※原作ネタバレ+捏造のため閲覧注意。
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 あの夜、なんの気なしに立ち寄った広場で風に踊る短冊の一枚がふと目に留まった。それはひどく静かな文字だった。飾り気もなく祈るように、ただ、ぽつりと──。

 『 無事でいてください 』

 その文言を読んだ瞬間、始めは自分の事だとは思っていなかった。ただの誰かを想う誰かの願い。どこにでも転がっていそうな、通りすがりの気持ちのかたち。けれどなぜだか目が離せなかった。その短冊の色が、過去に自分の着ていたヒーロースーツと同じあの色だったこと。なによりもその短い文に残された沈黙の深さがどこか自分に触れてくる気がした。名前も、宛名もなかった。でもその無名の祈りは自分の胸の奥をひどく不器用に叩いてきた。そのときからだ。毎年のようにあの笹の枝を見に行くようになったのは。彼女の顔も声も知らないまま、ただ、短冊を見に行く。まるで偵察でもするかのように。滑稽だと思いながらそれでも目が追うのはあの黄色い紙だった。

 二年目は、『どこかで笑っていますように』
 三年目は、『私のこと覚えていますか』
 四年目は、『会いたいです』
 五年目は、『夢に出てきてください』
 そして六年目には——『いまも、好きです』

 知るはずのない相手に向けた想い。でも、読むたび自分が背中を撃たれるようだった。まるで、存在してはいけない命が誰かの記憶の中で静かに息をしていたような、そんな錯覚。
 やがて七回目の七夕が来た。今年こそ、彼女の想いが終わると知っていた。なぜなら、その年の彼女の短冊にはこう書かれていたから。


『あなたの名前は、何ですか?』


 それは祈りではなく問いだった。そして、その問いは答えを欲している。これ以上見ているだけではもういられなかった。この名前を知りたいという願いが七年間ずっと名を名乗れなかったこの自分の��影�≠�初めて光の中に引き戻したのだ。もういいだろうと誰かが言った。もう、戻ってもいいと風が背を押した。彼女に、会おうと思った。姿を現すことで彼女の願いを終わらせるために。そしてたぶん、自分の時間もようやく前に進めるために。だからあの夜誰にも気づかれないように彼女の短冊を一枚そっと持って帰った。風に千切れたふりをして。それが、鷹見啓悟という名前をもう一度、使ってもいいと思えた瞬間だった。
 そして──七月七日。彼女の視線の先に立ったとき自分の心臓があれほど高鳴ったのは何年ぶりのことだっただろう。


 *


「ねえ……聞いても、いいですか」

 唇を離したあと、私はそっと囁いた。まだ夢のなかにいるみたいで、声の出し方すら忘れていたけれど、どうしても知りたかったことがあった。

「うん……なんでも、聞いてください」

 彼はほんの少しだけ私の額に額を重ねるようにしてから静かにそう答えた。私は目を伏せたままためらいがちに尋ねる。

「どうして……どうしてずっと、会いに来てくれなかったんですか」

 その問いに彼は少しだけ黙って夜の空気を深く吸い込んだ。遠くで、また花火がひとつふわりと咲いた。

「……ごめんなさい。本当はずっと行こうとしてたんですよ。行けなかっただけで」

 彼の声はどこか懐かしくて、でも、今はもっと深く、静かだった。祭囃子の名残が耳の奥に滓のように残る中で、ふたりきりになったこの時間はまるで、過去と現在とが静かに重なり合う境界のような場所だった。

「……個性を失って、姿を消したあのとき」

 彼は言葉を選ぶようにゆっくりと語り始める。その声音はあまりにも静かで、けれどその奥には火が消える直前に一度だけ大きく揺れる蝋の芯のような、濃く沈んだ熱があった。

「正直、死んだことにしてもらったほうが都合がよかった」

 私は返す言葉を見失ったまま、ただ彼の横顔を見つめていた。その瞳はどこか遠くの記憶を見ているようで、今ここにあるはずの私ですら、手が届かない場所に思えた。

「ヒーローとしても人としても……全部、背負いきれなかったんで」

 彼は、誰よりも軽やかに空を飛ぶ姿が似合う人だった。けれどそんな彼ですら地上の重さに押し潰されそうになった時期があったのだと、今ようやく知らされる。

「でもある日。たまたま立ち寄った七夕の祭で、あの短冊を見て」

 私の心臓が不規則に鼓動を刻みはじめた。あの場所、あの夜。もしもあのとき彼がすでにそこにいたのだとしたら。

「��無事でいてください�≠チて書かれてる、あの黄色いやつを。」

 息が詰まった。風がふっと頬を撫でる。色とりどりの短冊が揺れる竹の葉の下、私は確かにその一枚を書いた。誰に届くかもわからない祈りを、それでも手放せずにいた、あの七夕の夜に。

