再会の約束をした翌日から、私は、妙な緊張のなかにいた。
 あの日、彼の背中を見送ったとき、私の中には確かにまた彼に会うという意志が生まれていた。そしてそれは、何年かぶりに私が『自分で選んだ未来』だった。
 でも、それを試すように、彼らはやってきた。アポなしで職場に現れた一人の女性は名乗らず、ただ、こう言った。

「あなたに、お時間をいただきたいだけです」

 そして私の昼休み、ビルの裏手、誰も通らない非常階段脇の小さなベンチに誘導するようにして座った。彼女はあの男性と同様に名刺も提示せずただ膝の上に手を重ねて、まるで通院中のカウンセラーのような柔らかさで言った。

「彼と、会う予定があると聞きました」

 声は低く、そして正確だった。私はなにも答えなかった。しかし彼女は淡々と続ける。

「……彼はいま、本当に危ういところにいます。対ヴィラン潜入、外部交渉、政治案件。どれも、背中ひとつで抱えてきた」
「……」
「それを支えてきたのは、彼自身の切り離し能力でした。感情や私情を全て、遠くに置く力です」

 その言葉の意図はすぐにわかった。この人は、私が彼にとっての��遠くに置くべき存在�≠ネのだと、告げに来たのだ。

「でもあなたは、今、そこへ戻ろうとしている。何が起こるか、わかりますね?」

 ──あなたの存在が、彼の��弱点�≠ノなる。
そう言われているのだと、私はすぐに理解した。彼女は微笑んだ。冷たくもなく、優しくもなく、ただ、そこにいる、という表情で。

「彼はご存知の通り、何でもできる男です。でも唯一欠けているのは、自分の感情を捨てること。そしてそれが、最も彼を危うくする」

 私は唇を噛んだ。言葉を選びたかったけれど、何も浮かばなかった。代わりに彼女の声がさらに静かに降りかかった。

「……どうか、冷静な判断を。あなたが彼を想うなら、それができるはずです」

 彼女はそう言って最後まで名乗ることはせずに立ち上がった。そして私の隣にそっとひとつだけ薄い封筒を置いた。

「これはもしものときの連絡先です。困ったら。あるいは、迷ったら……」
「……」
「私たちは、あなたの敵ではありません」

 それは、命令ではなかった。けれど、選択肢という名の��圧力�>氛氈B
 その女性が角を曲がって消えたあと、私はしばらく、そこに座ったまま封筒を開けることもせずただ風に吹かれていた。

『それでも会いに行くのか。あなたのその感情が彼の足を引っ張るのだとしたら──?』

 言葉に出されなくても私の覚悟を砕くには十分な��圧�≠ニ��問い�=B公安の人々は、感情に訴えたり脅したりはしない。ただ静かに事実を提示し選ばせる。その冷たい手段に、私はまたしても、試されている。選ぶ自由などなかったはずの問いに今私は答えを試されているのだ。再会の夜は、もうすぐそこに、迫っている。


 *


 待ち合わせの場所に、彼はもう来ていた。時間より少し早く。それはたぶん、いつもの彼らしい誠実さだった。
 久しぶりに交わす視線、息遣い、あたたかさ。彼の目を見たとたん、心の奥で、かすかに溶けてしまった決意。本当は言わなきゃいけない、伝えなきゃいけない。でも、それを口にしてしまったら、ふたりの時間が、現実に飲み込まれてしまう気がして。言えずにいる言葉の重さだけが、手のひらに残っていた。
 いつものゴーグルも、ジャケットもなかった。ただのラフなシャツと細身のパンツ。服装だけはあまりに普通で、そのせいで余計に彼が目の前にいることが現実味を帯びてしまって、私は、胸の奥を、何度も深く吸い込むしかなかった。

「来てくれて、ありがとうございます」

 彼がそう言った声がやさしくて。何もなかったみたいに、あたたかくて。それだけで、私は少し泣きそうになっていた。
 並んで歩く。人通りの少ない遊歩道。静かな、ちょうどよい夜の湿度。
 言わなきゃ、と思っていた。あの女性のこと。あの言葉。封筒の中身……全部、ちゃんと、話さなきゃいけない。だってこれは、彼に関わることだ。私一人の問題じゃない。ずっと背中を向けていたのは私のほうで、だからこそ、今度こそは、ちゃんと向き合いたかったのに。
 でも、ふと横顔を見ると彼は少しだけ肩の力を抜いていて、どこか安心しているように見えた。

