しずくの降る夜。静かに降るこの雨の音は心を濡らす音と、すこし似ていた。
 しとしとと窓を打つ音はいつからか耳に馴染みすぎて季節の変わり目さえも曖昧になっていたがそれでも今日の雨は、少し違って感じられた。
 例えるならばそう、空の片隅で名もない天気がそっと、私の決意に寄り添っているようだった。
 部屋の灯は淡く、テーブルの上に置かれたマグカップからは白い湯気が立ちのぼっていた。その温度さえも、指の先から抜け落ちていくようで、ふと私は両手を重ねる。まるで失われていくものをかき集めるようにして。

 心の奥の深い井戸の底に、まだ棲んでいたその名前──『相澤先生』という存在を、今夜限りで手放そうと、そう、思っていた。それは、ひどく個人的で、ひどく真剣な決意だった。
 雄英高校を卒業して五年という歳月のなかで、彼のことを好きであり続けたのはある種の信仰に近かったのかもしれない。報われない、と知っていながら、いや、報われないからこそ、恋は恋として美しかったのかもしれない。
 卒業式の日、意を決して伝えた「好きです」の言葉は淡々とした瞳に静かに跳ね返され柔らかくけれど確実に、地に落ちていった。

「……ありがとう。でも教師(・・)の立場として、君の気持ちには応えられない」

 それが最初の、そして最も誠実な拒絶だった。けれど私は、その痛みを抱えながらも年に一度のように彼へ想いを届けてしまう──出会いをもたらした学校行事、ヒーロー同士のチームアップ、講師として訪れた出張授業……。彼がただそこにいるだけで言葉が心の底から湧いてしまうようなそんな恋だった。
 だからこそもうやめようと思ったのだ。好きでいることは希望ではなく呪いになってしまった。私は、今日という日を限りに��相澤先生を好きでいる自分�≠�やめる決意をした。
 ゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄る。窓の外は雨に濡れて、街灯の光が、ぼんやりと滲んでいた。まるで泣いているみたいに。まるで恋が、最後の涙をこぼしているように。

「……ありがとう、先生。大好きだったよ」

 声にならないほど小さく、しかしはっきりと、私は呟いた。この五年間の全ての想いを過去へと葬るように、それは��祈り�≠ノも似ていた。


 *


 その朝、目覚めた瞬間に感じた違和感は風邪の予兆のようでもあり、けれどもっと奥の、もっと根深い何かだった。それは枕元に置かれたスマートフォンに届いていた一通の連絡によって正体を明らかにしていく。


名前

しばらく雄英には
顔を出しません
もう先生に告白するのは
やめます






 それは丁寧で礼儀正しく、まるで報告のような文章だった。淡々と書かれたその文面のどこにも「悲しい」とは書かれていないのに、読み終えたあと、部屋の中の空気が湿度を増したように感じられた。同時になにか、胸の奥に鈍い音がした。

「……やっとか」

 かすれた声が独りごとのように漏れる。それは安堵だったのか失望だったのか、自分でもうまく判別できないまま、ソファの背に体を預けた。
 カーテン越しに射し込む朝の光がまぶたを照らす。瞼の裏には泣きながら笑ったあの生徒(・・)の顔がまだ焼きついていた。
 卒業式の日のことはよく覚えている。泣きはらした目で、けれどまっすぐに言った言葉。

『好きでした。ずっとずっと、好きでした』

 ──��でした�≠ニいう過去形に、どこか救われながらも、それがその後も続いていくと気づいたときには、もう何も言えなかった。
 プロのヒーローとして、着実に力をつけていくその姿に教え子の教師として誇りを感じながらもひどく居心地の悪い温度を覚えていた。
 彼女の視線には信仰に近いものがあった。その真剣さと純粋さは時に息苦しくなるほどでけれど逃げることはできなかった。なぜなら彼女の目には��諦め�≠フ色が、一切なかったからだ。教師という立場でなければ彼女のその熱に触れてしまいそうで──その一線を、ずっと守り続けてきた。
 だが、今。その熱が、途絶えた。いや、違う。彼女が自ら消したのだ。そのことが、自分の中の何かを壊した。

