別れというものは案外あっけないものだった。思い出の品なんて何ひとつ返す必要もなかったし謝罪も感傷もなかった。なのに、ぽっかりと胸の奥に残されたのは、まるで整頓されずに放り投げられた、ダンボール箱のような空白だけだった。
何かを埋めるためだったのか、それとも空虚な夜をただやり過ごしたかっただけだったのか気づけば私は、場末の居酒屋の暖簾をくぐっていた。
肌寒さを帯びた夜風に肩を竦めながら、カウンターにひとり。手元にはすでにからのジョッキがふたつ。
「すみません、これと同じのもう一杯……あと、適当になんかおつまみください」
言葉遣いもやや雑だったかもしれない。けれど店員は何も言わず慣れた手つきでビールを注いでくれた。
ジョッキを受け取り口をつけたその時だった。隣の席から、控えめな声が降ってきたのは。
「失恋?」
顔を向けるとそこには少し癖のある明るい金髪とふとした瞬間に冷たさすら滲ませるような瞳を持った男性がいた。──ナンバー2、ホークス。テレビやニュースで見た事のあるプロヒーロー。その彼が、目の前でジョッキを傾けている。
「え……、なんで、わかったんですか?」
「いやぁ、ここ最近で見た女性の中でいっちばんわかりやすい顔してましたからねー」
「……、」
「なんか、全部どうでもいいや、みたいな顔?」
思わず笑ってしまった。図星を突かれた悔しさと、そんな自分を見抜かれて、少しだけ安心したような、不思議な気持ちが胸の奥でまじりあう。
情けない顔だったと思う。それでも私の表情を一瞬で見抜いて、しかもそれを笑うのではなく、まるで「そのままでいい」と言うようにさらりと投げかけた彼の言葉が、妙に、あたたかかった。悔しいけれどそれがいまの私には、たぶんちょうどよかったのだ。なにかを始めるでも終わらせるでもなく、ただそうやって見ていてくれる存在がほんの少しでも、救いだった。
「どうぞどうぞ……失恋女の私のこともぜひ酒のつまみにしてください、ナンバー2さん」
「あら、顔バレしてました?」
「目立ちすぎますからね〜、その髪色とか特に」
言ってジョッキを掲げると、彼も、面白そうに片眉を上げてグラスを合わせてきた。乾いた音が小さく響きその音だけがやけに澄んで聞こえた。
時間はいつの間にか流れ去り、私たちは二杯、三杯とグラスを重ねていた。
彼はとても不思議な人だった。どこか軽そうに見えて話すと意外とよく聞いてくれる。からかうようでいて、ふと真面目な眼差しを向ける瞬間があった。それが妙にくせになる。そして、あれは五杯目の途中だったと思う。ビールに飽きて梅酒を口にしていた私が勢いよくテーブルにグラスを置いて言った言葉。
「いいですか?ホークスさん。私、思うんですよぉ」
「うん、なに?」
「セックスより、キスの方が大事だって……」
彼はグラスを持つ手を止め目を瞬かせた。が、それは驚きというよりも、大変興味深いと言いたげなこちら側に意識を向けるような表情だった。
「ほう。それはまた、急に真理を突いてきたね」
「だって、考えてみてくださいよ?セックスって正直、酔ってたら、誰とでもできるかもしれなくないですか? でも……キスは、違う」
私は指を一本立て、ふらつく視線の先で、彼を指しながら続けた。完全なる酔っ払いだ。でも、もうここまで来れば関係ない。そうだ、私は今日��絶賛、失恋女�≠ネのだ。行きずりの酔っ払いの話だと思って彼も明日になったら忘れていることだろう。
「キスって……こう、なんていうか、心が震えるものなんですよ。だから酔ってたって、嫌いな人とはできない。むしろ、したくない!キスって、気持ちの証じゃないですか!?」
「……酔ってる、ね?」
「酔ってらい!」
「それ、酔ってる時の常套句ですよ?お姉さん」
「……でも、正気。いまのが一番素直な気持ち。元カレにも言えなかった本音!」
彼は肩を揺らして笑った。からかうでもなく、嘲るでもなく、ただ愉しげに。
「なるほどねー。だったらあなたは──イブさまっスね」
「え? イブ様?」
「そーぅ。旧約聖書のアダムとイブに、接吻したのが描かれてる説あるらしーですよ?初めてこの世でキスしたふたりって感じですかね、そこまで詳しく知らないスけど」
「へえ。そうなんだぁ……」
「じゃあ、もしさ──」
