きっと今夜は何かが変わる。そんな予感だけを胸に私は、人通りの少ない飲屋街へと足を向けていた。いつもなら素通りするような路地、看板の明かりが揺れる一角。その中でふと目に留まった小さなバーの扉に手をかける。押し開けた瞬間、喧噪と熱気、バーボンの甘く乾いた香りがふわりと押し寄せてくる。グラスのぶつかる小さな音、時折はじける笑い声。それらが、波のように耳を撫で、夜という生き物が持つ無防備な呼吸を思わせた。
仕事帰りの装いのまま来たのは決して気取ったわけではない。ただ、何かを装う気力がなかっただけだ。不意に訪れた焦燥、胸の奥に巣食う孤独のようなもの。誰かに触れたいと誰にも言えなかった渇きが、足をここまで運ばせたのだと思う。カウンターの端に腰を下ろし、ハイボールを注文する。冷たい液体が喉を通っていく感覚すらどこか、鈍くなっている気がした。
「お姉さん、おかわりくださーい。さっきと同じやつで」
背後から聞こえた声に空気がわずかに変わった気がした。視界の端で横を見ると、そこに立っていたのは赤い翼を背負う男。この国を守る象徴のひとりでありながらその佇まいはどこか��自由�≠サのものを体現しているようで、私は思わず息を呑んだ。
「……」
「……」
──視線。なぜだろう、妙に熱を帯びたものを感じる。気のせいかと、もう一度だけ視線を確かめるようにそっと横目で覗くとやはりその男は、真横から、まっすぐにこちらを見ていた。
「……あら、珍しいですねぇー」
不意にかけられた声に、無視はできなかった。私はふっと横に顔を向け、それからまた素知らぬふりで正面に向き直って淡々と答える。
「初めて来たんです、ここ」
「あれ? でもなんか見覚えあるような……」
「え? あ、ああ……どこにでもいる顔なので」
「いやいや、そうじゃなくて……んー。さっき、駅前いませんでした?」
「へっ? あ、えっと……はい……」
「わかった!ティッシュ配りのお兄さんに、しつこく声かけられてた人でしょー?」
「え、ええ……そうです」
彼はその瞬間、ぱっと表情を明るくし、すっと右手を差し出してきた。
「俺、ホークスです。よろしく」
握手を求められていると気づくより早く、カウンターに置いていた私の手が、彼の手に包まれていた。すこし強引に指を絡められ、生暖かいぬくもりが、一瞬で伝わる。
「ホークス……知ってますよ」
「あ、ですよねぇ。じゃあ、あなたの名前は?」
「名字、です……」
「下の名前は?」
「……名前、です」
「オッケ〜、名前さん。じゃあ一杯奢ります」
「は……?」
「その代わり、なーんであんなにしつこく声かけられてたのかその経緯を聞かせてもらっても?」
彼は隣に立ったまま、カウンターのうえに軽く肘をつき、ニコニコとこちらを覗き込んでくる。
「ご……ごめんなさい。今日は、一人で飲みたい気分で」
「……あー、そっか。うん、わかりました」
短い返事のあと、変な沈黙が落ちた。それでもなぜか彼は、隣から離れない。あまりの居心地の悪さに、グラスへ口をつけた、その瞬間──。
「ほんとに?」
隣から追いかけるように声が落ちてきた。問いかけのわりにその口元は答えを知っているようなわずかに吊り上がった笑みが浮かんでいる。ほんとうに一人で飲みたい気分なのか問うているのだ。その視線に引き寄せられるように、私はつい目を合わせてしまい、知らずに口が動いていた。
「ど……どうかなぁ。」
彼は私の返しにふっと目を伏せ自分のグラスを持ち上げる。そして、その口元にはやはり笑みを浮かべて——
「——じゃあ、乾杯」
そう言って、軽く私のグラスにぶつけた。そのまま迷いなく私の隣の席へと腰を下ろす。空気がやわらかく波打つように緩んでいく。まるで、彼自身が、ひとつの心地よい音楽を連れてきたかのようだった。
「あ!俺、今日はただの一般人ってことで来てるんで。あんまりかしこまらないでくださいねー」
「……ヒーローも、お酒、飲むんですね」
「そりゃもう。じゃないとこの羽根、重くてやってられませんって」
