──まるで、導かれるように。そうとしか言いようがなかった。
急患として運ばれた子どもに付き添い私は応急処置班の臨時チームとして、被災地に派遣されていた。日々報道される戦闘地帯ではなく、もっと小さな地図の端にしか載らないような場所。それでも命の重さに変わりはなく、私は私の持ち場を全うしようとしていた。そのときだった。地鳴りのような音と、崩れ落ちる建材の下敷きになった声。血の気が引く音が自分の内側で静かに響く。私のいるテントのすぐそばに瓦礫が落ちていた。そして、そのすぐ先に──羽根。あの緋色の迷いなく風を裂く彼という存在の片鱗がふいに視界に入った。
「おい、そこの人!手貸して!ヒーローが降ってきたぞ!」
その声に導かれるように私は駆け寄った。そこにいたのはうつ伏せに倒れた男性。瓦礫の隙間に体を半ば埋めたまま、荒い息を繰り返していた。左肩から背中にかけてざっくりと裂けた傷。あのときと、同じ箇所だと瞬時に思った。やっぱり、傷口が塞がってなかったのだろうか。
それでも、彼の周囲には羽根が集まり、まるで自律する盾のように彼の身を囲っていた。ゆるやかに回転しながら、次の攻撃を予測しているかのように。私は、息を飲んだ。
「……ホー、クス……?」
その名を口にするのが怖かった。だが迷いようがなかった。たった数回しか会っていないというのに私の脳が先に彼を認識していた。彼のまぶたがゆっくりと動く。焦点の定まらないその瞳が、私の顔を捉える。そして彼は傷の痛みなどなかったかのようにあの、どこかあどけない笑みを浮かべて、こう言った。
「やっぱり……、あなた、でしたね……」
それから数十分。臨時収容テントの片隅は即席の処置室に変わった。私は応急セットを開き消毒液を手にし、麻酔の量を冷静に計算しながら内心では、ひたすら問い続けていた。
──どうして、また、あなたなんですか。
言葉に出すことはなかった。けれどその問いは確かに、消毒ガーゼの隙間から立ちのぼるアルコールの匂いに混じっていた。再会を喜ぶ余裕も、どうしてここにいるのかを問う余白もなかった。ただ、救わなければならないという職能の義務感だけが、私の手を動かしていた。
それでもさすがは最前線で活躍するヒーロー。本人は怪我なんて日常茶飯事ですよ、とでも言いたげに至って平然として、まるで、ただ昼寝でもしていたかのような顔で笑っていた。
「終わりました。一週間経ったら抜糸しますのでそのときまで、毎日きちんと消毒してください。ご自身の……事務所とかで」
そう告げた私に、彼は、少しだけ姿勢を起こしながら、いたずらっぽい声色で言った。
「ここに……来てもいいです?」
思わず手を止めて、彼の顔を見る。目を伏せるでもなく彼はまっすぐに私を見ていた。その声音はどこか甘えているようもありどこか本気で求めているようでもあって、私は言葉を詰まらせた。
『どうしてそうやって簡単に、距離を詰めようとするんですか?』
はっきりとそう言ってやりたかったその問いもまた声にはならなかった。だって、彼の瞳には、すでに答えを待っている光が宿っていたから。
「……遠く、ありません?」
「遠いです。でも、毎日来ても?」
「毎日じゃなくても……週二か週三来れば、早く治りますよ」
「主治医、先生なんですか?」
「消毒するだけなら、誰でもいいでしょう?」
「よくないですよ。大事です、主治医の美貌は」
「美貌で主治医を選ぶなら、私しかいませんね。──じゃあ、二時に、お待ちしております」
言いながら私は自分の言葉に少しだけ驚いた。まるで冗談のように交わされていくやりとりが、戦地での張り詰めた空気を、ほんの少し和らげていくのを感じた。不思議と心地よかった。けれどその気配に、甘えてはいけない気もしていた。
