今夜は、ちゃんと向き合おう。あの夜、泣いて逃げて、答えを棚上げにして、誰かの背に甘えてしまった、あの夜と──。
私はジャケットの襟を少しだけ正して相澤先生の住むマンションのインターホンを鳴らした。
数秒の沈黙ののち扉が開くと、先生はいつものように無表情で、けれど、目元だけがすこしだけ緩んでいた。
「どうした」
「……あ、えっと……。ジャージを、お返しに」
「うん」
「それと──お礼と、ご報告を、と思って……」
「報告?」
「前に……進もうと思います、わたし。」
そう言うと先生はほんの一瞬、口元を引き結びそして、無言で頷いた。それだけで十分だった。
それは言葉以上の、静かな了承だったから。
「……で、話は以上?」
「あ、いえ。あの……もしよければ、飲みに行きませんか?」
「……は?」
「今度は私の奢りです。ちゃんとお礼も込めて」
先生は目を伏せてから「そうか」と、一言だけ言って、そばにかけてあったコートを羽織った。
今回は私の行きつけの居酒屋を選び、私は以前より少しだけ多く笑えた。日本酒を二杯、先生は変わらず口数は少なかったけれど、いつもよりも少しだけ、よく喋ってくれた。
「昔、お前が体育祭でこけて泣いてたの、覚えてるか」
「えっ!? あれ、先生見てたんですか?」
「ああ、職員室のモニターでな。で、泣いたまま保健室に逃げ込んで、保冷剤抱えてた」
「うわ! 懐かしいっ!……恥ずかしっ!」
そんな他愛もない会話をして、私はどれくらいぶりに、こんなふうに声を出して笑っただろう。けれど、私がかつて誰にも言えずに立ち止まっていたとき、ほんの少し背中を押してくれた記憶としてきっとこの人はこれからも心に残っていくのだろうと、そんな気がしていた。
駅までの帰り道。冬の夜風が頬をなぞるように冷たくなっていて私はマフラーを巻き直しながら相澤先生と肩を並べて歩いていた。
「相澤先生。あのとき助けてくれて、ありがとうございました」
「礼なら、もう充分聞いた」
「でも、言いたかったんです。ちゃんと、自分の口で」
静かなやりとりだった。言葉の裏にあるものはもうお互い分かっていて、それでも、交わしたい言葉だった。
そのとき、角を曲がった先──駅前の、広場。ちょうど三人組の男性たちが、酔い混じりに笑いながら、こちらへ向かってくるのが見えた。その真ん中にいたのはまさかの彼、ホークスだった。一瞬で空気が変わった。私も先生も、彼も、足を止めた。その場に吹いていた風さえ、どこか音を潜めたような気がした。彼の隣にいたファットガムさんが「おっ、イレイザーやん!」と軽く手を挙げる。けれど彼はそれを制することもなくただ黙ったまま、こちらを見つめていた。
視線が私の隣に立つ相澤先生へと向かう。その瞬間、彼の目が僅かに細められたのがわかった。表情には笑みひとつ浮かんでいなかった。街灯の光が揺れて瞳の奥に火が灯ったような赤が差した気がした。
「……なに、してんです?」
低く、抑えた声。表面上は静かでも、その奥に渦巻く感情は、明らかだった。
「あ……えっと、ただ、帰ってただけです……」
「��ふたりきり�≠ナ? 夜、こんな遅くに?」
問い詰めるような声音に、ファットガムさんが空気を察したのか「おーっと、これは……」と、ぼそりと呟いてそっと彼の背中へ視線を逸らし、やや後退りをする。やだ……待って、行かないでほしい。この空気を中和してくれる誰かが、今は必要だったのに。目の前で彼、ホークスが一歩、私に詰め寄った。その動きはいつもの軽やかさがなかった。背中の羽根さえ、いまは一切動かず、ただ重たく沈黙を背負ったまま彼は、私を射抜くように見つめていた。
「��ちゃんと考えたい�≠チて、そういうこと?」
私は何も言えなかった。だってそれを彼にどう説明すればいいのか、自分でもわからなかった。相澤先生が一歩前に出ようとしたそのとき、私はそっと手を伸ばして制した。この人には何も言わせたくなかったから。これは私の問題で、自身が向き合わなきゃいけないことだったから。
彼と私と、そして過去の私──。そのすべてがいまこの場に、静かに並んでいた。
「啓悟くん……違うの。これは、ただ──」
「��ただ�≠竄ネか。俺の目の前で、こげんふうに並んで歩きよって��ただ�≠ニか言われても、信じられん」
