25歳、冬(最終話)
「お父さん、心配するだろうなぁ……」
ぽつり、そうつぶやいた私は、重い腰をあげてその場から立ち上がった。
彩子と電話を終えた後、しばらくそのまま海を眺めていた。私は最後に水平線の向こうまで目を凝らして海を見渡す。
「……?」
そのときコツン、と。なにかが私にぶつかり、足元へと落ちる。転がっていくそれに視線を落とした瞬間に、いままで聞こえていた波の音も風の音も消え去り時間が止まった、そんな気がした。
「——え、これ。」
私は目を見開く。私にぶつかって落ちたもの、それは、ボロボロになった、過去に幼馴染の彼とお揃いで持っていたあのストラップだった。私はそれをそっと拾い上げる。
「探すのどんだけ時間かかったと思ってんだよ」
耳に届いた、聞き慣れた声。振り向かないと、そう決めた彼の声。私はその声に背を向け正面に体を向けたまま瞳を閉じ拾い上げたストラップを胸のまえで握り締めた。
「休みの日も、部活終わってからも」
「……」
「ずーっと探してたんだぜ?」
砂を蹴って近づいてくる足音。そして、そんな彼のフッと鼻で笑った声が、私の耳にも届いた。それが無性に、愛おしくて。もう、そんなことを思っていい権利なんて、私にはないのに……。
気が付くと、彼が私の真横に立っていた。私と同様に海を眺めているその姿が視界の端に映る。その横顔が悲しいほどきれいで、何ひとつ言葉をかけられなくて、気付けば涙があふれてくる。
「捨てたらダメだ」
「……」
「捨てねーといけねぇ思い出なんか……俺たちのあいだには、ねーはずだろ」
「……ちがう、ちがうよ。」
波の音に掻き消されそうな、小さな彼女の声。けれど俺の耳には、しっかりと届いていた——。
「たしかに寿と過ごした時間は大切だったけど」
「……」
「その思い出にすがったら、私またダメになる」
「……。」
俺は彼女のほうに顔を向けた。そうして正面を向いたまま険しい表情をしている彼女の言葉を、ただ黙って聞いていた。その横顔は、悲しいほどきれいだった。
「私のことなんか忘れて、寿は、寿の幸せなことだけを考えて。」
「……」
「わたしね?強くなったの。だから、寿は寿の、幸せを考え——」
『
じゃあな!
』
きっと私が思っているよりもずっと、あなたは傷ついていたよね、疲れていたよね。気付かずにいて、ごめんね……。
『
名前も、幸せになれよ……絶対!
』
だからわたしは、いままでずっと、
あなたのためにずっと、まえだけを向いて……
「わたし……頑張ってるのに……」
「……名前?」
『
わたし、頑張るよ
』
「——わたし、頑張ってない?」
「……」
「頑張ってる、じゃん……」
「……、」
『
こんな終わりを望んでたんじゃねえ!!
』
遠回りばかりして、私もう、疲れちゃったよ。だけど、最後にたどり着く場所って——。
「寿のために、手を離したの……」
「……、」
「寿のために頑張ってるのっ」
「名前……ッ」
「頑張ってるもん!いっぱいいっぱい頑張ってるじゃないっ!」
突然取り乱したように矢継ぎ早に言って叫んだ彼女の瞳から、一気に涙が溢れてこぼれ落ちる。
「もうこれ以上、なにを頑張れって——ッ」
「もういいっ!」
私の言葉は遮られ、そのまま彼の胸のなかへと引き寄せられた。突然の出来事に驚いて体を動かして抵抗してみたけれども、彼の腕の力は強まるばかりで、すぐに身動きが取れなくなった。
「……もう、いいんだ、名前」
「……っ、」
「もう……頑張らなくていんだよ」
「……、寿ッ、」
いつまで経っても未熟で脆い私の涙腺がまた、懲りることなく崩壊していく。こんな姿を見せたかったんじゃない。これじゃあまた、振り出しに戻ってしまう。だから、お願い。お願いだから、もう、その手を——。
「苦しかったな、」
『
苦しかったね
』
「辛かったよな……?」
『
辛かったね
』
「名前は……頑張ってるもんな。」
『
頑張ってるね
』
「寿……っ」
『
寿がいなくても、強くなるから……
』
「名前は強い、強ぇんだよ……お前は。」
