──まるで、導かれるように。そうとしか言いようがなかった。
 急患として運ばれた子どもに付き添い私は応急処置班の臨時チームとして、被災地に派遣されていた。日々報道される戦闘地帯ではなく、もっと小さな地図の端にしか載らないような場所。それでも命の重さに変わりはなく、私は私の持ち場を全うしようとしていた。そのときだった。地鳴りのような音と、崩れ落ちる建材の下敷きになった声。血の気が引く音が自分の内側で静かに響く。私のいるテントのすぐそばに瓦礫が落ちていた。そして、そのすぐ先に──羽根。あの緋色の迷いなく風を裂く彼という存在の片鱗がふいに視界に入った。

「おい、そこの人!手貸して!ヒーローが降ってきたぞ!」

 その声に導かれるように私は駆け寄った。そこにいたのはうつ伏せに倒れた男性。瓦礫の隙間に体を半ば埋めたまま、荒い息を繰り返していた。左肩から背中にかけてざっくりと裂けた傷。あのときと、同じ箇所だと瞬時に思った。やっぱり、傷口が塞がってなかったのだろうか。
 それでも、彼の周囲には羽根が集まり、まるで自律する盾のように彼の身を囲っていた。ゆるやかに回転しながら、次の攻撃を予測しているかのように。私は、息を飲んだ。

「……ホー、クス……?」

 その名を口にするのが怖かった。だが迷いようがなかった。たった数回しか会っていないというのに私の脳が先に彼を認識していた。彼のまぶたがゆっくりと動く。焦点の定まらないその瞳が、私の顔を捉える。そして彼は傷の痛みなどなかったかのようにあの、どこかあどけない笑みを浮かべて、こう言った。

「やっぱり……、あなた、でしたね……」

 それから数十分。臨時収容テントの片隅は即席の処置室に変わった。私は応急セットを開き消毒液を手にし、麻酔の量を冷静に計算しながら内心では、ひたすら問い続けていた。

 ──どうして、また、あなたなんですか。

 言葉に出すことはなかった。けれどその問いは確かに、消毒ガーゼの隙間から立ちのぼるアルコールの匂いに混じっていた。再会を喜ぶ余裕も、どうしてここにいるのかを問う余白もなかった。ただ、救わなければならないという職能の義務感だけが、私の手を動かしていた。
 それでもさすがは最前線で活躍するヒーロー。本人は怪我なんて日常茶飯事ですよ、とでも言いたげに至って平然として、まるで、ただ昼寝でもしていたかのような顔で笑っていた。

「終わりました。一週間経ったら抜糸しますのでそのときまで、毎日きちんと消毒してください。ご自身の……事務所とかで」

 そう告げた私に、彼は、少しだけ姿勢を起こしながら、いたずらっぽい声色で言った。

「ここに……来てもいいです?」

 思わず手を止めて、彼の顔を見る。目を伏せるでもなく彼はまっすぐに私を見ていた。その声音はどこか甘えているようもありどこか本気で求めているようでもあって、私は言葉を詰まらせた。

『どうしてそうやって簡単に、距離を詰めようとするんですか?』

 はっきりとそう言ってやりたかったその問いもまた声にはならなかった。だって、彼の瞳には、すでに答えを待っている光が宿っていたから。

「……遠く、ありません?」
「遠いです。でも、毎日来ても?」
「毎日じゃなくても……週二か週三来れば、早く治りますよ」
「主治医、先生なんですか?」
「消毒するだけなら、誰でもいいでしょう?」
「よくないですよ。大事です、主治医の美貌は」
「美貌で主治医を選ぶなら、私しかいませんね。──じゃあ、二時に、お待ちしております」

 言いながら私は自分の言葉に少しだけ驚いた。まるで冗談のように交わされていくやりとりが、戦地での張り詰めた空気を、ほんの少し和らげていくのを感じた。不思議と心地よかった。けれどその気配に、甘えてはいけない気もしていた。

「お医者さんなら彼氏いませんよね?忙しくて」

 ふいに落ちたその言葉が、空気の隙間を震わせた。心臓がほんの少し跳ねた気がした。私はそれを悟られないようにして、できるかぎり無表情で返す。

「ヒーローなら、彼女いませんよね?きつくて」

 彼は小さく笑った。ほんの少しだけ首を傾けてそのまま、私の目をじっと見つめて問い返す。

「さて……先に答えるの、どっちですかね?」

 どちらが先に心を開くのか。どちらが先に踏み込むのか。このやりとりがきっと始まりなのだと思った。私たちは今ようやく、互いの名を呼ぶ、その少し手前に立っている。お互いが静かに心の扉を叩こうとしていた。
 けれどまだ私は彼の本名を知らない。それでもどこか確信めいた声が心の奥で囁いていた。この人はまた、私の世界を変えるのだ、と──。


 *


 その日は朝から落ち着かなかった。寝不足でもなかったし、前日の当直があったわけでもない。けれど、妙に時間がゆっくりと流れているように感じられて、何か大事な予定を忘れてしまったのではないかという不安だけが背中にじわりと染みついて離れなかった。
 いや、予定は、ある。今日の午後二時──あの人が来る。ホークス、と名乗る空の人。それが、ヒーロー名であり、本名ではないことも、彼が、どんな場所に住んで、どんな暮らしをしているのかも、私は何ひとつ知らない。けれど、それでもあの日、傷口に触れた私の手に向かって、彼が、確かに言ったのだ。「ここに来てもいいです?」と。そして私は「お待ちしています」と返した。
 だから私は今日、この時間、この場所にいる。たとえそれが医師としての義務であっても。たとえ彼の言葉が、ほんの気まぐれだったとしても。

 けれど、その予定は約束の時刻よりずっと前に音を立てて崩れることになる。病棟の外で羽音がした。それは風を切る音というより空気が裂けるような鋭い音だった。医療棟の静けさに、不意に走る異物の気配。私は反射的に顔を上げた。次の瞬間、空気が一気に変わった。ドアがノックされるよりも早くそこにいたのは予定の患者ではなかった。予定の時間にも、まだ遠い。けれど彼は、確かにそこにいた。左肩の包帯を、新しいものに巻き直している彼が私に向かって「来ました」と言った。まるでこちらが迎えに行くことが当然のように。

