今夜は、ちゃんと向き合おう。あの夜、泣いて逃げて、答えを棚上げにして、誰かの背に甘えてしまった、あの夜と──。

 私はジャケットの襟を少しだけ正して相澤先生の住むマンションのインターホンを鳴らした。
 数秒の沈黙ののち扉が開くと、先生はいつものように無表情で、けれど、目元だけがすこしだけ緩んでいた。

「どうした」
「……あ、えっと……。ジャージを、お返しに」
「うん」
「それと──お礼と、ご報告を、と思って……」
「報告?」
「前に……進もうと思います、わたし。」

 そう言うと先生はほんの一瞬、口元を引き結びそして、無言で頷いた。それだけで十分だった。
それは言葉以上の、静かな了承だったから。

「……で、話は以上?」
「あ、いえ。あの……もしよければ、飲みに行きませんか?」
「……は?」
「今度は私の奢りです。ちゃんとお礼も込めて」

 先生は目を伏せてから「そうか」と、一言だけ言って、そばにかけてあったコートを羽織った。
 今回は私の行きつけの居酒屋を選び、私は以前より少しだけ多く笑えた。日本酒を二杯、先生は変わらず口数は少なかったけれど、いつもよりも少しだけ、よく喋ってくれた。

「昔、お前が体育祭でこけて泣いてたの、覚えてるか」
「えっ!? あれ、先生見てたんですか?」
「ああ、職員室のモニターでな。で、泣いたまま保健室に逃げ込んで、保冷剤抱えてた」
「うわ! 懐かしいっ!……恥ずかしっ!」

 そんな他愛もない会話をして、私はどれくらいぶりに、こんなふうに声を出して笑っただろう。けれど、私がかつて誰にも言えずに立ち止まっていたとき、ほんの少し背中を押してくれた記憶としてきっとこの人はこれからも心に残っていくのだろうと、そんな気がしていた。

 駅までの帰り道。冬の夜風が頬をなぞるように冷たくなっていて私はマフラーを巻き直しながら相澤先生と肩を並べて歩いていた。

「相澤先生。あのとき助けてくれて、ありがとうございました」
「礼なら、もう充分聞いた」
「でも、言いたかったんです。ちゃんと、自分の口で」

 静かなやりとりだった。言葉の裏にあるものはもうお互い分かっていて、それでも、交わしたい言葉だった。
 そのとき、角を曲がった先──駅前の、広場。ちょうど三人組の男性たちが、酔い混じりに笑いながら、こちらへ向かってくるのが見えた。その真ん中にいたのはまさかの彼、ホークスだった。一瞬で空気が変わった。私も先生も、彼も、足を止めた。その場に吹いていた風さえ、どこか音を潜めたような気がした。彼の隣にいたファットガムさんが「おっ、イレイザーやん!」と軽く手を挙げる。けれど彼はそれを制することもなくただ黙ったまま、こちらを見つめていた。
 視線が私の隣に立つ相澤先生へと向かう。その瞬間、彼の目が僅かに細められたのがわかった。表情には笑みひとつ浮かんでいなかった。街灯の光が揺れて瞳の奥に火が灯ったような赤が差した気がした。

「……なに、してんです?」

 低く、抑えた声。表面上は静かでも、その奥に渦巻く感情は、明らかだった。

「あ……えっと、ただ、帰ってただけです……」
「��ふたりきり�≠ナ? 夜、こんな遅くに?」

 問い詰めるような声音に、ファットガムさんが空気を察したのか「おーっと、これは……」と、ぼそりと呟いてそっと彼の背中へ視線を逸らし、やや後退りをする。やだ……待って、行かないでほしい。この空気を中和してくれる誰かが、今は必要だったのに。目の前で彼、ホークスが一歩、私に詰め寄った。その動きはいつもの軽やかさがなかった。背中の羽根さえ、いまは一切動かず、ただ重たく沈黙を背負ったまま彼は、私を射抜くように見つめていた。

「��ちゃんと考えたい�≠チて、そういうこと?」

 私は何も言えなかった。だってそれを彼にどう説明すればいいのか、自分でもわからなかった。相澤先生が一歩前に出ようとしたそのとき、私はそっと手を伸ばして制した。この人には何も言わせたくなかったから。これは私の問題で、自身が向き合わなきゃいけないことだったから。
 彼と私と、そして過去の私──。そのすべてがいまこの場に、静かに並んでいた。

「啓悟くん……違うの。これは、ただ──」
「��ただ�≠竄ネか。俺の目の前で、こげんふうに並んで歩きよって��ただ�≠ニか言われても、信じられん」

 その声は、明らかに怒りに揺れていた。羽根が風をはらむようにわずかに膨らみ無意識に感情を映している。彼が感情をここまで露わにするのはそう滅多にあることではなかった。いつも彼は、自分の感情を抑え込んで、守る側に回る人だったから。

