幸福はいつも他人のものだった。誰かの幸せな瞬間を見届けるたびに自分のなかのなにかが少しずつ削られていくような感覚があった。
笑顔、祝福、拍手、誓いのキス。それらすべては確かに美しく完璧で祝われるべき光景だ。私はそれを支える側の人間。袖を整え、指輪の向きを直し、涙を拭うタイミングまでをも演出する。
��完璧な舞台�≠フ裏で、誰よりも冷静に、けれど誰よりも繊細に幸せを仕立てる仕事。
──でも、ふと気づく。
自分自身がその舞台に立つことは永遠にないのだろうと。人を愛することに臆病で傷つくことを避けてきた私は、誰かに「おめでとう」と言いながら、その言葉を自分には向けられないことを、どこかで受け入れていた。
そして彼は──空を背負ったひとだった。その背中には誰かを救うための翼が生えていて、その視線の先はいつも遥か遠くを見据えていた。私のような地を這う者には、とうてい届かない存在。
でも。そんな彼がふと視線を落とした先にいたのが私だったのだとしたら。それはきっと人生がほんの少し軌道を外れて奇跡と呼ばれる方角へと迷い込んだ瞬間だろう。
誰かの幸せを支えてきた私が、生まれて初めて自分のために、幸せになりたいと思ったあの日の夜から、すべては始まった。
*
その日も私は、他人の幸せを滞りなく演出するために、指先まで神経を尖らせていた。
式場の控室では、新郎の母親がドレスの色味について不満をこぼしており、新婦の友人は酔いが回ったのか、高砂の花を摘もうとしてスタッフに止められていた。プランナーである私はその一つひとつに丁寧に頷きながら華やかさと混乱の間に生まれる��段取りの美学�≠�崩さぬよう綱渡りのように笑顔を浮かべていた。
と──そこへ突然、式場のガラス越しに何かが落ちるような影が走った。
「……?」
風を切る音。窓の外──ガーデンの空に一瞬、鮮やかな赤が閃いた。それが、羽根であることに気づくまで、私はまばたきすらできなかった。
ヒーローだった。都市を守る象徴。赤い翼が、夕焼けの空に大きく広がる。その翼の持ち主──ホークスは式場のガーデン越しに広がる歩道へとふわりと舞い降りた。その腕の中には小さな女の子がしっかりと抱えられている。少女がいた位置のすぐそば、ガーデンフェンスを挟んだ反対側の歩道には泥酔したサラリーマン風の男がいて手にした瓶を大きく振り回し叫んでいた。その拍子に瓶が落ち硬い地面にぶつかって鋭い音を立てて、粉々に割れる。飛び散る破片は通りかかった女の子の足元へ、まるで何かを刺すような角度で飛び込んでいった。その瞬間、空から彼が降りてきたのだ。足元の芝が揺れて、ふいに軽やかな足音が響く。
「ごめんねぇ〜、派手に舞っちゃって」
「あ! あれ、ホークスじゃない!?」
「はいはーい、ギャラリーの皆さんも危ないからよいてね〜。お兄さんも、飲み過ぎ注意ね」
声がやわらかく笑う。けれどその瞳の奥には、刃のような集中力と緊張感を含んだ本職の空気が静かに潜んでいた。
「落とし物届けるつもりだったんだけどこっちが急遽、優先任務でしたっ」
テレビやポスターではよく見かけていた顔だ。けれどこれほど近くでしかも��降り立つ�≠ニころを見るのは初めてだった。まるで時間が歪むようだった。
しかし式そのものは進行中のため私は控えめに式場の端から外に出ると足早に式場の階段を降りそのヒーローと少女の元へと駆け寄った。
「だ、大丈夫でしたか!?女の子、どこにも怪我は──」
私の声が思ったよりも震えたのは、焦りよりも彼の目がまっすぐこちらを見ていたせいだった。鋭かったはずのその瞳がどうしようもなくやわらかくて、優しかったから。
「無事ですよ。ね?大丈夫だったよねぇ」
「うんっ! ありがとう〜!ホークス!」
そう笑顔で言って少女は駆け足で母親らしき人のいるところへと戻っていった。その母親であろう女性が、深く頭を下げている。彼はそれに軽く手を振り返して答えていた。
「あなたがここのスタッフさん?」
「……あっ、はい。私は──ウェディングプランナーです」
どこかで見た記憶のあるその横顔はテレビ越しのそれよりもずっと、生々しく生きていた。熱を持って、呼吸をして、風に髪が揺れていることに妙に動揺してしまった。これが俗にいうオーラというものなのかもしれない。
「へぇ……結婚式。俺、行ったことないや」
彼はそう言って笑った。けれどその言葉がなぜだかほんの少し遠くを見つめているような響きに聞こえたのは私の勝手な想像だろうか。なぜだろう。瞬間、この人ともう一度会うような、そんな気がしてしまった。
私はそのとき、誰にも言えない直感を胸の奥にそっとしまったのだった。
*
まだ蝉が鳴いていた。けれどその声にはどこか疲れがにじんでいて、まるで夏そのものが季節という大役を終えようと肩で息をしているようだった。
私は街外れの公園のベンチに腰をかけてコンビニ袋から取り出した缶ビールのプルタブをかしゃんと指先で開けた。仕事帰りの足はヒールがすっかり馴染んでしまって頑張ってきた今日に対するささやかなご褒美のように、その泡は喉の奥へとすうっと溶けていく。そのとき──風が吹いた。それはほんの少しだけ、涼しい風だった。
「おや、先客ありとは……光栄ですねぇ」
その声に私は振り向いた。赤い羽根が夕暮れの空の色に混じっていた。黄昏に差し込むように、彼、ホークスがこちらに歩いてくる姿が見えた。迷いのない足取り。けれどその視線はどこか探るようでもあり、懐かしさを探しに来た旅人のようでもあった。
「ヒーローも、ビール飲みたくなるんですね」
「今日は飛んでないんで、勘弁してください」
そう言って彼は手に持っていたビール缶を軽く翳してみせたあと慣れた動作ですとんと私の隣に腰を下ろした。今日はヒーロースーツではなく、普通のスーツだったらしい彼のジャケットは脱がれていて、白いシャツの袖をまくった腕には汗がきらめいていた。空は、朱と藍が滲んでいくころ合いで私たちはほんのしばらく何も言わずにその色を見つめていた。
「あれからもずっと、忙しかったんですか?」
「あー、はい。ずっと、現実ってやつに追いかけられてましたよ〜」
彼の返事は、前回初めましてで対面したときと同様の軽さを纏いながらも、どこか疲れていた。それが素顔に見えたのは気のせいだろうか。
「あなたこそ、元気に……式、回してます?」
「はい。結婚は、人生の一大イベントですから。私の人生ではないにしても」
自嘲気味のその言葉に、彼はふと目を細めた。視線が私の横顔をすくい取るように流れて、そしてまた空へと戻った。
「……ねぇ、少し歩きません?」
