ドアを閉めたあと私はしばらく動けなかった。彼の最後の「おやすみなさい」が、まだ耳の奥に深く残っていたから。
あの夜、たしかにあの人は、私に想いを告げに来た。言葉のひとつひとつが拙くて、息が乱れていて、それでもあれは嘘偽りのない彼の��本当�≠セった。それなのに私は「帰って」と。あの瞬間まだ、信じきれなかった。私は、自分がもう一度傷つくことが怖かったのだ。ただ、それだけ。
あれから、いくつか夜が過ぎた。日々は何事もなかったような顔で流れていった。式場との打ち合わせ、ブーケの仕入れ、夜の報告メール。どれもこれも滞りなく、ただそのどこにも心がついていかなかった。街中で活躍するヒーローたちの姿をふと目にするたび無意識に探してしまう。あの後ろ姿、あの気配、あの目の奥に宿る翳りを──
翼など持たない彼らが、あの人に見えるはずもないのに。そんな自分が悔しくて愛おしかった。忘れたくなかったのかもしれない。あの夜、閉ざしたドアの向こうに残した沈黙。彼は何も言わなかった。「違うんです」も「待ってください」も「聞いてください」も──。それがずっと苦しくて、悔しかった。でも、今になって思う。きっと彼は、私が選んだ言葉を静かに受け止めてくれたのだろうと。無理に正そうともせず、押しつけることもせず。あの人らしく、黙って私の気持ちを守ってくれた。そのやさしさが今さらになって、胸の奥を締めつける。彼は痛いほどに、やさしいヒーローだった。
夜になると眠りの底から何度も浮かび上がってくるのは玄関、扉の向こうに立ち尽くす彼の背中だった。本当は、あんな終わり方を望んでなんかいなかった。そう想っているのは私だけじゃないはず。そうであってほしいと、いまでも浅はかに願ってしまっている。
その晩、私はふとベッドを抜け出した。部屋着のまま冷蔵庫の前に立ち、あの夜と同じように、冷たい水をグラスに注ぐ。コップを口に運びながら無意識に視線は玄関の方へ向かっていた。あの扉の前に彼がいたあの夜の光景が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇ってくる。
『俺は、ちゃんと、見てます……あなただけを、ずっと──。』
『最高に、楽しかったです』
私もあなただけを見ていた。私だって、最高に
……楽しかった。
もしもまた彼に会えるのならば。今度こそ逃げずに言いたい。ほんとは私のほうが、戻ってきてほしかった、と。
自嘲するように浅く息を吐いた、そのとき──チャイムが鳴った。心臓が静かに跳ねる。コップを置き足音を潜めてモニターインターホンを覗き込む。画面に映ったのは風をまとったままのあの翼を持ったヒーローの姿。あの夜と一つ違うのは息を切らしていないことだけだった。
「……これだけは、言わせてほしい」
それでも、モニター越しに聞こえたその声は、かすかに震えていた。
「俺はあのとき、キスしなかったことを、ずっと後悔すると思った」
一言ごとに私の心が揺れる。彼はそれでもやめなかった。
「でも……キスしなかったってことは、あなたのことを、本当に好きになったって証拠なんです」
「……」
「……ねえ、聞こえてますよね?」
その問いに私は静かにうなずいた。でも相手に私の顔は見えていない。声はまだ出せなかった。
「逃げたとは……俺やった。でも──戻ってきたんも、俺です」
「……」
「だから今度はあなたがドアを……開けてくれませんか──?」
その声はどこまでも真っすぐで拙くて、けれど変わらずあたたかかった。まるで冷えた夜の中に差し込む朝の光のように私の奥底に触れてきた。気づけば私の手はもう、そっと伸びていた。
胸の奥で何かが音を立ててほどけていくのを、ただ見つめるように、カチャ、とドアをわずかに開ける。そして私の唇からようやく零れた言葉。
「……遅いよ」
私がそう告げると、彼はふっと微笑んだ。声を出さずにただ目元だけで、頬で、やさしさだけを纏うような笑みを浮かべた。その表情が胸にじんわりと広がって、喉の奥では涙がにじんだ。
