※原作ネタバレ+捏造のため閲覧注意。原作・アニメを未視聴の方はご注意ください※
私たちが最初に出会った日の空は不思議なほどよく晴れていた。梅雨の合間に差し込んだ陽光がまだ、幼さを残す彼の頬を黄金に染め、その背で揺れる羽根が、街の空気そのものを震わせていたように記憶している。
けれど彼のことを誰に話しても『年下なんて、すぐ浮気するか若い子に取られちゃうって!』と皆一様に彼の気持ちを信じてくれはしなかった。笑って、疑って、哀れむような目で私を見る人間たちの言葉など、とうに、聞き慣れてしまった。けれど、あの頃の彼の瞳の中にあった真実だけは今も私のなかで痛みを伴って、確かに残り続けている。
彼は、陽の翳りし春の終わりに吹く風のようなひとだった。誰よりも速く誰よりも遠くへ駆けていける自由を背にしていて、それなのに、ほんの一瞬だけ私の肩に、そっと羽根を置いてくれた。気づかれないように優しく触れてくれたあの日々が今も私の胸の奥でひどく鮮やかに疼いている。
出会ったのは四年前の春。彼が十八歳の時だ。当時、私が勤めていた出版社の特集記事で、若手ヒーローの密着取材を任されたのがきっかけで、ほんの数日間、同行者として彼の現場に立ち会うことになった。
『ホークス』という名は当時から注目を浴びていた。十八歳で事務所を立ち上げ最年少でトップ10入りを果たし異例のスピードでヒーローランキングに名を連ねた彼はその軽薄な物腰とどこか悟ったような少年らしからぬ目つきで世間の注目を一身に集めていた。けれど私の目に映った彼はもっと素朴で、もっと不安定で、たまに、子供のような顔をする、不思議な青年だった。
「お姉さん、年上ですよねぇ?ちょっと頼りたくなっちゃう感じで、俺のタイプです」
そう言って人懐こく笑った彼の第一声は確かに��軽い�≠烽フだったはずなのに、私の心の奥底に不思議な静けさをもたらした。
年下の、しかもヒーロー。そんな存在を、恋愛対象にするなんて考えたこともなかった。けれど彼の言葉の端々に見える寂しさやふとした瞬間に誰にも見せたくなさそうに伏せる瞳が私にはどうしようもなく美しく見えてしまったのだ。そして彼に拾われた感情の中で、私もまた、その余韻に静かに溺れていった。
付き合い始めたのは、彼が二十歳を迎える春。私は出版社の契約を終えて、ちょうどフリーライターとして独立するか、思い切ってこの業界から足を洗うかの二択で迷っていた。彼のマンションに通うようになったのも彼が私の部屋に来るようになったのも、思えば、ごく自然な流れだったと思う。年齢差を理由に彼が少し背伸びをする姿が時折かわいらしくもあって。だけど彼は、たまに黙って私を見つめながら、こんなことを言った。
「俺が��ホークス�≠カゃなかったら、あなたは、俺を選ばなかったかもしれないなって思うときがあるんですよねー」
私はただ首を振る事しかできなかった。それが慰めの仕草だということを目敏い彼は、すぐに、見抜いたと思う。それでも彼は、何も言わず私を抱きしめて、背中に羽根を滑らせてくれた。そのやさしさが、どんなものよりも深く私を貫いた。
「俺は、今さえあれば、それでいいんですよ」
彼はよくそんなことも言っていた。でも、そうじゃなかった。春はいつか終わる。彼がヒーロービルボードチャートJPの上位に、名前が挙がると決まった日。あれは丁度、彼が二十一歳を迎える頃だったと思う。その裏で突然ヒーロー公安委員会から私に届いた一通の封筒がすべてを変えた。差出人は、不明。けれど、彼に関する詳細すぎる情報と、これから、国家規模で進められるらしいプロジェクトについての、覚書が挟まっていた。そしてそこには、はっきりと書かれていたのだ。
【ウィングヒーローホークスには支障になる私的関係を排除してもらう必要があります。特に民間人との密接な私的接触は公安管理下の安全保障上著しいリスクと見なされます。】
それが、別れの宣告だった。私は、彼の未来を想った。想って想って胸が張り裂けそうになってそれでも私は決断した。その夜、私は彼に別れを告げた。
「なんか、疲れたんだよね。……もう、終わりにしよう。」
あまりに唐突な私の言葉に彼はきょとんとした目をしていた。テーブルの端にあった、お揃いのマグカップが彼の手から落ちて割れた音がした。