「こうして並んで歩くの、久しぶりですねー」

 たしかに。昔は当たり前だったことがいまでは特別に感じられる。それがなぜか怖かった。私は意を決して、言葉を紡ごうとした。

「あの、ね……。実は、今日……わたし……、」

 声が、かすかに震えた。彼が足を止める。私の方を見て「うん」と、うなずいてくれる。言っていい。聞くよ──そんな、眼差しだった。でも、いざ言おうとすると言葉にならなかった。伝えた途端、この夜が壊れてしまう気がして。彼がまた何かを背負ってしまう気がして……。
 私はただ、弱いだけだった。だから私は笑ってごまかした。

「久しぶりに歩いたから、少し疲れただけ……」
「そっか」

 彼はそれ以上は何も聞かなかった。でもたぶん気づいている。私が何かを、隠していることを。それでも彼は手を差し出してくれた。風がそっと吹き抜ける。その手を取ったとき私は思ってしまった。──言わなくていい時間も、あるんだと。けれどその代わりに私のポケットの中には未だに開かぬままの封筒が重く沈んでいる。また二人のあいだに��秘密�≠ェできてしまう。

 小さな橋を渡ると夜風が少しだけ強くなった。水の匂い、石の温度、遠くの車の音。街は、何も知らない顔をして動いている。けれど私は知ってしまっていた。この夜が、もう逃げられない夜であることを。
 並んで歩く彼の足音が止まったとき私の心臓は何かを確かに悟っていた。

「……名前さん、」

 彼の声はただ穏やかだった。どこにも棘なんてなかった。なのに──。

「ほんとうは、さっき……何を言おうとしてたんです?」

 その問いかけは私の胸をやさしく叩いた。突き刺すのではなく、撫でるように。逃げずに聞いてくれる人の声だった。私は、言葉を失った。喉の奥が、ぎゅっと詰まった。視界がぼやけていく。それが、涙だと気づいたのは、そのあとだった。その優しい問いかけに、抑えていた感情が崩れていく。あの日からずっと、心に溜めていた不安も怖さも、恋しさも。
 言えない。公安の女性が来たこともあの言葉も封筒のことも──本当は全部、包み隠さず話さなきゃいけないのに。でも私の口から出てきたのはまるで違う、もっと小さくてもっと弱くて、でもいちばん、今の自分の、本当の気持ちだった。

「……嬉しいって、思っちゃった……」

 彼が、息を呑んだ気配がした。けれど私は止まれなかった。言葉が、堰を切ったように、あふれ出した。

「啓悟くんと、また会えて、私……嬉しいって、思っちゃったの……」
「……」
「ほんとうは、そんなこと、思っちゃいけないのに……」
「……」
「関わらないって決めたのに、それなのに、私、嬉しいって……思っちゃったんだよ……っ、」

 手で顔を覆っても、涙は止まらなかった。声が震えていた。鼻も喉もつまって、うまく話せなかった。でも、それでも私は、言いたかった。この想いが、嘘じゃないってことだけは。
 次の瞬間、ふわっと風が動いて、気づけば私は彼の腕のなかにいた。強く、でも苦しくない力で抱きしめられていた。でも、その腕が、少しだけ震えていた。

「……俺も、嬉しいですよ。」

 彼がそう言った声が耳元に触れたとき私はもう堪えられなくて、身体の重心ごと、彼に預けて、泣いた。
 こんなふうに泣くのはいつぶりだろう。誰かに泣いている姿を見せるなんて、あの夜以来ずっと避けてきたのに。それでも彼は何も言わず、ただ抱いていてくれた。過去も立場も、怖れも全部、この腕のなかだけでは届かない。そんな気がしていた。
 彼の腕の中で泣きながら、私は、どうしようもない矛盾を抱えていた。もっとこうしていたいと思った。この腕の中にいたいと思った。何も言わず、ただ、彼の鼓動を感じていたかった。
 でも──このままではいけないという気持ちが背骨の奥で小さく冷えていた。それでも彼の声はどこまでも、あたたかかった。

