「今日は、帰りとうなかぁ〜」
その言葉が零れた瞬間、電車の窓に映る夜景がすこしだけ滲んだ気がした。
任務を終えた深夜、最終電車の揺れに身を預ける帰路。隣に座る彼がぽつりと零したその声にはあの、空を自由に翔けるナンバーツーヒーローの影はなく、ただひとりの男性の疲労と人間らしい弱さが滲んでいた。いつもなら冗談にすり替えてしまうような言葉が、今夜に限ってはあまりにも素直すぎて私が戸惑う暇もないままその静けさに飲まれていく。
「……え?」
当たり前に聞き返すと、彼は、視線を少しだけ逸らし、まるで傷を隠すように笑った。
「いや、ごめん。ちょっとだけ疲れちゃってさ。君の部屋でさ……今夜だけ休ませてもらっちゃ、ダメ?」
その瞬間、私は確かに感じた。彼は今ホークスじゃない。ヒーローコスチュームも、仮面も脱ぎ捨てた、ただの男、鷹見啓悟として、ここにいるのだと。
羽根も動かさず力の抜けた姿勢でこちらを見つめる彼に私は言葉もなくうなずいた。ただ静かに目を逸らさずに。
部屋に着くと、彼は玄関でようやく小さく息を吐き音を立てないように靴を脱いだ。そのあとはリビングの真ん中でぽつんと立ち尽くしていた。ソファにも腰を下ろさず荷物も置かず、まるで、自分の居場所が、どこにも見つからないみたいな雰囲気で。それは少しだけ迷子の子供のようでもあった。
「ホークスさん……シャワー、浴びます?」
その問いかけに彼は一瞬だけ間を置いて、少し困ったように笑った。
「……うん。悪いけど、先に借りまぁす」
バスルームの扉が閉まりすぐにシャワーの音が壁越しに響き出す。規則的な水音が、やけに生々しくて私は思わず、ソファのクッションを抱きしめていた。髪を濡らす気配や、シャワーヘッドを戻す仕草までもがやけに近くて意識しないなんて無理だった。でも最初はほんの少し彼を休ませてあげたい。それだけだった。けれど、湯上がりの彼が濡れた髪をラフにタオルで拭きながら、私の隣にちょこんと腰を下ろした瞬間、鼓動が一拍、はねた。彼はそれに気づく素振りも見せず、まっすぐ前を向いたまま、落ち着いた声音で言った。
「ねぇ、今日さ……、一緒に寝てもよか?」
「……え?」
「ほら、ベッド半分こで。俺、端っこでちゃんと寝るし。触れないし、変なこともしないからさ」
言葉を選びながらひとつずつ並べるように出てくる言い訳が、逆に彼の真剣さを浮き彫りにしていた。いつもの軽口を忘れた彼が今夜に限ってはまるで抱きしめてほしいと願う子供のようで──あまりに素直で、切実で。
「でも……君の隣がよか。……ずっと、そうしたかった」
私は彼の言葉を疑ったことが一度もなかった。だからきっと今回も何も言わずにただうなずいたのだと思う。
ベッドに並んで横たわった二人は、肩を寄せるでもなく、ただ天井を見上げていた。毛布を同じ高さで引き合いながら静かすぎる空気に、ほんの少しの緊張が混じる。言葉は交わさなくても鼓動だけは、ごまかせなかった。やがて彼がぽつりと呟く。
「……息、聞こえるね」
「……はい」
「ドキドキしてるの……バレてると思う?」
「うん……たぶん、バレてますね」
くすっと笑う声が夜の沈黙を優しく揺らした。その直後、彼がゆっくりと、体の向きを変える。枕元で目が合ったその横顔は、明かりを落とした薄闇の中でも、思わず見惚れるほどに綺麗で──けれど同時に、今にも壊れてしまいそうなほどに繊細で、儚げだった。見つめ返すことも忘れてしまうほど、胸の奥がふるえた。心拍数が跳ね上がる。息が、うまく吸えない。その距離と静けさがかえってすべてを露わにしてしまうようで、私はただ、その場に身を預けるしかできなかった。
「好きだよ、名前ちゃんのこと」
「……知ってます」
「……でもさ、俺。実は、ばりビビりで」
「ビビり? ナンバーツーが?」
「そう。お化け屋敷とか超ムリですしねー。暗いのも、苦手」
「意外すぎて信じられないです」
「うそ?今もちょっと怖いですよ?この時間が、壊れちゃったら、どうしようって」