軽く冗談めいた口調にふっと肩の力が抜けた。気づけば私は笑っていた。そのことに自分で少し驚く。ここ最近、誰かと目を合わせて笑ったことなんてあっただろうか。彼の声は不思議と喧噪の中でもはっきりと届く。いやそれは私の耳が自然と彼のほうへ向いていただけなのかもしれない。
「……いやいや、あなたはいつも悠々と飛んでるじゃないですか」
「へっ?」
「こんなに近くにいたら……なんだか夢みたい」
「そう?んー……夢でもいいじゃないですー?」
「え?」
「……今夜くらい、ね?」
片目を細めたウインク混じりの言葉に、思わずグラスを傾けた。酔ってしまえたら楽なのにと、何度も思ってきた夜よりも──いま、この現実のほうがずっと不意打ちで、ずっと甘やかだった。
「このあと、どこか別の店、行くんですか?」
何時間くらいここに居ただろうか。突如として投げかけられた何気ないその問いに私は首を横に振る。
「じゃあ……少しだけ、俺と歩きません?」
誘いは、羽の音すら立てずに降りてくる。私はそれに頷いていた。自分でも気づかないくらい、自然に。
バーを出ると夜風が頬を撫でた。彼の影がすぐ横にあることがまだ信じられなくて、でも何度も確かめたくなる。この人は空を飛ぶけれど、今は私の隣を歩いている。それだけで、世界の輪郭が少し変わって見えた。
その夜、ほどけかけた縁の先で夜の街はまるで熱のあとをゆっくりと鎮めていくように、静かに沈みはじめていた。どこかで誰かが笑っていて、遠くでは車の音が薄れていく。そして、私たちの足音だけが、等間隔で、アスファルトに刻まれていった。
彼と並んで歩くのは当たり前に初めてだった。地上から見上げるだけの存在だったその背中が、いまはすぐ横にある。その距離が、現実だということにまだ身体が追いつけていないようだった。
「あの、」
少し前を歩いていた彼が不意に立ち止まり私の方を振り返った。夜風に揺れる前髪が月の明かりを受けて、ほんのり金色に光る。
「さっき店であなたに会ったとき、実はちょっと嬉しかったんですよ?」
「え?」
「いや、ほんとに。今日けっこうしんどい任務で正直、わりとクタクタで」
「……」
「なんか癒されたかったんで。で、話してみたらその願いが叶った」
「……」
「もう真っ直ぐ帰ろうかと思ったのに、なぜか、あのバーに吸い寄せられたんですよねー」
そう言って彼は片手で後頭部をかき苦笑する。その目元には冗談に紛れた本音の色がほんのりと滲んでいた気がした。
「運命ってやつですかねぇ……なんて。」
口調こそ軽いけれどその目は冗談のようでいて真っ直ぐで。冗談に見せかけるような癖をきっと彼は幾重にも重ねてきたのだろう。私はただただ小さく頷いた。でもきっと、うまくは笑えていなかったと思う。
「——で、あのさ。」
また彼が口を開く。今度はすこし低めで、風に溶けるような声音で。
「この先の角、曲がったら、たぶんあなたと俺は反対の方向ですよね?」
「……うん。そう、ですね、たぶん」
沈黙がひとつふたりのあいだに降りる。まるで見えない羽根が宙を漂い、音もなく地面へ落ちていくような静かな間。
「ほんとはさ、またどっかで会えませんか——、って、言おうと思ってたんです」
「……」
「でもそれ、なんかずるい気がして」
「……ずるい?」
「だってほら、アルコール入ってる。お互いに」
彼はそう言って、口元だけで微笑んだ。どうしようもない切なさとそれでも希望を残そうとする静けさが、その瞳には宿っていた気がした。
「夜ってさ、そういう空気出すでしょ。ちょっとだけ心を緩めさせるような」
「……はい。わかります」
「でも、その緩みでなにかを決めるのってたぶん違う気がするんですよねー」
私は息を吸い込む。思った以上に、夜の空気は冷たく、喉の奥がひりついた。その感覚がむしろ私を現実に引き戻す。彼の視線は相変わらずまっすぐで何かを期待するでも押しつけるでもなく、ただ『ここに実在している』と、告げていた。
「……じゃあ、またどこかで」