「でも、ちゃんと来たでしょ」
たったそれだけの言葉が長い沈黙をそっと溶かしていく。胸の奥に絡まっていたものが少しずつ音もなくほどけてゆくのがわかった。
「今度こそ、ちゃんと。あなたの気持ちに、触れさせてください──。」
その声は小さく深く夜の空気に溶けていった。今まででいちばん静かで、いちばん正確だった。押しつけがましくもなくでも決して揺らがない。まるで私のためにだけ吹いた風のような、そんな声音だった。
*
あの夜、私たちはほとんど何も話さなかった。ただ、前回に出せなかったコーヒーを、一杯だけ出して。彼はその香りだけを味わうように時間をかけて飲み干した。責めることも焦らせることもなく、彼は本当にそれだけで帰っていった。でもそれだけでよかった。十分だった。
その夜、静かに思った。いつも、与えてくれるばかりだった彼に私は何ひとつ返せていなかったのだと。胸の奥でやっと気づいた。もう受け取るばかりではいられないと。今度こそ私の番だと。そう思えたことが少しだけ誇らしく、そして少しだけ、怖くなかった。
会いたいと思ったのはたぶん今日が初めてじゃない。けれど、会いに行こうと決めたのは初めてだったと思う。連絡先は知っていた。でも、どうしても指が画面に触れなかった。それよりも、
もうじっとしていることに疲れてしまった私は、気づけば部屋を飛び出していた。
風がすこし冷たくてそれが逆に心地よかった。きっと探しに行くというよりも、向かう先がもう心の中で決まっていたのだと思う。
公園までの道のりは私の記憶よりもずっとやさしく、やわらかかった。彼と歩いた日々の中でも最も遠くて最も近かった距離。手持ち花火をした広場、缶ビールを開けたベンチ、何気ない一言を交わした石の階段。すべてが、灯りもないまま、けれど確かに、静かにその場所に息づいていた。
もう居ないだろうと思っていた。でもそれでもよかった。ただ思い出の中に触れて、あの時間が確かにあったのだと、自分の中で認めたかった。
「あっ………」
芝をすべる靴音が夜の空気に沈んでいく。公園のいちばん奥——あの夏の夜と同じ場所に、彼はいた。赤い羽根を背に畳み、両足を胸の前で抱きしめるようにして、そっと顔を膝に伏せていた。まるで、声も何もかもを閉じ込めるように。
ふと顔を上げた彼と目が合う。安堵したようなその瞳の揺れに一瞬だけ胸が詰まる。言葉が喉の奥で止まった。どうしてここにいるの……?と、問いたかった。でもその問いは自分自身にも向けられるものだった。
彼は立ち上がりもせず、ただ静かに、柔らかく目を細めて笑った。その笑顔に私は歩みを止められた。また胸の奥が、きゅうと音を立てるように締まり、喉がひどく乾いていく。
どうしてこの人はいつもこうして私の一番弱いところを知っているみたいに現れるのだろう。
軽やかで、少しずるくて、どこか掴みどころのない人──それでも、だれよりも私が世界でいちばん、愛している人。
私は息をするのも忘れてしばらく立ち尽くしてしまった。それからようやくほんの一歩だけ彼に近づいた。それ以上は、どうしても踏み出せなかった。心が揺れる音が、夜の静けさに、そっと、溶けていく。
「……なに、してるの」
ようやく出た声は小さくて息に混じっていた。彼は、あの夜と同じように、首を少しだけ傾けて答える。
「……うん。考え事、ですかね」
「……」
「──と、もしかしたら、奇跡のひとつくらい、起きないかなぁって」
私は思わず笑ってしまった。涙がにじみそうになるのを、そのまま笑いで押しとどめる。
「奇跡、起きましたね」
そう囁くようにつぶやいた彼がゆっくりと立ち上がった。それでもすぐに距離を詰めてはこなかった。今も変わらず私の意志を大切にしてくれているのだ。私は彼のとなり、ベンチの端にそっと腰を下ろした。彼も静かにその隣に座る。言葉を交わさなくても、それだけで十分だった。再会の気配だけで、胸がいっぱいに満ちていく夜。