その言葉の奥にある僅かな震えを感じた瞬間、私はそっと彼の手を探し、指を重ねるようにして握った。触れたとたん彼の指先が微かに震える。
「大丈夫ですよ。これは壊さないって、私が決めたから。……むしろ、壊したくないって思ってるのは、私も一緒だから」
その一言に彼の瞳がふわりと潤んだ気がした。けれど彼は、それを見せまいとするように、私の額に、頬に、そっとキスを落としていく。それはまだ��恋人�≠ニしての熱を帯びたキスではなかった。けれど確かに、かけがえのない存在に触れるような深くて、あたたかいキスだった。
「……おやすみ、お姫様。」
その夜、彼の羽根は、一枚も広がらなかった。代わりに彼の腕が私を包んだ。ようやく辿り着いた静かな夜に、私たちはそっと目を閉じる。
あまりにも大切すぎて、触れることすら慎重になる。そんな甘くて、少しぎこちない夜。けれどだからこそ確かに刻まれる、一歩目の夜だった。
*
真夜中という時間はときに無音ではなく感情のさざ波を静かに浮かび上がらせる。静寂が深まれば深まるほど人の心はむしろ、ざわめきを増すのかもしれない。
街の灯が遠ざかる中、寝息もまだ交わされない暗がりのなかで、彼の声がふいに落ちてきた。
「……ねぇ、眠れてる?」
そう問いかける彼の低い声は、夜の呼吸と溶けあいながら部屋の隅に淡く落ちていった。まるで鼓膜ではなく、胸の奥で聴くような音だった。
「……ううん。なんか、心臓がうるさくて」
「そっか。……うん。俺も、全然」
狭いベッドの中で肩と肩は触れ合わない程度の距離を保ちながらそれでも互いの手だけは僅かに触れ合っていた。指先がそっとかすめるたび皮膚よりも先に、心のほうが敏感に揺れていた。
「……名前ちゃんが隣にいるってだけで、頭の中まっしろなっちゃって、さ?」
照れ隠しのように、笑うでもなく、どこまでも真剣で、真っ直ぐな声。そして、少しだけ言葉の端が震えていた。
「いまね、すごぉーく……キスしたい。」
「え」
「……でも、嫌われたらどげんしよーとか、さ。変なふうに思われとうないなぁとか。そればっか考えちゃって」
「……」
言葉を並べるほど彼の声には普段の余裕が薄れていった。ナンバーツーなんて呼ばれている男がこんなにも不安に揺れている。そのことが、どうしようもなく愛おしくて、どうしようもなく切なくて。私は静かに呼吸を整えたあと、言葉を差し出すように小さく呟いた。
「……私も、したいです。……キス。」
その瞬間、彼の顔がふっと上がり、大きく目を見開いた。その表情には、驚きと喜びと、そして不器用な照れが入り混じっていて、あまりにも、まっすぐだった。まるで、少年のように純粋で、愛おしい。
「……じゃあ、する。」
彼は囁くように言って、そっと上体を起こす。私の頬に添えられた手のひらは、まるで割れ物に触れるような慎重さで指先には、かすかな震えが宿っていた。ひとつひとつの動きが恐ろしいほど丁寧で、ぎこちなくて、けれどその分だけあたたかかった。
唇と唇のあいだに残された、ほんの数センチの距離は、今夜に限っては、とてつもなく遠くて、それでも、ひどく甘い。時がとろけていくような錯覚の中で唇がついに触れた。柔らかく、そして浅く。でも確かに、熱を孕んだ唇が重なったその瞬間、世界のすべてが音を失う。呼吸も、時間の流れすらも止まったような静けさの中で、彼は、まるで確かめるように何度もそっとキスを重ねてくる。その度に私の背を撫でる手が震え、それが胸の奥の不安をひとつずつ溶かしていくのがわかった。やがて彼は、私の額に自分の額を、そっと重ねて吐息まじりに囁く。
「ん、……ねぇ、あの。ほんとに……大丈夫?」
「……うん。ホークスさんとなら、大丈夫です」
その一言が彼の最後の迷いをほどいていくのがわかった。羽根はひとひらも揺れなかった。ただ彼の腕が私を優しく抱きしめた。不器用に、でも確かに、私たちは心と体を重ね合っていった。
触れるたびに胸が熱を帯び、交わす視線の奥にある感情があまりに真っ直ぐで、痛いほどに透明で、ひとつひとつが初めて触れる春の光みたいに瑞々しかった。
