耳を劈くような悲鳴が、焼け焦げた空気の中を縫って響く。そのたびに地響きのような爆音が、私の心臓の奥を乱暴に叩く。恐怖と混乱と足下の不安定さと、それから……隣にいるこのひとの、凄まじいまでの冷静さが、逆にどこか、現実感を遠ざけているようにも思えてくる。

「イレイザー!イレイザー!イレイザぁ〜ヘぇぇッドぉぉぉぉぉ〜!!!!!」
「どんだけ呼ぶんだ」

 けれども彼は、あの低く、くぐもった声でそう応えるだけで、いつもと変わらぬ様子でわずかに息を吐きながら口元だけで笑う。私はその笑みがまるで「安心しろ」とでも言っているように見えてなおさら安心できない自分を持て余していた。
 群れをなして突っ込んでくる、脳無たち──。あの、生ゴミの臭いがしそうな生々しい皮膚と、異様な動きの集団を前に私は、ただただ足をすくませていた。あれが夢でも幻でもないとようやく悟ったのは彼の捕縛布が目の前で唸りを上げて、何体もの脳無をなぎ倒していく光景を間近で見たときだった。

「ギィやぁぁぁ〜!!イレイザ〜ヘッドぉ〜!」
「……うるさい。黙ってろ。俺が片付ける」

 ああ、なんて言葉だろうか……ある意味戦慄。でも、なんて安心できる響きだろう。私は思わず彼の背中に縋るように身を寄せていた。情けないとも思ったけれど、今この場で彼以外の誰が私を守ってくれるというのか。
 普段なら決して許されない距離にいるその背中は熱を帯びて、どことなく��命�≠フ匂いがした。こんな形で彼に触れることになるなんて、不本意極まりないけれど口に出したら絶対にデコピンの刑なので、そこは黙っておくことにする。

「ここら辺のは……まあ、片付いたみたいだな」

 ふう、と、まるで風呂上がりのような雰囲気で腰に手を当てがったイレイザーを私は見上げた。どうして私は、こんなところに居るのだろう……それはたしか、何でもない週末の昼下がりのはずだった。
 私は生まれつき個性を持たない無個性の一般人で、そんな私が雄英高校の体育祭に特別招待されることになったのは小さな偶然と少しばかりの縁が重なった結果だった。だから今日はあの会場で着るための服でも新調しようと電車に揺られて、この街へとやって来た、ただそれだけの話だったのに。
 駅を出た瞬間、見慣れた制服姿の高校生たちがまるでパニック映画の一場面のように血相を変えて逃げているのを見て私ははじめ何かの撮影でもしているのかと思った。けれども違った。あれは映画じゃない。作り物なんかじゃない……。
 そう。そこに居たのは、脳無だった。人を襲う明らかに��異常�≠ネ存在。街中、誰も止めようとはしない。みなが我先にと、逃げ出している。

「え…………。現実……なの?」

 この状況に誰も答えてくれない。私はただ足をもつれさせるように逃げて、そして、たまたま、足元に転がっていた拳銃とマシンガンを拾いあげただただ生き延びるためだけに走り回っていた。
 足元には乾ききった土と、煤けた瓦礫と、焼け焦げた洋服の袖先とが転がっていて、遠くでは、誰かが泣いているような声がするけれど、それはもう私の耳には届かない場所で──ここは、私と彼だけの、灰色の静寂に包まれた空間だった。

「…………もう……、居なく、なった?」
「お前ね。どんだけ弱虫なの、そんなんだと嫁の貰い手もないぞ」
「おかまいなく。イレイザーのとこには、お嫁に行かないから大丈夫」
「そう。心配で逆にもらってやりたいぐらいだ」

 私は両手で頭を覆ってかがんでいたけれども、脳無の呻き声が聞こえなくなったことに安心してようやく一歩彼と距離を取る。彼が何かしょうもない冗談を言った気がするけれど聞こえなかったことにしよう。構ってしまったら余計相手を喜ばせてしまうだけだ。けれども私がそっぽを向いたことで逆にイレイザーは、気を良くしたらしい。私の持っていたマシンガンを肩に携えて、ご機嫌そうにうっすらと笑みを浮かべている。
 脳無の亡骸を避けて通り、いつもの広い校庭を改めて見渡してみる。気づけばここは雄英高校の校外だった。遠くから聞こえる消防車や救急車、パトカーのサイレン。もうもうと立ち上る煙と、何かの燃えるような臭いがまだこの状況を信じられないでいる私の感覚に、情報として飛び込んでくる。冷静に考えてみれば、膝からがっくり力が抜けてしまいそうで私は震える手でイレイザーの背中にもつれ掛かる。こんな人でも今は私の側にいてくれるというだけで、なんとありがたいことだろう。

「……おい弱虫。重たい。自分の足で歩け」
「あ、ごめん。」

 ぱっ!と手を引っ込めるとイレイザーは眉間に皺を寄せて、目だけで私をジロリと眺めた。彼は何か言い掛けようとしたけれど、途中で気が変わったのか小さく舌を打ち鳴らすだけに留めてそのあとは何も言わず、私の前をすたすたと歩きはじめた。……なんだろう、まあ、いいけど。