「笑えない。……なん、です? それ。」
彼の顔がほんの一瞬、理解できていないというように歪んだ。けれど私は、冷たく続けた。
「子供の戯れみたいな恋だった。あなたのこと、本気で愛してたわけじゃないよ」
心なんて、本当は今にも崩れそうだった。息もできないほど、胸が詰まっていた。それでも私は突き放すように言った。彼が何度も「俺、なんかしました?」と聞いてくる声に答える代わりに、私は、最後のひとことを吐き出した。
「さようなら。もう……出て行って」
彼は何度も私の名前を呼んだ。けれど私は答えなかった。彼の視線が、玄関の扉の前でしばらく宙を彷徨っていた。あの時の彼の後ろ姿ほど心をえぐるものはなかった。それでも私は背を向けたまま動かなかった。彼がドアを開ける音。閉じる音。ほんとうは誰よりも愛していた。彼がくれた春を世界のすべてのように思っていた。それでも私は冷たい声で、まるで別人のように彼を一夜にして突き放したのだ。
ドアの内側、呼吸もできないほどに泣きながらそれでも、彼に声を拾わせてはいけないと両手で口元を覆い声を殺して嗚咽した。ドアの外で彼の気配がしばらく消えなかった。彼の羽根が、扉の隙間から、私の痛みを拾ったのかはわからない。それでも彼は何も言わなかった。私はもう言ってほしくなかった。何かを口にされたら私はきっとすべてを取り戻してしまいそうだったから。
しばらくして、彼は黙って立ち去っていった。私の選んだ別れを尊重して。あれから、彼は振り返らなかった。それでいい。それが、彼の未来のための最善だった。
そうして季節は巡り、彼は二十二歳でナンバーツーヒーローになった。そのニュースを、テレビ越しに見た夜、私はまた静かに誰にも聞こえないように泣いた。
それでも私はいまも、春の風が吹くたび、彼の羽根のぬくもりを思い出す。それでいい。そう、あるべきなのだから。
*
どうして、と思うより先に。どうしても彼女の目が見たくて俺は必死に笑っていた。空気が少しだけ張りつめているのは最初から気づいていた。けれどいつものように出してくれたマグカップに口をつけたとき思いのほか苦かった紅茶の味よりも、彼女の手が少しだけ震えていたことの方が、俺にはずっと気がかりだった。
あの夜の部屋はあたたかかった。いつもよりも少しだけ灯りを落とした部屋の片隅。薄くかかった音楽、窓の外で揺れるカーテン、そのどれもが��いつも通り�≠ナあるように装っていた。でも、俺にはわかっていた。彼女が��なにかを決意した瞳�≠�していたから。
「……もう、終わりにしよう。」
そう言われた瞬間、俺は、なんて返事をしたらいいかわからなかった。いつもなら「冗談ですよねぇ?」と笑って誤魔化す術を持っていた。けれど、その夜ばかりは、どうしてか喉がうまく鳴らなかった。
「……俺、なんかしました?」
気づけば、そんな、情けない声を出していた。違うとはわかっていた。彼女の目が何かもの凄い重圧に、押しつけられた決断をしていたことを。でも俺はそれでも尚、彼女の口から��本心�≠�、聞きたかった。
「子供の戯れみたいな恋だった。あなたのこと、本気で愛してたわけじゃないよ」
その言葉を何度心の中で反芻してみても、ほんとうの彼女の声としては響かなかった。彼女の声はもっと、あたたかくて、やさしくて、あんな、冷たい声じゃない。なのに俺はただ黙ってそれを聞いていた。
だけど、彼女が俺の名を呼ばなかったことが、何よりも答えだった。俺を、��ホークス�≠ニしてではなく��鷹見啓悟�≠ニして見てくれていた彼女が、その名を一度も口にしなかったことが、もうすべてだった。
思考が真っ白になった俺はそれでもただ立っていた。部屋の中にいたはずなのに、いつの間にか玄関にいて、気づけば扉の前に立っていた。
「さようなら。もう……出て行って」
──その言葉が胸の奥に、ナイフみたいに突き刺さっていた。だけどドアノブに手をかけてその扉を閉めた瞬間、ふっと背中に風が当たった気がした。それは背中の羽根だった。誰よりも繊細で誰よりも敏感な剛翼が壁の向こうで彼女が泣いている気配を、確かに拾い上げていた。声を殺して泣く彼女の嗚咽。俺は、それを聞いた。いや──感じ取ってしまった。
