※原作ネタバレ+捏造のため閲覧注意。
※原作・アニメを未視聴の方はご注意ください。






 七月の初めは、なぜこんなにも胸の奥を静かに焼くのだろう。昼下がりの空は濃く、どこか遠くの世界から誰かが照らしているような熱を帯びているのに私の背中を撫でる風は、まだ春の名残を引きずっているかのようにやさしくて、まるで、何かを問いかけるような、名残惜しげな手触りをしている。
 そんな日々が近づくと、私はいつも、あの人の背中を思い出す。空へ、昇っていく姿。見上げるしかなかった輪郭。残像だけが妙に鮮やかだった羽音。七年前の七月七日。人知れず訪れた終わりと始まりが、私の時間を静かに変えてしまった。

 彼は、風のような人だった。その場にいたのかいなかったのか、たしかめようとする前に遠くへ行ってしまう、つかの間のやさしさと熱を残していく人。だけど私はその不確かなぬくもりに救われていたのだと、あの人がいなくなってからようやく気づいた。
 彼の名は、ホークス。いや、そう呼ばれていたことしか知らないのだ。本当の名前は、とうとう聞けなかった。それでも名前よりももっと深く、私の中に焼き付いている記憶がある。たとえば、少し伸びた前髪を煩わしそうに指で押し上げながら「ああ、風が気持ちいいですねー」と、空を見上げていた横顔。たとえば窓を開け放ったままの彼の部屋に風が流れ込み、カーテンが、ふわりと踊った午後、ふたりで交わしたたわいない会話。たとえば、ほんの一瞬、指先が触れたときに彼が言葉を失いかけたように、一拍の沈黙を置いて、「すみません、つい」と笑った、あの照れ隠しのような声。
 そんなすべてが、��たとえば�≠ナしか語れなくなった日常の欠片たちが、季節の巡りとともに、私の中で、何度も再生される。けれど、あの日を境に彼は羽根を失い、そして、姿までも消した。死んだのかもしれない。ずっと、そう言い聞かせようとした。けれど、信じきることがどうしてもできなかった。なぜなら私の心は今もまだ、風のなかに、彼を探してしまうから。何気ないビルの屋上。通りの向こうの電柱。空の高みにちらつく小さな影。どんなにあり得ないと分かっていても思ってしまうのだ。「あれは、あの��ヒーロー�≠ネのではないか」と──。

 そして、それでもなお私は生きているかもしれない��あなた�≠フために毎年、短冊を書き続けてきた。最初の年は震える手で『無事でいてください』と記した。二年目は『どこかで笑っていますように』。三年目は『私のこと覚えていますか』四年目は『会いたいです』五年目は『夢に出てきてください』六年目は──『いまも、好きです』そして今年、ついに七度目の七夕が巡ってきた。私はひとり今年も街の中心に設けられた笹の葉を見上げる。風が抜けるたびに色とりどりの願いが揺れている。誰かの祈り、誰かの想い、誰かの、過去。そして、私の……。
 もう終わりにしよう。そう思っていた。今年で七度目。七という数字は、なぜか、節目のように感じた。毎年少しずつ風化していく記憶にすがるように続けてきたけれど、もうこれ以上、いない誰かに祈りを投げるのは自分を縛る鎖にしかならない気がしていた。だから今年で最後にしようと決めていた。七度目の祈りなどもう奇跡には届かないのだと私の中の誰かが言っている。だから、最後にする。今年でもう、やめる。

 私は短冊を一枚選んで、ペンを持った。すっと風が吹いて指先に小さな寒気が走る。過去に書いた願いのひとつ一つが脳裏をよぎった。それらをすべて今ここで、手放すために私は文字を綴る。

