あれからいったい、どれほどの夜が過ぎたことだろう。テレビの報道は相変わらず曖昧な言葉で包んでいた。誰が傷つき、誰が戻らず、誰が命を落としたのか。名前も、顔も、伏せられたまま。それでも私はわかっていた。報道のその一角に、あの��ヒーロー�≠ェいたことを。
彼は生きているのか──。そう何度、問いかけても、答えはどこにもなかった。彼の羽根は戻らないかもしれない。彼の声は、もう出ないのかもしれない。それでも私はあの夜、たしかに彼を、見送った。好きだと、言えないままに。
指先に残るあの人の体温だけを私は毎晩そっと撫でるように思い出していた。そうしないと自分の心までもが消えてしまいそうだったから。
時間だけが何事もなかったような顔をして流れていく。洗濯物を干しても、お湯を沸かしても、メッセージを、確認しても。そのどれにも、彼の匂いはなかった。
そうして迎えたある日の晴れた夕暮れのこと。ポストの中に一通の封筒が入っていた。見覚えのある字。やや乱れていて、それでも彼特有の癖がそこにはあった。私はその場で崩れそうになる。震える指で封を切る。風が吹く。まるで、羽根の代わりに彼の気配が通り抜けていったようで──私はそっと、その便箋に宿った彼の息づかいを、一行目からじっくり、ゆっくりと辿っていく。
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風が吹いてるね。そっちはどう?
こっちは、思ってたより空が遠くて。
いや、もしかしたら地面のほうが近くなった
だけかもしれないけど。
こういう言い方すると、ちょっと怖がらせ
ちゃうかな。ごめん。でも、大丈夫。
君がこの手紙を読めてるってことは
少なくとも、俺はまだ息してるってことに
なるから。
あの夜のこと、ずっと考えてた。
君の手が袖を掴んだときの感触、今でもすごく
覚えてるんです。声じゃなかったけど、
十分すぎるくらい伝わったよ。
手の震えが、まっすぐ背中に届いてきた。
あのまま全部終わってもいいって
どこかで思ってた。誰にも何も残さなきゃ
誰も傷つけずに済むと思ってた。
でも、それは間違いだったかな。
俺はいろんなものを置いてきたけどそれでも
手元に残った何かが君に向いてるって今なら
ちゃんと言える気がしてる。
こんなふうに文字にして想いを伝えるなんて
らしくないでしょ?うん、俺もそう思う。
でも声が出ない今はこれが一番確かな方法で
君にだけはちゃんと届けておきたかった。
紙切れ一枚だけど、これも俺なりの
��個性�≠フつもりです。
君の想いはいつもこの羽根が感知してたよ。
いつだったか君が言ってたよね
「言わなくても伝わることってあると思う」
って。あのとき俺、うなずいたけど、
正直、ちょっと強がってました。
ほんとは、言わなきゃ伝わんないこと
世の中にはたくさんあるって知ってたから。
だからこうして今、自分の手で書いてる。
もしまた君と会えることがあったら
この声が、戻ってたら。そのときは、
ちゃんと呼ばせてね。君の名前を。
それで、ちょっと照れるけどちゃんと言うよ。
「俺はあのときからずっと、君を選んでた」
って。伝えたいことは、たくさんあるけど
いまはまだ、上手く書けないから。
だけどひとつだけ、どうしても今すぐ
伝えたかった。好きだった。ずっと。
でも、それ以上に今も、君が好きだよ。
俺はまだ君の名前を呼びたくて、生きてる。
鷹見 啓悟。
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何度も、滲んだ字を指でなぞる。文字に宿った声を心の奥で抱きしめるようにして、私はそっとその手紙を胸にあてた。震える手がいつの間にか涙で濡れていた。けれどその涙は悲しみの味じゃない。彼が言葉にしてくれた��好きだった�≠ェ、私の心の奥に柔らかな熱を灯していた。��好きだよ�≠ニいう言葉が紙の中で静かに息をしていた。まるで、彼の羽根がもう一度だけ私の頬を撫でたような、そんな気がした。
私も同じだった。あの夜、言えなかった好きをいまようやく心の中で彼に返すことができる気がした。
ありがとう——生きていてくれて。あなたが、好き。この想いを抱いたことが、私の生きていく理由になる。命をかけて帰ってきたことも、そのあとに書き残してくれたこの言葉も私は何よりも大切にしていく。
もう、声じゃなくてもいい。この手紙が、彼の声になってくれたから。言葉にできなかった想いが今、確かに私のもとへと届いたから。
私は信じて待とうと思う。彼が再び私の名前を呼んでくれる日を。今度こそ、ただの風の音じゃなくて、彼の声で、私の名を呼んでくれる日を。それまで私は彼を好きだった記憶じゃなく、これからを好きになっていく。