「銃、ちゃんと持っとけよ」

 不意にそう言われ私は自分の両手を見つめた。その手は白く力なく震えていて、とてもじゃないけれど、自分でも人を撃つ手には見えなかった。

「うん」

 そう応えた私の声は風の音に紛れてしまいそうなくらいに小さくて、とても頼りなかった。

「弾の込め方、わかってんだろうな」
「……うん」

 嘘だった。わかっているはずがなかった。さきほど拾い上げたときからずっとただ指先で撫でるように握っていただけだった。それを察したのか彼はまた一つ小さく舌を打ち鳴らした。できればもっと、優しくしてほしいなと思う。こんな非常事態のときだからこそ、尚更。

「はぁ……。どんな脳みそしてんだ、お前は」
「……」
「引くだけじゃアイツらは死なないぞ」
「うん」
「脇締めて顎引いてしっかり狙いを定めんとな」
「うん、わかった。」

 その私の返しに、じっと私を見るイレイザーと目が合った。

「……無個性で強気だけは健在。感心するよ」

 そして突如その足を止め、肩に担いでいたマシンガンを下に置いたかと思えば今度は私の手から銃を奪い取ると、もぬけの殻となった校舎へ向け一発撃った。パァン!と、もの凄い音がして辺りに響き渡ったとき私の心臓も一緒にドクンと音を立てた。

「ほら、せっかくカッコいい拳銃なんだ」

 そう言って私の手のひらにまたその銃をそっと乗せて戻した。

「せめて、片方だけでも使いこなせないとな」

 きっと今は彼の足元にある、とりあえずで抱え込んできたマシンガンと比較しているのだろう。イレイザーが校舎を打ったお陰でコレが正真正銘の��ホンモノ�≠セということが分かった。私は、手に乗せられた拳銃を見つめて、ゴクリと生唾を呑む。

「それ、弾入ってないだろ。確認もしねぇで拾うかね。死に急ぐ気だろ、お前」
「……、入れ方わかんないもん」
「……お前さ、自殺願望でもあんのか」

 どれ、貸してみろ。と言うので、銃を渡すと、呆れたように彼は、ヒーロースーツの内ポケットから手早く弾丸を取り出し、迷いなく手を動かし始めた。長く骨ばった指がひとつひとつの作業を的確にこなしていく。カチ、カチ、と小気味よい音が響くたびに私は呼吸することすら忘れて彼の手元を見つめていた。その大きな手と、長い指の動きを見つめていたら、疲労感がどっしりと体に圧し掛かって来た。ここには脳無がたくさん居てイレイザーが居なければ私なんてとっくに餌食になっていたに違いない。逃げる策を考えなければならない。けれども、自分が何をすべきなのか、どういう心積もりでいればいいのか分からなくてその場で、ぼぅとしているだけだった。
 両親や友人、イレイザーの教え子たちは大丈夫だろうかと、他人のことを心配する。この校外の外はどうなっているのだろうなどと考えもする。そしてまた、ぼぅと宙を眺めはじめる。
 ああ、そんなにも滑らかで冷静な動きができるのなら、この人はやはり、どんな場所でもどんな絶望の只中でも、私のことを守り抜いてくれるのだろう。そんな勝手な期待を抱いてしまいそうになるけれどそれは私の身勝手な依存でしかないのだと、どこかではちゃんと理解していた。

「……わたしさ、イレイザーがいなかったら死んでたね」
「まぁな。とっくに奴等の腹の中だったろ」

 冗談とも本気ともつかぬその物言いに、私は、小さく笑った。本当にそうかもしれない。でも、それを冗談のように言ってくれるその余裕が今はなによりも、ありがたかった。

「……イレイザー、ありがとう」

 言葉にしてしまってから、私はすこしだけ後悔した。言わなくても、伝わっているのではないかって、そう思っていたけれどやっぱり、ちゃんと伝えたかった。

「……あ?」

 彼は聞き返すように弾丸を詰めながら眉をひそめてこちらをちらと見た。けれど目を合わせたらきっと顔が熱くなると思って私は視線を逸らしたまま、続けた。

「ありがとう、って言ったの。……イレイザー、ありがとうね」

 小さく、けれど確かに。そしたら少しだけ間が空いて今度は彼が面倒くさそうに肩をすくめた。

「……はぁ? いいですよ、別に。礼なんか」

 その言い方はいつも通りだった。でも、ほんのわずかに、口元が緩んだ気がして──それを見てしまった私は、なぜだか涙が出そうになった。
 そのとき、カチャンと最後の一発が装填される音が聞こえた。

「いいか?躊躇すんなよ。相手は人間じゃない、脳無だ」

 彼はそう言って銃をくるりとひとさし指で回しグリップの部分をこちらに向けて差し出した。
それはまるで何か大切なものを託す儀式のようで私は両手を差し出しその重みを受け取る。確かなずしりとした金属の感触が手のひらに宿った瞬間現実がようやく体の奥に染み込んでくる気がした。