「……ごめんなさい」

 それしか言えなかった。ほんとうに、何もやましいことなんてなかったのに。けれど彼をあんな顔にさせてしまったことが、ただ苦しくて、居たたまれなかった。

「なんで俺ばっか、こげん気持ちになると?」

 掠れた声だった。あの夜「話そう、今。ちゃんと」と素直に告げてくれたあの声が今は、怒りと哀しみに濡れて、歪んでいる。

「くそ……やっぱ嫌ばい。あの夜、背負われてたときも、今こうして歩きよーことも、頭ん中から消えん」

 言葉の最後に微かに息を詰める音が重なった。空気が、凍るような静寂に落ちた。隣にいた相澤先生がちらと私を見た気配がしたけれど私は顔を上げられなかった。視線を足下に落としたまま、唇を噛んで、黙っていた。

「……啓悟、くん──」

 名前を呼ぶのが、精一杯だった。言葉は、それ以上、どこにも繋がらなかった。

「……チッ」

 低い舌打ちを一つ。そして、羽ばたき一つ──彼は、怒りを抱えたまま、夜空へと飛び立った。街灯の明かりを掠めて、まっすぐ、躊躇いなく、闇の奥へと、ものすごい速さで消えていく。

「ちょォ待てェホークス!飲酒飛行はあかんて!法律違反や!」

 ファットガムさんの焦ったような声が、背中を追いかけた。だが彼は一度も振り返らなかった。空はいつも彼を自由にしてくれる場所だったはずなのに……。
 今夜の彼の羽ばたきにはどこか逃げるでも帰るでもなく何かを強引に振り払うような荒々しさが宿っていて残された私たちの足元にはどこまでも平坦な地面が広がっているだけだった。

「お前の昔の男って、ナンバーツーだったのか」

 相澤先生が、深くため息を吐きながら呟いた。その声には呆れと戸惑いと、そして少しの理解が混じっていた。あの彼の姿を見ていれば、感情をむき出しにしてしまうほど、どれほど抑えてきたものがあったかは、痛いほど伝わったのだろう。

「……ごめんなさい」
「別に俺に謝ることじゃない。お前がちゃんと、向き合っただけだろ。向こうが、追いついてないだけだ」
「速すぎる、男なのに……?」
「はぁ。冗談言ってる余裕はあるんだな、楽観がすぎて目眩がしますよ」
「す、みません……」

 私はそれ以上何も言えなかった。でも胸の奥で何かが確かに静かに鳴っていた。怒鳴られたわけじゃない。けれど彼のあの目が忘れらず、脳裏に焼きついて離れない。あんなにも真っ直ぐで、
傷ついていて、愛しさと怒りの境目で揺れていたその目を──。……どうして、あんなに。

 *

 一方、その夜の空──。
 冷気を切るように俺はただ一心に、あてもなく飛んでいた。いつもなら風の音が心を洗ってくれるはずだったのに、今夜に限ってはそれさえも、苛立たしかった。

「あー、……くそっ」

 誰にも届かないように声を荒げた。吐き捨てるでもなく、叫ぶでもなく、ただ、自分の中の焦げついた感情を、風に混ぜて放っただけだった。
 ビルの屋上に降り立つ。手には、ぬるくなったカフェオレの缶。まだ、握ったままだったことに気づいてふと笑いそうになる。そのまま縁に腰を下ろす。喉も渇いていないのに缶を開ける気にもなれず、ただ冷えたアルミの感触だけを、無言で握りしめていた。

「なんで俺、あげん言い方……」

 羽根が無意識に震える。でもあのとき、足が、心が留まらなかった。彼女と相澤先生の笑い声が焼きついて離れなかった。思えば彼女は雄英高校の卒業生だ。そんなこと、始めから知っていた。ただ話してただけってわかっていたはずなのに。

「信じられん……」

 自分が……。ああ、自分の声が遠い。どこかで子どもじみた嫉妬だとわかっていた。でも彼女の隣に自分じゃない男が立っているという光景が、心のどこかを鋭く、切り裂いた。彼女に拒まれるたび自分のなかにある、無価値感が目を覚ます。彼女に泣かれるたび、愛される覚悟がぐらつく。そんな自分が、いちばん、嫌だった。

「ほんと……情けなかぁ、俺……」

 そう呟いたとき、ふと視界の奥に、彼女の顔が浮かんだ。泣きながら自分から逃げていった夜。怖がりながら、でも誠実に、言葉を探していた
彼女の横顔。そしてあのときと、今日の『ごめんなさい』それがどれほど苦しい決断だったのか、今ようやく、胸に届いてくる。
 ��怒り�≠フ奥にはずっと、��怖さ�≠ェあった。彼女が自分ではない誰かの隣に立っている光景に自分の居場所が、消えてしまう気がした。彼女の過去として処理されることがどうしても我慢できなかった。

「俺……まだ、ちゃんと謝っとらん……」

 そう呟いて顔を覆った。風が強くなって、額の前髪を、逆撫でていった。いつものように羽根を風に遊ばせることもせずただ、夜空を見上げた。
 何度も、何度も思い返していた。彼女の『もうやめてほしい』と訴える涙。その声を聴いたときたしかに自分の中の何かが崩れた。だけど、それでも壊れたその場所からまた、何かが芽吹こうとしていたから。

