あの夜のことを俺は「俺も、正直あんまり」と彼女に言った。ほとんど覚えてない、と。けれどそれは、真実の一部でしかない。正確に言えば、言葉にできる範囲の記憶だけを抜き取って、差し出したようなもの。
 本当は、ぜんぶ、覚えている。梅酒のグラスを両手で包んで熱っぽく「セックスよりキスの方が大事」と真顔で語ってた彼女のことも。頬を赤らめながら、それでもまっすぐにこちらを見据えてくる、少し泣きそうな瞳も。
 そして、酔いに負けそうな心を支えるみたいに肩に預けてきた頭。あのとき俺は気づいたら彼女の髪を撫でていた。何かを求めていたのはたぶん俺の方だった。ホテルに連れていくことを決めたのも俺。このまま放っておけないとか、理由は、いくらでもつけられるけど、どれも方便だ。ほんとはひとりにしたくなかった。寂しさに飲まれていくあの瞳を、これ以上、ひとりの夜に沈めたくなかっただけ。

 未だに、彼女の名前を知らない。聞いたけど、「失恋女だよ」なんて言ってはぐらかすだけで、俺は番号を交換した際にその名前を『イブ様』と登録した。
 ホテルのベッド。その縁に腰をかけた彼女が、「ねえ、キスしてもいいですか」と言ったとき。俺はもう、なにも言えなくなっていた。

「それ、大事にしてるんじゃなかったの?」

 一応、そう聞いてみた。でもあのときの彼女は笑って「大事だから、したいんです」って言ったんだ。だから──した。それだけだった。けれどその��それだけ�≠ェ、たまらなく重かった。唇を重ねたあとの沈黙。ふたりの影が絡み合うような夜の時間。俺はそれ以上のことを求めなかった。いや、求めたかもしれない。でも、手を出さなかった。それは、彼女の��キスは証�≠ニいう言葉を信じたからだ。
 なのに翌朝「ごめんなさい」って。「覚えて、ないんですよ」と言われたとき、胸のどこかが、すっと冷えた。彼女は自分の弱さを悔やむようにそして俺との関係にそっと幕を引くように部屋を出ていった。

 あれから数週間。こっちから彼女に連絡をすることはなかった。しようとして、やめた。未送信フォルダには数行だけの文章が溜まっていった。
『今日は月、綺麗でしたね』とか『このあいだのネイル、まだ残ってます?』とか『またひとりで酔ってないです?』とかくだらない、でも、俺にとっては真剣だった恋文たち。
 プロヒーローという看板を背負った自分には、きっと、軽さが必要なんだと思って生きてきた。重たくなったら墜ちるだけだから。でも、彼女のキスは羽根のように軽く、それでいて……重力のように、俺を地面に引き戻してしまった。

 しかし、再会はあっけないほどに唐突だった。
 その日、任務帰りの午後三時。人気の少ない
小道に面した喫茶店で注文したコーヒーを待っていた。そのときドアベルの音とともに現れたのが彼女だった。彼女は最初、俺に気づかなかった。でも、カウンター越しに俺が「……やあ」と声をかけるとほんの一瞬だけ、時間が止まったような顔をしたのを見た。

「……ホークスさん、」

 声が震えていなかったのが、かえって胸に刺さった。ああ、もう��過去�≠ノしたのだな、と。

「元気にしてました?」
「……あ、はい。まあ、ぼちぼち」

 気まずそうに目を逸らしながらも彼女は向かいの席に座ってくれた。こちらから促したわけでもないのに。

「……今日、満月なんですよ」

 ふと、彼女が言った。

「知ってますよー。昼間でもね、なんとなーく、そういう空気ってありますよね、満月の日って」
「……また、魔法にかかっちゃいますかね」
「どうでしょうねー。でも、今回は……」
「……」
「かかる前に──解けてるかもしれないスね」

 彼女は少しだけ笑って、目を細めた。たぶん、あの夜のことを思い出していたのだと思う。いや思い出して欲しかったのだ、俺と交わした、証と称したキスを。

「……コーヒー、まだ頼んでないなら、一杯くらい、どうです? ご馳走しますよ」

 俺の問いに彼女は少しだけ迷ってから頷いた。その仕草が、春の空気みたいにやさしかった。


 *


 月は、かつて、地球の一部だったのだという。その事実を知ったとき私は少しだけ、泣きそうになった。永遠に引き裂かれたまま、ただ引き寄せられて決して触れられぬ距離を漂い続ける衛星。それはあまりにも──私たちに、似ていた。

 どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。彼と再会を重ねて言葉を交わして少しずつ温度のある時間が増えていって……心のどこかが解けていくのを感じながらも私はいつまでも自分に値札をつけてしまうようなところがあって。
 最初の出会いが酔っ払ってて。ホテルに連れていってもらって、なにも思い出せないままで……
 こんな私がプロヒーローの隣に立つなんて傲慢なんじゃないかと、ふと思ってしまう。私なんかじゃきっとだめだ。出会い方も、言葉も、全部が中途半端で──酔った勢いで彼と夜を過ごして、なのに、その記憶さえ曖昧で。
 「キスは気持ちの証」だなんて語ったくせに、その証を曖昧にしてしまった私はプロヒーローの隣に立つにはあまりにも頼りなくて、浅はかで、軽すぎた。

 携帯が震えたとき私はちょうど信号待ちで立ち止まったところだった。深く息を吐き心を静めるようにして画面を見ると、そこに表示された名は『ホークスさん』──。私はため息をひとつ胸の奥で丸めてから、通話ボタンを押した。

「──はい」
『あ、もしもし、イブ様?今、大丈夫です?』
「はい……今ちょうど、帰るところです」

 電話越しに聞こえる彼の声は変わらず気安く、けれどどこか私の心の奥をひっそりと撫でるような響きを持っている。くせになる、その優しさ。そういうところに、私はいちばん弱かった。

『……なにしてました? また、一人で飲んだりしてませんよねぇ?』
「まさか。今日は美容院に行って、ネイルも……女性としての、最終防衛線みたいなものですね」
『へぇ〜、……それは、いいですね。見たいな』

 その瞬間だけ彼の声が少しだけ低くなった気がした。まるで気持ちがどこかに引きずられているような、あるいは見てはいけないものを見てしまったような。だから、決めたのだ。迷っていると結局また、言えなくなって、流されてしまいそうだったから。

「ホークスさん」

 と、私はそっと名前を呼んだ。それに対して、『ん?なんですか?』という軽やかな返事が返ってきた瞬間体の芯がひんやりと凍えた気がした。それでも、次に続く言葉を私はできる限りやわらかく、そして静かに口にした。

「──もう、連絡取るの、やめにしませんか?」
『……え?』
「何も、なかったことにしてくれたら、嬉しい」
『……』
「あなたと話すの、楽しいんです。安心もする。でも、たぶん……これを続けてたら私、あなたにもっと甘えてしまう」
『……』
「気づけば心の奥でその名前を呼ぶようになってしまうから──」
『……』
「あなたと過ごした時間が全部大切だったから。だけど私には、あなたの未来を歩く資格はないと思いました」

 近くの公園に置かれたベンチに腰を下ろして、携帯を耳に当てたまま、私は目を閉じる。夜風が前髪を撫で、月がちょうど、木の枝のすき間から顔を覗かせていた。

「本当に、ありがとう。あの日の夜ことも、こうして、ずっと、気遣いつづけてくれたことも」

 彼はなにも言わなかった。言えなかったのだと思う。ただ沈黙が確かにそこにはあった。まるで月のように、静かに息を潜めている気配。

「朝、目覚めたときに隣にいたのが……ホークスさんで、よかった」
『……まぁ、一応オレ、職業ヒーローなんで』
「うん。ちゃんと、ヒーローでした。」

 少し笑って私は言った。それは、冗談まじりのようでいて、たぶん、今の私にできる精一杯の、感謝と敬意と、そして、ささやかな、別れの言葉だった。
 彼は何も言い返さなかったけれど私の目の奥、電話の向こう側で、ほんの少しだけ彼が目元を、やわらかく揺らしたのが見えた気がした。それが気のせいであって欲しくない。

「ねえ、あの、満月の夜……」
『……はい』
「結局、キス──したんでしょうか?」

 私は聞いた。最後の最後に。ずっとずっと胸の奥にしまっていた疑問。なにもなかったと言われても信じきれずにいた、体の関係よりも、ずっと重い問い掛け。

『……さぁ。もう、してないってことにしとけばいいんじゃないスかね』
「……うん、ですね」

 その空気が、わかっていたけど、少しだけ寂しかった。けど──だけど……うん。それでいい。それで、よかったのだ。私が決めた選択だから、後悔はしない。

『次は、本気で想ってる人とキスしてください。
……セックスより、大事なんですよね?』
「ははっ……ええ、そうですね」

 自嘲のような笑いが、うまく笑顔になりきらず唇の端で揺れていた。どんな顔をしてこの言葉を受け取ればいいのか、自分でもわからないまま、それでも私は、静かにうなずいた。認めたくなかった気持ちまで肯定してしまうようで胸が苦しくなった。
 沈黙がまたひとつ、夜に溶けていく。ふたりのあいだに言葉はなくても何かが静かに、確かに、終わっていく気配がした。

