※原作ネタバレ+捏造のため閲覧注意。原作を未読の方はご注意ください※
繁忙期という名の長いトンネルに、私は両足を突っ込んだまま、戻る術も忘れてしまっていた。仕事の企画書作りと車の免許取得に向けた教習所通いという性質もリズムも異なるふたつの負荷を私は一身に引き受けていたのだ。
秋とは名ばかりの生ぬるくて重たい空気が肌にまとわりつき、ふいに頭がぼんやりと霞むなか、駅へと続く雑踏の中を俯きがちに歩いていたとき人の流れの先が、滞っていることに気がついた。足を止めて目を凝らす。そこで私は、あの人──相澤消太を見つけた。
黒ずくめの服に身を包み、風の匂いと同化するように静かに佇むその人は、隣に立つ若い女性と並んで歩いていた。栗色の髪にゆるいウェーブをかけ、化粧は華やかで、口元には何かを楽しげに語る笑みが貼り付けられていた。まるで対照的なふたりだったのに、それでもどこか、釣り合って見えたのは彼の放つ独特の余白が隣に立つ誰をも引き立ててしまうからなのかもしれない。
私は無意識にその場から逃げようとしていた。気づかれずに通り過ぎてしまおう、あるいは……このまま見なかったことにして。けれどその瞬間目が合ってしまった。音もなく、引き寄せられるようにその人の深いまなざしと私の目が、ほんの一瞬だけ、交錯した。
彼が駅前の有名店で買ってくるジェラートは、きまって二種。ミルクとラズベリー。ドライアイスの冷気に包まれて届く白と赤の二重奏は、もう何度目だろうかと頭を捻る。冷凍庫の引き出しは小さく鶏肉と冷凍ほうれん草、そして去年の切り餅のあいだに、彼が持ってきたそれらを押し込む作業が、もはや儀式のようになっていた。
「また来たんだ、そのジェラート」
「今日で今週、二回目になりますかね」
そう言いながら彼は気だるげに、しかし迷いのない動作で私のベッドに潜り込む。彼が我が家にくるのは突然で理由も告げず、まるで帰巣本能のような感覚でふらりと現れる。きっと、彼のなかでは『来てはいけない理由』が見つからない限りこうして懲りもせず、来てしまうのだろう。
「何時に起きる?」
「……起こさなくていい、おやすみ。」
「うん。おやすみ」
その声はまるで、湯気のように立ちのぼって、すぐに天井へ消えていった。私は諦めてラズベリー味のジェラートをひとつ開け小さなスプーンを手にしてフローリングに座り込む。ワンルームのこの部屋には彼の眠る空間と私の作業スペースの境がない。だから電気を消しパソコンの光だけを頼りに、私の夜は始まる。
彼は眠っているときだけ、幽霊のように気配が薄くなる。さっきまで存在を主張していた、その空気が、すっぽりと欠けてしまったように静まり返るのが少しだけ、不思議だった。キーボードを打つ手を止めふと背後を振り返る。仰向けになった彼の頬に、モニターの光がさざ波のように淡く揺れている。私はその横顔をただ見つめた。そしてまた画面に向かってキーボードを叩いていると肩の後ろから、ぬっと手が突き出てきた。
「……うわ!」
肩に伸びてきたその手の冷たさに思わず小さな悲鳴をあげる。心臓が跳ね上がるのが、自分でも分かる。
「ごめ、ん……起こし、ちゃった?」
「いや……今、何時だ」
掠れた声。画面の隅の時計を見て答えると彼はわずかに眉根を動かして、目を細めた。まるで、寝起きの猫のように。
「なに。ジェラート食べてたの」
ミルクとラズベリーは彼の中では私の大好物となってしまっている。毎度同じものを持ってくるあたり、それはもう習慣なのだろう。私は笑いもせずに曖昧に頷く。
「水、もらっていいかい」
「あ、うん。ちょっと待ってて」
冷蔵庫の前で水を注ぎながら私の胸のなかには言葉にならない泡のような感情がふつふつと立ち上がる。彼が、私の部屋のベッドに仮眠を取りに来ることは、日常生活の一部になるほどよくあることだったが彼は寝て起きればすぐにいつも出て行ってしまう。だからこうして、ベッドのふちに腰かけて、私の部屋の壁をぼんやりと眺めているこの人に対してどう反応すればいいのか私は分からなかった。また何も言えなくなってしまった。こんなにも、近くにいるのに。
「──今日、駅前にいたろ」