「俺、終わらせたかったわけやなかと……」

 つぶやきが風に溶ける。愛されることが、怖かった。彼女の未来を背負いきれるか自信がなかった。だからあえて終わらせたように振る舞った。けれど本当はずっと、あの人の隣にいたかった。

「……今さらでも、遅うなかよな?」

 ぽつりと誰に向けるでもなく放ったその声には迷いはなかった。背中に羽根が広がったとき風が街を撫でた。
 会わなければならない。��好き�≠ニいう言葉を今度こそ最後まで言わなければならない。もう、遅れたくない。だって、俺は──��速すぎる男�≠ネのだから。

 そのころ私はひとり部屋に戻りブーツを脱いでソファに沈み込んでいた。
 彼の怒りは私にとっても、とても、怖かった。でも怖かったのは怒鳴られたことじゃない。あの怒りの奥に��捨てられることへの恐れ�≠ェ透けて見えてしまったから。
 きっと彼は、誰よりも自由な場所にいながら、誰よりも愛に飢えている。誰も信じきれなかった日々を越えて、今、私のことをどうしても手放したくないと思ってくれている。それを私は無意識に感じ取ってしまっていた。だからこそ涙が出そうだった。彼の愛は不器用すぎて、あまりにまっすぐで。それがたまらなく、愛しかった。


 *


 朝の光は、やけに優しく見えた。それが天気のせいか気温のせいか、それともただ自分の気持ちのせいなのかは、わからない。
 羽根が重たかった。頭の奥で脈打つような鈍い痛み。久しぶりに飲みすぎたせいだと言い訳しながら俺は片手で顔を覆い、深くため息を吐いた。

 昨夜のことはよく覚えている。相澤先生と並ぶ彼女の姿。怒りに任せて問い詰めて、身勝手に、その場から消えて、法を逸脱して、ただ逃げた。あのときの自分は、ヒーローでも大人でもなく、ただの嫉妬にかられた、クソガキだった。

「やっちまったばい……ダッサ。」

 声に出すと、ますます痛みが押し寄せた。嫌な汗が額を伝い、寝ぐせのついた前髪に染み込む。でもその奥でひとつだけはっきりしていたことがある。謝りたい。ちゃんと、自分の言葉で。もう一度だけヒーローの顔じゃなく、あの人が好きになってくれた等身大の、自分自身として。

「逃げとーとは、俺ん方やったんかも……」

 どんなに軽口を叩いても、どんなに余裕のあるふりをしても、あの人の涙とまっすぐな目だけは誤魔化せなかった。思い出すたびに、胸が痛い。だけど今ならその痛みを受け入れる覚悟がほんの少しだけ、ある気がした。

「……会いに、行きますかぁ。」

 陽が昇りきる前に、俺は身を起こした。羽根が重くても、それでも飛ぶのがヒーロー、ホークスなのだと、思い出すように──。

 私はその頃キッチンでコーヒーを淹れていた。昨夜は、ひと晩中、眠れなかった。寝返りばかりうち、枕に顔を押し付けても胸のざわつきは消えなかった。
 ちゃんと謝りたい。説明しなかったことで彼を傷つけた。言葉にしなかった事で彼の中の不安を膨らませた。あの怒りの奥にあったのは私を失いたくないという、ただ一つの願いだった。それを私はまっすぐに受け止めることが怖くて、避けてしまったのだ。

 時計の針が、八時を指したころ。私はスマホを手に取って、しばらく画面を見つめたあと、意を決してメッセージを打ち込んだ。


名前

昨日はごめんなさい
少し話せますか?
今度こそちゃんと
話したいです






 送信ボタンを押したとき心臓が跳ねた。けれどその一秒後、画面に表示された��既読�≠フ文字がほんの少しだけ、冷え切った体の奥を温めた。
 きっと今度こそ。ちゃんと、伝えられる。泣くことも怒ることも全部を引き受けて、それでも、『好きです』と。『一緒にいたい』と言える日にしたい。いや、しなければならない──絶対に。


 *


 電車に揺られ向かった指定された場所はデートで行ったこともない小さな海辺の町だった。彼が『ここ昔、ちょっと思い出があって』と、ぽつり話してくれたことが過去にあり、なんとなくその記憶だけが、頭の片隅に残っていた。
 都心部から一時間ほどの距離。観光地でもなんでもないその浜辺は、湿気をほんの少しだけ風が攫ってくれる、静かな場所だった。
 彼は先に着いていた。私が改札を出た瞬間少し離れたベンチに座っている後ろ姿が見えて思わず歩調を緩めてしまったほど彼の背中は、いつもと違って見えた。翼を折りたたみ、スマホも見ず、空も見上げず、ただ俯いて、波音に耳を澄ませているようだった。

