しかしそれからの日々は確実に何かが変わってしまった。
 ただの仕事仲間。そう割り切ろうとするたびにふとした仕草や視線がそれを容易く壊していく。事務所内、机を挟んで交わす言葉も、資料を渡す瞬間も、以前よりもずっと熱を帯びているように感じられた。私の心は彼を、��ヒーロー�≠ニしてではなく一人の男性として見つめてしまうことをもう止められなくなっていた。

「今日の午後の会合、俺も一緒に行きますよ」

 スケジュールを確認していた私の横に立ち彼は何気ない調子で言った。本来なら、彼が出席する必要のない会合だった。代理で十分に済むものをわざわざ同行すると言い出す彼に私は内心でため息をついた。

「あ、えっと……ホークスが行く必要は、ありませんよ。こちらで、処理できますから」
「ん〜。俺が、行きたいんです」

 飄々とした声色に潜んでいたのは、妙に真摯な響きだった。その言葉を直視した瞬間、私は胸の奥にざらりとした違和感を覚える。業務と私情を混同するわけにはいかない。そう強く思えば思うほど、彼の瞳の奥に揺れる感情が、私の足を縫いとめてしまう。
 そして迎えた午後の会合。私は出席者の一人に声をかけられ名刺を差し出されるまま受け取っていた。穏やかな笑顔を浮かべて応対していたものの相手の言葉の端々にどこか不用意な馴れ馴れしさが混じっているのを感じ居心地の悪さを覚えていた。

「失礼——うちの秘書を借りすぎてません?」

 不意に、背後から差し込む声。その軽さに振り返るとホークスが、にこやかに立っていた。彼はさも自然な様子で私の隣に入り込み肩先をかすめるように羽根を広げながら相手に握手を求めた。

「彼女、忙しいんですよ。すんませんね、彼女のサポートがないと俺、立ち行かないんで」

 飄々とした口調。けれど、その笑みの奥に潜む鋭い眼差しは明らかに牽制だった。相手は戸惑いながら一歩下がり、曖昧に笑って場を取り繕う。私はただ、胸の奥に走る熱をどう処理していいか分からなかった。すると、彼は私にだけ聞こえるような声で小さく囁いた。

「困ったら、ちゃんと言ってくださいね」

 その言葉は、冗談にも軽口にも聞こえず、ただ真剣で、私の心臓はまた落ち着きを失った。

 数時間後——。なんとか大きなトラブルもなく会合を終えた帰り道。喧騒から解放され、夜気を含んだ街路に並んで歩いているとあれほど騒がしかった会場の声が嘘のように遠のいた。夜のビル街を歩く私の肩に、彼の影が重なる。

「あの、名前さんって……」

 控えめに呼ばれた声に足を止めると彼は不意に笑みをほどき、少しだけ真剣な顔をした。

「俺といると、仕事の顔しかしないですよね」
「あ、あたりまえです……私はあなたの事務所の事務員で、あなたは人気ヒーローなんですから」

 正直『秘書』なんて言われて驚いたけれどそれ以上に嬉しかった。だが、そう言い返した言葉は自分でも驚くほど冷静で、しかしその実、心の奥底では必死に逃げ場を求めるように震えていた。彼は短く息を吐き羽根を数枚ゆっくりと広げた。

「でも……俺は、仕事だけのあなたを見てるわけじゃないんですよ?」

 夜風に舞う羽根が、街灯の光を受けて淡く揺れた。その光景のなかで彼の声はひどく人間的で、ただの男としての切実さを帯びていた。私は何も言えなかった。返すべき正しい言葉が、喉の奥で絡まり、ただ視線を落とすことしかできない。
 理性は「距離を置け」と告げているのに感情は「このまま触れてもいい」と甘く囁く。その狭間で揺れながら私はただ歩みを再開した。彼はそれ以上は追い込まず隣に並んで静かに歩いた。だが沈黙の中で確かに伝わってくる熱があった。
 私は答えを出せない。彼を上司として守ろうとする理性と、彼をひとりの男性として求めようとする感情が、せめぎ合いを続けている。その葛藤を抱えたまま、明日もまた机に向かうのだろう。けれど彼が向けてくる視線の強さに私はいつまで逃げ続けられるのだろうか。
 靴音と街灯に照らされる影だけが私たちを繋ぎ沈黙の重さが足元からじわじわ染み込んでくる。横を歩く彼はいつもの調子を装うようにスーツのポケットに両手を突っ込み肩越しに羽根をゆらりと揺らしていた。けれどその表情に浮かぶ笑みはどこかぎこちなく、琥珀色の目だけが真っすぐに前を射抜いているように見えた。

