命の重みは意外と軽い音を立てて地面に落ちていくものだと思った。遠くで、破裂音が響いた。熱と砂煙、焦げた金属の匂い。喉の奥に絡みつく血の味に慣れてしまったのは、いつからだろう。私は戦場と呼ばれる最前線に似た瓦礫の隙間で、名も知らぬ男の脈を取っていた。人間という容れ物の中にまだ��生きる�≠ェ残っているかどうか、それを判定するのが医師である私の任務だった。

「間に、合わなかった……」

 微かにそう呟いた声に、返事はない。聞かせる相手もいない独白はやがて風に攫われていった。私は一度だけ深く息を吐いてから感情を切り離すようにして次の搬送要請のため、通信機へと手を伸ばす──が、そのときだった。頭上から、ひとすじの赤い羽根が舞い落ちてきた。爆風の名残かそれとも誰かの悲鳴の残響か、耳鳴りが止まない中で、その羽根は私の目の前、壊れた担架の上にそっと降り立った。

「……っと、ごめんなさーい。驚かせました?」

 その声はどこか人懐っこく、それでいて、命のやり取りの現場では、あまりにも場違いなほど、軽やかだった。顔を上げた私の視界に、逆光の中から滑り込んできたのは、ヒーロー・ホークス。赤い翼を背負い戦火の中でも飄々とした佇まいを崩さない、若きトップヒーローだった。

「あなたが、衛生班のドクター?……なるほど。噂通り、綺麗な人だ」

 軽い口調。まるでその背に背負っている羽根のようだと思った。だがその声に含まれた温度は、不思議なほど生々しかった。私は、言葉を返さずただ立ち上がり、再び担架に視線を落とす。

「搬送の必要はありません。この人は……もう」
「そうですか。……了解。」

 ホークスはわずかに目を伏せ、そしてそれ以上何も言わなかった。代わりに一枚の羽根が指先のように動いて、壊れた担架に布をそっと被せた。その仕草が妙に優しく見えて私は少しだけ呼吸をするのを忘れた。

「でも、あなたはまだ生きてますね。」
「え……」
「だったら次は助けましょう。医者もヒーローもやってることは似てますから!」

 そんなふうにいとも簡単に人の心に踏み込んでくる。初めて会ったというのに彼の言葉は不思議な温度を持って胸の奥に触れてくる。私はぎこちなく口を開いた。

「あなたの羽根──落ちてきましたよ。」
「ああ、それ、あげます。お守り代わり。今度、返してくれたら嬉しいですけどね」

 茶化すように、けれど目は笑っていなかった。その日からだった。私の中にあの赤い羽根の感触が、残り続けるようになったのは──。


 *


 医療テントの中は夜であることを忘れたように明るかった。照明は容赦なく白く音は絶え間なく鋭利に走り、血の匂いと薬剤の香りが絡み合っていた。命を繋ぐための道具たちは、どれも静かにそこにあるだけで、なぜだか異様なほど饒舌だった。私は終わりの見えない任務の中で、一度だけ深く息を吐き次の診察記録を確認しようとカルテの束を手繰った。そして、その名を見つけたとき鼓動が一瞬、すこしだけ乱れたのを私は認めたくなかった。

「……搬送されてきたのは、彼?」

 小さくつぶやいた声は私の口から漏れたものであるはずなのに、どこか、遠くの他人の声のようだった。胸の奥が妙に疼いた。けれどそれは医学的には何ひとつ異常のない、あくまで、個人的な動悸でしかなかった。
 私は白衣のポケットからグローブを取り出し、無言のまま手にはめ静かな手つきで、だが内心はひどく、落ち着きなく荒れていた。いつかの赤い羽根がふと思い出されたからだ。あのとき、彼が言った言葉。

 『今度、返してくれたら嬉しいですけどね』

 そんな約束を、いつの間にか私のなかだけで、大切な記憶に変えてしまっていたことに気づいたのは、その瞬間だった。カーテンの向こうでは、微かな羽音と少しだけ掠れた息遣いが聞こえた。

「──あなたが診てくれるんですね……それは、心強い」

 まだ姿も現していないのにわかるのかと驚く。気配で感知できる個性でも持ち合わせているのだろうか。カーテンの向こう、言葉の輪郭は以前と変わらず柔らかだった。ただその奥にある疲労と痛みだけは誤魔化しようもなく滲んでいた。私はカーテンを静かに引き、そこに横たわる男性と、目を合わせた。

「……大丈夫ですか?」

 そう尋ねた私の声は驚くほど冷静だった。だが視線はどうしても乱れてしまう。
 ベッドの上、ヒーロースーツをわずかに破り、左肩から脇腹にかけて深い裂傷を負った彼、ホークスは痛みに眉をひそめながらも、どこか子供のような目をしていた。