 『 あなたの名前は、何ですか? 』

 その文字を見つめると不思議なことに涙は出なかった。ただぽっかりと穴の開いた胸の中に風が通り抜けていった。私はそれを、指先で確かめるようにそっと、笹の葉に結びつけた。
 今年の短冊も、また同じ色──蜜柑にも似た、けれどそれよりも柔らかく、陽だまりに一日晒された絹のような、あたたかくて、どこか、寂しい黄色。その色は、あの人がまとっていたヒーロースーツの記憶を呼び起こす。鋼のような意思を抱えながら、それでも誰よりも軽やかに空を舞っていた彼の背中。まるで太陽の名残をそのまま羽織ったような、孤独を隠す仮面のような、あの色。
 まるで彼そのもののようなその色に私は、どれほどの時間を、預けてきただろう。私がこの色を選び続けるのは願いを託すというより彼の痕跡にすがっていたいからかもしれない。忘れることができず、思い出すことも許されず、それでも手放せない記憶のかたちとして、私は今年もその色を選んでいた。名を知らぬままの人をこうして想い続けることの痛みと幸せを。しっかりと笹の葉にあの人の記憶が落ちないように。その瞬間短冊が小さく揺れた。まるで遠くから名を呼ばれたかのように。
 私はひとつ深く息を吸い込んだ。これは終わりじゃない。ただ、終わらせるための問いかけなのだと、どこかで知っていた。今日も風が、南から吹いている。


 *


 蝉がしばらく鳴りを潜めていた、その日の夜。七夕祭の灯りはまるで街そのものが星空を映したかのように華やかに、そしてどこか、幻想的に、灯っていた。提灯の朱と金の光が、人々の横顔を赤く染めながら流れ、あちこちから聞こえる笑い声と屋台の呼び声が、夏の夜を、軽やかに跳ねていく。
 私はというと高校時代の友人からの「たまには派手にいこうよ」という軽い誘いに押され箪笥の奥から久しぶりに浴衣を取り出していた。藍色に白い撫子の花が散らされた一枚。すっかり着慣れていない布地は肩にそっと馴染ませるまでに少しばかり時間がかかったけれど、それでも鏡の中の私は、思っていたよりも楽しげだった。髪を結い上げて、かすかに香る石けんの匂い。足元には、カランと音を立てる下駄。そんなひとつひとつの音が、心のなかで記憶を呼び起こしていた。あの人が風に髪をなびかせながら「浴衣、似合いそうですよね」と唐突に呟いた、いつかの夏。どこか真面目な声音で言うから「口が達者で」と笑って返したけれど彼は少しだけ視線を逸らし「いや、割と本気です」と、付け加えたのだった。そんなことまで思い出してしまう。自分でも驚くほどに些細な記憶が、あちこちから顔を出す。

「ねえ、ねえ。私も短冊書きたいな!」

 と、友人が手を引いてくれたのは、そんなときだった。

「願い事って、やっぱり、言葉にすると叶いそうじゃない?」

 そう言って、彼女は楽しげに色とりどりの紙を選んでいる。私はふと、今年の自分の短冊がどの位置だったかを思い出して自然と視線を笹の枝に向けた。けれどそこにあるはずの黄色……いや、彼の色を宿したあの一枚がなかった。しっかりと結んだはずの最後の問いかけの短冊が、どこにも見当たらなかったのだ。

「あれ……?」

 胸の奥に、小さくヒュウと風が吹いたようだった。間違いない。確かに私は、そこに結んだはずだった。誰の目にも触れぬよう、落ちないように丁寧に。けれどその証はまるで最初からなかったかのように跡形もなく消えていた。風に飛ばされてしまったのかもしれない。けれど、どうであれそれはもう��願い�≠ナはなくなっていた。それが私の未練のすべてだったのだと、そう思うことにした。もう、これで終わり。私のなかのあのマイヒーローを、やっと手放せる。そう言い聞かせるように、私は深く息を吐いた。するとそのとき、友人のデバイスから、ピピッと音が鳴った。

「……あ、ごめん。非常召集かかったわ」

 彼女は現役のヒーローであり、平和な夜であっても、その呼び出しからは逃れられない運命だ。

「ほんとごめん!すぐ戻るって約束するから少しだけここで待ってて!」

 そう言って私の肩を軽く叩き、あっという間に人波の中に消えていった。花火の予告アナウンスが聞こえる。遠くの空が、一瞬、光に染まった。そして、そのわずかな間の空白を縫うように背後から、低い声がした。