「いいか、大事なことだから二回言うぞ」
「うん」
「ちゃんと構えろ。脇締めて、顎引いて、狙いを定めろ」
「うん」
「うん、て……心配だよ、お前。本当に死にそうだからな」
「……うん」

 ひとつひとつ教えられた通りに頷く。彼はその様子をじっと見つめていた。最後に、何か他にも言いたげな目をしていたけれど、結局、何も言わなかった。

「……オールマイトさんたちも向こう側にいる。お前が行けば、誰かが守ってくれる」

 その言葉のなかに、私を送り出すための強さとそれを押し隠した、寂しさみたいなものが滲んでいた気がした。私の勘違いかもしれないけれど。

「イレイザーは?」
「ん」
「イレイザーは、一緒に来れないの?」

 私は問う。手のひらに、ずしりと収まる拳銃の重みに耐えながらそれを、どうしても訊かずにはいられなかった。

「俺は、まだここにいるよ」

 そう言った彼の声は静かで穏やかで、けれども決して、揺るがなかった。
 私は知っていた。この人が引き返すことのない男であることを。誰よりも自分を後回しにする男である事を。だからこそこんなにも悲しかった。

「……あのね、終わったらさ。ご飯食べて、ゆっくりしようよ」

 そう言うと彼はわずかに私の方を見た。また、何かを言いかけて言葉にならないまま口を閉じてそれから、小さく息を吐いた。

「なに。待っててくれるの?」

 その問いに私は一度だけ「うん」とはっきり、頷いた。すると彼はふっと細めた目をほんの少しだけ緩ませた。しかし、すぐに無表情になった。

「……バカだなお前」
「……」
「いいよ、別に。お前はヒーローたちと合流して安全なとこ行け」
「……なんで? だって、一緒に行こうよ。」
「まあ、いろいろあるんだよ、お前と違って」
「一緒に行きたい。」

 そう私がはっきりと言い切るとハァと深く溜め息をつく、プロヒーロー、イレイザー・ヘッド。言葉は返されることなくイレイザーが歩き出したので、私はとりあえずそのあとを着いて行った。
 見慣れたはずの雄英高校の校舎が今日はどこか異様な重苦しさを纏っていた。しばらく歩くと、校舎の裏側に辿り着いた。そこには高々とそびえ立つ鉄のゲートが備え付けてあり、鉄のゲートは高く、固く、まるでこの校舎と外の世界とを切り分ける巨大な意志のようにも思えた。私はその前に立ち尽くして拳銃を両手で抱えるように持ったままずっと彼の横顔を見ていた。しかし彼は何も言わず、ただ無言で鍵を外すためか、重い錠前を解いていた。

「向こうも安全とは限らない。油断するなよ」
「大丈夫、拳銃あるし。……イレイザーのこと、待ってるよ」

 そう口にしてみてから自分でもその言葉が本心なのか、強がりなのか、よくわからなくなった。でも彼がこの手を引いてくれたこと、その背中で盾になってくれたこと。それを思えば今度は私が見送る番だと思ったのだ。

「あのねぇ……」

 低くぼやくような声。彼は肩越しに私を見るがそれ以上は何も言い返さず、ただ一拍置いて目を伏せた。それが肯定とも否定ともつかない曖昧な呼吸に聞こえて、私は息を詰める。

「……私のこと、助けに来てくれたから。だからちゃんと戻ってくるのを見届けたいの」

 それは誰に頼まれたわけでもない、ただのわがままだ。けれど私にとっては小さな使命のように思えた。拳銃を両手で構えちょっとしたポーズでかっこをつけてみせる。──それは、おまじないみたいなものだった。彼が、にやりと口元を吊り上げた。その笑みは、いつもの彼だった。でも、ほんの一瞬だけ吹き抜けた風が、彼の長い前髪をさらって揺らしたとき。私は胸の奥で、なにかがひどく軋むのを感じた。もしかしてこの人とは、もう、会えなくなるのかもしれない。理由なんてなかった。ただそう思った。不敵な笑みがなぜかほんの少し、寂しそうに見えたし、気のせいかもしれない。でも、そうでない気もした。そして
何よりも今の彼は、私が知るどのヒーローよりもかっこよくて、誰よりも、綺麗だった。その姿が風のなかに溶けていってしまいそうで、私は目を逸らせなかった。

「ねえ………、一緒に、行こう……?」

 言葉を絞り出すようにして問いかけると、彼はしばらく口を噤み、それからやっと低く呟いた。

「名前……」

 イレイザーは肩にかけていたマシンガンを無造作に持ち直し無言のままその銃身をすっと自分の首筋へと添えるように当てた。そして空いた方の手が、ふいに、こちらへと伸びてくる。指先が、まるで私の頬に触れようとして、けれど、寸前で止まった。私は思わず、息を呑む。その距離は、ほんの数センチ。触れられそうで触れられない。風が吹けば崩れてしまうような、脆く儚い緊張がふたりのあいだに張りつめていた。けれど彼は、ためらうようにそっとその手を引っ込めて、何も言わずにただその指先を落とした。そして口元に浮かんだのは笑みと呼ぶにはあまりに弱々しく、苦笑いと呼ぶにもどこか悲しげな、そんな、表情だった。まるで自分自身に言い聞かせるように。あるいは、諦めることに慣れきってしまったヒーローのどこにも届かない優しさのように。