その一言が心のどこかを鋭くえぐる。私はできるだけ淡々と、教習所の話をする。彼は笑って、助手席に乗ってやるよと、無邪気に言った。あのとき隣にいた女性の影がふと脳裏をよぎる。彼女の髪型、明るすぎるワンピース、そして彼の横顔──そのどれもが私の中の何かを静かに、しかし確かに削いでいく。
「どう? 仕事のほう」
今度は床にごろりと横たわった彼が、気づけば私の膝に頭を預けている。その温もりに呼吸すらうまくできない気がしてくる。膝枕──昔はよくしていた。でも、いまのそれは、全然違う。
「……お前ならうまくいくよ」
そう言ってくれるその声に私は一瞬だけ自分を信じたくなる。けれどすぐに他の誰かに同じ言葉をかけている自分勝手な想像が頭をかすめてしまい、またひとつ、呼吸が苦しくなった。
私が好きなのは、この人の言葉ではなく、この人そのものなのだ。だから傷つくたびに、どうしようもなくなる。
「…………おっと、寝ちまいそうになった」
「寝てもいいのに。」
「いや、もう行くよ」
彼は立ち上がり、私もそれに続く。玄関までの短い距離が今日ほど長く感じたことはない。靴を履く背中を、私はただ、見送る。
もしここで「好き」と言ってしまったら。その一言がすべてを壊してしまうのではないかという怖れが、喉の奥でずっと私を締めつけている。
「またね、名前」
「……うん、またね」
それが、精一杯だった。扉が閉まる音を背中で聞きながら私は、冷凍庫の奥に残るジェラートの山を思い出す。そうして、静かに、吐息をひとつ落としたのだった。
*
「……おい……、どうした」
部屋のドアが開いた瞬間、私の目のまえに差し出されたのは、あの馴染みある、ジェラート屋の白い箱だった。季節が変わってもイレイザー──彼は決してそれを変えない。中身はたぶんきっとまたミルクとラズベリー。彼が私の顔を見るなり足を止め、片眉をわずかに上げる。
「顔、真っ青だぞ。……熱?」
違う、そうじゃない。体じゃなくて心が風邪をひいてしまった。言葉にできないまま私は、パソコンのモニターを、無言で指さした。表示されているメール画面、その一文だけが白い部屋に異物のように浮かんでいた。
『今回は企画を見送らせていただきます。』
たったそれだけ。けれど、それは私にとって、砂上の城が静かに音を立てて崩れる瞬間だった。
「……ああ、見送り、か。上の判断ってやつ?」
「……うん」
やっと絞り出した声に、彼の方が小さく吐息をついた。
「まあ、あるだろ。俺もヒーローの推薦、何度も落としてるしね。あるよ、そういうの」
「でも……でもこれは……私の、全てだったの」
大学で学んだこと、夜を削って調べて組み立てたアイディア、上司に何度も修正されながら作り上げたたったひとつの結晶。それがメール一通で『不採用』となった。その現実の重さに私は抗うように言葉を重ねるが彼はただ静かに、私の前の床にジェラートの箱を置いて、ベッドの端に腰を下ろした。
「まあ……ダメだったもんは、ダメだからな。
気持ち、切り替えていこうぜ」
「……そんな簡単に、切り替えられないよ」
どこか呆れたような口調だったけれど、責めているわけではないこともわかっている。
彼はいつもそうだ。言葉は厳しくてもその手は優しい。私の頑なさも弱さも、彼は全部わかっているのだ。
「目、赤いぞ。……泣いた?」
「……泣いてない。目にゴミが入っただけ」
「ゴミ……ね。だったらこっち向いてみろ」
「……向いたって、上司の気が、変わるわけじゃないもん」
「お前ほんと、そういうとこ変わらないね……」
苦笑まじりの低い声。床に座り込む私の隣に、彼が腰を下ろし、その手が私の背中をぽん、と、軽く叩いた。涙がぽろりと膝に落ちる。ああ……どうしていま、彼がいるんだろう。いなければ、私は泣かずに済んだのに。そう思った次の瞬間にはもうその気持ちすらどうでもよくなっていた。泣けることが、逆に救いだったかもしれない。
「よくやったよ、お前は。俺はちゃんと見てた」
声に熱がなかったのにその言葉だけは胸の奥にぽたりと落ちて静かに染みていく。私は彼の顔を横目で見た。……笑ってる。私が泣いてるのに。なに、どういうこと。どうして、笑うの……。
「……私、頑張ったのに」
「うん、知ってるよ」
「それなのに……なんで、報われないの……」
「報われなかったんじゃない。まだ終わってないだけだ」