「……バカだな」

 呟いたその声は、誰に向けた言葉かわからない苛立ちがあった。けれども次の瞬間、手が勝手に動いていた。スマートフォンを握りしめる指先が震えていることに気づいたとき、ようやく悟ったのだった。彼女の好意──��好き�≠ノ、長いこと甘えていたのは、自分の方だったのだと。
 今更のように思い出される彼女の笑顔。戦闘で傷を負ってもなお、連絡先を変えてもなお、変わらぬ声で「先生」と、呼んでくれたこと。彼女が恋を続けていた五年間は、自分にとって、何かを遠ざけては眺める五年間だった。それが今急激に引き剥がされ、足元に空洞が生まれた。

「……顔、見といたほうがいいな」

 口にした言葉は思考よりも先に出ていた。理由を探す前に、体が動く。時間は有限なのだから。いや、理由なら、もうわかっていた。
 自分は今、彼女に会いたい。それがたとえ教師としてではなくなったとしても──もう、それでいいのだと、初めて思えたから。
 胸の奥に遅すぎる鼓動が灯る。それはきっと、��恋心�≠ニいうものの名前で、だからこそ、立ち上がった。

 雨は止んでいた。カーテンの向こうに射す光はどこか、見慣れない色をしていた。まるで彼女の��好き�≠�受け取れなかった過去を、ゆっくりと赦してくれているかのように。
 何年も無風だったはずの心の中に、名も知らぬ痛みを覚えた日。風が吹いたのだ。遅すぎるほどに、けれど明確に。あの笑顔を思い出したとき、それが恋だったのだと、ようやく知った。それが俺の、恋の始まり。


  *


 言葉にしてしまったその夜から、私はずっと、世界がやけに、鮮明に見える気がしていた。目に映るものすべてが、まるで最初から存在していたわけではなく、この決意を経てようやく��現実�≠ニして立ち上がってきたように思えて──。
 あの人への気持ちを手放すということは、私にとって、それほどまでに大きなことだったのだと知ってしまった。
 だから雨が止んだあの夜、私は、ひとりで街に出た。どこへ行くでもなく、ただあの人のことを考えないために、通い慣れた場所を避け、灯りの少ない路地を選んだ。それでも思い出は容赦なく呼吸の隙間に入り込んでくる。コンビニの前、ベンチの隣、横断歩道の音、タクシーの窓に映った自分の顔──すべて、かつて彼を好きだった私と重なって、今の私をじわじわと苦しめた。

 あれほど強く決めたはずなのに。「もう二度と会わない」「もう好きではない」。そう言い聞かせるたびに皮膚の内側が疼く。心臓は律儀に彼の名前に反応して、私はまた傷の中に戻っていく。
 不意に、風が吹いた。夏の夜のくせに、どこか冷たい風だった。私は立ち止まり、首元を押さて深呼吸をしようとした。まさに、そのとき──。

「……こんな時間に、何してる」

 聞き慣れた、乾いた声だった。けれど、記憶のなかよりも少し低く、そして、少し優しかった。私は振り返るのが怖くて、そのまま、足元だけを見ていた。声を聞いてしまっただけで、すでに、全身が言うことを聞いてくれない。靴音が近づいてくる。ほんの、数歩の距離。だがあの人の歩幅ならば、一瞬のこと。

「……名字を、探してた」

 その一言で時間が巻き戻った気がした。いや、違う。時間が、やっと進んだのかもしれない。
 私は、ゆっくり顔を上げた。そこに立っていたのは、五年間ずっと私の中にいた人で、でも少しだけ、知らない表情をした人。
 相澤消太──通称、相澤先生。いや、今の私はもう、そう呼んではいけない。

「……どうして、ここに」

 問いかけるその声が震えていたのを風のせいにした。本当は胸の奥で渦巻く嬉しさに、追いつけなかっただけだった。会いたくて、ずっと、夢にまで見た人が、今、目の前にいる。なのに、もう��好き�≠�、終わらせようと決めた夜に限って。

「……見たよ、メッセージ」

 彼はまっすぐに私を見る。その瞳にはいつもの無表情の奥に確かに灯る熱があった。私は言葉に詰まった。本当にやめるつもりだったのに、なぜ今、心がこんなに揺れているのか、それがわからなかった。

