背中しか見せられなかった夜のこと。あのとき俺の羽根が感じ取っていたのは、風でも気配でもない。彼女の背中から静かにこぼれた──涙の音だった。
 言わなくても、わかった。振り返らなくても、感じた。どうしてあの人は、言葉をくれなかったのか。どうして俺は、それ以上を求めてしまったのか。歩くたびに足元がやけに静かだった。街灯の明かりが俺の背中を押すようにして真っ直ぐな道を照らしていたけど、その道のすぐ後ろには、たった一人の泣いている人が残されている。そう思うと足が重くなって、呼吸が詰まった。彼女の涙を知りながら、それ以上は踏み込めずに静かに立ち去った。言葉を引き出すこともできず、ただ黙って、その背を残した自分。

『そんなに俺を嫌いになったなら……なんで、
泣きよーと……?』

 あんなふうに言わなきゃよかった。追い詰めるつもりじゃなかった。ただ、あの人のほんとうがまだこの世界にあるって信じたかっただけだったのに。
 ……いや、きっと俺はわかってた。あれは、嘘だったって。目を見れば、全部伝わってた。でも彼女が嘘を選ばなきゃいけなかった理由までを、受け止める余裕が、俺にはなかった。「ごめん」とも「待って」とも言えなかった。
 俺がその場を離れたのは彼女を諦めたわけでも忘れようとしたわけでもない。ただ、彼女の涙をこれ以上、俺のせいにしたくなかった。
 それが優しさなのか、逃げなのかなんて、もうどうでもよかった。ただ彼女のこれからに、俺という過去が傷として残ることが、それが何より、怖かった。
 それでも、彼女の中にまだ、自分を想う感情が残っていたことを知ってしまったがゆえに余計に自分の存在が��罪�≠フように、感じられていく。

 歩きながら、俺は心の中で、何度も彼女の名を呼んでいた。その名は誰にも聞こえないように、ただ風の中に溶けて消えていった。そしてポケットの奥には羽根が一枚残っていた。彼女をかばって落としたのとは別の一枚。本当は手渡したかった。「あなたの痛みを分けてほしい」と、言葉にする代わりに。だけど、渡せなかった。この羽根にはもう触れられないということを彼女の背中があまりにも静かに、俺に教えていたから。
 それでも——今も俺は、彼女の涙がこの世界のどこかにあることを心のどこかで祈ってしまっている。どうかその涙がいつか、誰かの手によって癒されるようにと。そして願わくば、それがまだ俺であったらいいと。
 叶いもしない希望を、風に紛らせながら、また俺は、空を飛ぶ。

 俺はいつも感情を隠すために笑っていた。風のように軽やかで、掴ませない言葉ばかりを選んできた。それでも、どうしようもなく彼女を想っていたことが身体に、明確な変化として現れてしまう。羽根が、うまく収まらない。いや──正確に言えば、しまおうとするたびに、何かが引っかかって、思うように動いてくれなかった。
 こんなこと今まで一度もなかった。戦闘の最中だろうと、潜入任務の最中だろうと、俺の羽根はその��命令�≠ノ従うように、正確だった。それが今夜は、背中からひとすじ、外気に触れたまま、戻ろうとしなかった。
 シャワーを浴びて、冷水で身体を引き締めてもソファに座り込み意識を整えても、羽根はずっと微かに震えるように揺れていて。
 わかっていた。理由は、ひとつしかなかった。あの人を、泣かせてしまったからだ。あの声も、あの背中も全部。忘れようとしても身体が忘れてくれなかった。

「こんなんで、終わりとうなか……」

 思わずひとりごとのように呟いていた。部屋のなかに、人の気配はなかった。俺の声だけが壁に反響して、静かに自分へと戻ってくる。
 彼女は、もう俺の名前を呼ばなかった。それは拒絶の意思ではなかった。たぶん、名前を呼んでしまったら自分の中のなにかが壊れるとわかっていたから。そして俺もまた、もうこれ以上、追いかけたらいけないと、どこかで理解していた。
 ……でも、言葉にできるか?この心の痛みを、仕方なかったとか、もう過去のことだ、なんて、言えるか?無理だ。口元は笑っても、胸の奥ではずっと何かが、鳴っていて。背中を向けて歩いたとき風が俺の肩を押したのを覚えている。それはたぶん、あの人の涙の匂いを風が運んでくるのを俺が、拾ってしまったせいだった。羽根をしまえないのはきっと、そのせいだ。まだ終われない。でも、もう触れてはいけない。その矛盾のなかで俺の身体は、彼女を求めることをやめてはくれなかった。

 ふと、窓の外を見る。羽根の先端が、ガラスに薄く触れる音がした。誰もいない、夜の街。そのどこかに、彼女はいる。何も言わず、泣いたまま言葉を飲み込んだ彼女がいまもこの街のどこかで夜を迎えている。だから今夜は、もう飛ばない。この羽根を、どこへも向けることができない。
ただ、しまえなくなった羽根を抱えたまま静かに夜が終わるのを待つだけ。