秋風がふたりの間を、静かに吹き抜けていく。それは冷たさではなく優しさを纏った風だった。
「……寒くないです?」
彼がふと、そう聞いた。私は、首をすこしだけ横に振った。
「ううん。平気。……風、気持ちいいよ」
私の声は、思っていたよりも素直だった。彼の隣で話すことにもう怯えていないことに気づいてそれがほんの少し、嬉しかった。
「そっか……よかったです」
彼は笑った。笑っただけなのに胸の奥にあった氷が音を立てて溶けていく気がした。公園は人もまばらで照明もまばらで、だけど不思議と怖さはなかった。
「あなたは……毎日、ここに来てたの?」
私がそう尋ねると彼はすこしだけ眉を上げて、「ですね」と即答しつつも何だか照れくさそうにして笑った。
「……あっ、そうだ。」
「……ん?」
「この前、コーヒーご馳走様でした。俺、甘いの好きなんで。美味しかったです」
「……」
「どこのメーカーです?今度、俺も真似して買っちゃおうかなーって」
「……、」
「見苦しいスよねー。大の大人が……同じ場所にいれば、いつか、会えるかもー……なんて」
私はまた首を横に振って「そんなこと、ないと思う……」と言葉を返す。彼はそれに目を細めて笑った。その笑顔が、今夜は妙にまぶしかった。
「ほんとは、ずっと言いたかったんですよ?」
彼がふいに遠くの空を見るように視線を逸らし真っ直ぐ、その先を見つめたまま言った。けれどその声だけは確かに、私の方を向いていた。まっすぐな背中と、揺らがない静けさ。その佇まいに私は胸の奥が、じんと熱くなるのを感じた。そうだ、私はこの言葉を、ずっと、待っていたのだ。あの夜も、その前も……今日も。その想いがようやく今、私の元へと届こうとしていた。
「婚約者なんて、いないです。最初は何のことか分からなくて、でも──ちゃんと、調べました。あれはただの……気まぐれでした」
「……気まぐれ?」
「はい。なんか……あなたのことを考えてたら、ドレス姿とか、ふと見てみたくなっちゃって」
「……」
「で、パトロール中に、偶然やってたブライダルフェア?あれ、ちょっと立ち寄ってみただけで。ほんの、気まぐれ。ふらぁ〜っと、ってやつで」
肩をすくめる仕草がどこか照れ隠しのようにも見える。
「そしたら、なぁ〜んか通行人に写真撮られてたみたいで。それがいつの間にかSNSで回っちゃってて。いやぁ、俺もビックリしましたよマジで」
「……」
「あなたの言うとおり、ヒーローは鈍感かもしれませんね。自分のこと後回しにしがちですから」
その言葉はどこか自己嘲のようでもあったけど不思議と責める響きはなかった。ただ静かに自分自身を見つめているような声だった。私は、その一語一句をまるで、舌の上に乗せるようにして、ゆっくりと胸の奥で咀嚼した。そして、言葉ではなく、小さく、けれど確かにうなずいた。
「……うん。もう、知ってるよ」
「えっ?」
「あなたが帰ったあと、私も調べた。」
「……」
「やっぱりあの夜、なかなか寝付けなくて……。ネットの情報だけだけど……それで、なんとなくつながって……」
彼は黙ったまま、私の言葉を聴いていた。
「……でも、あのとき。あなたがまた私に会いに来てくれたとき……どう言えばいいか、分からなかったの」
静寂が優しく流れる。彼は何も言わなかった。でもその沈黙が今は優しく感じられた。しばらくふたりとも言葉を飲み込んだまま、ただ夜の闇の中を見つめていた。
「……前にも……言いましたけど、」
その沈黙を破ってぽつりと、彼がつぶやいた。
「俺……あなたのすべてを知ってるわけじゃないですけど、それでも──」
「……」
「笑ったときの表情とか、悲しいことをごまかすクセとか、缶ビールを開けるときいちばん最初に空を見上げることとか……そういうのを、いつも思い出してました」
胸の奥が、ぎゅっとなる。なぜか涙が出そうになって、でも泣くのはちがう気がして、私はただじっと手のひらを握りしめた。
「……すごく、会いたかったです、俺。」