「……正直、引っかかった」

 その言葉は風よりも静かで私のなかのすべてを壊した。崩れた。張り詰めていたもの、積み上げていたもの、諦めの鎧も、偽りの無関心も、何もかもを。

「……引っかかってくれたなら、十分です」

 泣くまいとした。なのに頬を伝ったのは雨でも汗でもなく、間違いなく、私自身の想いのしずくだった。

「五年も、好きだったんですよ」

 私は言ったあと、なぜか笑ってしまった。もうどうしようもなくて、涙を流しているのに自嘲が湧き上がってきて、しかたなかった。
 それなのに彼は何も言わず、ただ、そっと私を抱きしめた。腕のなかのぬくもりが、あまりにも現実的で、夢ではないのだとようやく理解した。

「……五年もかけて、君に追いついた」

 低く囁かれた声に、私は目を閉じた。この夜をきっと忘れない。たとえ何がこの先にあっても、この一瞬がようやく私の恋の第一歩になるのだと確かに思ったから。
 彼に抱きしめられていた間、私は何度も呼吸の仕方を忘れそうになった。この腕の中は、あまりにも温かく、現実にしては穏やかすぎて、それが夢だったのならどうかこのまま覚めないでほしいと、そんな、青い学生のような願いを、胸の奥で繰り返していた。
 けれど抱きしめられている間にも時間は進んでいた。夜風は少しだけ優しくなり、だれかの家の窓から、洗い立ての柔軟剤の香りが流れてきた。人は眠りに落ちて、街はそろそろ今日という日を終えようとしている。
 私と、相澤先生──いや、彼との関係も、この夜を境に、何かが静かに終わり、そして始まったのだと思う。

「……歩こうか」

 彼の言葉に頷いた私は、無言のまま、彼の隣を歩いた。少し前までなら、数歩後ろをついていたかもしれない距離。でも今は、彼が自然と歩幅を合わせてくれていることが胸を温かく満たした。

「まだ……実感、ないです」

 ぽつりと呟いた私の声に、彼はほんの少しだけ口元を緩めたようだった。私の視界の端で街灯に照らされたその横顔が、少しだけ柔らかかった。

「俺もだ。……けど、これからちゃんと形にしていきたいと思ってるよ」

 彼の言葉は、まっすぐだった。私の目を見ずに夜道を見据えたままなのに、どうしてだろう。
今まで何度も告白してきた私より、彼のそのひと言の方が、よっぽど恋の言葉に聞こえた。さすがだなと思った。

「先生……じゃない、……消太、さん……」

 名前を呼び慣れないことが少し可笑しかった。私の声が、かすかに笑っていたからか、彼はやや片眉を上げて振り返った。

「呼びづらい?」
「む……ちょっとだけ。でも、慣れます。何度も呼びますから」
「……それも、悪くないね」

 わずかに笑った。あの相澤先生──いや、消太さんが、ほんの少しでも笑った。そのことがなんだか信じられなくてけれど胸の奥に優しい灯りが灯ったようで、私はその夜の空を見上げた。星は出ていなかった。けれど心のなかではいくつもの光が生まれていた。
 もう、過去ではない。これからは想い続けた恋じゃない。いま、続いていく恋なのだ。

「……俺は、お前にちゃんと向き合うつもりだ」
「……私も、ちゃんと……受けとる側に、なれるように精一杯、頑張ります」
「真面目すぎ。授業中か」
「す……っ、すみません」
「そのうち敬語も抜けるといいね」
「え、あ、うん……努力、します。……する。」

 それはどこか不器用な恋の始まりだった。でも私たちらしいはじまりでもあったかもしれない。
 並んで歩く足音が夜の舗道に静かに響く。重ならないけれど、絶えず寄り添うそのリズムに私は少しだけ目を閉じた。
 ──恋を、始めよう。この人と、ようやく同じ場所から。


 *


 その日はなんでもない平日だった。仕事を終えて、少しだけ重たい買い物袋をぶら下げながら、自宅マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗る。肩に掛けた鞄の重みが、いつもより体に沁みて私はゆっくりと深呼吸をした。
 エレベーターを降り、カギを開け、部屋に灯りをつけたときの、あの静けさ。誰もいない部屋に帰るのは、もう慣れたはずなのに今夜は、ほんの少しだけ寂しかった。