彼の提案に私は一瞬驚いたがなんとなく流されるまま頷いた。ビールの残りを飲み干してなんとなくコンビニの光へと誘われるようにして二人で向かう。手ぶらだったはずの彼がふと立ち止まりレジ横で手に取ったのは、詰め合わせの箱入りのものをひとつと、残りは手持ち花火の袋だった。そして風のごとくあっという間に会計を済ませてしまう。
「あ、こんな歳で買うもんじゃないーって思ってます?」
「はは。いいえ。なんか、似合ってますよ」
私がそう答えると「えー」と、やや不満そうな顔をするヒーロー。でも言葉とは裏腹にたいして気にはしていなさそうだった。私は箱を持つ彼の手からこっそり、袋の花火のほうを引き取った。
先にもふたりで時間を共にした人気のない公園の脇。打ち捨てられたようなコンクリートの階段に腰をかけ、手持ち花火を一緒に選ぶ。
「さあ、どれにします?」
「んー、じゃあ私、これで。」
「えっ!それ、俺の一番お気に入りのやつだったのに〜」
「ふふっ。早い者勝ちですよ、こういうのは」
そんな緩い会話を交わしながら私たちは手持ち花火に火を灯した。蝋燭の火が頼りなく揺れて、花火の芯に小さな火種が灯るたびぱち、ぱち、と命が燃えるような音がした。
「子どもの頃、よくやってたんです。……でも、誰かとこうしてやるのは、久しぶり」
「俺もです。最近はヒーロー活動ば〜っかりで、夏なんて気づけば終わってましたねー」
そう言った彼の横顔に、ふいに影が差した気がした。花火の火が彼の睫毛を照らし、鼻筋を縁取って、どこか物語の一場面のように美しかった。
「でも……終わっていく季節って、なんだか好きです、わたし。」
私がそう呟いたとき、彼は何も言わなかった。ただ、消えかけた線香花火の火玉がはらっと地面に落ちたとき、彼の指先が私の手の甲に、そっと触れた。言葉はなかった。けれどその温度だけはなによりも揺るがなかった。
静かに風が吹いた。その風に、花火の煙がほどけていって二人のあいだにあったわずかな遠慮のようなものまで夏の夜の空に溶けて消えていったような気がした。
私はふと彼の名を呼びそうになって、やめた。それはまだ今じゃない気がして。けれど、きっと遠くない、いつかには──。
最後の線香花火が静かに火を手放すように、
私たちは言葉のない間を持て余していた。けれどその沈黙は決して気まずいものではなくて、むしろどこか心地よく、互いの呼吸を静かに感じ合うような距離に私はほんの少しだけ、目を閉じたくなっていた。
ホークス──いまはまだ、呼べない名前。彼は何も言わずに空を見上げていた。彼の赤い羽根は揺れず、風も今はぴたりと止んでいる。
「……夏、終わっちゃいますね」
私の声は夜気にすうっと溶けていく。彼はすぐに返さなかったけれど少ししてから、ぽつりと。
「……でも、たまには終わる前に、何か残してもいいかもしれないですね」
私が振り向くより早く、彼は、すっとこちらを向いていた。距離はたった指一本分ほど。光も、音も何もなかった。ただ彼の視線と私の心拍だけが、いまのふたりのあいだに満ちていた。
「……しても?」
囁くような問いかけに、私は言葉で応えられなかった。けれど、逃げなかった。目を閉じるでもなくただそのまま。まるで��許す�≠ニいう静かな肯定をまぶたの裏ではなく、頬の温もりに伝えるように。瞬間、唇が、そっと触れた。それは夢をなぞるような触れたかどうかも曖昧になるほどの軽くて、とても、優しい口づけだった。
時間に換算すると、そんなに長くはなかったと思う。ただ、それ以上は何も交わさない、どこか約束のような、それでいて秘密のような。ほんの一瞬、それだけのことだったのに、私は胸の奥が熱くなっていた。
キスのあと彼は何も言わなかった。私も言葉を選べなかった。けれどそれがよかったとか間違いだったとか、そんな単純な判断ではなく──ただ『あの夜だけの秘密』として、心にしまっておきたくなるような、静かな焰だった。
*
会場のロビーに昼下がりの陽が差し込む。窓際の花瓶には試作中のブーケが三種並べられ、私と新婦のあいだにはそのうちのひとつがふんわりと香っていた。
「この組み合わせ、すごくいいですね!チュールレースと合いそう」
「ありがとうございます。新郎様のタキシードとトーンを合わせているんですよ」
新婦はふわりと笑って頷き、喉を潤すように紙コップの水に口をつけた。その手元の動きと入れ替わるように、ロビーの壁に掛けられたテレビがその場の音を少しだけ大きくする。
『──昨日、プロヒーロー・ホークスが出動したのは再開発エリア付近。ビル火災に迅速に対応し住民の避難誘導に貢献しました──』
思わず、反応してしまった。画面に映ったその顔に私の指がブーケのリボンを結ぶ途中で、ふと止まる。赤い羽根。汗の滲む額。けれどどこか、涼しげな笑みと、他の記者や近くにいる自分目当てのファンたちに、軽く手を振る仕草。あの夜、花火の灯りの中で私の横にいた人と今、テレビの向こうで笑っている人とが、まるで別人のように感じられた。
「……あ、そういえば。」
と、隣にいて一緒にテレビの画面に気を取られていた新婦がふいに口を開いた。
「ホークスって結婚の噂、出てるんですよねー」
「……え?」
「なんでも結婚式場の下見?してたらしいですよ熱烈な
「……」
「SNSでも、ここ最近だったはずですよー、そういう噂が立ち始めたの」
テレビを見つめながら新婦が何気なく口にしたその噂話。それは、胸の奥のやわらかな場所に、冷えた指先でそっと触れられたようでもあり。
「ほら、なんか最近以前より人間っぽくなった?っていうか……。そういうとこが恋人の存在ありそうって思われてるらしくて。SNSとかでも私も見ましたよー」
「そ……そう、なんですね」
「あっ、あまりホークス興味なかったですか?」
「ええ……そんなにヒーローのこと知らなくて」
それだけを言うのが精一杯だった。唇が思ったよりも乾いていた。笑うつもりで頬に力を入れたけれどうまく表情にならなかった。テレビの彼は今もしなやかに記者の問いに答えている。『恋人はいらっしゃるんですか?』という問いかけに、映像の中の彼は曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめ『まあ、今はヒーロー活動優先なんで』と、なんとも優等生の回答を返していた。
だけど──あの夜、私にキスをしたときの彼の指先は、そんな��優等生�≠フものではなかった。熱があり、戸惑いがあり、まるで何かを確かめるような呼吸をしていた。なのに私、いったい何を期待していたんだろう。
私は再び手元のブーケに視線を落とす。小さな紫陽花が、指先で結ばれたリボンの中でかすかに揺れていた。気づかれないように深く息を吐く。
──恋が、始まりそうだった。それが実る前に散っただけ。
