水戸さんと久しぶりに会話した次の日、月曜日。
結局一睡も出来ずに朝を迎えた月曜日。

せっかくひとつひとつ味わって食べようと思っていた貴重な銀座店限定のチョコを全部食べてしまった月曜日の朝。

「おはようございます!三井さん!」
「、あァ……おはよう。」
「相変わらずテンション高いなぁ、名字さんは!」
「おはようございます!そうですかあ?やっぱ週明けは元気いっぱいじゃないとですよ!」
「そうですねっ! 三井さん、名字さんにならって元気いっぱいでいきましょう」

そんな課のメンバーのやり取りを横目に俺は、右肘をついてデスクに頬杖をついて名字をチラと見た。

「名字」
「……? はい?」
「体調は……大丈夫なのか?」

きょとんとする名字に、他の課のメンバーが彼女を見やる視線。

「なんかあったんですか?名字さん。」
「えっ?! あー。金曜日にちょっと飲みすぎちゃって。いつもの二日酔いです!心配いりません」
「……いや、問題ねえならいいけどよ。」
「三井さんと飲みに行ったんですか?」

あるひとりの社員の何の気なしな質問に課全体が一瞬、シーンとなる。次いで俺と彼女が気まずそうに視線を泳がせる。

「いや……、俺じゃねえ。」

ややあってコホンと俺が咳払いしたあと、すぐに弁解した。それに対してシーンとしていた課の社員が「なんだー」とか「びっくりしたー」とか言いながらいつも通りに雰囲気に戻る。

「じゃあ今日もみんなよろしくなー」

座ったまま俺がそう言えば、皆個々に返事をして各自の業務に取り掛かる。

俺はすぐにパソコンのチャットルームを開いて名字の名前を検索する。

『辛ければ言えよ。いつもサボってる奴らを働かせるからな(笑)』

打って送れば、ずっとパソコンに張り付いていた名字が少し目を見開かせて画面を眺めていた。俺からのチャットを読んだのか、フッとひとつ笑みを零してカチカチと文字を打っている。すぐに俺のパソコンにポン!とチャットが届いた。

『ありがとうございます。そのときは遠慮なく頼ります。(笑)』

俺も思わず読んでフッとひとつ笑って腕時計を確認すると、朝一のマネージャー会議の時間が迫っていて「おっ」と言って椅子から立ち上がった。


普段はシャチとばかなことばかりしているアンナも仕事のことになるとしっかりしている。オンオフの切り替えが出来ているというか、なぜこのしっかりモードをオフでは一切発揮できないのか。ペンギンの長年の疑問だ。

「あ、キャプテンもう行っちゃうの?」
「…ペンギン、後で詳しく聞かせろよ」
「……………あいあい」
「スルー!わたしスルー!?でもそんなキャプテンもかっこいいー!」

隣でアホなことを言っているアンナも、さっさと背を向けていく我らがキャプテンも。ペンギンの頭痛の種だ


「お先に失礼しまーす!」

なんだか家にすぐ帰る気にならずに、明日の会議資料のチェックなんかをしてパソコンで時間を確認して、パソコンの電源を落とした。

三井さんを含む残り少ない職場仲間に声をかけて退勤する。

側から三井さんの鋭い眼光が刺さるのを感じながら、私に笑顔を向ける社員さんたちに私も笑顔を返す。

しかし内心では、そんなに心配ならもっと声掛けてよ、とか三井さんに対して無遠慮に思ってしまくらいには、どうやら私はやっぱり相当なダメージを受けているらしい。


アパートへの道ではない道を歩きながら、一人のときじゃないと吐けないため息を遠慮なく吐く。

三井さんがあの日≠フことを気遣ってくれているのは知ってる。

今日なんどか二人きりになる瞬間はあったけれど、三井さんからは結局なにも深いことを聞いてはこなかった。私もなにもあの日のことに関して言わなかった。

そしてここは、唯一誰も知らない私の場所。私が感情を出すことを許している場所。

「相変わらず人気がないなあ……」

泣ける場所を探して過去に迷い込んだ埠頭。
当時は、たまに老人が猫に餌をやる姿を見たりしたものだがここ何ヶ月かはまったく見ない。

年も年だったしな…と少し寂しく思う。
話したことはなかったけれど、一度だけ座り込んで泣く私の隣に猫缶を置いていったことがある。

あの時は猫缶にひかれた猫に癒されてわりと立ち直るのが早かった。

水戸さんが好き。水戸さんを諦めたい。でもやっぱり好き。

矛盾した思いが私自身を苦しめている。
いつか自然に諦められるものなのだろうか。
いつか、水戸さん以外のだれかを好きに、

「……やっぱり、お前か。」
「え。」

ここで誰かには話しかけられるのは始めてで思わず肩がビクついた。振り返れば少し前に会った

「えと、三井……、さん?」
「はァ。……こんなところで何してんだ。女が一人でいていい場所じゃねえだろうが」
「……えと、その、……少し、」
「………。 泣いていたのかよ。」
「え、…えーと、」
「あの日も……なんか、辛そうに見えた。」
「………」
「吐き出して楽になるなら聞いてやるぜ。……生憎ここには、他人の俺しかいねえ。」