「あ、あの……ホークス、」
「はーい?」
「さっきは、その……助かりました。ありがとうございました」
「……。」

 私はその沈黙を破ろうと口を開いたが、返ってきたのは、意外なほど低い声だった。

「俺……やっぱりあなたのことが気になります」

 短い言葉だった。けれどそれは世界の喧騒よりも深く私の胸を揺らした。街の灯りに照らされたその横顔はいつもの軽やかな笑みではなく真剣で不器用で、私だけに向けられたものだった。
 歩みが止まった。夜風が一瞬だけ吹き抜け髪を乱す。私は思わず顔を向けるが、彼は視線を逸らさずにいた。

「いつもそばで支えてくれてるからとか助かってるからとか、そういう仕事上の感謝じゃない」

 しっかりと目が合う中、言葉を探しながら彼は不器用に笑った。

「気づいたら目で追ってて声を聞くと安心して」
「……」
「それってもう……ただの仕事仲間じゃないですよね」

 軽口ばかりの人間だと、思っていた。人を煙に巻くのが得意な彼が今は冗談のひとつも挟まず、ただ真っ直ぐに私を見ている。その眼差しの真剣さが、胸の奥を突き刺す。

「……い、いや……でも——」

 私は言葉を紡ぎかけて止めた。理性は、仕事と割り切れと告げる。ヒーローと事務員。踏み越えてはいけない境界線がある。けれど同時に暗闇の中で交わしかけた熱が鮮明によみがえり、心臓はその声を聞き入れようと暴れ続けていた。

「で、でも……わ、わたしは……」

 震える声は最後まで続かず、夜の風に溶けた。彼はそんな私の逡巡を悟ったのか、ふっと苦笑を浮かべて言った。

「すぐに答えはいらないですよ。俺はいつまでも待ちます」
「……」
「待つのは、得意な方なんで」

 その言葉は軽やかに響いたが、羽根の影に宿る瞳は確かに真剣で、私の胸に重く刻み込まれた。ヒーローとして空を翔ける彼と地上で支える私。交わることのないはずの線が、いつしかひとつの形を描き始めている。日常の喧騒と任務の重さの合間に生まれたこの小さな奇跡のような距離感を私は恐れるよりも、大切に抱きしめていきたいと思ってしまった。


 *


 あの日——夜の街角で交わした言葉の余韻は、思っていた以上に長く尾を引いた。
 ホークス事務所の朝は、変わらず慌ただしく、外線の電話は容赦なく鳴り響き、机の上には処理すべき書類が山のように積み上がる。私はそれらを黙々と捌きながら、自分がまるで彼への感情を切り離した機械のように振る舞っていることを、痛いほど自覚していた。けれどふと顔を上げれば視界の端に映る彼は、以前よりも頻繁にこちらを見ている。無造作に伸ばされた羽根が私の肩先を掠め、ただの偶然を装いながら「すみません」と笑う。その軽さの裏にある、ほんのわずかな熱を私の心は敏感に拾ってしまう。

 今日も変わらず一日が始まる。机に並ぶ書類の白さがやけに冷たく眩しく見えた。先日の言葉が耳にこびりつき、眠りは浅く、心臓の鼓動だけがやけに大きく、胸を揺らし続けていた。
 扉の開く音がして羽音が小さく空気を震わせる。彼が事務所に入ってきたのだとすぐに分かった。視線を上げる勇気が出ず私はひたすら書類をめくるふりをした。