「……もっと色々、やっときゃよかったよ」
「え……?」
「……お前のこと、もうちょっと可愛がっときゃよかったって、今さら思ってる」
「……なに、それ、急に」
「……」
「はは……シャレになんないから」

 強がるように笑って言いながらも、喉の奥が、ひどくこそばゆかった。けれどそれを隠すように私は彼の顔を見上げる。高い位置にあるその横顔は、どこか影をまとっていて、でも、静かに私を見返してくれていた。
 彼の口元が、ほんのわずかにゆるむ。それは、笑みというにはあまりに淡くて、でもたしかに、あたたかいものだった。そして、眉間に少しだけ皺を寄せながら、ぽつりとひとこと。

「……そうだな」

 それだけ。だけどきっと、今の私には、それで十分だった。

「……まぁ、過ぎた話だ。このゲートを開けりゃいつもの日常だよ」

 いつものように、どこか、突き放すような口調だった。けれどその背に漂う空気はいつもとまるで違っていて、私は思わず縋るように問いかけてしまう。

「イレイザー......帰って、くるよね?」

 そう訊ねた瞬間、自分の声がすこし震えていたことに気づく。それなのに彼は答えずにただ視線を少しだけ逸らすに留めた。
 ……どうして、そんな顔をしているの?いつもみたいに無造作に私の頭を撫でたり頬を抓ったり冗談のひとつでも言って、こちらの反応を面白がったり。そして、気まぐれに手を離してしまう、あの自由さが今はまったく感じられない。まるでそれらすべてを、もう、置いていくつもりでいるみたいにして。
 どうして、いまになってそんなことを言うの?まるでこの先、もう二度と──会えなくなるかのように。

「はいはい、いくらでも帰ってきますよ」

 そんなふうに軽く受け流すような口調で彼は、いつもの調子で言う。

「……ほんと?」
「ああ」

 その「ああ」が、あまりにあっさりしていて、どこか、頼りないほど簡単に届いてしまうから、かえって胸がざわついた。

「なら、いいんだけどさ……ねぇ、」
「ん」
「……ぜんぶ、自衛隊の人たちに任せとこうよ。無茶したら、ダメだよ」

 言い終えたあと、少しだけ黙った私の言葉に、彼はふっと息を吐く。

「本当に……能天気なやつだね」

 そう呟いて、彼は小さく笑った。その笑みが、どうしようもなく胸に引っかかる。漆黒の瞳が、一瞬だけ細く瞬いて疲れの色を浮かべる。どこか翳った表情が整った顔立ちにわずかな痛々しさを滲ませて。それでも口元だけは、いつも通りの彼だった。皮肉めいた歪み。まるで何もかも悟っているくせに、わざと何も言わないような笑い方。
……どうして、こんなにも気になるのだろう。

 イレイザー。
 あなたはいつも、ふたりきりになったとたん、私を突き放そうとする。そのくせ、誰よりも早く私を助けに来て、誰よりも真っ先に、危険に身を投げ込む。今だって、そうだ。まるで私が一緒にいたいと願い始めた、その瞬間を見計らうように切ないタイミングで、離れていこうとする。

「名前、飯食えよ」

 ガチャン、と無機質な音が静寂を割いた。彼が膝を折って外したその錠前は不思議なことに私の心にも似た重さで鳴った。見上げれば、立ち上がった彼の影が、薄く陽の射す午後の光を背にして私の上に深く重く降りかかっていた。
 ああ、きっとこの影のなかにいた時間が、私にとってどれほど心地よくどれほど一方的に甘えていたものだったのか今になって思い知らされる。

「イレイザーもね……」

 声がかすれてしまう。唇が強ばり小さく震えているのが自分でもわかる。喉元までせり上がった言葉はどれも頼りなくて、どうしてこんなにも、叫びたくなるのか。

 ……イレイザー。
 その端正な顔に浮かぶ、いつもよりすこしだけ怖い、でも確かに彼らしい笑みが今にも、視界の奥へと滲んで消えてしまいそうで。まるで、もう二度と見ることは叶わないのではないかと、そんな予感が胸の奥でひどく疼いた。

 イレイザー......イレイザー、ヘッド。
 その名を胸の奥で幾度も呼んだ。もう彼の表情が見えなくなってしまう気がして。それが怖くて怖くて……どうしようもなく、恐ろしかった。

「わがまま言わないで、ヒーローたちの言うことちゃんと聞くんだぞ」

 いつもと同じ声。いつも通りの口調。なのに、どうしてだろう、胸が、つんと軋む。

「ねえ……やっぱり、一緒には来れないの?」
「しつこい」
「っ、だって……」
「……お前な。普段は触んなだのあっち行けだの言っといてこういうときだけ寂しがるとかほんと勝手なやつだね」
「ふざけないで!今、本気で言ってるのに!」