私はそれだけ言った。ほかの言葉は浮かばなかった。でも今夜は、きっとそれでよかったのだと思う。彼はふっと表情を緩め軽く右手を上げる。それは別れの合図のようでいて不思議と、何かの始まりのようにも見えた。
「ええ……��また�≠チて言葉があれば、けっこう生きていけるもんですからねー」
その言葉に私は小さく笑った。彼の背中が夜の光に溶けるように遠ざかっていく。けれどそれは終わりの景色ではなく、やはり、何かの始まりの予感に似ていた。いや——私自身が、そう思いたかっただけなのかもしれない。
あの人はきっとまたどこかで風を起こして私の前に現れる。そのとき私はちゃんと、自分の足で立っていられるように——胸の奥でそっと、そのことだけを強く願った。
*
このバーに来たのは偶然だった。そう、思いたかった。だけど本当は、心のどこかで��また�≠�信じていたのだと、扉を開けた瞬間に自分の中で知った。
夜の匂いも、薄暗い灯りも、あの日と何ひとつ変わっていなくて、扉を開けたときの温度に私は一瞬で彼の影を探していた。そして——見つけてしまった。彼の瞳と同じ琥珀色の灯りの下、カウンターの端。羽織を少しだけずらした横顔と隣に座る、明るく笑う、よく通る声のひとりの女性。きっと彼のファンだろう。いや、そういう存在は彼の周りにはきっと、日常茶飯事でいたはずだ。それは分かっていた。理解もしていた。けれど、理解と納得は別だった。
私はそっと視線を逸らして、彼とすこし離れたカウンターの席に、腰を下ろす。氷の音が小さく揺れるグラスを両手で包むと胸の内側で疼くものが、どうしようもなく沈まなかった。
(……なにやってるんだろう、私。)
背中で、彼の声が何度か笑いとともに届いた。女性が「ホークス」と名を呼び、彼が応える声。軽くて柔らかいその響きはなぜか今日だけは鋭く心に刺さった。氷の入ったグラスを握る手にかすかに汗をかいていた。何かが騒いでいると訴える心を抑える術をなぜか今だけは忘れてしまった。
数分後——女性が笑いながら去っていく気配と同時に、羽音がこちらに近づいてくる。
「こんばんは〜。またここで会えるなんてやっぱ運命ですかねー?」
まるで、何事もなかったかのように、いつもの軽さで彼は私の隣に腰掛けた。なのに私はうまく笑えなかった。
「……すごいですね、ほんと。」
「んっ?」
「誰とでも、すぐに仲良くなれるんですね」
言った瞬間、自分の声が少し冷たかったことに気づいた。でももう戻れなかった。彼が一瞬だけ眉を動かし、それから小さく笑いながら言った。
「……あれ? もしかして、嫉妬、してます?」
「違います」
即答だった。思わず強い声が出た。なにが違うのか自分でもよくわからなかったのに。でも彼は引かなかった。逆に少しだけ楽しむような瞳で、私を見た。
「じゃあ、なに?」
「……」
「ねえ、なぁに? 名字、名前さん。」
「あなたは、
グラスの氷が溶けて、淡く音を立てた。言葉がきつくなっていくのを、止められなかった。私のなかの幼い部分が、心のどこかでぐしゃぐしゃに拗ねている。
「べつに、あんなふうに誰かれ構わずに愛想振りまくの、止めろなんて言いませんけど……」
「——けど? でも本音は、そう思ってる」
その声から珍しく彼の余裕が抜け落ちていた。それがまた悔しくて、私はグラスをカウンターに静かに置いた。
「……勘違い、しないでください。私はあなたの私生活に口を出せる立場じゃない」
「でも、俺が他の子と笑って話してるの、嫌だったんですよね?」
まっすぐに向けられる視線。その奥にいつもは軽口の影に隠している翳りの光が一瞬だけ覗いた気がした。けれど私は、その視線に呑まれるわけにはいかなかった。胸の奥で負けまいとする何かが、固く音を立てた。
「……自惚れないでください」
「……そっか。じゃあ──俺の勘違いですね」
彼がゆっくりと立ち上がる。椅子の軋む音が、やけに大きく響いた。その背中は、あの日と同じように静かだった。ただ違ったのは、「またね」とも「次は」すら口にしなかったこと。私はただ黙って、その背中を見送った。何も言えず、何もできず、そこに、座り続ける。声にならなかったものだけが置き去りになり、赤い羽根の残像が、かすかに視界に揺れていた。それなのにどうしてだろう。胸の内側には何も終わっていないようなざらりとした熱が残っていた。
