彼と同じ空間で過ごす時間が、こんなにも長くなるとは思ってもみなかった。
机に積み上げられた書類を捌きスケジュールを確認し外部からの依頼を取捨選択する。私はただその役割を果たすためにここにいるだけで決して彼の輝かしい背中に、追いつこうとしたわけではない。なのに、気づけば呼吸の仕方までもが彼の影響を受けてしまっている。
陽射しの降りそそぐ昼下がり。ホークス事務所の窓辺に立つと、遠くを翔ける赤い羽根が視界を横切る。人々の歓声とカメラのフラッシュ。その中心に立つトップヒーローホークスは決して私のものではない世界に生きている。それなのに彼は夕方にはふらりと事務所に戻ってきて、羽織ったジャケットを無造作に椅子に掛け私の机に近づきすぎる距離で声をかけてくる。
「お疲れさまー。いや〜今日も助かりましたっ」
軽やかに告げられるその一言が、妙に胸の奥で反響する。ヒーローとしての台詞ではなく同僚としての何気ない感謝でしかないと分かっているのに私はそれを聞くたびに心が微かに震えるのだ。
彼はもともと人の心にすっと入り込むような距離感で話す男だ。けれど最近はその近さがどこか甘く、まるで私を包み込むようで、逃げ場を失うことがある。書類を渡す際に指先がふれると彼はわざとらしくもなく「あ、すみません」と笑いながら、視線を合わせてくる。その一瞬が長く続くように思えてしまうのはきっと、私の心が勝手に過敏になっているからだ。
夜、残業を終えたホークス事務所は街の灯りに照らされて静まり返っていた。私は壁掛け時計を見上げ、帰り支度を整えようとした。そのとき、不意に背後から声がした。
「あれ? まだ残ってたんですか?」
振り返ればヒーロースーツを脱ぎきらないままの彼がいつものように軽い笑みを浮かべて立っていた。やや乱れた前髪から汗が滴り、その顔には昼間の喧騒の余韻がまだ残っている。
「あ、えっと……資料、片付けていたので……」
「へー。真面目ですねぇ。でも、俺としては早く帰って休んでほしいんですけど」
そう言いながら彼は私の机の端に腰をかけた。あまりに自然であまりに近い。私はわざと視線を逸らし、書類を整える手を止めなかった。けれど鼓動だけはどうしようもなく耳の奥に鳴り響いていた。
その夜道を一緒に歩くことになったのはほんの偶然だった。事務所を出た途端、街の灯りの中を吹き抜けた風に肩をすくめた私に彼は「暗いので送りますよ」と、軽く言ってのけた。断る理由もなく二人で並んで歩いた。アスファルトに落ちる街灯の影が交錯し、彼の羽音が時折、夜気を震わせる。そのまま沈黙が続くかと思えば、彼がふと口を開いた。
「俺さ、ずっと人と距離を取るのが得意なつもりだったんですけどねー」
「……」
「気づけばあなたにはどうも——近づきすぎてる気がします」
思わず足を止めそうになった。彼の声は飄々とした調子を保ちながらもどこか探るような響きを持っていた。私はすぐには言葉を返せず、夜風に紛れるように小さく笑った。
「そう……ですか?」
「ええ。気づいたらなんか目で追ってるんですよ名前さん、あなたを——」
赤い羽根を背負う男のその告白はあまりにさりげなく、けれど、あまりに真実味を帯びていて、私は思わず呼吸を忘れた。
思えば最初にこの事務所の扉を叩いた日の事を私は未だに鮮明に覚えている。ガラス扉を開けた瞬間に吹き込んできた風は外の熱気と紙のような匂いが入り混じった雑多な空気を運んできて緊張で固くなっていた私の胸をいっそう強張らせた。履歴書を抱えた手のひらには汗がにじみ、面接の呼び出しベルを押す指が、わずかに震えていた。応接室に通され、しばらく待つうちに現れたのは赤い羽根を背負った青年——これから先の、我が国の平和を担う若きヒーローだった。雑誌やニュースで何度も見ていたはずの顔が、思った以上に近い距離で目の前に現れると、言葉を探すよりも先に心臓が予告もなく跳ねた。
「あー、面接希望の方ですか?」
彼は軽やかな調子でそう声をかけ私の向かいに腰を下ろした。想像していた堅苦しい上司像とはまるで違う。柔らかな笑みを絶やさず、けれど、その奥にある琥珀色の鋭い眼差しだけはこちらを見透かすように真剣だった。緊張のあまりうまく言葉を繋げられなかった私に対して彼は、個性である剛翼の真っ赤な羽根を揺らしながら冗談めかして言った。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。俺も人を雇うの、これが初めてなんで」
その一言に、胸の奥の氷が少しだけ解けたのを覚えている。そのあとサイドキックはすでに決まっているだとか今日は少し肌寒いですね〜だとかごく普通の世間話をされた気がするが、そのあたりはあまりはっきりとは覚えていない。履歴書を手に取った彼は、ぱらぱらと目を通し、ふと顔を上げて微笑んだ。
「……いいですね。あなたなら——このホークス事務所を支えてくれると思います」
その瞬間、私は強く息を吸った。自分の未来が音もなく方向を変えていく音を、確かに胸の奥で聞いた気がしたから。
��——気づいたらなんか目で追ってるんですよ。
名前さん、あなたを。��
数秒前に言われたその言葉を、頭の中で何度も反芻する。彼は小さく息を飲み、そこで、言葉を切った。私は足を止めそうになりながらも鼓動を隠すように俯いた。彼の声には軽やかさがあったのに、その奥に隠せない熱が潜んでいて、まるで胸の奥を静かに叩かれるようだった。
沈黙の間を埋めるように、夜風が吹き抜ける。ふたりの影が路地に重なりやがて分かれていく。
「……すみません、変なこと言いましたね」
彼は照れ隠しのように笑い背中の羽根をひらりと揺らして歩を進めた。
「じゃあ、また明日もよろしくお願いします」
その言葉に私は小さく頷き背筋を伸ばして歩き出す。駅の灯りが近づくにつれ互いの影はゆっくりと別の方向に伸び、やがて交わらなくなった。
別れ際、振り返った彼の笑顔は街灯の下で柔らかく滲んでいた。その光景が家に帰りつくまで、ずっと胸の奥に残り続けていたのだった。
*
ヒーロー事務所で働くことを決めて、面接先がホークス事務所だったという、そんな出会いから始まった日々が、今では当たり前のように過ぎている。けれどあの日の応接室で感じた緊張と熱は形を変えていまもなお胸に宿っているのだろう。
そんなある日のこと。不意に所長である彼から告げられた。
「あの、ちょっと頼みたい事があるんですけど」
差し出されたのは雑誌の企画書で彼曰く次号に掲載されるインタビュー記事用の写真が必要だという。カメラマンが来るとばかり思っていた私は資料に目を落として頷こうとした。だが彼はいつもの飄々とした笑みを浮かべながらこう続けた。
「できれば、あなたに撮ってほしいんです」
唐突な指名に言葉を失った。プロの手に委ねるべきものをなぜ、わざわざ私に?そう疑問を口にしかけたが彼の視線はまっすぐで、その奥に他人ではなく本気で私に撮影してほしいという気配が滲んでいた。
結局、流されるような形でその依頼を引き受け後日、彼から届いた連絡はあまりにも軽い調子のものだった。

事務所の近くにベストな
撮影スタジオ見つけたんで
今日の撮影そこでやりましょう