「……あの、二時って言いましたよね?」

 私はなるべく穏やかに、けれど少しだけ呆れた声音で問いかけた。彼は、悪びれる様子もなく、いつものようにふっと笑って首を傾けた。

「すんませんねー、途中で羽根が、勝手に曲がっちゃって」
「嘘ですね、それ」
「はい、嘘です。」
「でしょうね……」
「……予定、早めちゃいました。すみません」

 羽を軽く畳みながら、彼はいたずらっぽく笑った。けれどその笑みの奥に何かを誤魔化すような色が、一瞬だけ揺れていた気がした。
 
「ほんとは──」

 そう呟いた彼の目が、一瞬だけ鋭さを帯びる。けれど、すぐにまた、どこか甘えるような視線に戻った。

「誰か他の人に消毒(・・)されてたら嫌だなって思って
……俺、我ながらちょっと子どもっぽいですね」

 その一言に心臓が不意に脈を跳ねた。この人は思っていたよりも、ずっと正直だ。見張っていたというより離れていられなかったと言ったほうが近い口ぶり。私は返事をするより先に鼓動の速さに気づいていた。どうしてそんなふうに、まるで追いかけるように来るのか。その理由を聞く勇気だけが、まだ今の私にはなかった。

「先生、そういうの、嫌です?」
「……なんで、私に聞くんですか?」
「じゃあ、答えなくていいです。今日の目的は、消毒(・・)、ですからねー」

 そう言って彼は、躊躇なく診察椅子に腰を下ろす。いつもはふわふわと軽そうな彼の動きが今日に限って、妙に居座る気満々なのが少しだけ可笑しかった。

「──では。傷、見ますね。消毒します」

 私は慣れた手つきでそっと包帯を外した。肌はまだ浅く赤く、けれど順調に塞がり始めていた。細く美しく縫合された線が、彼の鍛えられた肩の上に静かに光っている。

「……傷、綺麗ですね。あの衝撃からして、ここまで回復してるなら、十分です」
「きっと、先生が縫ってくれたからですねー」
「誰でも同じです。医者なんてみんな手順通りにしか動きません」
「じゃあ、俺は先生がいいです。順番に人を見ていく中で自分を選んでもらえるって……嬉しいんですよ」
「……あなた、本当にヒーローなんですか?」

 ふいにこぼれた問いは、半ば冗談で、半ば本気だった。けれど彼は、しばらく沈黙したあとで、ぽつりと答えた。

「正直わかんないです。ヒーローってなにかってずっと考えてる」
「……」
「でも、今はそれより��名字先生�≠チて呼ぶのが正しいか、下の名前で呼んでいいのかが気になっちゃって」
「呼ばなくていいです、下の名前なんて」
「じゃあ、俺のほうから名乗っていいです?」

 私が不意に手を止めると、彼はほんの少し前のめりになって、私の耳元近くで囁いた。

「鷹見啓悟、って言います。ご存知のとおり──ホークスは、ヒーロー名で。」
「……、」
「非公開ですけど、先生にだけはちゃんと……」

 鼓膜に触れるような距離で告げられたその名は不思議なほど温かく私の中に沁み込んでいった。そうして私は初めて��空の人�≠フ名前を知ったのだった。


 *


 扉がノックされたわけでもないのに、ふいに、気配が変わった。気温でも、光でもない。あの、風の通り道のような空気の揺れ。私は、振り返る前から、誰が来たのかを理解していた。あの風の通り道のような気配は今日で二度目でも、すでにどこか、懐かしかった。

「こんにちはー、名字先生♪」

 そう言って入ってきた彼は、今まででいちばん穏やかな表情をしていた。それは、任務を終えてようやく息をつけた人間の顔でもあり、同時に、ほんの少しだけ、甘えたがっている子供のような気配も宿していた。

「……今日はヒーロー、ホークスとしてですか?それとも��鷹見啓悟�≠ウん、として?」

 私がそう問うと彼はふっと目を細めて笑った。

「はい。鷹見啓悟として。今日は、ヒーロー業務じゃないんで、サボり扱いでお願いしまぁーす」
「じゃあ、診察も��特別扱い�≠ナすか?」
「もちろん。でも、消毒はちゃんとやってくださいねー? 先生じゃないと、やだなって思って」

 冗談めかして言いながらも、その声にはどこか本音の湿度が混じっていて、私は胸の奥で言葉の輪郭を拾い上げるようにして、黙って頷いた。
 包帯をほどき患部を確認し、アルコールを含ませたガーゼでそっと拭う。滞りなくほんの数分で終わる処置。けれど、今日はそのあとが、すこし違っていた。

「名字先生」

 包帯を巻き直していた私の手がふいに止まる。彼の声がほんの少しだけ低く、そしてゆっくりと沈んでいたから。

「もうちょっとだけ、ここにいちゃダメです?」

 静かなその問いは私の指先よりも先に心の奥に触れた。

「……ヒーロー任務は?」
「終わってます。でも次の予定が入る前に、ちょっとだけ、誰でもない時間にしておきたくて」

 彼は椅子に座ったまま天井のランプをぼんやり見上げていた。その横顔に、いつもの軽さはなかった。むしろそっと呼吸を整えようとする人間の静けさだけが漂っていて、それが私の中の医者としての直感をくすぐった。

「じゃあ……少しだけ。午後診が始まるまでは、空いてますから」

 私がそう言うと彼は小さく笑って、背もたれに体を預けた。ほんのわずか安堵の吐息がこぼれたのがわかった。
 沈黙が流れる。でもその沈黙はどこか心地よく静寂のなかにお互いの呼吸だけが在って、風が、カーテンをかすかに揺らしている。それがまるで彼の羽根が休んでいる音のように思えて、私は、不思議な感覚に包まれた。

「先生ってこういうとき、何考えてるんです?」

 ぽつりと彼が問う。私はすこしだけ考えてから答える。

「何も考えてないですよ。忙しいときは、考える暇もないし、こういう静かな時間は、むしろ何も考えないでいることが、私にとっての休憩かも」
「いいっすねー、それ。俺、いつも何か考えててでもそのくせ答えは出なくて、結局ヒーローっていう役割に戻るしかないんで」

 その声には、羽根をたたむ鳥のような、弱さがあった。誰にも見せない、空の裏側。その重力に私は医師として、はたまた��ひとりの人�≠ニして手を差し伸べるべきなのか正直、迷った。

「じゃあ今は……鷹見啓悟さんでいてください。戻らなくていい。少なくとも、診察が終わって、病院を出るまでは、鷹見啓悟さんで。」

 彼は驚いたようにこちらを見たあと、ゆっくりと笑った。その笑みは戦場で初めて子どもが泣き止んだときのような、柔らかな、安心をまとっていた。

「……名前、呼ばれるの、好きかもしれません」
「え?」
「先生の、その声で。」

 そのとき、私の中で何かが静かにほどけていった。まだ��恋�≠ニ呼ぶには遠い。けれどたしかにこの時間だけは��誰でもない自分たち�≠ニして、並んでいるような、そんな感覚があった。私は、彼を見つめ、ほんの少し口角を上げて言った。