頭を撫でられる感触。びくりと、肩を震わせた私の顔が彼と近づきすぎて、私は慌てて目を逸らす。あの女性だったらこんなとき、素直に甘えてたぶん──抱きしめてもらえるんだろうな。
「……ありがと。慰めてくれて」
ぶっきらぼうに顔を背けてしまう自分がまるで子供みたいで情けない。わがままを言って拗ねているだけのような姿は、きっと、見ていられないほど幼稚だっただろう。けれど、どうしてもこみ上げてくるこの気持ちは、そう簡単に押し込められるものじゃなかった。結局、私の願いなんて、ひとつも叶わない。そういうふうにできているんだろうな、私の人生は。そういう星のもとに生まれた人間。選ばれない側の人間。このままいまの会社に居座り続けてイレイザーのことを心のどこかに残したまま、良いのか悪いのかもわからない誰かと結婚して、それで十年後にはきっと、すべてをぼんやり忘れて当たり前の顔して他の誰かの隣にいるのかもしれない。
そんな未来を思い浮かべたら、さっきまであれだけ止まらなかった涙が、不思議とすっと引いていった。だけどその代わり、心の底がどこまでも沈んでいくような、そんな陰鬱とした感覚だけが残った。もうやだ。無理。このまま、消えてしまいたいよ。
声にはならなかった言葉が喉の奥で揺れて吐き出されることなく消えていく。私は、かろうじて微笑んで、でももう笑えていない笑みで言った。
「本当にごめんね、もう大丈夫だから。……寝に来たんでしょ?」
そう言いながら、私は彼の頭を撫でていた手をそっとやんわりと押し戻した。その指先にほんの少しだけ触れた熱が、なんだか申し訳なくて苦しかった。
たぶん、ほんの少しだけの八つ当たりだった。けれど彼の顔が、明らかに曇ったのが分かった。さっきまで、つい数分前まではあんなにも皮肉げな笑みを浮かべていたのに、今の彼は不機嫌そうに、ほんのわずかに顔をしかめていた。まるで、こっちが勝手に終わりの線を引こうとしているのが気に食わないとでも言いたげに。声には出さずそれでも、確かにそこにある不満のようなもの。イレイザーヘッドは、そういう人だ。怒鳴ったり責めたりはしない。けれど無言の圧をじわじわと感じさせる。そしてきっと、私の表情のどこかに宿った諦めを、見逃さずにいるのだ。
──だから。私は彼の顔をもう一度しっかりと見て言葉の続きを探すことにした。消えてしまいたいなんて言葉の代わりに、まだそばにいたいと伝えられるような、そんな続きを。しかし、次に出てきた言葉は、私の予想を大きく裏切った。
「──……帰るよ。今日は」
「え、なんで?気にしないで寝ていってよ。……大丈夫だから」
「そうは見えないね。俺が居ちゃ、余計な気遣いさせるだけだろ」
「え? そんなこと言ってない……!」
「……こういうときは、好きなやつにでも慰めてもらえ」
は……?なにを、言ってるんだろう、この人。一気に、頭が真っ白になった。
「……え?」
「お前、最近好きなやつできたろ?」
「は? ち、ちが………」
「山田も言ってたぜ。『最近名前ちゃん、綺麗になったよなぁ』って」
そう言ってあえて口を滑らせた彼はきょとんとした私の顔を見て、どこか強張った目を細めた。
待って。冗談じゃない……違う。違う。違う。私が好きな人は、目の前にいる──あなた以外、ありえない。
「……イレイザー、は……ねぇ……」
言いかけた言葉を飲み込みながらそれでも私は勇気を振り絞って言った。
「イレイザーはいいよね、自由で、かっこよくて人望もあって、モテて……それに、素敵な彼女もいて」
「……はい?」
「私なんか、ジェラートだけで暇つぶしされてるだけなんだよね」
その言葉に、彼の細い眉がぴくりと動いた。
「なに言ってんだ、お前……」
「私みたいなバカに出来る相手もいるし満ち足りてるよね、楽しいだろうね」
「……」
「私、バカだから。すぐ期待して、すぐ落ち込んで……それで、いつもイレイザーに甘えて……」
「……」
「──帰って。もう、二度と来ないで!」
言い切った瞬間、自分の中の何かが壊れた音がした。彼は無言のまま立ち上がり玄関に向かう。すぐに扉が開いて、バタンとその扉が閉まる音がいつになく重く、遠くに聞こえた。まるで心臓を叩かれたような衝撃だった。私はその場に、膝を抱えてうずくまる。