ただの噂。単純。それだけのこと。誰にだってもちろんファンにだって希望はある。それに彼のような人がキスのひとつくらい気まぐれで交わせないはずがない。でも私はあれを、気まぐれだと思いたくなかった。だからそれが何よりも一番、苦しかった。
*
それは、思いがけず訪れた再会だった。
式場の中庭。ゲスト用の控室へと続くガーデンの小道を私は備品を抱えて歩いていた。ブーケが陽に透けて揺れ、カートに積んだシャンパンの瓶がかすかに鳴る。そしてふと、あの声がした。
「おつかれさまでーす。あいかわらず、キャリアウーマンしてますね」
聞き慣れた、けれど、思っていたよりも一瞬で遠くなった気がするその声に、私は反射的に足を止めた。顔を上げると、そこには彼がいた。
プロヒーロー・ホークス──。キツネのように笑う目元、軽く着崩したヒーロースーツ。けれど今日の彼はなぜだかあまり軽やかではなかった。
「今日も……お仕事のついで、ですか?」
私の声が自然だったかは自分でもよくわからなかった。でも笑顔は崩さなかった。そうするしかなかったから。
「いやぁ、幸せの香りに招かれちゃいましてぇ〜
……なんつって」
「……」
「こーいうのたしか、ガーデンウエディングって言うんですよねー?」
「……はい」
「いやいや〜、ここのプランナーさんもまさか、あなたとは思わず」
「偶然ですね」
やや彼の声を遮るようにそう言って、私は少し笑った。ほんの少しだけ。唇の端だけを引いて、頬の筋肉にだけ力を入れて──けれどその笑みの奥には熱も期待も込めなかった。あの夜には触れないように。何もなかったように。彼がそう振る舞ってくれるのなら私もそうする。もしまた彼と会う機会があったとしたら、絶対にそうするって決めていたから。
「大変お忙しい中、他人の結婚式に寄り道されるなんてさすが人の集まるところを嗅ぎつけるのがお得意ですね。ファンが多いのも納得です」
言ったあと自分の言葉に心のどこかが軋んだ。でも彼はそれには触れず、ただ少し目を細めて、「ですねぇ。まぁ当たらずとも遠からずスね」とだけ返した。沈黙が一瞬流れた。私はその隙間にブーケの中のリボンをそっと指で整える。それは仕事のふりであり、逃げの仕草でもあった。もう私に近づかないでください──声にならないその願いを彼が聞き取ったかどうかは、わからない。
*
その日の夜の空気は花火をしたあの夜とよく似ていた。風がやわらかく、けれどどこか心細くて草の匂いに少しだけ、秋の気配が混じっていた。
仕事を終え、何となく遠回りを選んだ帰り道。あの公園のベンチが見えてきたとき、私は思わず立ち止まってしまった。──居る。なんとなく、予感はしていた。もう二度と会いたくないと思っていた相手が、そこにいたのだ。
「あ、……奇遇?ですねー」
と、彼が言った。夜の灯りに溶けるような声。あいかわらず少し笑みを浮かべたような表情で、でも、その目の奥だけは笑っていなかった。
「仕事帰り……ですか? もしかしてこの公園、ルートに入ってます?」
「……たまたまです」
短く返して私はベンチに腰は下ろさなかった。その代わりに、少し離れた縁石に座って、肩から下げたバッグをそっと抱きしめる。
「あの……俺、さ……ちょっと、聞きたくて」
彼の声はいつものように軽くて、けれどどこか探るようで。私は黙って、その続きを待った。
「と……いうか、気になってることがあるんスよね〜」
その言い方が少し間の抜けた言い回しで思わずまぶたの裏で私はため息を吸い込んだ。
「……そうですか」
気のない返事になってしまったのはわざとじゃなかった。でもわからない。わざとだったのかもしれない。
「……話して、いいです?」
「…………どうぞ」
声に出すのに少し時間がかかった。許可するというより、許してしまったという感じで。
「なんか、前と違うなぁって。別に責めたいとかじゃなくて。その、なんていうか。距離を感じるっていうか……」
「……」
「ただ、なんでなのか全然わかんないから……」
……わからないんだ。
私はその言葉に無意識に目を閉じていた。わかっているくせに。いや、わかっていないふりが、あまりにも上手すぎるだけなのだろう。
「あー、もしかして……」
「……」
「キス──しちゃったことが、原因です?」
「……、」
彼のその一言が空気を切った瞬間、私のなかで張りつめていた何かがぷつりと音を立てて切れた気がした。一拍置いて私は小さく、しかし確かに笑った。それは皮肉というには静かで諦めというには少しだけ尖っていて。
「……ほんとヒーローって、自分のことになると驚くほど鈍いんですね」
その瞬間──確実に空気が少しだけ変わった。笑いながらそう言った自分の声がやけに大人びて聞こえて、それがなんだか少しだけ哀しかった。彼が言葉を飲み込んだ気配があった。けれど私はもう止まれなかった。
「ニュース見ましたよ。あなたがテレビに出てるとこも。『結婚するらしい』って、ファンの間で噂になってるってことも」
それでも軽く言ったつもりだった。冗談みたいな口ぶりで笑い交じりにやんわりと。でもその実胸の奥には鈍い棘が刺さっていてそれを抜けないまま、私はその言葉を吐き出すしかなかった。
「──へっ!?」
彼の顔が驚きに引きつったのを私はぼんやりと見ていた。まるで浮気現場を突きつけられたみたいな顔だ。けれど今の私は、その間すらも許さなかった。
「私、バカですよね」
そう言って笑った瞬間、唇が微かに震えた。
笑っているはずの顔なのに表情のどこかがうまくついてこなかったのだ。
「まさか、自分が……そんな人に、キスされてたなんて……」
情けなくて、惨めで、悔しくて、何より、ほんとうは嬉しかったあの夜を思い出してしまうのが腹立たしかった。
彼がなにか言おうとして、口をもごもごさせている。だけど私の中ではもう決壊していて止まらなかった。
「婚約者がいるのに、平気で他の女にキスとかできちゃうタイプなんですね、我が国の、ナンバーツーヒーローって」
皮肉にもならないほど声が静かだった。自分の中での��好き�≠ェ腐っていく音がした。ピシ、と冷たいものが心の中を裂いていく。すると、彼の目が一瞬だけ見開かれた気がした。でもその反応にすら私はもう期待を抱かなくなっていた。
「え、ほんと……え?婚約者?ちょっと待って、それ、俺──」
「噂、知らないんですか?」
返す声は乾いていた。もう温度のある言葉は、どこにも残っていなかったらしい。
「巷じゃ有名な噂話らしいですよ?ほんと、とことん自分のことには鈍いんですね」
私の声が静かに、けれども痛々しく切り込んでいく。自分でも驚くほど冷静な声だった。でも、その奥で、ずっと泣いている自分の存在も確かにあったから、それは見ないふりをした。