……こんな終わりって、ないでしょ。
そう思った。本気で思った。でも俺は腐ってもヒーローだった。それも、公安直属のヒーロー。彼女はそれを知らない。きっと俺のことをただの��若手ヒーロー�≠ニ思っていたと思う。だから、彼女の涙を無理やり止める資格も彼女に選ばせる自由も、きっと俺には、はじめからなかった。
ただ、手を伸ばせばまだ届く距離にいた。でも扉一枚。その薄い隔たりが、宇宙みたいに遠くて永遠みたいに重くて、俺はただ、手を下ろした。何かを言えば彼女は泣きながら縋ってしまうかもしれなかった。でも、そうなれば、彼女がもっと傷つく。そういう仕組みの中に、俺たちはいた。
彼女が何かを守ろうとしたみたいに俺も彼女を守りたかった。だから俺は背を向けた。扉の外で最愛の人の泣き声を、最後は剛翼で切り裂いた。
きっと、あれが愛だった。何もできないまま、ただ去っていくしかない痛み。それでも「ありがとう」すら言えなかった自分の弱さを、いまでもずっと、悔いてる。
──でも、あの夜があったから、俺はきっと、��ナンバーツー�≠ノ、なれたんだと思う。あれがなければ、俺は飛べなかった。誰のために、何のために羽ばたくのかもわからないまま、きっと、迷っていた。それでも風が吹くたびに思い出す。彼女がベランダから空を見て「ここがホークスの守ってる世界なんだねぇ」と言ったときの声を。
あなたは知らないだろうけど──。あのとき、俺は思ったんだ。だったらその世界ごと俺が全部守ってやる、って。
あれから、いくつの季節が過ぎただろう。今もあの夜の匂いを覚えている。羽根の記憶に残った彼女の涙の温度を、まだ俺は忘れられないままでいる。声なき、愛の別れの記憶を──。
*
眩しすぎる光が真昼の空に滲んでいた。季節は春と夏のあいだ──。わずかに湿った風が、頬をなでて通り過ぎ、街路樹の葉が、ふと小さなざわめきを立てて揺れた。
私はその日、買い物帰りに駅前を歩いていた。人の波に逆らうように歩きながらふと顔を上げると、ビルの壁面に設置された大型スクリーンに、見慣れたシルエットが映し出されていた。
──ウィングヒーロー・ホークス。
映像は彼が上空から降下してくる瞬間だった。赤い羽根が空を裂くように舞い、風圧で舞い上がった埃の中に、彼の後ろ姿がくっきりと映し出されている。歓声、閃光、カメラのシャッター音。そのすべてが、まるで映画のワンシーンのように洗練されていて、やや現実味を失っていた。
「ねえ、ホークスだよ!」
「かっこい〜! 写真、送っといて〜!」
女子高生たちがスマホを掲げて笑いながらスクリーンを指さしていた。私はその横を何も言わずにすり抜ける。痛みでも懐かしさでもなく、ただひどく��透明な壁�≠�隔てているような感覚が、胸をかすめた。もう私の知っている彼はあの光の向こう側に行ってしまったのだ。そう思って前を向こうとしたそのとき。風が不意にひとすじだけ違う方向から吹いた。誰もが見上げていたスクリーンの画面とは真逆の空から何かが、くるくると回りながら舞い降りてくる。それは、一枚の赤い羽根だった。光を浴びて空気にとけるように揺れながら静かに落ちてくる。気づけば私は反射的にそれに手を伸ばしていた。掌のなかに、ふわりと触れた瞬間、その羽根はまるで、生き物のように震えた。
これは……。そう思った瞬間、喉がふさがれたように、呼吸ができなくなった。
あれから彼とは一度も会っていない。メディアで彼の活躍を見ることはあっても、それは、私にとって、どこか、他人事のような距離感だった。でもこの羽根だけはそうではなかった。この羽根は──あの夜、私の涙を拾った、あの羽根と同じだったから。
どこかで彼が飛んでいる。たとえば、この街の上空を通った、その残響が、この羽根となって、たまたま風に乗ったのだと、誰かが言うかもしれない。でも、私はそうは思わなかった。これは、彼からの何かのメッセージだ。伝えられなかった言葉。聞くことのなかった本音。すべてを飲み込んで、それでも羽ばたいた彼のひとすじの痕跡。
私はその羽根を、そっと胸元に抱きしめた。
道ゆく人々のざわめきも、踏み鳴らされる地面の震えも遠ざかっていく。それは、羽根の持つ記憶だけが世界の音をすべて吸い取ってしまったかのようだった。