 買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら、私はふと考えていた。
 もし、彼と同じ家で暮らすようになったら──この静まり返った空気は、果たしてどんなふうに変わるのだろうかと。炊飯器の小さな音とビニール袋のかさりとした手触りだけが台所に広がる。それは、ひとりの部屋にはありふれた静けさの
はずなのに今夜はなぜか少しだけ、違って感じられた。束の間、不意にスマートフォンが震えた。その音が、思ったよりも大きく響いた気がした。表示された名前に目を落とした瞬間、胸の奥が、一気に跳ねあがる。

 【 相澤消太 】

 ほんの少し前までそこには【相澤先生】と登録していた。たったそれだけの変化なのに、画面に浮かぶその名前が、私たちの関係が静かに、でも確実に変わりつつあることを、だれよりも雄弁に物語っていた。スマートフォンの通知を開くと、そこには一通のメッセージが届いていた。


相澤消太

急で悪い
今日、泊めてもらえないか






 文字の後ろに彼の声が聞こえた気がした。声にすればきっといつもの低くて無愛想なトーンだろう。いつも通りの彼。けれどそのいつも通りが、どうしようもなく、私の心を強く揺らした。理由なんていらなかった。迷う理由も答えを探す時間も。私はすぐに返信を送った。


名前

いいよ。
カギ、開けておきます






 ドアがノックされたのは、それから二十分後のことだった。扉を開けた先に立っていた彼は髪も服もいつも通りのまま。そして、見慣れた表情で「悪い」とだけ口にして、いつものように、私の部屋へ足を踏み入れた。でも、その何ひとつ変わらない様子がかえって私を深く落ち着かせてくれる。まるでずっと昔からこうして訪れていたかのように自然で。そのことが不思議なくらい、嬉しかった。

「泊まるの、初めてですね」

 思わずこぼれた私のひと言に彼は靴を脱ぎながらふと眉をひそめ、ソファへ向かう足を緩めた。

「……そうだったか」

 その声に戸惑いも気負いもない。むしろ自分の行動が自然すぎて数を忘れていたような、そんな響きだった。

「てっきり、何度か来てるような顔してますよ」

 冗談めかして言うと彼は振り返らずにソファに腰を下ろし、少しだけ口元を緩めた。その一瞬の表情がまるで許可のように思えて、私は台所へと小さく歩いた。

「……おまえの部屋に泊まるのは、初めてだな」
「嫌じゃなければ、いつでもどうぞ……」

 くすぐったさが喉の奥に残ったまま私は冷蔵庫を開けた。中身はあまりに心もとなくて、結局、二人で近くのコンビニに出かけることになった。
 食卓に並べたお弁当は決して温かくはなかったけれど、温度よりも箸を持つ音やペットボトルの蓋が開く音のほうがよほど心を和らげてくれた。テレビはつけなかった。夜の音だけが部屋に満ちている。冷蔵庫の低いうなりとカーテンが揺れるかすかな気配。その隙間にある沈黙を私は心から愛しいと思った。
 ふと隣に座る彼の横顔を盗み見る。照明の下で淡く影を落としたその頬の輪郭も、肩のわずかな疲れも言葉の少ない食べ方さえもそのすべてが、胸を満たすように愛しかった。
 五年前の私がこの光景を見たらどんな顔をするだろう。ただ同じ空間にいるだけの、なにげない時間。その隣に相澤消太がいるなんてきっと信じられない顔をしてそれから泣いてしまうだろう。

「……ここ、静かすぎやしないか」

 彼がぽつりと呟いた。その言い方が、独り言のようで誰かに語りかけるようでもあって私は自然と目を閉じかけていた視線を彼に向け直した。

「そうだね。でも……今日は、静かじゃない気がする」
「……俺のせい?」
「うん。消太さんが、いるから」

 言ってしまったあと胸の奥が少しだけひやりとした。でもその呼びかけに彼が目を伏せたまま、わずかに笑ったような気がして私は息をひとつ、胸の奥にしまい込んだ。
 食事の片づけを終えてシャワーを貸すと言ったときも、彼はいつものように「ああ」とだけ答えた。バスタオルを渡す指先が、少しだけ触れて、それだけでまた、心臓が一拍跳ねた。
 浴室の扉が閉まる音を聞いて私はその場に座り込み、何もしていない手のひらを見つめる。ほんとうに、来てくれたんだ。この部屋に。今夜。