「……ねぇ、」
「……ん、なんですか?」
「こういう夜を、ずっと夢見よったと」
「……」
「君のあったかさが、ちゃんとここにあって……嬉しいのに、泣きそう」
「え……泣かないでくださいよ。せっかく、こうしてるのに」
「ごめん。でも、幸せすぎるけん。困ってます」
その言葉に私も思わず笑ってしまう。けれど、それは涙が浮かぶほど優しい時間だった。この夜だけは、彼はヒーローじゃなかった。戦うことも守ることも、空を飛ぶことさえも、しなかった。ただひとりの、素直な男の子として、私を大切にしたいと願い、そっと手を伸ばしてきてくれた。
『──どれだけ高く空を飛んでも。どんなに遠く厳しい任務に出かけていっても。君と過ごすこの夜だけは、羽根を休めていたい。』
彼はそう言っていた。けれどその願いはきっと彼自身の言葉よりもずっと深く、ずっと静かで、胸の奥に根を張るような祈りだった。長い時間、想い合ってきたからこそ私たちは互いを壊さないように、まるで、薄いガラスを扱うように慎重に歩み寄ってきた。それでも今夜だけは触れずにはいられなかった。惹かれずにはいられなかった。
恋というものはときに残酷なほど無垢で震えるほどに優しい。けれど今だけはすべてが赦されている。闇さえも、まるで祝福のように、ふたりをやわらかく包み込んでいた。
*
カーテンの隙間から射し込む朝の光がほんのりと頬を撫でた。瞬きひとつで、それを遮るようにまぶたが震え私はゆるやかに目を覚ます。昨夜の熱が、まだ微かに肌の奥に残っているような気がして寝返りを打とうとした瞬間、布団の中で何かが絡みつく感触があった。
いや、違う。��誰か�≠セ。私の腰にまわされた彼の腕がぴたりとぬくもりごと引き寄せる。その動きは無意識のはずなのに、どこかしら名残惜しげで、甘やかな執着のようでもあった。
ふと、隣に眠る��誰か�≠フ横顔が静かに浮かび上がる。穏やかな寝息が彼の胸の奥で、かすかに響いており、頬にかかる前髪が揺れて窓から射し込む朝の光のせいか、まつ毛が少し濡れて見える気がした。夜のぬくもりをまだ孕んだベッドの中互いの体温をかすかに確かめ合うように漂う余韻と静寂とが私たちの心をより深く繋げているようだった。
言葉にしなくても胸の奥から溢れそうなものがある。けれどそれを言葉にしてしまうには今この瞬間はあまりにも尊く、触れてしまえば、壊れてしまうような繊細さがあった。私は、こんなにも近くにいる彼に、触れることさえもったいないと思うその気持ちに、すこし戸惑いながら、けれど惹かれるまま、そっと、その顔に自分の頬を近づけた──そのとき。
「……起きとーよ?」
不意に降りてきたその声は囁きのように耳朶をかすめ心臓を一瞬で跳ねさせた。彼の瞼が静かに開かれ、ぼんやりとした眠たげな瞳が、しかし、確かに、私を捉えている。淡い金色を含んだその眼差しは、どこまでもまっすぐで、私をまるごと包み込むようなやさしさを湛えていた。
「……もう、起きてたんですか?」
そう問いかけると、彼はわずかに口元を緩めて微笑んだ。
「君が寝返りうった時からずっと我慢しとった」
「え……なに、を?」
その答えを聞く前からすでに胸の奥がざわめいていた。彼はそっと手を伸ばし、指先で私の頬を撫でるように触れてから、たった一言、息を吐くように呟いた。
「キス」
その響きはあまりにも静かで、けれど真っ直ぐで、空気が震えるように、私の中に落ちてきた。
「……我慢してたくせに、言うの、ずるい……」
声にならない想いがこぼれそうになって、もごもごと言い返せば、彼の笑みがそのすべてを受け止めてくれるように深まる。
「我慢してたから、言いたかったと」
そして唇が触れる、ほんの一瞬前。まるで今が永遠になるかのように、彼の低く柔らかな囁きが降りてくる。
「……ねぇ、今朝の名前ちゃん、綺麗すぎてやばかよ。起きたばっかなんに俺もう一回、恋してる気分たい」