その声は、明らかに怒りに揺れていた。羽根が風をはらむようにわずかに膨らみ無意識に感情を映している。彼が感情をここまで露わにするのはそう滅多にあることではなかった。いつも彼は、自分の感情を抑え込んで、守る側に回る人だったから。
「……ごめんなさい」
それしか言えなかった。ほんとうに、何もやましいことなんてなかったのに。けれど彼をあんな顔にさせてしまったことが、ただ苦しくて、居たたまれなかった。
「なんで俺ばっか、こげん気持ちになると?」
掠れた声だった。あの夜「話そう、今。ちゃんと」と素直に告げてくれたあの声が今は、怒りと哀しみに濡れて、歪んでいる。
「くそ……やっぱ嫌ばい。あの夜、背負われてたときも、今こうして歩きよーことも、頭ん中から消えん」
言葉の最後に微かに息を詰める音が重なった。空気が、凍るような静寂に落ちた。隣にいた相澤先生がちらと私を見た気配がしたけれど私は顔を上げられなかった。視線を足下に落としたまま、唇を噛んで、黙っていた。
「……啓悟、くん──」
名前を呼ぶのが、精一杯だった。言葉は、それ以上、どこにも繋がらなかった。
「……チッ」
低い舌打ちを一つ。そして、羽ばたき一つ──彼は、怒りを抱えたまま、夜空へと飛び立った。街灯の明かりを掠めて、まっすぐ、躊躇いなく、闇の奥へと、ものすごい速さで消えていく。
「ちょォ待てェホークス!飲酒飛行はあかんて!法律違反や!」
ファットガムさんの焦ったような声が、背中を追いかけた。だが彼は一度も振り返らなかった。空はいつも彼を自由にしてくれる場所だったはずなのに……。
今夜の彼の羽ばたきにはどこか逃げるでも帰るでもなく何かを強引に振り払うような荒々しさが宿っていて残された私たちの足元にはどこまでも平坦な地面が広がっているだけだった。
「お前の昔の男って、ナンバーツーだったのか」
相澤先生が、深くため息を吐きながら呟いた。その声には呆れと戸惑いと、そして少しの理解が混じっていた。あの彼の姿を見ていれば、感情をむき出しにしてしまうほど、どれほど抑えてきたものがあったかは、痛いほど伝わったのだろう。
「……ごめんなさい」
「別に俺に謝ることじゃない。お前がちゃんと、向き合っただけだろ。向こうが、追いついてないだけだ」
「速すぎる、男なのに……?」
「はぁ。冗談言ってる余裕はあるんだな、楽観がすぎて目眩がしますよ」
「す、みません……」
私はそれ以上何も言えなかった。でも胸の奥で何かが確かに静かに鳴っていた。怒鳴られたわけじゃない。けれど彼のあの目が忘れらず、脳裏に焼きついて離れない。あんなにも真っ直ぐで、
傷ついていて、愛しさと怒りの境目で揺れていたその目を──。……どうして、あんなに。
*
一方、その夜の空──。
冷気を切るように俺はただ一心に、あてもなく飛んでいた。いつもなら風の音が心を洗ってくれるはずだったのに、今夜に限ってはそれさえも、苛立たしかった。
「あー、……くそっ」
誰にも届かないように声を荒げた。吐き捨てるでもなく、叫ぶでもなく、ただ、自分の中の焦げついた感情を、風に混ぜて放っただけだった。
ビルの屋上に降り立つ。手には、ぬるくなったカフェオレの缶。まだ、握ったままだったことに気づいてふと笑いそうになる。そのまま縁に腰を下ろす。喉も渇いていないのに缶を開ける気にもなれず、ただ冷えたアルミの感触だけを、無言で握りしめていた。
「なんで俺、あげん言い方……」
羽根が無意識に震える。でもあのとき、足が、心が留まらなかった。彼女と相澤先生の笑い声が焼きついて離れなかった。思えば彼女は雄英高校の卒業生だ。そんなこと、始めから知っていた。ただ話してただけってわかっていたはずなのに。
「信じられん……」
自分が……。ああ、自分の声が遠い。どこかで子どもじみた嫉妬だとわかっていた。でも彼女の隣に自分じゃない男が立っているという光景が、心のどこかを鋭く、切り裂いた。彼女に拒まれるたび自分のなかにある、無価値感が目を覚ます。彼女に泣かれるたび、愛される覚悟がぐらつく。そんな自分が、いちばん、嫌だった。
「ほんと……情けなかぁ、俺……」