 たったそれだけの言葉を出すのに、どれだけの勇気が必要だったろう。けれども彼はそれを冗談のように鼻先で笑い飛ばした。

「お前に心配されるほど、ヤワじゃないよ」

 言いながら、肩のマシンガンに頬を乗せてふざけた笑顔を作る。まるでそれが、唯一の盾であるかのように。火薬の匂いが、瓦礫の匂いと混ざり合って鼻腔に残る。けれどその奥にかすかに混じっていたのは彼の匂いだった。この人が隣にいてくれるだけでどれだけ心が保たれたか。けれど、彼はどんなときだって危険の只中を選ぶ。迷わず振り返らずに。私はただ、その背中を眺めることしか許されない。いつだってそう。それは今も。

「……本当に、心配してるのに」

 私がそう呟いた瞬間、彼の笑みが、わずかに
止まった。だがすぐに皮肉気に溜め息を吐き散らした。感情が爆ぜた。いつもみたいに、ごまかさないで。私は、ちゃんと伝えたいのに。

「本当に、残ってほしくないんだよ……っ! 」

 掠れた声。頬を濡らす涙。抑えていたものが
全部、彼の前で剥がれていく。でも、彼はそれを見てもなお、笑っていた。どうして、どうして、そんな顔が、できるの──。
 私は戦う力なんて持っていない。彼みたいに、誰かを守る術も自分ひとりで生き抜く術もない。安全で、のどかで、心から安らげる場所なんて、この世界のどこにも、残されていないのかもしれない。助けられてばかりで、結局なにもできずにただの足手まといとして扱われて。オールマイトさんやミッドナイトさんの背に隠れて、守られる側のまま終わっていく自分が、どうしようもなく情けなかった。そしてもしこのまま、本当に彼と会えなくなってしまったら……そう思った瞬間、胸の奥がひどく締めつけられた。
 私に、いったい何ができるんだろう。たぶん、何ひとつないのかもしれない。それでも、ひとつくらい──ほんの小さななにかでも、私にできることがあると信じたくて。でも、そうして必死に考えても、やっぱり、なにも思いつかなかった。ああ、こんなにも、悔しいなんて……。

「……名前」
「……ん……?」

 静かに呼ばれた名に私は顔を上げる。いつものように皮肉げな笑みを浮かべた彼が、ほんの少しだけ、柔らかい声で言った。

「名前はたまに、優しくなるんだな」

 言葉に詰まりそうになる。そんなふうに、笑わないで。そうやって私の気持ちごと全部、冗談にしないで。

「さてはお前──俺に、惚れてんだろ」
「っ、いっつも……そうやって……」
「図星か」
「バカ! もういい!」
「目上の人間にバカはやめなさい」
「……だったらっ、ずっと、ここにいてよ……」
「ああ……それも案外、悪くないかもね」

 そう言いながら彼は不意に曇った空を仰いだ。その横顔が、いつもより青白く見えて、妙に儚く映った。同じ時間を過ごしたこの人がいま、違う世界へ歩いていってしまう気がした。

「……やっぱり、ダメだよ。イレイザー、一緒に行こうよ……!」

 こみ上げる衝動に任せて声を上げた。喉が擦れて掠れて、うまく言えなかったけれど、それでも届いてほしかった。

「それは無理だ」

 彼の低い声に目を見開く。どこか静けさを帯びた声だった。その響きに、思わず息を呑み、私はそっと目を見開いた。

「……なんで、」
「助けなきゃならない命が他にも山ほどある」

 しがみつきたくなる衝動と、それを抑える理性とが心の中で引き裂かれる。私は、彼にすがってしまいそうな自分を、ぎゅっと抱きしめて立っていた。

「……行かない……で、」
「ん? 悪い、聞こえねえな」
「お願い……行かないで……っ」

 イレイザーは、ほんとうに意地悪。クスクスと笑い声が聞こえるたびこちらの必死な顔が、さぞ滑稽に映っているのだろうと思うと悔しさが込み上げてくる。それでも。それでも私は、どこかで思ってしまうのだ。こんなふうにまっすぐに言葉を重ねたなら彼は、少しだけでも耳を傾けてくれるのではないかと。そんな淡い希望が心の奥底で静かに揺れている。叶うはずなんて、ないのに。