その一言が私の心の奥にそっと触れた。なにも言わなくても、抱きしめられたような気がした。私は顔を横に向ける。彼も私を見ていた。目と目が合う。その瞬間、胸の奥にあった痼りが静かにほどけた。
たぶん、もう大丈夫。言葉にしなくても今ならきっと伝わる。『会いに来たのは、私のほうなんです』──そう言える気がした。でも今は、まだ言わなくていい。この夜のあいだだけはただ隣にいて、風の音を聴いていたかった。ベンチの上の沈黙が何よりもあたたかかったから。
私は目を閉じる。そして、風のなかに彼のぬくもりを感じた。夜の風がやさしかった。ベンチに座る私たちはただ隣にいることだけで満たされていたけれど、それでもどこか、この夜の行き先をどちらかが静かに探っている。
言葉は、もういらないとも思えた。けれど彼の声はやっぱり、どうしても、欲しかった。
「……あの、ですね」
先に彼が、ぽつりと切り出した。私は肩ごしに彼を見る。
「今度は……よかったら、俺の部屋に来てくれませんか?」
「……え、」
「できれば、今夜──。」
一瞬、空気が止まる。世界の温度が少しだけ、変わったように思えた。
「……へぇ」
私は少し意地悪に、声に棘を混ぜて返した。
「ずいぶん直球なんだね。まさか、ここまで来て堂々と、下心丸出しですか?ヒーローさん」
彼は一気に焦ったように目を見開きぶんぶんと首を振って「い、いえ!違いますって!」と慌てたように言う。なんか、可愛い。
あまりに真剣で、あまりにも必死なその声に、私はつい、吹き出してしまった。「冗談です」と返すと彼はようやく緊張を解いたように肩の力を抜いた。その仕草がなんだか不器用でだけど妙に愛らしかった。私はふと視線を逸らしながらも、胸の奥には、静かな温もりが灯っていた。
彼の��巣穴�≠ヨ向かうということ。それは気まぐれや気ままな誘いなんかじゃない。きっと、彼なりの誠実でまっすぐな招待状なのだと私はもうちゃんと、わかっていたから。
「……じゃあ、」
私はそっと立ち上がり彼の方を見て小さく笑いながら言った。
「少しだけ、寄らせてもらおうかな」
その返事に、彼は目を細めて穏やかに笑った。どこかほっとしたような、でも少し照れたようなその表情が、胸にやさしく染み込んでくる。
「ほんとに、なにも起きませんからね!?」
「はいはい」
「コーヒー、一杯だけです」
「信じてますよ。だってプロヒーローだもんね」
冗談のようでどこか真剣に。そんなやりとりを交わしながらふたりでゆっくりと歩き出す。街の灯りの下を並んで歩く。少しひんやりとした風が肌を撫でていく。だがその風さえも今はやさしく思えた。肩がふと触れそうで触れない距離。けれどその小さなすき間には確かな信頼とこれからの時間が、静かに宿っている気がした。
彼の部屋は意外と普通だった。ヒーローとしての華やかな表舞台とはうらはらに生活感がそっと沈んでいた。枯れかけた観葉植物、ふたが外れたまま置かれたリップクリーム──きっと忙しさの合間に、ほんの少しだけ置き去りにされた日常の名残。それがなんだか彼らしくて、私は少しだけ心の片隅でほっと安堵していた。
「どうぞ。……なんか、スリッパ、片方しか見つからなくて」
「ふふ。片足だけでじゅうぶんです」
そんなふうに笑い合うだけで今夜の空気がふんわりとほどけていくのがわかる。肩の力が抜けて呼吸が自然と深くなるような、そんな、やさしい静けさ。
彼はどこか照れたように笑いながら「約束通りコーヒー淹れますね」と念を押すように言って、キッチンへと向かった。そして言葉どおり丁寧な手つきで心を込めるようにしてコーヒーを淹れてくれた。
「夜でも、大丈夫です?コーヒー。」
「……うん。眠れなくても、今日なら平気」
その返事に込めた小さな意味を、彼は気づいてくれただろうか。