「お姉さん、一人?」

 振り返ると酔いの回った三人組の男たちが明らかに、節度を欠いた笑みを浮かべて立っていた。嫌な予感がした。逃げようと身を引こうとしたが片方の男が横に回り込んできた。

「そんなに怖い顔しないでさ。せっかくの七夕祭なんだからさぁ」
「あ、えっと。あの……わたし……」

 後ずさる私の肩に三人のうちの誰かの手が触れられそうになった、そのとき──。

「やめときましょーよ。九州男児やろ?その評価ダダ下がりになっても、責任取れませんよー?」

 どこからか乾いた風のような声が鋭くその場に割って入った。その声に、私も、そして男たちも反射的に振り返る。

「その手、下ろした方がいい。……この街じゃ、��ヒーロー�≠ェ、見てますからねぇ」

 人混みの先──浴衣姿の賑わいにまぎれるにはあまりにも異質な黒いフードを被った男が屋台の灯りの境界に立っていた。下は、膝までのラフなハーフパンツ、足元には無造作に下駄を引っかけていて、まるで祭りの空気に馴染む気のない出で立ち。だが何より目を引いたのは彼の顔にかぶさった一枚の仮面だった。それは、お祭りの屋台で子どもたちに人気のヒーロー・ホークスを模したお面。その顔が提灯の明かりを受けて、こちらをまっすぐに向いていた。

「なに、あんた……? ホークス信者?」

 男たちの一人が睨みつけるように詰め寄ろうとする。だが、その仮面の男はゆっくりと歩を進めながら無言でポケットに手を入れた。次の瞬間、小さな閃光が走り、あたりの提灯が一瞬だけ風に揺れた。気づけば三人組は、妙な空気に圧されたように踵を返してそそくさと逃げていった。私はただその場に立ち尽くしていた。助けてもらったという実感も追いつかないほど、心が驚きに追いつけなかった。

「あ……ありがとう、ございます……」

 ようやくそう言葉をかけた瞬間には、もうその男性は、私に背を向けていた。

「気をつけて。今日は人が多いから」

 そう呟いた低い声は、お面の下で、ほんの少しだけ震えていたような気がした。そしてその彼は群衆の中へと吸い込まれるようにあっという間に消えていった。私はただ、その背中を見送ることしかできなかった。けれど、心のどこかが、ざわめいていた。あの足取り。あの声。あの、一瞬の風圧……。胸の奥で記憶の何かが小さくひらいた気がした。
 ──まさか。いや、そんなはずはない。でも、どうして。どうしてあんなにも、あの背中が懐かしいのだろう。私は胸元に手を当てたまま、しばらく動けなかった。提灯の明かりが揺れ夜空には無数の花火が、弾けている。朱、白、金、青……色とりどりの光が、夜の帳にひらひらと咲いては消えていく。その喧噪のなかで、私の時間だけがまるで置き去りにされたかのように静まり返っていた。心臓の音だけが鼓膜にやけに近く聞こえる。先の男性の後ろ姿と、あのお面、そして声。何かが、確かに呼び起こされそうで、けれどその輪郭は、まだ、はっきりとはしない。
 そんなときだった。ふいに、私の足元に、風に乗って舞い降りた何かがあった。ゆっくりと視線を落とす。それは、一枚の、羽根だった。

 ──深い、深い、赤……。

 少し傷つき毛羽立ち、それでもどこか懐かしい熱を帯びているその羽根を、私はそっと拾い上げる。指先に伝わるのはたしかな��生�≠フ温もり。
 その瞬間、胸の奥で、何かが大きく脈打った。逃げるように消えていった男。ホークスのお面。そして、この羽根。私は無意識の内に走り出していた。群衆をかき分け、火薬の匂い、屋台の食べ物の香り、人混みの汗と香水の中から、私だけが知る、あの人の匂いを探して──。
 私は生まれつき、匂いを感知する個性を持っていた。それは個性と呼ぶにはあまりに地味でヒーローのような派手さも力強さもなかったけれど、私はあの人の匂いを誰よりも正確に覚えている。潮風と陽射しを混ぜ合わせたような乾いた羽根と革の香り。時折甘く香る木の樹皮のような匂い。あれは、あの人にしかない気配だった。