冷凍庫には入りきらないジェラート、目のまえには溶けかけた紙の容器。触れると、じんわりと温かくなっていて私の失敗をなぞるようにそれは崩れていく。ごめんなさい、ごめんなさい。胸の奥で、何度もそう叫びながら、けれど声にはならなかった。
言わなければよかった。ほんとうは彼の優しさが嬉しくてたまらなかった。好きだから、素直になれなかった。それだけなのに。
「……っ、」
……言おう。追いかけて、全部話そう。言葉にして伝えなければ、もうきっと戻ってこない気がする。──そう思って立ち上がった、そのとき。
──ガチャ。
ドアが開いた。
そこに立っていたのは、さっき、たしかに出ていったはずのヒーロー、イレイザー・ヘッドだった。私は硬直して、まるで、幽霊でも見たような目で彼を見つめた。彼は疲れたような顔をして、けれどしっかりと、こちらに歩み寄ってきた。
「──ひとつ、聞かせろ」
「え……?」
彼の眉間には深い皺が刻まれ、まるで次の瞬間には髪が逆立ち、赤い眼光で個性を止めにかかるのではと思えるほどの迫力を帯びていた。私なんて、無個性なのに──。
いつもの無愛想で乾いた声音。けれどその中にだけはいつも、本音が隠せず滲んでしまう。こめかみに力を込め、ぐっ、と顔を強ばらせた彼が、ほんの一瞬の躊躇も見せず、やや早口で、言葉を投げてよこした。
「お前の好きなやつって……俺?」
「え……、うん。」
その瞬間、世界が静かに、裏返ったような気がした。彼は眉を下げ、深く長い息を吐いた。その仕草に、私の胸がきゅうっと縮こまる。
「……なるほどな。そりゃ、いろいろ腑に落ちるわけだ」
呆れるでもなく驚くでもなく、ましてや困ったような顔をするでもなく彼はベッドの端に静かに腰を下ろすと深く、ひとつ息を吐いた。まるで、ずっと喉の奥に引っかかっていた小骨をようやく飲み下せたかのように。
私はといえば、彼のその仕草のひとつひとつに心の輪郭を撫でられるような感覚を覚えていた。もう、なにも言えなかった。ただ、その人の傍にいることの意味が言葉よりも深く胸に落ちてくるばかりだった。
「あの……イレイザー、ひどいこと言ってごめんなさい」
「あ?……ああ、もういいよ」
「バカらしい」とでも言いたげに、片手を軽く振ってみせると彼はいつもの無関心を貫くような調子でそれ以上は何も言わなかった。本当にもう気にしていないのだろうと感じて、私は少しだけほっとした。
けれど──気持ちを知られて、こんなにもだるそうな顔をされるなんて。ほんの少し、心が擦り切れた気がした。だけど彼の立場になって考えるのは難しいことじゃない。何年も前から顔を合わせ世話を焼いてきた私からの好意に、戸惑ったり面倒だと思うのは当然のことだ。そうでなくとも彼はそういう面倒をことごとく避けてきた人だ。
たとえば私がもし彼の生徒で、その教え子から告白されたとしたら……?想像するだけで思わず眉をひそめてしまう。それはそういう種類の関係ではないから。たぶん彼にとって私という存在は丁度、それと同じようなものなのかもしれない。
「イレイザー……ほんとうに、ごめんなさい」
「しつこいよ。だから、気にするなって」
「いや、そのことじゃなくて……その……好きになっちゃって」
彼は壁に向けていた目線をふいに外して、私をまっすぐに見た。あの無精髭と疲れを刻んだまなざし。鋭く切れ上がった目元に、意思のある眉、通った鼻筋、左頬に残る、うっすらとした古傷。大好きだった顔。それが今はなぜだか、知らない人のように見えて、怖かった。まるで、数年前、初めて彼と出会ったときのように。
「……別に、謝ることじゃないよ」
「……でも、もうここには……来ないでしょ?」
それが一番怖かった。嫌われることより気まずくなることより、彼がもう、ここに眠りに来なくなることの方が、ずっと怖かった。仕事でうまくいかないことより、仮免に落ちることより、彼に恋人がいるかもしれないと想像することより──ずっとずっと怖かった。
「そんなこと言ってないでしょうが……ったく、泣くな、泣き虫」
「……泣いてないけどね」
泣いてはいない、けれどたぶん、涙目で、顔は真っ青だったと思う。
「ほら。そこ、座れ」
彼はシーツの隣をぽんと叩いた。私は一瞬何かの冗談かと思って立ち尽くしてしまったけれど、その眼差しが冗談ではないことを示していたのでおずおずとベッドの端に座る。少し離れて。会えなくなるのは死ぬほど嫌なくせに、ぴったりくっついて座る勇気はまだない。
