呼吸が白くならなくなってからもうどれくらい経つのだろう。陽の名残が道端に長く影を落とす夕刻。私は、そのなかをゆっくりと歩いていた。気取った服は要らない。特別な理由もない。ただ彼の家の鍵をポケットに入れて週末の少し冷えた風に背を押されるようにあの人のもとへ向かっていた。今では暮らしの一部のように通い慣れた道なのになぜか今夜は胸の奥がそわそわと落ち着かない。ほんの数時間会えなかっただけなのに声が聞きたくて顔が見たくて理由もなく早足になる。
日々は穏やかに過ぎてゆく。職務も、関係も、波立てることはほとんどなく私たちは言葉少なにそれでも確かな手触りで、互いの暮らしの輪郭に触れていた。けれどなぜか今日は、彼の家のこの扉を開けるその瞬間にほんのひと欠片、胸の奥が不安にふるえたのだ。
玄関を開けたとき彼はソファの上で猫背になりながら新聞を眺めていた。その姿が私の心を撫でるように出迎えてくれる。
「ただいま」
「……遅かったな」
彼は新聞をたたみもせずに、そのまま目だけをこちらに向けた。変わらない、ぶっきらぼうで、でも私にはどこよりも安心できる声。心の芯まで染みてくる声だ。
「うん、ちょっとだけ寄り道してた。空がきれいだったからさ」
そう言い返すと彼は何も言わず、少しだけ顎を上げて、玄関の奥を指した。キッチンにはすでに下ごしらえされた鍋と、コンロの上の煮込みが、ふたりぶん。箸も湯呑もぴたりと並んでいて彼の無言の優しさがそこにはあった。
夜は、静かだった。テレビをつけるでもなく、音楽も流れず、ただ箸の音と煮込みの湯気が立ち上る音だけがふたりの間にあった。でもそれは、寂しさではない。必要な言葉だけを選んでぽつりぽつりと交わす会話。食べながらふと見つめ合って、どちらからともなく目を逸らす。その空気に私はいつだって満たされていた。
「今日のは成功?」
彼が、唐突に言う。その、いつもの問いに私もいつものようにうなずく。
「うん、大成功。ちゃんと野菜の味がするよ?」
「切り方を変えてみた」
「ふーん、気分で?」
「そう。なんとなくね」
それだけでいい。そういう人だ。けれど、それだけでわかるようになったのは、きっと私の方も時間をかけて変わってきたから。
「でも、お前が間に合せで作ってくれたサラダの方がうまい」
「えー? これ、市販のドレッシングかけだだけだよ?」
「あ、そう?でも美味しいよ」
こんなふうに交わされる、他愛ないやり取りにさえどこか嬉しさを覚えてしまう。私の「ただいま」を受け入れてくれる相手がいる。それだけで今日一日が、報われるような気がするから。
食後、食器を片づけたあとは二人並んでソファに沈んだ。灯りは落とし、淡く照らす間接照明の下で私は彼の肩に寄りかかる。テレビもつけず、言葉も交わさない。ただ彼の胸の奥から聞こえる静かな呼吸が、私の鼓動と重なっていくような、とても穏やかな時間。しばらくそうしていたあと彼がぽつりと呟く。
「風呂、入るか」
その言葉に私は小さく頷いた。浴室には、彼が先に入ってお湯を張ってくれていた。おかげ様でほのかに、湯気が立ちこめている。明るすぎない照明にぼんやりと光が揺れる。私はバスタオルを手にして脱衣所で服を脱ぎあとから彼のいる湯船へとそっと足を入れる。ぬるめのお湯が肌をなでるように包んでくれて彼の背中越しにその温度がゆるやかに伝わってくる。
「……気持ちいいね」
そう呟くと、彼は振り返らずに小さく「ん」とだけ返す。
沈黙が続く。でも不思議と苦じゃない。むしろ言葉にしないこの隙間にこそ彼の優しさが宿っているように思える。私は彼の隣に並ぶように座って、肩が触れるか触れないかの距離で静かに湯に身を預ける。
「こうしてると、なんか全部がほどけていくね」
とくに意識もせずそうつぶやくと彼がようやくこちらに視線を向けた。
「……仕事、忙しかったのか」
「ううん。ただ……心がちょっとこわばってたのかも」
「なら、いい湯だな」
そう言った彼が手を伸ばし、そっと私の濡れた髪を指ですくった。その仕草があまりに優しくてふいに胸が詰まる。こんなふうに、ただ隣にいるだけで心がほどける夜が続いていくのだと思っていた。けれどその安心は唐突に打ち破られる事になる。