 屋台の煙と花火の残り香のあいだを私は迷路のようにすり抜ける。風が巻き上げるたび、足元に人の影が交差する。けれど、私は迷わない。鼻の奥に確かにあの人の気配が満ちていたから。わずかに残った羽根の残香が、導くように私の歩幅を速める。そして私は、あるひとつの場所にたどり着いた。
 街の北側、喧噪から少し離れたところにある、小さな神社。夏祭りのときには、縁結びの神様として人が集まるその場所も、今はほとんど、誰もいない。その境内へと続く長い石段のふもとに、私は立っていた。そして──見えた。階段の頂。朱塗りの鳥居の、すぐそば。屋台の灯りからも、提灯の光からも外れたその場所に、ただひとり、佇んでいる男性の姿が。黒い輪郭。フードを脱いだ乱れ髪。そしてその背に……羽根はなかった。でも、私は確信していた。あれは、あのひと──あの、��ヒーロー�≠ノ、間違いない、と。

 私は胸の前でさっき拾った羽根を、そっと握りしめる。花火の音が、遠くでまたひとつ弾けた。その光が彼をひとときだけ照らした。私は、その光の中で、ただ彼の姿を見つめていた。その姿を目にした瞬間、心の中を巣食っていた疑念や恐れや、ありとあらゆる理性の声が、まるで、足元の石畳に置き去りにされるようにしてすっと消えていった。自然と足が進む。石段を駆けのぼるたび下駄がかすかに音を立て、帯が胸元を締めつけて息が浅くなる。けれど、苦しくなんてなかった。それよりも、これまでの七年間で積もった思いのすべてが心臓の鼓動となって、胸の奥を強く打ち続けていた。

 あの背に羽根はない。けれど、あの肩の傾き、静かに風を受けとめている首筋、影のように夜に沈むその佇まい。間違えようがなかった。私は、あの人を、七年前よりも鮮明に、今ここに感じている。彼は、動かずにいた。私の足音に気づいていないはずがない。それでも振り返らずただ風の中に立っていた。やがて私が、最後の一段を踏みしめたとき、彼はようやく、ゆっくりとこちらへ振り向いた。まだお面は、つけたまま。お祭りで売られていたあの少しだけデフォルメされたヒーロー��ホークス�≠フ顔。なのにどうしてだろう。その向こうにある瞳の表情が、透けて見える気がした。
 私たちは言葉もなく向き合った。風がふたりの間をそっと抜けていく。夜の空では、花火がひときわ大きく音を立てて咲いた。金と白のひかりが炸裂し、世界が一瞬だけ昼のように明るくなる。その明るさのなかで私は、彼の指が、ほんの少し震えているのを見た気がした。
 息を整えようとしても、うまくできなかった。胸の奥で何かが滾っているのに喉はそれを言葉に変える術を持たなかった。何かを言いたくて何も言えなくて私は思わず一歩だけ後ずさる。するとかかとがわずかに段差を踏み外した。あ……と、言葉より早く、世界が斜めに傾いた。視界がゆっくりと、夜の闇へ倒れていく。その瞬間──。

「……っ、あっぶな、」

 咄嗟の低い声とともに、ぐいと腕を引かれた。重力の感覚が、するりと反転する。気づけば私は彼の胸に抱きとめられていた。しっかりとまるで落とすものか、とでも言うように。
 お面の奥の眼差しが、今度ははっきりと、私を見つめていた。夜空ではふたたび花火が咲いた。今度は緋色。まるで彼の羽根の色のようだった。そのひかりのなかで私は、彼の腕の強さと体温と匂いと、何より��あのヒーロー�≠オか持ち得ない空気を、何の疑いもなく感じていた。
 抱きしめるという行為が、こんなにも静かで、そしてすべてを語るものなのだと。私はただ目を閉じて、その胸のなかで呼吸を重ねる。名を呼ぶ前に、私はもう、すべてを思い出していた。

