第四話
太陽に壊される愛




 7月20日。
神奈川県立湘北高校、終業式。
三井の通う湘北も夏休み前の最後のホームルームが行われていた。

「高校生活最後の夏休みだからと言ってのほほんと遊んでいるとその差は開いていくばかりだぞ?」

三井は担任から配られた通知書を眺めながら頭をガシガシと掻いた。

「いいかお前ら、この夏が勝負だぞ!」

バスケ部に復帰した三井の一学期が慌ただしく終わり、とうとう担任から『志望校』の話を昨日の二者面談の時にされた。
「バスケット続けるんだろ」の言葉に無駄な期待が重く伸し掛かる。しかし現実はこの用紙を見れば頭の悪い自分でも分かる。志望校どころか卒業すら危ういのでは?という事を通知書が正確に告げていた。三井は吐き気がしそうになった。





「母さん今日のコレ、何のマルだ?」

名前の父親は7月20日にマル印を付けられた壁掛けのカレンダーを見ながら母親へ問いかけた。

「え?知らない、私じゃないわよ?」
「じゃあ名前か……ああ、世間の子達は今日から夏休みかぁ」


 7月20日、午後8時。
バタンと自宅の扉を閉めた三井は脇に停めてあった自転車に跨るとペダルに足を掛けた。そのまま自宅の庭を出ようとした時、入り口の門の目の前に母親が仁王立ちしていた。

「うわっ、びっくりすんじゃねーか!何してんだよ」
「夏休みに入ったら今度は夜遊びか!これ以上バカになったら承知しないよ!?」
「だから!勉強しに行くって言ってんだろ!」

自転車の目の前に立つ母親に「どけよ、」と漏らした三井はそのままグイグイと自転車で母親を押しのける。

「赤木んちで、木暮と一緒に」
「へぇ〜じゃあ、お母さんも一緒に行こうかな〜」
「いいよ来なくて!」
「後で電話して確かめてやるからね?」
「ああ、携帯の方にしろよ」

そのまま勢いよく自転車を漕ぎだした三井の背後から「10分置きにするからね!!」と言う母親の声がした。

 夏の夜の路上ライブは少々場所取り合戦のようなところがある。毎日のように同じ時間、同じ場所で歌っていると自然とそこは誰も使う事はないのだが数日でも抜けた途端に誰かが割って入って来る。

「……」

名前は頬杖を着いていつも利用していた駅の西口、彼女の特等席でガチャガチャとロックンロールをかましている派手な兄ちゃんの演奏を頬を膨らましながら眺めていた。

「よぅ、」

名前の頭上から声が掛かった。
見上げるとそこには三井が少し息を切らしながら突っ立っていた。

「ああ!本当に来てくれたんだ!」
「約束したからな」

三井は名前の真横にドカッと腰を下ろした。

「走って来たの?」
「いや、チャリ」

「ん」と隅に置かれた自分の自転車を指さす。その仕草に名前は先程までの不機嫌が一気に消え去って笑みを零した。

「つか、これ何?」

また正面を向いた三井は目の前でロックンロールを繰り広げる彼に対して名前に疑問を投げ掛ける。

「場所取られちゃったの」
「あ〜、いつもあそこで歌ってんのか」
「そうなんだけど…」
「それにしてもひでーな」

そう漏らした三井の横で名前も思わず苦笑いをした。

「あれ終わるまで待つのかよ?」
「うん、それしかないもん…ずっと楽しみにしてたのになぁ」

ふと名前に視線を落とした三井。残念そうに目の前の演奏を眺める彼女に不意に質問する。

「歌って、ここじゃなきゃダメなのか?」
「えっ?」

名前の目には何かを企んでいるように口角を上げる彼の顔が映った。そして何か閃いたのか少し笑った三井が立ち上がり名前のギターケースを持つと「ほら行くぞ」と先に歩いて行く。

「えっ…?」
「早く来いよ」

疑問符を浮かべながらとりあえず三井に着いて行った。三井はそのまま隅に置いてあった自転車の籠にギターケースを入れると自転車に跨り名前を誘導する。

「ほら、乗れよ」

フリーズして目の前の自転車を眺めていた名前はぎこちなく三井の自転車の後ろに跨ると静かに呟いた。

「二人乗りなんて初めて…」
「マジで?」

そう言って自転車を漕ぎだそうとペダルに足を掛けた直後

「…ったく、あぶねーって」

そう呟く三井が名前の両腕を自身の腰に回すようにそっと引き名前の両手は三井の腰に手を回す形となった事で自然と上体も彼の背中に触れ合う体勢になった。

「これでよし!」

三井がペダルを漕ぎ始めた時名前が彼に問いかけた。

「どこに行くの?」
「あ?…… いいとこ!」

三井の後ろで徐々に変わる見慣れない街の景色に目を輝かせていた。少し走った後、三井が自転車を停める。すぐに自転車を降りた名前はネオンの街並みをぐるりと見渡す。
「…ねえ!ついでに街も見ていい!?」とはしゃぐ名前の姿に自然と笑みが零れた三井は「ああ」と返した。