私はソファにそっと腰を下ろした。間を空けるようにして彼も私の隣に座る。肩が触れるか触れないかの、絶妙な距離。だけどそのぬくもりが、胸の奥をじんわりとあたためていく。カップから立ちのぼる湯気。その向こうに、これまで知らなかった彼の暮らしが、ようやく手の届くところにあるのだと静かに実感する。私の知らない日常の気配が、こんなにも穏やかに心を満たしてくれるなんて思わなかった。
「すみません……あんま、ちゃんとしてなくて」
彼が照れくさそうに言う。私はカップのふちをなぞりながら笑った。
「ううん。こういうの、嫌いじゃないですよ」
それだけのやりとりが、どうしようもなく心地よかった。たぶん私は、ずっと、こういう時間を欲していたんだと思う。
「こんな夜が、ずっと続けばいいのになぁ……」
ぽつりとこぼれた言葉は意識よりも先に唇から落ちていた。言ってしまってから、少しだけ怖くなった。けれど彼は驚くでもなく、冗談にもしなかった。ただ静かに、私を見ていたのだ。
「……俺も、同じこと思ってました」
その一言だけで息が詰まった。胸の奥に、やさしい火が灯る。そっとカップを置く手が、微かに震えてしまった。彼もまた音を立てずにカップを戻した。手が膝の上にある。その手がゆっくりとけれど確かに隣へと寄ってくる。指先がふれる。私は、逃げなかった。繋ぐでもなく、ただそこにいると伝えるようなあたたかな接触を真っ直ぐに受け止めた。
「……先に、謝っておきますね」
そう囁いた彼の声は、窓の外をかすめる風の音よりも、壁の向こうで微かに刻まれる時計の針の音よりも夜に漂う気配よりも、そして、私たちの浅い吐息よりもずっと静かで、あたたかかった。まるで夜の空気に静かに溶けていくようで、それでも不思議と輪郭を失わずに、しん、と胸の奥に沁みていく。その声音は約束を破るためではなく想いを誠実に届けるためだけに存在しているようだった。
「今夜は、何もしないって……言いましたけど」
私は自然と彼を見た。ふたりの視線がゆっくりと重なる。触れずとも互いの鼓動が伝わってくるような距離。
「──ごめんなさい。俺、今から約束破ります」
その瞬間──胸の奥に、ふわりと灯るものが
あった。強く求める熱さではなく、ようやく触れられるやさしさ。彼の声は、確かに私の心の扉をそっとノックしていた。
そして彼の手が私の頬に添えられた。驚くほどやさしくて指先にすら迷いがなかった。あたたかさが肌に触れた瞬間、私のなかのなにかが静かにほどけていくのを感じた。ふるえも焦りもなく、ただ穏やかに彼の唇が私の唇に重なる。それは、ほんの一瞬──でも、その短さのなかに、言葉にならなかった感情がすべて詰まっていた。
「……」
「……」
瞼を閉じたまま私は、彼の存在を受け止めた。胸の奥がじんわりと熱を帯びてゆく。頬から耳のあたりへ、彼の指がゆっくりと滑る。髪をそっとすくうように触れるその仕草には慈悲深い愛情がにじんでいた。
風が夜の空気をゆるやかに撫でてゆく。部屋の隅で揺れるカーテンが、その静寂にやさしく呼応する。
そしてもう一度、唇がふれた。今度は、さっきよりもすこしだけ、長く、深く。そこには、渇望ではなく祈りのような想いがあった。何かを奪うのではなくそっと渡し合うような、ふたりだけのやさしい交換。たしかにあたたかいものが、胸の奥へと沁みていく。
急がなくていい。この夜は、触れ合うためではなく同じ気持ちを抱いてここにいることを、ただ静かに確かめるための夜だから──。
*
夜の底がゆるやかにほどけてゆく。カーテンの隙間から差し込む淡く柔らかな蒼の光。夜と朝のあわいにだけ許されたその光は、誰にも気づかれぬように、そっと世界の境界をなぞっていくようだった。
私は、ソファの上で膝を抱えていた。そのすぐ横で、ホークスさん──彼はあぐらをかいたまま静かに窓の外を眺めていた。ふたりともずいぶん長いあいだ言葉を交わしていなかった。けれど、それは沈黙ではなかった。むしろ、言葉以上に、多くを伝え合っていたと思う。
「……朝、ですねぇ」
ぽつりと彼が言ったその声に私はそっと頷いて言葉を返した。
「ですね……あっという間だった」
「うん、ほんとに」