「思ったより……痛いもんスねー。ヒーローでも慣れないです」

 その微笑に、私は無言で消毒液を手に取った。会話を交わすには、まだ少し、息が足りない。

「羽根は? 動かせますか?」
「あぁ……少しだけ。でも、半分くらいは散ってます。また、回収できたら嬉しいですけど……」

 彼は、冗談めかして笑った。けれどその翅(つばさ)は思っていたよりずっと傷ついていた。
 私はそっと傷口に、ガーゼを当てる。しかし、その皮膚の熱に触れた瞬間、思わず、指先が凍りつきそうになる。生きている──彼はまだここにいる。それだけでこんなにも安心するなんて私、どうかしている。

「……我慢してください。消毒します」
「はい……あなたの言うことなら、従いますよ」

 その声は、ふざけた響きを持っていたはずなのに、どこか切実で。私は視線を逸らすことができなかった。彼の傷を洗いながら私はまるで自分の弱さごと晒してしまっている気がした。

「……今夜はもう、飛ばないでくださいね」

 それは、医師としての言葉だったはずだった。けれどどこか願いのように聞こえてしまったのはきっと、私だけじゃなかった。彼、ホークスは、小さく笑った。けれどその目には、冗談ではないものが宿っている。

「……ええ。あなたがそう言うなら今夜はここにいますよ。逃げないし、ついでなんで、甘えてもいいです?」

 不意に、胸の奥がきゅう、と締めつけられた。それはまるで戦場という仮面の下から、ひとりの男が私だけに向けて本音を零してくれた、そんな瞬間だった。彼の傷を縫合しながら、私はふと、初めて彼の名を口の中でそっと転がした。けれど呼ぶにはまだ早い気がして声には出さなかった。次に彼を『ホークス』と呼ぶその瞬間が、どうか優しい夜でありますように。私はそう願いながら縫い終えた糸の先に、そっと指を添えた。

 夜がようやく深まった頃、私はふと立ち上がりカルテの束を閉じた。外では、冷たい風が吹いていて、それは、テントの隙間から入り込んでくる度に、まるで今日という一日の終わりを知らせる合図のようだった。けれど終わりなどなかった。命を預かるこの現場では日付の境界など曖昧で、休息さえもどこか、申し訳ないものとして流れていく。けれど、それでも私は歩いた。ただ、彼の様子をもう一度だけ確認したくて。言い訳のいらない感情が、足をそちらへと向かわせたのだ。
 あの人のテントは、一番奥。羽根が動かぬ今、彼はただの、ひとりの青年だ。入口の布をそっとめくり、中を覗く。照明を落とした簡易ベッドの上、彼は静かに寝息を立てていた。傷のある左肩をかばうように仰向けになっていて、薄い毛布の端がずれていたことに気づいた私は、音を立てぬよう近づき、それをそっと整えた。

(──ちゃんと眠れてる。よかった)

 そんな風に自分に言い聞かせたのに胸の奥では別の言葉が波打っていた。触れたくなる──そう思ってしまったのだ。人を癒す立場の私が患者にそんな感情を抱くなんて……でも、それはきっと彼だからだ。ふと、彼の睫毛が、わずかに震えた気がした。しかし眠っている者に話しかけるほど私は子供ではない。
 自分は疲れているのかもしれない。一つ小さく息を吐き、そっと背を向け、カーテンの縁に指をかけた、そのとき……。

「……そばに、いてくれないんですか?」

 やや掠れた声。けれど、それは確かに、癒しを求めるような響きを持っていた。私は振り返り、彼の顔を見る。目は閉じたまま、彼はほんの少し唇だけで笑っていた。

「……寝たふりなんて、卑怯ですよ」

 そう言った私の声が微かに揺れたことに気づいたのか彼はゆっくりと片目を開いた。その瞳には眠気よりもずっと強い熱が宿っていて私は一瞬、呼吸を止めた。

「……ごめんなさい。でも、あなたが来るの……分かってたんですよ?」
「どうして?」
「なんとなく。あなたは、来てくれる気がしたんです。そういう人(・・・・・)だと思ったので」

 その言葉に私は何も返せなかった。ただ、彼の手がそっと毛布の端からのびてきて、私の袖口に触れた。ほんの少し羽根の名残を思わせるようなあたたかい指先。

「少しだけでいいですから……ここにいてもらえたら、眠れる気がするんですけど?」

 頼られることには慣れている。けれど、こんなふうに��ひとりの人間�≠ニして誰かが弱さを差し出してくる瞬間に私はまだどう応えればいいのか分からないでいた。それでも私は静かにその場に腰を下ろした。ベッドの脇、彼の手が届く、ぎりぎりの距離に。

