彼と同じ空間で過ごす時間が、こんなにも長くなるとは思ってもみなかった。
 机に積み上げられた書類を捌きスケジュールを確認し外部からの依頼を取捨選択する。私はただその役割を果たすためにここにいるだけで決して彼の輝かしい背中に、追いつこうとしたわけではない。なのに、気づけば呼吸の仕方までもが彼の影響を受けてしまっている。
 陽射しの降りそそぐ昼下がり。ホークス事務所の窓辺に立つと、遠くを翔ける赤い羽根が視界を横切る。人々の歓声とカメラのフラッシュ。その中心に立つトップヒーローホークスは決して私のものではない世界に生きている。それなのに彼は夕方にはふらりと事務所に戻ってきて、羽織ったジャケットを無造作に椅子に掛け私の机に近づきすぎる距離で声をかけてくる。

「お疲れさまー。いや〜今日も助かりましたっ」

 軽やかに告げられるその一言が、妙に胸の奥で反響する。ヒーローとしての台詞ではなく同僚としての何気ない感謝でしかないと分かっているのに私はそれを聞くたびに心が微かに震えるのだ。
 彼はもともと人の心にすっと入り込むような距離感で話す男だ。けれど最近はその近さがどこか甘く、まるで私を包み込むようで、逃げ場を失うことがある。書類を渡す際に指先がふれると彼はわざとらしくもなく「あ、すみません」と笑いながら、視線を合わせてくる。その一瞬が長く続くように思えてしまうのはきっと、私の心が勝手に過敏になっているからだ。

 夜、残業を終えたホークス事務所は街の灯りに照らされて静まり返っていた。私は壁掛け時計を見上げ、帰り支度を整えようとした。そのとき、不意に背後から声がした。

「あれ? まだ残ってたんですか?」

 振り返ればヒーロースーツを脱ぎきらないままの彼がいつものように軽い笑みを浮かべて立っていた。やや乱れた前髪から汗が滴り、その顔には昼間の喧騒の余韻がまだ残っている。

「あ、えっと……資料、片付けていたので……」
「へー。真面目ですねぇ。でも、俺としては早く帰って休んでほしいんですけど」

 そう言いながら彼は私の机の端に腰をかけた。あまりに自然であまりに近い。私はわざと視線を逸らし、書類を整える手を止めなかった。けれど鼓動だけはどうしようもなく耳の奥に鳴り響いていた。
 その夜道を一緒に歩くことになったのはほんの偶然だった。事務所を出た途端、街の灯りの中を吹き抜けた風に肩をすくめた私に彼は「暗いので送りますよ」と、軽く言ってのけた。断る理由もなく二人で並んで歩いた。アスファルトに落ちる街灯の影が交錯し、彼の羽音が時折、夜気を震わせる。そのまま沈黙が続くかと思えば、彼がふと口を開いた。

「俺さ、ずっと人と距離を取るのが得意なつもりだったんですけどねー」
「……」
「気づけばあなたにはどうも——近づきすぎてる気がします」

 思わず足を止めそうになった。彼の声は飄々とした調子を保ちながらもどこか探るような響きを持っていた。私はすぐには言葉を返せず、夜風に紛れるように小さく笑った。

「そう……ですか?」
「ええ。気づいたらなんか目で追ってるんですよ名前さん、あなたを——」

 赤い羽根を背負う男のその告白はあまりにさりげなく、けれど、あまりに真実味を帯びていて、私は思わず呼吸を忘れた。
 思えば最初にこの事務所の扉を叩いた日の事を私は未だに鮮明に覚えている。ガラス扉を開けた瞬間に吹き込んできた風は外の熱気と紙のような匂いが入り混じった雑多な空気を運んできて緊張で固くなっていた私の胸をいっそう強張らせた。履歴書を抱えた手のひらには汗がにじみ、面接の呼び出しベルを押す指が、わずかに震えていた。応接室に通され、しばらく待つうちに現れたのは赤い羽根を背負った青年——これから先の、我が国の平和を担う若きヒーローだった。雑誌やニュースで何度も見ていたはずの顔が、思った以上に近い距離で目の前に現れると、言葉を探すよりも先に心臓が予告もなく跳ねた。