「それで? 名前は俺にどうして欲しいの」
「……え?」
「ほら。言ってみろ。たとえば、そうだな……
付き合ってくれとか一緒に寝てくれとか、旅行に連れてけとか、か」
「…………ぜんぶ」
「……は?」
「それ、ぜんぶ、して」
……全部。付き合うとか一緒に眠るとか、ふたりで、遠くへ行くとか。そうやって言われたら、どれもこれも、欲しくなってしまった。叶わないってわかってる。どうせ断られるって、叱られるって、ちゃんと、わかってるのに……それでも、言わずにはいられなかった。
喉の奥から出てきたその言葉は私の願いの全部だった。──見返りなんて求めない。ただ、隣にいて欲しい。触れて欲しい。怒られても、呆れられても、叱られてもいい……嫌わないでほしい。ただ、それだけだった。
「……へぇ。いい根性してるね」
呆れとも好奇心ともつかない眼差しで彼が口角をわずかに上げる。
「でもな……今すぐに、女として見ることはできないよ」
「……うん」
「妹ってわけでもねえけど、まぁ親戚くらいには思ってた」
「うん……」
ぽろりと涙が落ちた。だけどこれは悲しみじゃなかった。ずっとずっと堪えていた感情が、ようやく吐き出せたから。私は百も承知だった。彼が私を女として見ていないことくらい。でも、それでも、ただ傍にいたかった。
「……それでもいいって言うなら、……いいよ」
「え……いいの?」
思わず顔を上げると彼は無造作に髪に手を伸ばしてきた。指がふわりと私の髪をすくって、耳の後ろをなぞる。いつもの無駄を削ぎ落としたような動きと、少しだけ違っていた。
「全部、やってやるよ」
「……」
「お前の望むこと、ぜんぶ」
その声はまっすぐで少しだけ困っているようでそして──あたたかかった。彼の顔がふいに私の目の前に迫る。驚きのあまり呼吸すらできなかった。そして彼の唇が、ちゅ、と私の唇に触れた。
「……え、……!?」
互いの顔に互いの影がゆっくりと落ちていく。カーテンの隙間からわずかに入り込む街灯の光が彼の顔の輪郭を、くっきりと縁取っていた。その目が、まるで静かに火を灯したようにぎらついていて、そして彼の口角がふいに上がる。その顔がもう一度、近づいてきた。次に触れたのは唇ではなかった。彼の舌がぺろりと、私の唇の真ん中を撫でて、すぐに離れていった。まるで、味見でもするようにして。
「……ぇぇぇえええええっ……!?」
驚きすぎて声にならない。体の奥から、血液という名の熱が噴き出して全身をぐるぐると駆け巡る。心臓は限界まで膨張して破裂しそうだった。顔が、もう火がついたように熱い。けれど彼は、なぜかそんな私を前にして、どこまでも、冷静な顔をしている。ど、どうして、どうして、こんなことを。
「……名前」
「……な、なに」
呼吸がまだうまく整わない。そんな私を見て、彼が淡々と、しかし真っ直ぐに言った。
「お前、男と、こういうの……初めてなのか」
心臓が、ひときわ大きく跳ねた。そして私は、正直に、どうしても嘘がつけなくて、ただ一言、小さく答えた。
「……ないです」
その答えにイレイザーヘッドは一瞬、うんざりしたように目を細めて、額に手をやった。
「……そうなの」
たったそれだけ。けれどその声の奥には、やり場のない呆れと、わずかな困惑と、そして、私の知らない彼の感情が混ざっていた。
だって──私はずっとずっと、好きな人がいてその人以外の誰かと、唇を重ねるなんて想像すらできなかった。その想いはずっと秘めていたけれど、それでも真っ直ぐだった。触れられるのは、この人だけがいいと、思っていたから。
「……めんどくせぇ女だな、お前は」
「……はい」
静かに返す私の声もどこか情けなかった。でも仕方がない。これが、私なのだから。
「手間はかかるし世話は焼けるし……極めつけに処女ですか」
「──っ、最低!!」
思わず叫んだ。けれど彼は少しも動じずむしろほんの少し口の端を上げた。
「事実だ。なにムキになってんの。小学生かお前は」
「だ、だって……しょうがないじゃん、相手いなかったんだもん」
「だってしょうがないじゃん、じゃないよ……」
「声真似しないでっ!!」
ふっと、彼が目を細めてわざとらしくまた私の声真似をしてきた。それが妙に似ていて、悔しいのと恥ずかしいのとで、私はもうなにも言い返せなかった。