風呂あがり、ふたりしてバスタオルのままぼんやりしていたリビングで、彼のスマホが鳴った。短く、それでいて決定的な音。瞬時に彼──相澤消太ではなく��イレイザー・ヘッド�≠フ顔つきが変わる。
どうしてだろう。このとき、ほんのわずか喉の奥に、冷たい石のようなものが引っかかった気がした。珍しいことなんかじゃない。過去にだって何度かあった。なのにこの夜だけは、鳴り響いた端末の着信音が全てを打ち消したのだ。
誰かを救うために立ち上がる人を、私は愛している。それでも、どんなにどんなに理解しようとしても、この一瞬だけはいつも自分の心に「行かないで」とすがるような声が浮かぶのを抑えきれなかった。
「出動だ。……すぐ戻る」
濡れた髪を手早くタオルで拭き、無言で支度を整えていく彼。いつもと同じ。けれど今夜の私はどうしようもなく、その背中が遠く感じられた。
「……飯、うまかった。ありがとう」
一度だけ私の髪に触れ、それだけを残して彼は扉の向こうへと消えていった。だから……私は、生野菜にドレッシングかけただけだってば……と心の中で言い返しながら私は立ち尽くしたまま、リビングにぽつんと取り残された。
そこからの夜は長かった。時間が止まってしまったような部屋の静けさが、肌の上をひたひたと這ってくる。それは、お湯から上がったばかりの肌が急速に冷えていく感覚とよく似ていて、私は思わず、薄手のカーディガンを羽織った。部屋の灯りもテレビの音も遠ざけたままで窓際に立ち、そっとカーテンを押し開ける。ベランダへ出ると夜風が頬に触れた。生ぬるくて、どこか、都会の匂いが混じる風。それでも上を見上げれば、月と星だけは変わらず、私を見下ろしている。
手すりに手をかけて深く息を吸い込むと、肺のなかに染み入るような静けさが訪れる。見上げた夜空には数えるほどしかない星がそれでも確かに瞬いていた。
こんなふうに夜空をじっと眺めたのはいつぶりだろう。ひとりで見る空は──どうしてこんなに広いのだろう……ずっと考えないようにしていた不安が心の中で、じわじわと泡立っていた。
……何事も、ありませんように。
どうか、無事で、ありますように……。
星に願いをかけるなんて、子どもみたいなことだとわかっているのに、それでも今夜だけはそうせずにはいられなかった。彼の身に何事もなく、少しでも早く帰ってこられるように。そんな儚い祈りを、こっそりと胸の奥で繰り返す。
「……湯上がりだったし、寒くないかなぁ」
思わず漏れた独り言が夜の空気に溶けていく。
彼がいない家は、こんなにも空白だ。目に映る景色も、家具の配置も、音のない時間も、どこか輪郭がぼやけて感じる。まるで何か大事なものが欠けているみたいに、少しずつ心が軋んでいく。こんなふうに誰かを待つ夜がくるなんて、ほんの少し前の私には想像もできなかった。誰かのために夜空を見上げて、その無事を願って、心の中で何度も名前を呼ぶ自分が今ここにいるなんて──
「……帰ってきてね」
それは星にではなく、自分自身に向けて、あるいは見えない彼に向けて落とした、音のない祈りだった。
やがて体が冷えてきたのを感じて私はベランダのガラス戸をそっと閉めた。星はまだ滲むように空の奥でまたたいている。それでも私はこうして彼が帰ってくる場所にいる。たとえこの夜が──どれだけ、長くても。
*
眠れぬまま夜はとうに深まり外はかすかに白み始めていた。どれほど、時計を見つめただろう。寝室に戻ったものの、ただ布団の中で目を閉じているだけだった。そして──。玄関の鍵がまわる音がして私は反射的に息を飲んだ。彼だ。帰ってきた。その音が現実であることを確かめるように私は目を閉じたまま耳を澄ませる。足音。ジャケットの脱がれる気配。寝室のドアが、ゆっくりと開く。でも今日は、いつもと違った。次の瞬間、私は、布団ごと乱暴に引き寄せられていた。肩を抱かれ胸元に顔を埋められる。濡れたような彼の息が首筋を、そっと撫でた。