「それを見た瞬間、胸が詰まって」

 彼の声がわずかに震えていた。その震えは過去の痛みというよりも、いまの感情が溢れてこぼれないようにと彼がかろうじて保っている証のように思えた。

「名前もない。顔も知らない。でも、俺のために書かれたって、どうしてか分かったんですよね」
「……」
「肌がこう……なんか、覚えてるっていうか」

 祈る側と祈られる側。交わらないと思っていた両者が、あの夜、目に見えぬ糸で結ばれていたのだとしたら──それはきっと奇跡ではなく、必然だったのだ。

「それから毎年……見に来るようになったんですか?」

 私はややかすれた声で尋ねた。彼は短く頷いて苦笑した。

「うん。バレないように顔、隠して、こっそり。色んなヒーローのお面被りましたからねぇ」
「そうなんだ」
「たぶん、自分に言い訳してたんですよ。会うんじゃない。ただ、見届けるだけだって」

 その言葉にはどこか少年のような拙さが滲んでいた。人知れず、祈りのような想いをその背中に隠しながら、それでも同じ空を見上げに来ていたというそのことだけで、胸がいっぱいになる。

「でもさ、毎年の願いがどんどん変わっていくんですよね。私のこと覚えてますか、とか。いまも好きです、とか……」

 その言葉が、胸に突き刺さるようだった。私はそんな彼の気持ちに気づかずにいた。いや、見ようとしていなかったのかもしれない。

「……もうねぇ、情けなくなるくらい嬉しくて、苦しかった」

 そう言って小さく笑った彼の瞳は泣き出しそうなほど澄んでいた。

「知らなかった……そんなふうに、見ててくれたなんて」
「最後の一枚。今年の短冊、��あなたの名前は何ですか�≠チて。あれを見たときに思ったんです」

 彼の視線がまっすぐに私を捉える。その眼差しは、もはや、迷いのないひとつの光だった。

「これは、もう返さなきゃって。七年分の想いと答えを——。」

 私は気がつけば、彼の胸元にそっと額を寄せていた。その胸の鼓動が私のこめかみにまで静かに伝わってくる。それはあの七夕から幾度の季節を越えてようやく触れられた音だった。境内を抜けていく風が、彼の前髪をひとつ揺らした。さっきまで空を震わせていたはずの花火の音は、もう、遥か彼方の記憶のなかに消えている。

「……ありがとう。生きていてくれて」

 声にするとようやく私自身の想いも現実になる気がした。彼がその言葉に、そっと応えるように囁き返してくれる。

「ありがとう。待っていてくれて……」

 時間が止まったようだった。けれどそれは凍りついたものではなく、あたたかいまま静かに降り積もる雪のような優しい永遠だった。祈りはもう孤独な願いごとではなかった。これからは二人で一つずつ叶えていくためのもの。そう信じられた七年目の七夕の夜は再会の奇跡と確かな始まりを連れて、そっとふたりを包んでいた。
 ふたりの時間は、静かに重なりはじめている。願いごとは終わった。けれど祈りは終わらない。これからはふたりでひとつずつ叶えていくためのものに変わっていく。そう思えた七回目の七夕の夜だった。

 境内の石畳を下る頃には祭りの音も花火の光もすっかり遠くなっていた。夜は深まり山の空気は肌にやさしく熱を帯びた頬をそっと冷ましてくれる。ふたりの間に言葉はもう必要なかった。あれほど会いたくて名を知りたくて、語りたいことが山ほどあったはずなのに、今はただ静けさの中で並んで歩けることが、なによりも尊く思えた。
 灯りの落ちた参道を、ひと足ごとに石段が軽く音を鳴らす。彼の足音と私の足音がちょうどよく重なるのがなんだか不思議で嬉しくて。そのときそっと横を歩く彼の指先がほんのわずかに揺れた。ためらうような探るようなその動きに、私の胸がふいに、きゅうと締めつけられる。そして、風が導いたように、私の指も自然と伸びていた。すぐにあたたかくて大きな掌が私の手をふわりと包み込む。力はこもっていないけれど離さないという意思だけが確かにそこにあった。彼がふっと目を細めてぽつりと呟く。