「……ほんの少しだけ、ですよ。朝までなんて、付き合えません」
「ええ、それで充分ですよ?あなたの��少し�≠ヘ長いでしょうから」

 そんなふうに、また茶化すくせに。彼の声は、どこか安心した子供のようで、私は黙って、そのまま目を閉じた。
 夜の帳が深くなるほど彼の呼吸は静かになっていった。羽ばたかない翼の代わりに、今だけは、そばにいることで彼を包めるのなら私はそれで、いいと思えた。

 朝は、嘘のように静かだった。昨夜、どこかに確かにあった熱も気配も起きたときにはすっかり消えてしまっていて代わりに耳に残るのは遠くで鳥が羽ばたいたような音だけだった。
 私は眠ったままの彼の傍らで、ひと晩を越してしまったことに気づいた。毛布の端が夜中の内に少しだけめくれていて、それをそっと整えながらナンバースリーヒーロー、ホークスが眠る横顔を長いまつげの影ごと、静かに見つめていた。

「……あなたの本名、まだ知らないんですよ?」

 その言葉はほんの小さく、音にならないほどの声だった。医師として患者の名を知らないことは本来ならば不自然なことだった。だが彼は��ヒーロー名�≠ナ運ばれ、傷の応急処置さえ、最低限で済ませてほしいと伝えてきた。名前を明かす気はなかった。おそらく、公に動けぬ、何かの任務を帯びていたのだろう。それでも私は思っていた。『もう一度、会えたらいい』と。名が分からなくても、肩書きがなくても、この夜に、私の袖口を掴んだ、熱を帯びた手だけは、確かに私を必要としていたから。
 私は最後に、そっと羽根を一枚だけ彼の枕元に置いた。以前、彼が私にくれた羽根。今は、返すべきときだと思ったから。なにも添えずに、ただそっと。
 けれど数時間後、彼の姿はそこにはなかった。医療テントに戻ってきた私は、空のベッドを見てしばし言葉を失った。誰にも気づかれずに夜明けの隙間を縫って出ていったのだろう。人知れず、また命を賭す場所へ戻っていったのだ。彼、ホークスというヒーローは、そういう人だった。最初から。
 しかし、ふと、ベッド脇に残されていた小さな紙切れに気づく。折りたたまれたそれを開くと、たった一言だけ、何かが綴られていた。

 『次に会うときには
  あなたの名前を教えてくださいね』

 それは、問いかけではなかった。約束のようだった。名前も知らないまま、心だけが触れ合ってしまった夜を、たしかに彼も覚えていた証。私はその紙片を、胸のポケットにしまい込み、ひとつだけ深く息を吐いた。

 名前──教えたくないわけじゃない。ただ……それが、どんな意味を持つことになるのか。知られてしまうことで、どれだけ彼の中に私が残ってしまうのかが少し怖かっただけだった。それでもきっと、彼がまた再び現れたときには私は迷わず名を名乗るのだろう。あなたの名が��ホークス�≠ナなくても。私の名が、誰かの名簿に記される、ただの医師でも──。

 名を呼び合うことから始まる何かがこの場所にあると、私は信じていた。


 *


 命の音が近すぎる。心臓の鼓動ではない。迫る爆風と誰かの断末魔と、空を裂く轟音。それらがすべて耳の内側に張り付いて正しい思考を妨げていた。
 私は医療班の搬送隊と共に、後方から前線近くまで負傷者の移送を行っていた。こんなに危険な位置まで出ることは本来なら許されない。けれどそれほどまでに今の戦局は逼迫していた。��ヒーロー不在�≠ニいう言葉が、意味を持つほどに。
 そしてあっという間だった。トラックが横転し次の瞬間には破片が舞い、砂埃と煙が視界を奪った。私は咄嗟にうずくまり隣にいた若い看護師の腕を引いて伏せたが、すぐ背後で爆発音がした。耳がきしむ。体が浮いたような感覚のあと私は、瓦礫の影へ転がり込む形で孤立した。目の前には崩れかけた防壁。背後は、敵性ヴィランによって制圧された空間。逃げ場はない。支援は間に合わない。��ヒーロー�≠ヘ……。

