた。それはきっと名前よりも先に、誰かと繋がるということ。
夜が過去を洗い流すように、静かに降り続いている。私たちはそれぞれの傘を持たず同じ軒下に心だけを置いていた。
*
眠れない夜というのは、どうしてこんなにも、音がやわらかく響くのだろう。
時計の秒針、冷蔵庫のモーター、そして自分の呼吸すら、まるで誰かの心音みたいに深く響いてくる。
頭の奥でぼんやりと、輪郭の定まらない思考が漂い、時間だけがひたすら無言のまま通り過ぎていく。そんな、夜だった。
ふとベランダのカーテンを開けると、そこにはもう、彼がいた。薄暗い夜の帳の中、煙草も吸わず、ただ肘をついて街の灯りをぼんやりと見下ろしている姿。この時間に、何かを求めて外に出る人間は少ない。だからこそ私たちはどこかで似ているのだと思う。眠れぬ夜に風の音を聞きながら誰かの気配に救われることを、知っているという点で。
「こんばんは……」
「……、ああ。どうも」
ほんの一言ずつ。でもそのやり取りが不思議と深く沈んでいくようにして、胸の奥に音を立てて届いた。
「眠れないんですか?」
「いつもより、少しだけ静かすぎるんでね。……
そちらさんも?」
私は小さく笑って頷いた。そうしてしばらく、ふたりとも黙ったままそれぞれのベランダの柵に肘をついていた。それがまるで川を挟んで並んでいるような不思議な距離感で、でも確かに並んでいるという感覚が、どこか心を落ち着かせた。
「……隣、来ます?」
唐突に、ほんとうに唐突に、彼がそう言った。長い沈黙ののち、空を見上げたままの横顔から、どこか遠慮がちな、それでいてあらかじめ決めていたかのような静けさを纏って彼が不意に言葉を落としたのだ。
「え……?」
小さく返したその声には、思わず滲んだ驚きとまだ咀嚼しきれていない現実への戸惑いが混じっていた。私の心のどこかがゆっくりと熱を帯びていく。それは喜びとも違って、でも確かに誰かの温度に触れたときにだけ芽生える言葉にならない何かだった。
「少しだけ、座れるスペース作りましたよ。別に何か話すってわけでもない。ただ、隣で──風に当たりたいってやつなら、断らない」
それは彼なりの招きだった。他人を内側に入れることを滅多にしなそうな彼の口から出た、その短い一言が、眠れない私の心に、ふとあたたかい灯りをともした。
声にならない声でひとつ頷いて私はスリッパのままそっと廊下を抜けて、彼の部屋の前に立つ。ドアが少しだけ開いていて物騒だなと頭の片隅で思いながらもそこから漏れるわずかな光とともに彼が無言で私を迎え入れたことがわかった。ベランダの奥、角のスペースに、折りたたみの古びた椅子が二脚。彼はそこに腰かけて夜空を見上げていた。私が隣に座ると、自然と肩が近づく距離になった。
「あ、あの──お、おじゃましました」
「もう、帰るんですか」
「い、いや!ちがうくて!中に上がりましたよ、っていう、過去進行形といいますか……!」
「わかってますよ」
「……っ」
風がそっと髪をなでる。夜気の中で、彼の声が残響のように鼓膜の奥に残りつづけている。私のなかで、言葉というものがいかに不意打ちに人の心を揺らすのかということを、その瞬間、改めて痛感していた。
こうして誘ってくれたのはきっと何かの拍子で言っただけ──そう自分に言い聞かせようとする一方で、あの言葉があまりにやわらかく、そして彼にしてはめずらしく、隙を含んでいたことに、無意識のうちに気づいていた。
「……こうやって夜を越すの、悪くないですね」
私がそう呟くと、彼は横顔をわずかに動かして深く静かな呼吸とともに頷いた。まるでその夜を越すという言葉の意味を自分なりに確かめるように、ゆっくりと。
「夜は、うるさい」
「……え?」
「昼間は雑音が多くて気づかない。けど夜になると静かすぎて聞きたくない音まで聞こえてくる」
その言葉に私は言いようのない共感を覚えた。誰にも話せないまま積もっていく、心のノイズ。自分で自分を追い込んでしまう、思考の渦。それらが静寂によって増幅されることを、痛いほど、知っていた。