「お前にそう言われただけで俺はもう満腹だよ」

 すると彼はようやく冗談の顔を脱いで私の頬に静かに手を添えた。今度こそ触れてくれたその手のひらは、ひやりとして、でもどこか優しくて、それだけで泣きたくなった。そのまま眉のあたりをなぞるようにして私の目の奥をじっと見つめてくる。その言葉に、その温もりに心が崩れそうになる。そう言った彼の声は、今までで一番穏やかだった。そしてそれはまるで別れの言葉のように響いた。
 イレイザーの声も、その手のぬくもりもきっと私は深く覚えておく事なんてできないのだろう。時間が経てば言葉は霞み感触は薄れていく。思い出そうとしても、たぶん、うまく思い出せない。それでもきっと私は、この一瞬の彼の顔だけは、忘れられない気がした。
 どうして、今になって、そんなふうに笑うの。いつものように、口角をわずかに吊り上げたその笑みが今だけはどうしようもなく切なく見えた。その背にあるのは、重々しく閉ざされた鉄のゲート。非日常の象徴のような扉。彼がそこを押してしまえば、私はもうきっと、彼に二度と会えなくなる。そうはっきりと、運命のように告げているように思えた。

「イレイザー……」

 名前を呼んでも、彼は返事をしなかった。それでも私は続けたかった。引き止めたかった。彼の姿がこれ以上、遠くなってしまわぬうちに──。
 彼がようやく口を開いた。目を逸らしたまま、どこか遠くの現実を見据えるようにして。

「いいか。オールマイトさんたちと合流するのを最優先に考えろ。今は……とにかく生き延びる。それだけで、充分だ」

 言葉は抑制されていて、それでいて、妙に真っ直ぐだった。「そっから先のことは、わからないけどな」と続いた声には、彼自身の不安や、割り切れなさのようなものも、にじんでいた。

「……イレイザー」

 もう一度名を呼ぶ。彼の方を向きながら。彼はかすかに眉をひそめて、肩を竦めるようにして、笑った。

「……まぁ、でもな。お前、運なさそうだし」

 そう言って揶揄うようにこちらを見た。けれどその瞳の奥は、冗談なんかじゃなかった。

「他県にでも身寄せれるとこがあるならしばらく避難してろ。判断は、雄英の教師たちがちゃんとするはずだ」

 それでも私は、黙って立ち尽くしていた。彼が何を言っても胸の奥で嫌だと叫ぶ子どものような声が、ずっと収まらなかったからだ。

「……イレイザー、──」

 三度目の呼びかけに、彼はようやく視線を私に戻した。その目はどこまでもまっすぐで、容赦のない優しさに満ちていた。

「それからな。脳無の騒ぎに乗じてろくでもねぇ人間が跳梁跋扈してる。甘い顔すんな。騙されるな。……身、引き締めとけ」

 命を守るための言葉を並べるその声は、どこまでも現実的で突き放すようで、それでも私のためだった。私のためにしか、言えない言葉だった。

「──……、」

 …………消太、さん──。

 心の中で、いつもはめったに呼ぶことの少ないファーストネームをそっと呼ぶ。すると彼がふとこちらを見た。風に前髪がかすかに揺れて、その瞬間だけまるですべての音が止んだような静けさが降りた。
 イレイザー・ヘッドではない。それは、仮面を脱いだ相澤消太という一人の男の人の顔だった。そして彼は眉尻をほんの少しだけ下げて、口元に苦笑のようなものを浮かべた。それはあまりにも一瞬で見逃してしまいそうなくらい淡く、けれど確かに、私に向けられたものだった。

「……泣き虫だな、名前は。」

 低く、けれどどこか温かい声音でぽつりとそう言って。その言葉が私の胸の奥に、静かに、深く沈んでいった。それはまるで彼自身にも聞かせるような声だった。自嘲でもなく揶揄いでもなく、ただひとつの事実を穏やかに口にしただけのような。不意に何かが決壊した。その一言が胸の奥のどこかに張り詰めていたものに触れてゆっくりと確実に、私の中で崩れていく音がした。
 気づけば、目の奥に熱いものが溜まっていた。視界がぼやけて眉間には力が入りすぎて痛みすら覚える。瞬きをした瞬間、大粒の涙が頬をつたいぽとりぽとりと音もなく落ちていった。それでも私は、まだ言葉を飲み込んだままだった。

「イ……レイザー、……」

 かすれた声で名を呼ぶ。それでも彼は、応えることなくただ静かに、でも確かに、歩みを止めて動けずにいる私の背中を押すように言った。

「……もう、行け」

 それは突き放すでも冷たくでもなくて。ただ、私を守るための決意に満ちた一言だった。そしてひどく、優しい声だった。それがまた辛かった。低く、静かにそう告げると、彼はそっと私の背を押した。その手は優しくて、でも確かに私を日常へと送り出すための、決意の力を帯びていた。
 私は一歩、また一歩と、ゲートの向こう側へと足を踏み出した。振り返るのが怖くて、それでもどうしても、もう一度だけ見たくて振り返った。イレイザーは、そこにいた。灰色の瓦礫のなかに立ち尽くしてぼんやりと私を見ていた。私の中に溜まっていた何かが堰を切ったようにあふれ出しそうになっていた。息が苦しい。胸の奥がきゅうっと締めつけられて言葉にするのがこんなに怖いなんて、思ってもみなかった。

「、わたし……」

 喉の奥が震えて「好き」が、言葉にならない。それでもなんとか続けようとした私の唇を、彼が先に冗談まじりで遮る。

「……はは。そういうの、今言うかね。……参ったな」

 冗談のように笑ってみせながらも、どこか照れ隠しのような、投げやりのような、それでも受け止める覚悟をどこかに含んだような声音だった。私は、それでもなお、言葉にしようとする。