「はあ……は、あ………、はぁ、」

 呼吸が浅くなる。けれど恐怖で震えるわけにはいかなかった。私はここで、死ぬわけにはいかない。名を告げる前に──彼に、あの人に……何も渡せていない。そう思った瞬間だった。風が変わった。吹きつける焦げた空気の向こう側から何かがこちらへと突き抜けてきた気配。爆音とは違う鋭い風切り音。それは、耳の奥で鳴り響くのではなく、私の名を知らぬ彼の声のように、胸の中に直接飛び込んできた。そして、次の刹那──赤い羽根が、頭上から降り注いだ。瓦礫がはじけ飛びヴィランの咆哮がかき消される。その中心に舞い降りたひとりの男。背に広がるはずだった翼は、かつてよりずっと少なく、細くなっていた。それでもなお、彼は風のようにそこにいた。

「名前をまだ聞いてないのに!勝手に死んだら、困りますよっ!」

 その声は確かにあの日の続きだった。私は信じられなくて何か言葉を返そうとした。けれど口が震える。ホークス──そう呼ぶには、あまりにも距離があった。しかしその人は、確かに私の前に立っていた。彼の目が私を捉え、そして、ふっと少しだけ笑った。

「言ったでしょう。次に会うときには、あなたの名前を、教えてくださいね、って──」

 私は、喉の奥に溜まった何かを必死に呑み込みながら、かろうじて声を返す。

「……名乗って、ません、でしたっけ……」
「え、冗談でしょう? ずっと待ってたのに」
「な……なに、を──」
「あなたから、名乗ってもらうことですよ」

 小さな笑みと共に、彼は私の手を取った。あの日と同じ。けれど今度は逃げるでも黙るでもなく掴んだ私の手を、離さない。

「大丈夫です。ここからは、俺が全部、なんとかしますから」

 そう言った彼の声はいつかより低く、鮮明で、なによりも、私を選んでいる音がした。私はその胸元にほんの少し体を預けるようにして立ち上がった。彼の羽根がまたひとつ私の頬をかすめた。冷たい空気のなかで、その体温だけがあたたかかった。そして私は、初めて彼の名を呼ぶ代わりに自分の名を口にした。

「……私の、名前は──」

 その続きを彼は黙って待っていた。言葉を挟まず、問い返すこともせず、ただ、私の声だけを、そっと胸の奥に受け止めてくれていた。まるで、それだけが欲しかったのだと、言わんばかりに。けれど私は、その一言の続きを口にする前に糸がふっと切れたように体の重さを感じることもなくただ静かに、闇のほうへと沈んでいった。そう、私の名前が、彼に届く前に私は、意識を手放してしまったのだった。


 *


 頬に貼りついた砂埃は乾いていて、それを拭う気力も残っていなかった。簡易ベッドの上に体を預けながら、天井の布の揺らぎをぼんやりと見つめる。隣のベッドでは若い女性がうなされていた。遠くでは誰かが酸素吸入のマスクを外す音がして、それがやけに、生きている証に思えた。
 ほんの数時間前まで自分が死ぬかもしれないと思っていた。でも彼が来た。羽根を削りながらも私を、あの場所から拾い上げてくれた。

 『名前をまだ聞いてないのに──』
 『勝手に死んだら、困りますよ!』

 あの声がいまも耳の奥に残っている。そのときテントの出入り口が静かに揺れた気がした。誰かがこちらに近づいてくる。けれど、足音は一切、なかった。ただ、影だけがふっと床に差し、私は反射的に体を起こしかけて、そのまま固まった。そこにいたのは、彼だった。ホークス。いや──あの夜からずっと、名もなく心に残っていたヒーロー。彼はヒーロースーツの上から簡易ガウンを羽織っていて、普段よりも少し無防備な表情で、テントの布を押さえたまま、ふわりと微笑んだ。

「お疲れのところ、すみません……勝手に、来ました」
「どうして……」
「起こすつもりは……なかったんですけど」

 低く、けれどよく通る声だった。眠気の向こうでその輪郭を知っていた。忘れようにも、忘れられるはずがなかった。

「また……勝手に動いたんですか?……あなたも怪我……してる、でしょ」

 そう言ったつもりだったけれど、自分でも驚くほど、声はかすれていた。彼は、そっと笑った。笑いながらも、どこか、緊張したように私を見ていた。

「ええ。でも、今度は……姿を消すつもりはありません。それを、伝えたかった」

 その声にほんの少し胸が熱くなった。私は身を起こしながら、静かに問いかける。

「……あなたの名前、聞いても、いいですか?」

 それはもう、儀礼的な意味ではなかった。名を交わすというのは存在を互いに抱きしめ合うことだと私はこの職業で学んできた。けれどその問いに、彼はふっと目を伏せ、そして静かに首を横に振った。

「……ヒーロー名じゃ、だめですよね」
「はい、できれば」
「……名を知ると、いなくなるのが怖くなりません?」
「……」
「……すみません。でもそれだけは、いまはまだ言えないんです」