「あー、面接希望の方ですか?」

 彼は軽やかな調子でそう声をかけ私の向かいに腰を下ろした。想像していた堅苦しい上司像とはまるで違う。柔らかな笑みを絶やさず、けれど、その奥にある琥珀色の鋭い眼差しだけはこちらを見透かすように真剣だった。緊張のあまりうまく言葉を繋げられなかった私に対して彼は、個性である剛翼の真っ赤な羽根を揺らしながら冗談めかして言った。

「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。俺も人を雇うの、これが初めてなんで」

 その一言に、胸の奥の氷が少しだけ解けたのを覚えている。そのあとサイドキックはすでに決まっているだとか今日は少し肌寒いですね〜だとかごく普通の世間話をされた気がするが、そのあたりはあまりはっきりとは覚えていない。履歴書を手に取った彼は、ぱらぱらと目を通し、ふと顔を上げて微笑んだ。

「……いいですね。あなたなら——このホークス事務所を支えてくれると思います」

 その瞬間、私は強く息を吸った。自分の未来が音もなく方向を変えていく音を、確かに胸の奥で聞いた気がしたから。


��——気づいたらなんか目で追ってるんですよ。
 名前さん、あなたを。��


 数秒前に言われたその言葉を、頭の中で何度も反芻する。彼は小さく息を飲み、そこで、言葉を切った。私は足を止めそうになりながらも鼓動を隠すように俯いた。彼の声には軽やかさがあったのに、その奥に隠せない熱が潜んでいて、まるで胸の奥を静かに叩かれるようだった。
 沈黙の間を埋めるように、夜風が吹き抜ける。ふたりの影が路地に重なりやがて分かれていく。

「……すみません、変なこと言いましたね」

 彼は照れ隠しのように笑い背中の羽根をひらりと揺らして歩を進めた。

「じゃあ、また明日もよろしくお願いします」

 その言葉に私は小さく頷き背筋を伸ばして歩き出す。駅の灯りが近づくにつれ互いの影はゆっくりと別の方向に伸び、やがて交わらなくなった。
 別れ際、振り返った彼の笑顔は街灯の下で柔らかく滲んでいた。その光景が家に帰りつくまで、ずっと胸の奥に残り続けていたのだった。


 *


 ヒーロー事務所で働くことを決めて、面接先がホークス事務所だったという、そんな出会いから始まった日々が、今では当たり前のように過ぎている。けれどあの日の応接室で感じた緊張と熱は形を変えていまもなお胸に宿っているのだろう。
 そんなある日のこと。不意に所長である彼から告げられた。

「あの、ちょっと頼みたい事があるんですけど」

 差し出されたのは雑誌の企画書で彼曰く次号に掲載されるインタビュー記事用の写真が必要だという。カメラマンが来るとばかり思っていた私は資料に目を落として頷こうとした。だが彼はいつもの飄々とした笑みを浮かべながらこう続けた。

「できれば、あなたに撮ってほしいんです」

 唐突な指名に言葉を失った。プロの手に委ねるべきものをなぜ、わざわざ私に?そう疑問を口にしかけたが彼の視線はまっすぐで、その奥に他人ではなく本気で私に撮影してほしいという気配が滲んでいた。
 結局、流されるような形でその依頼を引き受け後日、彼から届いた連絡はあまりにも軽い調子のものだった。


ホークス

事務所の近くにベストな
撮影スタジオ見つけたんで
今日の撮影そこでやりましょう






 ただそれだけの文面に私は深く考えもせず承諾の返事を打ち指定された場所へ向かうため仕事を早めに切り上げて事務所を出た。
 ヒーロー雑誌に載る写真。どうせ清潔な白壁のスタジオか、無機質な撮影ブースのようなところだろう……そう信じて疑わなかったのだ。けれど案内された場所にたどり着いた瞬間私は心の奥で小さく絶叫した。
 そう——私はいま、トップヒーローと一緒に、ラブホテルの入り口に立っている。エントランスのきらびやかなネオン、どこか甘い人工的な香り、薄暗い廊下に敷かれた深紅の絨毯。すべてが撮影スタジオとはあまりにかけ離れすぎていて、私は思わず立ち止まり唇をきゅっと噛んだ。

「ほらほら、早く行きましょう♪」

 しかし彼は悪びれもせず背中の羽根をひらひらとさせながら先へ進んでいく。
 とりあえず受付を済ませてから部屋に入ると、そこにはベッドが中央にどんと構え、壁には鏡、バスルームの扉を開けば煌々と光る大きな浴場が備えられていた。