「じゃあ今日は特別に処方します。休息時間。」
「それ、ちゃんと効きます?」
「効かせます。私、医者ですから」

 彼がくすくすと笑う。風が、窓の隙間から差し込み、ふたりのあいだに、ほんの少しの光が生まれた気がした。
 空を飛ぶ人と、地に足をつけた人間。けれど、こうして同じ椅子に腰を下ろす時間があるのならそれはきっと言葉より確かな何かの��繋がり�≠ノなっていくのかもしれない。


 *


 彼が��鷹見啓悟�≠ニして姿を見せたのは、あの日だけだった。傷は順調に癒え、もともと来院が義務づけられていたわけでもない。そのあと彼は従来の、ヒーローとしての仕事に戻っていった。連絡先を知っているわけでもない。次の約束が、あったわけでもない。ただ、それでも私の中ではあの日、処方した休息時間が、まるで夢の続きのように、まだ脈打っていた。

 それからしばらくは何もなかった。忙しい医務室、止まらない救急の受け入れ、繰り返される、戦地の現場。医師として、私は日常に戻ったはずだった。それなのに、ある日、包帯を運ぶために通った仮設テントの裏側、だれも使わない資材の箱の隅で、それは見つかった。──赤い、羽根。柔らかく、けれどしっかりとした芯をもつ緋色の羽根。人工では再現できない、細密な構造。繊維ではない、生きた質感。間違いない。あの人の、彼の羽根だ。私は思わず、だれかに見られているような気がして辺りを見渡した。けれどそこには誰もおらず、風だけが静かに布を揺らしていた。そっと拾い上げた羽根は手のひらにぴたりと収まり、あたたかさを宿しているようにさえ感じられた。まるで、彼自身の体温が、まだこの中に閉じ込められているみたいにして。
 私は、胸元のポケットにそっとしまった。意味なんてなかった。けれど手放すという選択肢だけは、どうしても思い浮かばなかった。

 その日の夜、仮眠室に戻る途中で、ナースステーション横に設置されたモニターが点いていた。誰かが、ニュースチャンネルを流したままにしていたのだろう。ぼんやりと流れる報道映像に私は足を止めた。

『本日午後、東京湾岸地区で起きたヴィラン暴動に対し全県からプロヒーローたちが出動。被害は最小限に抑えられました──』

 ──そして、映った。高空を旋回しながら鋭くしなやかに落下していく影。その場の風を翻し、剛翼の羽根を広げ、敵の武器を正確に打ち落とす赤の閃光。次々に倒れるヴィランたちの中、ひときわ速く、ひときわ華麗に、彼は舞っていた。

「……ホークス……」

 口から零れたそのヒーロー名。その姿を見て、私はようやく息を吸った。無事だ。そんな簡単な報せを私はずっと欲しかったのだと思い知った。映像の最後、彼が一瞬だけカメラのレンズに目を向ける。そこには、あの日テントで見せたようなあたたかな微笑はなかった。ただ、プロとしてのあの鋭く、遠い目。けれど、不思議だった。その瞳が一瞬、こちらを見たように感じたのだ。私はポケットを触った。まだ、羽根はそこにあった。感触は柔らかく、静かに、あたたかかった。
 私は、今、あなたに会いたい。そう願ったその瞬間モニターの画面がすっと切り替わり彼の姿が夜のニュースのなかに消えていった。天井の灯りが、ゆらりと揺れる。音のない夜。けれど私は、確かに彼の羽根を見つけて、そして、その無事をこの手の中に刻んでいた。

 この羽根を、ずっと持っていてはいけない気がした。手に入れたときから、どこかそんな予感があったのだ。それは、初めて拾ったあの瞬間から��借り物�≠フ温度をしていた。いつまでも、私のポケットに収まっていていいものではない、と。
 だから私は、それを返すための理由を探した。彼にまた会いに行く口実を正当な理由にすり替えることで自分の感情をごまかそうとした。羽根を返すために。それはごく小さな勇気だった。でも行動に変えるには、充分すぎる熱量があった。
 彼に伝える手段などないと思っていたが連絡のつくヒーロー事務局に回してもらう形で、簡単な文面をFAXで送ることができた。

『先日、そちらの所長の羽根を拾いました。お返ししたいのですが、どこかでお時間いただけますか?』

 あくまで事務的に。感情を交えずに。そう努めたはずだったのに、その文面を見て、私は何度も書き直していた。『羽根を拾いました』なんて、まるで何かの歌の歌詞だ。こういう類は、本当に苦手だ。我ながら向いていない。それでも、それ以上の言い訳が思いつかなかった。
 返事は、思ったよりも早く届いた。彼の字ではなかったけれど、きっと本人が、直接指示したのだろう。

『明日15時。前と同じ場所でお預かりします』

 それだけで胸の奥がわずかに温かくなったのが悔しかった。こんなにも単純に、言葉ひとつで、心が揺れてしまうのだから──。

 そして、その日。予定よりも早く到着してしまった私は例の医療テントの裏手で、落ち着きなく空を見上げていた。けれど彼はやはり私が思っていたより早くふわりと、まるで音もなく現れた。

「あら、名字先生、また美しくなってません?」

 その第一声に、私はあきれと共に安心の吐息を漏らした。変わらない。その調子のいい笑い方もどこか軽くて甘い声音も。けれど、それが逆に、ちゃんと無事だという証拠のようで、少しだけ、嬉しかった。

「これ、あなたのですよね」

 私はポケットから羽根を取り出し両手でそっと差し出す。彼は目を細めてそれを見つめ手を伸ばすと、まるで宝物を扱うような仕草で羽根を掌に受け取った。

「ちゃんと、持っててくれたんですね」

 そう言って彼は、人懐っこそうにして笑った。そうして目線を落として、手持ち無沙汰になった私の手元に目をやる。

「……預かっただけです」

 私は短く返した。けれど、その言葉には、あの羽根をどんなふうに扱ってきたか、自分でも気づかぬほど丁寧にひとつの記憶のように肌の近くに置いていたことが、滲んでしまっていた。彼は、目敏く、そんな空気を見逃さない人だった。