まだ、風のなかに、あなたがいる。私は、そう思っていた。
*
七月の終わり、蝉が鳴く昼下がり。郵便受けに無造作に突っ込まれていた段ボールを手に取ったとき、私はもう、何の感情も抱かなかった。
「お歳暮の次は、お中元ですか……」
──また、今年も来た。昨年の暮れに続いて。
表面には送り主の名前も住所も部署も、会社のロゴもない。それは無記名のお中元。けれど私は知っていた。これが、ヒーロー公安委員会経由で届いたものだということを。名前を出すことができない匿名の温情。いやもはや温情ですらない。ただの��形式�≠セ。
この箱を見るたびに、胸の奥がひやりとする。何かを、間接的に伝えられているような気がしてならない。カメラがあるわけでも、誰かが覗いているわけでもないのに、まるで、私の些細な反応までも誰かに記録されているような気分になる。手を伸ばしかけた自分を自覚するたび、胸の奥に静かに、冷たいものが沈んでいくのだった。
私は箱を開けることすらせず、そのまま、ゴミ箱に向かった。重さはある。たぶん缶詰か果物かゼリーか。中身は、どうでもいい。中身に心など入っていないのだから。
ごく自然な手つきでゴミ箱の蓋を開け段ボールを中に落としたそのとき、ふと何かが落ちた音がした。静かでやわらかな紙よりも軽い気配。私は足元を見る。羽が一枚……。それは赤く小さく、きれいな弧を描くように落ちていた。まるで何かを抜けた、痕跡のように。私は思わずそれを拾い上げた。掌のなかで羽根は微かに揺れ、太陽光に透けて、光を帯びていた。記憶がぶわりと、逆流する。あの夜、彼が去ったあとに残された沈黙。ドアのこちら側で嗚咽を殺した私にそっと触れた気がした、あの羽根の感触。それとまったく同じだった。
こんな偶然あるだろうか。私たちを終わらせた公安の人間が、あえて羽根を入れるような真似をするだろうか?それは、命令ではない。きっと、��彼�≠フ意志でなければ、届くはずのないもの。
私は慌てて、ゴミ箱を覗き込んだ。段ボールを取り出し、封を切る。ゼリーの詰め合わせ。その中にひとつだけ不自然に薄い封筒が紛れていた。白無地の封筒。差出人の名も記号もなにもない。名を記さぬ贈りもの。だが中を開いたとき、私は息を呑んだ。中には小さく折り畳まれたメモと、もう一枚、羽根が挟まれていた。そしてメモにはただ、ひとことだけ。
『今年も、生きていてくれて、ありがとう』
その筆跡を私は知っていた。笑うように流れる字。きっと彼はペンを握って、照れくささと向き合いながらこれを書いたのだろう。けれどそれは誰の命令でもなく、確かに彼自身の手で書かれた言葉だった。
私は、机の上にそっと羽根を並べた。かすかに温もりが残るそれは音のない手紙のようだった。届かないはずだった想いが、時を超えて、いま、ここにいる。
──あなたは、まだどこかで、私のことを気にかけてくれている。それだけでいまはもう、十分すぎるほど胸が痛かった。
*
「え、なんで……
俺は誰に言うでもなく、呆れたように、それでいてどこか、安心するように呟いていた。
公安の地下フロア。整理棚の片隅、業務報告の傍らにひっそりと置かれていた私物仕分けの配送リスト。彼女の名前を見つけたのは、ほんの偶然だった。
部署移動の一時的な補助任務で後方支援の書類整理を、手伝わされていたときのこと。リストに書かれた住所は、もう彼女が住んでいるかどうかすらわからない。でも、あの住所、あの部屋番号
……俺は、覚えていた。記憶に刻んだ、たった、ひとつの帰る場所。郵送区分欄の欄外に、小さく手書きで残された��贈答:夏・冬�≠フ文字。
「温情ですか……」
俺は、鼻で笑った。あの夜、彼女に何があったのかを俺は今でも全部知っているわけじゃない。でも、誰かに��言わされていた�≠チてことくらいあの時の目でわかった。俺を舐めないでほしい。何年あなたを見てきたと思ってるんですか。涙をこらえて、俺を突き放したあの声を、俺の羽根は今も覚えている。じゃあこれは、彼女を思っての行動か? それとも、ただの��後始末�≠ゥ……。わからない。でも、だからこそ──。
俺はその夜、自分の羽根を、一枚だけ抜いた。痛みはない。けれど、どこかひどく切なかった。ペンを持つ手が震えるのを押さえて小さなメモを添える。名前は書かない。俺だって、��ルール�≠ュらいは知っている。