「──じゃあ」
『うん』

 たった一言。それだけなのに、どうしてこんなにも、重く響くんだろう。
 私は指先で通話を切った。ああ、きょうも月が綺麗だ──。
 優しい声も爪先に触れた指の熱も、ふいに重なった手のひらのぬくもりも、ひとつずつ、記憶にしてしまうような気がして泣きそうだった。ほんとうはあんなこと言いたくなかった。でも怖かった。あの人の隣に立ったとき自分の薄さが透けて見えてしまうのが。
 あの人は軽やかで、でも内側に、確かな重さを持っていて……。誰よりも自由なようで誰よりも孤独を知っている人だった。だから、私なんかが近づいていいわけがない。

 それからなんとなく寂しさをまぎらわせるようにコンビニで缶ビールを何本か買ってから自宅へ戻った。音のない部屋が耐えられなくて、意味もなくテレビをつけ、バラエティ番組の軽薄な声をBGM代わりにしながら、一人淡々と酒に酔おうとしたけれど、酔えなかった。忘れたかったのに、忘れられなかった。それは私の体が私よりも先に彼のことを記憶してしまった��証�≠セった。
 携帯を手に取り『ホークスさん』と表示された名前を私はじっと見つめる。そして削除のボタンに指をかけようとした、そのとき──

 ──ピンポーン......

 玄関のチャイムが鳴った。時刻は、夜の十時をまわったころだ。思わず身を硬くしてゆっくりとインターホンのモニターを覗き込む。

「──え、」

 そこに映っていたのは──忘れようとしても、忘れられなかった人。つい先に記憶ごと削除してしまおうとした人。
 私は数秒だけ現実を拒んだ。しかしそこには、たしかに、彼がいる。ホークスさん。我が国の、ナンバー2ヒーロー。そのヒーローの手には赤いラベルのワイン。あの夜、ホテルの床に転がっていたとものと同じ銘柄の、ワインボトルだった。
 私は何も言えず、ただ玄関を開けて、彼を招き入れた。台詞も空気もすべてが静かで、けれど、確実に、私の鼓動は急速に高鳴っていた。

「ど……どうして、」
「偶然コンビニであなたを見かけました。あっ、ちゃんと弁明しとくとストーカーじゃないんで」

「俺、あそこのマンションに住んでて」と、彼は奥に見える高層マンションを指差した。ああ、と私が相槌を打つと彼はふっと目を細めて言った。

「言われちゃいました。大切な人に。何もなかったことにしてくれたら嬉しい、って」
「……っ、」
「でも俺、あれはたぶん、彼女の優しさだったんじゃないかなって電話切ったあと気づきました」
「……」
「自分が不完全だって思って、俺に迷惑かけないように……そう、言ったんですよね?」

 私は頷けなかった。頷いたらたぶん涙が落ちてしまうと思ったから。

「でもね……俺、別に完璧な人に隣にいてほしいなんて一度も思ったことはなくて。俺の隣にいてくれるなら、ちゃんと、心が揺れる人がいい。」

 彼を見ることができなかった。私は、胸の奥でずっと固まっていた言葉をそっと押し出すように言った。呟くようにして。

「でも……私、あの夜のこと、思い出せなくて、曖昧で……自分がすごく、軽く思えて……」

 彼は開けたままでいる玄関の扉に軽く寄りかかるように右足をクロスさせ、少しだけ首を傾げてこちらを見た。その眼差しは、月のように静かに揺れていて、やっぱり、優しいものだった。

「忘れてたのはキスの感触じゃなくて──自分のことを責める、痛みの方だと思いますよ」
「え……?」
「でもそれって、正直な証だよね。俺にとってはすごく、真っ直ぐで誠実な人に見えた」

 沈黙が落ちる。私たちのあいだにふたたびあの日の夜のような空気が差し込んできた。私は背筋が自然と伸びて、でも心がふるえて、ただ、ただ彼のことを、じっと見つめていた。