「わあ!すごいですね〜!ははっ、ベッドでか」
「……」
「おっ、見てください! 泡風呂できますよ〜」

 子供のように無邪気に声をあげる彼を見て私はただ心の中で叫ぶしかなかった。どうしてこんな場所をスタジオ扱いできるのか謎すぎる。しかし彼はヒーロースーツの上着を脱いでベッドに腰を掛け、私の反応を楽しむようににやりと笑った。

「あ、あの……なぜ、ラブホテルなんか……」
「えー?だって照明もベッドも揃ってるし雑誌用にはむしろリアルでいいじゃないですか。ね?」
「……」

 「ね?」と言われましても……と、私は呆然と立ち尽くし一眼レフを抱えたまま視線をあたりに彷徨わせた。ここが撮影スタジオであると、何度頭に言い聞かせても、頬を染める熱はどうしても消えなかった。

「ホ……ホークス、あの……」
「はい?」
「えっと、こういうのは、その……普通は……」
「ん? 普通?」
「……」
「ははは! あー、そういうこと?」
「……っ、」
「普通じゃなくていいんですよ。だって、ほら?俺たちはちょっと特別なんですから」

 軽い調子で告げられたその言葉が場違いに胸の奥を突いた。「俺たちはちょっと特別」とは?
 ベッドに座る彼を見下ろすと彼の瞳は光を反射してきらめき赤い羽根がゆるやかに揺れていた。気づけば私は逃げ場を失ったままカメラを胸の中に抱えるしかなかった。

「じゃあちょっと、先にシャワー浴びてきちゃいますねー」

 動揺している私など意に介さず軽い口調でそう告げて、彼はひょいとベッドから立ち上がると、羽根を小さくたたみながら、バスルームの方へと姿を消した。その背中を見送った瞬間、私は胸の奥で激しくざわめく波に飲み込まれた。

「………」

 ちょ……ちょっと待って。え、どういうこと?某ヒーロー雑誌の撮影でしょ、これって。普通にシャワーを浴びる必要なんてないのでは——?
 閉ざされた扉の向こうからはシャワーの水音が響きはじめる。一定のリズムでタイルに降り注ぐその音は私の理性を冷ますどころかむしろ異様に熱を煽っていった。この状況を仕事だからと自分に言い聞かせようとすればするほど、頬の内側を熱が突き上げる。カメラを握る手のひらは汗ばんで滑りそうで、私は慌ててストラップを首に掛け直した。けれど、ふと視線を向けた先には大きなベッドが広がり、その真白なシーツがどこまでも無垢に、そして残酷に私を追い詰めていた。

「………、」

 一旦、整理しよう。私は今ラブホテルのベッドの前でホークスを待っている。その事実を改めて意識してしまった途端、耐えがたいほどの羞恥が全身を支配した。額に手を当て深呼吸を繰り返すが胸の鼓動は速まる一方で扉の向こうにいる彼の姿を想像するだけで喉が渇いて仕方がなかった。
 やがて水音が途切れ、扉の向こうで、衣擦れの気配がした。次の瞬間、曇りガラスが静かに開き湯気をまとったヒーローホークスが姿を現した。それは先ほどまでのヒーロースーツ姿よりもずっとひとりの青年としての色彩を帯びていて、私は思わず視線を逸らした。

「——さ、撮りましょうか」

 軽やかな声が響いた瞬間、私は、息を詰めた。濡れた前髪の隙間から滴が落ちて首筋を伝い彼の鎖骨に、きらりと光った。私は呼吸の仕方さえも忘れてしまいそうになる。湯気を纏ったまま白いタオルで髪を拭うその姿はヒーローという仮面を外した��ただの男�≠サのものに見えてしまい私は慌ててまた、視線を逸らした。そして咄嗟に口をついて出たのは、拙いほど真面目な言葉だった。

「……あの、流石にヒーロースーツは身につけた方が……」

 言い終えた瞬間、耳まで熱くなるのを感じた。私はただ場を正そうとしただけなのに自分の声があまりに頼りなく響き、まるで、羞恥を告白しているように聞こえてしまったからだ。彼は、一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに笑みを浮かべた。