「……だったら、なぜ噂が立ってるのか、少しは自分の振る舞いを振り返ったらどうですか。」
言葉にしてしまえば、もう戻れないと分かっていた。それでも今この場で伝えなければ、自分が壊れそうだった。
「気まぐれでキスして、それをさっさとなかったことみたいにして何食わぬ顔で笑って……それで��距離を感じる�≠チて、あなた……」
そこで言葉が詰まった。それ以上は喉に何かがひっかかって、うまく息ができなくなる。
ほんとうは──ほんとうは『好きになりそうだった』って。でもそんなの、言いたくなかった。けれどそれが、どうしても胸の内側で疼いてしまって、どうにもならなかった。
彼の唇が何かを言おうと動く。でも、私はその言葉をもう聞けなかった。自分の足で立ち上がる。しっかりと背筋を伸ばして。せめて最後くらいは、みっともなくない私でいたかったから。
「……もう、関わることもありません。どうぞ、お幸せに」
それだけを言い残して私は背を向けた。ひとつ深く息を吸い込んで振り返らずに歩き出す。背中に何も感じなかったのは風のせいかそれとも彼の沈黙のせいかわからないまま私は夜の道に溶けていった。
夜風が髪を揺らす。あの夜と同じ場所だった。でも私はもう、振り返らない。二度と、絶対に。
*
彼と最後に会ってから数日が経った。朝起きて仕事に行って、花の仕入れ先と打ち合わせをして新郎新婦とリハーサルを重ねて……。
そのどれにも彼の姿はなかったのに、ふとした瞬間に、思い出してしまう。あの声、あの目線、あの夜風の匂い。ほんの数秒だけ火が灯るように近づいて、そして容赦なく風にさらわれて消えてしまったもの。
自分が思っていたよりもずっと彼のことを信じたかったのだと、気づいてしまった。
公園の前はもうあれから通っていない。無意識に道を変えるたびに自分のなかの意地を確かめているような気がした。もうあの人とは会わない。私のなかではもう終わったこと。そう何度も自分に言い聞かせているのに気づけば歩きながらふと夜空を見上げていたりする。馬鹿だ。ほんとに。
──そんな、夜だった。仕事帰りに立ち寄った式場外に設けてある個人ロッカー。備品を取りに開けると中に、見覚えのない紙袋が差し込まれていた。中身を開けるとまさかの──小さな花火の詰め合わせ。あのときと同じ、線香花火と、少しだけ色付きの吹き出し花火。それと折り畳まれた紙。
『これ、まだあの夜の続きに
使ってなかったですよね。
ちゃんと話させてください。
本当のことくらい、ちゃんと話させてほしい。
あの公園のベンチで待ってます。
あなたが来るまで、いつまでもずっと
俺、待ってますからね。』
……馬鹿みたい。そんなもの、捨ててしまえばいいのに。でも私はそれを握ったまま足を止めていた。そして、結局また、公園に来てしまった。きっと、本物の馬鹿は私の方だ。
彼は予告通りに、そこにいた。待ち合わせでもないのに、ちゃんとそこに座っていた。あのときと同じ姿勢、同じ目線、けれどもどこか、疲れているようにも見えた。
「……ほんと、しつこい系のヒーローさんなんですね」
自分でも驚くほど、声が冷たく響いた。わざとじゃなかったはずなのに言葉の棘だけが妙に鮮明で、どうしようもなかった。けれど彼は、ほんの少しだけ目元をゆるめて息を吐くように笑った。
「しつこい系ヒーローじゃなくて、ウィングヒーローです、俺──剛翼のホークスは。」
その声は、いつものように軽くて、どこまでも穏やかで、だからこそ、胸の奥にひりつくような痛みだけが残った。そんなふうに優しくされる理由なんてもうどこにもないはずなのに。いっそ、冷たくしてくれればよかったのに。その優しさが今の私には、いちばん苦しかった。
「……話がしたいんです。ちょっとでいい」
彼の声はあの夏の終わりの夜と同じく、低くて穏やかで、まっすぐだった。けれど私は、ためらわずに首を横に振った。
「聞くことなんてもうありません。……終わったんですから」
私は言葉にすることでしか、いまの自分を保てなかった。
「はじまる前から、終わってたんですよ。私たちなんて……」
「……」
「今日は──もう私に関わらないでくださいと、伝えに来ました」
彼がなにか言いかけた。でも私はもうその瞳を見なかった。見てしまったらどこかの弱さが顔を出してしまいそうで。
「男なんて、みんなそんなもんです。最初だけです、良い顔するのは」
「……」
「婚約者なんていませんって言いたいんでしょ?噂はただの嘘で、あなただけを見てましたって」
自分でもどこか芝居じみた響きに気づきながらそれでも止められなかった。
「そんなの、いくらだって後付けできますよね。でも私、そんな綺麗ごとを信じられるほど──」
一度、声が震えかけた。けれど彼が何も言わなかったことで、私はその続きを口にできた。
「……ヒーロー、好きじゃ……ないんです」
小さな沈黙が生まれた。そのあいだに彼の指先がほんの少しだけ伸びたのがわかった。まるで、触れるでもなく、ただそっと空気を探るように。けれども私はそれよりも先に一歩だけ下がった。
「……おつかれさまでした。ヒーロー活動、これからも頑張ってください。応援してます」
ひどく礼儀正しくて、残酷な言葉だった。それだけを残して私は背を向ける。足音が夜の舗道に溶けていく。そもそも振り返らないと、最初から決めていた。だってもしあの顔を見てしまったら私はきっとまた、心ごと、崩れてしまう気がしたから──。
それでも背中には確かに届いていた。彼が何も言い返さなかったこと。いや、言い返させなかったこと。そして、まだその場所で、立ち尽くしている気配までも。だから、私のほうから終わりにした。そうでもしなければきっと私はまたどこかで、ほんとうは信じたかった自分を、抱きしめてしまいそうだったから。
さようなら。始まりもしなかった、私の恋心。
好きに、なりそうだった。いや、好きだった。だからもう、二度と会わない。
*
その日、式場の装花にトラブルが出たと連絡があり、私は閉館後の現場に急いで向かっていた。照明が落ちた館内を抜けて、搬入口の脇を通ったとき、視界の隅に、いつもと違う気配を感じた。
……あれ?
ライトに照らされないその一角に、見慣れない花が静かに咲いていた。けれどそれはただ無造作に置かれたものではなかった。配置、バランス、色味──誰かが私のセンスを知ったうえで意図的に組み立てたような、そんな花の群れだった。
近づいたとき胸の奥が、ふ、と鳴った。これは私のためのものだ……って。そう思ってしまった自分に、戸惑いが走る。そして、その花の中央に添えられていた、一本だけの羽根の存在に私は、呼吸を止めた。
──ホークス、さん……?