「……」
言いすぎた──。そう思っても、素直にはなれない。心の奥では「引き止めたい」と叫んでいたくせに。
私は何かを守るように彼を責め彼もまた余裕を失っていた。言葉がぶつかり合い、宙を滑っては消えていく。飲み込んだままの想いを抱え、カウンターに取り残された私はこれでもう会うことはないだろうと、自分に言い聞かせていた。しかしその矢先だった。
「……ったく、あー! もーっ……!」
その声はまるで風の逆流のように背後から押し寄せてきた。振り返れば彼がくるりと回れ右するようにして、こちらに戻ってくるところだった。
「……戻って、こないでくださいよ」
私が言うより先に彼はもう私の隣に立っていた。そしてその顔は先ほどまでの余裕をなくして代わりに、不器用な真剣さが色濃く宿っている。
「いや、帰れないでしょ!このままじゃ……!」
「だったら、どうすればよかったんですか」
「はぁ?それはこっちの台詞なんですがぁ!?」
再び、火花が散った。第二ラウンドである——感情がぶつかり合い、素直になれないまま言葉を重ねる。先ほどの続きをそのまま引き取るように互いの声が強くなる。
「俺だってね、言いたいことあるんですよ!」
「は?なにそれ。あんなふうに他の人と親しげにしておいて」
「だから!なんであなたが、はらかいとーと?」
「は、はらかい……って?」
「もう!怒ってんですか、って意味ですよっ!」
「──そ、それは……」
まるでふたりともなにかに追い立てられているようだった。思っていることをうまく言葉にできず、それが苛立ちを生み、焦燥へ変わっていく。すると彼は視線をわずかに落として低く呟いた。
「……なんで、そんなに怒ってんですか」
「怒ってないって、言ってるでしょ」
「怒ってるようにしか見えませんよ」
「じゃあ、あなたはなんなんですか?」
「はい?」
「私、男の人苦手なんですよ。そこらへんの軽い女性と一緒にされたのが心外です」
「……はぁ?」
「あんなふうに他の人と仲良くしておいて、私の前ではいつも通りって……チャラい、ありえない信じらんない。これだから女好きの男は……。」
言った瞬間、空気が揺れた。彼の瞳が、大きく見開かれて、揺れたのがわかった。
「勝手、すぎます……」
しかし続けて吐き捨てるように言ったその一言のあと彼はほんの数秒だけ黙り込んだ。だが次の瞬間、堰を切ったように声が上がった。
「じゃあ逆に聞きますけど!戻ってくるなって?そんな顔しておいて、自分は怒ってないと!?」
「ちょ、っと……声、大きいですって」
「期待した俺がバカでしたか?」
「はぁ!?」
「俺があなたのこと気になってて、何が悪いんですっ!?」
その瞬間バーが静まり返った。彼の声が店内の空気を裂いたのだ。まるでその場の全員の時間が止まったかのように、グラスの音も笑い声も心地よかったはずのBGMすらも、一瞬で凍りついた。それでも彼の声だけが残響のように胸の奥で響いていた。私も息を呑み目を逸らせなかった。彼の瞳は真正面からただ私だけを見ていたから。
「…………えっ?」
そう言ったのは私だったのか、それとも、私の心の声だったのか正確にはわからなかった。彼は少しだけ呼吸を整えるようにして、しかし決して視線を外さず、低く呟いた。
「チャラチャラしたヒーローで悪かったっすね」
「……」
「そうしてないと女性と話せないんですよ、緊張して」
「……」
「俺だって……誰かに一目惚れすることくらい、あるんですよ」
その言葉を落としたあとの彼は、すべての音が消えた世界にひとりで立っているように見えた。静まり返った空気を誰も破らない。静かに、けれども決定的に、彼の言葉が私の胸に落ちた。もう笑えなかった。なのに涙だけが滲みそうだった。私も言葉を失っていた。それでも何かを言おうとした、まさに、そのとき──。
──ガチャっ!! カランカランっ!
