25歳、冬(47話)
たくさんの出来事をくぐり抜けてきた。そしていま、ここにいる自分のことも遠く離れた場所にいる彼やあの人のことも誇りに思ういつの日も。人ってきっと言葉にならないような思い出だとか気持ちを抱えて、そうして生きていくんだよね。
この海を見つめるとき——私はいつも、過去を思い出す。
春の風に包まれて、はるかな夢を描いた。夏の雲が途切れては消えていった。秋の空は切なくて冬の海は冷たくて。夢中になっていくほどときは経っていった。いままで本当に、いろんなことがあった。お母さんが死んでから、ずっと。
あの日——母が死んだとき以降、立ち寄ることすら一切できなかったこの場所。怖がる私を幼馴染の彼がここに連れ出してくれたのは、母が死んでからちょうど半年が経ったときだった。それからここが、私の特別な場所になった。
中学のとき転校が決まって、好きな人に別れを告げた場所。16歳、彼と結ばれたあの暑い夏の日。17歳、自ら大切な人の温もりを振り払ったのもここだった。19歳……彼をひとりでずっと待っていた、この場所。
元婚約者——藤真さんと別れてからこの場所に立ち寄ったあの日の海はひどく荒れていた。そうして彼に『幸せか』と聞かれたのもこの海だった。ここにはたくさんの思い出が詰まっている。
『——もしもし? 名前?どうしたのよ』
呆然と海を眺めていて、不意に彼女の声が聞きたくなった。相手の都合も考えず電話を掛けたらなんと発信二秒で出てくれた。思わず笑みがこぼれてしまう。
「……彩子。」
『……ん? どしたのよー?』
「ううん。無事に実家に着いたから、伝えようと思ってさ」
そう密やかに告げると相手は笑って「そう」と短く、穏やかな口調で返してくれた。実家と言いつつまたこの場所にいることは他人の心を読めるらしい彼女の並外れた能力ですでに読み取られているに違いないだろうとは思うけれども。
『……名前?』
「ん?」
『私たちの前で無理して大丈夫なんて言わなくていいから』
「え?」
『アンタは昔からそうだもの。大丈夫って言って大丈夫だったときなんて一度もないわよ』
「……彩子。」
今日の海は彩子の声音のように、とても穏やかだった。まるで私のことを癒してくれているみたいに——。
『だからこれからは無理なら無理、嫌なら嫌ってちゃんと言いなさい?』
「うん……わかった」
『ところで名前、アンタいまどこにいるの?』
「うん……海に、来てたよ」
『……。そうだと思ったわ』
「はは……バレバレ。」
『ほんと、アンタって子は』と、彼女が溜め息まじりに笑う声が、電話の向こうから聞こえた。大人だって誰かの子供。甘えたくなるときだってあるよ。でも大人だから、親だからって、自分に言い聞かせて踏ん張っているんだ。大人ってなんだか切ないよね。子供の頃は大人はずるいなぁとしか思わなかったのに。彩子といると私はいつも子供のように甘えたくなってしまう。
『名前……』
「んー?」
『三井先輩のとこ……行ったら?』
一瞬ザザッと、波の音が荒くなった気がした。人は道に迷って初めてその道をおぼえると言う。希望を信じて、いまは、この苦しみに耐えよう。そう、決めたから——。
「もう……いいの。」
『え?』
「わたし、やっぱりすがってたんだと思う……。思い出にも、寿にも。」
『……』
「本当に大切な人なら……出会えただけでも感謝しなきゃ」
『名前……。』
「本当に大切な人なら、幸せになることを願わなきゃね」
『……アンタ、また大人になったわね。』
「へへ、まーね!」
大切な人が幸せになる。そだけで自分も幸せになれる。それに気づけたら私は本当の幸せを手に出来るような気がするから——。
*
—— プルルル…… ——
彩ちゃんと彼女と三人で会った翌日。この日は日曜日だった。オレは、きょうは一日寝る日!と決めて、ダラダラとベッドの上で過ごしていた。そのとき、突如として鳴り響いた自身のスマホ。枕元に置いてあったそれを気だるく手に取り着信相手を確認したあとオレは「はぁ〜あ!」と抑揚つけて溜め息を吐き散らしてその着信を取った。
「はい〜?」
『宮城か!?』
「うるせ!……な、なに。どーしたんスか……」