「いや、俺にはわかりますよ?ちゃんと、守ってくれてたって」

 何も言えなかった。ただ、胸の奥がすこしだけ熱を帯びた。すると彼は、今度は自分の上着の内ポケットに手を差し入れながら言った。

「あっちのは、ちゃんと持っててくださいねー」
「……あっち?」
「前に渡したでしょう? 返さないで、って」

 そう言って、彼は羽根を胸元に仕舞いながら、柔らかく笑った。少しの風と、沈黙。その中で、彼の瞳が私の顔をじっと見つめる。飾り気のないまなざし。けれど、その奥にあるものがこちらに届きかけていた。私は目を逸らさなかった。逸らすことが、なにかを壊してしまいそうで怖かったから。

「……先生。今日も俺に会いたかったですか?」
「そうやって……誰にでも言ってるんですか?」

 ぽろりと落ちた自分の声に、私自身が少し驚いた。けれどもう引き返せないと思った。彼の軽さが、もし全部ではないとしても、それが私だけのものではないのならそれは知っておきたかった。彼が、ふと動きを止める。まるで、一瞬だけ時が凍ったようだった。軽口を返すでもなく、笑って誤魔化すでもなく。そして、ほんの少しだけ目を伏せたあとで、彼はゆっくりと私に向き直った。

「たぶん……言ったことはあるかと。覚えてないですけど、似たようなことを。」
「……」
「でも、あなたに言うのはちょっと違う。言葉が勝手に少し、丁寧になる。会いたくなる理由が、��誰にでも�≠カゃ、説明つかない感じがする」

 その声はあの日とは違っていた。羽根を休めるでもなく、冗談にまぶされた愛想笑いでもなく。ただ、純粋で、まっすぐだった。

「だから……違うんだって、思わせてください。先生にはそう言いたい。それじゃダメですか?」

 風が吹いた。テントの布が、かすかに揺れた。私は、答えなかった。けれど、その沈黙にさえ、彼は笑ってうなずいた。まるで、無言の返事を、信じているかのように。
 この人はあまりに自由すぎて。けれど、だからこそ時折見せる真実の言葉が痛いほどにまっすぐ届いてしまう。帰り際、彼はふと振り返ってこう言った。

「また、俺に会いたくなったら……羽根、落としますね。わざと」

 思わず吹き出しそうになった。あれほど乱されていたはずの気持ちが不思議なくらい静かにほどけて、少しだけ、呼吸が楽になった気がした。

「それじゃあ、また……拾いに行かないと、いけませんね」
「はい。俺、ちゃんと、迎えに行きますんで」

 そのやりとりがたとえ嘘だったとしてもいい、ふと、そう思ってしまった。それでも信じたいと願ってしまったこと。その事実こそが私の気持ちが彼に向かっている証なのだといちばんわかっていたのは他ならぬ私自身だった。けれど今はまだその想いに気づいてしまうことが少しだけ怖い。だから私は、気づかないふりをした。ほんとうはもう、知っているくせに。


 *


 日常というものは、皮肉なくらい、綺麗に元に戻る。患者を診てカルテをまとめ、止まない呼び出しに応えながら、私はまた医者としての生活に戻っていた。
 あの日から──そう、あの羽根を返した日からすでにもう一ヶ月が経とうとしていた。彼の姿を見かけることもなくなり、報道にその名が上がっても、心はふいに反応しつつも、どこか現実味を失くしていた。それでもやはり思う。ほんの少しでも、また会いたいと。けれどそんな理由で自分から動くほど、私は素直な人間ではなかった。

 そんなある日。午後診の合間、久しぶりに裏手の倉庫に包帯の補充に出たときだった。それは、そこにあった。緋色の羽根。ちょうど、足元に。落ち葉のように当たり前の顔をして地面に横たわっていたのだ。

「……まさか、」

 拾い上げて、指の腹でそっと撫でる。やはり、間違いない。この細やかな羽軸のかたち、温度、ふんわりとした質感。彼のものだ。でも、偶然なはずがない。ここに彼が、立ち入る理由もなく、そうでなくても風に流されて届く距離ではない。
 わざと──。これは、彼が��わざと�@獅ニしていったのだ。私は思わず、笑ってしまった。会いたいなら、そう言えばいいのに……羽根を落とすなんて、子どもみたいなことをして。でもきっと彼は、そうしかできなかったのだろう。

 その日の夕方。私はその拾った羽根をポケットに忍ばせたまま仕事終わりの足で前に彼と会ったあのテントの裏手に向かった。特別な返事をしたわけでもない。受け取ったという合図さえ送っていない。それでも私はそこに行けば彼がいるような気がしていた。羽根を風のように届ける人ならば、約束もなく、そこに現れるのだと──根拠のない確信があった。
 そして案の定。そこには彼がいた。背を向けて空を見上げていた彼は私の足音に気づくと、驚くほど嬉しそうな顔で振り返った。

「あ! 名字先生、拾ってくれたんですね!」
「わざと落としたでしょう?」
「え、バレました?」
「当然です。あんなところに、落ちるわけないでしょ、普通に考えて」

 彼はくしゃりと笑って、頭をかいた。『羽根、落としますね。わざと』と言った言葉をちゃんと有言実行するとは、呆れるやら感心するやらで、もう、言葉も出ない。

「だってぇ……どうしても、会いたかったんですよー?でも、そっちから来てくれる理由がないとって、思って」
「だから、わざわざ羽根を落としたんですか?」
「拾ってもらえたら、きっと、来てくれるって、信じてましたから」

 その言葉に、私は、胸がすこしだけ詰まるのを感じた。冗談のような、それでも確かに、本気が混ざった言い方。まっすぐなその目が、真面目な告白よりもずっと、私を射抜いていたから。

「──あなた、本当にヒーローなんですか?」

 そう尋ねた私の声に、彼は少しだけ眉を上げて笑った。

「その質問、好きですねぇ〜、先生。」
「だって、見えません。三番目に人気のヒーローには」
「おっ?詳しいじゃないスかぁ。意外とミーハーだった?支持率はもっと、高いんですよ?俺。」
「揶揄わないでください」
「そんな怒らんでも……。じゃあ今日くらいは、ただの、落とし物の人ってことでいいです?」
「──じゃあ、その落とし物……返します。」

 私はポケットに指を差し入れ、小さくたたんで持ち歩いていた羽根を取り出した。色褪せることも痛むこともなくわずかに光を含んだままそれは掌の上にあった。彼のほうへと差し出す。けれど彼は、それを受け取らなかった。ただゆっくりと首を横に振って言った。