「おはようございまぁーす」

 いつもと変わらぬ聞き慣れた声。軽やかで何もなかったかのような調子だ。

「……おはよう、ございます」

 私は少し遅れて返事をしたが自分の声が不自然に硬いことに気づき思わず唇を噛んだ。彼はいつものように椅子に腰を下ろし羽根を揺らしながらスケジュール表を確認している。机の上に肘を置いて頬杖をつく姿はどこまでも普段通りで、あの帰り道で告げられた真剣な言葉など存在しなかったかのようだった。
 どうしてそんなにも普通でいられるんだろう。もしかしたら、慣れっこなのかも。色んな女性に同じようなことを言っているのかもしれない。
胸の奥で問いかけても答えは返ってこない。ただ心を乱しているのは自分だけなのだと痛感し私は余計に俯いた。

「今日の午後はパトロールと取材。あとは夕方の会合、場所は特に変わってないですよね?」

 彼は何事もなかったように業務連絡を続け私はただ頷くしかなかった。あの日の彼と今朝の彼の落差。そのどちらも嘘ではなく、きっと同じ人間から零れている本心なのだと思うと私はどうしていいか分からずただ心臓の音に翻弄され続けた。

 正午を過ぎ、事務所に漂う空気はいつもの慌ただしさから少しだけ解放されていた。デリバリーの弁当が届き、サイドキックの二人と机を囲んで昼食をとる。湯気の立つ白いご飯や揚げ物の匂いが、妙に家庭的で心を和ませた。口に運んだ唐揚げを咀嚼していると不意にサイドキックの一人が興味深そうに首を傾げた。

「そういえば名前ちゃんって彼氏とかおると?」

 思わず箸を持つ手が止まる。もう一人のサイドキックも待ってましたとばかりに笑いながら加勢した。

「そうそう〜。前から気になっとったっちゃん。よかったら好きなタイプとか教えて?」

 突然の問いに私は喉がつまるような感覚を覚えた。曖昧に笑ってごまかそうとするものの二人の視線が期待に満ちていて言葉を選ばなければならないと悟った。

「え、あの……特に、これといって……。仕事が忙しいので」

 どうにか答えをひねり出すと二人は「へぇ〜」と声を揃えてまだ探るようにこちらを覗き込んでくる。

「でも、そういうのって急に来るよね?ほら案外近くにいたりして」
「確かに!意外と身近な人にドキッとすること、あるんやなか?」
「名前ちゃん、あいらしかもんね〜。実際問題、結構モテるやろ〜?」

 揺さぶるような言葉に思わず心臓が反応する。あの夜の告白が胸の奥で蘇り、箸を持つ指先が、微かに震えた、そのときだった。突然、事務所のドアが開き、羽音がふわりと室内をかすめた。

「ただいま戻りましたー」

 いつもの調子で軽やかな声が響く。ホークスが入ってきたのだ。サイドキックのふたりは一斉に「お疲れさまです!」と声を揃え、空気が一瞬で切り替わる。私は顔を上げられず、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。何気なく視線を向けてきた彼の目が、一瞬だけ私に留まり、しかし、すぐにいつもの飄々とした笑みに戻る。その短い刹那だけで胸の奥がまた騒ぎ出してしまう。サイドキックたちの笑い声がまだ尾を引くなか、ホークスは羽根を小さく震わせながら部屋を横切り私たちの机に視線を落とした。

「なになに? 楽しそうな話してますねー」

 彼の軽い口調に、サイドキックのひとりがすぐさま笑顔で答える。

「いや〜、名前ちゃんに好きなタイプ聞いとったばい」

 次の瞬間、私は箸を取り落としそうになった。慌てて笑みを作ろうとするが、頬が引きつるのが自分でも分かる。

「へぇ、それは気になりますねー」

 彼はわざとらしく目を細め、椅子には座らず、机の端に腰をかける。羽根をひと振りして弁当を手に取るとその空気をかき混ぜるようにしながら視線を私にだけ注いだ。

「——で、どんな人がタイプなんです?」

 冗談半分に聞き流すこともできるはずの問い。けれどその瞳の奥には冗談では済まされない熱が潜んでいるのを私は痛いほどに感じていた。サイドキックたちは面白がって「答えて、答えて!」と囃し立てる。私はただ、口元を固く結んでうつむくしかなかった。