「もう……離れるつもりは、ありませんから」

 その言葉が、どれほどの意味を持つのか。彼はきっと、わかっているのだと思った。公安に背くこと、職務に影響が出ること、仲間を、地位を、信頼を、傷つける可能性があることを。それでも彼は、静かに言った。

「俺は、自分の意志でここに来ました。あなたともう一度向き合うって決めた。だからもう、誰に何を言われても、離れるつもりはありません」

 ゆっくりとした言葉。一音一音が私の胸に深く沈んでいく。私は彼のシャツの胸元をそっと握りながら、言葉の代わりに頷いた。でも、それだけでは足りない。足りないことを私は知っていた。彼が、こうして真っすぐに言葉をくれた今、私もまた彼に��真実�≠�渡さなければいけなかった。
 言わなきゃいけないことがある。あの人が来たこと。あの封筒。そして選べと命じられたこと。
 彼の腕のなかからそっと身を離した。彼は何も言わず、ただ私の顔を見ていた。涙を拭った私の頬に、そよ風が吹く。

「わたし……まだ、言えてないことがある。」

 声が震えなかったのが、不思議だった。胸の奥では、あんなに怖かったのに。彼は少しだけ目を細めた。それは、私がこういうとき何かを隠しているのを知っている人の顔だった。
 私はバッグの奥から、白い封筒を取り出した。それを見た瞬間、彼の表情がわずかに曇った。

「たぶん……公安の人が来た。昼休み、職場に。女性の方、だった。」
「……」
「名乗りもしなかったけど。でも、たぶん……、ホークスも、知ってる人だと思う」

 彼は黙っていた。それでも、私からは目を逸らさなかった。

「その人に、言われたの。あなたの感情が、彼を壊すかもしれないって。冷静な、判断をって。」
「……」
「命令されたわけじゃないってわかってるけど、
……それでも、怖かった」

 風が止んだ。時間が、止まったように思えた。

「……だから、これだけは、あなたに渡しておきたくて」

 私は彼の手に、そっと封筒を乗せた。それは、ただの紙切れかもしれない。でもこれを渡すことで、私はようやく、自分を逃がすことができると思った。
 彼はそれを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。でも次に顔を上げたとき、いつもよりも少しだけ深い目をして言った。

「ありがとう。……話してくれて。」

 彼は黙って私の差し出した封筒を受け取った。重さはない。ただの紙だ。でも、それは、国家という名の組織の圧と、私の中の恐れと、いちばん奥の傷口が詰まった一枚だった。私は、その手を見つめていた。彼が、開くのか、それとも黙って持ち帰るのか、それさえわからなかった。でも、彼は予想とはまるで違うことをした。視線を封筒に落としたまま、ふっと息をひとつ吐き、そして静かに言った。

「こういうのに答える必要なんてないんですよ」
「……え?」
「あなたは、自由でいるべきだ。」

 次の瞬間。彼の指が封筒の端をつかんだ。紙が引き裂かれる音が夜に響く。まるで風を切る音のようだった。その音が、私の中の最後の鎖を断ち切った。息が止まる。彼は、一枚の手紙としての体裁を保っていたそれを迷いもなく破ったのだ。その動きには怒りも劇もない。ただ強い��意思�≠セけが、宿っていた。
 ビリ、と裂ける音が、小さく、でも確かに夜を割く。破かれた紙が、彼の指先から静かに舞い、街灯の明かりの中、地面に落ち、白い切れ端が、まるで誰かの手紙だったかのように風にすべって転がった。

「これであなたはもう何にも縛られなくていい」

 そう言った声は優しさでも怒りでもない、ただ静かに、ひとを守ろうとする、人間の声だった。

「何が書いてあっても俺には関係ない。読むってことは、従うってことですから。俺はもう、誰の命令も聞きません」

 何が書かれていても、読まない。もう誰の命令にも晒させない──そう言葉にしてしまうよりも先に、彼は行動でそれを伝えてきた。紙の破れる音が、夜の静寂にふたりの選択を刻み、私はその音を聞いて初めて、ほんとうに、ヒーローに守られたのだと感じた。
 私はようやく気づいた。あの封筒を渡したのは彼を守るためだと自分に言い聞かせていたけど、ほんとうは、私が守られたかったのだと。恐れも罪悪感も、すべてこの紙に託して逃げたかった。でも彼は、それごと抱きしめて、捨ててくれた。私は、涙がにじむのを止められなかった。こんなふうに守られるなんて、知らなかった。この人がいま、自分の全人生を使って私を肯定してくれたことを、私はきっと、一生忘れられない。