「ダメです。まだそれは、預けておきますから」

 その言葉と表情はまるで、それが羽根ではなく気持ちであることを始めからわかっていたような温度を纏っていた。

「え?」
「もう落とすのは最後にしたいんで。でもあなたには、ずっと持っててほしい。俺の羽根。たとえ何枚でも。」
「……」
「大事な人にしか、預けられないんで」

 音のない夕暮れの中でその言葉は、あまりにも静かに、私の胸に降りてきた。いつのまにか陽が落ちかけていて彼のシルエットがやわらかな風のなかで揺れている。

「……いいんですか? 誰にでも、落としてるんじゃなくて?」
「違いますよー。落としていいのは、ひとりだけです」

 そうやってまた��会いに来させる�≠フだ、この人は。きっとこの先も彼は何度でもそんなふうに不器用な愛し方をするのだろう。そして私はそのたびに拾い上げてしまう気がした。羽根も言葉もそして、彼という人、そのものも。
 ポケットにしまった羽根の重さがどこか私たちの曖昧な関係のかたちをしているように思えた。それはまだ名のつかない、けれど確かに存在している��繋がり�≠フ重みだった。


 *



鷹見啓悟

近々、ごはん行きませんか?






 そんなメッセージが届いたのは数日後の昼休みだった。差出人の名は『ホークス』ではなく本名である『鷹見啓悟』。ヒーローとしての肩書きではなく、彼自身の本当の名前だった。それだけのことなのに、私はしばらく画面を見つめたまま、返事を打てずにいた。
 彼と連絡先を交換したのは、何度目かの羽根を返しに行ったあの日。当然のように普段使用しているヒーロー用の端末だと思っていた。けれど、あのとき彼が差し出したのは、プライベート用のスマホだったらしい。そのことに私は今になってようやく気づいた。
 食事に誘われた、たったそれだけのことなのにどうしてこんなに心が波打つのか自分でもうまく説明できなかった。たった数文字がもたらす誘いの言葉の力がまるで関係の輪郭に触れてくるようで、私はまだ、その優しい圧に身を預ける勇気を探していた。

 気づけば私は休憩室に戻ってきていた看護師の同僚に話しかけていた。学生時代からの付き合いで多忙を極めている私に対してきっと冗談半分に「彼氏できたら最初に見せなさいよ?」と言っていた彼女にだけは、ほんの少しなら、話せる気がした。

「──で?その��空を連れてくるヒーロー�≠ゥら食事に誘われてるってわけ?」

 向かいの席からコーヒー片手に投げかけられたその言葉に、私は思わず、眉をひそめる。

「ちょっと! 変なあだ名つけないで……」
「だってなんだか、空気感っていうか。その人、ほら、ホークスみたいな人よね。話の雰囲気が」
「え……、ほ、ほー……?」
「知らない?最近人気のトップヒーロー。めちゃくちゃ若いらしいよ、彼。それに似てるって話」
「…………違います」

 思わず声が鋭くなる。否定の理由が即答できないのは、自分でもわかっていた。けれどホークスという名前がこの場に出ることに、胸がざわつくのを止められなかった。さすがに言えない。まさか本当にそのプロヒーローホークスから誘われているなんて。彼が病院に出入りしていたことは、職員の間でうっすら噂にはなっていた。けれど、彼が私のところへ来ていたことは誰も知らない。知られたくもなかった。騒がれたくないというより、この感情を他人の言葉で説明されることに、耐えられそうになかった。

「それって明確な��デートのお誘い�≠ナしょ?」
「え?んー、でも……そう、かな。たぶんそんなつもりだとは思う。ちゃんと誘われるのはこれが初めてだけど」
「行きなよ。それでその��気になる�≠チて気持ちも、少しは整理つくんじゃない?」
「でも……」

 でも、のあとが続かなかった。ただ、怖かったのだ。期待して、もし裏切られたら。『誰にでもそうなんですか』という問いのあとに彼がくれた答えが、もしすこしでも嘘だったら私はきっと、もう、彼に会えなくなる気がしたから。

「……行けるって、今日中には返事する」

 でもきっと動かなければ届かないものがある。そう思ったのはたぶんこのときが初めてだった。
 私は、自分に言い聞かせるように、そう呟いてスマートフォンをポケットにしまった。

 しかし、やっとの思いで『今日なら、行けそうです』と返事を送ったのは連絡をもらってから、数日経ったときだった。本当に、迷いに迷って、ようやく。だが、すぐに既読がついた。その後、数分も経たないうちに、彼から返信が届く。


鷹見啓悟

やった。嬉しいです
じゃあ19時に
駅裏の青い看板のカフェで






 絵文字もない、けれど短いその文面が、どこか浮き立って見えた。彼も、私と同じくらい、この再会を楽しみにしていたのだろうか。そう思っただけで呼吸がふわりと浮かんだ。胸の奥で灯りがともったような心地がした。
 けれど、奇跡のように積み上げたその期待は、ほんの一通の通知であっけなく崩れていくこととなる。


鷹見啓悟

ごめんなさい。
緊急の対応が入りました
また改めて誘わせてください






 19時。ちょうど一時間前。私はすでに鏡の前で軽く髪を直していたところだった。白衣を脱いでロッカーの中にしまっていた。あとは、コートを羽織って、向かうだけだった。

「……そう、ですよねぇー」

 小さくつぶやき、私はスマホの画面を伏せた。ヒーローだから。そういう仕事だから。仕方ないことだと理解していた。いや、理解しすぎていたのかもしれない。だけど、それでも……会いたかった。彼に、会いたかったのに。ただ、それだけだったのにな。

 それから数時間、私はどう返事をするかを考え続けた。けれど結局何も送れなかった。『大丈夫です』とも『また誘ってください』とも、打てなかった。たったひとつの予定がなくなっただけでこんなにも胸が冷えてしまうのは、やっぱり私は思っていた以上に、彼を待っていたのだと思う。
 その夜、病院の屋上でひとりカフェオレを飲みながら私はふとポケットに触れた。そこにはまだ羽根がある。『もう落とさない』と言ったくせに彼はきっとまた、落としてくる。そう信じたいと思うくせに、今はそれがただの期待であることが少しだけ、痛かった。

 ──ねえ。
 あなたが送ってきた『嬉しいです』は
 本当に、私に向けてだったんですか……?