「ごめん。……待たせた?」

 そう声をかけたとき彼はゆっくりと顔を上げ、そして、いつものように笑った。けれども、その笑みはどこか、微かに疲れていて、でも穏やかできっとこれが彼の素の姿なのだと初めて思った。

「……んー、ちょっと。三年くらい」
「うそ。二週間も経ってないよ」
「感覚です、感覚」

 そんな冗談に、私もつられて笑った。まるで、ずっと前から知っていた人みたいに会話がすっと呼吸に溶け込んでいく。
 そのままふたりで浜辺を歩いた。潮の香りが、靴の底を濡らした砂が、風のなかに溶けていく。しばらく沈黙が続いたけれど、彼が先に、言葉を落とした。

「あのとき、ごめん……怒鳴りたかったわけじゃなかったけど、怒った顔してましたよね、俺。」
「……ううん」

 私がすぐに否定すると彼は苦笑いを浮かべた。けれどその表情はどこか自嘲気味で目の奥に影が残っていた。

「ヒーローとしても、人としても、最低でした」

 私はそっと、首を横に振る。言葉じゃなくて、ちゃんと目を見て、そうじゃないと伝えたくて。

「ううん……あなたの気持ち、全部じゃないけどわかったよ。怖かったんでしょ?」
「わーぉ……バレてましたぁ?」

 少しだけ、照れたような声。彼は手を上げて、後ろ頭をかく。その仕草が何よりの答えだった。

「私も、謝りたい。ちゃんと説明しなかったから
……不安にさせて、疑わせて、傷つけたよね」

 彼は、何も言わなかった。でも、否定もしなかった。その沈黙は重たく、でもどこか優しくて。ちゃんとそこに在るべきものとして、そっと寄り添っていた。

「あの夜、相澤先生に助けられて……でも、それ以上の感情なんて、ほんとうに何もなくて……」
「……わかってる」

 短く、それだけ。だが、その言葉がこんなにも静かに胸に沁みてくるとは思わなかった。

「……俺、ね。ほんとは愛されるのって、めちゃくちゃ怖いんすよねぇー」

 彼は靴先で、砂を掬うようにして、ゆっくりと言葉を続けた。何気ないように見えて、その声の奥には、ずっと押し込めてきた彼の弱さが静かににじんでいた。

「だって、誰かの��特別�≠ノなるって、同時に、誰かに��壊される可能性を抱える�≠チてことじゃないです?」

 その言葉の重みを風がそっと運んでいく。彼の心の奥を覗いた気がして私の胸もまたふるえた。

「でも名前さんだけは違った。俺が翼を閉じても何も背負ってなくても、ただ啓悟くんって呼んでくれたの、名前さんだけだったから……」
「……私も、あなたに救われてたよ。たくさん」
「うん。だから、もう一度だけ──ちゃんと向き合いたい。」

 その声はまっすぐだった。風に流されず、波にさらわれずしっかりと耳に届いた。私もゆっくりと頷く。この人の隣なら怖くても、傷ついても、また、一緒に歩けるかもしれない、と……。

「私も、そう思って来たよ。今日は逃げないよ」

 そのとき彼が初めて羽根を小さく広げた。抱きしめるでもなく触れるでもなく、風のように私の背にまわる気配だけが、そっと背中に寄り添ってくる。そのやさしさに、胸の奥がふわりと温かくなった。

「……やっぱ名前さん、かっこいいや」
「え、かっこいい?」
「いや、なんか俺より大人っぽいから。ちょっと妬けます」
「ふふ、なにそれ」

 笑いながら私は彼の隣に立った。風がふたりのあいだを、やわらかく通り抜けていく。その中で羽根がそよぐ音だけが、静かに響いていた。綺麗だな、と思った。あんなに鋭くて、あんなに重そうだった羽根がいまはまるで風そのものになったみたいに優しく揺れていたから。

 しばらくふたりで何も言わずに空を見ていた。静かで、穏やかで、やっと肩の力が抜けたようなそんな時間の流れ。ふたりでまた波打ち際を歩き砂浜の白さが夜の紺に染まる頃──。

「……そろそろ、帰ります?」

 ふと彼がそう訊いた。私はその問いには答えず少しだけ足を止める。海の向こうに沈んだばかりの太陽が雲の輪郭を染めていた。風がゆるやかになり、どこか、町の匂いも混じり始めていた。

「……電車、あと一本で終わっちゃうね」
「ですね。ていうかたぶん無理ですねー、もう」
「……だね」

 並んでいた足先をふと見下ろして、それから、顔を見合わせる。どちらからともなく、くすりと笑った。夜風がそっと、吹き抜けていく。でも、さっきまでの、あの張りつめたような冷たさは、もうなかった。