羽根はもう飛べなくても、想いが空を越えて、ちゃんと私に、還ってきたのだから——。
*
あの日からずっと、私の部屋には小さな宝箱がある。それは引き出しの奥でも、棚の上でもなくベッドのそば。寝る前にふと手を伸ばせる場所。その中には、一通の手紙が入っていた。
あるひとりのヒーローから届いた、あの羽根のように軽くて、けれども一生分の重みがある言葉たち。私は何度も読み込んだ。まるで読み終えるたびに彼の体温が残るかのように、そっと、胸にあてて目を閉じていた。それでも文字は、声ではない。鼓膜ではなく胸で感じるもの。だから私はあの人の��声�≠�、今日も待ち続けている。
ふいに、風が変わった気がした。窓の隙間から入り込んだ空気は妙に温かくて胸の奥がざわついた。季節より先に時間の向こうから��なにか�≠ェ歩いてくる気配。私はそれを何の根拠もなく──でも確かに感じていた。いつもの午後。洗濯物を干し終えて窓辺で風を追っていたそのとき、チャイムの音がして私の鼓動がひとつ跳ねた。それが音ではなく��気配�≠ニして届いたような気がして私は息を呑んで、扉を開けた。
そこにいたのは、もう呆れるくらいに、知っている顔。この世の中でなによりも愛しい——顔。何度見ても胸が痛くなる。火傷の痕も包帯の跡もまだそこには、はっきりとあって。けれど、彼の瞳はまっすぐで、まるで、ずっと、私を見ていたみたいな眼差しだった。
私は何も言えなかった。言葉よりも先に、涙がこぼれそうになったから。彼の口元が、わずかに動いたけれど、まだ声を出すには痛むのだろう。けれど彼は、一歩近づいて無言のまま、私の手を取った。火傷の痕が残る指先で、そっと優しく。左手を、そして右手をまるで順に確かめるように包み込んで。その手が震えていたのか、それとも私のほうだったのか──境目が分からないまま、私はただ、その温度に身を預けて、握り返した。そうして彼が、ようやく口を開いた。
「……久しぶり」
その声は、掠れていた。低く、喉の奥を無理に通ってきたような、決して滑らかな音ではなかった。けれどその音は確かにまぎれもなく、彼の声だった。私は言葉を返す代わりに彼を見上げた。すると彼はゆっくりと息を吸い、まだ傷の残る喉からほんのわずかに、でも確かに声を生み出す。
「……名前、呼んでいい?」
掠れて、途切れそうで。けれど、美しかった。私は頷く。喉の奥がつまって返事もできなかったけど私の頷きを、彼はちゃんと見てくれていた。
「……君のこと、ずっと……」
言いかけた言葉を彼は途中で止めた。代わりにやさしく、ひとことだけ。
「名前、——。」
──私の、名前を。それだけで全てが報われた気がした。全部がこの瞬間に集まって、何も言えなかった夜も、彼が帰らなかった朝も……焦がれ続けた手紙も、震えるほどに好きだった記憶も、そのぜんぶが、報われたのだ。
私は彼に一歩近づいて何も言わずに微笑んだ。そうして、そっと彼の名前を呼んだ。
「……啓悟。」
彼が目を細めて、ふっと笑う。まるでその笑みだけが風を連れてくるようだった。そして静かに今度は、はっきりと、その愛しい口許が紡ぐ。
「好きだよ」
その瞬間、私はまた何も言えなくなった。張り詰めていたものが全てほどけて涙が音もなくこぼれた。それでも私は笑う。泣きながらでも笑っている。あの夜、ずっと言えなかった言葉を、ようやく交わせることが、嬉しくて仕方なかった。
「……私も、好き。大好き——っ、」
それは、小さな声だった。でもたぶん、彼には届いていたと思う。その証拠に、彼の目も潤んでいて再度私の名前を呼ぼうとした唇がすこしだけ震えていたから。
──長かった。言葉にならなかった��好き�≠ェこうして今、声になった。
もう逃さない。これからは何度でも何回だって言葉にする。その耳に届くように。その胸に届くように。
「……おかえり、啓悟。」
名前を呼んだその瞬間、彼の肩がほんの僅かに揺れた。呼吸の仕方を迷うように短く目を伏せた彼の左腕にはまだ包帯が残っていて、右手はかすかに震えていた。それでも彼は、握っていた私の手をそっと自分の方へと引いた。迷いも躊躇いもなくただ確かに��ここにいて�≠ニ伝えるように。私の体がふわりと彼の胸に預けられる。そして、それでもその腕は確かに私を抱きとめてくれた。声ではなく体温で返された『ただいま』が、胸の奥で静かに鳴った。私は黙ったままその胸に顔を埋めた。
言葉にしない想いがずっと深く——長く、届く想いが、確かにそこには、存在していた。
抱き寄せられたぬくもりをそのままに彼が私の額にそっと触れるように身を引いたとき、火傷の痕をほんの少し歪めながら世界でいちばん優しい笑顔を見せた。その笑顔は何者でもない、本物の��