 その問いは、まだ声にできないまま、喉の奥で熱を持って燻っている。確かめたいのに、言ってしまったら、何かが壊れてしまいそうで──私はただ、黙ってその余韻を抱え込んだままだった。
 いつかこの想いを、ちゃんと言葉にできる日が来るのだろうか。そう願いながら私はまた問いを胸の奥に押し戻した。


 *


 数日が過ぎても彼からの連絡はなかった。あの夜の『ごめんなさい』を最後に、画面の中のやりとりは、静かに止まったままだった。けれど私は不思議と腹を立ててはいなかった。彼がヒーローであることも、いつ何が起こるかわからない職種であることも、理解しているつもりだった。もちろん、それは私も同じ。それでもやはり少しだけ寂しかった。自分のなかで大きくなりかけていた期待の分だけぽっかりと空いた空白が心の片隅に影を落としていた。

 『そんなもんよ、ヒーローなんて。』

 同僚の彼女は私の話を聞いたあとストレートにそう言った。その言葉が、諦めろという意味ではないということはわかってはいた。それでも不思議なほど現実的に響いてしまう。やっぱり深入りすべきじゃないのかもしれない。そう思いかけていた。けれど、それは翌日になって、あっさりと覆される。
 午後の診療がひと段落したあと、私はいつものように病院の中庭へ出て、自販機で買った缶コーヒーをプシュ、と開けた。ほんの短い休息。この時間だけが、思考を沈めてくれる貴重なひとときだった。そのときだ。頭上から不意に声が降ってきたのは。

「お疲れ様でーす。ちょっとだけお時間いただけますー?」

 反射のように私は顔を上げていた。それはもうほとんど条件反射のように。そして──ビンゴ。そこにいたのは、空を背景に、少しだけ不満げな顔をしたヒーローだった。ほんの数秒前まで明るかった空が彼の影でふわりと遮られる。太陽すらも、彼の背後に隠れて見えなくなるほどだった。

「既読スルーなんてトップヒーロー見くびらんでくださいよー?」

 私は缶を持ったまま、言葉を失った。影に覆われたその一瞬の静けさが、なぜかとてもやさしく感じられた。まるで『迷っている時間は、終わりですよ』とでも、空がそう告げにきたような──そんな、午後だった。

「……こんにちは、先生。突然ごめんなさいね」
「なにか具合でも悪いんですか?急病?怪我?」

 私は極力いつも通りの声を心がけた。彼の顔を見てしまえばあの夜の期待や落胆までいっぺんに思い出してしまいそうだったから。でも彼は少しだけ眉を下げて、申し訳なさそうに微笑んだ。

「違います。あの夜のことちゃんと謝りたくて」
「もう気にしてないですよ。あなたは、ヒーローなんですから、緊急対応なんて当たり前です」
「でも『嬉しいです』って言って、すぐに『行けません』は……俺だって、嫌だったんです」

 その一言にわずかに胸が反応した。彼の瞳には嘘がなかった。ほんの少し疲れたような光とそれでも言葉を伝えようとするまっすぐさが宿っていた。その点においても彼と私とではまるで違う。

「だから、今さらですけど。お詫びのつもりで、これ──」

 そう言って彼は小さな紙袋を差し出した。中を覗くとカフェの焼き菓子と、封のされた、紅茶のティーバッグが入っていた。

「あの日、行こうと思ってたカフェで買っておきました。美味しいんですよー?そこのやつ。」
「……」
「あなたと……行くつもりだったんですけど」

 私は手元の袋をそっと見下ろした。ほんの少し香る甘い匂いと、彼の、照れたような口調。そのすべてが思っていた以上に優しくて、心がまた、少しだけ揺れた。

「……ありがとうございます。いただきます」

 そう言って微笑んだ瞬間、心のどこかで演じている自分に気づいた。笑顔はたしかに浮かべた。けれど、それは彼のために浮かべた笑顔だった。自分の気持ちは、まだそこまで、追いついていなかったから。
 ほんとうは。ほんとうは、ただ、会いたかっただけだった。特別な理由もプレゼントも、謝罪の言葉もいらなくてただ『ごめんなさい』のあとに『また会いたい』と、その一言が欲しかっただけだったのに。

 彼が帰ったあと、私は自身のロッカーのまえで焼き菓子の包みをほどいた。ひとくち口に含むと優しい甘さがひろがった。それがどこか彼の声に似ていた。軽やかで優しくて、少し不器用。
 ヒーローとは、やっぱり、深く関わるべきじゃない。そう思った。私のような日常の中で生きる人間には眩しすぎるし、そしてきっと求めすぎてしまうから。──でも。それでも……。

「また……羽根を落としたりするんでしょうね、きっと、あなたは。」

 ぽつりと呟いた自分の声に、思わず笑ってしまった。彼が好きなのかもしれない。その予感が、私の中でもう否定できないほどに育っていることだけが、いまの私の、現実(リアル)だった。


 *


「診察じゃないんですけど、いいです?」

 そう言って彼がまた現れたのは数日後の午後の診療がひと息ついた、静かな時間だった。病室のドアをそっと開けながら、彼は、気まずそうでもあり、どこか遠慮がちでもあり。けれどそれでもやっぱり��来た�≠フだと、その佇まいが、教えてくれていた。

「……今日は、どこも怪我してないんですか?」

 私は笑いながらそう問いかける。それは、本心だった。何かの怪我ならば私はそれを医師としての理由にすり替えることができる。けれど彼は、ゆっくりと首を横に振った。

「ええ。怪我もないし、薬もいりません。ただ、先生とちょっと、お話がしたくて」
「そうですか……」

 言葉が喉の奥で止まる。それ以上どう答えればいいかわからなかった。彼の気持ちが見えるぶんだけ、私の中で、何かがすこしずつ後退しようとするのを感じる。近づかれるほどに、怖くなる。それはきっと心が先に予感を知ってしまっているからだった。この人にこれ以上触れたら──もう戻れなくなる。

「少しだけなら」

 私は椅子を指さした。それは許可ではあっても歓迎ではなかった。自分の口調がそう響いたことに、わずかに後ろめたさを覚えながらも彼がその意図を読み取ったかどうかは、わからなかった。

「……疲れてません?最近」

 彼は椅子に座ると、そう尋ねてきた。その声は思っていたよりもずっと優しかった。本当にただ話したいだけのような、それ以上を、求めているふうでもない。

「忙しさは変わりませんけど、慣れてるので」
「先生は、こういう仕事……ずっと続けてきたんですか?」
「ええ。昔から人の命のそばにいる仕事がしたいと思ってましたから。」
「ふーん」
「でも、どうかな。時々ほんとうは誰の命も救えてないんじゃないかって思うこともありますよ」