「じゃあ──ひとつ、提案です」
「ん?」
「なんとなぁ〜く、泊まって行っちゃいます?」

 わざと軽く調子を外したような口ぶりだった。冗談のように見せかけて、それでもどこかに、
ほんの少しだけ真剣さがにじんでいて。私もつられるように少し笑って「なんとなく、ね」と言い返す。それは、肯定でも拒絶でもなかった。でも彼にならちゃんと伝わった気がした。どちらからでもない。どちらからともなく、そういう空気になっていったのだ。少しだけ冷たい風がスカートの裾を揺らす。なのに胸の奥だけは、ぽっと火が灯ったように温かかった。
 この夜が何かのはじまりになるかもしれない。そんな予感だけが静かに確かに、そこに芽吹いていた。

 駅から少し離れた小さな海辺の宿。畳の香りと古い障子の音。部屋の隅に丸いちゃぶ台と、低い布団がふた組。旅館というには質素で、でもどこか、ほっとする空間。
 お風呂を先にもらって風呂上がりの彼が「背中切っても良いって言われましたー」と、浴衣姿で戻ってくると、なぜか少し照れてしまって、私はそっと、クッションに顔を埋めた。

「……なにそれ、かわいすぎでしょ」
「うるさい。啓悟くんこそ」
「いや、俺はいつも可愛い担当ですからっ」

 ふざけあいながらも、どこか落ち着いていた。言葉にすればまだ、距離があるように見えても、もう息づかいは同じ空気の中にあった。テレビはつけず、ただ波音の残響が遠くから静かに届いてくる。ちゃぶ台の上には、地元のサイダーの瓶が置かれていて、そのガラスの肌にゆっくりと汗が滲んでいた。音も光もささやかな温度も、どこか遠くて、けれど確かにふたりだけの部屋に染まっていた。そうして私からそっと、口火を切る。

「……ねえ、ひとつだけ、約束しない?」
「うん、します。……て、まだ言ってないけど」

 その返しに、思わず笑ってしまいそうになる。けれど私は笑わず代わりに膝を抱えたまま、ゆっくりと彼の方へ体を向けた。目と目が合ったその瞬間、さっきまでふざけていた空気がほんの少しだけ、静かに深まった。

「喧嘩しても怒っても、不安になっても……逃げないこと。逃がさないこと。言葉にすること」

 彼は数秒だけ黙って、それから、手を伸ばして私の髪に触れた。前髪をそっとすくい指先で頬にかかる毛先を耳の裏へと流す。

「うん。逃げません。……でも、名前さんが泣いたら、俺、飛んで行っちゃうかもですよー?」

 その言葉には私がもし悲しんだら自分の立場や状況なんて全部忘れて、無我夢中で、駆けつけてしまうかもしれない、そんな想いが紛れていた。つまり冷静さなんて保てないくらいに、それほどまでに、私のことが大切だということ。

「いいよ。そういうのは、逃げじゃないから」
「じゃあ、約束。」

 彼はそのまま指先を伸ばしてきた。そして私の小指に、自分の小指を絡める。あまりにも子どもじみたその仕草に、私はついに、吹き出した。

「ねえ、なにこれ」
「ふたりだけの約束ってやつですよ?忘れそうになったとき、こうやって思い出せるように」

 指先に彼の熱が移る。私が頷くと彼はにこっと笑って、布団の端に移動して腰を下ろした。

「今日は、寝れる気がしないですねー」
「そしたら、朝まで話す?」
「途中で寝ちゃったら許してもらえますぅ?」
「……許しちゃう、そんな……甘えた声で言われちゃったら」
「やった。可愛い担当ヒーローの、俺の勝ち」

 窓の外、潮の香りが夜風に乗って流れてくる。彼は一度だけ布団に寝転び私の方に顔を向けた。

「……好きって言葉、いちばん最後に言うようにします、これからは」
「え? どうして?」
「その方が今日がまだ終わらない気がするから」

 その言葉に私は笑ってそっと灯りを落とした。ふたりの影が、部屋のなかに寄り添うように長く伸びて静かに夜が深まっていった。話さなかったことも話せなかったことも、今日という日の中でもう、どこにも傷として残らない気がした。

 ──これが、再出発の夜。名前ではなく気配と沈黙で繋がる、そんな、やさしい夜だった。


 *


 静かだ。あまりにも静かすぎて波の音さえ夢のなかのもののように、ぼんやりと耳の奥に届いている。
 夜の海の音は、部屋の壁をゆっくりと透過して耳の奥に染み込んでくるようで、波のリズムと、彼の寝返りの気配。ふたつ並んだ布団の間にある隙間は、体よりも言葉の方が遠く、ほんの一声がなかなか届かなかった。確かに並んではいるのにまるで距離が遠いように感じていた。数十センチの隙間が、思っていた以上に深く、踏み込むにはもっと、言葉が必要だった。

 私は仰向けになったまま天井を見つめていた。浴衣の襟が少しだけずれていて、左肩に、夜風が冷たい。私は掛け布団をそっと引き寄せながら、隣の気配を探る。
 眠ろうとしていたわけじゃない。目を閉じてはいたけれど、どちらも眠っていないことは、息づかいでわかっていた。それなのに、なぜか、声をかける勇気が出ない。息遣いが浅くて一定。しかし相手も寝ているふりをしているのだと、すぐにわかった。