ふわりと重なる唇は深すぎず、けれど浅すぎることもなくまるで「おはよう」の代わりに心そのものを預けるようなキスだった。その優しさに、胸の奥がふるえる。息を整える暇もなく、私は、彼の名前を呼ぶ。
「……ねぇ、ホークスさん」
「んー?」
その返事が、あまりにもいつもの調子で、少しだけ心が緩んだ。
「わたし、幸せすぎて、こわいです……」
「……」
「この幸せすぎる時間を、止めてほしい……」
ほんの少しの間があって彼は何かを探るように私の瞳を見つめ、額と額をそっと重ねてくる。
「止めてみせますよ?ナンバーツーの力で」
「……」
「こわいって思えるくらい、俺も今、君を大事に想ってますよ?」
その言葉がやさしすぎて甘すぎて、何かが心の奥でふわりと溶け出していく。私は、涙のようにこぼれそうな感情を押し込めながら問いかけた。
「もう一度、好きって言ってもいい、ですか?」
「……ずる。そんなん言われたら、何回でも俺も好きって、返しとうなってしまう」
こうして朝の光がゆっくりと部屋に満ちていくなかで、私たちはまたひとつ、言葉以上の好きを交わしていった。まだ始まったばかりの朝なのにまるで、何年も共に過ごしたように、心はそっと重なり合っていた。
気づけばふたりとも、もう一度、微睡みに落ちていた。触れた手を離さないまま、互いの呼吸を子守唄にするようにして、深くも、浅くもない、やさしい眠りに。
「……おはよぅ、お姫さまぁ……」
寝起きの声はひどく低く、けれども幸福に溺れているのがすぐにわかるほど緩やかで私は反射的にその声の主へと視線を向けた。そこには、髪を無造作にくしゃくしゃのまま、まるで夢の続きを見ているかのような表情で微笑んでいる彼の姿。あの剛翼を持つ英雄が、誰よりも気の抜けた顔でただ私だけを見ている。
「ねぇ、なんか……全身が幸せすぎてやばかぁ」
彼の声にはまだ微睡みが溶け残っていた。私はすこし照れくさくなって、布団のなかで膝を引き寄せる。
「昨日の夜の、せい……ですか?」
「んー、おしい!」
「え?」
「昨日の夜と、名前ちゃんのせい」
躊躇のない言葉に、笑ってごまかす間もなく、彼は体を起こすこともせずに顔を近づけてくる。そして、ほんの一瞬のためらいさえ見せずに私の額に柔らかなキスを落とした。まぶた、頬、耳の後ろ、そして首筋へと、羽根のように軽やかで、それでいて確かに火照りを孕んだキスが連続して舞い降りる。唇というよりも想いそのものが触れているような感覚に、私はただ息を呑むしかなかった。
「……朝から、すごいですね」
「……だって、止まらんもん。なんかもう、名前ちゃんにキスしてないと俺、死ぬかもしれん」
そんなふうに、本気とも冗談ともつかぬことを言いながら彼は、また私を抱きしめる。その手のひらはしっかりと、しかし優しく私を包み込んでいた。ぬくもりは、確かにそこにあり、そこから伝わる体温は、やや熱を帯びていて、まるで──『好き』という感情が直接肌から溢れ出しているようだった。
「なんかさ……昨日あんなに触れたのにまだ足らん。名前ちゃんのこともっと知りたいって思うったい」
「……」
「終わらんとよ、俺の好きって。困ったねぇ」
静かな、けれど確かな語気だった。その言葉に返す声がうまく見つからず、私は、思わず視線をそらした。
「……そういうこと、朝っぱらから、真顔で言わないでください」
「え、なんで?朝って、素直な時間でしょー?」
飾らない瞳で見つめながら、彼はさらに距離を詰めてくる。ヒーロー活動に戻る気配など微塵もない、そんな表情だった。
「ねぇ……今日さぁ、休んでもよかね」
「また、そういうこと言う」
「ダメ? だって名前ちゃんが可愛いし、昨日の余韻で胸いっぱいだし。正直、あと二時間くらいこうしてたくてしょうがなかぁー」
その、あまりに甘ったるい本音に私は思わず、片手をクッションに伸ばし彼の胸を軽く叩いた。絶対に痛くもないのに「痛っ」と、ちゃんと反応してくれる彼は、やっぱり優しい。
「それ、二時間で、済むんですかぁ?」