「お医者さんなら彼氏いませんよね?忙しくて」
ふいに落ちたその言葉が、空気の隙間を震わせた。心臓がほんの少し跳ねた気がした。私はそれを悟られないようにして、できるかぎり無表情で返す。
「ヒーローなら、彼女いませんよね?きつくて」
彼は小さく笑った。ほんの少しだけ首を傾けてそのまま、私の目をじっと見つめて問い返す。
「さて……先に答えるの、どっちですかね?」
どちらが先に心を開くのか。どちらが先に踏み込むのか。このやりとりがきっと始まりなのだと思った。私たちは今ようやく、互いの名を呼ぶ、その少し手前に立っている。お互いが静かに心の扉を叩こうとしていた。
けれどまだ私は彼の本名を知らない。それでもどこか確信めいた声が心の奥で囁いていた。この人はまた、私の世界を変えるのだ、と──。
*
その日は朝から落ち着かなかった。寝不足でもなかったし、前日の当直があったわけでもない。けれど、妙に時間がゆっくりと流れているように感じられて、何か大事な予定を忘れてしまったのではないかという不安だけが背中にじわりと染みついて離れなかった。
いや、予定は、ある。今日の午後二時──あの人が来る。ホークス、と名乗る空の人。それが、ヒーロー名であり、本名ではないことも、彼が、どんな場所に住んで、どんな暮らしをしているのかも、私は何ひとつ知らない。けれど、それでもあの日、傷口に触れた私の手に向かって、彼が、確かに言ったのだ。「ここに来てもいいです?」と。そして私は「お待ちしています」と返した。
だから私は今日、この時間、この場所にいる。たとえそれが医師としての義務であっても。たとえ彼の言葉が、ほんの気まぐれだったとしても。
けれど、その予定は約束の時刻よりずっと前に音を立てて崩れることになる。病棟の外で羽音がした。それは風を切る音というより空気が裂けるような鋭い音だった。医療棟の静けさに、不意に走る異物の気配。私は反射的に顔を上げた。次の瞬間、空気が一気に変わった。ドアがノックされるよりも早くそこにいたのは予定の患者ではなかった。予定の時間にも、まだ遠い。けれど彼は、確かにそこにいた。左肩の包帯を、新しいものに巻き直している彼が私に向かって「来ました」と言った。まるでこちらが迎えに行くことが当然のように。
「……あの、二時って言いましたよね?」
私はなるべく穏やかに、けれど少しだけ呆れた声音で問いかけた。彼は、悪びれる様子もなく、いつものようにふっと笑って首を傾けた。
「すんませんねー、途中で羽根が、勝手に曲がっちゃって」
「嘘ですね、それ」
「はい、嘘です。」
「でしょうね……」
「……予定、早めちゃいました。すみません」
羽を軽く畳みながら、彼はいたずらっぽく笑った。けれどその笑みの奥に何かを誤魔化すような色が、一瞬だけ揺れていた気がした。
「ほんとは──」
そう呟いた彼の目が、一瞬だけ鋭さを帯びる。けれど、すぐにまた、どこか甘えるような視線に戻った。
「誰か他の人に
……俺、我ながらちょっと子どもっぽいですね」
その一言に心臓が不意に脈を跳ねた。この人は思っていたよりも、ずっと正直だ。見張っていたというより離れていられなかったと言ったほうが近い口ぶり。私は返事をするより先に鼓動の速さに気づいていた。どうしてそんなふうに、まるで追いかけるように来るのか。その理由を聞く勇気だけが、まだ今の私にはなかった。
「先生、そういうの、嫌です?」
「……なんで、私に聞くんですか?」
「じゃあ、答えなくていいです。今日の目的は、
そう言って彼は、躊躇なく診察椅子に腰を下ろす。いつもはふわふわと軽そうな彼の動きが今日に限って、妙に居座る気満々なのが少しだけ可笑しかった。
「──では。傷、見ますね。消毒します」