そう呟いたとき、ふと視界の奥に、彼女の顔が浮かんだ。泣きながら自分から逃げていった夜。怖がりながら、でも誠実に、言葉を探していた
彼女の横顔。そしてあのときと、今日の『ごめんなさい』それがどれほど苦しい決断だったのか、今ようやく、胸に届いてくる。
��怒り�≠フ奥にはずっと、��怖さ�≠ェあった。彼女が自分ではない誰かの隣に立っている光景に自分の居場所が、消えてしまう気がした。彼女の過去として処理されることがどうしても我慢できなかった。
「俺……まだ、ちゃんと謝っとらん……」
そう呟いて顔を覆った。風が強くなって、額の前髪を、逆撫でていった。いつものように羽根を風に遊ばせることもせずただ、夜空を見上げた。
何度も、何度も思い返していた。彼女の『もうやめてほしい』と訴える涙。その声を聴いたときたしかに自分の中の何かが崩れた。だけど、それでも壊れたその場所からまた、何かが芽吹こうとしていたから。
「俺、終わらせたかったわけやなかと……」
つぶやきが風に溶ける。愛されることが、怖かった。彼女の未来を背負いきれるか自信がなかった。だからあえて終わらせたように振る舞った。けれど本当はずっと、あの人の隣にいたかった。
「……今さらでも、遅うなかよな?」
ぽつりと誰に向けるでもなく放ったその声には迷いはなかった。背中に羽根が広がったとき風が街を撫でた。
会わなければならない。��好き�≠ニいう言葉を今度こそ最後まで言わなければならない。もう、遅れたくない。だって、俺は──��速すぎる男�≠ネのだから。
そのころ私はひとり部屋に戻りブーツを脱いでソファに沈み込んでいた。
彼の怒りは私にとっても、とても、怖かった。でも怖かったのは怒鳴られたことじゃない。あの怒りの奥に��捨てられることへの恐れ�≠ェ透けて見えてしまったから。
きっと彼は、誰よりも自由な場所にいながら、誰よりも愛に飢えている。誰も信じきれなかった日々を越えて、今、私のことをどうしても手放したくないと思ってくれている。それを私は無意識に感じ取ってしまっていた。だからこそ涙が出そうだった。彼の愛は不器用すぎて、あまりにまっすぐで。それがたまらなく、愛しかった。
*
朝の光は、やけに優しく見えた。それが天気のせいか気温のせいか、それともただ自分の気持ちのせいなのかは、わからない。
羽根が重たかった。頭の奥で脈打つような鈍い痛み。久しぶりに飲みすぎたせいだと言い訳しながら俺は片手で顔を覆い、深くため息を吐いた。
昨夜のことはよく覚えている。相澤先生と並ぶ彼女の姿。怒りに任せて問い詰めて、身勝手に、その場から消えて、法を逸脱して、ただ逃げた。あのときの自分は、ヒーローでも大人でもなく、ただの嫉妬にかられた、クソガキだった。
「やっちまったばい……ダッサ。」
声に出すと、ますます痛みが押し寄せた。嫌な汗が額を伝い、寝ぐせのついた前髪に染み込む。でもその奥でひとつだけはっきりしていたことがある。謝りたい。ちゃんと、自分の言葉で。もう一度だけヒーローの顔じゃなく、あの人が好きになってくれた等身大の、自分自身として。
「逃げとーとは、俺ん方やったんかも……」
どんなに軽口を叩いても、どんなに余裕のあるふりをしても、あの人の涙とまっすぐな目だけは誤魔化せなかった。思い出すたびに、胸が痛い。だけど今ならその痛みを受け入れる覚悟がほんの少しだけ、ある気がした。
「……会いに、行きますかぁ。」
陽が昇りきる前に、俺は身を起こした。羽根が重くても、それでも飛ぶのがヒーロー、ホークスなのだと、思い出すように──。
私はその頃キッチンでコーヒーを淹れていた。昨夜は、ひと晩中、眠れなかった。寝返りばかりうち、枕に顔を押し付けても胸のざわつきは消えなかった。
ちゃんと謝りたい。説明しなかったことで彼を傷つけた。言葉にしなかった事で彼の中の不安を膨らませた。あの怒りの奥にあったのは私を失いたくないという、ただ一つの願いだった。それを私はまっすぐに受け止めることが怖くて、避けてしまったのだ。
時計の針が、八時を指したころ。私はスマホを手に取って、しばらく画面を見つめたあと、意を決してメッセージを打ち込んだ。

昨日はごめんなさい
少し話せますか?
今度こそちゃんと
話したいです