 自分でもどうしてそんな言葉が口をついたのかわからなかった。でもそれはおそらく、彼がヒーローだからだった。彼なら、わかってくれるかもしれない、そう思ったのかもしれない。

「わぁ、謙虚まで追加されちゃうんです?強がりと美人にくわえて、つつましい女医さん……最強じゃないですかー」
「……強がりは、余計です。」
「救えてると思いますよー?俺、先生に救われたんで」
「……」

 私は視線を逸らした。その言葉をまっすぐ受け止めてしまったら、きっと私は、この距離を守れなくなる。

「でも、ホークス……。今日は、どっちなんですか?」
「えっ?」
「ヒーローとしてではなく、ですよね?」
「はい。今日は、ただの俺です」
「じゃあ……あまり、こうして来ないほうがいいかもしれませんね」

 一瞬、空気が凍った。自分でも驚くほど冷静な声だった。でもそれは決して拒絶ではなかった。むしろ、逃げるようにしてつくった境界線。

「……どうしてです?」

 彼がそっと問う。目を細めるようにして、少しだけ笑みを保とうとしているのがわかった。私は溜め息混じりに続ける。

「たとえば私がヒーローに惹かれたとして。その人がまた戦地に戻ってある日突然、帰ってこなくなったら──」
「……」
「そういう未来が想像できるぶんだけ、私は……踏み込みたくないと、思ってしまうんです」

 言葉にした瞬間、心がわずかに軋んだ。それは好きではないという言葉ではなかった。むしろ、��好きになってしまいそうだから�≠アその、抑制だった。
 彼は、黙っていた。何も言い返さず、笑わず、否定も肯定もせず、ただ少しだけうつむきながら自分の指先を見つめていた。その沈黙が、苦しかった。でも私はそれを壊すことができなかった。

「……じゃあ、今日のところはもう帰ります。」

 そう言って彼は椅子を立ち上がる。足音もなくけれど背中はどこか重たく、そして病室のドアのまえで一度だけ、振り返った。

「でも──。また羽根、落としていいです?」

 その一言に、私は答えなかった。けれど、心のどこかで落とされたらきっと拾ってしまう自分を想像していた。距離を置くことと気持ちを止めることは、きっと別の話だ。それを私は今日、はっきりと知ってしまったのだった。


 *


 その日もまた忙しない一日だった。包帯を替え縫合をし、骨折の診断をしながら、私は、淡々と仕事をこなしていた。ふいに彼の名前を思い出す瞬間があっても、決して、口には出さなかった。同僚と話すときには、自然と話題から外すようになった。それはあの日、自分から彼に線を引いたからだ。これ以上は近づけないとそう言ったのは私のほうだ。
 彼はそれを受け止め、そして本当に、現れなくなった。それが正しいと思っていた。正しかったはずだった。けれど日が経つごとに姿が見えないことよりも気配がどこにも残っていないことが、こんなにも空虚なのだと、私は初めて知った。

 その日、夕食代わりのカロリーバーを片手に、派遣先の医療テントの隅に置かれたモニターを、ぼんやり眺めていた。ヒーロー関連のニュース。別に、見るつもりはなかったけれど、スタッフのひとりがつけっぱなしにしたままだった。画面のなかでは爆破事件の現場映像が流れレポーターが緊張した声で状況を伝えていた。
 そのときだった。瓦礫の山の上に羽根がふわりと散っていく。そして、その中央に、彼がいた。
 ホークス。ヒーローとしての彼が、今も現場に立っていた。あの軽い笑顔。けれどどこか翳った目元。誰にも気づかれない、あの目の奥にだけ、私は見覚えがあった。その直後、カメラがレポーターと彼の短いやりとりを拾う。

『今のお気持ちをひとこと、いただけますか?』

 マイクに向けて彼は少しだけ口角を上げ、あのいつもの調子で答えた。

『そうですねー。今日は、会えない人のことを、ちょっとだけ思い出してましたぁ〜、なんて。』

 レポーターが怪訝な顔をする。けれど彼はそれ以上説明せず、ふわりと手を振って、そのまま、画面の外へと去っていった。その一言は誰に向けた言葉でもなかった。誰にでも当てはまるような何でもない言葉だった。けれど私は、わかった。あれは私に向けてだった。誰も気づかないような��わざとらしくない�′`で、彼は、私にだけ届く方法で、自分の存在を伝えてきた。
 胸の奥で、何かが柔らかく脈打つ。少しだけ、痛い。けれどその痛みは、苦しさではなかった。

「……また、そんなことばっか言って。」

 思わずつぶやいた自分の声が静かに夜のテントに沁みていった。彼は、たしかに距離を置いた。けれど、いなくなったわけではない。そう思えたことが、どうしようもなく、嬉しかった。
 その夜、私はポケットの中の羽根をそっと取り出した。灯りの下で光る赤い繊維。それはもう、とっくに��返されたもの�≠フはずだった。なのに私はまだ手放せずにいる。この羽根が落ちていた日のことを私はたぶん一生忘れない。そして私は知っていた。この羽根が、いつかまた彼のもとへ返るとき、それはきっともう距離を置かなくてもいい日のはじまり。その、証明なのだと。


 *


 それは、思いがけない再会だった。というよりどうしてこんなに世界は狭いのだろうと、思わず空に問いかけたくなったほどだった。
 大規模なヴィラン暴動。都市部の交通網が麻痺し、死傷者も出ているとの速報。臨時の応急医療班として私は緊急招集を受け、現場に向かった。現地に着いてすぐ、怪我人の手当と救護テントの設営に追われながらも、ふと視線を上げたとき、あのヒーローが、そこにいた。緋色の羽根を背負い、風のように、現場を飛び回る背中。軽やかで鋭くて、そしてどこか寂しげなその輪郭を私は、忘れられるはずがなかった。

 ヒーロー、ホークス──いや、鷹見……啓悟。

 けれど、私は何も言わなかった。彼もまた私に気づいたことを表情でしか示さなかった。ほんの一瞬、視線が交錯する。でもどちらからも言葉はなかった。私は医者として、彼はヒーローとしてただ任務を遂行することだけが唯一の正解のように思えた。
 言葉を交わさなかった理由は明確だった。私はまだあの日の、延長線上にいたからだ。彼からの優しさを受け取ってしまえばまた求めてしまう。その怖さから目を逸らすために私は彼を避けた。

 数時間後、事件は沈静化し負傷者たちの搬送を終え現場に一時的な静けさが戻った。私は片づけの手伝いをしていたが、ふと背後から気配を感じた。振り返るとそこに彼がいた。変わらない顔。でもどこか、迷うような目で、私を見ていた。