 紙の切れ端が風に運ばれていく。あんなに怖かった封筒の中身はもうこの世に存在しない。私はただ、呆然と立ち尽くしていた。彼は、私の前に立っていた。いつもよりもずっと真剣な目をしていて、それはまるで次の戦場の地図を胸にしまい込んだ、ヒーローの顔だった。

「俺ね、ずっと思ってたんです」
「ん?」
「何が戦いかって、人によって全然違うなって」

 彼が私を見て、ふっと目を細めた。

「あなたに会って、好きになって、でも離れて。それでも今こうして向き合って、思うんです」
「……」
「あなたと一緒にいること自体が、俺にとっては��戦い�≠セなって」

 その言葉は、不思議と重くはなかった。でも、ずっしりと胸に落ちた。

「だから、提案です」
「……てい、あん?」
「はい。一緒にいることを、戦うことに、変えてみません?」
「え?」
「逃げずに、黙らずに、誤魔化さずに。怒って、泣いて、笑って。それでも隣に立ってくれるなら俺は、どんな敵でも向かっていけます」

 私は、言葉が出なかった。何かを返したくて、でも、胸の奥が詰まっていた。彼は、そっと手を差し出した。拳ではなく、掌。戦うための手ではなく、誰かの手を握るための手だった。私の手はほんの少しだけ震えていた。でも、伸ばさずにはいられなかった。その手を取った瞬間、私の中で何かが静かに変わった。
 あなたと一緒にいることが私の戦いになるなら──これは、恋じゃない。これは、たぶんもう、運命だ。

「わたし……ずっと、怖かった。ホークスの……啓悟くんの邪魔になることが、一番怖かった」
「うん」
「でも、いまは……そうじゃないのかもしれないって、思える」
「うん……」
「私も......一緒に、戦ってみたい。あなたの隣でちゃんと、立ちたくなったの」

 彼が少しだけ笑った。その笑顔は昔の彼と同じで、でもどこか、痛みに近い強さを帯びていた。

「じゃあ、契約成立ですね」
「うん……」
「これは──共犯ですよ。」

 私たちは、手を繋いだまま、静かに夜の匂いのなかを歩き出した。何ひとつ誓わなくても確かにもう一度、歩みはじめた──ふたりとして。


 *


「封筒が──破られた、ですって?」

 冷えた声が室内を滑る。資料用モニターには、防犯カメラの切り抜き静止画。夜の遊歩道。ホークスの右手に封筒。次のコマでは白い紙片が真っ二つに裂かれ、足元に舞う断片だけが風に揺れていた。

「予測通りですね……」

 補佐官が声を潜める。言葉を選びながら、それでも慎重に続けた。

「……ですが、予想以上に��速かった�≠ゥと──彼女に封筒を渡したのが本日。もうその数時間後には処分の意思表示が、記録されてありました」

 会長はモニターから視線を外し机上の書類へと目を落としたまま、目元をわずかに細めた。

「なるほど。つまり、完全な覚悟というわけね」
「は……はい。ホークス側は明らかに命令からの自立を試みています。」
「……」
「一時の感情ではなく、継続的な、離脱の意志。もはや、説得や牽制の段階では……」

 その言葉を会長が手のひらで制した。静かに、しかし、明確な拒絶の合図だった。命令の破棄。それは公安にとって、ただの背信ではない。制御不能の予兆。ヒーローホークスという兵器が個人の感情を優先した今、組織は冷徹に、そして確実に、次の一手を打たねばならない。
 会長は無言のまま端末へと手を伸ばし、指先でキーボードを一つカチ、と叩いた。その音だけが妙に室内に響く。