今年も、どうか元気でいてほしい。たったそれだけの言葉、願い。誰にも頼まれていない。誰の命令でもない。俺のたったひとつの��意思�≠セ。
箱詰めの作業が始まる深夜、誰もいない一瞬を見計らって羽根をそっと滑り込ませる。密封されたゼリーの横に自分の��心臓の一部�≠ニ言葉を、こっそりと忍ばせた。これは罪かそれとも愛か。
誰も気づかないように封はそのまま静かに閉じた。きっと彼女は、気づかない。いや気づいても開けないかもしれない。それでもいい。届けたいわけじゃない。思い出してほしいわけでもない。ただ彼女が、この世界のどこかで生きていることだけを知れればいい。それが俺の今のただ一つの祈りだった。
──羽根が、風に乗る。ただひとりの、名前を呼べない誰かのもとへ。
*
その日、私はたまたま早退をしていた。天気は曇り。灰色の雲が空を覆い、いつ降ってもおかしくないような空模様だった。駅前の歩道はどこも混雑していて妙に落ち着かない空気が漂っていたのは、午後三時すぎのこと。
『当駅は現在一部区間で交通規制が発生しております。お急ぎのところ申し訳ございません──』
電光掲示板が、赤く点滅していた。ざわめきが波紋のように広がっていく。スマホを確認すると画面には『ヴィラン騒動発生中』の速報。地図を見るとまさに今、自分が立っているこの地区──ここから数ブロック先の複合商業ビルで爆破予告が出たらしい。人々の足が、止まり始める。駅の出口は封鎖され警備員が慌ただしく動いていた。私はしばらく様子を見ていたが、ふと、風が変わったことに気づいた。どこかから、熱気を含んだ突風が吹いたのだ。見上げたその先──空を裂くように飛来する、赤。それは迷いなく真っ直ぐに降りてくる。鳥のようでいて鳥よりも鋭く。炎のようでいて、炎よりも静かに。──ホークスだ。その姿を見て誰もが歓声をあげる。誰かがスマホを構える。でも、私はただ、立ち尽くしていた。彼が視界に降りてきたその一瞬。ほんの数秒にも満たない刹那のなかで、彼の視線が私を捉えた。信じられないほど遠い空から、まっすぐに。ゴーグルの下にある琥珀色の双眸。そこには確かに、私が知っている��人�≠フ眼差しがあった。かつて夜の窓辺で紅茶を飲みながら「甘いの、好きなんですよねー」と笑ったときのあの目。別れの夜、ドア越しに私の涙を拾った、あの羽根の記憶。
──彼は、気づいた。気づいて、けれど、何も言わなかった。言えるはずがない。いまの彼は、ヒーローとしてそこにいる。空の速さで飛ぶ者に感情を零す暇などない。でも、それでも私は知ってしまった。風を切るあの羽根が、誰よりも私の涙に触れていたことを。だれにも言えなかった「さよなら」の代わりに彼が今も空を飛びながらほんの一秒だけ、私を見つめたことを。
赤い剛翼は旋回し、風とともに姿を消す。街の混乱は続いている。でも私はもう、なにも見えなかった。掌のなかに、何かが残っている気がして見下ろした。そこには、何もなかった。けれど、心のどこかに、たしかにひとすじの赤いものが、風のように触れていった気がした。あれはただの偶然だと、誰かが言うかもしれない。でも、私は知っている。あれはきっと彼、鷹見啓悟だった。
胸の奥に、忘れたはずだった感情──。
『ずっと、会いたかった』という思いが静かに、どうしようもなく滲み、溢れ出てくる。それは、春の雨のように冷たく、優しく、残酷に。
*
通り雨の気配がしたのは午後六時前。まだ明るさの残る空の下、コンビニのビニール袋を片手に持った私は、ふと立ち止まっていた。街の向こう側に浮かぶ高層ビル群。その遥か高い屋上から、誰かが、空を見下ろしている気がした。それは、幻だったのかもしれない。でも私は、あのヴィラン騒動の日から、どこかでずっと、探していた。目で。耳で。風の向きで。あのひとが飛んでいるかもしれない空を息をひそめて追いかけてしまう自分がいた。
──会いたい。
その言葉が、はじめて、心の底から浮かんだ。思わず口にしてしまいそうなほど、その想いは、私のなかで澄んでいた。
何かを、期待しているわけじゃない。もう一度恋が始まるとも思っていない。ただ──あの夜を終わりにしたまま、何も言えずに別れてしまったことが、いまになってようやく胸のなかで痛みに変わっていた。
