最初に見たときは、たぶん、戦場の端だった。命の匂いが強すぎるあの場所で唯一他人の痛みに押し潰されるような顔をしていた人間が、この人だった。──名字 名前 先生。
まだ、名前も知らなかった。けれど白衣の袖に血が滲んでいて、それでも手を止めなかったその姿を俺はひどく綺麗だと思った。綺麗、なんて。たぶん、ふさわしくない言葉だったと思う。でもあのときの俺には、それ以外の形容が思い浮かばなかった。しんとして、すごく澄んでて、誰かのために全力になれる人。たぶん、俺が持ってないものを、全部持ってる感じがした。
それからというもの、運び込まれて出会って、名前を知って、また、運び込まれたふりをして、傷を、縫ってもらって「ここに来ていいです?」って冗談めかして言ったら「二時にお待ちしてます」って返ってきた。その瞬間、俺は、この人に会いに来る理由が、もうヒーローのそれじゃなくなったのを知った。
嬉しかった。何も言われなくても、黙って傷に触れてくれる人がいるってことが。軽口をかわしてもどこかでちゃんと見てくれてる人がいるってことが。ずっと、誰にも気づかれずに笑ってきた俺には、その��見てくれてる�≠チてだけで、十分だった。でも──その��じゅうぶん�≠�超えて、もっと触れたいと思ったのは、俺のほうだった。
一度約束を破ってしまった日のことは、今でも引きずっている。��ヒーロー�≠ニして優先すべきことがあった。でも��鷹見啓悟�≠ニしては、あの日、彼女の前に立てなかったことが、今もずっと心に引っかかってる。言い訳にしかならないからたぶんもう口にもしないけど。
そして、避けられたあの日。現場で目が合ってでも何も言えなくて、すぐに後ろ姿が遠ざかってどうしようもなく、空が遠かった。
──そんなに俺のこと、嫌いです?
そう聞いたのは、たぶん、俺の中のどこかが、もしここで全部終わるなら、聞いておきたいって叫んでたから。
返事はなかった。でも、それでいいと思った。返事がないってことは完全には拒まれてないってことだったから。
それから、どうしてもまた会いたくて、また、羽根を落とそうかと本気で考えて、それでも何か違うって思って。言葉じゃなくて行動でちゃんと伝えようって思った。待っててくれるかもしれない。いや、待ってなくてもいい。ただ、ちゃんと来たってことを、ちゃんと想ってるってことを、本人に直接、伝えたかった。でも、彼女の目は、まだ揺れてた。何かを守るように距離を取るその姿を見て俺はやっと気づいた。彼女がブレーキを踏んでるのは俺自身にじゃなくて��ヒーロー�≠ニいう肩書き、そのものなんだって。
命を運ぶ職業に就く人間にとって死に近い誰かと関わるのは、怖い。それは、痛いほどわかる。俺だって、置いていかれる側の顔を、何度も見てきたから。でも、それでも……。
『好きになってください』と言うつもりはない。ただ『好きになってもいいような俺になります』って、そう思った。
俺はあの人に出会った瞬間からずっとあの人のことが、好きなんだ。たぶん……いや、きっと、最初から、ずっと。
言葉はもうしばらくいらない。でも羽根の代わりに、俺の背中が届けられるように。そうやってまた会いに行くつもりだ。たとえ今は振り返ってもらえなくても。それでも欲しいから、我慢できない──。
*
決意、というのは、いつだって小さなものだ。誰かが思うような劇的な何かではなく、本当に、たったひとつ呼吸を深く吸い込むだけのような、そんな微細な衝動から生まれる。
私の『もう一度だけ会ってみよう』は、そんなきわめてささやかで、静かな衝動だった。でも、それはたしかに、間違いなく自分の意思だった。あの夜、彼が焼き菓子を持って現れたとき、私は受け取らなかった。けれど、そのあと彼が去ったあと、いつまでも匂いだけが指先に残っていた。彼の言葉より、行動より、その、残り香のようなやさしさが、私をずっと縛っていた。
ああ、この人を、きっと私は、嫌いじゃない。むしろ、忘れたくなんてなかったんだ。気づいてしまったなら、少しだけでもこちらから動かなくてはならない。そうでなければ私はずっと自分の臆病さに、飲み込まれたままになる。そして私は意を決して、小さなメッセージを送った。

この前の焼き菓子まだ一緒に
食べてませんでしたよね

先生、今どこですか
あと5分で行けます

話したいことがあります
少しだけ時間ください