 *


 私は出版社を退職後、地元の不動産賃貸会社へ転職していた。営業職として働く現在は、以前のような華やかさはないものの人と日々関わる地道な仕事に、不思議と心の安定を見出している。
 この日、受付のフロアに響いたドアベルの音を聞いても私は最初、特に何も感じなかった。中心市街地の駅近。近頃は人の出入りも多く、夕方の時間帯は、常に対応に追われている。だからその日もきっと誰かがパンフレットだけ持ち帰るか、あるいは、仮契約の問い合わせか。そんなふうに思っていた。でも名前を聞いたとき手元のペンがかすかに止まった。

「──鷹見さま、ですね。……おひとりでお越しですか?」

 我ながら、よく声が震えなかったと思う。仕事用の笑顔と、業務的な語調。それだけでなんとか自分を保っていた。目の前に立つ男は、変わらず整った顔立ちをしていた。けれど、前に見たときより少し輪郭が細くなったようで、黒いロンTの袖口から覗く手首の骨が、なぜかやけに、印象に残った。そんな彼は、淡々と首を傾けた。

「……偶然って、あるもんなんですねー。まさかこんなとこで会うとは。びっくりしました?」
「特に。こういう仕事ですから」
「そっか……不動産屋さんで働いてたんですね。編集の仕事、もう辞めちゃったんです?」
「……ええ、少し前に。」

 そう答えた自分の声が、どこか、他人のもののようだった。会ってはいけない。心を揺らしてはいけない。この人は私にとって��過去の人�>氛氓クっと、そう言い聞かせてきたのに。

「本日は、どのような物件をお探しでしょうか」
「……転居を考えてて。今より、もう少し静かなとこがいいんです。防音と防犯がしっかりしてるところ。ね、今のご時世ですし」
「……」
「あ、そうだ……あと、窓、大きめで。できれば高層階が希望です」
「……と、言いますと?」
「ほら、俺……飛ぶんで。窓から出入りすること多くて」

 それはもう事務的に処理すべき依頼のひとつに過ぎなかった。ヒーローからの問合せはこれまでにも何件か扱っており特別に驚くようなことでもない。私は習慣のように指先を動かし彼の挙げた条件をもとにいくつかの物件を検索して、いくつかの間取り図を、プリントアウトする。音もなく排出されていく紙の列を眺めながら、なるべく、何も感じないように努めていた。その間、彼は、ほとんど何も話さなかった。でも、沈黙の中にも何かを待っているような気配があった。

「こちらの物件、立地的にも環境的にも安定していて、ご希望に近いかと。内見をご希望であれば日時を……」

 淡々と、そう、言いかけたときだった。

「あなたが、内見付き添ってくれるんですか?」

 私の手が止まる。顔を上げられなかった。でも言葉だけは落ち着いた調子で返した。

「申し訳ありませんが、当社では男性のお客様の場合、女性スタッフの一人での同行は控えさせていただいております。原則として──」
「じゃあ、二人で来てください。あなたと、誰かもう一人」
「申し訳ありません、それも……判断は営業管理の──」
「じゃあ、あなた一人に、来てほしい。」

 その言葉には、もう��お客様�≠ニしての線が、引かれていなかった。敬語でもなく他人行儀でもない。ただまっすぐに『あなたに会いに来た』、その声だった。私は唇を閉じた。喉の奥で言葉がつかえていた。だめだ──こんなことで揺れてはいけない。たかが、物件案内。仕事の範囲。私はもう、彼のことなんて……

「……どうして、そんなことを、言うんですか」
「ん?そりゃあ、物件を見たいだけじゃないからですよ?」
「……」
「だって、住む場所ってさ、つまり生活でしょ。俺にとっては生活っていうと、どうしても、思い出すんですよねー。あなたがいた部屋のこと」
「……」
「ほっとするって、ああいうのを言うんだろうなって。だから俺は、あなたに来てほしい」
「……、」
「一緒に部屋を、見に来てください。」

 呼吸が止まった気がした。彼は、ただ微笑んでいた。どこまでも穏やかに。けれどその笑みは、少しだけ、何かに怯えるような表情でもあった。偶然という名の嵐の前で、私はただ、立ち尽くすしかなかった。彼の言葉が宙に浮かんだまま熱を持って私の耳に残っていた。

 『だから俺は、あなたに来てほしい』

 そのひとことに、どれほどの想いが込められていたかは、もう説明されなくても、わかってしまっていた。でも私は、目を逸らした。

「……それでも、私は付き添えません。」

 その言葉は、心を引き剝がすように出てきた。声は冷静だった。けれど、内側ではひどく乱れていた。羽根に触れた記憶。背中を向けて去った、あの夜のこと。彼の目の奥に宿っていた、あの『なぜ泣いているのか』という問い。あれを思い出すだけで、膝がわずかに震えていた。
 彼は一瞬、視線を下げた。けれど、すぐに顔を上げて、私の目をまっすぐ見た。