ハァとまたひとつため息を零して「今度は」と嫌味を含ませて言ってやったけど、実はどうしてこのひとが電話かけて来たかなんてことはもう、オレにはわかり切っていた。ほんと、バレバレ。
『名前いまどこに居る?頼む、会わせてくれ』
「……はぁ〜。アンタ、今度こそちゃんと幸せにできんのー?」
『ああ、約束する。だから最後の頼みだ、名前に会わせてくれ!』
「名前ちゃん……いま、そっちにいるよ」
『えっ……?』
「アパートも引き払って、実家帰った。」
『本当か!?』
電話の向こうですでに息を切らしている先輩。きっと、闇雲に彼女を探し回っていたのだろう。ほんと、無駄に一生懸命なところはあのころと、ちっとも変わっちゃいない。いろいろあったけど楽しかった高校時代。必死にボールを追いかけて笑ったり泣いたり。きょうまで生きて来た人生のなかでいちばん色濃く、鮮明に残っている。
「——三井サン。」
『あ!?』
「さて、ここで……」
『えっ?』
「湘北のセンセーに、プレゼントがありマス。」
いつの日も走馬灯のワンシーンに出演してくるクソ俺様でにくたらしくて、偉そうで口が悪くて意地っ張りでプライドだけ無駄に高くて、俺様で偉そうな、オレの大切な仲間。
�� アンタが居てくれてよかった ��
それはいまになってもイチミクロも揺るがずに変わることのない、オレの本音デス——。
*
—— カン、カン、カン…… ——
「はあ、はあ、はあ……!」
何年もまえに同じ情景と遭遇したことが脳裏をよぎる。必死に全力疾走した高校生活最後の日。いまでも生徒と一緒に走り込みをしていたお陰でこれくらい余裕だろうと生意気な後輩との電話を切ってから勢いよく走り出した——が、結局息が上がっている始末。あのころとおなじかよ、と、情けなくなった。
線路のまえで立ち止まると、全力疾走してきたツケが一気に押し寄せてきた。この感覚もまるでデジャブ——。
『名前ちゃんが別れを切り出したことが
ずっと三井サンのなかで
引っ掛かってるのは分かってるけど』
『あれは、名前ちゃんの
思い違いだと思うんスよねー』
電車が通り過ぎると、遮断器が上がった。その長い棒があがり切るまえにまた全力疾走。これもデジャブ。
『
名前ちゃんは自分を犠牲にすることが
三井サンへの愛情だと思ってた。
』
ずっとずっと、俺は、名前と……
『
自分を殺して生きることが
三井サンのためだと信じてたんだと思うんだ
』
『
けどオレ好きな人のために頑張るのは
ちっとも苦じゃないと思うんだよね。
』
『ずっと一緒にいる』と、心から誓った。
18歳、秋——。
『
だからさ、名前ちゃんも三井サンも
これからはなにがあっても
』
『
自分のためにとか、自分のせいでとか
考えるのは、もうやめてよ。
』
名前の笑顔が……
名前が俺の、すべてだった——。
『
大好きなひとが
笑ってるだけで幸せになれる
』
『
そんな簡単なことに気付けば
二人にもきっと、幸せがくるよ。
』
もう二度と、遠回りはしたくない。
あいつだけは、失いたくないんだ……。
『
なにもしなくても
相手がそばにいるだけで幸せって
』
『
オレは、
それが本物の幸せだと思ってマス。
』
「はぁ、はあ……はぁ……」
………ちくしょう。やっぱり正直しんどいぜ、全力疾走——!
「くっそ、宮城のヤロー......」
『
さっ、三井サン。
頑張って、全力疾走で探してくださいな!
』
『
可愛い可愛い後輩のオレからの
最後のプレゼント、受け取ってよ。
』
あのときと同じ、ラストスパートは神社の長い階段。この長い階段の先に、最後の答えがある。階段を二段越し。これもデジャブ。そして、ようやく登り終えて真っ先に向かったのは、絵馬所。
——どれだ、どこにある……!
カタンカタンと音を鳴らしながら乱暴に絵馬を捲って探す俺。はたから見たら不審者だ。すると見るからに真新しい板が、俺の足元にコツン、と落ちた。裏返しになったその絵馬を、ゆっくりと拾い上げて表面を見た瞬間、俺は目を細める。
そうしてその絵馬に書かれた文字をそっと指でなぞると、不意に笑みが零れた。
「あった……。」
『 寿が 絶対 絶対 幸せになりますように。
名前 』
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