彼は少し体を寄せて顔を傾けて、私の目を覗き込んできた。至近距離で見るその瞳はまるで深い夜の奥底に潜む鳥のように静かで、温度を秘めていた。もはや、凄みがあった。さすが、この国に降臨し続けている、プロヒーローだなと思った。
「もし俺がここでキスしたら、それって��気持ちがある�≠チてことになります?」
その言葉に一瞬鼓動が跳ねた。冗談に決まっている。でも私は、その冗談をどう処理していいかわからず、口ごもった。
「そ……そうですね。そうなります、かね。」
「……ふうん。」
「で、でも──」
「……」
「たとえ、冗談でも……しない方がいいですよ。私は、キスを重く受け取っちゃうタイプなんで」
そう答えながらも、心のどこかで��してくれていいのにな�≠ニ、馬鹿みたいな声が囁いていた。ダメだと思いながらも視線は彼の唇にふと泳いでしまう。失恋直後のせい?それともお酒のせい?いやきっと違う。そう思いたい自分がいるのだ。
「そっかぁ〜。じゃあ、今日はしません。」
「……、」
「……でも、覚えとこ。あなたは、キスを大事にする人──イブ様。」
彼はそう言ってグラスを干した。そして「おかわりいきます?」とメニュー表を見ながら、少しだけ、寂しそうな顔をしたように思えた。
あの夜。月はまだ雲の向こうにいて、満ちてもいなかった。
*
私はその朝、深く沈み込むような白いシーツの中で目を覚ました。最初に目に入ったのは天井。見慣れないクロスの模様。次に視界に映ったのはカーテンの隙間から差し込む白金色の光。それは確かに朝だった。けれどどこか世界がいつもより静かすぎて、まるで雪でも降っているかのように感じられた。
しばらくは思考が働かずただ呼吸をしていた。酸素が喉を通っても胸の奥に届いていないようなそんな感覚。
それから少しして、私はようやく気がついた。ここは自分の部屋ではない。見知らぬ部屋。ぬくもりを残したベッド。香水ではなく、あきらかな人間の生々しい匂いが、かすかに残っていた。
そして私の隣には背を向けて寝息を立てている男性の影。その見慣れた髪の色と背中に背負う、赤い羽根を見た瞬間、胸がぎゅっとつまるように苦しくなった。
「……」
……ホークス、さん──。
あれほど飄々としていて、下心を一切見せず、「今日はしません」だなんて、笑っていたのに。「あなたはキスを大事にする人」だって、あんな目で、あんな声で、言っていたのに──。
私は静かに体を起こした。……だよね。結局、男と女なんてこんなもんだろう。しかし、自分の服がきちんと整っていることを確認して、頭上にわずかながらの、クエスチョンが浮かび上がる。乱れのない下着。皺のない服。けれどそれが逆に怖かった。何もなかったのか、それとも……全部あったのか。その判断すらできないほど、記憶は白く霞んでいた。
「……バカみたい」
小さく吐き捨てた声は空気をかすかに震わせてすぐに消えた。足元に置かれたワインの空瓶が、ひとつ静かに朝を見上げていた。それだけがこの部屋で唯一��満月の夜の情事�≠�証明している。
ゆっくりとベッドを降りてバッグからスマホを取り出す。時間は午前七時を少し過ぎたところ。着信履歴にも、メッセージにも何の通知もない。それなのに私はなぜか涙が出そうだった。そうだ思い出した。彼と向かい合って私が『キスは重たい』なんて語って、彼が笑って……。そのあと、私はたしかに酔いに任せて彼の肩に頭を預けた。
『ちょっとだけ……このままでもいいですか』
そう言った私に彼は何も言わずそっと肩を貸してくれた。そのぬくもりは穏やかで、どこか父性すら感じた。だけどその先のことが何も思い出せない。なのに体のどこかが知っている。唇の端に名残のような痺れが残っていたことを。……もしかしたら、あのあと──
「……おはよぅ」
背後から眠たげな声が聞こえた。振り返ると、髪をぐしゃぐしゃにしたまま、ホークスさんが、寝起きの顔で私を見ていた。まるで、太陽を見ているみたいにして眩しそうに、目を細めて。
「もう起きちゃいました?まだチェックアウト、余裕あるのに」
「……いえ。早く帰らないと、いろいろ面倒で」
「あぁー、そっか。」
「……」
「……気まずかったです?」
「──、」
私は何も言わず、彼の顔を見た。彼の表情は、いつもと変わらなかった。ただ、どこか少しだけ哀しそうだった。気のせいかもしれないけれど。
「……ごめんなさい、」
「ん? なにがです?」
「覚えて、ないんですよ……昨日のこと」
「あー、……うん、俺も正直、あんまり」