「なんで突然こんなに偶然が続くと思います?」

 その言葉は決して問いかけではなかった。むしろ、気づいてくれ、という、願いのようだった。

「街で羽根が届いたあの日も。騒動のあとのあの視線も。再会した夜も。そして今日俺があなたの職場に来てうっかり本名を出したとき、あなたはそこにいた」
「……」
「俺の本名が、公には出てないこと、知ってますよね?」
「……」
「どれだけ変装してもあなたは、俺を見破った」

 彼の声は、抑えた熱を含んでいた。ひとつずつ言葉を拾うように、間を置きながら。

「これって、運命なんじゃないんですか?」

 彼の目があまりにまっすぐで私は一瞬、言葉を返せなかった。そんなもの、信じてはいけない。信じてしまえば、すべてが崩れる。ようやく積み上げた日常が、彼のひとことですべて吹き飛ぶ。
 私はもう、あの夜のあとに、自分を守るための��普通�≠�選んだはずだったのに。だから私は、微かに唇を噛んで、ふるふると首を振った。

「偶然なんて……いくらでもあるよ。運命なんてそんなふうに簡単に、言葉にしないでください」
「じゃあ答えてほしい。俺のこと、もう、何とも思ってないんですか?」

 私は、答えなかった。答えたら、泣いてしまいそうだったから。彼のその問いはただの確認じゃなかった。彼自身が、もう一度だけ信じたかった願い、そのものだった。
 空気が沈む。コピー機の動作音が遠くでかすかに鳴っていた。世界はまるで何事もなかったかのように働いていた。でも私たちの間には、過去という名の火種が、またくすぶり始めていた。

「ご案内できる別の担当を、後ほどご紹介いたします。本日はご来店、ありがとうございました」

 そう言って、私はひと礼をして、背を向けた。振り返らなかった。ただ、心の中で何度も叫んでいた。なんで、今また、あなたなんかに、会ってしまったんだろう……と。

 名前では呼ばれない恋がまだ終わらないままでいる。自動ドアが閉まる音が、妙に重く響いた。それはまるで世界との接続が一時的に遮断される瞬間のようだった。
 ホークス──いや、鷹見啓悟が去ったそのあとも、私は数秒間、受付の姿勢を崩せずにいた。
 椅子に腰を下ろし、無表情のままモニターを見つめる。口角は微かに上がっていて、完全に客前の顔を保っていた。けれど胸の奥では何かがひどくきしんでいた。

 『運命なんじゃないんですか?』

 あの声が、鼓膜の奥で幾度もリフレインする。あの眼差しが変わらずまっすぐで、どうしようもなく切実だったから。だからこそ私はそれを壊すように拒絶した。あれ以上を許せば、きっと私はあの人の手にまた戻ってしまう。
 ──泣いちゃだめ。ここは職場。あなたはもうただの事務員で、彼の��関係者�≠カゃない。そう言い聞かせながら、手元の資料を閉じた。けれど指先がかすかに震えていた。視界の端が熱を帯びて、にじんでくる。瞬きをしても吸い込んでも、こぼれてしまうものは止められなかった。
 私はそっと、パーテーションの奥に身を隠し、深く息を吐いた。マスクの下で唇を噛み頬を伝う涙を、誰にも見られぬように手の甲で拭った。
 彼が言った。『あなた一人に、来てほしい』の言葉。それだけのことが、こんなにも、胸を痛くする。どうしてまだこんなふうにあなたを想ってしまうんだろう。私は自分が守りたかったものをもう一度、自分の手で崩しかけていた。

 それから数日後の午後、曇りがちだった空が、急に晴れてきた日だった。
 昼休みの終わり際、店舗の裏口に見覚えのある人影が立っているのを見つけた。──まさか、と思った。けれど、その人はちゃんとこちらを見ていて、黒いキャップのつばをわずかに上げながら静かに手を振った。それはナンバーツーヒーローホークスだった。私は、制服の胸元に手を置いたまま、言葉を探す。

「……また、お部屋探しに?」
「ううん。今日はヒーローじゃなくて鷹見啓悟として来ました」

 冗談めかした調子。けれど、その目は、笑っていなかった。

「ただの俺として、もう一度……あなたに会いに来たんです。」

 その声は不思議なくらい素直で、まっすぐだった。風が吹く。髪が揺れ呼吸が乱れる。ぐらりと気持ちが傾くのが自分でもわかる。──まずい。この人の言葉に、感情に、もう引き戻されるわけにはいかないのに。