「……でも、」
と、私は言葉を紡ぐ前に一度だけ喉の奥で息をとどめた。心のどこかが言っていいのだろうかと問いかけていたけれど、それ以上に今、隣にいるこの人に何かを手渡したいという気持ちが確かな輪郭を持ち始めていた。私は少しだけ目を伏せ、それから意を決するようにそっと言葉を続けた。
「誰かが隣にいてくれると、そのうるささって、ちょっとだけ、やわらぐ気がします」
すると彼はほんのわずかだけ、視線をこちらに向けた。照明の光ではなく、夜の街の灯りだけがぼんやり照らす顔。そのなかで、彼のまなざしが確かに今、私だけを見つめていた。
「……君は、やっぱり変わってるな」
「よく言われます。でも今はそれ、悪くない気がします」
肩先が少しだけ触れた感触。でも彼は、それを避けなかった。それだけで胸の奥にふわりと何かが舞い落ちたような、どこか、今夜が、いつもと違う夜になった気がした。
「名前──」
ふと空を見上げたまま、迷いと決意のあわいに立つような声音で彼がぽつりと口を開いた。その言葉の響きには何かが始まる予感と、長く封じていた扉を押すような静けさがあった。
「え?」
「……名前、教えてくれ。ちゃんと」
私の中で何かが静かに揺れた。それはたぶん、ずっと越えなかった境界線を彼の方から一歩踏み越えた音。私は自分の名前を名乗った。静かに、でも、ちゃんと、正確に──。
彼はそれを、もう一度繰り返すように、小さく呟いた。
「……名前、か」
その声音はどこか眠りの手前のようで、まるで名前という物質に、そっと体温を与えるような、そんな、優しさを含んでいた。
夜はまだ深く、風は少し冷たく、眠気は遠い。でも肩を寄せ合って同じ闇を眺めているふたりの沈黙はもう孤独ではなかった。この夜のすべてが私にとってきっと、はじまりのような、終わりのような言葉にできない何かだった。肩先が触れる距離、眠れぬ夜に──。
*
夏の終わりが、ほんの少しだけ肌に触れる夜。昼の暑さはまだ残るけれど、風が変わったことを夜になると確かに感じる。その変化を季節と呼ぶにはあまりにささやかだけれど、二人にとっては充分な兆しだった。
彼に名前を呼ばれたあの夜から、まだ一日しか経っていない。それなのに──いや、一日だけ
だからこそかもしれないが私の中では何か大きな景色がひとつ、変わったような気がしていた。
名前を呼ばれるということ。それは世界の中で自分がたしかに��ひとりの存在�≠ニして見つけられる感覚だった。
夜、コンビニ帰りのエコバック、オールマイトの刺繍が施されたその中で、缶ビールがふたつ、かすかにぶつかり合っている。ふと立ち止まって見上げた空はよく晴れていて、都会の空にしては珍しく星がいくつか、はっきりと浮かんでいた。
こんな夜に、彼はきっとまた、ベランダに出ているだろう。そう思ったのは予感というより願望だったのかもしれない。案の定、間仕切りの向こうに彼の影が見えたとき私は心の奥でこっそりと微笑んで、それからそっと声をかけた。
「こんばんは」
「……、こんばんは。今日も風が気持ちいいね」
ベランダ越し、夜風を挟んで交わす言葉はもう初対面のときみたいに、ぎこちなくはなかった。音のない共鳴のような空気が、ふたりのあいだにそっと流れていた。
「これ、ひとつ……余分に買ってきたんですけど」
エコバックから取り出した缶ビールをベランダの柵越しに差し出すと彼は、一瞬だけ目を細めてから、無言で手を伸ばした。
「……ありがとう。珍しいな……ビールなんかも飲むんだね」
「御名答。もしかして、ゴミの袋とか見られてました? 夜風に当たりながら、飲みたくなって」
「……」
「……隣に、誰かがいるって思ったら、ね」
私がそう言い置くと、彼は小さく息を吐いて、缶を軽く持ち上げた。その瞳は、なんだかとても優しげだった。
「じゃあ……乾杯、だな」
「はい。──乾杯」