「……わたしっ、」

 涙が溢れていた。次の言葉が喉で引っかかって出てこない。息が詰まって体が強ばって。しかしそう言いかけた私の名を、彼が先に呼んだ。

「名前」

 ……ああ。
 たったそれだけで、呼吸が止まりそうになる。その声にすべてが溶けた。その声が胸の奥に深く刺さる。見上げればそこにはいつもの彼がいた。あの皮肉げに笑う顔。気だるげで、つかみどころがなくて、だけどときどきとても優しくなる人。この人は、もう行くのだ。行ってしまうのだ。

 イレイザー・ヘッド──相澤消太。
 ずっと大嫌いだった。私の心が揺れそうになると、必ず突き放してくる。忘れようとしたらまた何でもない顔をして近づいてくる。私が怖くなるタイミングを、見計らったかのようにして。

「………、大嫌いっ、」

 ようやく絞り出したその言葉に、彼は、口角をくいっと上げて笑った。

「……ほー。言うじゃねぇか」
「……、」
「嬉しいよ、ありがとね。」
「………っ、」

 笑っている。いつも通りの顔で。でも私はわかっていた。その笑みの奥に、隠しきれない何かが滲んでいたことを。それでも彼は言葉を足さず、そっと肩に手を回してきた。拒む暇も疑う余裕もなかった。そのまま私は緩やかに導かれてゲートの方へと歩かされた。静かに、抗えないような力で。近くで感じる彼の匂い。火薬と焦げた布と、そしてなぜか、少しだけ懐かしい香り。それを、胸いっぱいに吸い込んだ。でも、体温だけは感じなかった。まるで、幻のように。

 ――イレイザー・ヘッド。
 一緒に、出て行ってくれたなら。もしもそれが許される世界だったなら。どれほど私は安心できただろうか。
 嗚咽が喉にせり上がる。胸が、張り裂けそうにきしむ。顔はもう、涙でくしゃくしゃで、視界の端が波打っていた。それでも、彼の背中を追いかけるように、ひっく、ひっくと息を殺しながら、私は泣いていた。

「……っ、い、かない、でっ」

 届かない声を、絞り出すように零すと彼はおどけたように眉を上げた。

「嗚咽でなに言ってるか分かりません」

 けれどその顔には、もう冗談はなかった。ただ一筋、優しすぎる眼差しで私を見下ろしていた。
 ねえ、行かないでよ。でも行ってしまう。わかっている。迷いはない。この人に躊躇なんてないのだ。

 彼の腕が私の背を、そっと押した。ふいに体が前に出る。足が地面を離れ、私の体はついにゲートの外へと飛び出してしまった。視界が滲んで、歪んで、でもその中でも、彼が私を見ているのがわかった。
 振り返れば、自衛隊員が何人も駆け寄ってきていた。まるで現実が、急に戻ってきたような感覚だった。でも私はハッとしてもう一度だけ、振り返った。するとゲートの向こう、あの、鉄の影のなかに、彼が立っていた。イレイザー・ヘッドが私を見ていた。彼は、私をずっと見ていたのだ。ゲートをくぐり日常に戻ったことに驚いて、すっかり泣き止んでキョロキョロと様子を伺い平和を感じている私の姿を。そしてひとことだけ。声が風に乗って届いた。

「名前、元気でな」

 その言葉の直後、ギィ、と重い音を立ててゲートが動き、私と彼とを切り分けていく。鉄の錠がガチャン──と音を立てて閉まる。視界から彼が完全に消えてしまう、その瞬間。

「イレイザーヘッド!!」

 私は叫んだ。必死だった。自分でも、涙なのか汗なのか分からないほど顔が濡れていた。返事はなかった。けれど、たしかに聞こえた気がした。最後に彼がもう一度だけ私の名前を呼んでくれたような、そんな気がしたから。そして私は、ただひとつの願いを胸に抱いたまま、日常へと戻る。すべての始まりでもあり、終わりでもある、この鉄の扉の向こう側へ。

 ──イレイザー・ヘッド。
 あなたは最後までやっぱりヒーローだったね。やっぱりイレイザーヘッドだったよ。何を考えているのかなんて一度も分からなかったけど。
 でも、私を脳無の群れから見つけ出してくれたときだけは、笑っていなかった。まるで、暗闇に射し込む稲妻のように彼は現れて、脳無の群れのなかでただ一人だけ、私の名前を呼んでくれた。

『名前! ケガは!?大丈夫か!無事か!?』

 あのときの顔が、忘れられない。いつもの冗談混じりの仏頂面ではなく眉間に深く皺を寄せ唇を真一文字に結んで、私を捉えていた。怖かった。けれどあの顔だけが、救いだった。
 彼は──イレイザーヘッドは私を見つけ出してくれた。あのときの彼の顔が、本心だったのなら私はやっぱり、言っておけばよかった。好きだよって。どうか、無事に帰ってきて、って。でも、どうしても言えなかった。言葉にしてしまったらそれが本当に最後になってしまう気がして、怖かったから。飲み込んだままの想いが今も胸の奥で静かに疼いている。
 伝えて、おけばよかった。本当の別れだったとしても、ちゃんと、言葉にしておけばよかった。