「なんか、あのとき、ほんとうに言いたいこと、言えてなかった気がして」
「……」
「だからもう一回だけ、ちゃんと向き合いたかったんです。仕事抜きで、ね。」

 私の胸の奥で何かがふわりと緩んだ。それでも警戒心は、簡単には消えなかった。私は少しだけ肩をすくめて言った。

「……こうやって来るの、ルール違反ですよ」

 彼は、困ったように笑った。

「でも、そうでもしないと、あなたの『はい』が一生聞けない気がして。……聞けなくても、俺はそれでもよくて」

 再び風が吹く。彼の羽根が一枚かすかに揺れたのが見えた気がした。それは、あの夜に残された羽根と同じ色をしていた。

「……わかった。一度だけ話を、聞くだけなら」

 そう言ったとき自分の声が思ったよりも静かで震えていたことに気づいた。彼は、何も言わず、ただ、深く息を吐いて、ほっとしたように、目を細めた。その仕草が、かつて、私の部屋で毛布を肩にかけたあと、あたたかさに包まれて眠りかけた、あの夜の彼と同じだった。

 向かい合ったベンチ。人気のない公園の片隅。夏の終わりの虫の音と蝉の残響の中で彼は言葉を選びながら静かに、けれどどこか熱をこめて話し始めた。

「……俺、ずっと思ってました。あの夜のこと」
「……」
「なんであんな急に突き放されたのかも、なんで泣いてたのかも、全部わかんなくて。」
「……」
「でも、いまなら、なんとなく見える気がするんですよね」

 彼の言葉にはどこか子どものような素直さがあった。人懐こく、どこまでも柔らかく笑うくせにその奥にある本音だけはいつも、絶対に簡単には見せようとしなかった人──そんな彼が、いまはもう、何も隠さずにすべてを差し出すような眼をしている。

「俺、あなたのこと、まだ……ちゃんと好きなんです」
「……」
「仕事とか立場とか、そういうの全部取っ払ってただの俺として、それだけ言いに来たんです」

 言葉のひとつひとつが胸の中の古い引き出しを開けていく。もう触れないと決めていた記憶たちが、ざわざわと音を立てて蘇る。でもそのとき、ふっと、あの封筒の活字が脳裏をかすめた。

【ホークスとの接触は、控えていただくよう警告します。これはあくまで��要望�≠ナはなく��最終通告�≠ナす。】

 ヒーロー公安委員から届いた通告書。あの夜、泣きながら彼を追い出した理由。彼の未来を私が汚してはいけないと、本気で信じていたから。
 私は、膝の上で手を握りしめた。ほんとうは、寄りかかりたかった。泣きそうだった。でも涙が出るより先に、言葉が口をついていた。

「……やっぱり、あなたと、これ以上は……」

 想いを断ち切るように言って、立ち上がろうとした、そのときだった。

「待って、名前さん。」

 彼が強く、でもどこか切実に私を呼び止めた。私は思わず動きを止めた。視線を合わせるのが、怖かった。けれど彼はひと呼吸置いてゆっくりとした口調で言った。

「俺にできないことなんてない。ナンバーツー、舐めんでくださいよ」

 その言葉には笑いも、軽口もなかった。ただ、本気の声だった。
 誰かを守るために、国家のために、その羽根を削ってきた男の、初めて自分のために言い切った悪あがき。ただ一度の、我儘。

「……チャンスをください。俺、ちゃんとやって見せますんで」

 その声には、いつもの飄々とした調子がなかった。軽く笑ってごまかすこともせず、まっすぐに私を見つめていた。視線を逸らすことすらできずに、私は沈黙した。

「ちゃんと……あなたに、もう一度、選んでもらえるようにしますから」

 私は唇を噛み、どうにか声を絞り出した。

「ホークス……、あなたは……まだ若い。」

 途端、彼はわずかに眉を動かし苦笑に似た顔を浮かべた。

「は?なんそれ。そんな歳、変わらんでしょう」

 どこか、拗ねたような口調。けれど、それは、あまりに幼くて、胸が痛んだ。私は、ゆっくりと首を横に振った。

「ううん、そういうことじゃないの。あなたは、あなたの��使命�≠�しっかり果たしてくれれば、それでいい」

 たとえ私の手が届かなくても。たとえ私の側にいなくても。あなたが誰かの希望である限り──私は、あなたを邪魔するわけにはいかない。そう言い聞かせるように、私は言葉を閉じた。けれど彼は、怯まなかった。

「果たしてますよ。……だから、来たんじゃないですか、俺。」

 その一言が思いのほか重かった。使命を背負いながらも、私に向かって歩いてきたという事実がどうしようもなく胸を打った。
 私はそれ以上、何も返せなかった。指先もまぶたも、声も。どれもが彼の言葉の余韻に縫い留められていた。その場に立ち尽くしているあいだに彼は小さく息を吐き最後に微かに笑って言った。

「俺から、逃げられると思わんでくださいね……今度は、俺の番なんで」

 そして彼は背を向けた。夕焼けが、彼の背中を静かに照らしていた。羽根が夜風に揺れながら、小さく震えていた。その姿を私はただ見送ることしかできなかった。けれど彼の言葉だけが、心のなかに、いつまでも残っていた。
 ��追う者�≠ニ��逃げる者�≠ェ静かにすれ違う。そうだった。きっと人生なんて、そんなものだ。