「……はぁ。名前、お前に女を感じるのは、いつになるんだろうな」
その言葉は、からかいとも本音ともつかなくて私はただ、何も言えずに顔を伏せた。彼の声が、ふっと、肩越しに流れてくる。
「今は、そうだな、猫にでもキスしてるみたいな気分だ」
「……っ」
それはさすがに、あんまりだったけれど。顔を真っ赤にしたままじっとしている私を見て、彼がふと笑った。からかうような、けれど、どこか、優しい、心の隙間に吹き込む夜風のような笑い方だった。その笑いを見た瞬間、私はなぜか、安心してしまったのだ。ああ、この人は、たぶんまだここにいてくれるんだって。
「名前」
小さな声でそう呼ばれただけで心臓が跳ねた。私は彼の足元、フローリングの上に、三角座りのままで返事の代わりに小さくうなずく。
「お前、今さ。ここに俺がいること、後悔してる?」
その問いがあまりに静かだったから、私は一瞬だけ答えに詰まってしまう。けれど、言葉にしなければと、なんとか口を開いた。
「後悔なんて、するわけない。……でも、気まずくて、顔が見れないだけ」
「そうか」
それきり、彼はまたしばらく黙っていた。部屋に満ちるのは冷凍庫のコンプレッサーがかすかに唸る音とどこか遠くの道路を走る車の振動だけ。まるで、時間があらかじめ用意された沈黙の上に立ち止まっているかのようだった。
しばらくして彼は、私の視線の先にいるパソコンのほうに目をやって、それから再び、私に顔を戻した。
「……言葉にしてくれて、ありがとね」
その一言が胸の奥に静かに沈んで波紋のようにじわじわと広がっていく。
「お前のこと……ずっと放っておけなかったよ」
その声は、いつも彼が授業で使うような張った声とは全く違っていてまるで子どもに語りかけるやわらかさと、深夜にだけ許された本音の温度を帯びていた。
「それがただの見守ることなのか、情だったのかそれとも……もっと違う意味なのかは正直、自分でも分からなかった」
「……」
「でも、お前が泣いて、怒って、追い出して……それでも俺を好きだって言ったとき、やっと腹の底が決まった気がしたよ」
「……決まったって、なにが……?」
彼は一瞬だけ、目を閉じた。それから、静かに言った。
「俺も、ちゃんとお前のことをひとりの女として見てるってこと」
その言葉に、肺の奥の空気が一瞬すべて抜けたような感覚になった。驚きと、戸惑いと、そして抗いようのない喜びが、胸の内を、奔流のように満たしていく。
でも同時に、不安も襲ってくる。彼がなにかの気まぐれで、あるいは私を慰めようとだけ思ってそう言ったのだとしたら。私はそのぬるい優しさにすがって、また期待して、また傷ついてしまうかもしれない。
「……慰め、なら……いらないよ?」
そう絞り出すように言うと彼は私の言葉をさえぎるように立ち上がった。スウェットの裾が揺れる。彼はゆっくり私の前にしゃがみこみ、目線を揃えた。
「慰めだったら、俺は戻ってきてないよ」
その言葉とともに、彼の手が、私の髪にそっと触れる。指先が耳の後ろをやさしくなぞり、顎先まで滑るように添えられた。あまりに繊細な動きで、肌がくすぐったさと熱にじわりと包まれる。
「お前が望むこと、全部できるかは分からない。俺は器用じゃないし優しくもないし、きっと間違えることのほうが多い」
「……」
「でも……離れるつもりはない。それだけは、
信じててくれ」
そのとき彼の唇がそっと私の額に触れた。たったそれだけのことなのに、心の奥底まで震えた。
その夜、私たちはひとつのベッドに並んで眠ることになった。彼は、電気を落とし、豆球だけを残した薄い灯りのなかで、毛布を肩まで引き寄せながら「ほら、こっち来い」と低く言った。
ぎこちなく身体を彼の方へ向けると、彼は私の頭の下に腕を差し入れ、もう片方の手で私の肩をゆるく抱いた。彼の腕の匂いがして柔らかい息が髪を撫でた。
不思議と怖くなかった。心臓は速く打っているのに、身体は不安よりも安らぎを感じていた。
「名前」
その声が、まるで、子守唄のように夜の深みに溶けていく。
「……なに」
「明日もここ、来ていい?」
その問いに私は、小さく笑って静かに頷いた。言葉にするまでもなかった。ただ彼が、隣にいてくれる、それだけで今夜は、もう十分だった。