「……無理ですねー、できれば午前中ずっとで」
笑いながら、彼はいたずらっぽく私をくすぐるように抱きしめ直す。その動作ひとつひとつに、どれほどの愛が込められているのかもう測りようがない。
「ん〜好き好き好きったい。ばり好き。どげんしよう、無理。名前ちゃんが可愛すぎて朝からバグっとー」
テンション高めの『好き』の連呼に私は思わず吹き出しそうになる。でもその明るさの奥にどこか、真剣な色が潜んでいるのを私は見逃さない。
カーテンの隙間から容赦なく細差し込む光が、まだ眠気の残る部屋に散っていた。けれど、それ以上にあたたかかったのは、彼が私の隣にいるという確かなぬくもりだった。
「……ちょっと、ほんとに起きてくださいよ?」
そう声をかけても隣の彼はふにゃりとした声で返してくる。
「今日はよかよぉ……」
「エンデヴァーさんに、言いつけますよ?」
「へ。」
「じゃあ言わないでおきますから起きて?」
「いやです……あと10分、いや5分……」
子どもみたいに枕に顔を埋めてぐずる声が朝の空気をやわらかく揺らす。私が呆れたように黙ると彼はそっと顔を上げ枕越しに私を見つめながらいたずらっぽく笑った。
「うそ。30秒でいいから、ここにいさせて?」
そう言ってまた、そっと唇を重ねてくる。そのあたたかさに、つい笑ってしまう。すねたような声色で、けれど、どこか必死で。まるでこのまま本当に朝を迎えたくないと願っているかのように彼のキスは静かに、しっかりと熱を含んでいた。
昨日あれほど甘くほどけ合ったのに夜が明けた途端、彼の��好き�≠ヘますます膨らんで、もう、抱えきれないほどになっている。きっと、眠っているあいださえその気持ちは、止まらなかったのだろう。そして私はそんな彼に、今日も明日も、きっとまた好きになられてしまうのだと胸の奥で確信する。
「ねえ、もぉー。ほんとに起きてください!」
何度目かの促しに、彼は枕に顔を埋めたまま、ごにょごにょと何かを言った。
「キスしてくれたら……起きてもよかですよ?」
「……あ〜〜!! もう、知らない!」
布団をばさりとめくって立ち上がろうとすると背後で突然、あわてた気配がする。
「あっ、待って待って! うそうそ、起きますって!」
私の腰に手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた彼の様子につい吹き出してしまう。そうして私は足をすべらせるように部屋を出て、キッチンへと向かった。
ガスコンロの前に立ちエプロンの紐を結びながら振り返ると彼がいつの間にかダイニングの椅子に座り頬杖をついてこちらを見ていた。さすが、速すぎる男。さっきまでベッドの中にいたというのに、まるで夢の続きの中で微睡んでいるような目。まだくもりが体に残っている。言葉を交わすだけで、その余韻が部屋中に満ちていく。
「……卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちがいいですかぁ?」
そう問いかけると、彼は少し首をかしげて考え込むような仕草を見せたあと、いたずらっぽく、笑った。
「ん〜甘いのが好きですけど今朝は名前ちゃんが作るなら、なんでも好きっ♡」
語尾に丁寧にハートマークまで添えてさらりとそんな台詞を言われ私は思わず抑揚をつけて溜め息をつく。
「……ちょっと、なんですかそれ。朝からそんな甘さ出してこなくてもいいですから。罰で、しょっぱいのにしますね」
「えー、ほんとのこと言っただけなのにぃ……」
彼は口を尖らせながらもその目は笑っていた。たった一晩のはずなのに、このやりとりすらも、どこかずっと前から続いているような気がした。
彼は肩をすくめるようにして余裕を見せているくせに視線だけは、しきりに私の動きを追っていた。あのベッドの中で見せた真剣な顔とは別人のような軽やかさがその瞳の奥には確かにあった。
「ちゃんと座っててください。ほら、甘めのコーヒー、淹れときますから」
「え、俺もなんか手伝いますよー?」