「……あの二人の関係は、もはや、放っておける段階ではない。それだけは確かね」
「は、はい……」
「制御が不可能になった場合、どうするか。本来それが、私たちの次の課題よ」

 ゆっくりと立ち上がった会長は無言のまま窓際へと歩を進めた。ガラス越しに見上げた夜空には淡く滲む月のまわりを、灰色の雲が静かに流れていた。

「結局……止められなかったわね」

 その呟きは感情の読み取れない風のような声音だった。だがほんの一瞬だけ混じった��何か�≠ノ隣に立つ補佐官は、目を伏せた。それは、もしかすると諦念のような笑みだったのかもしれない。

「いえ……我々の力が及ばず──」
「いいえ、それは違う。」

 会長は視線を窓から外さずに、静かに言った。

「……止められるわけが、ないでしょう」
「……」
「彼の速度に。最初から、私たちが追いつけると思ったことが、誤算だったのよ」

 補佐官は黙って頷く。その腕には抱えたままの書類、提出予定だった諫止勧告は、未処理のまま今はただ静かに重さを帯びている。封をする必要も、もうない。その紙が意味を持たぬほどに彼、ホークスというヒーローは、先へ進んでしまったのだ。

「……好きに、させてやってちょうだい」
「了解しました」
「彼はきっと、私たちを裏切ることはしないわ」「ナンバーツーの意地……見せられましたね」

 誰が口火を切るでもなく、会議室の照明が一つまた一つと、落とされていく。まるで、ようやく舞台を降りるときが来たとでも、言うように。
 照明が落ちていくなか補佐官がふと思い出したように声を落とす。

「……あの、会長。」
「なに」
「今年のお歳暮はどうなさいますか?彼女宛ての分です」

 一瞬、会長は返事をせず、指先で、ファイルを静かに閉じた。

「そうね……あれは元々��諦めの儀礼�≠セったのだけれど」
「はい。交際を断たせた温情の一環として……」

 窓の外を見つめたまま、会長がゆっくりと目を閉じた。

「もう意味をなさないでしょうね。今の彼は贈り物などしなくても彼女のもとへ真っ直ぐに飛んでいく」

 その言葉に、補佐官はわずかに眉を下げた。

「今年の暮れは……どうされますか?」
「……送りなさい。最後のひとつとして。ただし中身は、彼に選ばせてあげて」

 その言葉に、補佐官が目を見開く。だがすぐに理解し、小さく頷いた。

「……かしこまりました。」

 暗がりに沈むその空間の中で、ただ一つ、ホークスの名だけが、残響のように耳に残った。
 彼はもう、誰の許可も必要としていない。愛を守るその速さに、彼女たちは、誰ひとり追いつけなかったのであった。


 そして、別の街。別の空の下──。
 私たちは並んでいた。道を選び、歩き出す前に互いの存在を確かめるように、ゆっくりと、立ち止まっていた。

「……あ、そういえば。さっき��上(・)�≠ゥらメール来てましたよー」

 そう言いながら、彼がスマホの画面を、私にも見せてくる。

「��監視・接触記録、以後不要。対象動向、報告義務解除�=v

 彼がそう読み上げたとたん、無機質な文字列が夜風よりも鋭く、肌を切ってくるように感じられた。文章の冷たさではなく彼の声に乗ったときの現実味に、胸の奥がきゅっとすぼまる。私は返す言葉が見つからずただスマホの画面を見つめた。光に浮かぶその一文が遠ざかる過去の合図のようで、指先の温度が、静かに奪われていく。彼は、ふっと息を吐いて小さく笑った。そしてスマホを画面ごとポケットへと戻した。

「──だそうです。まあ、形式上はこれで終わりってことらしいです」
「……」
「相変わらず、冷めとーばい、あの組織は。最後まで感情の一滴も混ぜんで、簡単に締めてくる」

 私はその言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。けれど、胸の奥に小さく火が灯ったような気がした。もう誰にも、彼を引き離されることはない。そう思えた瞬間、唇が自然に動いていた。