いつもの自分の行動範囲の中にある景色は、この時間になると真っ暗で人影も少ない。
そんな街並みが嫌いではなかったのだが寂しいなと感じながらいつも駅の西口まで歩いた。
しかし今日連れて来てもらった繁華街は、この時間帯でも多くの人が賑わっており名前は胸騒ぎを覚えた。楽しそうに街を眺める名前を三井もまた得意げに見下ろす。

「お腹空いちゃった」
「あそこの肉まんうめーぞ?」

隣を歩く三井が少し名前の方へ寄り添い中華まんの屋台を指さす。二人は肩を並べて肉まんを頬張り他愛もない会話をする。

「あ!あれ何かな!」
「オイまたかよ、ちょっと待てって」

三井は駆け出した名前を追いかける。そんな“高校生らしい”時間を過ごしながら、二人は次に大型客船が浮遊している港まで自転車で向かった。

「大きいねえ〜!!」
「でけーな」

子供のようにはしゃぐ名前を見て三井も自然と笑みが零れた。

「あれ何?」
「どれ?」
「あの一番上の」
「どれ?あの棒?」
「違う、あっちのやつ」

そんな二人の姿を満月の光が優しく照らしていた。
その後はゲームセンターに行った後に、二人はようやく駅の方へと向かった。
いつも通っていた駅よりもここでは路上ライブを行っている人たちが見える。ギャラリーが多くいるこの駅に名前が足を運んだのは初めてであった。演奏場所を探していた名前に三井が提案する。

「あそこは?」

三井が指さした先は大きな向日葵が描かれた看板の目の前。看板にスポットライトが多数当てられていて、まさに“ステージ”を演出しているようだった。

「…うん!」

頷きその場へ駆け寄った名前に三井も笑顔を返し三井は名前から少し距離を取り彼女の目の前に腰を下ろした。
名前はギターを軽く鳴らして音を合わせた後、立ったままで大きく深呼吸をした。

「 〜〜♪ 」

名前と三井の後ろを横切ったカップルが歌声に立ち止まり、導かれるように三井の隣まで歩み寄って来た。そのあと大学生くらいの男の子三人組や帰り道で通ったであろうサラリーマンやらも釣られて名前の演奏を聴きに目の前まで来る。
いつのまにか人だかりが出来ていて三井は座ったまま辺りを見渡した。名前が歌い終わってお辞儀をすると今まで聞いたことのないほどの拍手が沸いた。

名前はいつも西口駅前で歌っている時のようにあぐらを掻いて地面に座り込みギターケースの上に置いたキャンドルに明かりを灯した。ついこの間出来上がったこの曲は今、目の前に座っている彼を思いながらあの青いベンチで作曲した曲だ。
あの日初めて彼と隣り合わせで座って話をした。

始めは特殊フィルムの中から眺めていた彼の姿。
生身の彼を見つけた瞬間に走って追い掛けたあの日の自分の高鳴る鼓動を今でも鮮明に覚えている。

その後、親友の名前の働きかけで彼の名前を知った。
その彼が目の前に立っていて、声を掛けて来たのはあの特殊フィルムからいつも眺めていたバス停であった。

この歌を歌い出す数秒前、ふと目の前の彼に視線を合わせてみると「ん?」とでも言いたげに不思議な表情を返して来た。そんな彼の仕草にふっと笑みが零れた名前は今日のために急ピッチで編曲した自身の歌を歌い始める。


あなたがいる場所に
いられたらいいのに

決して諦めるなと 人は言うけれど

あなたがいなければ
自信を持つのは難しい

でも私は独りで歩いて来た
月灯りの夜 星たちと一緒に

私は独りで歩いて来た
隣には誰もいない

今はあなたと歩いている
堂々と顔を上げて

真っ暗な空のもとで
生きていると強く感じる



耳に飛び込んで来た彼女の歌声に三井はあの日バス停で見た今、目の前にいる彼女との事を思い出した。
流川の一年生らしからぬ技術力にスタミナ溢れる桜木のプレー。あいつらはまだまだ伸びる。けれど自分は来年には高校を卒業する。

自分の弱さでバスケットから離れていた約2年間。
三井は焦っていた。自分はこのままで無事に高校を卒業できるのだろうか。ずっと大好きなバスケットは続けられるのだろうか、と。

そんな事を考えながら歩いていた帰り道にふと聴こえて来た歌声は、少々苛立っていた三井の心の中を洗い流してくれるような感覚があった。
三井はどんな人が歌っているのか気になり本来は徒歩で帰る時には寄り付かないバス停の方へ向かおうと細い坂道を登った。

辿り着くと瞳を閉じたまま歌っている彼女が見えた。
青いベンチに腰を下ろし奏でるその音色と月に照らされた彼女のシルエットに『ドキン』と胸が高鳴った。
自然と彼女の目の前に足が向いた三井。しかし彼女は三井の気配に気づくでもなく尚も天使のような歌声を響かせ気持ちよさそうに音を奏でていた。