「……起きてます?」

 その声が壁のような沈黙をそっと割った。私は目を開けずにほんの少し微笑んだ。そして数秒の沈黙のあと、ぽつりと答えた。

「……うん。ずっと、起きてた」
「ですよねぇ。……俺も、です」

 また沈黙。だけどさっきよりも、少しだけあたたかい雰囲気が漂っている。

「……寝たふり、バレてました?」
「うん、バレバレ」

 ふたりで、くすっと笑い合った。笑ったあとの空気は、なんだかくすぐったくて、やさしい。

「眠れないの?」
「んー……眠れんーっていうか……なんか、緊張しとーとかも」
「……私も、ちょっと。慣れてないから」

 またもや沈黙。けれど、ふたりの言葉はどこかぎこちなくて、それがまた愛おしかった。好きな人と並んで横になるというだけでまるで思春期に戻ったみたいな、無防備な感情が胸をくすぐる。私は畳の軋む音を感じながらそっと横を向いた。そして目が合う。暗がりの中、輪郭だけが浮かぶ彼の横顔と目の端でこちらを見ている気配。それでも確かに、目と目が合っているのがわかった。

「なんか隣に人がいるって思うだけで、変に意識してしまわん?」
「……うん。しかも好きな人ってなると余計に」
「え、好きな人って……俺のことです?」

 彼が少しだけ、からかうような声音に変わったのがわかった。私はふっと笑って布団の端を指で摘んだ。

「……ほかに、誰がいるの」

 それを聞いた彼が、声を出さずに笑った気配がした。羽根がふわりと静かに空気を撫でていく。まるで、初恋みたいだった。どんな言葉を使えばこの距離が自然に埋まるのかふたりともわかっていなくて、でもそれを焦るでもなくただ不器用なまま、そっと呼吸を重ねている。しかし、そんな夜が、とてつもなく、愛しかった。

「……名前さん」
「うん」
「ちょっと、そっち……寄っても、いいです?」

 突然の問い。思わず息が詰まる。小さな声だったけれど私の胸に落ちたその音は、やけに大きかった。しかしその声は、いつもの軽口よりずっと低くやわらかで、真剣だった。まるで愛してるという言葉の代わりに置かれた問いのようで、胸の奥がきゅうっと音を立てる。私はすぐに「うん」と言えないほど、鼓動が高鳴っていた。

「…………いい、よ。」

 やっとの思いで口にしたその言葉は、かすかに震えていた。自分でも驚くくらいあたたかくて、どこか頼りなくて、でも確かに同意の色を宿していた。躊躇いの奥にある信じたい気持ちが、その一言に、そっと滲んでいる。
 布団の、静かな布擦れの音。私はそっと布団をめくり小さく息をのむ。彼が境界線を越えるように布団の縁をまたぐ。畳が、やわらかくきしみ、羽根が静かに身をたたむ、微かな風の気配があった。その音だけがふたりのあいだに満ちていた。彼の体がゆっくりとこちらへ向かってくる。息を潜めるように、けれど確かに近づいてくる。緊張したようなため息がすぐ隣でふっと漏れた。その響きが、どうしようもなく愛しかった。

「やば……めっちゃくちゃ緊張してます、俺」
「……なんで、そんなに他人行儀なの?」
「……、やばか……。ばり、緊張しとー、俺」
「ねえ、言い方変えただけじゃん……」

 笑い混じりのやり取りだったけれど、彼の声はどこか、本気の色が混じっていた。羽根もさっきから、小刻みに動いているし、落ち着かないのが丸わかりで、なんだかちょっと可愛らしかった。

「いや、だって、こんなふうに人の布団に入るの人生で初めてですもん。しかも、相手があの名前さんですよ?」
「なにそれ……わたしもだよ。ていうか、一緒に寝たことなんて過去に、何度もあったじゃん」
「いやっ、それとこれは別でしょ。今日はなんかちゃんと、好きな人の隣で寝るって感じで、ほら
……空気が違うったい」

 彼の言葉に私の鼓動が少しだけ速くなったのを自覚する。��ちゃんと好きな人�>氛氓サの一言が思った以上に響いて、そして、ずるかった。

「ふーん……でもさ、裸だって見せ合ったこともあるのに?」
「はっ!?そ、それそれそれ、このタイミングで言うと!?こすかよ、それ!」

 ばさりと羽根が大きく揺れた。空気を掻き乱すような音に、思わず吹き出してしまう。顔なんて見なくてもわかる。彼が今どれだけその翼の色とおなじように真っ赤になっているか、気配だけで伝わってきたから。

「い、いやいやいや、待って待って。やめて!」
「もう、うるさいなー。なに?」
「名前さん、それ……誘ってます?」
「は?」
「誘うとらんよね?だって俺、今日ほんとに耐えられる自信なかよ?」
「……それ、こっちのセリフだよ」