 *


「で、用件はなに?」

 その声は、変わらず無機質だった。公安本部、会議室D。四方を、厚いコンクリートに囲まれたその空間でただ一人、書類に目を落としたままの現、会長が、俺の来訪を受けていた。あえてこの会議室を選んだのは、紛れもなく俺の判断。

「俺の、個人的な話をしに来ました」
「それをわざわざここで?」

 顔を上げることなく返される言葉。それでも、一歩も引かずに、背筋を伸ばして言った。

「俺が過去に、付き合っていた女性のことです」

 ページをめくる手がピタリと止まった。やがて視線がゆっくりとこちらに向けられる。氷のような眼差し。あらゆる感情の介入を許さない、それが、この人のやり方だった。

「まだ繋がっていたの?……彼女とは」
「いいえ。繋がってない。でも俺は、もう一度、会いたいと思ってます。それを、公私混同と言うなら、甘んじて受けます」
「……」
「でも彼女は何も悪くない。だから接触するなという命令、解除してほしいんです」
「あなたがいま言ったことの意味わかってる?」

 会長の目が、ほんのわずかに細くなった。

「公安直属の諜報ヒーローとして感情の繋がりを持つことがどれほどの危険を孕むのか、まさか、忘れているとは言わないわよね?」
「……」
「彼女は一般人。しかも、一度は明確にあなたと別れた過去がある。その判断はあなただって承知していたはずでしょ」
「知ってます。……全部、わかってますよ」

 俺は頷いた。しかし、その声に、揺らぎは一切なかった。

「でも、俺は──あの人を守れなかったことを、いまだに後悔してるんです」

 会長の眉がわずかに動いのを俺は見逃さない。

「任務じゃなくて、個人の後悔?それでこの席を使うなんてホークス、あなた、何様のつもり?」
「俺は、ナンバーツーヒーローです。そう呼ばれてるあいだずっと��個�≠�押し殺してやってきました」
「……」
「でも、今は違う。誰かに命令されたから好きになったんじゃない。だから彼女にもう一度ちゃんと向き合いたいと、俺の意志でここに来ました」

 沈黙が落ちる。室内の空調の音だけが、どこか遠くに聞こえる。その沈黙を破ったのは机越しの冷たい声だった。

「いいえ。許可できません。私情を優先するあなたの状態が、いま最も不安定だと判断するわ」

 その言葉を、俺は真正面から受け止めた。胸の奥で何かが軋む音がした。それでも俺は笑った。穏やかに。けれど、その静けさの裏側にどうしようもなく込み上げてくる怒りにも似た熱が確かにあった。だから笑わなければきっと何かが壊れてしまいそうだった。

「わかってます。……でも、それでも、伝えたかった」
「……」
「たとえここで否定されても、俺の足は止まらない」
「それは、命令違反を意味しますよ」
「それでも、あの人の幸せと引き換えにするくらいなら俺は��鷹�≠フ資格なんていらないですね」

 その言葉に会長の目が一瞬、見開かれる。俺はそれ以上なにも言わなかった。黙って深く一礼をして、出口に向かう。そして扉の前、俺は小さくつぶやいた。

「……俺は、失ったままじゃ、終われないんで」

 静かにドアが閉まり、その瞬間、外の喧騒も、内側の気配もすべてが断たれた。まるでこの世界に自分ひとりだけが取り残されたみたいだった。それでも俺は思っていた。生きて、あの人を守りたい。たとえ隣にいられなくても。たとえ、声が枯れ果てて届かなくても。そう思うことすらもう許されないのかもしれないけれど。それでも俺はもう彼女を手放すつもりなんて一度だってない。


 *


「……で、どう動くおつもりですか?」

 会議室奥、関係者以外立入禁止の階層。公安の中でもごく限られた人間のみが知る内密ルートでふたりの職員が小声で交わす会話があった。その声の主のひとりは会長。ホークスの彼女に、接触禁止を下した張本人。

「何もしないわけにはいかない。あの男は個人の意志で動き出すタイプよ。感情の処理が、甘い。放っておけば、誰かを本気で傷つける」
「ただの一般人との接触に、ここまで介入を?」
「ただのじゃないわ。過去に公安の記録に名前が載った。しかも相手はナンバーツー。現場判断に委ねられる範囲じゃない」

 机の上には彼女の現在の居住地と勤務先、過去の同居記録、そして、先週の再接触記録が細かくまとめられていた。

「本件は、公式な監視対象とはしない」
「……」
「けれど、動きがあれば、即時報告を。」

 静かな指示。記録上は該当なし、だが実質的な行動監視の開始。動きすぎれば彼女にまた、圧がかかる。抑えすぎればホークスが暴発する。そうした読みのなかで公安は、水面下の睨みを強めていた。
 会議室の奥、会長は手帳を閉じて立ち上がると誰にも向けずに呟いた。