「……」
「……」
「……キス──しました?」
沈黙が一秒だけ流れて、彼は少し目を細めた。男女の営みが行われるためだけに創り上げられたこの空間に、異様な空気が立ち込める。
「それだけは、やっぱ聞くんスね」
「聞かなきゃ、忘れたふりもできないから」
彼は寝返りを打つように上体を起こしベッドの縁に座った。そしてワインの空瓶を見つめながら呟くように言った。
「なにも、なかったと思いますよ。それだけは、ちゃんと覚えてます」
その言葉になぜだか涙が出そうになった。何もなかった。たったひとつの接触すらも。それでも私は、もう戻れない気がした。なぜかは自分でもわからない。
「……ずるいヒーローですね。遊んでそうに見せておいて、ガードゆるゆるな失恋女に、手も出さないなんて」
「……」
「失恋して酔っ払って管巻いてるのに引いて抱く気にもなりませんでしたか」
「だって言ってたじゃん、イブ様の方から。キスは、気持ちの証だって。だから……証しただけ」
「証した……? 私に?」
「そう。俺なりに、ってやつ。ヒーローとして、ってヤツですよ。」
彼は立ち上がり、バスルームに向かって歩いていく。その生身の背中が逞しく意外と着痩せするタイプなのだと、この瞬間にわかってしまって、なんだか情けない気持ちになった。彼はバスルームのドアを開ける前に、もう一度こちらを見た。
「朝食、付き合います?」
その問いかけに、私は小さく首を振った。もう彼の顔は見れなかった。私なんかが、見る資格もないだろうと思った。
「……ごめんなさい。今日は、もう……ひとりになりたいです」
「そっか。……じゃあ、また」
「──また、は……もうないと、思います。」
ようやく、ちらっとだけ彼の顔色を窺い見れば彼は私の言葉には答えず、ただ目を細めて昨夜と同じように、なにかを隠すように笑った。
部屋を出ると、外の空気は思いのほかひんやりしていて、肺の奥が目を覚ますような感覚に包まれた。ホテルの廊下には人の気配もなく、絨毯の上を歩くヒールの音だけが、微かに響いた。
私は胸元を押さえるようにして歩き、エレベーターに乗り込む。下へと降りる箱のなかで私は、壁の鏡に映る自分をまっすぐ見つめた。寝不足と微熱のような感情が残った顔。化粧は、ほとんど落ちていて、唇の色も薄く、目の縁には心なしか赤みがにじんでいた。
何もなかった──どうしてこんなに胸が痛いのだろう。
私の中で思っていた、��キス�≠ニいう行為は、ただの儀礼ではなくて、気持ちそのものだった。だからして欲しかった。彼に。人生のどん底から救い出してくれた、たったひとりの、ヒーローの彼に──。しかし交わされていないという事実があるのに、私の中の何かがもう後戻りできないと告げていた。
ホテルのロビーを抜け、静かな朝の街に出る。空はもうすっかり明るく満月の名残を感じさせるものなどどこにもなかった。むしろそれが現実を突きつけるようで辛かった。あの人の笑顔は昨夜だけでも私のものだったのだろうか。それとも、ほんの気まぐれの羽音だったのだろうか──。
自販機の前で立ち止まり、冷たい水を買った。ボトルを両手で包み込むように持ち、しばらく、飲まずに額をその冷たさに押しあてる。
彼が言った、「証しただけ」という言葉。私にとってそれは愛の形であってほしかったけれど、彼にとってはきっともっと軽やかでもっと優しい��人助け�≠フようなものだったのかもしれない。だって彼は、ヒーローだから。誰かの傷に触れることに慣れた人。痛みの傍に寄り添うことが日常になってしまった人。
私は歩き出す。自販機から離れて駅へと向かう道を。背中にあの部屋の空気を感じながら、できるだけ、ゆっくりと。
昨晩も、目を覚ました朝も誰も悪くなかった。でも誰も完全には寄り添いきれなかった。それが満月の夜のあとに残された私たちの距離だった。
空は少しずつ淡い青へと変わっていく。通勤の人波に紛れるその直前に私はそっとスマートフォンを取り出して、履歴を開く。表じされた『ホークスさん』という名前は、まだ、そこにあった。番号はしっかり交換しているのだなということに自嘲をこぼす。けれど、指先はそれをタップするでもなく消すでもなく、ただ触れるだけに留めてやがて、何もせずにスリープに戻した。
ほんとうは、もう少しだけ、あの人の声が聴きたかった。けれどそれは今ではもう──言えない��願い�≠ノ、なってしまった。