 決して拒絶ではなかった。その目はむしろ深く沈んだ後悔を湛えていた。名を名乗れない自分の立場を彼自身が一番苦しんでいるような、そんな眼差しだった。私はそれ以上、問わなかった。
無理に聞き出すことは、きっと、彼を遠ざける。そう思ったから。だから私はほんの少しだけ笑って、先と同様に、自分の名を差し出した。

「名字……名前です。医師としては、たぶん……ちょっと、優秀(・・)な方です」
「……ほんとです?それ。」
「……嘘です。生意気な、方です……」

 彼は聞き逃さないようにとする子どものように真剣な眼差しで私を見ていた。それからゆっくりと、私の名を繰り返した。

「……名字先生、ですね。……覚えました」

 その声はあまりに穏やかで、けれど、胸にまっすぐ届くものだった。そして、彼は続ける。

「名を名乗れないのに、あなたの名前だけをもらうのは、ずるいですね」
「……」
「でも……そのずるさをどうしても、手放せない自分がいます」

 そう言った彼は、どこか少年のように見えた。光を背負うでもなく何者でもあろうとせず、ただ私の名を知りたがる、ひとりの人として、そこに立っていた。まるで、その一言だけが、今の彼を支えているかのように。私はゆっくりと頷いた。

「じゃあ、責任取ってくださいね」

 その言葉に、彼はふと目を見開き──そして、噛みしめるようにして笑った。

「……はい。あなたの名前、絶対に忘れません」

 彼の口からそれ以上の言葉は出なかった。けれど、それで充分だった。名を名乗れない彼が名を求めてここまで来た。それが今は、何よりも答えだったから。

「……��先生�≠チて、呼ぶんですか?」
「医師ですし、なにより──その方が少しだけ、丁寧にあなたを呼べる気がして」
「……見た目と違って、言葉はずいぶん丁寧なんですね」
「心外ですね、俺は誰にでも丁寧なんですよ?」
「そうですか」
「ええ。でもたぶん、あなたには特別、自然と、そうなってしまうみたいで」

 そう言って彼はほんの少しだけ手を伸ばしかけたが、すぐにやめた。代わりにポケットから羽根を一枚だけ取り出し、それをベッドの脇にあったテーブルの上にそっと置いた。

「また、預かってもらっていいです?」
「え……また、って……」
「ちなみに今度は……返さないでほしいんです」

 それは、彼なりの誓いだったのかもしれない。私は黙ってその羽根を手に取り、うなずいた。

「……じゃあ、代わりにこれ。大したものじゃ、ないですけど」

 そう言って私は自分のポケットに指を滑らせ、ずっと入れっぱなしになっていた飴玉を一つ取り出した。銀紙が少しくしゃくしゃになっていて、持ち歩かれていた時間の長さが滲んでいた。私はそれを彼の手のひらにそっと置く。

「飴……ですか?」

 目をやや見開き、きょとんとした顔をしたかと思えば、すぐに眉尻を下げて、口元をすこしだけ尖らせて言った。

「あの、すんません……子供扱いしてません?」

 その言い方があまりに可愛くて私は思わず吹き出しそうになるのをこらえて、けれど、ちゃんとまっすぐ彼の目を見て言い返す。

「してませんよ。ただ、甘いものがあれば、少しでも、疲れが和らぐかなぁって思っただけです。どうせまた、飛び回るんでしょうから」

 彼はそれに対して一瞬だけ何かを言いかけて、けれど結局、そのまま口を閉じた。そして小さくため息をついてから飴を受け取った手を、なんだかんだで大事そうに、ポケットへしまい込んだ。そして、ポケットの中の飴を指先でそっと転がすように触れながらどこか照れくさそうに笑った。

「じゃあ、ありがたく。先生にそう言われたら、もう、逆らえないですし」

 頬に浮かんだ赤みを隠すように、視線を外した彼の横顔が。彼の羽根と、私の飴。どちらもたいした意味のないものに見えて、けれど今の私たちには、何よりも確かな��交換�≠セった。

「名字先生」
「はい」
「ありがとうございます」
「え……?」
「いえ。とくに、深い意味は……。気にしないでください」

 唐突な感謝の言葉に私は一瞬だけ瞬きをした。何のことかはわからなかったけれど、それ以上は聞かずにただ小さく微笑んでみせてから、そっと問いかけた。

「──また、会えますか?」
「ええ。言ったでしょう?今度は、勝手に消えません」

 そう言って微笑んだ彼の横顔はなぜだか夜明けのようにあたたかくて。私はもう目を逸らす理由を探さなくてもいい気がした。
 その夜、私の名前は確かに彼の中に刻まれた。たとえ彼の本当の名前を私はまだ知らなくても。