「人を愛する力があるヒーローは、脆い。でも、だからこそ、使えるときは徹底的に使う。それが国家の都合というものよ」

 そして、その動きはやがてあの彼女の身にも、じわじわと、影を落とし始める。誰の目にも見えないところで、風は動き出していたのだった。


 *


 昼下がり、曇りがちだった空に一筋、強い陽光が差し込んでいた。店内の照明よりもまぶしく、ガラス越しに差す光は、書類の文字を読みにくくさせるほどだった。
 入り口のドアベルが控えめに鳴ったのは、ちょうど、お茶を淹れに立とうとした瞬間だった。

「いらっしゃいませ。ご案内いたしま──」

 言いかけて、私は一瞬、言葉を止めた。スーツ姿の男性。整えられた、灰色の髪。一見すれば、どこにでもいそうな中年の男性。だが、そのガタイのよさと、無駄のない動き、やけに訓練されたような姿勢の正しさ。目元に、うっすら刻まれた皺は柔和にも見えたが、どこか演出された優しさのようにも思えた。その身のこなしと、やけに、癖のない所作に私は、直感的に「この人は一般人ではない」と思った。

「少々、物件のご相談を……」

 低い声でそう言って男性は名刺も出さずに腰を下ろした。名乗らない来客。だが、それを咎めるべきではないという空気が何よりも濃厚に漂っていた。

「もちろんお伺いします。法人向けでしょうか?どういった条件を、ご希望ですか?」

 努めて業務的に返す。だが男性は、物件の話を一切進めずふとカウンターに置かれた内見報告書を、指でなぞるように見つめた。

「最近──ヒーロー関連(・・・・・・)の顧客は、増えておりませんか?」

 その問いに、私は表情を変えずに言った。

「特別な記録は残しておりません......一般の方として、ご案内しているだけです」

 男性は、やや微笑んだ。けれど、その笑みには体温がなかった。

「記録に残らないということは案外、誰かの身を守る最良の手段でもあります。けれど同時に──本人の意志ではどうにもならないこともありますよね」

 私の手の中のペンが、わずかに止まった。

「恐れ入りますが……お話が物件から逸れているようでしたら、お時間を頂戴するのは……」
「いえ、すぐに帰りますよ。ただ、ひとつだけ。確認をさせてください」

 男性はふと、窓の向こうに目をやった。まるで誰かがこの様子を遠くから見ていることを、分かっているような仕草で。

「……あなたが、��彼�≠ニ再び関係を持つようなことがあれば。それは��彼�≠フ立場を大きく揺るがす可能性がある。」
「……」
「あなたのことを心配してのお話です。どうか、お気をつけて」

 優しい──口調だった。でもそれは、明確な、��圧�≠セった。私は何も答えなかった。ただ少しだけ視線を落として頷くような動きだけをした。それを最後に、男性は立ち上がった。

「いい風(・・・)が、吹くといいですね……。では、失礼します」

 ドアベルがもう一度、鳴る。午後の光が揺れ、彼の背中を白く透かしていた。そのあと私は少しだけ震えていた指先を握りしめ、業務用のボールペンを無理やり紙に押し当てて記入を再開した。
 彼の名前は、記録に残らなかった。けれどその声だけは、私のなかに深く染みついていた。

 背中を向けて歩いていく男性の姿が、ガラスのドアの向こうで小さくなっていくのを見たとき、私は、自分の足が勝手に動き出しているのに気づいた。理性が叫んでいる。やめろ、と。追うな、関わるな──と。
 でも、それよりも先に、何かが破裂していた。コンクリートのビルの谷間を抜けるように、私は男性の背を追いかけた。ビルの角を曲がった先、日陰に佇むその背中を見つけたとき、もう、喉の奥から声が漏れていた。心を守るために封じ込めてきた全てが、決壊する。

「……なんなんですか、あなたたちは!」

 男性がゆっくりと振り返る。けれど、その表情には驚きも怒りもない。ただ聞く耳を持つという仮面だけが、冷たく貼りついていた。私は止まれなかった。息が上がり、声が震えているのが分かっていても、もう何も、抑える術を失っていた。

「国家とか、権力とか……そんなの、私には関係ありません! 私なんて、ただの一般人なんですから!ただ、ただ──」
「……」
「ただ、彼と出会って……恋をして……」
「……」
「彼を、心から……愛していました……。」

 喉が焼けるように痛かった。肺の奥がひりつくほど、吐き出すように言葉を紡いだ。

「彼が笑って一緒に紅茶を飲んで、疲れて帰ってきたときに、ソファで眠って……」
「……」
「そんな日常が、私には……たったそれだけが、宝物だったんです……」

 男性の表情が、かすかに翳った。私は続けた。もう、止まれなかった。

「それをあなたたちが、終わらせろって命令してきたんでしょう? 会うな、関わるなって──」
「……」
「私の人生の一部を、勝手に奪ったのは、あなたたちじゃないですか……!」