カシュ、と二人の缶が重なった瞬間、夜の中でやわらかく澄んだ音が響いた。まるで小さな花火のように。その音を耳にしたとき、私の胸の奥に何か温かなものが灯った。それはきっと、おなじ時間を生きているという感覚だった。
二人とも缶を片手に、ただ黙って空を見上げていた。会話がなくても気まずさはなくて、むしろそれが、自然体だった。
「……今日の朝、名前を呼ばれて、ちょっと驚きました」
私がぽつりと漏らすと、彼は、ほんの少し間を置いてから低く応えた。
「せっかく教えてもらったんでね。これからは、たまに呼ぶよ」
「��たまに�≠ネんですか?」
「呼びすぎると、慣れそうだからな」
「……それ、私の名前が特別って意味ですか?」
「さぁ、どうだろうね」
煙のような言い回しに私は思わず、吹き出してしまった。でも彼のそのぶっきらぼうなやりとりのなかに、不器用なやさしさが滲んでいるのが、もうちゃんとわかってしまう。そのときだった。
「──あっ、流れ星!」
思わず声が出た。南の空に、すっと一本の光が走ったのだ。本当に一瞬で言葉よりも早く過ぎていった小さな光。私が指をさす前に、彼はもう、ちゃんとその眠たそうでも鋭い瞳で追っていた。
「えっ、え! 見ましたっ?」
「見たよ」
ぽつりとした声に、なぜだか胸が熱くなった。見ていてくれたこと。その瞬間を確かにふたりで共有したということが、今夜という夜を、静かに永遠に、変えてくれたような気がしたから。
「……願い事、しました?」
「する前に消えた」
「それでも、きっと届きますよっ!──だって、同時に見たんですから!」
その言葉に、彼はしばらく何も言わなかった。でも、その沈黙が何よりあたたかくて、心をいっぱいに満たしてくれた。ふたりはそれからも缶の中身が空になるまで、ただ星空を見上げていた。
名前を知った翌日、風がやさしかった夜。肩を並べずとも、たしかに、同じ方向を見ていた──ひとつの夜。
その夜空にはまだ目に見えない願いが、そっと漂っていた。
ふたりとも空を見上げたままそれ以上の言葉を探すようでもなく、ただ缶の中で残ったわずかな泡の音と、遠くを走る車の気配だけが耳に届いていた。
私は、缶を両手で包みこむように持ちながら、そっと、横目で彼を見た。柔らかく伏せられた
まつげ、少し伸びた髪、そして静けさにすっかり馴染んだ横顔。そのすべてが、どこか遠い場所のもののように見えて、けれど確かにいま隣にいるという事実が、胸の奥をあたためていた。
このまま夜が終わってしまう前に、どうしてもひとつだけ、知りたいことがあった。
「……あの、」
息を吸って、声をかける。私の声は、風よりも小さかったけれど、彼はすぐにこちらを見た。
その目に浮かぶ問いに私はほとんど無意識のまま言葉を続けていた。
「私のこと……名前で呼んでくれたから。私も、呼びたいんですけど、いいですか?」
彼は、少しだけ驚いたようにまばたきをして、それから缶を柵にこつん、と置いた。そしてまるで、夜に向かって話すように視線を夜空に戻したまま言った。
「……相澤。相澤消太。」
その声ははじめて聞く音のはずなのに、どこか知っていた気がするほど深く、静かに私のなかに落ちてきた。
「……相澤、さん」
「名字さん」
「消太、さん……」
「──名前」
名前を口にすると、それだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。呼びかけること、それは心のどこかを差し出す行為だと思っていた。でも呼び返すことはそれ以上に、誰かを受け入れるということなのかもしれない。
星が降る音がしそうなほど、静かな空の下で、私はただ、隣にいる彼のぬくもりを感じていた。名前を呼び合った夜、心のどこかで、祈るように願っていた未来に、ほんの少しだけ、手が届いた気がして──。
このひととこれからの夜を少しずつ分け合っていけたらいい。そう願った瞬間──夜空に、またひとすじの光が流れて、わたしたちの肩先をやさしく照らした。
夜は変わらず深く。でもその深さがほんの少しだけ、やわらかくなった気がした。