と、さっきの言葉の余韻がまだ残る中、バーの扉が激しく開いた。夜の空気とともに飛び込んできたのは賑やかな嬌声とシャンパンの瓶を抱えた女性たちの集団。
「イエ〜〜〜イ!!」
ピンクのタスキにシャンパン、甲高い笑い声。一目でバチェロレッテパーティーだとわかった。祝杯に酔いきった女性たちが店内を一瞬で熱気に包み込む。
「ヒャッホ〜! 最後の独身ナイトぉ〜!」
「主役ぅ〜!あんた今日だけは自由よ〜!」
嬌声と笑い声が波のように押し寄せて、数人が一気に、雪崩れ込む。その瞬間に店内の空気は、がらりと色を変えた。ピンク色のサッシュを胸にかけた中心の女性が、照れ笑いを浮かべながら、カウンター席に、ふらふらと腰を下ろす。
「……うわ、こりゃまた、すごいのが来た……」
ホークスがぼそっと呟く。私は思わず、かろうじて鼻で笑って返した。さっきまでの刺すようなやり取りが、遠くに押しやられていく感覚。
「やだ……また来たのね」
カウンター越しに、呟くようにそう言った女性スタッフに私とホークスは同時に視線を向ける。
「独身女性が集まってバー巡りしてるんですよ」
「へえ、元気っすねー」
「元は10人いて、3人が生き残った」
「ふーん。いいっすねー、若いって」
「今日また1人が抜けるから残りは2人になる」
そう、やや小声で言いながら女性スタッフは、私たちの目の前に酒を置き呆れたようにウインクをひとつ残して去っていった。だが、次の瞬間。バン!!という大きな音がバー内に響き、空気が一瞬にして変わった。
「きゃーっ!!」
甲高い悲鳴があがる。振り向くと主役の女性が椅子から転げ落ち床に倒れていた。顔面から強くぶつけたらしく足元には割れたグラスと赤く滲む液体。そして、顔を上げた彼女の鼻からは大量の血が勢いよく流れ出していた。
「……動かさないでっ!」
反射的に叫んだのは、ホークスだった。椅子を蹴るようにして立ち上がると、すぐさま、彼女のもとへ駆け寄り、支えながら柱にもたれさせる。
「タオル!清潔なやつ!あ、ナプキンでもいい。きれいなのあります?」
「あ、あるっ!」
即座に返事をする店員の手から清潔なタオルをほとんど奪うようなかたちで、私は受け取った。迷いなくそれを彼に渡すとホークスはそれで彼女の鼻を覆い、しっかりと出血箇所を押さえる。
「ねえ、傷は……これ、思ったより深い……?」
負傷者の彼女がホークスを見上げながら問う。私はしゃがみ込み、ホークスと入れ替わるようにして直接出血点を押さえ、彼はその上から新しいタオルで固定していく。
「深いかもしれませんねぇ。けっこう切れてる」
「やだぁ……どうしよう……」
「ねえ、私、どうしたらいい?」
落ち込んでいる負傷者の声を背に受けながら、私は彼へ指示を促した。しかし彼は私を一瞥すらせず、ただ淡々と口を開いた。
「圧迫はそのままで。俺、固定します」
やけに自然な連携だった。なにも言わなくてもタイミングが合い、言葉を交わすだけで、意図が伝わる。いつの間にか、呼吸までも同じになっていた。まるで、さっきまで言い争っていたことが嘘のように。
「ねえ——! ひどいんでしょう……!?」
鼻から大量の血を流しながら、本日の主役が、涙まじりに声を張り上げる。
「まったく、大袈裟なのよ。大丈夫、大丈夫〜。ちょっと血が出てるだけよ〜」
「これのどこが、ちょっとなのっ!?血塗られた結婚式のステインみたいじゃない!」
「ステイン、いいじゃない。私はあの男好きよ」
「六日後に結婚式なのにっ!痣のある目や折れた鼻じゃ、式に出られないっ!」
「出血多量で死んだら何も問題なしよっ!」
背後で、ウォッカを煽りながら言い返している主役の友人らしき女性たちに、さすがに私は鋭い視線を向けた。その女性たちは一瞬だけ焦って、「そういう手もあるって話よ」と呟きながら目を逸らす。
「全盛期のオールマイトと戦ったみたいな姿で、バージンロードを歩くよりはマシかもね……」
主役の女性も絶望のあまりか反論する気もなくまさかの自虐に走り出していた。
「はいはい。もうやめましょ、お姉さんたち」
「……」
「ははっ、オッケー?」
ホークスが間に割って入り軽く笑いながらそう言って、負傷者の女性にしゃがんだまま手を差し出す。
「俺、ヒーローなんで。安心してください。ちょっと傷口、見せてもらえます?」