「……もう、誰にも止められないんじゃない?」

 そう言った私に彼は嬉しそうに笑った。あの頃と変わらないようでいて、どこか遠くを見ているような、少しだけ、大人の男性の笑い方だった。

「止まりませんよ。止まったら、俺じゃなくなるんで」
「速すぎる、男だ……。」
「ええ。でも、隣を歩いてくれる人がいるなら、ちゃんと歩幅は合わせますから」

 優しく、でも強くそう言って差し出された手。その手をもう私は拒まなかった。どれだけ遠回りしても、何を失っても、あの日と同じ手のひらがもう一度こうして私の前にあることが、ただそれだけで、胸がいっぱいだった。

「じゃあ……」

 私はそっと、その手を握り返す。

「その速さに、必死で追いつくから」
「えー?ははっ……望むところです」

 もう、振り返らない。過去を悔やむためでも、未来に怯えるためでもなく��今�≠ニいう時間を、ふたりで選び取っていく。

「……でも、ほんとひどかったですよー?」

 不意に彼が言った。夜風のなか、私の手を強く握りしめたまま、どこか、拗ねたような口調で。

「何が?」
「何がって、当時のあれ。俺、ばり本気やったんやけんねー?名前さんのこと」
「あ、ああ……ごめん、ね?」
「家から追い出されて、しかも、飽きたって……あれは、心折れますって」

 私は俯いて、けれど笑いを堪えるのに少し苦労して、最後は小さく口元を緩めた。

「……あれは、演技だよ?」
「知ってますよ?でも演技でも、けっこう刺さりました、ガチで。」
「……じゃあ、許さない?」

 そう聞いた私に、彼は目を細め、ほんの一拍の間のあとで呟いた。

「んー、どげんしようかなぁ。検討中ですね」
「ふーん……で、引っ越すの?」

 何気なく聞いたつもりだった。でも彼はわりと真顔でうなずいた。

「はい。ちゃんと契約しますよ?内見も鍵の引き渡しも全部、あなた経由で」
「……やっぱり、そうくるんだね」

 溜め息とともに肩をすくめる私に彼は急に立ち止まって、くるりと向き直った。

「で、引っ越したら、あなたも来てください」
「……え?」
「ほら、新居祝いとか。生活指導とか」
「生活指導……?そんなの、公安でやってもらってください」

 そう言った私に、今度は彼が肩をすくめた。

「えー、やめてくださいよ。あそこ掃除の仕方も感情もマニュアル対応なんですからぁー」

 私がくすくすと笑っていると彼は少しだけ声を落として言った。

「……俺がちゃんと人間でいられるの、あなたといる時間だけなんで」
「……あっそ。」
「もちろん定期的に、ですよ? 週2で。いや、毎日来てくれてもいいなぁ……というか来てください」
「なにそれ、命令?」
「はい、ナンバーツーヒーロー命令です。拒否権はなしで」

 私は少しだけ、息を飲んだ。でもその命令が、どれだけ優しくて強くて、甘えていて、でも真剣なのか、伝わってしまったから。だから、あえて冷たく聞き返す。

「さっきの話は?」
「ん? さっきの話と言いますと?」
「許すか許さないかってやつ」
「あー、まあ……今日から毎日、名前さんが隣にいてくれるなら、ギリギリ帳消しってことで」

 私はその言葉にほんの少しだけ頷いた。けれどすぐに、意地悪く言ってやった。

「それ、毎日じゃなくなったらどうなるの?」

 しかし彼は、私の意地悪なんて、まるで効いていないという顔で、唇の端をゆるく持ち上げた。──あの、得意げな笑い方で。

「そのときはまた、あなたのマンションに羽根を突っ込んででも迎えに行きますんで。覚悟、しといてくださいね?」

 その顔はもう、昔の彼の顔じゃなかった。でも確かに、私の知っている、誰よりあたたかな彼、��ホークス�≠ナあり��鷹見啓悟�≠セった。
 誰にも追いつけない速さで、でも隣に寄り添う歩幅で、私たちは、新しい日々へと進んでいく。風の速さで駆けた想いが、ようやく止まらぬ愛になる。





 

命に背く恋なれど


(その覚悟だけはほんと忘れないでくださいよ?)
(それ……忘れようとしても、無理かもね)
(なら、上出来です。)

※Women's by『 誰かの願いが叶うころ/宇多田ヒカル 』
※Men's by『 Chained/SHE'S 』


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