私は慣れた手つきでそっと包帯を外した。肌はまだ浅く赤く、けれど順調に塞がり始めていた。細く美しく縫合された線が、彼の鍛えられた肩の上に静かに光っている。
「……傷、綺麗ですね。あの衝撃からして、ここまで回復してるなら、十分です」
「きっと、先生が縫ってくれたからですねー」
「誰でも同じです。医者なんてみんな手順通りにしか動きません」
「じゃあ、俺は先生がいいです。順番に人を見ていく中で自分を選んでもらえるって……嬉しいんですよ」
「……あなた、本当にヒーローなんですか?」
ふいにこぼれた問いは、半ば冗談で、半ば本気だった。けれど彼は、しばらく沈黙したあとで、ぽつりと答えた。
「正直わかんないです。ヒーローってなにかってずっと考えてる」
「……」
「でも、今はそれより��名字先生�≠チて呼ぶのが正しいか、下の名前で呼んでいいのかが気になっちゃって」
「呼ばなくていいです、下の名前なんて」
「じゃあ、俺のほうから名乗っていいです?」
私が不意に手を止めると、彼はほんの少し前のめりになって、私の耳元近くで囁いた。
「鷹見啓悟、って言います。ご存知のとおり──ホークスは、ヒーロー名で。」
「……、」
「非公開ですけど、先生にだけはちゃんと……」
鼓膜に触れるような距離で告げられたその名は不思議なほど温かく私の中に沁み込んでいった。そうして私は初めて��空の人�≠フ名前を知ったのだった。
*
扉がノックされたわけでもないのに、ふいに、気配が変わった。気温でも、光でもない。あの、風の通り道のような空気の揺れ。私は、振り返る前から、誰が来たのかを理解していた。あの風の通り道のような気配は今日で二度目でも、すでにどこか、懐かしかった。
「こんにちはー、名字先生♪」
そう言って入ってきた彼は、今まででいちばん穏やかな表情をしていた。それは、任務を終えてようやく息をつけた人間の顔でもあり、同時に、ほんの少しだけ、甘えたがっている子供のような気配も宿していた。
「……今日はヒーロー、ホークスとしてですか?それとも��鷹見啓悟�≠ウん、として?」
私がそう問うと彼はふっと目を細めて笑った。
「はい。鷹見啓悟として。今日は、ヒーロー業務じゃないんで、サボり扱いでお願いしまぁーす」
「じゃあ、診察も��特別扱い�≠ナすか?」
「もちろん。でも、消毒はちゃんとやってくださいねー? 先生じゃないと、やだなって思って」
冗談めかして言いながらも、その声にはどこか本音の湿度が混じっていて、私は胸の奥で言葉の輪郭を拾い上げるようにして、黙って頷いた。
包帯をほどき患部を確認し、アルコールを含ませたガーゼでそっと拭う。滞りなくほんの数分で終わる処置。けれど、今日はそのあとが、すこし違っていた。
「名字先生」
包帯を巻き直していた私の手がふいに止まる。彼の声がほんの少しだけ低く、そしてゆっくりと沈んでいたから。
「もうちょっとだけ、ここにいちゃダメです?」
静かなその問いは私の指先よりも先に心の奥に触れた。
「……ヒーロー任務は?」
「終わってます。でも次の予定が入る前に、ちょっとだけ、誰でもない時間にしておきたくて」
彼は椅子に座ったまま天井のランプをぼんやり見上げていた。その横顔に、いつもの軽さはなかった。むしろそっと呼吸を整えようとする人間の静けさだけが漂っていて、それが私の中の医者としての直感をくすぐった。
「じゃあ……少しだけ。午後診が始まるまでは、空いてますから」
私がそう言うと彼は小さく笑って、背もたれに体を預けた。ほんのわずか安堵の吐息がこぼれたのがわかった。
沈黙が流れる。でもその沈黙はどこか心地よく静寂のなかにお互いの呼吸だけが在って、風が、カーテンをかすかに揺らしている。それがまるで彼の羽根が休んでいる音のように思えて、私は、不思議な感覚に包まれた。