「……」
女性がおずおずと手を差し出すと、ホークスはその手をやさしく包み込み、安心させるように、きゅっと握った。そして余った方の手でタオルをそっとめくって、傷口を確かめた。触れる指先は驚くほど繊細で、声色まで、やわらかくなる。
「いいですか──?じっとしててくださいねぇ」
「……うん、」
彼は手際よくにじみ出る血を指先で確かめた。滴る赤が夜気に混ざるのを見逃さぬように真剣な眼差しを傷口へ落とす。そして、状況を図るかのように呼吸をひとつ整え、声を落とした。
「バージンロードを歩くとき新郎はあなた自身を見る。化粧でもドレスでも、傷でもなくね?」
「……」
「一緒になるべき人なら、ちゃんとあなた自身を見るはずです」
「それって……なんか、すこし、怖い……」
「ははっ。うん、そうかもしれませんねぇ」
笑い声と喧騒で満ちていた空間がふっと静まり返った。その静寂の中で今度は私が口を開いた。
「結婚式で……新婦の姿を見た新郎さんが言ってたんです。しばらく、時間が止まったって」
「……」
「何も存在せず、そこにはただ——二人だけしかいなかったって」
「……」
「将来は怖いけど、それも楽しみのひとつかな」
自分で言いながらその言葉は淡く響いて消えていった。胸の奥にかすかな不安と、それを上回る期待が入り混じる。結婚式とはそういうものだ。そんな私の横顔を見て、ホークスが口を開いた。
「そーそー、先は誰にもわからないスよ。それが結婚の、特別なところでしょ」
彼の声は軽やかなのに不思議と重みがあった。未来という霧の中に灯りをともすように柔らかく心を照らしていくように。
「良いことも悪いこともさ、一緒に分かち合いたいって思える相手に出会うのが大事なんですよ」
私はホークスの声に耳を傾けつつ彼女の処置を続けながら、そっと目の前の彼女に問いかけた。
「今この場にひとりだけ呼べるなら……誰に来てほしい?」
「……形成外科医の、ママ。」
「あはは、なるほど。それは頼もしいね。じゃあその次は?」
「……フィアンセ、かな……。」
「ほらぁ、それでわかる」
ホークスが優しげな眼差しを彼女に向けながらそう言ったその瞬間。彼女が、驚いたように声を上げる。
「ちょっと待って、もしかして……ふたりって、恋人なの?」
「「え。」」
思わず、ホークスと私の声が重なった。そして自然と目を見合わせて、瞬きをした。
「やだ……こんなに最高なカップルがいる一方で私はこんなことで、結婚に動揺してるなんて」
「……みんな、そんなもんじゃないかなぁ」
彼女に視線を戻して言った私の小さな呟きに、彼女はそっと、目を伏せて笑った。私も、それに微笑んで、今度はホークスに問いかける。
「……血、止まりそうですか?」
「大丈夫。多分、折れてはいない。切創だけ」
「よかった……こんな私でも、手助けできて」
「さっすが、俺の
ウインク付きのその言葉に思わず彼を睨んだ。けれど彼のその目はもうさっきまでの刺すような鋭さではなくどこか申し訳なさそうで、それでも静かに私を見ていた。するとバーの店員がそっと背後から声をかけてくる。
「あの、救急車……呼びますか?」
その問いかけに私がホークスを見やれば彼は、必要ないとでも言いたげに、首を横に振った。
「いえ……呼ばなくても大丈夫です。ここにいるヒーローと、それに、私で十分……かと。」
そう答えた私の声に、止血を終えて顔を上げた本日の主役の彼女が、泣き笑いのような表情で、「ありがとう」と小さく呟いた。周囲の友人たちも口々に感謝を述べ、その場はさっきまでの喧騒とは違う、安堵に包まれた穏やかな温度を帯びていく。ホークスはふっと口角を上げ軽く背伸びをしながら立ち上がった。
「病院自分で行けます?送っても行けますけど」
彼が問いかけると友人達が責任を持って連れて行くと即座に答えた。安心したように頷いたホークスの隣で私も彼女たちを見送る。バーの店内は次第に元のざわめきを取り戻し、グラスの音や、笑い声がまた響きはじめた。
「いやぁ〜。必要なときに必要な人と出会うってやっぱ決まってるんですよね。今日の主役は運が強い」
ホークスが、ぽつりと呟いた言葉は、騒がしい空間の中でも不思議と澄んで聞こえて、胸の奥にそっと響かせた。