「ちゃんと歩けてるの、久しぶりです」
「……私も、です」

 私は笑いながら小さく頷く。それだけでもう、じゅうぶんな気がしていた。けれど、彼がすぐに少しだけ声を潜めて私の浴衣姿に視線を滑らせるように言った。

「ていうか、改めて思うっちゃけど……やっぱ、似合いすぎですよ、それ」

 私はくすりと笑いながら、そっぽを向くふりをして返す。

「いまさら何言ってるんですか。あなたが、言い出したんでしょ。浴衣似合いそう、って」
「いや、あのときはまだ想像だったんですよー。今日みたいにちゃんと見たら、なんかダメだな。落ち着かない」
「え?」

 彼は目を伏せて肩をすくめる。そして、どこか照れ隠しのように、少しだけ、拗ねたような声で言った。

「……さっきから、他の人の視線が多くて。もうちょっと地味なのにしてほしかったかも」

 その声音があまりに真面目で、私は思わず吹き出してしまう。彼はむくれて見せたがすぐに笑いながら握った手のひらに力を込めた。

「……すみません、独占欲強めの、めんどくさいタイプで」
「知ってます。負けませんよ、独占欲なら」
「おぉ?強かねぇ」

 そんな他愛ない会話の中にもどこか昔のままの私たちがいて、それがとても愛しくて思わず目を細める。二人の影が夜道に長く伸びる。繋がれた手と手の間に、言葉にならない七年分の時間が、優しく流れていくようだった。風がまたふたりの背を押す。笹の葉が揺れて、どこかで誰かの願いごとが、そっと空に昇っていった。
 私は振り返らなかった。もう短冊に書くことは何もなかった。今、こうして��鷹見啓悟�≠ニいう名前の人と同じ道を歩いている。それだけでもう十分だった。そしてこの手を離さなければきっとこれからのすべてが、ふたりの願いになるのだと思った。


 *


 蝉の声がぴたりと止んだその日、夏は、いつの間にか遠くへ行ってしまった。ほんの少し肌寒く感じる夕方の空気に、秋の気配がゆっくりと溶け込んでいく。縁側の板の上、私は、湯呑みを手にして、ぼんやりと空を見ていた。斜めに差し込む西日の色がどこか懐かしく感じられるのはたぶん心の中に、誰かと見る空という記憶ができたからだと思う。

「名前さぁ〜ん! ちょっとだけそれっぽく盛れましたぁー」

 障子の向こうから緩く間の抜けた声が聞こえてきた。振り返れば台所から、彼——啓悟くんが、不器用に三つ並んだ団子を持って現れる。

「あの、盛り付けって、こんな感じで合ってるんですかねぇ?」
「うん。お手本通り、できたんじゃない?」

 私が笑いながら言うと彼は「いやー、自信ないなぁ」と首をかしげて、私の隣に腰を下ろした。お互いに湯呑みを持ったまま言葉もなくしばらく空を眺める。どこかで風鈴が小さく鳴った。あの七夕の夜に比べればなんてことのない夕暮れだ。けれど私はこの��なんてことのない�≠ェ、ずっと欲しかったのだと思う。

「あのさぁ」

 彼が、不意にぽつりと声を落とした。

「短冊ってさ、別に七夕だけじゃなくてもいいんですよね?」
「え?」

 私が首をかしげると、彼はそっとポケットから折りたたまれた黄色い紙片を取り出して照れくさそうに差し出した。そこにはたったひとことだけこう書かれていた。


『この手をずっと離さずにいられますように』


 私はそっとその紙を受け取り、折り目を指先でなぞった。目の奥が少し、熱くなった。だけど、今度は泣かなかった。代わりに、指を彼の掌へと滑らせて、ぴたりと重ねる。

「……これ、もう叶ってるよ」

 彼はふっと目を細め、風が、ふたりの間を通り抜けていく。夏が終わる音がする。短冊に書いた願いはもう空に預けなくてもよかった。だって、これからは、叶える相手がすぐ隣にいるから。





 

黄なる綴りを風の背に


(じゃあ俺、来年の分も先に書いとこうかな〜)
(え? もう?)
(ええ。油断してると誰かに横取りされそうで)
(……)
(あっ!あの浴衣、他の人にも見せる気です?)
(……見せないよ)
(よかった。来年はお揃い着ましょうねっ!)

※image song『 夏音/優里 』


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