「先生ってこういうとき、何考えてるんです?」
ぽつりと彼が問う。私はすこしだけ考えてから答える。
「何も考えてないですよ。忙しいときは、考える暇もないし、こういう静かな時間は、むしろ何も考えないでいることが、私にとっての休憩かも」
「いいっすねー、それ。俺、いつも何か考えててでもそのくせ答えは出なくて、結局ヒーローっていう役割に戻るしかないんで」
その声には、羽根をたたむ鳥のような、弱さがあった。誰にも見せない、空の裏側。その重力に私は医師として、はたまた��ひとりの人�≠ニして手を差し伸べるべきなのか正直、迷った。
「じゃあ今は……鷹見啓悟さんでいてください。戻らなくていい。少なくとも、診察が終わって、病院を出るまでは、鷹見啓悟さんで。」
彼は驚いたようにこちらを見たあと、ゆっくりと笑った。その笑みは戦場で初めて子どもが泣き止んだときのような、柔らかな、安心をまとっていた。
「……名前、呼ばれるの、好きかもしれません」
「え?」
「先生の、その声で。」
そのとき、私の中で何かが静かにほどけていった。まだ��恋�≠ニ呼ぶには遠い。けれどたしかにこの時間だけは��誰でもない自分たち�≠ニして、並んでいるような、そんな感覚があった。私は、彼を見つめ、ほんの少し口角を上げて言った。
「じゃあ今日は特別に処方します。休息時間。」
「それ、ちゃんと効きます?」
「効かせます。私、医者ですから」
彼がくすくすと笑う。風が、窓の隙間から差し込み、ふたりのあいだに、ほんの少しの光が生まれた気がした。
空を飛ぶ人と、地に足をつけた人間。けれど、こうして同じ椅子に腰を下ろす時間があるのならそれはきっと言葉より確かな何かの��繋がり�≠ノなっていくのかもしれない。
*
彼が��鷹見啓悟�≠ニして姿を見せたのは、あの日だけだった。傷は順調に癒え、もともと来院が義務づけられていたわけでもない。そのあと彼は従来の、ヒーローとしての仕事に戻っていった。連絡先を知っているわけでもない。次の約束が、あったわけでもない。ただ、それでも私の中ではあの日、処方した休息時間が、まるで夢の続きのように、まだ脈打っていた。
それからしばらくは何もなかった。忙しい医務室、止まらない救急の受け入れ、繰り返される、戦地の現場。医師として、私は日常に戻ったはずだった。それなのに、ある日、包帯を運ぶために通った仮設テントの裏側、だれも使わない資材の箱の隅で、それは見つかった。──赤い、羽根。柔らかく、けれどしっかりとした芯をもつ緋色の羽根。人工では再現できない、細密な構造。繊維ではない、生きた質感。間違いない。あの人の、彼の羽根だ。私は思わず、だれかに見られているような気がして辺りを見渡した。けれどそこには誰もおらず、風だけが静かに布を揺らしていた。そっと拾い上げた羽根は手のひらにぴたりと収まり、あたたかさを宿しているようにさえ感じられた。まるで、彼自身の体温が、まだこの中に閉じ込められているみたいにして。
私は、胸元のポケットにそっとしまった。意味なんてなかった。けれど手放すという選択肢だけは、どうしても思い浮かばなかった。
その日の夜、仮眠室に戻る途中で、ナースステーション横に設置されたモニターが点いていた。誰かが、ニュースチャンネルを流したままにしていたのだろう。ぼんやりと流れる報道映像に私は足を止めた。
『本日午後、東京湾岸地区で起きたヴィラン暴動に対し全県からプロヒーローたちが出動。被害は最小限に抑えられました──』
──そして、映った。高空を旋回しながら鋭くしなやかに落下していく影。その場の風を翻し、剛翼の羽根を広げ、敵の武器を正確に打ち落とす赤の閃光。次々に倒れるヴィランたちの中、ひときわ速く、ひときわ華麗に、彼は舞っていた。