言葉はどこにもなかった。でもそれ以上の何かが、そこには確かに存在していた。誰かに見せるためではなく誰にも知られないように、それでもたったひとりにだけ向けられた、静かな誠意が、確かにそこにはあったのだ。
私の頬を夜風が撫でる。泣いてなんていない。泣いてなんかない、けど──でも涙より先に心の芯がほどけるような、そんな感覚。どうして……なぜ、言葉にしてくれなかったの。なぜ今、私はこれを、こんなに苦しい気持ちで眺めているの。
……ほんとうは、ずっと。こんなふうにされるのを、待っていたくせに。
私はそっと目を閉じた。さよならを言ったはずなのに、彼の手のぬくもりが今もここにある気がした。
数日後。思い立って訪れたのは市街地から少し離れた場所にある大型の花屋だった。式の下見に使う花材を決めるために、気になっていた品種をこの目で確かめたかった。季節の切れ目のせいか店内は意外と空いていて、冷房と切り花の匂いがよく馴染んでいた。
瑞々しいトルコキキョウを手に取りながら私はふと奥の棚へと歩を進める。そして、そこで気づいてしまった。あの人が、いることに……。
我が国──ナンバーツーヒーロー、ホークス。いや今はもう気安くその名を呼んではいけない。呼ぶ資格も権利も、私にはない。けれど、その、光のように鮮やかな黄色い髪、肩で風を受けるようなラフな服装、そして独特の空気をまとうその姿。花を前にして、どこか、不器用に立ち尽くすシルエットは、見間違えるはずもなかった。
彼も、こちらに気づいた。一瞬、目が合って、お互いにすぐ逸らした。まるで時間が巻き戻ったかのような気まずさ。口火を切ることもできないまま、二人ともただそこに��居る�≠セけだった。
数秒後。彼がゆっくりと歩み寄ってくる。私は心の中で��来ないで�≠ニ��もう少しだけこの距離のままでいて�≠�、同時に願っていた。
「……おひとり、でした?」
それは思っていたよりも落ち着いた声だった。けれど、あの夜の残響がまだ私の中に残っているせいで、私はすぐに返事ができなかった。
「…………あ、はい……」
「……」
「仕事の、合間に……ちょっと、下見です。……お花の」
私の声もまたどこか平坦で間合いを測るような調子だった。そう、あの羽根が添えられた花束のお礼もできないほどに。
「そっか……」
彼がその先になにかを言いかけて、それきりになった。
「あなたこそ……どうして、ここに?」
自分から問うつもりはなかったはずなのに気づけば、そんなことを問いかけていた。その問いが彼を咎めているようにも、自分でもただ聞きたいだけだったようにも思えた。
「あ。えっと……なんとなくスね。たまには花も悪くないかなぁって」
「……」
「贈り物っていうか……ね。そういうのも、やってみたほうがいいのかなーって、思ったりして」
苦笑まじりのその答えに私はどこかで誰に?と喉の奥で詰まらせたが、もちろん言わなかった。
「……似合わないですよ」
「はは。ですよねぇ〜。めちゃくちゃ浮いてるなって、自分でも思ってました」
彼はそう言って、はにかむように目を細めた。その仕草に前に見たあの人懐こさが少しだけ残っていて、それが一層どうしようもなく、胸に引っかかった。けれど、そこでその場の空気が、急に変わった。花屋の入り口のベルが鳴り、私の背後から何かが近づいてくる気配。私が振り返るより早く遠い昔の──あの声が、届いた。
「……あれ? 名前、久しぶりじゃないか?」
「──!」
「まさか、こんなとこで会うなんてな……」
懐かしくて、けれど今となっては思い出したくもない声。記憶の奥に封じ込めていた波が一気に押し寄せてくる。胸の奥がきつく脈打ち指先まで神経がこわばっていくのが分かった。
その声の主が花屋の光の中に、容赦もなく姿を現した。躊躇いもなく、ずかずかと過去を引きずって現れるその存在に私の心臓は跳ね、脈打ち、逃げ場をなくした。意を決して振り返ると、そこにいた──間違いなく、かつての私の元婚約者。襟元を少し崩したスーツ姿は、どこか演出めいていて。そしてそのすぐ横に寄り添うように立つ、あの女。私の記憶のなかでも、最も鮮烈に、最も痛みを伴って刻まれている��裏切りの夜�≠フ相手だった。自然と目が吸い寄せられたその先。彼女のお腹が高くなっているのが服の下からでもはっきりわかった。
──ああ、そういうことか。そういう順番だったんだね。やっぱり、結婚したんだ。
「あれっ!?ホークス!? なに、名前、おまえ助けてもらったのかよ?」
「……」
「ホークス、握手して!」
興奮している元婚約者に流し目だけを送るヒーロー。瞬間、空気が、ぴんと張りつめる。視界の端にホークスさんの姿があることを私は忘れられなかった。元婚約者と彼の現在の奥様、そして、私。さらには、国を代表するプロヒーロー。どう考えても私にとって最悪の並びでしかなかった。
誰もそれ以上言葉を発さなかった。沈黙が重く湿り気を含んで場を支配する。けれども私の中で何かが音を立てて限界を超えた。静かに、けれど確かに微笑んで、私は一歩前に出た。笑っているのは傷の深さをごまかすためか、それとももう、痛みすら通り越してしまったからか。自分でも、よくわからなかった。
「──じゃあ、説明しますね」
少しだけ声を張る。誰のためでもない、自分のために。過去を、自分の手で切り離すために。
「こちら、私の元婚約者です」
視線を向ける。怯まず、まっすぐに。
「そして、隣の女性は……」
間をあけず、目を逸らさず、言葉を置く。
「結婚式の前日、私の婚約者と、私の車の中で、不純異性交遊をしていた、彼の現在の婚約者──いや、もう奥様ですね」
時間が止まったようだった。空気が砕けるような、目には見えない音が空間に走った。誰も動けなかった。言葉を失っていた。けれど私は、はっきりと見ていた。彼、ホークスさんの横顔が、
わずかに強張ったことを。彼の目の奥に、驚きと怒りと、そして、何より痛みが宿ったのを。その優しさが私の痛みを正当化してくれるような気がして、ほんの一瞬、胸が軋んだ。
でも誰も、私を止めなかった。いや──もう、止められなかったのだ。これは私が私自身の傷を初めて声に出した瞬間だったから。
「──じゃあ、私はこれで。トルコキキョウ、
枯れる前に買わないといけないので」
そう言って私はレジへ向かう。後ろからの足音も、声もなかった。でも、たしかに感じていた。刺さるように焼きつく視線が私の背中に突き刺さっていることを。きっとその視線の主は、あの男たちではない。たったひとり、ずっと、あのときから私の変化に気づこうとしていた、彼──ヒーローのものだとわかっていた。
過去のあのとき私は、あの二人に何も言えなかった。でももう黙らない。もう誰にも遠慮なんてしない。私は私の痛みを私の声で背負っていく。そして、ちゃんとこの足で自分の道を歩いていくんだ。
*
たぶん、笑っていたと思う。きっと、ちゃんと笑えていたと思う。あの花屋で。精一杯、皮肉を込めて。私なりに、あれが限界の強がりだった。
『説明しますね。隣の女性は結婚式の前日、私の婚約者と私の車の中で、不純異性交遊をしていた彼の現在の婚約者──いや、もう奥様ですね』
ふふ、と、喉の奥で乾いた笑いが滲んだ。凍りついた空気も、ガラス越しの光が黙って反射していたことも、ちゃんと見えていた。でも、それでよかった。あれぐらい言わなきゃ、あれぐらい、強がらなきゃ、私はきっと、もうとっくに壊れていた。
気づけば、コンビニでワインのボトルを抱えていた。夜の公園のベンチ。人気のないその場所に私はひとり腰を下ろしていた。瓶の口にそっと唇を当てるとガラスの冷たさが妙に心地よかった。胸の熱を静かに冷やしてくれるようでそれだけが今の私の味方だった。