 *


 あの夜を私は何度も反芻している。名を告げたときの彼の顔。笑ったようで、少しだけ泣きそうだったような、あの横顔。『今度は、勝手に消えません』そう言ったくせに、彼はそれから一度も私の前に、姿を見せていない。忙しいのだろう。そう思う。それに彼はヒーローの中でも、トップヒーローだ。だから納得はできる。……できる、はずだった。でも、街で流れるニュースの速報で彼の名前が映し出されるたびに『プロヒーロー・ホークスが対ヴィラン戦において負傷』の一報が流れるたびに。私は心臓がひとつ、大きく跳ねるのを感じてしまう。
 名乗らなかった男。けれど、私の名前だけは、覚えてくれた男。��ホークス�≠ニいう名前がニュース原稿のなかで淡々と読み上げられるたびに、私はそこに宿っていた彼の輪郭を無意識に探している。映像に映るのは鋭い目元と、燃えるような赤い翼。街の上空を旋回して、あらゆる危機から人々を守る、完璧なヒーロー。でも、私が知っている彼は、そんな風ではなかった。毛布の端を、直した夜。『そばにいてくれないんですか』と、囁いた声。『名を知るといなくなるのが怖くなりません?』と言ったあの瞳。それらはスクリーンには映らない。あの夜、テントの薄明かりの下で交わした小さな温度は世界のどこにも記録されていない。だからきっと私だけが知っている。そう思えば少しだけ優越感のようなものが胸に灯る。でもほんの少しだけ、また──と願ってしまう。
 帰り道、コンビニの前で流れていたニュースに私は、足を止めた。

『ホークス、今週も7件の出動記録。複数のヴィランを無力化。重傷者ゼロ。協会内の評価は…』

 私は何となく缶コーヒーを片手にそのまま映像を見ていた。無意識のうちに、画面の片隅に映る赤い影を探している自分に気づいて、苦笑する。

(……私、何をしてるんだろう)

 いつからこんなに彼のことを考えるようになったんだろう。たった三回。言葉も少なく名前さえ知らず、約束もしていない。なのに、風の匂いや静けさの中にふと彼の気配を思い出してしまう。

 『勝手に、消えません。』

 あの言葉を責めるつもりはもうなかった。きっと彼は彼なりに、全うしているのだ。あの言葉の続きを。ただ私の前に戻るのではなく彼の場所で生きるということを。
 でも、それでも──せめて、また羽根が落ちてきてくれたら。それが風に運ばれて偶然この手のひらに触れたら。私はもう一度、彼の名前を知らぬままでも、こう言えるのだと思う──おかえりなさい、と。


 *


 夏の終わりは、静けさの色をしている。遠くの空で蝉が細く鳴いていた。陽は落ちかけていて、私の影は伸びて、足元のコンクリートの上にかすれた影法師を描いていた。
 搬送任務が終わり、少しだけ長い帰路についた夕暮れ。私の肩には医療用のバッグが重く、けれど心は、不思議と落ち着いていた。
 ──今日は、何も起きなかった。それは、誇るべき一日であると同時にどこかぽっかりと空虚を残す��平和�≠セった。そんなことを思いながら、歩いていたときだった。風がふと向きを変えた。それは街の音とは別のもっと深いところで起こる変化だった。私は足を止め耳を澄ませる。空気が揺れ、葉擦れが小さく鳴る。そして、ひとひらの赤い羽根が空から私の目の前に舞い降りてきた。それはまるで何かの合図のように。誰かの気配が音ではなく、風としてこの空間を満たしていく。私は思わず羽根を両手で受け止めた。ふわりと、けれど確かな重みをもって、あの日と同じ温度がそこにあった。

「──ホー、クス……?」

 名を呼ぶのが、ためらわれた。名を知らないということは誰かを傷つけずに想いを残すことでもあるのだ。だから私はその羽根だけに、そっと、声をかけるように囁いた。けれど目を凝らしても姿は見えない。街灯の向こう、高台の影。遠くの非常線の奥、もう人の出入りがなくなった廃ビルの屋上。私はどこかで視線のようなものを感じていた。物理的な気配ではない。ただ、私が誰かの記憶になっているという確信だけが、風に乗ってこの場所に届いていた。羽根を胸元にしまい私はひとつ、深く息を吐いた。