「……ホークス……」
口から零れたそのヒーロー名。その姿を見て、私はようやく息を吸った。無事だ。そんな簡単な報せを私はずっと欲しかったのだと思い知った。映像の最後、彼が一瞬だけカメラのレンズに目を向ける。そこには、あの日テントで見せたようなあたたかな微笑はなかった。ただ、プロとしてのあの鋭く、遠い目。けれど、不思議だった。その瞳が一瞬、こちらを見たように感じたのだ。私はポケットを触った。まだ、羽根はそこにあった。感触は柔らかく、静かに、あたたかかった。
私は、今、あなたに会いたい。そう願ったその瞬間モニターの画面がすっと切り替わり彼の姿が夜のニュースのなかに消えていった。天井の灯りが、ゆらりと揺れる。音のない夜。けれど私は、確かに彼の羽根を見つけて、そして、その無事をこの手の中に刻んでいた。
この羽根を、ずっと持っていてはいけない気がした。手に入れたときから、どこかそんな予感があったのだ。それは、初めて拾ったあの瞬間から��借り物�≠フ温度をしていた。いつまでも、私のポケットに収まっていていいものではない、と。
だから私は、それを返すための理由を探した。彼にまた会いに行く口実を正当な理由にすり替えることで自分の感情をごまかそうとした。羽根を返すために。それはごく小さな勇気だった。でも行動に変えるには、充分すぎる熱量があった。
彼に伝える手段などないと思っていたが連絡のつくヒーロー事務局に回してもらう形で、簡単な文面をFAXで送ることができた。
『先日、そちらの所長の羽根を拾いました。お返ししたいのですが、どこかでお時間いただけますか?』
あくまで事務的に。感情を交えずに。そう努めたはずだったのに、その文面を見て、私は何度も書き直していた。『羽根を拾いました』なんて、まるで何かの歌の歌詞だ。こういう類は、本当に苦手だ。我ながら向いていない。それでも、それ以上の言い訳が思いつかなかった。
返事は、思ったよりも早く届いた。彼の字ではなかったけれど、きっと本人が、直接指示したのだろう。
『明日15時。前と同じ場所でお預かりします』
それだけで胸の奥がわずかに温かくなったのが悔しかった。こんなにも単純に、言葉ひとつで、心が揺れてしまうのだから──。
そして、その日。予定よりも早く到着してしまった私は例の医療テントの裏手で、落ち着きなく空を見上げていた。けれど彼はやはり私が思っていたより早くふわりと、まるで音もなく現れた。
「あら、名字先生、また美しくなってません?」
その第一声に、私はあきれと共に安心の吐息を漏らした。変わらない。その調子のいい笑い方もどこか軽くて甘い声音も。けれど、それが逆に、ちゃんと無事だという証拠のようで、少しだけ、嬉しかった。
「これ、あなたのですよね」
私はポケットから羽根を取り出し両手でそっと差し出す。彼は目を細めてそれを見つめ手を伸ばすと、まるで宝物を扱うような仕草で羽根を掌に受け取った。
「ちゃんと、持っててくれたんですね」
そう言って彼は、人懐っこそうにして笑った。そうして目線を落として、手持ち無沙汰になった私の手元に目をやる。
「……預かっただけです」
私は短く返した。けれど、その言葉には、あの羽根をどんなふうに扱ってきたか、自分でも気づかぬほど丁寧にひとつの記憶のように肌の近くに置いていたことが、滲んでしまっていた。彼は、目敏く、そんな空気を見逃さない人だった。
「いや、俺にはわかりますよ?ちゃんと、守ってくれてたって」
何も言えなかった。ただ、胸の奥がすこしだけ熱を帯びた。すると彼は、今度は自分の上着の内ポケットに手を差し入れながら言った。
「あっちのは、ちゃんと持っててくださいねー」