「……起きろ。起きて、俺を抱きしめろ」
それは命令のようでいて、どこか、壊れかけた祈りのようでもあった。私は何も言わず起き上がり、彼を強く強く、抱きしめ返した。帰ってきてくれてありがとう、と、何度でも伝えるように、腕に力を込めて。
胸元に顔を埋めたまま、彼はしばらくのあいだ何も言わなかった。私もまたその沈黙を壊すような言葉を持たなかった。ただ、呼吸が落ち着いていくのを感じながら髪の間に彼の指がゆっくりと絡むのを待った。どちらともなく、ようやく少し体をゆるめると、彼がそっと、私の額に唇を落とした。謝罪のようでも、誓いのようでもあるその仕草に、私は深く息を吐く。
「……少しは、眠れたか」
そう問う彼の声は寝起きのそれとは違いどこか自分自身を責めるような滲み方をしていた。私はふっと小さく笑った。
「ううん。眠れなかった。ベランダに出て……、星、見てたよ」
私の声に、彼の眉がかすかに動いた。けれど、なにも言わないまま黙っている。私はその沈黙に怖気づくことなく、ぽつりぽつりと語り続けた。
「……いつの間にか、夜って、怖くなるんだね。昔はそんなふうに思ったこと、なかったのにさ」
彼は返事をしない。ただ呼吸の気配がわずかに揺れたように感じるだけで。
「……でも、あのとき。ほんの少しでも空を見てたら……」
言い淀みながらも、言葉を重ねる。確信のない想いでも、語らなければすくくいきれないものが胸の奥にあったから。
「……消太さんの帰り道のどこかと、繋がってる気がしたの」
私はそっと彼の背に手のひらをあてる。そして大きな背中を、なぞるように撫でると、この胸に抱かれている彼が、間違いなく帰ってきたという温もりが静かに手のひらから伝わってきた。
「星ってきっと、そういうときのためにあるんだって思った。遠くにあるけどずっと消えない光」
言葉の端を、そっと結びながら、私は彼の肩に顔を寄せるようにして、問いかけた。
「ねえ、消太さんも、どこかで……星、見た?」
それは答えを求めるというより、ただそっと、投げかけたかっただけの言葉だった。星のように届くかどうかもわからないけど、それでも放ってみたかった言葉。
彼は少しだけ間を置いたまま沈黙して次の瞬間何も言わずに私の髪に唇を落とした。やわらかくて、深くて、何かを誓うような仕草。言葉よりも先に、彼の想いがその動きに滲んでいた。
「……見てない。そんな余裕、なかったよ」
その短い返事に私はふっと微笑んだ。彼らしいな、と心の奥で思う。無骨で、正直で、そして、不器用なほどに、真っ直ぐだ。
「……そっか。じゃあ、私の分まで無事に帰ってきてくれて……ありがとう」
わざと明るく言ったつもりだった。けれど口に出した瞬間、胸の奥にじんわりと熱がこみ上げてくる。思っていた以上に、それがどれだけ切実な願いだったのか、ようやく自分でもわかった気がした。
「……��私のぶんまで�=Aか」
彼はぽつりとそう呟いたあと、言葉は続かなかった。けれど抱きしめる腕の力がほんの少しだけ強くなったのを感じる。その無言の動きが、返事だった。私はそっと目を閉じる。胸に触れるそのぬくもりに、静かに身を委ねながら。
言葉で伝えるかわりに彼はすべてを抱きしめてくれていた。その沈黙の奥に、彼の不器用でまっすぐな優しさが、確かに息づいていた。
カーテンの隙間から、淡い朝の光が静かに差し込んでいる。長く、果てしなく続くように思えた夜がようやく、そっと幕を下ろそうとしていた。
*
数日後。その夜は少し風があった。気温も下がってきて、長袖一枚じゃ肌寒いよ、と声をかけたのに、彼は特に反応を示さずに黙ってベランダに出ていった。私はその背を見送りながら、ブランケットを一枚つかんで、あとからそっと隣に腰を下ろす。ふたり並んで寄り添ってひとつの毛布を肩にかけた。夜の静けさのなかに、都会の遠くの音がかすかに溶けてゆく。空には星が散っていたが数は少ない。けれどその控えめなまたたきが、私にはなぜかとても、心強く映った。
「……前にさ、」