「さっき、信号で足止め食って、空を見上げたら
──満月でした」
「……それで?」
「気づいたらワイン、買ってました。また二人で飲みたいなぁ、って」
「……」
「──で、あなたのあと、追ってました」
「……」
「もう一度、会いたくて。」

 彼の目はまっすぐで嘘がなかった。その瞳が、私を射抜くようにして言った。

「これが、月のせいじゃないなら──いったい、何なんですかね」
「……さぁ。もしかして満月が魔法でもかけたんじゃないですか」

 ぽつりと私がそう呟くと、彼は、片手に持ったワインのボトルを、そっと玄関の棚に置いた。

「うん、月の魔法。力……重力、ってやつ。人を惹きつける、不思議な力」

 彼はそう言いながらじり、と一歩。私と壁との間の距離が、わずかに削られた。息を呑んだのはきっと一瞬だったはずなのに胸の奥がぎゅう、と何かに掴まれたように重たくなる。焦る気持ちを悟られまいと、私はあえて理屈を持ち出す。

「んー、それはどうかな。知ってるでしょ?月の満ち欠けって太陽との位置関係で見え方が変わるだけで、実際の形は変わってないんです」

 彼はうんうんと言いたげに、聞いているふうを装って鼻先で笑いながら頷いている。……馬鹿にされている、確実に。私は目を泳がせて吃りつつ先を続けた。

「だ、だから……そういうのは、科学的に、説明できるはず──」
「またそうやって、難しくしてく? でもそれ、��真実�≠ネんでしょ?」

 彼の瞳の奥が、くすぶるような光を帯びて私を見つめている。その目は、からかうようでいて、それでもやっぱり、まっすぐだった。

「そ、そう……デス。あきらかに、真実。」
「……ほんとに?」
「うん、ほんとに」
「じゃあさ──結論はこうかな。……これが月のせいでも、魔法でも、運命でもないなら……」

 その声は低く、けれど、優しく、言葉のひとつひとつが、喉の奥で濡れた羽根のように柔らかく舞っていた。私はわざとらしく息を吐いて笑ってみせた。
 この重力はきっと月のせいじゃない。それでも私はこの関係に名前をつけず、また朝が来たら、一人に戻るつもりでいた、それなのに──。

「神様の意思ですかね?引力?自然と、あなたのもとに、引っ張られた?」

 容赦なく注がれた、漏れたようなその声に私の瞳が揺れた。言葉は思考よりも先に落ちてくる。理屈じゃなく空気の流れに触れたような、そんな感覚。
 彼が片方の手をポケットから抜いた。その動作には無駄がなく、そして何より迷いがなかった。ポケットから抜いた指先が空気をかくようにして静かにこちらへと伸びてくる。

「……月ってさ、黙ってるくせに、人の心を引っ張るから。重力って物理的な話だけじゃ済まない気がする」

 その声は、いつもより少しだけ低くて、思ったよりも近かった。気づけば壁との距離があと数歩もない。部屋に入れるはずだったのに、私はその場から動かなかった。逃げなかったのか、それとも……逃げたくなかったのか、よくわからない。だから私は必死に言葉を紡ぐ。

「でも、たぶん……ほんとに。科学的には、説明ついちゃうんですよ。月の満ち欠けだって地球と太陽の位置関係で、見え方が変わってるだけで、実体はなにも変わってない」
「うん、ですね。知ってる。でも──そういう
正しいことって、ときどき無力だよね」

 言葉の奥にくすぶる熱がある気がした。優しい声色に隠して、なにかを確かめようとするような眼差し。私は、自嘲するように吐き出した。

「なんでもないんです、きっと。こんなの……」
「ん?」
「……全部、ただの偶然ですよ。一緒にいた夜もコンビニでそれを買ったのも、いま、こうして、ここに、二人でいるのも」
「……」
「きっと、なにも意味なんかなくて……ただの、連続した偶然」

 そう言いながら自分で喉の奥が少し震えているのを感じた。それでも笑ってみせる。強がりでもほんとうでも──。

「でもさ、偶然が三回続いたら、それはもう──��運命�≠チて、言うんじゃなかったでしたっけ」

 そう言った彼の目元が少し細められる。ああ、たぶん、それは、笑っているのに近い。でもその表情にはなんだかほんの少し、祈るようなものが混じっていた。

「じゃあ──偶然でも、運命でもなくて。俺が、会いに来たって、言ったら?」

 言葉の意味が遅れて胸に届く。それはじわじわと、内側から火が灯るみたいな感覚だった。彼はふっと目元を細めいたずらのような、でもどこか苦みを帯びた笑みを浮かべた。きっと、軽く見せようとしている。私に気づかせないように本当の思いを。だから私はもう、白旗をあげた。逃げるのを、やめることにした。だって、きっとこの人からは、逃げることを許されないと知ったから。