「……別に、特にないです」

 絞り出すように言った声は、驚くほど弱々しかった。すると彼は、ふっと笑って肩をすくめた。

「そっか。じゃあこれから誰かがハマるってことですね。……いいなぁ、羨ましいなぁー」

 軽やかな口調。けれどその言葉がこちらに落とす影は、逃れられないほど濃かった。私が口ごもったまま沈黙に落ちそうになったそのときサイドキックのひとりが、両手を打ち合わせて笑った。

「じゃあもう、ホークスが候補一番手ってことでよかやなかと?」

 続けてもう一人のサイドキックも負けじと声を上げる。

「いいっ! 職場恋愛禁止とか契約書には書いてなかしね!」

 突然の冗談話に場がざわりと揺れ私は反射的に顔を上げて慌てて首を振った。

「や、やめてください! そういう話じゃ……」

 必死の否定にサイドキックの二人は、ますます楽しそうに笑い、互いの肩を叩き合っている。

「ほらほらぁ〜、赤うなっとー!」
「うわー、満更でもなかね、これっ!」

 からかいに似た明るい声がさっきまで張り詰めていた空気を軽やかに拡散させていく。ホークスはそんなやりとりを見守りながら、口元に余裕の笑みを浮かべていた。けれど一瞬だけ視線が私に重なったとき、その奥に冗談ではない光が揺れているのを私は見逃さなかった。胸の奥がひどくざわめくのを隠すように息を吐きながら私は必死に箸を動かした。弁当の空箱を片付けながらサイドキックたちは「午後もがんばりましょう!」と、声を揃えて、事務所を出ていった。ドアが閉まる音が響くとにぎやかだった空気が嘘のように静まり返る。広い事務所に残されたのは私と彼の二人だけ。蛍光灯の白い光が、机に落ちた影をやけに鮮明に映し出している。私も弁当の空箱を片付け早々に席に戻り無理に手元の書類を整え始めた。紙の擦れる音で沈黙を誤魔化そうとしたがそれがかえって空気を重くしているのを自覚する。

「……ああいうの、気にしなくていいですよー」

 彼が軽やかに言った。いつもの声色。けれど、耳に届いたとき、心臓はなぜか跳ね上がった。

「なっ、なんの、ことですか」
「さっきの。好きなタイプとか、彼氏いるのかーとか」
「……」
「俺が、候補一番手——とか、ね?」

 あっさりと口にされて私は、視線を逸らした。やはり彼は、すべて聞いていたのだ。広い見聞と感覚の鋭さを思えば、この建物へ足を踏み入れた瞬間にはもう、こちらの会話など手に取るように把握していたに違いない。

「べ、べつに……気にしてません」
「……ほんとに?」

 彼は机に肘をつき、頬杖をついた姿勢のまま、じっとこちらを見ていた。軽く笑みを浮かべながらも、その奥に潜む視線は真剣で逃げようとしても追いかけてくる。私は、どうにか笑ってごまかそうとしたが、喉に引っかかった息が言葉にならない。

「まあ……俺としては、気にしてもらったほうが嬉しいですけどねー」

 さらりと投げられた言葉に空気が一瞬で濃度を増した。私は、机の上で指先を重ね、ただ沈黙で応えるしかなかった。机越しの視線が、私の心を射抜くように絡みつく。彼の言葉の余韻はまだ胸の奥でくすぶっていて逃げ場を探すほどに絡まる沈黙が重なっていった。ホークスは、ゆっくりと頬杖を外し身を乗り出す。羽根がわずかに揺れ、空気が震えるのを感じる。

「ん、ねぇ。名前さん」

 呼びかけは柔らかかった。けれど声に潜む熱は隠しきれていなかった。

「俺、本気で言ってるんですよ。先日のことも、さっきのことも」

 その言葉に胸が大きく脈打ち、喉が乾く。彼がさらに近づけば、あと一歩で逃げられない距離になる。視線が合い、私は息を止めた。——触れてしまう。そう直感した、その瞬間。