*
春の風が肌を撫でるように通り抜けていく午後のこと。とくに意味もなく遠回りして駅へ向かう途中、ふと入った喫茶店のドアを開けたとき──私は、呼吸を止めた。目の前に座っていたのは、忘れようとして、忘れきれなかった人だった。
コーヒーの湯気がゆるく立ちのぼるテーブル、その向こうに彼はいた。ホークスさん。体の芯がすっと冷えたような気がした。まるで月光を浴びたみたいに静かに凍える感覚。けれど、声は先に届いた。
「……やあ。」
まるで、偶然じゃないみたいに、自然に──。変わらない調子で、まっすぐな目で。私は咄嗟に微笑むこともできず、ただわずかに目を見開いたまま、そっと「……ホークスさん、」と返した。
逃げようかと思った。けれど足が動かなくて、気づけばそのまま彼の向かいの席に座っていた。何ひとつ促されていないのに。まるで決められていたかのようにして。
「元気にしてました?」
そう訊かれて、私は少しだけ力なく笑った。
「……あ、はい。まあ、ぼちぼち」
言葉は自然に出たのに、胸の奥では波が荒れていた。だって、いま、目の前にいるこの人は──『なにもなかったと思いますよ』と言った、あの満月の夜の記憶を、曖昧にしたままのひと。
私はあのあとずっと自分のなかの��あの夜�≠�どう扱えばいいか分からなかった。たった一度のたった一夜の出来事。けれど、たったひとつで、それはあまりにも私の心を変えてしまった。だから私はそれを��無かったこと�≠ノすることでしか自分を守れなかったのだと思う。
「……今日、満月なんですよ」
私は不意にそう口にしていた。自分でもなぜ、そんなことを言ったのかは分からない。けれど、きっと、あの夜──あの……満月の夜を共有した者同士として、避けて通れない符号だったのだ。彼は静かに頷いて視線を少しだけ外の空へ向けるような仕草をした。
「知ってますよー。昼間でもね、なんとなーく、そういう空気ってありますよね、満月の日って」
「……また、魔法にかかっちゃいますかね」
「どうでしょうねー。でも、今回は……」
「……」
「かかる前に──解けてるかもしれないスね」
魔法──満月の夜に交わされたかったひとつの接吻。それをもし魔法だと呼ぶならそれが解けたあとには、いったい何が残るんだろう。私は心に問いながらそっと、喉の奥が震えていた。
「……コーヒー、まだ頼んでないなら、一杯くらい、どうです? ご馳走しますよ」
彼がそう言ったとき私はほんの少しだけ、うつむいて考えた。どうして私たちは、何も始まっていないのに何かを終えてしまったような顔をしているのだろう。一夜を共にしただけ。何もない。けれどたしかにその��何か�≠ヘ通ってしまった。それは情でも恋でもなく、もっと曖昧で、もっと切実な、感情の破片──。
「……はい、お願いします」
その一言に、どれほどの意味が込められていたのかを彼は、気づいていただろうか。
私は小さく笑って、目を伏せる。そして、心のどこかでもう一度だけ魔法がかかればいいのにとほんの少し、願っていたのは私だけの秘密。
*
その日も、特別な予定はなかった。仕事帰り、寄り道をするでもなく、ただ少しだけ時間を潰したくて私は駅前の古本屋にふらりと足を踏み入れた。平日の午後六時過ぎ。店内は人もまばらで、スピーカーからは、ジャズが静かに流れていた。
エッセイの棚に指先を這わせながら、ふと、
背後から気配がした。この感覚は、残念ながら、よく知っている。そして鼓膜よりも先に、心臓が反応した。
「……読書の秋にはだいぶ、早くないスか」
その声を聞いた瞬間、時間がふたたびひときわ長く伸びた。振り返ると──ヒーローの出立ち。ホークスさんがいた。前回の喫茶店とは違って、今日は私服だった。少しだけ着崩した黒のジャケット。春風に似た色のピアス。どこにでもいそうな、でも、どこにもいない人。
「ホークスさん……、たまたま、ですか?」
「うん、ほんとに偶然。……でも正直、また会えるんじゃないかなーってちょっと思ってました」
それは笑いながら差し出された、小さな願いのようにも聞こえた。彼の目は笑っていた。でも、その奥にあるものを私は知っている。誰かのために、軽やかに振る舞い続けている人の目だ。
「ホークスさん、前に言ってましたよね、偶然が三回目になったら──って」
「うん。だからもう運命ってことでいいでしょ?