でも私は独りで歩いて来た

月明かりの夜 星たちと一緒に
私は独りで歩いて来た



名前の透き通った声と歌詞が、今の三井の心の中にリアルに染みこんでゆく。
三井の目から無意識に熱い涙が零れ落ちた。

夏休み初日の路上ライブは大歓声の中、幕を閉じた。
その日の帰り道、三井の腰に両手を回して自転車の後ろに乗っていた名前は幸せを噛みしめながらそっと彼の背中に顔を埋めた。三井も自身の背中に彼女の温もりを感じながら自転車を握る両手に力を込めた。

辿り着いた堤防で二人は肩を並べて腰を下ろしてどこまでも広がる海と、まだ薄暗いままの空を眺めていた。

「将来はやっぱりCDデビューとか目指してんのか?」
「将来?…そうだね、そうなれたら夢みたいだね」
「すげーよなー!俺なんか何もねーもんな」
「ん?」
「あ、いや…このまま普通に生きて普通に死んでくんだろーなって」
「そんな事ないよ」

名前に目線を向けた三井には真っ直ぐに海を見つめる彼女の姿が映った。

「これから何だって出来るよ」
「そうか?」
「そうだよ、やりたい事もきっと見つかるだろうし…まだまだこれからだよ」

“やりたい事”と言った彼女の言葉に三井はバスケットを思い浮かべた。そして何故か嬉しくなり自分でも単純だと思いながら「そっか、そうだよな!」と彼女の方を向いて答えると彼女も満面の笑顔を返してくれた。

「三井寿、彼女は……いねぇーよ」
「えっ…?」

三井は勢いよく立ち上がると海側に体を向けて名前には背を向けたまま言葉を続けた。

「特技は、バスケット。」

隣に座っていた名前の方に向き直した時、彼女も三井を見上げた。

「俺と付き合ってくれ」

その言葉に名前は目を見開き落ち着かない様子で瞳を泳がせた。三井は動じる事なく真っ直ぐに彼女を見つめたまま返事を待った。
暫くしてからようやく彼女が三井にゆっくりと視線を合わせて座ったままの姿勢で笑顔を見せて言った。

「…うん」

その返答に三井は誇らしげに頬を緩ませ、また正面を向いた。

「…さーて、そろそろだと思うんだよな」
「ん?」
「この海、朝がきれいなんだよ」
「…… え?」
「このまま見ていこうぜ、あと10分くらいだからよ」
「…うそ、」

名前は自分の腕時計を見た。
時刻は午前4時28分。
日の出の時間を忘れていた事に気づいた名前は辺りを見渡した。そのまま勢いよく立ち上がった名前に三井が言う。

「今度見に来いよ、俺のバスケットしてる姿」
「帰らないと……!」

名前が三井の方へ体を向けて必死に訴えかける。

「は?今さら門限はねーだろ」
「私っ…」

名前が途端に俯き、また顔を上げ三井に再度訴える。

「お願い、帰りたい」
「もうちょっとなんだけどなぁ…」

名前は後退りをし三井に背を向けて来た道を戻り始めた。その足音に三井も振り返り首を傾げていたら名前が急に走り出した。

「おいっ!どうしたんだよ!」

三井はすぐに走って追いかけ、名前の腕を勢いよく掴んだ。

「ちょっと待てよ!」

腕を掴んだ事で名前が三井の方へと体を向ける。

「わかったから!送ってくからよ」
「…ごめん、ごめんね」

そう言ってスッと三井の腕から擦り抜けた名前はそのまま、また走り出した。

「ハァ、ハァ、ハァ …!」

朝日が昇り始めて真っ暗だった空が明るくなったことで鮮明に見えはじめた足元のコンクリートの道をただひたすらに名前は走った。体力が続かない名前は勢いよく走った事で息が切れ一度立ち止まった。

「ハァ…ハァ…ハァ、」

息を整えていると背後から自転車を走らせる音が聞こえて来た。キキーッとブレーキを鳴らして止まったあと名前が顔を上げると三井が困惑しながらも言った。

「乗れよ」

その言葉に名前は彼の自転車の後ろに跨り三井は急いで自転車を漕ぎ出す。名前の自宅前に辿り着いた三井は自転車を停めた。勢いよく名前が自転車から降りて、そのまま目の前の長く続く階段を急いで駆け上がって行く。

「お、おい!ギター…!」

そんな三井の言葉に振り返る事もなくただ夢中でコンクリートの階段を駆け上る名前。
階段を登りながら名前がふと見上げた空は太陽が昇る直前であった。自宅の木目調の玄関の扉に手を差し伸べた頃、太陽が完全に顔を出した。同時に背後から勢いよく階段を駆け上ってくる乱暴な三井の足音も名前の耳に届いた。

「待てよ!!」


 ― バタンッ!! ―


三井が扉の目の前に辿り着いたのと同時に勢いよく玄関のドアが閉まった。名前はドアの向こうに彼の気配を感じながらそのままドアの目の前で崩れ落ちた。
三井は息を整えてからそっと玄関脇にギターケースを置くと登って来た階段を静かに降りて行く。名前はその足音を確認しながら声を殺して泣いた。






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