「……来て、くれてたんだね。」

 それは確信でも、問いでもない。ただ、静かな報告だった。言葉は届かない。でも、想いだけは届いている。そんなふうに信じられる距離がこの世にあるのだとしたら。それはきっと、彼と私の間の、こうしたすれ違いに宿るものなのだろう。
 私はもう追いかけなかった。見上げもしなかった。ただその夜風のなかで、彼が見てくれているかもしれないという一瞬に、ただ、立ち尽くしていた。背後で、そっと羽音が消える気配がした。私は静かに目を閉じる。
 ──あなたが、本当の名前を名乗れなくても。こうして羽根ひとつで私の世界に戻ってきてくれるのなら、それで十分。まだ……生きている。
 そんな確信だけを胸に、その夜の空を見上げることは、どうしてもできなかった。


 *


 喧騒は、いつだって遠くにある。
 病院という空間に身を置いてからというもの、私はずっと、そう思ってきた。悲鳴も、衝撃音もすべては遠い国の物語のように感じられるほど、こちらはいつも、規則正しく清潔で、そして少しばかり、冷たかった。

「……こっちは腹部に貫通創。内臓損傷の可能性あり。応急処置はされてるけど処置が甘いです。すぐ開腹準備、麻酔科を呼んでください」

 的確に指示を出している最中、周囲の誰かが、「ヒーローだってよ」と低く囁くのが聞こえた。その言葉が耳の奥で小さく反響する。だがそんなことに反応しているほど、今の私は暇ではなかった。命を前にして肩書きや光の強さは何の意味も持たない。それは医者としての矜持というより、ただ��生きてほしい�≠ニいう、祈りのような衝動だった。
 だが──非常線の向こうから担架に乗せられて現れたひとりの男の姿に、私は久しぶりに戦場という言葉を思い出した。焼け焦げたような羽根の匂い。ヒーロースーツの隙間から滲む、黒ずんだ血。けれど、顔だけは不思議なほど整っていて、その違和感が、むしろ、彼を現実から引き離しているように見えた。
 私は駆け寄りながら、まさか、と思った。その顔を、視覚より先に心が認識していた。

「あなた、名前は?」

 知っている。知っているに決まっている。けれど私はそれでも形式として訊ねた。それは医者としての確認ではなく、たぶん、私自身の感情を、守るための防壁。彼は、その問いに言葉では返さなかった。ただ、ふっと笑った。焦点の合わないその瞳が私の顔を捉えきれないまま、それでも、どこか、懐かしさに触れるように揺れていた。
 名乗らない──けれど、それが逆に、彼が私にだけ、伝えようとしたもののように思えた。 
 ──ホークス。けれどその名を、私はまだ口にしなかった。彼が名乗らなかった理由を、たぶん私も、心のどこかで知っていたから。

「……名前は?」

 もう一度、問いかけた。だが返事はなかった。その代わりに、わずかに開かれた唇からかすかな声が漏れた。

「……知ってる、でしょう?」

 その声は囁きに近かったのに、まるで胸の奥を見透かすように真っ直ぐに刺さってきた。あまりにも自然に届いて、私は一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れた。彼の目は、半ば閉じかけていて、けれどその奥には、妙に醒めた光が揺れていた。焦点が合っていないのに、不思議と、私だけを見ているような錯覚すらあった。
 処置を終えた彼が担架に乗せられ、搬送室へと運ばれていく。私の手を離れていくその背中を、私は思っていたよりも長く、目で追ってしまっていた。何かが引っかかっていた。それはたぶん、再会のはずなのに、言葉が何も交わされなかったという空白。そして──名を呼ばなかったという沈黙。
 本名を知らない。所属も肩書きも年齢すらも。いや、知っていたはずなのに、今の彼は、どこか違って見えた。私が知っているホークスはもっと軽やかで、口が上手で、必要以上に笑ってばかりいる人だった。けれど今、目の前にいたその人はどこか、声を出すことすら遠慮しているような、静けさを纏っていた。ただひとつだけ確かに覚えていることがある。あのとき、私の指先にふれた彼の手が驚くほど、熱かったということ。それは体温以上の熱だった。まるで今まで、言葉にできないものを、ずっと抱えてきた人間の、内側から滲む熱だった。
 そして私は気づいていた。あの熱にふれたときから、もうすでに心がざわめき始めていた事を。

 夕暮れ、屋上。風は乾いていて、街は、いつもより遠く見えた。私は缶コーヒーを片手に、ただ黙ってビルの縁から滲む光の境界を眺めていた。
 ふと、背後で小さな気配がした。まるで羽音の名残のように空気がふわりと揺れて、一人の男がそこに立った。

「……あ、どーもー。突然すみません。」

 その声を聞いた瞬間、振り返らなくてもわかった。今朝、非常線の向こうから運ばれてきたあのヒーローだ。包帯を巻かれ、まだどこか痛むような顔で、それでも軽く笑っていた。