……なーんちゃって。」
私は思わず小さく笑う。春のくすぐったい空気が、胸の奥にまで染み込んでいくようだった。
「で──。本は、本当に探してたんですか?」
「ううん、気持ちがちょっとだけ騒がしくなってきたときに紙の匂いを嗅ぎたくなるっていうか」
「……」
「……まあ、そういう日って、あるじゃないですか」
「あるある。俺もありますよー、そういう日」
彼はそう言って少し隣に立った。まるで自然なことのように私と同じ棚を眺めながら息をひとつ吐いて、そして、一度閉じた口をそっと開いた。
「ここの喫茶コーナー、行ったことあります?」
「え?」
「奥の小部屋、意外と静かで落ち着くんですよ」
「あ、ないです。……そうなんですね」
「じゃあ、お茶でも。付き合ってくれます?」
言葉は軽いのに眼差しは深くて、どこかあたたかかった。私は少しだけ目を伏せてから頷いた。
「……はい。今日は、魔法がなくても大丈夫かもしれないですしね」
「そっか。じゃあ、魔法なしで始めてみましょ」
並んで歩く彼の横顔が春の光に滲んで見えた。本の間を縫うようにして店の奥へと進むと、そこには『喫茶』と書かれた小さなプレートと、背の低い木戸があった。控えめに軋む音とともに扉を開ければ、珈琲と紙の香りが、ふわりと鼻をかすめる。中は、四卓ほどしかないこぢんまりとした空間だった。壁一面に並ぶ、文庫の背表紙。窓はなく時間の感覚が少しだけ曖昧になる場所。彼は手慣れた様子で、一番奥のテーブルを指差して、「ここ、落ち着くんですよー」と笑った。私は、黙って頷いて、その向かいに腰を下ろす。互いにメニューを開くけれど、なかなか次の言葉が出てこなかった。この沈黙が気まずくないことだけが少しだけ救いで、少しだけ、嬉しかった。
「アイスコーヒーと……あっ、レモンケーキなんかも、あるんですね」
私がそう言うと彼は「おっ、甘いものいける人でした?」と、やや表情をほころばせた。
「ときどき……無性に食べたくなります。自分に戻る作業、というか……ご褒美?」
「あー、わかる。俺もさ、だれにも会いたくない日とか、こういうとこで一人でカフェオレ飲んでたりしますからねー」
「……ヒーローなのに、一人でカフェオレ?」
「あー、偏見ですよ、それ。ヒーローだからこそかもしれませんよ?いろいろ溜まるんです、ヒーローって職業は」
彼はそう言って、注文したブレンドのカップを手に取る。湯気の向こうで、彼のまなざしが少しだけ遠くを見ていた。
「……あの夜のこと、言い訳とか、したくなかったんです」
唐突に出た自分の言葉に私自身が少し驚いた。彼はなにも言わなかった。ただカップを置いて、視線をこちらに戻す。
「なかったことにしたのは忘れたかったからじゃなくて……忘れられないって知ってたから、で」
「……」
「どう受け取っていいかわからないまま、ひとりで、抱えてました……」
そう、まるで本のページをめくるように、私は自分の中の��あの夜�≠�一枚一枚、指先でほどくように語っていった。
「居酒屋で、キスが気持ちの証だって言ったの、覚えてますか?」
その私の言葉に彼は少し微笑んでうなずいた。その目は決して、からかいのそれではなかった。
「……ちゃんと、覚えてますよ」
「……」
「だから俺、触れるだけにしましたよ?」
「……、」
「あっ、手ね。手。本当は全部を欲しがる自分がいたけど──それをやったら、イブ様が泣くってわかってたんで」
私は俯いたままグラスの水に視線を落とした。触れたのか……手、だけらしいけど。
よかった。まるで女の魅力がないと、はっきり断言された気がしていたからちょっと安心した。
「……泣いてたと、思います、きっと」
「うん。でも、あの夜の出来事は……今でも俺の中では、ちゃんと大事な記憶なんです」