 ふざけて返したつもりだった。なのに、どうしてだろうか……囁き返した声に二人とも、同時に言葉を失ってしまった。しばし布団の中で視線が交わりまるで言葉のかわりに呼吸だけが会話しているようなそんな沈黙が二人のあいだに落ちた。そしてそのまま、見つめ合う時間が訪れる。

「なん、この会話……ほんとにそーいう雰囲気のやつです?」
「……わかんない。でも、これくらいが、いいんじゃない?」

 私がそう言うと彼は笑いながら布団に身をあずけた。心臓の音がふたつぶん、ぴたりと重なる。すると彼が一瞬「あ」と言葉を切って、こちらをちらりと見た。その目が妙に真剣で、私は思わず身を引く。

「な……なに?」
「いや、こう……なんです?あんま無防備に近くに来られると俺の俺(・・・)が、元気になりよる言いますかねぇ……」
「……」
「いやいや、違う違う!そげな意味やなくて!」
「……」
「名前さんがかわいすぎて俺の羽根も目ェ覚ましちゃうっていう、ほら……比喩ですよ、比喩!」
「……だめ、もう、それダメ。比喩でもアウト」

 笑いながら私は布団を被ったが内心顔が熱くてどうしようもなかった。隣の彼も、きっとおなじくらい照れているくせに羽根だけがふわりと私の布団をやさしく撫でていた。やっぱり、ナンバーツーは、ずる賢いヒーローなのだろう。

「ねぇ……ナンバーツーヒーローさん?まじめに聞くけど。ほんとに、何もしない?」
「はい。…………たぶん」
「たぶん、ってなに」
「だって、名前さんが可愛いのが悪いでしょ」
「それ、絶対あとで怒るやつだからね」
「うん。でも今なら笑うてくれそうやったけん、言いたくなったと」

 やっぱりこの人はずるい。ずるいけど、とても好きだなって。
 ふたりで笑ったあと、ほんの少し間が空いた。そしてぴたりと、彼の腕が私の手に触れた。まだ触れていないけれど、確かにそこにいる。羽根のぬくもりが背中越しに、ちゃんと伝わってくる。

「……手、繋いでいいです?」

 囁くような問いに私は静かに片手を伸ばした。「よかった」と言った彼がゆっくりと、私の手のひらに触れた。指と指が重なって静かに絡まる。ただそれだけで胸がいっぱいになった。彼の手がその上に重なった瞬間、羽根の先がふわりと私の肩に触れた気がした。ぬくもりが、波の音よりも静かに、心に届いた。

「名前さん……ありがと」
「え……。なんで、お礼?」
「だって、寄っていい?って言うの、すごい勇気いったですよー、俺。」

 そう言って彼はふわりと私の横に体を預けた。距離はまだ少しだけあったけれど、手を伸ばせば触れられる場所。その距離が、すべてだった。
 ふたりの布団が気付けば、一枚になっていた。音も風もぬくもりも、すべてが一緒になっていく時間。会話も途切れて、言葉よりも、沈黙が多くなってきた頃、彼がそっと囁いた。

「……あんね、」
「うん?」
「好きって、さっき言わんやったけど、ちゃんと伝わっとったらよかぁって、思いよーと」

 彼の声がとても近くで、耳元に落ちた。私は、小さく頷いて呟いた。

「うん……すごく。」

 羽根が、そっと肩を包むように広がってくる。それは、彼なりの��抱きしめる�#苞gだった。
 窓の外、夜がほぐれていく。紫がかった空に、白い息が浮かびはじめている。私は彼の手の中でそっと、指をからめた。

「おはようって言うには……ちょっと、早いね」
「うん。でも、こんな朝なら、ずっと起きててもよかかも」
「ねえ?ふたりだけの約束、まだ覚えてる?」
「もちろん。逃げない。言葉にする。手ェ、離さない──でしょう?」

 窓の外はまだ白んでいない。けれど部屋の中には、夜よりも、少しだけやわらかい空気が流れていた。言葉が途切れても、沈黙が苦じゃない。
そんな時間が、ふたりの間に静かに満ちていた。

「……ずっと、いっしょにおりたかね」

 それは、ふたりだけの朝を迎えるという小さな約束だった。
 この夜がずっと、終わらなければいいのに──そんなことを思いながら私はそっと、彼の羽根に身を預けて、ゆるやかに目を閉じたのだった。


 *


 朝は、まだ完全には来てはいなかった。障子の向こう、空が、夜と朝のあいだを漂うような色で静まっていて、部屋の中には、かすかな光と体温だけが存在していた。私は彼の腕の中でゆっくり目を覚ます。右肩にふわりと重なる羽根の感触、背中に添えられた手のぬくもり、そして胸元から聞こえる確かな鼓動。それらがあまりにも静かで穏やかで、まるで、夢の続きにいるようだった。

 息を潜めたまま、私は微かに顔を上げた。彼の顔がすぐそばにある。昨夜、布団の中でふざけて笑い合っていた男の人の面影はどこにもなくその表情はどこまでも静かでどこまでも真剣だった。
 きっと寝ている間も、ずっとこうして私を抱きしめていてくれたのだろう。指先が私の腰に回されたまま、そっと眠りに重なっていた。私は目を伏せて、またそっと顔を埋めた。心の奥がじんとあたたかくなって、涙が出そうだった。
 もう、この場所を失いたくない。そう、思ったとき──。

