三井さんと飲みに行った日から数日後の日曜日。
新しく住み始めたアパートにて、ひとりゆっくりブレイクタイムをしていた夕方五時過ぎ。

なんだか食欲もないし、明日からまた仕事だと思いながらも、近場の飲み屋でも開拓してみようかなーなんて思っていたら、突如携帯電話の着信が鳴った。

ディスプレイには『090-xxxx-xxxx』と、登録していない電話番号からだった。基本的には知らない番号からの電話は無視しがちだったけれど、そのときは普通に電話のマークをタッチしてしまった。

いま思うと、どうしてあのとき押してしまったんだろうと思う。

神様が押させたのか——。

そんなふうに、もはや誰か≠フ所為にしてしまいたかった。

だって、
きっとこの世に 神 ≠ネんてものは
いないんだから——。


「もしもし?どちらさまで——」
「……久しぶり。」

ドキン、と心臓が飛び跳ねそうだった。
口から心臓が出てしまうという表現は、まさにこのこと。

「………水戸、さん?」
「大正解」

電話の向こうでは乾いた声で笑う、その彼の、久しく聞いた落ち着いた笑い声。

「………」
「久しぶりだね、名字さん——」

好きな人を遠目に見ていたり、好きな人が誰か自分以外の異性といる姿を見てしまうと、思わず涙が溢れ出てしまうというのは、少女漫画のヒロイン王道のシチュエーション。

それは、女性の私本人が少女漫画でなくたって、女の子はそんな風になってしまうものなのよ、とは大昔から実感している。

それでもこうして、その好きな人*{人と関わったときなんかは、実は涙なんかでる余裕なんてなくて動揺や驚きが先行してしまうという事実も認証済みだ。

そして、案外ものすごく冷静になってしまうのだということも……。

「お久しぶりです、水戸さん。」
「元気でした?」
「はい」
「……そっか。」

電話の向こうがやけに騒がしく聞こえる。きっと外にいるのだろうと思った。

「……番号——」
「うん?」
「変えたん、ですね……。」
「………」
「………」
「無くしちゃったんだよ」
「………」
「ハハッ、不本意、不本意。」

言って彼は、また楽し気にカラカラと笑うのだ。


あなたが抱えてる明日は辛くはないのかな。
私に、そのもがいてる文字にひとつ線を引かせて

あなたが抱えてる今日は救えやしないのかな。
それでもその肩にイチミリでも、優しさを乗せたなら

また愛を、
感じられるだろうか……?


あなたの腕に抱かれた雨の降る寒い夜
あのとき、かすかに胸を締め付けてた感情と
あなたがこぼした一粒の涙——。
つられた私の涙の消費期限は、いつまでだったのか。

私にある未来、あなたと笑いあえてる未来。
あのとき、それがあと数日後の未来だったのなら……。

いや、どんな未来だったとしても、
私たちは、こんな結末を選んでいたと思う。


そう、

わたしは水戸さん≠ェずっと

好きだった≠——。



「ちょーっと、面倒ごとに巻き込まれちゃってさ」

沈黙の中、突然水戸さんから言葉を繋がれた。
私もすぐに脳みそを現実世界に戻して聞く態勢取る。

「その相手が、鉄男って言ってさ」
「………」
「ああ、そうそうみっちー≠ノ聞いてみな?たぶん知ってるから」
「みっちー・・・?」

私は聞き返して電話の向こうできょとんとしてしまう。水戸さんが無言になるたびに背後の騒がしい声がやけに耳に響く。

「あれっ?知り合いでしょ?みっちー。こないだ飲んでたじゃん、バーで」

……ああ、三井さんのこと?
たしかに、なんだかお互い知っている風だったなと、今頃になって思い出す。

「その鉄男って人、強いの?」
「あー、アイツは相当。アイツだけだけどな」
「ふうん、他は?」
「全然。まあ、そいつは昔から高校生かどーかも怪しい風貌だったけどな」
「老けてんだ?」
「うん、老けてる」

自分でも驚くことに、なぜか何年かぶりの水戸くんとの会話を、昨日まで話していた友人みたいにやってのけている私。

「水戸さんって、自分より大きい人に飛び掛かっていくもんね」
「……あっ!」
「ん? なに?」
「そういや、飛び蹴りすっげーセンパイいたなあ、高校んとき。」
「へえ」
「身長低いのに、すっげー飛ぶんだよな」

もし今、彼の部屋に勝手に入って行ったとして、勝手に寛いでいたといたとしたって、きっと水戸さんは追い返したりしないんだろう。

ごはんだって作って待っていたとしても、どう思って接してきたとしても、この人の場合、天地がひっくり返ったってわからない、永遠の謎なんだろうけど、少なくともやっぱり今でも嫌われてはいないのだろうな、とは思う。

「あ、」
「ん? なんですか?」
「俺、彼女できたんだ」
「………へえ、ふうん。」
「……、え?」
「ううん。」

この会話、実は彼と出会ってからは二回目になる。

一回目は以前、私が彼のアパートの隣人だったとき。結果、それは最終手には嘘だったのだけれど。

けど、たぶん。

今回のは、
なんとなく……

本当のやつだと思った。


「……ねえ、名字さん。」
「………」
「戻ってきてくださいよ」

水戸さんはきっと今、困ったような顔をしている、きっと頭をぽりぽり掻きながら煙草を吸っている。私はその様子をソファで目を瞑って思い描く。

水戸さんが突然連絡してきて、なんでこんなことを口走ったのかは知らない。

知りたくもない。
だから、深入りして聞かない。

聞けない……。

水戸さんだって、言ったくせにいつもと変わらない素振りだ。だったら私だっていつもと変わらない素振りで聞き流してやる。

聞かなかったことにしてあげてもいいよ。

けど、きっと
また=c…夢にも出てきそうなくらいには、私はずっとその言葉の真意を考え続ける日々が明日から待っているんだろうな……。

水戸さんを夢中にさせる女の子は
いつだって私以外の子。

いちばん側にいる私には、
目もくれないてくれなかったもの。

そんな事実が痛いほどわかっているから

「好きだよ」

「私と付き合ってよ」

なんて、私には言えなかった。

そして

逃げた——。
水戸さんから。


けれど、最近思う。
これは恋≠ネのかだろうかって……。

過去に私が望んだ結果だ。
リタイアしたのは私のほう。
だから泣く権利なんてない。

それなのに、泣いてしまいそうで、気持ちを打ち明けてしまいそうで、水戸さんの目を真っ直ぐに見れなくなって数年。

好きの気持ちが肥大して、
いまでは恋なんだか、愛なんだか。

ほんとうは、なんにもない
真っ白か、もしくは真っ黒なのか、よくわからない。


『 俺、
  彼女できたんだ。 』


思った以上に、傷は深い——。

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