「……あ〜あ、ヒーローでも来ないかなぁ。弱き者、ここにひとりいますよぉ〜……ってね」
酔いが舌を鈍らせて言葉の輪郭が少しずつにじんでいく。と、そのときだった。本当にヒーローが現れたのだ。あの、赤い翼を携えて──。
「……ほんとに、来たぁ」
目を細めると、そこには、華麗に空を舞う姿があった。羽根が風をはらみ、夜の匂いと混ざってほんの少しだけ、秋の気配を運んでくる。
「……ヒーローだぁ!わあ……っ、さっすがですねぇ〜」
両手を広げ冗談めかして笑ってみせた。痛みも悔しさも酔いのせいにすればなんでも口に出せる気がして。
「ねえ、ねえ?��私が来たァ!�≠チて、やらないんですかぁ〜?」
彼は黙ったまま何も言わず、コツンと爪先からそっと地上に降り立つ。まるでスーパーマンだ。
「すごいですね〜、ヒーローって。困ってる人をほんと、見過ごせないんですねぇ。さっすが!」
わざとらしい言葉が口を滑る。でもほんとうは心のどこかでは、助けてほしいと叫んでいた。
「弱きを助け、強きを挫く……ってやつですか?ふふ、すごいすごい。弱き者は、見過ごせないんですねぇ〜、すごい、尊敬しますっ!」
笑いながら、なのにどうしてだろう。涙腺の奥が、ずきん、と痛んだ。私は、私に言い聞かせるように皮肉を繰り返した。すると彼はゆっくりとしゃがみこんだ。羽根も使わず、音も立てずに、ただ、私の目の前に、そっと。
「……飲みすぎです」
「うるさいっ……飲んでなきゃ、やってられないの!」
その言葉に反論はなくただ静かな目が私を見ていた。怒りでも呆れでもない、ただ、痛みを知る人間だけが持つ眼差しだった。私は顔を歪めた。気づけば頬を伝っていた、一筋の涙。
「名前さん、って言うんですね。あなたの名前」
「……」
「教えてくれても、よかったんじゃないです?」
彼の声は、驚くほどやさしかった。あたたかく笑うわけでもなく、からかうわけでもなく、ただ事実を確かめるような声音で、私の名を呼んだ。その響きが、胸の奥にひっそりと、降り積もっていく。
私は視線を落としたまま、何も言えなかった。まるでその名前すら名乗ることを恐れていた自分を見透かされたようで。呼ばれたことで、自分という存在がほんとうに誰かに認められてしまった気がして、息が詰まりそうだった。
「……見た? 今日……あの女」
言葉が震えたのは、寒さのせいではなかった。瓶を握る手に力が入る。唇がひとりでにそう動いて、もう後戻りできないものをこぼしてしまったことを自覚する。目を伏せても記憶の残像は消えてくれなかった。
「私……あの人の婚約者だったんですよ?ドレスも選んで、会場も整えて……全部。それなのに、結婚式の前日に……あの女に、奪われたんです」
言葉が止まらない。止めたくなかった。誰かに聞いてほしかった。惨めで情けなくて、でも悔しくて。黙っていても、涙が止まらない夜だから、なおさら、声にするしかなかった。
「今日……あのふたりを見て。私、笑ってたんですよ?自分でもびっくりするくらい、冷静に」
喉の奥が焼けるようだった。でもそれでも私は笑った。笑って、泣いて、飲んで、騒いで、ただ壊れかけた自分をごまかしていた。
「……ねえ、……ホークス、さん……」
彼の名前を小さく、そっと呼んだ。ずっと胸の内にあったその響き。けれどそれを、こんな形で口にする��初めて�≠ノなるなんて、思いもしなかった。本当はもっと明るい声で、笑いながら呼びたかった。照れながら、何度も名前を呼び合う、そんな日々の中で使いたかった。けれどこの夜、涙に濡れた声で、その名を呼ぶことしかできなかった私は、たぶんもう、どうしようもなく、彼のことを想ってしまっていたのだと思う。
「ヒーローってさぁ……ヒーローって、誰のこと守ってくれるんですか?」
その問いかけに、彼は何も答えなかった。ただ夜の風だけが静かに髪を揺らした。言葉が返ってこない沈黙がまるで何かを肯定するようで、けれどそれでも私はどこかでほんの少しだけ、返事を待っていたのかもしれない。
「弱き者の味方に、酔った女の涙は……救えますか──?」
返ってきたのは沈黙だった。けれどその沈黙は拒絶でも無関心でもなく、まるで、言葉にしないことこそが、いちばん深い優しさであるかのように、ただそこにそっと、寄り添ってくれていた。声に出されなかった答えがいちばん静かに、胸に沁みていった。
「……ごめんなさい。こんなとこで、こんな情けない姿、見せちゃって」
言いながらまた涙が溢れてくる。何度も隠したつもりの傷が、声に出すことで痛みを取り戻していく。
「でも……ほんの、ちょっとでいいから。かわいそうだねって、そう、言ってほしかっただけ……なんです」
彼は何も言わない。ただそのまっすぐな瞳で、私を見ていた。同情ではない。哀れみでもない。あの夜の公園と同じ瞳でただ、寄り添うように。月の光をわずかに返す、その赤い翼が、やさしく揺れていた。言葉よりも沈黙のほうがずっと染みる夜だった。だれかの沈黙に救われることがあるなんて、思いもしなかった。
風が、髪を揺らす。秋の匂いが微かに混じって季節の変わり目が、そこにはあった。
しばらくして、彼はふっと視線を逸らし、それからまた私の方にその視線を戻した。そうして、ほんとうにただひとことだけ囁くように言った。
「……送ります」
短くて、まっすぐで、やさしい一言だった。
それはただの提案でも、義務でもなく──まるで「もうひとりにしません」と、静かにそう告げられた気がした。その声にふれた瞬間、胸の奥に、そっと手を置かれたような気がした。崩れかけていた私の輪郭を、言葉ではなく存在だけで支えてくれるような……そんな、悲しい夜。
何も言えなかった。けれど、立ち上がることはできた。あの赤い翼が、夜風をひとひら纏いながら、まるで迷子の背中をそっと押すように静かに揺れていたから。──それだけで、前へ進む理由には、じゅうぶんすぎたから。
*
夜風に背中を押されるようにして私は彼の横を歩いていた。酔いはだいぶまわっていたけれど、足取りはなぜかちゃんとしていた。コンビニの袋に入ったワインの空き瓶がカランと揺れるたび、心の中のどこかが冷えていくのがわかる。
私のマンションの前まで来て彼が「じゃあ」と言いかけたとき──私は立ち止まってふいに口を開いた。
「……あがって、いきますか?」
自分でも驚くほど、自然な声だった。もちろん変な意味じゃない。けれど彼はほんの一瞬、目を見開いて、そのあと、表情を緩めた。
「年下の男の子を、どうこうしようってつもりはないので……安心してください」
そう言いながら、ほんの少しだけ目を伏せた。強がるしかなかった私のせめてもの礼儀だった。
「……コーヒーくらいなら。その……お世話に、なったので」
声が揺れていた。感謝を隠すように何気なさを装ったその一言に、彼はふっと目元をゆるめた。
「じゃあ──コーヒーだけ、いただきますね」
静かに返されたその声は、やさしくて、でも、どこか、名残惜しげで。ほんとうにコーヒーだけで終わることをどちらもわかっていたのに。それでも今はそれでだけで十分だと、そう自分に言い聞かせた。
エレベーターの小さな箱に揺られながら、私は何度も指先をぎゅっと握りしめては開いた。部屋の前に着き、鍵を回す音がやけに大きく響いた。玄関の電気のスイッチに手を伸ばして、けれど、つけるのをやめた。光が今夜はどうしても眩しすぎる気がしたのだ。暗闇の中を手探りで歩くことにはもう慣れていたし、むしろ今夜は、この闇に身を沈めてしまいたかった。