「……お疲れさまでした、名字先生。」

 彼の声は、思っていたよりも近く、思っていたよりもやわらかかった。けれど私はその柔らかさに触れるのが怖くて、自然と視線を逸らしてしまった。

「お疲れ様です、ヒーロー(・・・・)。」
「……」
「……わたし、資材の確認があるので」

 そう言い残して歩き出す。それはまるで逃げるような動きだった。けれど足取りは鈍くて感情の重さを靴底が吸い込むように地面にまとわりついていた。相手がその様子に気づいたのかどうか、後ろから、彼の声が追いかけてきた。

「そんなに俺のこと……嫌いです?」

 その声は、痛いほどまっすぐで、問いかけではなく刺さるような響きを持っていた。私は思わず立ち止まり、けれど振り返る事はできなかった。彼のあの目を見てしまったら嘘がつけなくなると思ったから。嫌いなんかじゃない。むしろ、怖いくらいに、気になっていた。でも、それを言葉にしてしまったら、私はきっと、彼のもとに戻ってしまう。

「……そういうの、簡単に言わないでください」

 ようやく絞り出した声は自分でも驚くほど小さかった。けれどそこにはたしかに私自身の迷いが滲んでいたと思う。彼は沈黙した。私の背中に向かって何も言わず、ただ風の気配だけが残った。それから私はただ歩き出した。足元が妙にぐらつくように感じたのは疲れていたせいなのか、それとも──。
 会いたくないと、思っていたわけじゃない……
けれど、また会ってしまったことがどうしようもなく胸を揺らした。彼が訊ねた『嫌いです?』という問い。それが『好きです』という気持ちの、裏返しでなければ、私はあんなふうに戸惑わなかったはずだ。

 たぶん──あのとき、彼がほんの一歩近づいていたら私はすべてを拒めなかった気がしている。だから私はまだ、振り返らない。
 でも。次に会ったときには、ちゃんと目を見て答えられるようになりたいと思った。


 *


 もうこれで終わりかもしれない。そんな予感を私のなかのどこかが静かに告げていた。あの日、現場で鉢合わせたあとの沈黙はたった一言『嫌いです?』という彼の問いを、私がまともに受け止めきれなかったことの結果なのだと思っていた。わかっていた。私の言葉は彼を拒絶するものではなかったけれど明らかに近づかないでくださいと伝えてしまっていた。だから、もう来ない。彼はもう、私に会いにくる理由を失ったのだと。
 けれど、その日。この日も仮設テントに派遣で来ていた私が診療を終えて外に出たとき夕暮れの空の下で見つけたものはその予感を、あっさりと裏切る光景だった。仮設テントの外。すでに人もまばらになった裏手の通路。そこに、彼はいた。

「……なに、してるんですか」

 驚きと戸惑いを押し殺すようにして、私はそう言った。彼はいつものように軽く笑って見せた。でもその笑顔はいつもよりもほんのすこしだけ、不器用にゆがんでいた。

「もう……会ってくれないかなぁと思ったんで。ここなら、来るだろうって」
「……」
「ちゃんとアポ取ったら、また断られそうだからこうして、直接来てみました」
「……それって、待ち伏せって言うんですけど」
「はい、完全にアウトですね。でも、それでも、見たくて」
「……」
「あなたの顔が、見たくて。」

 彼の声はやさしかった。でもその優しさの中に壊したと思っている人の、不安と後悔が、確かに宿っていた。私は数歩、彼の方へ歩いた。けれど距離を完全には詰めなかった。私の中で渦巻いている好きかもしれないという感情が膨らむほどに『この人はヒーローだ』という現実が壁のように立ちはだかる。

 私に、あなたを支えられるんですか?
 いつ、またいなくなるかわからないあなたに
 私は��日常�≠�、預けられるんですか──?

 何度、自分の心に問いかけてみてもその答えは出なかった。それが心底、苦しかった。

「……あの日のこと、まだ気にしてますか?」

 彼が静かに問う。私は少し躊躇ってからほんのわずかにうなずいて、ぽつりと言った。

「……ドタキャンのこと?」
「それもありますね。でも、たぶん違う」
「……」
「俺、なんとなーくわかってたんです。ヒーローっていうのが、壁になってるんだろうな、って」

 その一言に、胸がふっと締めつけられた。彼が私の躊躇をここまでわかっていたことに、そしてそれでも、こうして、会いに来てくれたことに。

「でも俺、ヒーローですけど、��ヒーロー�≠カゃないときも、あるんですよ?」
「……」
「ただ誰かのことを想って、朝起きて、あぁ今日会えたらいいなぁって思うだけの、ただ人間でもあるんです」

 彼は前に私が好きだと言った焼き菓子の包みをそっと差し出した。その手は決して強くはない。けれど、引く気配もなかった。

「前に、好きだって……言ってましたよね」

 何気ないふうに差し出された言葉。いつの会話かも覚えていない。けれどその覚えていたという事実に私は心の奥をそっと撫でられたような気がした。言葉が出なかった。

「びっくりしましたよ。まさかの北海道が原産地だったんで」
「……」
「意外と距離ありますからねー、飛んでも」

 その言葉に小さく息を呑む。冗談めかしていながら、その下にある真剣な温度に、私はちゃんと気づいていた。

「これもヒーローとしてじゃなくて。��俺�≠ゥらです」

 私は手を伸ばしかけて、そして迷った。指先がわずかに震える。受け取ってしまえばきっとまた私は惹かれてしまう。今以上に。それを、知っているからこそ、まだ、受け取れなかった。

「……少し、考えさせてください」

 私の声は、かすかに掠れていた。けれど彼は、それでも優しくうなずいた。

「もちろんです。……焦ってませんから。ただ、俺のほうは、諦めてませんよって、伝えたかっただけで」
「……」
「言葉じゃなく、行動で。」

 私はまたしてもそのやさしさに負けそうになりながら、でもまだ、一歩を踏み出せずにいた。

 夕暮れの風がそっと私たちの間を通り抜けた。もしかしたら、この人は、ヒーローである前に、ひとりの人間──��鷹見啓悟�≠ニして、私の手を取ろうとしてくれているのかもしれない。ならば私のほうも��医者�≠ナはなく、ただの私として、返事をしなければならない。
 それができるまであと少しだけ私は彼と同様に焦らず、この距離のままでいようと思った。





 

空を連れてくる人へ


(あと少し……もう、少しだけ──)

※image song『 アイラブユー/back number 』


prev | next
back
VERTEX