それは、罪だったのかもしれない。でも、ただ私はもう一度、彼の声を聞いてみたかった。名を呼ばずに目が合ったあのときのようにじゃなくてちゃんと呼びかけて返事が返ってくるその瞬間を──。けれどその願いの先に、もう一つの記憶が顔を出す。あの��国家権力�≠ゥらの、言葉。
【あなたの存在は、ヒーロー公安における不安定要素と判断されます。今後、ホークスとの接触は控えていただくよう警告します。これはあくまで��要望�≠ナはなく��最終通告�≠ナす──】
あの夜の光景がよみがえる。薄暗い部屋。閉じたカーテン。声を殺して泣いた、自分の姿。私はベンチに腰を下ろし買い物袋をひざに抱いたままそっと目を閉じた。
──会いたい。でも会ってはいけない。たったそれだけの矛盾が、なぜこれほど胸を痛くするのだろう。なぜ私は今さらこんなにも苦しくなっているのだろう。私は、彼のために別れを選んだ。それが正しいと思っていた。けれどそれは本当に��正しい正義のかたち�≠セったのか。
彼が送ってきた羽根。ひとことだけ添えられた言葉。『今年も生きていてくれてありがとう。』あのメモに、どれほどの想いが込められていたか私は今になってようやくわかってきた気がした。ただの羽根じゃない。それは彼にとっても、あのとき、別れきれなかった証だったのだ。
ポツ、と、頬に冷たいものが触れた。雨ではなかった。それは涙だった。なにもできない自分が情けなくて。いまさら心が動いてしまうことが、許されないことのようで。でも、それでも私は、心のどこかで願ってしまう。
『どうかあなたも、まだ私を……思い出してくれていたら』
彼に二度と会ってはいけないと告げられたあの��最終通告�≠ェ、いまも私を縛りつけている。
*
ああ、やっぱり来なきゃよかった……。
グラスの水滴が指に滲むのをぼんやり見ながら私は、もう何度目になるかわからない後悔を心の中で繰り返していた。
「たまにはそういう場にも出なよ」
そう言って半ば無理やり誘ってきたのは出版社時代の知人だった。もう付き合いも疎遠になりかけていたけれど最近の私を気にしてくれていたのかもしれない。それは、わかっている。けれど、華やかな照明と、賑やかな笑い声が交錯する個室ダイニングの空間に、私はまるで、異物のように浮いていた。
料理は上品だったし、集まった人々もどこか、品の良い会話を、心がけていた。でも、笑い合う誰かの横顔の向こうに、あの琥珀色の瞳がちらついて仕方がなかった。彼がここにいたら、きっと「似合ってませんよ」って、からかって、笑っただろうか。それとも黙って私のグラスを取り上げて、飲みすぎですよ、って顔を、するだろうか。
そんな想像ばかりが、喉に残ったアルコールを苦くさせた。
「今日、奥でヒーローの懇親会があるんだって。うちらラッキーすぎない?」
誰かの弾むような声に私は思わず振り向いた。奥の一段高くなった特別室の襖が静かに開けられていく。ざわ、と店内の空気が変わった。各々のコスチューム、洗練された動き。私でもわかる。ヒーローたちだ。プロの中でも、とくに名のある者たちが、その場所に集まり始めていた。誰かがスマホを握る音。誰かが背筋を伸ばす気配。そして、私の心の奥で、小さく何かが震えた。
──嫌な、予感がする……。こういう勘だけは昔からよく当たるほうだ。思わずグラスを置き、鞄を掴んだ。
「ごめん、ちょっと……今日はもう、帰るね」
同席していた知人が慌てて何かを言いかけたけれど、私はもう聞いていなかった。とにかくこの場を、離れたかった。空気が薄い。息が詰まる。誰かの目に自分の過去を見透かされそうで──。
入り口へ向かう廊下を足早に進んだ。店内奥の半個室を抜け、仕切りのすだれをそっとめくる。もうすぐ入り口の引き戸だ。そのとき隣の座敷の襖越しに誰かの笑い声が弾けた。その声がいやなほど懐かしい声に似ている気がして……お願い、どうか、違っていてほしい。そんな祈りにも似た願いを胸に、そのまま店の出入口へと手をかけたちょうどその瞬間、同じタイミングで向こうから誰かが入ってこようとしていた。華やかな気配。誰よりも速く動ける身体。そして、目が合った。