「ベッド、一人用なので、狭いですけど……」

 そう告げた私に彼は少しだけ視線を向けたきりなにも言わなかった。そのかわり、無言のまま、シャツの袖を軽くまくりながら窓際の灯りに目をやって、そして静かに明かりを落とした。室内に残ったわずかな光だけが、彼の背中をぼんやりと浮かび上がらせる。私はしばらくその場から動けなかった。立ち尽くしたまま、彼がベッドに腰を下ろし、背中を向けて、淡々とした仕草で毛布の片側をそっと持ち上げた瞬間、それが彼なりの、「入ってこい」の合図だとすぐにわかった。心臓が一拍遅れて鳴った。けれど私はその静かな仕草に応えるように、ゆっくりと歩を進めた。足音をできるだけ殺しながらそっと、ベッドの縁に腰を下ろし、片手で布団をめくりながら、慎重に体を滑り込ませる。

 隣に彼がいる。それだけで空気の密度が変わる気がした。呼吸を合わせる必要もないのに、息が浅くなっていく。彼の背中はすぐそこにあった。触れれば届く距離。けれど触れない。彼も触れてこない。しかし触れないことが何よりもやさしいことだとわかっていた。毛布の下でわずかに動いた彼の肩越しに「悪いね……」と低く、眠たげな声が聞こえた。

「……いえ。うれしい、よ……?」

 そう答えた声が、自分でも驚くほど小さくて、そのまま深く沈み込むように目を閉じた。ふたり分の鼓動が重ならないまま並んでいること。それだけで、もう十分だった。
 この距離が、ちょうどいいと思える夜が、ようやく来てくれたことが、たまらなく嬉しかった。好きだった人と、こうして眠る夜がくるなんて。かつての私は想像さえできなかった。けれど今、ここにいる。それだけでもう十分すぎるくらいに幸せだ。

「……この部屋、いいな。落ち着くよ」

 彼の声が、低く、布団越しに届いた。まるで夢うつつのなかで漏れたようなやさしい音だった。私は応える代わりに静かに目を閉じた。この夜が明日につながっていきますようにと祈るように、そっと、呼吸を重ねながら──。


 *


 目覚めた瞬間、世界がいつもよりすこしだけ、違って見えた。
 カーテンの隙間から射し込む朝の光が床に長い影を落とし、隣には誰かの眠る気配があるという現実が、あまりにも静かで穏やかで、まるで夢のようだった。
 彼はまだ背を向けて眠っていた。毛布を肩までかけて呼吸は深く安定している。きっとまだ眠っているのだとわかったのに、それでも私は、その背中から目が離せなかった。眠っている人の気配というのは、どうしてこんなにも人を安心させるのだろうか。
 心臓が静かに打っている。体の中で、ちゃんと生きている私と、同じ時間を、同じ空気のなかで過ごしている人がいるというだけで世界はこんなにも優しくなるのかと、不思議に思った。

『……この部屋、いいな。落ち着くよ』

 昨夜、彼が寝入りばなに呟いたその言葉が私の中でふいに蘇る。意味なんて、きっと深くはなかった。でもその言葉に、私も含まれていたのだとしたら。彼の隣にいる今朝の私もほんの少しだけ報われている気がする。
 彼が目を覚ましたのはそれからしばらく経ってからだった。ゆっくりと寝返りを打ち目を細めた彼と目が合った。