 ——トゥルルルルル……。

 事務所の電話がけたたましく鳴り響いた。不意の音に私は弾かれるように立ち上がり、彼もまた小さく眉を寄せた。羽根がふっと揺れ、彼は深く息を吐く。

「ほんっと……タイミング悪かねぇ」

 冗談めかした口調。けれどその奥の瞳には確かに、消しきれない熱が残っていた。私は受話器を取り上げる手を強張らせながら、かすかな震えを声に隠そうと必死だった。受話器を耳に当てると事務的な声が聞こえてきた。だが次の瞬間、その言葉に私は固まった。先方が、ホークスに繋げてほしいと言ってきたのだ。その名を呼ばれただけで胸の奥でたったいま押し殺した鼓動がふたたび暴れだす。私は思わず視線を上げ、机の向こうの彼を見た。ホークスは軽く顎を上げて、目だけで合図を送ってくる。飄々とした仕草。けれどその瞳には「次は逃がさない」と言わんばかりの熱が宿っていた。

「は……はい。今、代わります」

 声が震えないよう必死に整えて、受話器を差し出す。彼はそれを片手で受け取りながら、ほんの一瞬だけ、指先で私の手をなぞるように触れた。偶然にしてはあまりに明白すぎる接触。私は息を呑み、胸の奥にかき乱される熱を必死に押し隠すしかなかった。

「——はい、ホークスでーす」

 受話器に向かう声はいつもの軽快さを取り戻していたが、彼が笑みを浮かべる横顔は、まだ熱を手放してはいなかった。
 受話器から漏れる事務的な会話と机の上に残る沈黙。二つの音が重なり事務所の空気は妙に濃密なものへと変わっていた。受話器の向こうの声に軽やかに応じていた彼は短いやり取りを終えると「了解でーす」と笑みを含ませて返事をしてから受話器を置いた。カチリという小さな音が事務所に響き、それと同時に私の心臓も強く打ち鳴らされた。私は次の言葉を待つまでもなく緊張で固まり、机の上の書類に視線を落とした。だが彼は、そんな私の動揺など存在しないかのように羽根を軽く揺らし、椅子の背もたれに身を預けた。

「さて……午後は取材もあるし気合入れないと」

 何気ない声。先ほどの熱い視線も、会合の帰り道での真剣な告白も、暗闇の中で交わした熱も、すべて、なかったかのように——。

「名前さん」
「……はい」
「この資料、まとめといてくれます?」

 机の上に置かれた書類を指し示すその仕草は、あまりに日常的で、私は返事に詰まった。

「……はい、分かりました」

 どうにか声を返すと彼は「助かります」と柔らかく笑った。けれどその瞳がふとこちらに流れた一瞬だけ、あの夜と同じ熱が隠し切れずにきらめいた。私は息を呑み、目を逸らすしかなかった。どうして彼は何もなかったみたいに振る舞えるんだろう。彼の余裕の仮面に翻弄されながら、私の心はますます制御を失っていった。
 彼が出て行った後、事務所には静寂が降りた。時計の秒針が淡々と刻む音と窓の外をすべる車の音だけが、取り残された私を現実に繋ぎ止めていた。机に残された書類をめくろうとしたが指先は思うように動かない。紙の白さがやけに眩しく、視界が滲むほどに胸の奥で言葉にならないざわめきが広がっていった。

 私はいったい、どうしたいんだろう。あの日、帰り道に告げられた言葉。

『俺……あなたのことが気になります』

 それは確かに耳に残り夢の中にまで追いかけてきた。全部が胸の奥を乱す。
 私は、仕事だと割り切りたい。彼にとって私は事務員であり、彼にとって使いやすい駒の一人、支え役。それ以上の関係を望んではいけないはずだ。そう言い聞かせているのに、彼の視線や声色ひとつで揺れ動く自分がいる。羽根の影に包まれるたびに私は仕事と個人の境界線を見失いそうになる。
 怖い……けれど、嫌じゃない。誰にも口にできない思いが胸の奥で膨らみ、やがて静かに溢れていった。