「あー、なるほど?やっぱりこのままだと、意識しちゃいます?」

 冗談めかした声色の奥で、ほんのかすかに含まれた探るような響きが、私の胸をさらにざわつかせた。

「ち、違います!雑誌用の写真ですから、その、きちんとした姿の方が……」

 自分でも言い訳にしかならない言葉を口にしながら、カメラを握る手に力を込めた。けれどファインダー越しに彼を見れば、タオルを肩に掛けてベッドに腰掛ける姿は普段のヒーロー以上に人間らしく、そして近すぎてどうしようもなく息苦しかった。
 結局、私は、必死にカメラを向けることに集中した。白いシーツの上に座る彼は光を受けて赤い羽根をゆるやかに広げ普段よりもずっと年相応で且つ、本物のモデルのように見えた。

「どうです? ちゃんとモデルっぽく見えてますー?」
「は……はい。見える、と、思います……」

 レンズ越しに見える彼は軽口の裏でどこかぎこちなく私はファインダーを覗くたびに胸の鼓動を乱された。
 何枚かシャッターを切るうちに、私はようやく呼吸を整え始めていた。ファインダー越しに映る彼はベッドの端に座ったり壁に羽根をもたせかけたりとカメラ慣れしたモデルのように自在に姿勢を変える。光と影が交錯するたびに緋色の羽根は艶を帯び、レンズの奥で、彼はやはり��プロヒーロー�≠ニしての輝きを纏っていた。
 だが、次の瞬間、不意に彼が唇を歪めるように笑って言った。

「ん〜。もっとこう臨場感ほしいんですよねぇ」
「は、はぁ……」
「よしっ! ちょっと、乗ってもらえません?」

 思わず「え」と声が漏れ、私はカメラを下ろした。彼はふと姿勢を変え、ベッドの上に仰向けに倒れ込むと、片腕を額にかざし、もう片方の手で「こっちに」と招くようにジェスチャーをした。

「え、えっと……」

 曖昧に笑って「うーん」と悩む声が、かえって空気の張りつめを、濃くしてしまう。そんな私を見た彼は首を傾げ、軽やかに言葉を重ねた。

「こう、なんていうか……雛鳥ちゃんたちの視点っぽくしたいっていうか」

 その説明は妙に彼らしくて、けれど、逃げ道を塞ぐ響きを持っていた。��雛鳥ちゃん�≠ニは彼の無数にいるファン達の名称である。その目線から見上げる視界に自分を置き換えてほしい——そう促すような彼の言葉に、私は否応なく意識を引き寄せられていく。

「ほら、ここ。お腹の上あたりに座って。下から俺が見上げる感じにしたいんです」

 あまりに自然に促され、私は抗う言葉を見失った。カメラを握りしめたままゆっくりと彼の傍に歩み寄る。ベッドがぎしりと二人分の音を立てて仰向けに横たわる彼の腹部に乗りおずおずと膝をつくと、シーツがわずかに沈み体温がじかに伝わってきた。

「おっ……重かったら、すぐに言ってください」
「はぁ〜い、わかりましたっ」

 トップヒーローのお腹の上に乗っているという羞恥と緊張で心臓が破裂しそうになるのに、彼は悪びれる様子もなく、ファインダーの向こうから穏やかな声で囁いた。

「いいですねぇ……この角度、雛鳥ちゃんたちを見上げてる景色っぽい」

 その瞬間、光に照らされた彼の瞳と目が合い、時間が静止したかのような感覚に包まれた。だが彼の顔は真剣そのもので私は抗うように息を呑みながらもカメラを手に彼の胸元に跨る形になってしまった。途端に空気が変わった。レンズを構える指先がかすかに震え、見下ろす距離の彼の瞳はふざけた色を消して真っ直ぐに私を映していた。肩先を掠める羽根がわずかに揺れ、まるで逃げ場を塞ぐ檻のように感じられる。