「……起きてたのか」
「うん。少しまえに」
「……寝づらかった?」
「ううん。すごく、よく眠れました。夢、見なかったくらいには」

 そう言うと彼はわずかに目元を緩めた。それを見たときまるで朝の光に照らされてほどけるように、昨夜まで張りつめていたものが静かに崩れていく気がした。

「はぁ……。朝っぱらからね……」
「え?」
「いや……。そんな顔で見るんじゃないよ」
「ん? どんな顔……してた?」
「……好きって顔」

 彼がぼそっと言ったその言葉に私は小さく息を呑んだ。それはまるで何気ないようでいて、心の奥のやわらかい場所にそっと指を置かれたようなそんな感覚だった。

「だったら……また言いますよ?」
「……やめろ。寝起きに強すぎる」

 彼がそう言って目を閉じた。けれどその唇の端がわずかに笑っていたのを私は見逃さなかった。これが二人の朝というものなのだとたった一度の経験で、そのかけがえのなさに��大切�≠�、見い出していた。
 朝食は、トーストと卵とコーヒーという簡素なものだったけれどその小さな食卓をふたりで囲むことの意味は私にとっては何よりも大きい意味を持つ。

「味、普通ですけど」
「いや。うまいよ」

 たったそれだけの会話でもどこか二人の関係に静かな輪郭が宿っていく。
 帰り際、彼は玄関で、やや気怠げに靴を履きながら、ふとこちらを振り返った。

「名前」
「は、はい。」
「……また、来ていい?」

 その言葉が不意打ちすぎて私は返事をするのに少しだけ時間がかかってしまった。でも、きっとその沈黙のなかに頷いた以上の気持ちは伝わっていたと思う。

「……もちろん。」

 そう言った私の声は昨日よりも少しだけ自信に満ちていた。ドアの向こうに、朝の光が広がっている。それはきっと私たちの、これからの光でもあった。


 *


 雨が降ると、なぜか世界は、やさしくなる気がする。窓を打つ音が、騒がしさをすべて外へ閉め出してくれるからだろうか。それとも雨音の中に人の心が解ける音が紛れているのかもしれない。

 その夜も雨は静かに降っていた。まるで何かを包み隠すように、あるいは、まだ名前のつかない気持ちを、そっと守ってくれるように。
 彼は黙って傘をたたみ、濡れた上着を無造作に椅子の背に掛けた。部屋の灯りはいつもより少しだけ暗くしていて、その薄明かりが、彼の輪郭をやわらかく溶かしている。

「冷えるな」

 そう言った彼の声もどこか低く湿っていて私は台所の湯気の向こうから、小さく笑って返した。

「お風呂、沸いてるよ?」

 それは、何でもない言葉で、でも、好きな人がここにいるという確かな合図。
 彼が湯から戻る頃、私は毛布を畳みながら自分でも理由のわからない胸のざわめきを、そっと、深呼吸で沈めようとしていた。
 今夜は何かが少しだけ違っていた気配。言葉は少なく視線も控えめで、でも、二人のあいだにはいつもより濃い沈黙があった。濃くて、やわらかくて、触れれば破れてしまいそうな薄い水の膜のような。
 彼は黙って隣に腰を下ろした。距離はあった。けれど気配は、すぐそこにあって。やがて、彼の手が伸びてくる。何も言わずただ私の頬に指先が触れる。驚くよりも先にその触れ方の静けさに、胸を締めつけられた。まるで、自分の存在を確かめるように。あるいは、そこに在る私の想いを、受けとろうとするように言葉では交わせなかったものをその手だけが受け取ってくれる気がした。
 私は動けなかった。頬に触れたその指がそっと耳のうしろへ滑る。その手のひらに心ごと撫でられているようだった。少し息が乱れそうになってでも乱れた呼吸の事さえも彼は受け入れるように何も言わず、ただ見つめてくれていた。

「……触れても、いいかな」

 ようやく落ちてきた声は、ひどく小さかった。でもその声の中には、これまでに彼が飲みこんできた全ての想いが宿っていた。私はうなずいた。喉から音が出る気がしなかった。けれど彼の瞳がすぐに頷きを見つけてくれて、その目が、ひどくやさしかった。ふたりの距離がなくなったのは、それからだった。指先から手のひらへ。手のひらから、肩、背中、腰へ。ひとつひとつ、確かめるように触れられながら私は少しずつ体よりも先に心がほどけていくのを感じた。

 声は出さなかった。『好き』も『愛してる』もただの一言も口に出さなかった。でもそれよりも深くずっと前からあった想いがようやく彼の手を通して私に届いていた。
 互いの体が重なるということがこれほどまでに静かであたたかくて、そして切ないものだなんて知らなかった。
 まばたきするたびに彼の輪郭がぼやけて、またはっきりする。触れ合いながら、私はその都度、彼をもっともっと深く、愛してしまう。