「……このあいだ、一緒にいた人。彼女なの?」
そう問いかけた自分の声が、思っていたよりも震えていた。言ってしまった。今さらもう戻れないという予感が胸をきゅっと締めつける。だけど聞かずにはいられなかった。聞かなければ、この夜は、どうしても終えられない気がしたのだ。
「え?」
彼はわずかに目を伏せ、それから、ほんの少しだけ視線を逸らす。あの相澤消太らしい、けれどどこか余所余所しい沈黙。私は胸のなかでそっと覚悟を固めた。
「駅前で……見かけたって言ったとき。隣にいた派手な女の人。あれ、だれ……?」
「……覚えてないな。そんな人いたか?」
あまりにも気のない返事に、かえって胸がざわつく。私が必死に飲み込んでいた思いを彼は本当に何ひとつ気づいていなかったのか、それとも、気づいていて、そらしたのか。
「綺麗な人だったよ。ちょっと、イマドキ風で」
「さぁな。道でも聞かれたんじゃないの」
「わざわざ、この、イレイザーヘッドに……?」
「……それ、褒めてんのか?」
薄く笑う彼の目元がほんの少しだけ寂しそうに見えた気がした。そのとき彼の手が伸びてきて、私の顎を、そっと持ち上げる。言葉を続けようとする私の唇に、彼の口づけが下りた。驚いて身を引こうとしたけれど逃げられなかった。彼の手が私の後頭部にまわって、柔らかくも、しっかりと私を捕えていた。
唇を、舌を、静かに、絡めとられていく。熱を帯びた呼吸が夜の静寂を揺らす。抗議の声をあげようとして、喉の奥でかき消されてしまった私はただなすがままに彼を受け入れていた。やっと、顔を離されたとき──彼の目が、私を真っ直ぐに見ていた。
「その気になっちゃったよ……いいか?」
「…………へ?」
呆然とする私の腰に、彼の腕がまわる。耳元に触れる吐息。温かい、低い声。それだけで心臓が音を立てて跳ねた。
「おとなしくしてろ。……こっち、向いて」
彼の指が、私のスウェットの裾に触れたとき、本能的に声が漏れた。
「ちょ、や……やだ、待って、だめ……!!」
けれど彼の動きは止まらなかった。耳元に口づけを落としながらまるで諭すように、掠れる声でささやいた。
「……ウソだよ」
「──え?」
唐突すぎるその言葉に私はきょとんと目を見開く。彼はくすくすと笑い手を止め、私の頬に手を添えて、優しく言った。
「大事な人には、そう簡単に、手ェ出せねぇ主義なんで」
私は力が抜けて、シーツに爪を立てていた手をそっとほどく。そしてそのまま彼の首に腕をまわした。こうして、触れてみたかった。しがみつくように、全身で確かめたかった。この人が本当にここにいて、私を見てくれているということを。
「お前さ、こういうの、どこで仕入れてくるの」
「……内緒」
「……」
「ありがと……イレイザー。」
そうつぶやくと、彼の唇がそっと頬に触れた。その優しさが心地よくて私は目を閉じる。まるで夢の続きを見ているみたいだった。
そのあと私たちは隣同士に並んで、溶けかけたジェラートを分け合った。彼が持ってきてくれたミルクとラズベリーのいつものふたつ。私はラズベリー、彼はミルク。
「やっぱミルク派だな、俺は」
「ラズベリーもおいしいよ。ほら、食べてみて」
「じゃあ、一口だけもらおうかね」
彼のスプーンが私のカップに入って、そして、その味に軽く目を細めた彼が「やっぱミルク」とぼやいたその声が、なぜだかとても愛しく感じられた。
「……名前」
「ん?」
「頑張りすぎなくていい。気張んなくていいよ」
「え……? なに、急に」
落ちた企画のことなんて、もうすっかり忘れていた私は唐突なその言葉に少し面食らって、彼の横顔を見つめた。彼は一口ジェラートを口に含みそれから、こちらへ視線を向ける。少しだけ眉を下げたその顔は、いつもよりずっと近くに感じられて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……選択肢はいくらでもある。ひとつ駄目でも終わりじゃないだろ」
「……うん」
もう全然落ち込んでなんかいなかったくせに、そんなふうに言われたら逆に少しだけ泣きそうになった。
「ま……仕事なんてどうでもいいっちゃどうでもいいがな」
「え……?」
「この際、俺のとこにでも、永久就職するか?」
「うん……って、えっ!?なにそれ、急すぎ!」
「……やっぱ、早すぎるか」