彼の声は落ち着いていて嘘がなかった。それが怖くて──同時に少しだけ、あたたかかった。
「じゃあもし、この先……誰かとキスすることがあったら今度は、わたし──」
「……」
「今度こそ、ちゃんと全部、覚えていたいです」
小さな声だった。彼は何も言わずただ「そうですね」と言ってテーブルの上に手を差し出した。私は自然とそっと、その手に触れた。その手は、大きくて薄くて、でも驚くほどあたたかかった。それだけで胸の奥に、光が差し込むようだった。
喫茶スペースのドアを開けたとき店内の空気が春の夜気に押し戻されるようにふわりと揺れた。さっきまでいた場所が夢の中だったように、少しだけ現実の温度が冷たい。それでも私は確かに、少し、あたたかい気持ちを宿ったまま歩き出していた。
隣にはホークスさんがいる。たぶんそれだけで今日はもう充分に、満ち足りていたから。
「……寒くないです?」
彼の声はいつもより少しだけ低く、でも優しく風に溶けていった。
「少しだけ。でも、いい風です」
そういえば素面で肩を並べて歩くのは、これがはじめてだった。会って、語って、心を交わしたあとに同じ方向へ向かうのは、たぶんほんとうの意味での、再会と呼んでいいのかもしれない。
「前に……キスの話してたとき、酔ってたから、ほんとは居酒屋でのことも覚えてないのかなって思ってましたけど」
「覚えてなくてもたぶん、その��キス論�≠セけはちゃんと、本音だったんだと思いますよ」
「キス論! まあ〜、確かにあれは立派なキス論でしたねー」
「バカにしてます?」
「してませんって」
私の言葉に彼はふっと笑った。そして夜の空を仰ぐ、その綺麗な横顔。その真上には、まだ満ちきっていない月が、薄くにじんでいた。
「俺ね、ヒーローになってから誰かに触れるのがちょっと怖くなってて」
「……どうして?」
「人の心って案外脆いでしょ?俺は軽くて便利な存在でいることでいろんな人を助けてきたけど」
「……」
「でも──ほんとはずっと、触れすぎたら壊すんじゃないかって、思ってたんだと思う」
静かだった。その言葉は風の音よりも静かに、けれど確かに、私の胸に落ちてきた。
「私、壊れませんよ」
言いながら私は自分の声がわずかに震えているのに気づいた。でも、それは怖さじゃなかった。たぶん、なにかが溢れそうだったのだ。
「……だと、いいなぁ」
彼はそうひとりごちるように言って歩幅を半歩だけ狭めてくれた。その歩調になぜだか私は涙が出そうになる。
「あなたは、軽やかに笑うけど、ちゃんと重たい人だと思う」
「……それ、褒めてます?」
「褒めてますよ。重たさって、ちゃんと生きてるって証だと、思うから──。」
呼吸の温度が、ほんのわずかに、変わった気がしたのは、きっと私の勘違いじゃない。
「ホークスさん」
「はい」
「今、どんな気分だとしても雛鳥ちゃんの誰かと寝たりなんか、しないでくださいね」
「……」
「あー、図星でしょ」
「……また、電話します」
「はい……わかりました」
冗談みたいなやりとりのなかにときどき混ざる本当の気持ちを私たちは知っていた。彼は何かを言いたそうだった。けれど言葉になる前に、喉の奥でそれを呑み込んだような気がした。
信号待ち。赤のランプが、ふたりを立ち止まらせる。その瞬間、彼が不意に、私の手に触れた。手の甲にそっと指が重なる。それは、握るのとも求めるのとも違う、ただ��触れる�≠ニいう行為。
「今度会うとき、どんな名前で呼んだらいい?」
彼はそう訊いた。まるで、合図のように。私は少しだけ息を吐いて彼の指先に自分の手をそっと重ねた。
「呼び方、考えておきます。ちゃんと、今度は」
青信号が二人の前に広がった。私は彼と並んで歩き出す。
まっすぐじゃなくてもいい。ゆっくりでいい。名前も記憶も、想いも。これから少しずつ、積み重ねていけたら──そう思った月夜だった。