「……」
「……」

 私はまだ、胸が跳ねるのを抑えきれずにいた。急いで駆けのぼってきたせいだけではない。咄嗟に引き寄せられた彼の腕のなかで、世界の重力が変わったような、錯覚に陥ったのだ。時間が引き戻されたのではなくて、むしろこの瞬間のために七年間という時が用意されていたような、そんな予感に。
 けれど私は抱きしめ返すことができなかった。あまりに唐突で、あまりに確かで、あまりに──怖かった。だから、そっと彼の腕のなかから身を起こして一歩だけ後ろへと下がった。けれどそれは、彼から逃れるための一歩ではなく、彼をちゃんと見るためには、必要な距離だった。目の前の彼は、まだホークスのお面をつけたまま。滑稽なほどに浮いて見えるその仮面が、まるで、過去と現在のあわいに立つ��しるし�≠フようで、私は、言葉を持て余したまま、ただ見つめた。
 ──風が、吹いていた。神社の境内を渡る夏の夜風。灯籠の火が小さく揺れ、花火の光が背後でまたひとつ弾ける。耳に届くのは、遠くの喧騒。けれど、この場所だけが切り取られたように静かだった。私はもう分かっていた。お面の奥にいるのが誰なのか、名を知らずとも心が先に確信していた。声が、空気が、佇まいが、手の温度が……すべてが、彼を指し示していたから。私が七年間夢の中でさえ触れられなかった人。ずっと祈ってきたその人が今ここに立っている。だけど仮面がある。顔が、見えない。まだ彼だと言いきれない一線がある。私が踏み越えるべきか彼が差し出すべきか──そんなことをほんの一瞬だけ考えた。そのときだった。彼が静かに右手を上げた。お面の端に指を添えて、そして止まった。外さない。外せない。なぜだろうと息を呑んだ次の瞬間彼はお面の下から低く、ゆっくりとした声で言った。

「……あなたが、外してください」

 それはまるで、封を託すような、声音だった。隠してきたものを晒すことを彼自身の手ではなく私に委ねるという選択。拒絶されることを恐れながら、それでも願ってしまった、そんな声。その言葉の余韻が、夏の風に揺られて私の胸に届いたとき、私は気づいた。彼もまた、ずっと立ち止まっていたのだと。私と同じように、過去と祈りのあわいで名を呼ばれぬまま時間の向こう側に立ち尽くしていたということを。
 私はそっと手を伸ばした。この手で彼を確かめたかった。この手で、名を知りたかった。そしてあのヒーローの��現在(いま)�≠�、私の指先で、迎えにいこうと思った。

 震えていたのは指先か、それとも心だったか。でもどちらでもよかった。ただ、確かに触れた。あの人の仮面の端にそっと。彼は動かなかった。拒むことも、逃げることもせず、ただ、私の手にすべてを預けていた。
 私はその重さにほんの一瞬だけ戸惑いながらも指先にそっと力をこめてお面を外した。そして、見えた。七年越しの夜の向こうから、彼の顔が、すぐそこにあった。以前よりも、少し痩せた頬。深くなった眼差しの陰り。けれど私はすぐに気づいた。この人はあのときのままずっと、同じ風を纏っている、と。
 何も言えなかった。言葉が追いつかなかった。私はただ唇を結んで肩を揺らして、そして、涙をこぼした。それは嗚咽ではなく、祈りがほどける音だった。積み上げた想いの重さが涙になって、ゆっくりと頬を伝う。彼はそんな私を迷いごとのない眼差しで見つめていた。そして静かにどこか照れくさそうに、けれど、綺麗に、笑った。

「……やっぱり、思ったとおりですね」

 その言葉に私は一瞬、思考が追いつかず、涙の奥で瞬きをする。

「……え?」

 問い返すように呟くと彼はどこか少しだけ照れを噛み殺すように目を細めてゆっくりと言った。

「浴衣。とっても似合ってますよ」

 その声音には、あの夏の記憶が確かに重なっていた。七年前、ほんの冗談のように言った、けれど、どこか、本気の色を宿していた、あの一言。私は息を飲み、目の奥がさらに熱くなるのを感じた。何も変わっていなかった。彼は、あのときと同じ人で、私は、ずっとその言葉を待っていたのだと、今になって気づく。