口調は淡々としているのに、どこかからかっているような軽さもあって、思わず顔が熱くなる。だけどそんな冗談の下に隠れている優しさに私は気づいていた。思っていたよりずっと深く、ちゃんと彼の気持ちは、私の方を向いていたのだと。
いつも「頑張れ」としか言わなかったくせに、こういう時は「頑張らなくていい」と言ってくれるなんて。本当に可愛がってくれているんだなと思った。まるで、本当の家族みたいに。
「でも……もうちょっとだけ頑張ってみるよ」
「……そう。えらいな、お前は。根性あるね」
「イレイザーがそばにいてくれたらさ……頑張れそうな気がするから」
「俺にできることならなんでもするよ。お前は、無理しないで、自分のことだけ考えてりゃいい」
「……うん。ありがとう」
きっと彼が隣にいるだけで、それだけで自分の中の「頑張らなきゃ」は少しずつほどけていくのだと思う。
「それより、お前に手出したって山田に言ったらどんな顔すると思う?」
とつぜんのその一言に、私はびくんと体を跳ね上げた。驚きが先にきて、そしてすぐに、羞恥が後を追いかけてくる。
「は!?やめて!絶対にやめて!恥ずかしすぎるから……っ!」
顔を両手で覆う私に、彼は肩をすくめて、軽く息を吐いた。
「ま、殴られたら慰めてね」
冗談なのか、本気なのか──たぶん、半分ずつなのだろう。私が怒っているか、照れているかを彼はきっと分かったうえでこういうことを言う。私は不機嫌そうに眉をひそめ、だけど言葉は少しだけ、震えてしまっていた。
「……なにそれ。ほんとに私のことバカにしてるとしか思えない」
けれどその笑顔を見た瞬間私は確信していた。この人は、私をちゃんと見ている。バカみたいに優しくて、照れ隠しの多い、不器用な愛し方しか知らない、世界で一番、大切な人だと──。
「ねえ、イレイザー……」
「ん」
「私のこと……好き?女の人として、ちゃんと」
たった今さっき、しっかり言葉にしてもらったばかりなのに。どうしても、もう一度、聞きたくなってしまった。私はそれをわがままだと知っていたけれど、それでも欲しかった。確かな言葉でもう一度。
彼は静かにスプーンを置き、容器のふちに指を添えながら、真正面から私を見た。
「家族としても見てるし。女としても、ちゃんと見てるよ」
「……ほんとに?」
「俺が、嘘つくように見えるか」
「うん、すっごく」
「……はは。ま、そのうち分かるよ。焦るな」
その笑い声がまるで毛布のように、私の不安を一枚ずつ、そっと剥がしていった。そうして彼は続けて言った。
「そういうふうに思える相手ってのは、そうそういないもんだ。お前は俺にとって、特別だよ」
言い終えたあと、しばらく沈黙があった。彼の言葉が胸の奥で静かに沁みていく。その余韻だけで、息が苦しくなった。
「……家族でもあり、恋人でもある。それって、最強なんじゃないの」
──最強。その言葉を聞いた瞬間、私は、心のどこかで、何かが静かに着地する音を感じた。
信じるにはまだ少し怖さがあったけれど、それでも。こんなふうに、惜しみなく私を抱きしめてくれる存在がいるのなら。私はもう、それだけでこの夜を、生き延びていける気がした。
「うん……。ねえ、これからもお土産は、ジェラートがいいな」
「好きなのか?もう、飽き飽きしてたかと思ったけどね。冷凍庫に詰め込んでるくらいだからな」
「うん。でも、大事にしてる証拠だよ。ちゃんとひとつずつ食べてるの」
「……ふーん」
彼の声が、ほんの少しだけ嬉しそうに弾んだ。そして、照れたような素振りで私の瞼に口づけを落とす。その唇が、少しだけ冷たくて、でも……心の芯まであたたかくしてくれるのを、私はもう知っている。
「……でも、味はいろんなのにしてね」
「はいはい。日替わりにしますよ」
「……え?」
「毎回違う味、持ってくる。お前が……飽きないようにね」
その声がやさしく確かに届く。まるで、なにげない約束が未来を照らしてくれるような、そんな音だった。私はうなずいて目を細めて、笑った。ジェラートを食べていた彼の唇は冷たくて甘くてわたしの肌に触れるたび、体の奥に熱をくれた。まるで、ひと匙で生き返るみたいに。
これはきっと甘くて、やさしくて、心に効く、そんなジェラートみたいな、私の人生でいちばん��甘くて美味しい�≠ニ思った、夜のお話。