「いいです。ゆっくりしててください。見られてると、ちょっと落ち着かないから」
そう言った瞬間、彼はするりと立ち上がり軽やかな足取りでキッチンの背後に回り込むとふいに私の腰に腕を回し、背中から、そっと抱きしめてきた。
「これなら、見えないでしょう?」
「……いや!これはこれで、落ち着かないんですけど……っ!」
「でも、名前ちゃんの手元見てたら、なんか安心したくなって。あぁ、ほんとに一緒にいるんだなぁ〜って」
低く落ちてきたその声が、首筋に触れた吐息のぬくもりと共に、胸の奥を優しく揺らした。
「……ホークスさん、包丁使うから離れて……」
「えー。ん、じゃあ──キスだけ、させて?」
「……、もうっ」
まるで、子どものように甘えてくるその空気がくすぐったくて、でも不思議と嫌ではなかった。むしろこんなやりとりに少しずつ慣れていく自分を感じることが、どこか嬉しくもあった。
やがてテーブルに並んだ定番の朝ごはんのメニューを見て箸を持った彼がうっとりとした表情で呟く。
「やばぁ、名前ちゃんと結婚したかぁ……」
「ちょっと! なんですか、急に」
「いや、でもさ?俺、思うんですよ?名前ちゃんの隣の席、毎日予約できたらいいのにー、って」
思いがけないその言葉に一瞬だけ息を飲んで、それでも笑って返した。
「……それ、キャンセル不可ですからね」
彼は箸を止めてまっすぐに私を見つめる。その眼差しには、もはや迷いの色など一切なかった。
「うん、賛成。そういうのがいいです。最高。」
「……もう、なんですかぁ、それぇ……」
「はははっ」
朝の光が、さらに眩しくなり、味噌汁の湯気の向こうに揺れる彼の姿も、私の心の中の景色も、どこまでもやさしく、温かく、溶け合っていた。そう、これは、ただの朝ごはんではない。二人が心を寄せて、またひとつ��好き�≠ニいう気持ちに溺れていく、かけがえのない朝だ。
「早く結婚したかねぇ〜!」
「ぶっ──! もう!やめてください、それ!」
「あ、待って待って。その今の吹き出したやつ、俺、舐めてもいいです?」
「ねえ、それもう完全にヤバい人の発言ですよ」
「ヤバくないですって〜。ナンバーツーですよ?全国民に信を置かれてる速すぎる男ですよぉ?」
「はいはい……」
そんなふうに笑い合った朝の時間もゆっくりと過ぎていった。食器を片付け、お湯を沸かし直し二人で紅茶を淹れた。何気ない話を交わしながら彼はリビングのクッションに沈み込むようにしてぐだぐだとくつろいで私は洗濯物を干したりエプロンを外したり。ゆるやかに流れる午前の一時はまるで夢の余韻のように甘くて、穏やかだった。けれど私は、その幸せな光景がこのままでいられないことも知っていた。このあと、彼はまた空へ戻っていくのだろうか。どこか遠くの街に誰かを守りに行くのだろうか。そう思った瞬間、ほんの少しだけ胸がきゅっとなる。笑った口元にそっと問いかけたくなる。
けれどやがて時計の針が進み、気がつけばもう昼前。予定もないくせに「そろそろ行こっか」と彼が言い私は「どこへ?」と笑って返す。支度を整えた彼がジャケットの袖を通す音が部屋の空気を軽やかに震わせた。そしてふたりで並んで玄関に立つと、外の光が一段とまぶしく感じられた。私の靴を履く様子を彼は隣でしゃがんで見守っていて、その姿が妙に静かでやさしくて、胸がじんわりあたたまる。
「……ほんとに今日は、オフなんですよね?」
玄関に差し込むやわらかな光に包まれながら
問いかけると、彼はゆっくりとサングラスを外し目尻を緩めて笑った。その笑みはいつものようにどこか飄々としていながらも今日はわずかに素肌の温度を感じさせるような内側から滲み出る柔らかさを帯びていた。
「うん、オフ。絶対オフ。エンデヴァーさんからも『絶対に顔を出すな』って言われとーし」
「……よっぽど休めって思われてますね」
「だって俺、全然休んでないもん。だから今日はぜ〜んぶ、名前ちゃんと過ごすって決めてる」