「……起きとったと?」

 耳元で、小さく声がした。低くて、まだ眠気を含んでいるのに不思議と意志のある声。私はゆっくりと顔を上げて彼と目を合わせた。その瞳に、もう昨夜の照れや冗談はなかった。ただ、まっすぐに私だけを見ている。そうして髪を払うように彼が手を伸ばす。指先が額に触れて、そっと後れ毛を耳の裏へ送ったあと、彼は何も言わず、ただ一歩だけ心の距離を詰めるように顔を近づけた。
 私は何も聞かなかった。目を閉じたのでもなく見つめ返したまま、微かに唇が震えるのを感じていた。そしてふわりと唇が触れた。軽くも重くもなく、ただそこに『好き』というすべてが乗っていた。空気がほどける音さえ聞こえる気がした。息を吸うように自然で、祈るように静かで、名を呼ぶように優しかった。彼は、唇を離したあと、ゆっくりと、私の額に唇を落としてから言った。

「名前さんのこと……大事にします。ほんとに。これから、もっとたくさん」

 私は頷くしかなかった。言葉がうまく出てこなかった。胸の奥で何かが、静かに満ちていくのを感じていた。
 朝が、ようやく来た。ふたりのこれからがまだなにも始まっていない朝。でも、このキスが――はじまりだったと思いたい。

 朝食のあと宿を出る頃には空はすっかり晴れていた。雲ひとつなく少し眩しすぎるくらいの光。それでも風は優しく、潮の匂いは、まだどこか、夢の続きを纏っていた。
 ふたりで歩く道は来るときとは違って、なんの気負いもなかった。並ぶ足音。笑い声まではいかないけれど、どちらからともなく何かを口にしては、照れたように微笑み合う、それだけの時間がとても尊くて、とても愛しかった。

「……ねえ、また来ようよ」

 ふいに私がそう言うと、彼は一度立ち止まって空を見上げた。

「……うん、来たかねぇ。何回でも」

 その目は真剣で、でもどこか少年のような光を帯びていた。羽根が微かに揺れ風に遊ばれながら彼の背で静かに棚びく。

「同じ宿に泊まって、また布団離して、でも……こっそり、隣に来てさぁ?」
「え、俺がまたやるんです?その役」
「うん。だって、あの距離感、たまらなかった」
「まあ、わかりますけどぉ……俺、あれで寿命、五年くらいは縮みましたよ?」
「うそ、そうなんだぁ。へー。」
「でも──幸せでしたよ」

 そんな、他愛のない会話のすぐあと。駅までの一本道の途中で彼がまたふと立ち止まった。私は彼の少し後ろを歩いていたはずのに気づけば彼の姿が、背中にあった。

「……なに?」

 振り返ると彼は小さく笑って、胸ポケットから何かを取り出した。小さな紙包みだ。リボンも、何もない、ざらざらとした封筒。

「昨日──海来る前に、買っといてて。渡すタイミング、ずっと迷うとったと」

 差し出されたそれを受け取ると、中には小さな金色の羽根を模した、ピアスが入っていた。キーホルダーでもネックレスでもない。でも、どこかそれは��標(しるべ)�≠フようにも感じられた。

「……これ、なに?」
「俺の彼女ですって印……とか言って、嘘、嘘。
違うくて」

 彼は、ポケットに手を入れたまま、ほんの少し照れた顔を逸らしながら続けた。

「プロポーズってほどじゃないですけどね。でもなんか、一緒にいようってそれくらいの気持ち」

 私は何も言えなかった。胸がいっぱいで言葉を出せばきっとこぼれてしまいそうだった。代わりにピアスを両手でそっと抱きしめるようにして、胸元に静かに留めた。その小さな羽根が心の真ん中に重なる。

「わたし……また逃げたくなったら、これ見る」
「はい。逃げそうになったらそれ、俺の代わりに引き止めてくれるんで」
「え……?」
「それ、俺の剛翼で作ったんですよ?」

 ウインク付きで言われた冗談なんだか本気なんだかよくわからないその言葉に、私はそっと手を伸ばして、彼の指先に触れた。

「……じゃあ、私のことも、ちゃんと、つかまえててね」

 彼は静かに頷いた。もう言葉は必要なかった。風はやみ、空は深く澄みわたっている。ふたりで見上げたその青の中には確かに二人のこれからがあった。それがふたりだけのささやかで、確かな約束。





 

逃げずの契り、風の中にて


(そういやぁ、ピアスを贈る意味知ってますー?)
(え? あー……なんだっけ、忘れちゃった)
(ははっ、まあいいです。)
(いいの?)
(ええ。俺はあなたのことをいつも考えてますよ)
(う、うん……? ありがと……?)

※image song『 アクマ/MY FIRST STORY 』


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