「あ、あの……苦しく、ないですか……?」
「全然、むしろ名前さん軽すぎません?」
「……」
「……」
「ち……近い、ですね……」

 喉を焼くような声で絞り出すと、彼は苦笑とも吐息ともつかぬ音を漏らした。

「そうですねー。でも、悪くない」

 シャッターを切るはずの指が動かず時間だけが異様に膨らんでいく。互いに息を詰めたまま視線が絡み、ふとした拍子に距離が溶けてしまいそうになる。
 そのときだった。壁の向こうから不意に男女の笑い声と抑えきれない囁きが漏れ聞こえてきた。ベッドが軋むような音が続き途切れ途切れの声が静かな部屋の空気を裂いた。瞬間、私はカメラを握る手を強張らせ、頬に血が上るのを感じた。
ここがどんな場所なのかずっと言葉にせず誤魔化してきた現実が隣室の音によって強引に突きつけられたのだ。彼もまた目を細めるようにして一瞬だけ黙り込んだ。普段なら軽口で笑い飛ばすはずの彼が今だけは何も言わない。その沈黙がかえって熱を増幅させ息苦しいほどに濃密な気配を漂わせた。距離を詰めたままの視線はもう逸らせず、羽根がかすかに震えるたび私の心臓も同じ調子で震えた。

「………」
「……っ、」

 だめ……これは仕事。今は写真を撮らなきゃ!必死にそう自分を叱咤するのに壁越しの声と目の前の彼の体温が、理性を無言で削っていく。壁の向こうから漏れ聞こえる声は途切れ途切れに続きあからさまな現実を私たちの耳に押し付けていた。私は羞恥に頬を紅潮させたまま、どうすればいいのか分からず、ただカメラを構えた姿勢で、硬直していた。すると彼はふっと短く息を吐いて肩をすくめるように笑った。

「……いやぁ、さすが、人気店ですねぇ〜」
「……」
「真昼間から、こんな盛り上がってるとは思いませんでした」

 いつもの調子で冗談めかすその声に、私は一瞬救われた気がして思わず小さく笑いをこぼした。けれど次の瞬間、レンズ越しに出会った彼の瞳は軽口の調子とはまるで異なる色を宿していた。
冗談で笑ってみせる唇の奥で、視線だけが真剣に私を捕らえて離さない。その深さは隣室の音よりもずっと生々しく、私の鼓動を乱していく。

「……ねえ、名前さん」

 彼は声を落とし羽根の影に隠すように囁いた。私は震える手でカメラを彼に向けたまま、必死に視線を合わせないように努める。

「俺、こういうときってとくに笑って誤魔化しますけど」
「……」
「……本気で意識してるの、バレてます?」

 軽口と本音が重なり合うような響きに私は何も言えなくなった。ただ胸の奥で逃げ場をなくした自分の心臓の音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。胸の奥でドクドクと脈打つ音が、耳の内側にまで響きわたり、息をするたびに顔の熱が増していくのをどうしようもなく自覚していた。
 そのとき、跨った自分の下に、確かに存在する彼の熱に気づいてしまった。無意識に身体が反応してしまったのか、あるいは錯覚なのかわずかに硬さを帯びているようにも思えて、私は瞬時に、顔面を真っ赤に染め上げられた。
 私の勘違いでなければ彼もわざと自分のものを当ててきているようにも思える。その、ニヤリと愉しげに歪んだ口の端が、それを物語っている。

(も、もう無理っ、こんなの……!)

 慌てて彼の上から降りようと腰を浮かせた瞬間シーツで足が滑ってバランスを崩した私の身体が前に倒れ込んだ。

「ぅわっ!」
「危ない!」

 咄嗟に伸ばされた彼の腕に支えられながらも、私の手は枕元に滑り込み、カチリ、と小さな音を立ててパネルに触れた。次の瞬間部屋を照らしていた照明がすべて落ち、世界が一瞬にして漆黒の闇へと沈んだ。真っ暗闇の中、互いの吐息だけが近くで混じり合い、逃げ場を失った空気が、一層濃密に部屋を満たしていった。

「……、」
「……っ、」

 突如として闇に閉ざされた室内で、私たちは、ほとんど同時に息を呑んだ。視界が奪われたことで、耳に届くものはすべて鮮明に際立っていた。互いの吐息が重なり合い、わずかに乱れた呼吸の音が、静まり返った暗闇に大きく響いてしまう。

「……名前さん」

 闇の奥から囁かれた声は、いつもより低く熱を帯びて聞こえた。視線を交わせないからこそ言葉ひとつひとつが肌に直接触れるようで私は思わず肩を震わせる。
 どこに彼の顔があるのか、ほんの数十センチの距離すら判別できない。けれど、確かにすぐ傍にいることだけは分かる。闇の中で触れ合う気配が余計に現実感を増して私を圧迫した。羽根がわずかに動く気配とともに、空気がかすかに揺れた。その些細な音がまるで耳元で囁かれたかのように近く感じられて、私は喉を鳴らすしかなかった。