「……名前がここにいてくれて、よかったよ」

 その夜、唯一彼が口にした言葉はそれだった。私はその胸に顔を埋めながら何も返さなかった。返せなかった。涙が喉をふさいでしまったから。ただその言葉を心の奥で抱きしめることしかできなかったのだ。

 ああ、これが、愛のはじまりなんだ……。声に出さないまま、でも、確かに通じ合ってしまった恋の夜であり、愛のはじまり。
 外の雨はもうやんでいた。それでも、私たちのあいだには、まだ降り続く音が残っていた。心の奥でずっと降っていた雨。それがようやく止んだ夜だった。
 好きという言葉がまだ宙に浮いたまま、けれど確かにふたりの関係は、この夜を越えて変わっていた。それは名もない幸福。声にならない余白に宿る恋人未満のあたたかさ。静けさの中で息づく夜明け前の優しさ。


 *


 朝が来たことを最初に告げてくれたのは窓から差し込む細くやわらかな光だった。光の粒がカーテンの隙間から、ふわりと部屋に入り込み、その温度がまだ眠っている体を静かに、でも確実に、揺り起こす。
 まどろみの中で私はまず、彼の背中を感じた。自分の肩がその背にかすかに預けられている事に気づいたとき心の奥でなにかが、静かにほどけていくのを感じた。
 あぁそうだ。昨夜、私はこの人に触れたのだ。指を、唇を、ぬくもりを、全部、交わしたのだ。けれども、それ以上に触れ合ったのは、きっと、心だったと思う。

 好きという言葉はまだどちらの口からも落ちていなかった。でも、不安はなかった。名前のない幸福が、ちゃんと確かに、ここにはあったから。言葉がなかったからこそふたりのあいだに沈んでいるこの静けさが、とても大切に思えた。
 私はゆっくりと体を起こす。彼は、まだ眠っていた。けれどその寝息は浅く、きっと目を覚ます寸前の場所にいる。私は少し迷ってから彼の髪にそっと手を伸ばした。もう何度目かになる、その仕草を今度は確かめるように「好きだよ」と囁くように撫でる。そのとき、彼のまぶたがかすかに動いた。

「……、おはよう。」

 まだ眠たそうな声。けれどその響きには、あのころ──教室に入ってきたときに発した声でも、はたまた昨夜とも少し違う何かが混じっていた。たとえば、安心。あるいは、甘さ。あるいは……もう言葉にしなくても伝わる、何か。

「……おはよう、ございます」

 私はいつもより小さな声で返す。まるで、その朝の静けさを壊さないように、言葉の温度まで、慎重に選んでいた。
 彼はしばらく私の顔を見ていた。何も言わず、ただ見つめていた。その視線が少しだけ照れくさくて私はつい目を逸らす。けれど次の瞬間、彼の手がそっと私の手に触れた。その触れ方があまりにもやさしくて、思いがけず泣きそうになる。

「……ありがとう」

 彼が言った。理由なんて説明しなくてもいい。「ありがとう」の意味がすべてわかってしまったことが、どうしようもなく、嬉しかったから。
 私たちは、まだ好きを言っていない。けれど、好きよりもずっと深く理解と信頼のかたちをして��愛�≠ェふたりのあいだに静かに根づいていた。

 その朝の食卓に、特別なものはなかった。トーストと、サラダと、熱いコーヒー。けれど、彼がパンを一口かじってから言った。

「……うまい。」

 そのひと言が、ここにいるという選択を、またひとつ積み重ねてくれたようで私は黙って、少しだけうつむきながら笑った。
 ��好き�∴ネ上の幸福。��まだ�≠ニいう言葉の中にあるやさしい予感。言葉より先に、朝が来た。それはつまり、ふたりの恋が、ちゃんと始まっていたということの証。





 

いとしきことの名を知らず


(……意外と、ちゃんとしてるんだな)
(え、なにが?)
(ん、朝ごはん)
(え。ちょっと失礼じゃないですか、それ?)
(ほめてる)
(……ほんとに?)
(……ほんと。)

※image song『 愛とか恋とか/Novelbright 』


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