もう、強がれない。もう押し殺せない。神様、ごめんなさい。やっぱり最後のお願いはこの人の寿のそばにずっと居たいです。そばにいるだけでただ心が癒されていく、そんな支えに、彼のそんな存在になりたいと願っても、いいですか——。
いい歳した大人ふたりがどちらも言葉足らずでこうしていつまで経ってもすれ違ってるんだから私たち相性悪いよね。ねえ、どう思う?寿……。
すると突然、すっと体が解放された。ようやくちゃんとお互いが向き合う体勢になったところで私たちは目を合わせた。そうして彼が真っ直ぐに言葉を紡いでいく。
「……俺、考えたんだ。」
「え……?」
「彩子にも、自分の幸せ考えろって言われて……考えた」
「……」
「考えて、どんだけ考えても、やっぱり、俺……名前じゃないとダメだ。」
「……寿、」
「ずっと……ずっと、会いたかった。」
「——。」
『
会いたかった
』
彼は、私を優しく抱き寄せた。あらためて実感する懐かしい彼の匂いと、心地よさ。肌が覚えてしまっている。記憶が走馬灯のように駆け巡る。
「俺と一緒にいてくれ、俺を幸せにしてくれ。」
その言葉に私はハッとして思わず自身の両手を彼の胸に押し当てて無理やり体を離した。そしてうつむいて首を横に振り、ぽつりと言った。
「ごめん……」
「……自信、ねーのか?」
彼のその問いかけに私はなにも答えられずに、またうつむくしかなかった。
「名前」
優しげに呼ばれた己の名前。それでもまだ顔を上げることができずに、なおも私は顔を俯かせたままだった。
「俺の目を見ろ、名前。」
ずっと目を合わせられずにいる私に届いた彼のその真っ直ぐな声。ようやくゆっくりと顔を上げると私の目の前に真摯な眼差しで、私を見据える幼馴染がいた。この真っ直ぐで、偽りのない瞳が好きだった。昔からずっと。
「なにもしなくていい、笑ってればいい」
「……」
「ただ隣で、笑っていてくれるだけでいいんだ」
『
名前は、そばでずっと
笑ってるだけでいい
』
「名前じゃないとダメだ、俺と一緒にいてくれ」
「……、」
「俺を……幸せにしてくれ。」
「……っ」
私は彼のその真っ直ぐな瞳を見つめ返してゆっくり、コクンとうなずいた。そうして震えた声で言葉を紡ぐ。
「幸せにする、わたしが寿を……幸せにする。」
私からのその言葉に満足げに微笑んだ彼は私の体をまた優しく引き寄せ、力強く抱き締めた。
そうしてしばらくしてから、互いの体を離したあと幼馴染の彼は、私にそっとキスを落とした。
「なんか……照れるね」
「何年振りだろーなぁ」
くちびるが離れたあと鼻頭をくっつけてそんなことを囁き合って、二人で自然と笑い合う。そうして再度、彼の腕の中に引き戻された私はそっと静かに目を瞑った。
「だいぶ遠回りしたな」
「そうだね……」
「もう、ぜったい離さねぇ。」
波の音と一緒に聞こえてきた彼の声。それと、大好きな彼の温もり。乾いた彼のくちびるが私の耳たぶに触れる。彼はフッと小さく笑ってから、最後にこう囁いた。
「 ずっと、一緒にいような。」
遠回りして——傷ついて、傷つけて。それでもやっぱり私たちは、ここに辿り着いてしまった。
あれから長い時間、二人のあいだにはいろんなことがあった。泣き、笑い、許し合った数十年。巡り会い、すれ違い。そしてまた、巡り会う。
16歳、夏。ぎこちない、初めてのキス——。16歳、秋。時間はゆっくりと、けれど、確実に私たちの関係を変えていった。誓いは荒波の音に消え、黄昏時が、愛しい人をさらって行った——16歳、冬。それでもやっぱり、心だけは離れることが出来なかった。二人の物語はこの場所からはじまった。私の幸せは寿の幸せ。寿の幸せは、私だったんだね。
自信なんてこれっぽっちもなかった。でも今はもう怖いものなんて、なにもない。
ずっと時の中を互いに彷徨っていた。けれど、無駄な時間なんて一分一秒もなかった。私たちはいまも、時の中にいる。時間はいまもしっかりと流れ続けている——。
END.
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