 涙が頬を伝っていた。それを自分でも気づかないほど、身体中までもが火照っていた。

「もういい。もう関わりたくない。あなたたちの都合も彼の背負ってる重さも、もう全部──聞きたくない」

 男性は静かに私を見つめていた。まるで「それで?」とでも言うような無言の圧。私はそれを、正面から睨み返し最後のひとことを吐き捨てた。

「彼とは──二度と、会いませんから。」

 その声は乾いていた。自分でも信じたくなかった。でも言わなければ終わらなかった。私はその男性に背を向けて歩き出す。足元が、ふらつく。でも、振り返りはしない。もう自分の涙を誰にも見られたくなかったから。


 *


 公安の書類階で「確認をお願いします」と呼び止められたのは任務報告の帰りだった。正確には��呼び止められた�≠ニいうより、「この件だけ、目を通しておいてください」と、無言で渡された端末になぜか既視感のある記号名が走ったことがすべての始まりだった。

 【C—04:非公式接触記録
  第三者対応ログ(録音)】

 公安のデータベースにおいて、非公式とされるものの大半は後日揉み消されるか、鍵付きで封印される。それが、閲覧可能になっている時点で、誰かが、あえて��見つけさせようとしていた�≠ニ考えるべきだった。
 俺は気づいた。けれど再生ボタンに指を伸ばす自分を、止めることはできなかった。スピーカーから流れたのは──彼女の、声だった。それは、彼女の��余所行きの声�≠ナはなかった。感情が、むき出しになっていて息が荒く、喉が、痛むほど叫んでいて、それでも俺の名は一度も呼ばずに、必死で愛していたことを、吐き散らす声だった。

『ただ、彼と出会って恋をして……彼を、心から愛していました』
『それをあなたたちが、終わらせろって命令してきたんでしょう? 会うな、関わるなって──』
『彼とは──二度と、会いませんから。』

 その言葉で再生は終わった。デスクの上、手のひらが、小さく震えていた。無表情で聞いていたはずなのに、気づけば指が強く食い込んでいた。爪が折れそうになるほど、拳を握っていた。
 彼女の声が、あまりにも近くて。けれど、その声が向かっていた先には、自分はひとつもいなかった。

「やっぱり……そーいうことね。」

 誰に向けたわけでもない。ただ喉の奥から漏れ出た、それだけのひとこと。あのとき、ちゃんと彼女に伝えていればよかった。公安がどうとか、国家がどうとか、そんなものより先に──彼女の不安や孤独に、手を伸ばせていたら。
 その声を、音を、震えを、避けることができなかった。誰よりも早く飛べるはずの男がひとつの録音の前で立ち尽くす。胸を抉られ、何もできなかった自分に、打ちのめされる。

 音源の最後、彼女の足音が遠ざかるのが聞こえていた。あの音は、まるで、自分から逃げる音にしか聞こえなかった。それなのに自分は何も知らずに「チャンスをください」なんて言っていたのだ。俺は俯いたまましばらく声を出せなかった。あんなにも、まっすぐに愛してくれていた人を、無力さゆえに置き去りにした。それが、ナンバーツーの現実だった。


 *


「……泣いてましたね、彼女」

 会議室の照明が、静かに灯る。窓のない部屋。鉄の壁。冷たい空調音。端末に再生された録音の最後を聞き終えた会長は、まるで、研究対象でも眺めるような口調で言った。

「怒り、涙、拒絶。そして、二度と会いませんという明言」
「……」
「──興味深い情動ね。」

 机の上には、新たな対外抑止プランの一枚紙が広げられていた。その表題は、こうだ。

【対象人物に対する非接触状態の心理誘導効果/抑止策適用案】

 その名の通り、彼女が自らホークスを拒絶し、距離を取ろうとする今こそ、あえて、介入しないことで、ホークスの、心理的牽制に利用できる、という方針だった。

「彼女があそこまで自分の意思で関係を断とうとした。それを抑止装置として、逆に使わない手はないわ」

 横に控える補佐官が、迷いを含んだ声で問う。

「ホークスが……録音を聞いたことも想定済み、ということですか?」
「当然よ。彼にあれを見つけさせるように動いたのは私。彼の私情を叩くには、本人に事実を突きつけるのが最も効く」

 その言葉には冷たさではなく、ただ綿密に積み上げられた、計算だけが滲んでいた。

「彼女を守るために離れるべきだという彼自身の罪悪感を利用するのよ」
「……」
「愛した人に拒絶されたと思い込ませれば、彼はもう一歩、こちらの望む��制御�≠ヨ進む」