「……息、荒いですね」
「……っ」
「脈も、速い——」

 彼の声は冗談めかしているようでいてその奥に確かな熱を潜ませていた。私は言葉を返せずただ荒い息を整えようと必死になった。だが整えようとするほどに心臓は暴れ、胸を焼く鼓動がさらに速まっていく。暗闇の中で聞こえるのは彼と私の呼吸音だけ。世界にはそれ以外、何ひとつ存在しないかのようだった。暗闇に支配された部屋で、私の呼吸はすっかり、制御を失っていた。鼓動がうるさすぎて、隣室の声も街の気配も、もうなにひとつ耳に届かない。

「………、」
「……っ、……」

 だ、だめだ……。このままじゃおかしくなってしまう。私は震える指先を枕元へ伸ばし再び灯りを点けようと必死だった。闇を破る光さえあればこの息苦しさも、誤魔化すことができるはずだと信じて——けれどその瞬間。伸ばした腕を温かな掌が掴んだ。

「……つけなくて、いいじゃないですか」

 闇の中で聞こえた彼の声は低く静かで、しかし抗いがたい熱を含んでいた。視界を奪われているぶん、触れられた腕の感触が過剰に鮮明で、私は思わず息を呑んだ。

「今は、これで十分ですよ」

 暗闇に沈んだまま彼の言葉が私の耳に落ちる。それは冗談にも軽口にも聞こえなかった。ただ、逃げ場をなくすほど真剣で私の心臓をさらに早鐘のように打たせる響きだった。
 私はもう一度光を求めようとしたけれど、腕を掴む彼の力は驚くほど優しく、しかし強引で振りほどくことはできなかった。
 掴まれた腕の熱がまだ残っている内に彼が先にゆっくりと、上体を起こした。ベッドがわずかに軋み沈んでいた私の身体も自然と引き寄せられていく。気づけば私たちは暗闇のなかで至近距離に座り合い、向かい合うかたちになっていた。俗に言う対面座位と呼ばれる体勢である。闇に慣れた瞳には輪郭だけが滲み近すぎる呼吸の熱が互いの肌に触れる。

「……」
「……」

 近い——これ以上、声を出したら……と、私は慌てて両手で、自分の口元を覆った。喉の奥から零れそうになる息遣いをどうにか押し殺し暗闇の中、ただ彼を見返すしかなかった。
 羽根の影が揺れる気配がする。わずかな衣擦れと、彼の吐息が触れるほどの距離。沈黙は永遠のように伸び空気が重く沈殿していく。言葉も光もないその空間で聞こえるのは心臓の轟きと互いの息のリズムだけ。触れもしない、けれど、逃げもしない。闇の中に閉じ込められたふたりの沈黙は言葉以上に雄弁で抗いがたい磁力を帯びていた。

「……」
「……、」

 闇の中で彼の影がわずかに揺れた。吐息の気配がさっきよりも確実に近い。視線だけでは距離を測れないほどの暗がりで代わりに肌に触れる呼吸の熱がその間合いを雄弁に伝えている。
 彼の両手がそっと、私の腰に添えられる。驚くほど優しく、しかし、逃げ場を封じるには十分な精度で——暗闇に沈んだその仕草に、私は背筋を震わせた。腰を支える掌の温もりが、じわじわと体温を吸い上げ、呼吸を乱していく。そして彼の顔がさらに近づいてくる。わずかな距離を詰めるたび互いの吐息が重なり、耳鳴りのような心臓の鼓動が頭の奥で反響する。

「………、」
「………っ」

 ——来る。そう直感した。あと一瞬で彼の唇が触れてしまう……そのときだった。けたたましいベルの音が、室内を震わせた。不意に鳴り響いた電話の音が濃密に膨れ上がっていた空気を一気に引き裂き、私たちは同時に小さく身を震わせた。暗闇に慣れきった耳に突き刺さるその音はまるで現実に引き戻すための冷水のようで、私は喉の奥から微かな声を漏らしてしまった。彼もまた唇の端をわずかに歪め、深く息を吐いた。