 *


 それから、数日後の昼下がり。いつものように弁当を囲んでいたとき、サイドキックのひとりが箸を置いてこちらを覗き込んできた。

「名前ちゃん、今度の金曜空いてる?」
「金曜、ですか?」
「うん。新米のヒーローたちと飲み会やるっちゃけど、一緒にどう?」

 唐突な誘いに私は返答を探し、言葉を飲み込んだ。すると、奥のソファで資料を読んでいたホークスが羽根をひらりと揺らしながら顔を上げる。

「はいはーい、そういうのは仕事中に誘わないでくださーい」

 軽口のように響いたがその声音にはほんのわずかな鋭さが混じっていた。サイドキックは「すみませーん!」と苦笑して肩をすくめ空気を読んで話題をすぐに切り替えた。やがて昼休憩が終わりサイドキックたちが持ち場に戻る。事務所に残ったのは言わずもがな私と彼だけだった。静けさに包まれた空間で、私は机の上のペンを弄びながら気まずさを隠そうとした。すると、彼がゆっくり立ち上がり、机越しに私へ歩み寄ってくる。

「ねぇ? 今、ちょっと声かけていい?」
「……はい?」

 顔を上げた私に彼は笑みを浮かべた。だがその瞳の奥は冗談で塗りつぶせない色を帯びている。事務所に静寂が満ちていく。サイドキックたちの気配はとうに消え、蛍光灯の白い光と紙をめくる音だけが残った。彼は机に片手を置き、わずかに身を傾けてこちらを覗き込んだ。羽根がかすかに揺れ、空気が微かに震える。

「金曜の合コン……行くんですか?」

 唐突な問いに、私は思わず息を呑んだ。しかもなぜだかいつの間にか『合コン』になっている。

「い、いえ……特に、そういう予定は」

 返事は曖昧で、声はひどく弱々しかった。彼はふっと目を細めて、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「だったら、俺と二人きりで食事行きません?」

 軽やかな調子で投げられた言葉。それなのに、胸の奥には冗談では済ませられない熱が滲み落ちた。私は手にしていたペンを机に置き視線を落とす。心臓は落ち着きを失い指先にまで震えを伝えていた。

「え、っと……それは、その……」

 言葉を探して詰まる私を彼は楽しそうに眺めていた。けれど視線の奥には笑いだけではない色が潜んでいるのを、私は痛いほど感じ取っていた。

「返事は今じゃなくてもいいですよ」
「……」
「ぜひ前向きに、考えといてください」

 そう軽く言い放つと彼は机から身を離し羽根を揺らしてソファへ戻っていった。けれど残された私は、ペンの先を見つめながら、まともに呼吸をすることすらできなかった。

 夜——事務所を出て自宅に戻っても、蛍光灯の白い光に照らされる天井を眺めているだけで時間が過ぎていった。机に置いたままの鞄には、まだ整理しきれていない書類が詰まっている。それなのに私は何ひとつ手をつけられず、ただ心の中で同じ言葉を繰り返していた。

『だったら、俺と二人きりで食事行きません?』

 軽やかな声色で放たれたはずのその一言が耳の奥で幾度も反響する。
 冗談めかして笑った唇の形、羽根を揺らしながら私を覗き込む瞳、そのどれもがはっきりと思い出されて胸がひどくざわめいた。彼にとっては、ただの社交辞令かもしれない。気まずさを解こうとした軽口かもしれない。そう言い聞かせても、あの視線の真剣さを否定する事はできなかった。枕に顔を埋めても熱は収まらない。仕事だから、上司だから、部下だから。そうやって自分を縛りつけようとするたびあの日から積み重なった彼の言葉と仕草が紐を解いてしまう。
 断るべきなのに。どうして怖いよりも先に期待なんかしてしまうんだろう。

 窓の外で風が鳴り、カーテンの隙間から夜景の光が差し込む。私はただその下で目を閉じ、眠れぬまま心の奥で問いを繰り返していた。


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