彼が少し笑って私の方を見た。目が合い、つられるようにして私も笑った。窓の向こうにはまだ頼りない光しかなかったけれど、その不確かさが妙に愛おしく思えた。
「ホークスさん。今日のパトロール、気をつけてくださいね」
「え? なんでです?」
「居眠り飛行」
「あー……残念でした。今日、非番なんです」
「あ、私も今日はお休みです」
「やった。おなじだ」
笑い合うその時間が、ただただ心地よかった。同じ朝を迎えられたということだけで今日は少しだけ、強くなれそうな気がした。
「ねえ、ひとつだけ──いいですか」
彼がゆっくりと言った。私はその声の響きごとまっすぐに受け止める。
「これから先、あなたがつらいときや誰にも言えないことを抱えてるとき……それでも、俺の顔が浮かぶような夜があったら迷わず来てください」
「……」
「連絡もいらない。インターホンも鳴らさなくていい」
彼は少し遠くを見やりながら、静かに言った。その視線の先にはまだ色の定まらない空と、眠る街の輪郭。
「──鍵、開けておきます」
その言葉は、胸の奥にぽたりと落ちて、静かに波紋を広げた。すぐには返事ができなかった。
言葉にならなかった。胸がいっぱいで、喉の奥がつまるような感覚。でも、不思議と涙は出なかった。代わりにふっと笑みがこぼれ、それは堪えるでもなく溢れるように自然に滲んだものだった。
「……鍵の開いた部屋にヒーローが住んでるなんて、なんかちょっと、不用心じゃない?」
視線を落としながらそう言うと、彼は肩をすくめて、少しだけ照れたように笑った。その笑顔はどこか少年のようで、けれどたしかにずっと私が知っていた、大人の彼の顔でもあった。
「あなた以外には、開きませんから。俺の鍵は」
それは、どんな��好き�≠竍�愛してる�≠フ言葉よりもずっとあたたかくて、ずっと誠実だった。
「……キザな、ヒーローですね」
「そう。キザ系ウィングヒーローです」
「ははっ。項目、増えてる」
「急遽、いま増えましたっ」
こんなふうに笑い合える日がまた来るなんて、ほんの数ヶ月前までは思っていなかった。だからこそ今は、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
私はソファから、ゆっくりと腰を上げた。まだ夜が残る部屋の空気を裂くように立ち上がると、足元から静かに冷えが這い上がってくる。迷いのない歩みで私はカーテンの前まで進んだ。そして少しだけ開いていたカーテンの隙間に指をかけ、さらに少しだけそれを開けた。目の前に広がったのは、蒼と金がまじりあう空。もうすぐ朝になる予感だけを残した──未完成な世界。
そのときふと、背後に気配を感じた。振り返らなくてもわかる。足音はしないのに風よりも静かな気配がすぐ背中まで届いてきたから。肩先に、あたたかなぬくもり。隣に、彼がいる。寄り添うわけでも触れるわけでもないのに距離のすべてが胸にそっと沁みてくる。私はそのまま窓の向こうを見つめたまま口を開いた。
「……じゃあ、私からもひとつ、いいですか」
問いかけた声は、朝の気配に紛れるように小さかったけれど彼になら、ちゃんと届いている気がした。
「この先、あなたが誰かに傷つけられたり、疲れ果ててしまって、それでもひとりで、立っていかなきゃいけないとき……」
「……」
「そんな夜が来たら──私のことを、思い出してください」
隣を見ると彼の目がかすかに揺れていた。その瞳に映る私の姿がどこか頼りなくも確かに映っていて、それは、とても綺麗な景色だった。
「そのときは、きっと私が──なにも訊かずに、甘いコーヒーを、淹れてあげるから」
彼がふっと笑った。その微笑みは何かをそっと受け取った人の、それだった。
きっとこれは名前のない約束。恋人でも、家族でもない、もっと静かでもっと深い場所に流れるもの。
そして二人で見上げた朝焼けは、今日を始めるための合図ではなくて、ただ同じ朝を迎えられたという、ささやかな奇跡を、祝福してくれているようだった。