私はソファに腰を下ろし、コートを脱ぐこともバッグを置くことも忘れたまま、まるで時が止まったように動かなくなった。玄関にはまだ誰かの気配。彼、ホークスさんは、しばらくそこに立ち尽くしていた。迷っているようでもあり、何かを計っているようでもあり。やがてためらいがちに足音が近づいてくる。その足取りは、やさしくてひどく、静かだった。
「……大丈夫?」
低く、問いかける声。私は無言のまま首を横に振った。強がって、嘘を吐く気力すらなかった。彼はただ私と少し距離を取って、その場に立っている。ただそれだけだった。言葉ひとつ発さず、息遣いひとつ乱さず──けれど、その沈黙がどんな慰めの言葉よりもいちばん、あたたかかった。だから私は話し出していた。まるで、ずっとその瞬間を、待っていたみたいにして。
「……どうして、って思うんです」
声が震えていた。涙ではなく自責の念で声帯が揺れているのが自分でも分かった。
「私、あの人に何か、悪いことしたのかなって。仕事を頑張りすぎた?素直じゃなかった?可愛げが、なかった……?」
ひとつひとつ自分を責めていた日々があった。そうやって自分を責めることでしか、心の均衡を保てなかった日々があった。
「でもあの人……言ったんです。『お前といると息がつまる』って。私じゃなかったんですよね、きっと彼の、運命の人……」
こぼれ落ちた涙は頬に触れる前に心を濡らしていた。私の声はかすれていた。でも止めようとはもう、思わなかった。
「結婚式の準備、誰より丁寧にしたのに。ブーケの色も彼の好きな花にしたのに。……全部、意味なかったんですよね」
彼はなにも言わず、先の公園のときと同様に、ただそっと、私の正面にしゃがみ込み、私の髪に触れた。額から耳の後ろへ、指先がなぞるように滑っていく。その仕草に涙ではなく息が漏れた。やさしいというよりも確かめるような祈るような手つきだった。私は、言葉ではもう何も返せず、ただただ彼の前に身を預けるようにソファに倒れ込んだ。
窓の外、月が静かに、夜を照らしている。その柔らかな光が、ふたりのあいだに流れる空気を、ひどく優しく照らし出してくれていた。
「ワイン、ラッパ飲みして……怒ってるくせに、ちゃんと、泣ける人だったんですね」
「……っ」
「俺、安心しました」
その言葉に私はようやく涙を許せた気がした。泣かないってずっと決めていた。泣いたら負けだって。裏切った彼と、奪った彼女に『勝った』と思わせるのが悔しかった。だけど今はもう、誰にどう見られても、かまわなかった。だって、いまそばにいる人は、ただ見てくれる人だった。見て聴いて、黙って、私の心が戻るのを、待っていてくれる人だった。
彼は沈黙のまま、私の髪に触れ続けてくれた。その指先がまるで「吐き出してもいいよ」と言ってくれているようで私はようやく長いこと誰にも届かなかった言葉を掘り出せた。
「……彼女は、ただの友達だって。そう、言ってたんです……彼。堂々と、胸張って」
声が少し震えた。でも止めない。今これを言わなかったら、私はこの先もう二度と、自分を肯定できなくなる気がしたから。
「でもね、変だなって思ってたの。女の勘って、当たるんですよ……迷信なんかじゃない、ほんとに……当たるんです」
泣き笑いみたいな声が漏れた。誰にもぶつけられなかった記憶の断片たちが、ぽろぽろと零れていった。
「彼女ね、パーティーまでしてくれたんですよ。祝福してくれて……全部、嘘だったんですよね。罪滅ぼし。私に許されようとしてた。ずるいな」
指が震える。そしてあいも変わらず心もずっと震えていた。
「私、何を信じてたんだろう。あんなの見抜けたはずなのに……気づくべきだったのに、私……」
「……」
「大事なことはいつも言わないくせに、誰にでも簡単に��好き�≠セけは軽々しく言える人でした」
「……」
「ほんと……ひどい男だった……」
ぽつりとやっと出たその本音はこれまで何度も喉まで上がってきては呑み込んできたものだった。でも今、やっと口にできた。その痛みごと、肯定できた。相手を悪く言いたくない、私の見る目がなかっただけ。そんなふうに言い訳して逃げてきた。でも今ようやく、ちゃんと傷を指させた気がした。
彼は何も言わなかった。ただ、指先が少しだけ深く、髪を撫で続けてくれた。心臓の鼓動がそのやさしさに乗って、静かに波打った。けれど次に自分の口から出ていった言葉は、声というよりも吐息のような声だった。
「……でも、原因は……私かも」
そのひとことが、喉の奥からすっと漏れた。
「きっと私がダメな女だから。私に魅力がなかったから可愛げがなかったから彼も見限ったんだと思う……あんな女にすら、負けるような女だったんだよ、私なんて……」
その瞬間、彼の手がぴたりと止まった。そして低く深く、でもはっきりと──声が響いた。彼の声がようやく、その沈黙を破った。
「──違います。」
その言い方がいつもの軽やかさではなかった。どこか強く、苦しく、そして、必死だった。私は目を開けた。彼が私を見下ろしている。いつもみたいな飄々とした目じゃなかった。慈悲に満ちたそれでいて何かを今にも壊してしまいそうなほど真剣な、そんな目だった。月の光だけを背負って静かに、でも迷いなく、その瞳に射抜かれるだけの私。
「そげんことなか……馬鹿なこと、言わんでください」
「……」
「あんたは──ばり、魅力的な女性ばい」
言葉が、心にすっと入ってきた。彼の声が胸に染み入る。優しさと、怒りが同居する声。自分を傷つけないでほしいと、これ以上自分を、悪者にしないでと彼が私に代わって代弁してくれているようだった。
「ねえ、こっち見て?」
彼の指先がそっと私の頬に触れた。震えるようにやさしくて壊れそうな私をすくい上げるような温度だった。触れた瞬間、胸の奥が、きゅうっと軋んだ。
「いいです?身代わりは、あん彼女ンほうたい」
「……」
「彼はあなたの隣にいながら、あなたの代わりを見つけただけです。あの男は、ちゃんと、あなた自身を見てなかった」
「……」
「でも俺は違う。俺は、ちゃんと、見てます……あなただけを、ずっと──。」
私はもう、言葉を出せなかった。涙が静かに、止めどなく流れた。こんな夜が来るなんて思ってもいなかった。傷をさらしても、誰かが逃げずに隣にいてくれるなんて、夢にも思わなかった。
こんなの……ただの、本物の��ヒーロー�≠セ。
「それに、あっち……けっこうお腹まわりにお肉ついてましたよ?比べもんになんないっス」
「……それ、赤ちゃんだよ、お肉じゃない」
「知ってます。でもあなたのほうが、何百倍も、何千倍も、いや……何億倍もスタイルいいんで」
息が詰まる。涙がまた溢れる。髪を撫でる手はもう震えていなかった。私はそのぬくもりの中でようやく自分の泣き場所を見つけた気がして胸が詰まった。
「だって──彼は、本当は最後まであなたといたつもりだったんでしょ?」
「……」
「そんな人のとなりにいて、あなたのふりをした彼女はきっと……あなただったら言わないことを言って、あなたならしないふうに笑って、それでしか、あの男を繋ぎ止められなかったんですよ」
彼の声は不思議なほど静かで、穏やかだった。年下のくせに、軽やかなくせに、ただのヒーローのくせに……なのにどうしてこんなにも沁みるんだろう。その想いはまるで、風のようにまっすぐ胸の奥へ吹き抜けてずっと閉ざしていた扉の鍵にそっと触れてしまったようだった。
「あなたは……誰かの代わりになんてならない人ですよ。ずっと前から特別で……ちゃんと自分の足で立ってる、立派な、唯一無二の女性です」