ぽつりと口を開いたとき、彼は視線を外さずにただ短く「ん」とだけ返してくれた。その声が、いつもよりもほんの少しだけ、柔らかかったのが印象的だった。
「消太さんを待ってるあいだ、ここで星を見てたって、言ったでしょ?」
「……うん」
「怖くて、さみしくて……でも、それでも、目をそらせなくて」
言いながら自分でも、どうして今さらになってこんなことを話したくなったのか、よくわからなかった。ただあの夜の記憶を自分ひとりのものとして閉じ込めておくのが、どうしようもなく惜しかった。たぶん、それだけだった。
「なんか、ほんとにさ……空を見てるとね。少しだけ、心が繋がってる気がするんだよ」
「……言ってたね」
「うん。どこにいるのかも、どんな顔してるのかもわからなかったけど……たぶん、見てる空は、同じなんじゃないかって」
彼はそれでもしばらく何も言わなかった。夜の静けさがふたりのあいだに降りてきて、私はふと「喋りすぎたかな……」と小さく後悔する。だがそのとき。不意に彼の大きな手がそっと私の手の甲に触れた。
「お前がそうしててくれたこと、いま、ちゃんとわかったよ」
「……」
「それだけで、充分すぎる」
その声にはあの夜の重さも、今日までの時間も全部が溶けていた。私はそっと彼の肩にもたれる。彼の体温がゆっくり伝わってくるたびに胸の奥の何かが静かにほどけていくようだった。
「今日の星、きれいだね」
「……そうか?」
「うん。でもあの夜よりは、ずっとあたたかい」
それは気温のことだけじゃなかった。隣にいる人の存在があるということ。それが空の色さえも優しく変えてしまうのだと私は今やっと知った。彼は何も言わずただそっと私の肩を引き寄せる。寄せた頭のうえで風が過ぎ、空の星が静かにまたたきつづけていた。だから、言葉がなくてももう大丈夫だった。
夜は深く、冷たい風が、ブランケットの隙間を縫って肩を撫でる。けれど、それさえも苦にならないほどに隣にいる彼の体温が安心というかたちで私を包んでくれていた。ふたり並んで、言葉もなく、夜空を仰ぐ。会話ではなく、ただ寄り添うことでしか伝えられない想いが確かにこの静けさの中に宿っていた。
やがて、その沈黙を破ったのは彼の低く静かな声だった。
「……また、こうして星を見よう」
私は、思わず彼の横顔を見上げる。
「ん……?」
問い返すと彼は目を逸らすこともなくまっすぐ前を見据えたまま、小さく息を吐いた。
「夜のベランダでも、朝の食卓でも、くだらないテレビを見てるときでも──何年後でもいい」
言葉を探すように彼の声が途切れながら続く。
「お前がいる日常のなかで……ふと空を見上げたとき、となりに俺がいるのが当たり前であれば、それでいい」
言葉にすればするほど彼らしくない照れとぎこちなさが滲んでいてそれがかえって胸を打った。不器用なその真剣さに心の奥が温かく、ひりつくように揺れる。
「え……。それって……さ、もしかして──」
思わず漏れた問いかけは、風にさらわれそうなほど小さな声だった。なのに彼には、確かに聞こえていたのだろう。わずかに肩をすくめるような仕草のあと、ゆっくりとこちらへと顔を向けた。その照れくさそうに笑うでもなく逃げるでもなくただ、まっすぐに私を見てくる眼差しが、ずっと好きだった。
「そうだ。……そういうことだ」
彼の目は真剣で、飾り気はなかった。けれど、どこまでもまっすぐで、誓うようでも命じるようでもなく、ただ、静かに��人生の隣�≠�差し出すような、そんな目をしていた。胸の奥が、ふっとあたたかくなる。涙がこぼれそうになるのをこらえながら、それでも私は小さく頷いた。
「じゃあ、そのときも。星、ちゃんと見ててね」
「お前が隣にいれば、見えるよ」
そう言って彼は、不器用に──けれど確かに、私の指を握った。指と指が絡むその温もりは言葉にできないほどにやわらかく、深くて、あの夜、星よりも遠くに感じたその先が、こうしていま、手の中に触れているのだと私ははじめて、心から実感していた。それは確かに��未来�≠フかたちをしていた。
空では星がいつまでも絶えずまたたいている。ふたりを照らすために、遠くから、ずっと変わらずに──。