「……あっち?」
「前に渡したでしょう? 返さないで、って」
そう言って、彼は羽根を胸元に仕舞いながら、柔らかく笑った。少しの風と、沈黙。その中で、彼の瞳が私の顔をじっと見つめる。飾り気のないまなざし。けれど、その奥にあるものがこちらに届きかけていた。私は目を逸らさなかった。逸らすことが、なにかを壊してしまいそうで怖かったから。
「……先生。今日も俺に会いたかったですか?」
「そうやって……誰にでも言ってるんですか?」
ぽろりと落ちた自分の声に、私自身が少し驚いた。けれどもう引き返せないと思った。彼の軽さが、もし全部ではないとしても、それが私だけのものではないのならそれは知っておきたかった。彼が、ふと動きを止める。まるで、一瞬だけ時が凍ったようだった。軽口を返すでもなく、笑って誤魔化すでもなく。そして、ほんの少しだけ目を伏せたあとで、彼はゆっくりと私に向き直った。
「たぶん……言ったことはあるかと。覚えてないですけど、似たようなことを。」
「……」
「でも、あなたに言うのはちょっと違う。言葉が勝手に少し、丁寧になる。会いたくなる理由が、��誰にでも�≠カゃ、説明つかない感じがする」
その声はあの日とは違っていた。羽根を休めるでもなく、冗談にまぶされた愛想笑いでもなく。ただ、純粋で、まっすぐだった。
「だから……違うんだって、思わせてください。先生にはそう言いたい。それじゃダメですか?」
風が吹いた。テントの布が、かすかに揺れた。私は、答えなかった。けれど、その沈黙にさえ、彼は笑ってうなずいた。まるで、無言の返事を、信じているかのように。
この人はあまりに自由すぎて。けれど、だからこそ時折見せる真実の言葉が痛いほどにまっすぐ届いてしまう。帰り際、彼はふと振り返ってこう言った。
「また、俺に会いたくなったら……羽根、落としますね。わざと」
思わず吹き出しそうになった。あれほど乱されていたはずの気持ちが不思議なくらい静かにほどけて、少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
「それじゃあ、また……拾いに行かないと、いけませんね」
「はい。俺、ちゃんと、迎えに行きますんで」
そのやりとりがたとえ嘘だったとしてもいい、ふと、そう思ってしまった。それでも信じたいと願ってしまったこと。その事実こそが私の気持ちが彼に向かっている証なのだといちばんわかっていたのは他ならぬ私自身だった。けれど今はまだその想いに気づいてしまうことが少しだけ怖い。だから私は、気づかないふりをした。ほんとうはもう、知っているくせに。
*
日常というものは、皮肉なくらい、綺麗に元に戻る。患者を診てカルテをまとめ、止まない呼び出しに応えながら、私はまた医者としての生活に戻っていた。
あの日から──そう、あの羽根を返した日からすでにもう一ヶ月が経とうとしていた。彼の姿を見かけることもなくなり、報道にその名が上がっても、心はふいに反応しつつも、どこか現実味を失くしていた。それでもやはり思う。ほんの少しでも、また会いたいと。けれどそんな理由で自分から動くほど、私は素直な人間ではなかった。
そんなある日。午後診の合間、久しぶりに裏手の倉庫に包帯の補充に出たときだった。それは、そこにあった。緋色の羽根。ちょうど、足元に。落ち葉のように当たり前の顔をして地面に横たわっていたのだ。
「……まさか、」
拾い上げて、指の腹でそっと撫でる。やはり、間違いない。この細やかな羽軸のかたち、温度、ふんわりとした質感。彼のものだ。でも、偶然なはずがない。ここに彼が、立ち入る理由もなく、そうでなくても風に流されて届く距離ではない。