「もぅ……タイミング、最悪ですねぇ」

 闇の中でそう呟く声は冗談めいて聞こえたけれど、その奥底には消しきれない熱が潜んでいた。私は反射的に身を引こうとしたが腰を支えていた彼の手がほんの刹那だけ離れるのをためらった。その迷いが、先ほどまでの空気の重さをいっそう際立たせた。やがて彼は羽根を小さく揺らし深く息を吐き出すとまるで何事もなかったかのように受話器へと手を伸ばした。

「はーい」

 軽やかな声。いつもの調子。けれど暗闇に溶けるその声色は、わずかに掠れて熱を含んでいた。

「……延長?……あー、いえ、大丈夫でぇーす。いま出まーす」

 努めて明るい口調で答える彼の背に、私はただ言葉を失っていた。受話器を戻す音が響き、ふたたび部屋は静寂に沈む。だが先ほどまでの沈黙とは違いそこには互いに隠しきれない余韻が確かに漂っていた。そうして彼は振り返り、闇の中で、小さく笑った。

「……ほら、時間切れ。惜しかったですね」

 これは果たして惜しかったのだろうか。冗談のように軽く投げられたその言葉の奥に消せない熱が揺れているのを私は見逃す事ができなかった。
 暗がりに目が慣れてきた事もあり部屋の灯りは点けぬまま私たちは無言で荷物をまとめた。カメラをケースにしまう手がわずかに震えているのを自覚しながら、それを悟られまいと必死に指先を整えた。彼はいつもの軽快さを取り戻したように何気ない仕草でジャケットを羽織り剛翼を小さく揺らしてみせた。けれどその横顔にはまだ、消え残った熱の痕が薄く漂っていた気がした。

 ホテルの自動ドアを抜けると夜風が一斉に頬を打った。街の喧騒が遠くに広がっているのに歩き出したふたりの間だけは、奇妙な沈黙に包まれていた。

(……何をしているんだろう、私は。)

 心の中でそう呟いても答えは出ない。赤い羽根を背に歩く彼の背中を追いながら、さきほどまで闇に閉じ込められていた自分の心臓の音が、まだ耳の奥で鳴り響いているのを感じた。すると彼がふいに口を開く。

「撮影、助かりました。いい写真きっとたくさん撮れてますよー」

 努めて明るく言ったその声は、いつもの飄々とした調子のはずなのにどこかぎこちなく響いた。私は笑顔を作ろうとしたが、唇がわずかに震えて思うように形にならない。

「……い、いえ。仕事ですから」

 言葉にした瞬間、余計に苦く響いた。彼はしばし黙り込み夜風に髪を揺らしながら視線を前へと向けた。その横顔は笑っているようで、しかし、どこか遠くを見ているようにも見えた。
 気まずさと、まだ言葉にできない何かが絡まり合ったまま私たちは夜の街を並んで歩き続けた。夜風は思ったより冷たく頬を撫でるたびに火照った肌を痛いほどに冷やしていく。アスファルトに並ぶ私たちの影は街灯の下で伸びたり縮んだりを繰り返してまるでその距離を測りかねているかのようだった。沈黙が長く続きすぎたと感じたのか彼がまた口を開いた。

「ねぇ、さっきの……悪くなかったですよね?」
「……え?」
「暗闇の、演出?」

 冗談めかして軽く笑う声に私は思わず息を詰めた。どう返せばいいか分からず、ぎこちなくうなずく。

「え、ええ……まあ……そう……ですね」

 自分でもひどく不自然な返事だと思った。けれど彼は気づかぬふりをして、さらに羽根を揺らしながら軽口を重ねる。

「でもあのまま延長してたら撮影どころじゃなくなってましたねぇ〜。危なかった危なかった」

 わざとらしくため息をつく声に私は慌てて視線を逸らし、心臓を落ち着けようと深く呼吸した。

「業務の一環、ですから……」
「……」
「写真はちゃんと、撮れて、よかったです……」

 ぎこちない言葉。けれど、彼はその不器用さを面白がるように笑い、夜空を仰いだ。

「真面目っすねー、名前さんは」
「……そ、そうですか、ね……」
「でも、そういうとこ……俺は嫌いじゃないですよ?」

 その言葉は風に紛れて軽く聞こえたけれど横顔の瞳の奥にはまだ、あの暗闇で交わしかけた熱がかすかに灯っていた。


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