その言葉につい、小さな笑いと弱音が零れた。
いつもは思っていても誰にも言えなかった、本音が。

いつの間にか強がることを覚えて曝け出せなくなった弱い、自分が。

ぼろぼろと泣きながら支離滅裂なことを言う私の言葉を、三井さんはただ少し離れたところに立って聞いていた。

私を抱きしめて慰めるでもなく、かと言って無言というわけではなくたまに相槌をうってくれて。

その距離間が、私を安心させて饒舌にする。

一頻り吐き出して鼻をかむ私に終わったかと訪ねる三井さん。

「終わりです…」と私が答えると、三井さんが踵を返した。

「来い。飯にいくぞ。」
「え、め、めし?」
「腹が減ると余計なことを考えやすくなるんだよ」
「で、でも……こんなぐちゃぐちゃの顔ですし!」
「……個室がある。そこまでは俺の後ろにでも隠れてりゃいいだろ」

さっさと歩き出す彼に慌てて着いてくる私の気配を感じたのか、三井さんは歩調を緩めてくれた。



三井さんに連れてこられたのは、何ともお洒落でかつ、高級そうなホテルの最上階にあるレストランだった。

そもそもビジネスホテル以外に修学旅行を除いて泊まったことのない私は、ホテルの入口で若干尻込みをした。

そんな私の心情を知る由もない三井さんに、無理やり手を引かれて高級そうなカーペットを踏む羽目になったけれど。

フロントで慣れたように何かに名前を書いていて、それを見たときは一瞬三井さんが怖くなった。

もしやとんでもないセレブなのではないかと。

しかし一人でまたあのフロントを通る勇気もなく、三井さんに手を引かれるままやってきたレストラン。

メニューを手渡されはしたが、見慣れない料理の名前に記載のない金額。

これはとんでもないことになったと冷や汗が流れるのが止まらない。

そんな私をどう思ったのか、三井さんが勝手に注文しウェイターの男が去っていく。

個室と聞いて個室のある居酒屋を想像していた私にとってはもう何が何だか。

ガチガチに緊張しているうちに料理が運ばれてきた。いわゆるアミューズからメインディッシュまで一度に運ばれてきて、そんな世界とは無縁の私も首を傾げるがそれよりも目の前に並んだ料理に釘付けになる。

よだれが出そうになる口元をはっとおさえて、それでも手が疼いてそわそわしてしまう。

「フッ……、食べてもいいぜ。」
「これ、ほんとに……?」
「ああ。人目もねえから気にすんな」
「……っ! いただきますっ!」

まるで待てをされた子犬のようだと思いながら、俺も食事に手を付けた。

「………、」
「?……、ああ? なんだ?」

食事中、名字がじっと俺の口元あたりを目を細めて凝視しはじめたので、俺が不審そうに聞く。

「顎……、どうしたんですか?」
「……。ああ、高校んとき怪我した。」
「へえ……。」」
「……怖いか?ヤンキー≠ンたいで。」
「えっ?……いえ、普通にかっこいいですけどね、三井さん。」
「………」
「古傷ある人って、モテません?なんか素敵ですよね。私、フェチなのかなあ」

言って誰を思い浮かべたのか、少し考えるというか思い出すみたいにして名字が小さく笑った。

「大丈夫です、モテる男のツラさは傍でよく見てましたから」
「………」
「かっこいいってだけで、惚れたりしないので安心してくださいね」
「……ふうん。」

俺はなにか心の中にうごめく謎の感情に、意識的に蓋をして目の前の食事に意識を戻した。

「うまいかよ?」
「死ぬほど美味しいですよ」
「そうか、それはよかった。」

きらきらと目を輝かせて頬張る彼女に安心した。
たまたま立ち寄った埠頭で見かけたときには、今にも死にそうな顔をしていたし、人を慰めることが苦手で気の利いた言葉一つ出てこなかったけどな。

強引だったが、こうして笑って食事を食べる彼女にほっとした。

「デザートだけどよ、」
「デザート!メインのご登場ですねっ!」
「あ……、ああ。実は期間限定のやつらしいぞ。さっきフロントで言われたぜ」

俺が説明していると、扉の外から声がかかった。

「お待たせいたしました。本日のデザートは濃厚チョコレートソースがけふんわり揚げドーナツ、バニラアイスクリーム添えです」

名字の目が、今までで一番輝いたのを見て俺も思わずも口元を弛めた。

こいつ……、生粋の甘党だったんだな。
俺は昔から、甘いのは苦手だ……。

リンク文字