 誰もが黙り込む。けれど、その手法があまりに理に適っていることは否定できなかった。会長は手帳を閉じ、静かに立ち上がった。

「��愛�≠フ記録は、抑止の材料になる」
「……」
「二人の関係を、無理に終わらせる必要はない。ただ彼女を人質にしなくても彼は勝手に離れると思わせればいい」
「……」
「それが今後のナンバーツー制御方針。非干渉による、自滅誘導よ」

 その場に一瞬、誰も息を呑む音さえ漏らさなかった。密室に満ちるのは、冷たい知性の匂いと、確かに始まりかけた、崩壊の予感だった。


 *


 あの録音を聞いたあと、確かに俺は、もう会わないべきだと思った。彼女の涙。怒り。そして、声を震わせながら吐き捨てた「彼とは二度と会いませんから」と言った、あの言葉。あれが、本心なら、それが、彼女が自分で選んだ結論なら俺はもう、ちゃんと諦めていた。でも、違った。どう考えても、違っていた。あんなふうに誰かにぶつけるように愛を叫ぶ声を��終わらせたい人間�≠ェ出せるわけがなかった。
 俺がいないところで泣いて、俺が知らないところで叫んで、それでも彼女は、俺の名前を一度も呼ばなかった。それがなによりの、彼女の優しさだった。彼女は俺を傷つけないように俺を置いていったんだ。こんな形で何も知らずに過ごすくらいなら、たとえ傷ついてもいい。ちゃんと、目を見て、終わらせたい。いや、違う……できることなら──終わらせずに、始め直したい。
 あれが本当の��さよなら�≠フ声なら俺はきっと立ち直れた。もう、その影を追うことはしなかった。その想いが胸を満たしたときには、もう俺は空を飛んでいた。

 窓越しに見えた姿に、心臓が跳ねる。彼女は、いつも通りの制服姿で静かにモニターを見つめ、顧客の応対をしていた。でも顔がどこか、こわばっていた。マニュアル通りの微笑みの奥にひどく張り詰めた空気が滲んでいる。俺はそのまま自動ドアを抜け、受付へ向かった。

「……いらっしゃいま──」

 彼女が顔を上げ、言葉を止める。目が、大きく揺れた。誰かの名前を探すように、何も言えずにただ、俺を見つめていた。

「……こんにちは。」

 俺はまっすぐに立ったまま、穏やかに言った。

「任務じゃありません。今日は俺個人の話です」

 周囲に、人の気配がある。監視されていることくらい、とっくにわかっていた。それでも彼女の顔が目の前にある今、俺はひとつも、それがどうでもよくなっていた。

「名前さん……、会いに来ました」
「……」
「録音、聞きましたよ」
「……、」
「全部、聞きました。」

 彼女の指先が震えた。声は出なかった。けれど目が潤んでいた。その目に、もう嘘はなかった。俺は、そっと声を落として訊ねる。

「二度と会わないって……あれ、ほんとうに言いたかった言葉です?」

 息を飲む彼女。そして小さく首を横に振った。その瞬間、すべてが報われた気がした。


 言葉を交わさないまま、しばらく時間が止まっていた。目の前にいる彼を、私はまだ名前で呼ぶことができなかった。ホークスでも鷹見啓悟でもなく、ただそこに立っている、それ以上でも以下でもないこの人を前にして、どうしても、名前を口に出す勇気が出なかった。けれど彼の声だけは私の名前を知っていた。心の奥に直接触れるような声で、真っすぐに言ってきた。たとえ、誰かに見られていても、たとえ、公安の記録に残ったとしても今この一瞬だけは私も嘘をやめたかった。
 
「……このまま、ここで話してもいいですけど、きっと、誰かが録音してる」

 わかってる。私ももう気づいてた。あの日からずっと。誰かに見られて聞かれて、図られていることを。でも私は、それに抗う気力さえ忘れて、自分の正しさばかりを選んできた。そんな私に、彼は言った。

「場所、変えません?」

 優しい、提案だった。命令じゃない。引き留めでもない。ただ、私の答えを待つための、静かな言葉だった。

「……今じゃなくてもいいです」
「……」
「でも、ちゃんと、俺と向き合ってくれるなら、最後に一度だけでいい」
「……」
「ふたりきりで話せる時間、もらえませんか?」

 ��ふたりきりで�>氛氓サの響きが、怖かった。なぜなら私は、そうやって、ふたりきりになったとき、また彼を好きになってしまう自分がわかっていたから。
 だけど、それでも。もう、一度くらいは、あのときできなかった『ちゃんと向き合う』を、してみたかった。私は小さく息を吸い、頷いた。

「……わかりました。時間……つくる。」

 声が震えた。でも彼は責めなかった。何も言わず、ほっとしたように、ひとつ深く息をついた。

「ありがとう。……じゃあ、また来ますね」
「……」
「いつでもいい。あなたが準備できたら、それで。」

 私は、それ以上なにも言えなかった。ただ彼が帰っていく背中を見送った。今度は、泣かずに。


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