わざと──。これは、彼が��わざと�@獅ニしていったのだ。私は思わず、笑ってしまった。会いたいなら、そう言えばいいのに……羽根を落とすなんて、子どもみたいなことをして。でもきっと彼は、そうしかできなかったのだろう。
その日の夕方。私はその拾った羽根をポケットに忍ばせたまま仕事終わりの足で前に彼と会ったあのテントの裏手に向かった。特別な返事をしたわけでもない。受け取ったという合図さえ送っていない。それでも私はそこに行けば彼がいるような気がしていた。羽根を風のように届ける人ならば、約束もなく、そこに現れるのだと──根拠のない確信があった。
そして案の定。そこには彼がいた。背を向けて空を見上げていた彼は私の足音に気づくと、驚くほど嬉しそうな顔で振り返った。
「あ! 名字先生、拾ってくれたんですね!」
「わざと落としたでしょう?」
「え、バレました?」
「当然です。あんなところに、落ちるわけないでしょ、普通に考えて」
彼はくしゃりと笑って、頭をかいた。『羽根、落としますね。わざと』と言った言葉をちゃんと有言実行するとは、呆れるやら感心するやらで、もう、言葉も出ない。
「だってぇ……どうしても、会いたかったんですよー?でも、そっちから来てくれる理由がないとって、思って」
「だから、わざわざ羽根を落としたんですか?」
「拾ってもらえたら、きっと、来てくれるって、信じてましたから」
その言葉に、私は、胸がすこしだけ詰まるのを感じた。冗談のような、それでも確かに、本気が混ざった言い方。まっすぐなその目が、真面目な告白よりもずっと、私を射抜いていたから。
「──あなた、本当にヒーローなんですか?」
そう尋ねた私の声に、彼は少しだけ眉を上げて笑った。
「その質問、好きですねぇ〜、先生。」
「だって、見えません。三番目に人気のヒーローには」
「おっ?詳しいじゃないスかぁ。意外とミーハーだった?支持率はもっと、高いんですよ?俺。」
「揶揄わないでください」
「そんな怒らんでも……。じゃあ今日くらいは、ただの、落とし物の人ってことでいいです?」
「──じゃあ、その落とし物……返します。」
私はポケットに指を差し入れ、小さくたたんで持ち歩いていた羽根を取り出した。色褪せることも痛むこともなくわずかに光を含んだままそれは掌の上にあった。彼のほうへと差し出す。けれど彼は、それを受け取らなかった。ただゆっくりと首を横に振って言った。
「ダメです。まだそれは、預けておきますから」
その言葉と表情はまるで、それが羽根ではなく気持ちであることを始めからわかっていたような温度を纏っていた。
「え?」
「もう落とすのは最後にしたいんで。でもあなたには、ずっと持っててほしい。俺の羽根。たとえ何枚でも。」
「……」
「大事な人にしか、預けられないんで」
音のない夕暮れの中でその言葉は、あまりにも静かに、私の胸に降りてきた。いつのまにか陽が落ちかけていて彼のシルエットがやわらかな風のなかで揺れている。
「……いいんですか? 誰にでも、落としてるんじゃなくて?」
「違いますよー。落としていいのは、ひとりだけです」
そうやってまた��会いに来させる�≠フだ、この人は。きっとこの先も彼は何度でもそんなふうに不器用な愛し方をするのだろう。そして私はそのたびに拾い上げてしまう気がした。羽根も言葉もそして、彼という人、そのものも。
ポケットにしまった羽根の重さがどこか私たちの曖昧な関係のかたちをしているように思えた。それはまだ名のつかない、けれど確かに存在している��繋がり�≠フ重みだった。
*

近々、ごはん行きませんか?

やった。嬉しいです
じゃあ19時に
駅裏の青い看板のカフェで

ごめんなさい。
緊急の対応が入りました
また改めて誘わせてください