風が吹いた気がした。いや、私のなかだけで、吹き荒れた風だ。時間が、止まったようだった。赤い羽根。緩やかな笑み。けれど、その笑みは、すぐに、かき消された。
「……っ、」
声にならなかった。彼もまた一歩動きを止めたまま私を見ている。まるで、互いに幻を見ているかのように。何も言わず、ただ目が合ったまま。
逃げた先で、私は再び、彼に会ってしまった。それは、運命なんて言葉で片づけられるものではなく、ただ私たちの時間がまだどこかで終わっていなかったということの証だった。
目が合った瞬間、呼吸が、止まっていた。あのときと同じだった。何も言わないままただ見つめ合うだけ。けれどその視線には言葉よりも雄弁な時間が宿っていた。
ほんとうは、何か、言えばよかったのかもしれない。「久しぶり」とか「元気だった?」とか、それだけで、きっと世界は、変わっていたのかもしれない。けれど私の口は、ひとつも動いてくれなかった。
彼が何か言いかけた。でも、その声が響く前に私はすれ違うように横を通り抜けた。視界の端で彼が少しだけ、目を細めた気がした。
「……待ってよ、」
あの声が、背中を掠めた。私はただ、店を飛び出した。空気が変わる。夜の湿気が肌にまとわりつく。足元が覚束ないのに、それでも歩幅だけは大きくした。
逃げていた。彼の目から、過去から、そして、いま揺れ動いてしまった自分の心から。だけど。
「──待ってって、言っとろーが!」
瞬間、足が止まりかけた──そのときだった。足元の縁石に、ヒールがかすかに引っかかった。視界が傾く。身体が空に浮かぶ。……まずい!
そう思った次の瞬間、ふわりと、風が滑り込んできた。背中に、やわらかな何かが触れた。落ちるはずの重力が消え、代わりに羽根のような感触が私を包んでいた。……いや、あの、羽根だ。次に見たとき、彼はすぐそばにいた。私の、すぐ前、ほんの数十センチ先。赤い羽根が空中でゆらめきながら、私の落下を正確に受け止めていた。私の呼吸が整う前に、彼がぼそりと呟く。
「速すぎる男から、逃げられるわけないでしょ」
その言い方はいつか聞いた声とまったく同じで飄々として、少し冗談めかして、だけどその奥に絶対に冗談ではない、真実があった。
私は何も言えずにいた。頬にかすかな風が当たっていたのは、彼の羽根のせいか、それとも涙のせいか。目を合わせるのが怖かった。でも、彼の目がただひとことも責めることなく、私の逃げる背中にさえ優しさを向けていたことだけは、痛いほどわかった。あなたの速さを、こんなふうに、思い知るなんて──。
彼の腕に支えられた瞬間、私は心のどこかが、ひどく、痛んだ。あたたかかった。羽根越しではなく、ひとつの人間としての、彼の温度だった。それは記憶のなかの彼と寸分違わなくて、それがなにより怖かった。
私はゆっくりと身を起こし、彼の腕からそっと離れる。バランスを崩したわけでも足が痛かったわけでもない。ただ、支えられることで、自分の弱さが露わになってしまいそうで、彼の優しさに縋ってしまいそうな自分が、許せなかったから。
「あ……ありがと、」
ようやく出せたその一言は私の中でものすごく遠い場所から届いたようだった。彼は何も言わずに頷いた。でもその瞳は、明らかに何かを問うていた。
──なんで、どうして。どうして、あの日。
その問いが彼の呼吸の間から聞こえてくるようで、私は思わず背を向けた。視線を合わせるのが怖かった。いまの私を見られるのが、いまの彼を見てしまうのが、どうしようもなく、怖かった。だから私は……ついた。嘘を。その��嘘�≠�つく声だけが、震えていた。
「……飽きたの。
自分でも、信じられないくらいの平坦な声だ。声帯だけで発した、心を通さない言葉。でもそうしなければ、泣いてしまいそうだったから。
「あなたのことも今となってはどうでもいいの。
……ほんとに、どうでも」
瞬間、彼の気配が、ほんのわずかだけ揺れた。そして静かに、けれど確実に言葉を放ってきた。
「だったらはっきり……��嫌いになった�≠チて、言ってほしい」
その声は、ふだんの彼の軽やかさとは、まるで違っていて、剣ではなく重みを帯びた布のように私の背に静かに降りかかる。
「そしたら俺ちゃんと諦めるけん。もう二度と、名前も、目も、全部……見ませんから」