「今年のお願い事は……さすがにもう、無視できませんでした」

 その声に私は息を止めた。……お願い。短冊。今年、最後だと決めて書いた、あの一枚。『あなたの名前は、何ですか?』と書いた、それを──

「……見たん、ですか……?」

 やっとの思いでそう問うと、彼は少しだけ目を細めて、まるでいたずらがばれた子どものように肩をすくめた。

「見たどころか。七年前からずっと、見てましたよ? 毎年、毎年。」

 私は、言葉をなくした。信じられない想いと、嬉しさと、戸惑いと。それらがぜんぶ、胸の奥でせめぎ合って、また涙が溢れた。

「……そんな……全部……?」
「はい。全部。」
「……、」
「『夢に出てきてください』とか『いまも好きです』とか。ずいぶん泣かされたなぁ、こっちは」

 彼は冗談めかして言いながらもどこか懐かしむように、あたたかく微笑んでいた。私は顔を覆うこともできずに、ただ涙を溜めたまま、そっと、彼を見上げた。

「俺も、ずっと好きでしたよ。もちろん、今も」

 低く、落ち着いた声だった。言葉の重さをよく知る人が、それでもなお伝えたいと願ったときに出す、静かな愛の表現。その音が私の耳に届いた瞬間、胸の奥で何かが優しく、深く、解けた。

 七年という歳月のあいだ、私は何度も心に蓋をしてきた。もし生きていたとしても、きっともうどこかで、別の時間を歩いているのだろうと思い込むことで、自分を守っていた。けれど今、彼のその言葉が長く閉ざしていたその扉を、何の音もなく、開いてしまった。
 私は、あたたかさと涙でいっぱいになったまま言葉を選べずにいた。でも、どうしても聞きたかった。ずっと知ることを恐れていたその問いを、今こそ彼の口から。それがすべてを繋げる最後の欠片のように思えて。
 私は、言葉にならない想いを抱えたまま、ゆっくりと彼を見つめた。涙は止めようとしても止まらず、頬を伝って静かにこぼれ落ちてゆく。その雫を彼は何も言わずに指の腹でそっと拭ってくれた。指先が頬に触れた瞬間、私は、かすかに息を飲んだ。あたたかいのにどこか儚い温度だった。まるで、遠い昔の陽射しに似たぬくもり。視線と視線が絡まり合い、ふたりの間に流れていた時のすべてが止まったように感じられた。言葉は遅れて、胸の奥からひとつずつ掬い上げられるようにゆっくりと、唇にかたちを成していった。

「マイヒーロー、ホークス……あなたの、本当の名前は……?」

 声は掠れ震えていた。それでも届いた。きっとこの七年のすべてがその一言に宿っていたから。そして彼は、そっと頷いて、まっすぐに言った。

「……俺の名前は──鷹見啓悟です。」

 その瞬間、まるで夜空さえ祝福するように背後で大輪の花火が咲いた。音も光も時を止めたようだった。私は、鷹見啓悟と名乗ったその眼差しに吸い込まれ言葉のないまま、ただ彼を見ていた。すると彼がふわりと笑い、ひとつ息をのむようにして私の頬にそっと手を添えた。そして、重ねられた唇は温かく静かで、懐かしくて──それは、ようやく辿り着いた、居場所のようでもあった。

 花火が夜空を照らし続けていた。ふたりの影が淡い光のなかで溶け合っていく。それはきっと、願いごとの、終わる夜の合図。そして、名を知ることで、ようやく始まる夜でもあった。





 

 風追ひのたんざく綴り


(……俺、ずっと逃げてましたね、きっと。)
(うん……)
(名前を伝えたら、戻れなくなる気がして)
(……うん)
(でもあなたが名前を呼んでくれるなら……俺は、どこにでも帰ってこれる気がします)
(──鷹見、啓悟さん……)
(うん……ただいま、名前さん。)

※image song『 時の歌 (歌集ver.)/手嶌葵 』


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