「うん、偶然でも運命でもない。ホークスさんが
……私に、会いたかっただけでしょ?」
「やっと……素直になりましたね」
「うん、もう嘘つく理由もないですから」
「もう、言葉にしなくても、いいんですか?」
「そっちこそ」

 私の問いかけに、彼はゆっくりうなずいた。
そして、笑った。とっても、嬉しそうに。

「うん。今日はもう��どうして�≠ニか、いらない気がするから──」

 そう唱えた唇が、そっと静かに、近づいてくる気配。至近距離、目と目が合って時間が止まる。

「──あの夜、キスはしました。」
「……」
「でも、それだけであなたがいなくなるなら……あんなもの、証になんてならなくていい」

 私は小さく息を呑む。優しい。けれどただそれだけじゃなかった。近くに感じる唇の温度に迷いと決意と、どうしようもない想いのすべてが込められている気がして。
 息が混ざりあうほどの距離で、彼の声が微かに触れた。

「……キスの方が大事って、言ってましたよね」

 私はその声をいちばん近くで聞き入れて、息を整えるようにしてゆっくりと、まばたきをする。

「……はい。いまも、そう思ってます」
「じゃあ今日、もう一度……記憶に残るキス──してもいいですか?」

 その言い方がなんだか可笑しくて。その問いに私は、ゆっくり首を縦に振った。それを確認した彼が私の頬にそっと手を添えた。手のひらがやさしく私の輪郭をなぞろうとしたとき息をするのも忘れてしまった。私は思わず目を閉じて、その、すべてを受け止めていた。
 唇が触れる寸前、視界の端で二人の影がひとつに重なるのを見た。キスは静かに深く始まった。たしかに触れて、ほんの少し離れ、また重なる。互いの温度を確かめ合うように、何度も。唇から唇へ、記憶から記憶へ。これは偶然でも魔法でもない、選び取った��証�≠セった。
 彼の手が私の背を抱いて引き寄せる。私はその腕に素直に委ねて、目を閉じた。部屋の明かりはそのままなのにどこか夜の海に沈んでいくような静けさ。──今度は、忘れない。
 唇が離れたあと彼が額を私の額に重ねる。呼吸が混ざって、肌のあいだにだけ会話が宿る。

「俺のこと……受け止めたってことで、いい?」
「………、うん。」
「じゃあ……これが��あの満月の夜�≠フ続き。」

 そう彼が囁いたとき私はもう、何も答えられなかった。ただ、涙がこぼれそうになるのを、ゆっくりと堪えた。

「……ズルい。する前に訊いてくれたら、もっと困ったかもしれないのに」
「うん。でも訊いたら逃げられる気がしたんで」

 彼はそう言って、肩の力を抜くように笑った。その笑顔があまりにも自然で、だからこそ、私の心は完全に落ちたのだと思う。私の手が彼の胸に触れた。そこには確かに、鼓動があった。ふたり分の呼吸が、重なっていた証──。

「もう一回……してもいい? あの──満月の、夜の、続きを──。」

 今度は私から訊いた。そして、その答えは言葉じゃなくてまたふたたび降ってきたキスだった。
 今度は、絶対に忘れたくない。たとえこのあと名前も関係も曖昧なままだとしてもこの夜だけは記憶の奥に、ちゃんと残しておきたい。

 ──この重力はきっと、月のせいじゃない。
あの夜に引き裂かれた私たちが、ふたたび惹かれ合ってしまうのは、そう、きっと、誰のせいでもない。
 それでも私はこの関係に名前をつけず、今度は朝が来たら、二人でいたい願う。月が満ちれば、また欠けてゆくように、何度でも。





 

今夜は、月が綺麗ですね。


(……忘れないでくださいね、今度こそ)
(……うん。今度は、ちゃんと覚えてる)
(じゃあさ次はどんな理由で会いに来ればいい?)
(もう──理由なんて、いらないよ。)

※Men's by『 I LOVE…/Official髭男dism 』
※Women's by『 I LOVE…/Crystal Kay 』


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