どこかで壊れた感情が、ぽろぽろと音を立てて落ちていく。私はようやく、声を上げて泣いた。その傍で彼は、何も言わずにただ私の手を握り、涙が静かに乾くのを、ずっと待っていてくれた。
*
彼の手がまだ私の髪に触れていた。撫でるでも掴むでもなく。ただ、そこに置かれているだけのような、ぬくもりを確かめるための、やわらかな指だった。
私は仰向けのまま、目だけを上げて彼を見た。月明かりが彼の睫毛を縁どっている。誰もいない夜、誰にも知られないままこんなにも近くに彼がいてくれることが不思議で、だけど、心からありがたかった。
あと少し──あとほんの数センチで、唇が触れあう距離。何も言わなければきっと、このまま。しかしその瞬間、彼の睫毛がふ、と伏せられた。
「……もう、遅い時間ですね」
彼が、そっと視線を外した。私は言葉を返せなかった。ただ、まばたきだけが遅れて落ちた。
「俺、帰ります」
「……」
なぜか胸の奥が少しだけ軋んだ。引き止めたいわけじゃなかった。でも、このまま夜が終わってしまうのが苦しいくらいに寂しくて惜しかった。
「……じゃあ、玄関まで」
私はそう言って、そっと体を起こした。けれど脚の芯にまだ酔いの名残が絡みついていたのか、立ち上がった瞬間、ふわりと重心が揺れて、前につんのめってしまう。
「っ──、」
──そのとき、すぐに抱きとめられた。迷いのない動きで、彼の逞しい腕が私の腰を引き寄せ、体が自然と彼の胸に預けられる。肩と肩がわずかに触れて、その距離に息が少しだけ熱くなった。
「……ゆっくり休んでください。いいですね?」
彼の声が、すぐそばにあった。優しくて、遠慮がちで、だけど少しだけ揺れていたその声。それでも私は彼の腕に甘えず自分の足で立ち直った。この夜に、何かを預けすぎてしまわないように。
彼と並んで、玄関まで歩く。その間の数歩が、なぜかいちばん、長かった気がする。
「……私、自分が恥ずかしい」
ぽつりと出た言葉は、独り言のつもりだった。でも彼はすぐに拾い、返してくれた。
「いいんですよ。たしかに今日は……ちょっと、乱れてましたけど」
そう言って、彼はふっと笑った。しかし茶化すでもなく、ただ見守る側のままでいてくれるその声に、私はようやく、口元だけを緩めた。
玄関のドアを開けると、夜の空気が流れ込んできて、それは、彼がここにいるあたたかさとは、まるで対照的だった。
「……大丈夫?」
靴を履きながら彼がふとこちらを見て、静かに尋ねた。
「たぶん……」
私は微かに笑って返事にならない返事をした。言葉の代わりに小さく頷くように彼の肩が動いたのがぼんやりと見えた。けれどその一歩が思ったよりも遠くて私はそっと柱に寄りかかった。心の奥にまだ波紋のように揺れているあたたかい余韻と、ほんの少しの名残酔いに、体の芯がまだ頼りないままだった。
「アスピリンと水を飲んで、それから……明日の朝に一杯、景気付けのビールを」
おかしなアドバイスだった。思いがけず笑ってしまう。でも、なんだかその軽さに救われる夜。
「ふふ……わかりました」
「うん。──じゃあ、おやすみなさい」
「……うん、おやすみなさい。」
彼が外へ出てドアの先で一瞬だけ振り返った。でも言葉はもうなくて、そのまま、足音が静かに遠ざかっていった。
私はすぐにドアを閉めなかった。ほんの数秒間彼の気配が消えるのを確認するように今日のこの夜の静けさを、聴いていたかったから。
──今夜は、ここまで。あたたかいとも苦しいとも言えない、ただ一筋の優しさだけが、部屋に残された夜だった。
静寂がそっと戻ってくる中、私は彼に言われた通りに冷蔵庫を開け水のボトルを取り出す。流しの脇に置いたグラスに注がれる音がどこか遠くで鳴っているようだった。氷が喉を滑る感覚に重く澱んでいた感情がほんの少しだけ、和らいだ気がした。
そのときだった。ピーンポーン、と玄関のチャイムが鳴る。不意に胸が跳ねグラスを持ったまま振り返る。深夜の無音を破るにはあまりにも静かな音だった。こんな時間に、誰?……でも、思い浮かぶ名前はひとつしかなかった。さっき確かに『おやすみ』と言って、去っていったはずの人。なのに私の手は迷いなくドアノブを掴んでいた。不用心にモニターも見ず鍵を開けてしまうほどの
ドアの向こうにいたのはやや息を切らしながらドア淵に片手をついて立つ、国を担う、ナンバーツーヒーロー、ホークス。剛翼のその人だった。
「……公園。──あの夜の、公園の花火、」
「……え?」
「あの日を……思い出したり、します?」
不思議なほど静かで、でも、どこか必死な声だった。私の心の奥をそっとノックしてくるような声音だった。言葉を返せなかった。返したら何かが崩れそうで。もう、戻れなくなりそうで──。
「……俺は、あなたのことを知らない」
ふと、彼の視線が私の輪郭をなぞる。そっと、静かに、確かめるように。
「あなたの両親の名前も、普段コンタクトか眼鏡なのかも。なんで今の仕事を選んだのかも──」
言葉の隙間に胸の奥が締めつけられる。けれどその声は途切れることなく続いた。
「……でも──」
ほんの少し、彼は息を整えてから、まっすぐに言葉を置いた。
「でも、あなたの顔の形と目の輝きは、ちゃんと覚えてる。……ずっと、忘れたことなんてないんです。記憶の中に、ちゃんと残ってます」
その言葉に胸の奥が静かに疼いた。言葉にされることでなかったことにした感情が、また浮かび上がってきて、胸の奥にじんわりと滲んでくる。
「それから──あの日。あの夜の公園。あの……小さな、手持ち花火と……それと……」
彼は一瞬、言葉を飲み込むように間を置き──
「その、やわらかい……くちびる。」
そして、恥ずかしそうに、それでもどこか誇らしげに、綺麗に笑った。
「最高に、楽しかったです」
その一言に、私は目を伏せた。涙がこぼれそうだった。頷いたらすべてが流れてしまいそうで、もはや、息をするのもこわかった。
「……ねえ、何か、言ってください」
彼の声は、前よりずっと近かった。でも私は、息を止めたまま喉に残った氷水の冷たさを抱えていた。
「ああ……困っちゃう、なぁ……」
「え?」
「ほんと……結婚できない、男性ばかり。なんでかなぁ……」
そう言いながらも私は彼を見ていた。目を合わせたまま笑ったつもりだったけれど、声は思っていたよりも、ずっと震えていた。
「……
その言葉に、彼の瞳が静かに揺れる。けれど、動かない。私の言葉をただ真正面から受けとめるように、じっと立っていた。
「私と同じような思いをしてしまう女性を、これ以上、増やさないであげて」
私の声が夜気に乗って静かに届いた。弱くて、とても頼りない声だったと思う。でもその奥に、もう誰にも触れてほしくない傷跡が滲んでいた。
「あなたのこと、愛してる。……だからお願い、幸せになって」
唇がかすかに震えた。最後の言葉は、私の意地だった。愛しているから、引き止めない。愛しているから、手を放す。私なりの��愛の美学�>氛�
「……帰って」
私は、震える指先でそっとドアに手をかけた。彼は何も言わなかった。けれど、ひと呼吸のあとまるで静かな羽ばたきのように、そっと言った。
「名前さん」
「……ん?」
「……おやすみなさい」
「……うん、おやすみ」
それは夜のしじまに沈んでいく声だった。余韻だけが心の奥にやさしく灯って、消えなかった。
私はドアを静かに閉める。音を立てないように今夜のすべてを、そっと封じ込めるようにして。
閉め切った扉の背に凭れて、ゆっくりと、目を閉じた。涙がひとすじ、頬をすべり落ちていく。もう、届かない。けれど、ちゃんと伝えられた。それだけで今夜はひとりでも、眠れる気がした。