言葉に合わせて、彼が私の手をとって絡める。羽根ではなく、指先で。空を飛ぶ力ではなくいまここにいる彼の身体と心そのものが、私の存在を確かめるように。その何気ない手のあたたかさに胸の奥がふわりと満たされていく。
最初に向かったのは、路地の角にひっそり佇む古めかしくも趣のあるカフェだった。木製の椅子とすりガラス越しの光、飴色のランプの下、彼はメニューを覗き込んで、甘いスイーツのページでぴたりと指を止めた。
「これ食べたい。てか、頼んじゃいます」
「それチョコパフェだけど……甘いの、そんなに好きだったんですね」
「えー?甘いのと君が好きなのは、最初からバレてると思ってたんですけどぉー?」
「やかましいなぁ、もう……」
くすくすと笑いながら二人でひとつのパフェをスプーンですくっては口に運ぶ。パフェグラスに差し込まれたミントの葉とチョコソースのきらめきが、彼の笑顔と重なって眩しかった。
外でこうして並んで笑うのは実のところ今日が初めてだったのに不思議と不自然さはなかった。ただ周囲の視線がそろそろ彼に届きはじめた頃、ふと彼の笑みが曇る。
「あー、やっぱダメかも。俺、目立つよねえ?」
「気にしてますか?」
「ちょっとだけね。名前ちゃんに嫌な思いさせたくないなぁーって思って」
その言葉に私はひと呼吸置いて、そして微笑む。まるで子どものように素直で優しくて不器用な気遣い。それはこの人がヒーローである前に、たったひとりの人間であるという証でもあった。
「じゃあ――帽子とマスクとサングラスで、二人とも、怪しい人になりますか」
「お、それ最高っすねぇ。バレてもナンバーツーの変装コントですって言えば、許されるでしょ」
なんて言いながらふたりして、お揃いの変装をして、カフェを後にした。
アーケードの商店街を並んで歩き、手を繋いだまま雑貨屋をひやかして、ベンチに腰掛けてジュースを飲む。どれもきっと誰にでもできる、なんでもない日常の断片。けれど彼はそのひとつひとつに「楽しいなぁ」と何度もつぶやいた。言葉の奥にはたぶんもっと深い、切実な何かがあった。それが何かはまだわからなかったけれど彼が笑うたび、私の心は確かにあたたかくなっていった。
ふと立ち寄った古本屋の静けさの中、私は背表紙を指でなぞり何気なくページをめくっていた。その隣で彼が本の棚に片腕を預けたままぽつりと漏らす。
「こんな休日さ、昔は想像もできなかったよ」
「……」
「誰かと並んで歩いて気を抜いて笑って甘いもん食べて……こんな日を幸せって思ってる自分が、ちゃんとここにいるのが、すごぉーく不思議」
「……不思議、なんですか?」
「うん。でも君とだからって理由がすぐ出てくる。それも、不思議じゃないよなって思える」
彼の言葉は、まるで木洩れ日のようだった。
真っすぐなのにどこか柔らかくて、いつのまにか心の深いところまで届いている。
何か言い返そうと顔を上げたそのとき彼が棚の陰から私の頬に顔を近づけてきた。そして、ひと呼吸も置かずにそっと、唇に触れるようなキスを落としてから囁いた。
「……ね、次の休みも、一緒に過ごそ?」
「それなんか、同棲カップルみたい……」
「うん。もう、そういう気持ちでいますけど?」
「……なにそれ、ずるいー、反則です。」
「ふふ、だって名前ちゃん相手じゃ、反則も使いたくなるでしょー?なんでも使っちゃうよ?君のためならね」
この一日はヒーローでもなければアーティストでもなく肩書きも使命も何も背負わないふたりがただここに在るためだけの時間だった。誰に知られなくてもいい。どこにも記録されなくていい。ただ指先がふれ合うたび、視線が重なるたびに、私たちは確かめ合っていた。いまここにふたりがいるということを。何も飾らず、ただ、愛しく、静かに笑い合いながら。
それはきっとどんな戦いよりも尊くて、どんな賞賛よりも確かなもの。彼の心が、初めて本当の意味で私を『守りたい』と願った始まりの一日。羽根のないところで芽生えたもうひとつのやわらかな強さ。それが今日、私たちの日常のいちばんはじめの一歩だった。