「勝手にお見舞い──ってことで。どうです?
その後」
「……あなたは今日、される(・・・)側です」
「ははっ、たしかに。ですね」
「まさか、その体で……飛んできたんですか?」
「ええ。まあ、ヒーローですから」

 どこまでも軽やかに言うその調子に思わず言葉の選び方を忘れそうになる。けれど、その笑顔の裏には、まだ包帯の下に火照る熱が残っていた。ふざけているようで、ほんとうは無理をして笑っていることを私は知ってしまっていた。私は缶を持ち直して、少しだけ体を彼の方へ傾けた。

「わざわざ……来なくても、よかったんですよ」
「ですよね。でも……来たかったんです。先生、いまひとりで缶コーヒー飲んでましたよね。絶対話しかけたらあっち行ってって言われるタイプの雰囲気だったけど」
「……」
「でも俺、空気読めない自信あるんで」
「自信にしないでください」
「はい。でも先生の目、ちょっと笑ってますよ」

 そう言って彼は風の向こうで、ほんの少し肩をすくめた。その背中に夕陽が差して緋色の羽根が光を撥ね返していた。その姿は、ヒーローというよりもどこか懐かしいただの青年のようだった。
 風がふたりの間を静かに通り抜けていく。缶の中のぬるくなったコーヒーの味が少しだけ優しく感じたのは、たぶん、気のせいではなかった。
 すると彼が、自身のポケットに手を差し入れ、一つの薄い何かを取り出した。光を鈍く弾くそれは私の名前が記されたネームプレートの偽造品。角のすり減り具合まで本物そっくりで手に取ればたぶん感触まで同じだっただろう。いつどこで、それを用意したのかはわからない。預けた記憶も落とした覚えもない。それなのに彼はごく自然にそれを手にしていた。

「名字先生、でしたよねぇ」
「……覚えてくれてたんですか、光栄です」
「あなたの名前、絶対に忘れませんって言ったでしょう?」

 ふっと笑う彼の声はやわらかくて、けれどそのやさしさが、どこか、底の見えない深さを含んでいた。見上げたその目には確かに光があったはずなのに、私の胸をかすめたのは、言いようのない微かな恐怖だった。同時にこの人は、やっぱり、ヒーローなのだなと思った。ただの笑顔では済まない何かをその奥に飼っている人。知ろうとしなければ気づかずに済む、光の背中にこびりつく、静かな闇。私の名前を忘れないという、その言葉すら所有に近い温度を帯びて聞こえたのはたぶん私の心がまだ、彼のすべてを受け入れられていなかったからだ。
 彼の手の中にあるネームプレートは、記憶の証ではなく、��見失わないための目印�≠フようにも見えた。

「ヒーローって、あなたみたいな人ばかりなんですか?」
「んーどうでしょうね。俺は俺ですし。でもあなたも医者というよりヒーローみたいでしたよ?」

 ヒーロー。思わず笑ってしまった。何年もこの職に就いていてそんなふうに言われたのは初めてだったから。

「あなたのこと、なぜかずっと頭から離れないんですよねー」
「……」
「それって、名前以上に残るって思いません?」

 気取らず、けれどまっすぐに──その言葉に、なぜか胸の奥が静かに疼いた。触れたわけでも、名前を呼ばれたわけでもないのに、その声だけがなぜか深く残った。
 そのときだった。遠くで、爆音が響いた。緊急無線。出動命令。彼はそれを耳にするとごく自然な動作で翼を揺らし、静かに、私に背を向けた。

「……行ってきます。ヒーローの出番です」
「待って……!もう少し安静にしてないと──」
「大丈夫。だって俺、ヒーローですよ?」

 笑っていた。強がるようでも、使命を纏うようでもなく、ただ彼自身の言葉としてそう言った。
その横顔はとても切なく、とても美しかった。

「……ええ、そうでしたね。でも、たぶんまた、会いますよね、私たち……」
「もちろんですよー。だって──」

 その言葉の続きを、風がさらっていった。羽ばたきとともに、声は空へ溶けていく。次の瞬間、彼はもう視界の中にいなかった。まるでその存在そのものが、空と風で、できているかのように。あとに残された私は、ぬるくなった缶コーヒーの苦味を唇に感じながら、そっとそれを噛んだ。
 私はまだあの人の本当の名前を知らない。それなのにもう、その名前を呼びたくてしかたがない自分がここにいる。少しだけ、惜しいと思った。それはきっと名前では語れない何かが、私の中で芽吹きはじめた証だった。

 ──そして彼は、空へ戻る。名前のないまま、けれど、たしかに、私の心に残った人として。





 

空に触れる、その手のひら


(��だって──�=c…なんて、言ったんだろう)

※image song『 HANABI/Mr.Children 』


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