「……そういうこと、ほんと、さらっと言いますよね。あなたってヒーローは」
「え?本音なんですけどねぇ」
軽口めいた響きの奥に、なにか本気の色が混ざっていた気がした。私はその視線に触れたまま、返す言葉を見つけられずに、ただそっと、視線を落とした。
賑やかで、喧噪に満ちていたバーを出た途端、夜は思いのほか静かだった。気づけば私と彼も、ほとんど同じタイミングで外へ歩み出していた。夜風がついさっきまでの熱を冷ますように、頬を撫でる。
「……もう、怒ってないんです?」
不意に問われて、私はわずかに唇を尖らせる。
「怒ってたわけじゃないです。傷ついてただけ」
「……そっか」
それきり彼は何も言わず、ただ視線だけをこちらに向けてきた。その沈黙が、なぜか責めるでも慰めるでもなく、やわらかな重みを持って、胸に触れる。あれほど耳にまとわりついていた笑い声もグラスの澄んだ音もすべてが遠い幻のようで、いまはただ、ふたりの歩幅だけが街の呼吸に寄り添っている。あの激しい言い合いはきっと今日という日のこの場、この空気の中でしか起こり得なかった。それでもそのあとに残ったのがこうして並んで歩ける時間だったことが、少しだけ救いに思えた。
「……ねえ、」
と、隣りで彼が口を開いたのは、駅までつづく並木道の途中だった。
「さっきはその、ごめんなさい。声、荒げたの」
「……ううん。私こそ、ごめんなさい。ちょっと意地張ってました」
謝罪は短い言葉で終わったけれど、足並みは、自然に揃っていた。等間隔に灯る街灯がふたりの影を寄り添わせながら、長く引き延ばす。素直な言葉が思いのほかすんなりと口をついたのはあの一連のやり取りがただの衝突ではなく通過点だったと心のどこかで理解していたからだ。ぶつかって少しだけ傷ついて、それでも確かに残るものがある。そんな関係の入口に私たちはもしかすると立ち始めているのかもしれない。
ふと横を見ると彼はわずかに俯きながら歩いていた。肩越しに覗く赤い羽根は夜の空気を受けてかすかに光を帯び、その影だけが路面に柔らかく揺れている。
「あの……今度、なんですけど、」
不意に彼が歩みを止め、身体ごとこちらへ向き直る。街灯の光が瞳に静かに溶け込んで、背から零れた羽根の影が、地面いっぱいに広がった。
「次に会うときは、本当に、ふたりきりがいい」
その言葉は夜空から真っすぐに落ちてきたみたいで飾りも含みもなくただ澄んでいてそれでいて揺らぎを秘めている。彼の瞳が迷いを抱えながらも真っ直ぐに私を捉えていて、その真剣さが胸の奥を静かに突き動かした。
「なんか、ほら。今まで……偶然ばっかじゃないですか。騒がしい場面でばっかり……だから」
「……ちゃんと、約束して、ってこと?」
「そう……ちゃんと、あなたと会いたい」
軽口も照れ隠しもない声音だった。あれほどに言葉をぶつけ合った彼が今はどこか不安そうに、けれど確かに願うように見ている。それがなぜか胸の奥を強く締めつけた。私はそっと視線を落として、夜の匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、静かに顔を上げた。
「……考えさせてください」
それは逃げではなく、本当に丁寧に答えを選びたかったからだ。しかし、どうしてだろう。ついさっきまでぎこちなさと刺々しさをまとっていた距離が今はほんの少しだけ愛おしく感じられる。
彼は少し驚いたように目を瞬かせ、それから、ゆっくりと頷いた。
「……うん。いい返事、待ってます。」
短くも確かなその声が、私の胸の奥に、そっと置かれる。
「じゃあ——とりあえず、」
「……?」
「連絡先を、交換させてもらっても?」
今度は、私のほうが驚いて目を瞬く番だった。思わず小さく笑って頷き鞄からスマートフォンを取り出す。指先が画面をなぞるあいだ、彼はただ静かに、こちらを見ていた。
「次からはちゃんと、あなただけを見ますから」
その言葉が、夜の空気のなかで淡く光った気がした。やがて駅の灯りが遠くに滲みはじめる頃、私たちはまた自然と歩幅を揃えていた。頬をかすめる夜風が、先よりもわずかに甘く感じられる。
ほんの小さなきっかけで変わりはじめる関係の手触りが指先の奥にまで残っている。そう思ったとき、未来の輪郭が、まだ遠くで、静かに揺れていた。