その優しさが、かえって私を追い詰めた。私のなかで、何かがきしむ音がした。
「……言えないんですか」
「……」
「そんなに俺を嫌いになったなら……なんで、」
「……っ、」
「なんで……、泣きよーと……?」
ふいに風が吹いた。どこかで羽根が一枚、舞った気がした。私は、気づいていた。頬をつたっていたのは夜風でも雨粒でもなかった。彼の問いが私のついた嘘を、ひとつずつ剥がしていく。私は背中を向けたまま、言葉を失っていた。ただ、涙だけが、私の本音を語っていた。
そして私の背中に彼の声が届かなくなったのはほんの、数秒のことだった。
『なんで……、泣きよーと……?』
その問いに、私はなにも返せなかった。答えを探すふりすらできなかった。何を言っても、何を取り繕っても、この涙だけが私の嘘を、裏切ってしまったから。
沈黙。風のない夜の、ひどく冷たい無音。それでも彼は待っていた。たったひとことの本音を、私の口から聞きたかったのだと思う。でも私は、ふり返らなかった。声も、出さなかった。ここで答えれば、すべてが戻ってしまう。そんな恐れが心のどこかで叫んでいた。
そして──気配がひとつ離れた。彼が歩いた。その足音は静かで何ひとつ踏みにじらないようにまるで私のなかに残る��最後の尊厳�≠セけを守るかのように、ひどく、優しい音だった。
くるりと風が舞う。その風が彼の羽根を一枚、私の足元に、落としていった。わざとではない。彼の背から抜けた羽根が、ただ、残ってしまっただけ。私はしゃがみこみ、それを拾った。そして思った。
──どうして、こんな結末しか選べなかったんだろう、と。
足音が遠ざかる。赤い羽根が、夜の舗道にゆっくりと消えていく。私はようやく、声にならない声で名前を呼んだ。けれどもう彼には届かない。
この夜、何も交わせなかったふたりのあいだにあったのは、「もしあの時……」と呼ばれるべきすべての後悔だった。ふたりのあいだに何ひとつ交わされぬまま、それでも確実に、何かが壊れてしまった夜の空気。
言葉にできなかった想い、触れなかった距離、そして諦めのような優しさを残してマイヒーローホークスが、去っていく。悲しいことに、言葉を残せない別れというものが、この世にはある。
誰よりも大切だった彼にただの一言「会いたかった」さえも伝えられなかった。嘘をつくことで自分を守り、彼を守ったつもりになった。でも、本当はただ怖かった。彼の前に立つにはあまりに自分は、何も変わっていなかったのだ。
言えなかった理由は、言葉よりも、深い場所にあった。たとえば、あの夜。私がほんとうに言いたかったことを、たった一言でも言えていたなら今ごろ、世界は少しだけ違っていただろうか。
「会いたかったよ」
それだけのことが、どうして、言えなかったのだろう。
私はずっと強くなったつもりでいた。あの夜、彼を突き放した自分を後悔しないように努力してなにもなかったように日々を積み上げて、感情の行方を封印して、愛なんて、過去の幻だと自分に言い聞かせてきた。でも、それはただの自己防衛だった。私のなかのあの人を忘れないままでいる弱さを、誰にも気づかれたくなくて、誰にも追及されたくなくて、ただひとりで、静かに思い出のなかに、しがみついていただけだった。なのに、たった一度、再び目が合ったあの瞬間で私の心は長い期間張り詰めていた氷の膜を、破ってしまった。なのに私はまた同じことをした。また彼を、突き放した。また彼の優しさから、逃げた。
「飽きた」「どうでもいい」──あんな言葉、ほんとうは口にしたくなかった。心のどこかでは嘘だと気づいてほしくて。でも気づかれてしまったら、きっと私はもう、立っていられなかった。
私は、ずるかった。あのときも、いまも。どんなに彼を想っていても、その想いの重さに自分が押し潰されそうになるのが怖かった。
ほんとうは──会いたかった。ずっと、会いたかった。ずっと、彼の名を呼びたかった。でも、それを口にしてしまったら私の中に作った��彼のいない人生�≠ェ、崩れてしまう気がしたから……だから私は選べなかった。言葉にできなかった。そしていま、誰もいない夜道で、彼の羽根を手にしたまま、私はまた、声を殺して泣いている。
どうして言えなかったのだろう。たった一言、それだけだったのに──。