 *


 カン、カン、カン……。
 建設現場の金属音が、風に乗って響いてくる。焦げた壁も、崩れた道路も、街のあちこちがようやく、日常のかたちを取り戻しつつあった。

「……バカ者」
「……ぐっ……」

 その声に思わず顔をしかめるとすぐ隣で無遠慮に足を崩してあぐらをかきながら、イレイザーがこちらを覗き込んできた。目が合った瞬間、意地の悪い笑みを浮かべたその顔に胸の奥がどくんと騒ぐ。

「『行かないで、イレイザー!一緒にいてよイレイザー!』……ってな。はは、何だその顔」
「うう〜〜〜っ!!…………大っ、嫌い!!」

 両膝を抱えて体育座りをしていた私は顔を真っ赤にして彼を睨みつけた。それを見た彼、イレイザーはまるで、自分が爆発物でも作り出したかのように愉しげにに肩を震わせる。

「『消太さん大好き! 一緒にどこか遠くへ逃げよう!』……って、お前の声、なかなか味あったな。これは再現度高いぞ」
「ちょっ……!そんなの言ってませんっ!!記憶改ざんはやめてくださいっ!!」
「そう? 俺にはそう聞こえたけどね」
「聞こえてません!それ絶対、イレイザーの脳内脚色です!!」

 このままここに居続けたら、怒りで血管がぶち切れてしまいそうだった。堪えきれず立ち上がり勢いのままにその場を離れようとしたそのとき。不意に、背後からぐいっと肩を引き寄せられた。思わず足が止まり、息が詰まる。意識を向けると熱の残る腕が私の肩をしっかりと捕まえていた。

「……そう聞こえたんだよ、俺には」

 耳元に、落ち着いた低音が落ちる。振り向いて睨み返そうとした私は、ふと目を見開いた。
 ……笑っていない。いつもなら皮肉げに片方の口角を吊り上げてくるくせに、今日に限って何も言わないその顔はどこか静かで、どこまでも綺麗だった。

「………っ、」

 ……ズルい。不意にそんな顔するなんて、ズルすぎる。普段はチャラついてもないくせにこっちが慣れて油断した頃に妙に優しい声とか顔とか。そういうところが、ほんとうにズルい。こすい。

「……なぁ、本当のこと言ってみたら」
「っ……!」
「ん、なに?」

 ──ああ、もう。
 その顔で見ないでほしい。言えるわけないじゃないか、そんな顔で。ほんとうは好きだよって、言いたいのに。

「……言ったら、私の言うこと聞いてくれる?」
「は?」
「ちゃんと聞いてくれるなら、言ってもいい」

 少し目を細めて胡散臭そうにこちらを見る彼、イレイザーヘッド。私だけの、大切なヒーロー。

「……なんだそれ。まあ、内容によるな」
「ほんとに?」
「天地がひっくり変えるような白目剥く内容ならな。……くだらなかったら、却下」
「…………、あっ、」
「ん?」
「あ、あのね……っ、」

 喉の奥が詰まる。でも、少しずつでも言わなきゃと、呼吸を整えて……だけどやっぱり、声にはならなかった。言葉にしてしまったら壊れてしまいそうだったから。今のこの時間も、彼の横顔もほんの一瞬の幻のように消えてしまいそうで──だから私は、そっと唇を閉じた。
 街はもう少しずつ元に戻っていく。壊れたものは修理され崩れた道も舗装され、忘れられていくものが積み重ねられていく。けれど私の中では、時間だけが静かに止まったままだった。彼があのゲートの向こうで、微笑んだ瞬間から。

 生活も、社会も、心さえも、元どおりに戻っていく。だけど私の願いはただひとつ。今度こそ、どうか──。

「あら、なに。言わないの」
「うん。一生、言ってあげないっ」
「そうか。それは残念」

 この手が触れたぬくもりだけは、どうか、もう二度と、手放さずにいられますように。どんなに季節が巡っても、どんなに遠く離れても……あのとき感じた確かな熱だけは私の掌の奥に、静かに灯り続けていてほしい。

 イレイザー・ヘッド。──消太さん。
 あなたが、ただそこにいてくれるだけで私は、今日もちゃんと息ができる。傷だらけでも震えていても、それでも前を向ける。どうかこの先も、あなたの背を見失わずにいられますように。
 名前を呼べばあなたがふいに振り返って、その皮肉まじりの笑みで、また応えてくれるような、そんな日常が、ほんのすこしでも続いていきますように……。





 

声ならぬ声を君に遺して


(で? もう、泣かなくていいの)
(!?──っ、性格悪いよ?イレイザーヘッド)
(知ってますよ、ありがとう)

※image song『 うるうびと/RADWIMPS 』


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