第七話
忍び寄る運命の影




「 …〜〜 ♪」

ベッドに横になって名前が雑誌を読んでいた。程なくして名前のギターの音が不意に止み、彼女は弦を抑えていた左の手のひらをじっと眺めていた。

「名前?どうしたの?」
「…ううん、何でもないよ」

 大脳が僅かながら委縮し始めていると主治医から言われたのはつい二日前の事。XPの神経症状が発症したものだと思われると告げられた名前の両親。
それは恐らく近い将来、全身に麻痺が進行していくという事実を突きつけられたようなものであった。名前の父親と母親はその事実を名前本人へは伝えない事にした。
一度だって名前を太陽にさらしたことなどなかった。小さい頃、外に出たいと泣き叫ぶ名前を家の中に閉じ込めて来た。
死にたいと思っている人は世の中に沢山いるのに…
何故、自分たちの娘がこんなことに。今まで自分たちがしてきた事は全部、無駄だったのだろうか。


名前はギターを弾くのを止めた。
左手はほぼ動かない状態まで来ており、あの何度も足を運んだ駅の西口へも行かなくなった。名前の容態を電話で両親から聞かされていた三井。しかし本人は変わらず名前に会いに来ていた。名前を今まで通り勇気づけてあげたかった。
無理をしないでと名前の母親に言われた三井であったが、自分が好きで会いに来ているだけだと名前の両親を真っ直ぐに見てそう伝えた。

翌日、部活が休みだった三井は夜に備えて眠りについていた。何度も鳴り響くインターホンに起こされて気怠く階段を降り玄関の扉を開ける。
そこにはいつも顔を合わせている後輩二人が微笑を浮かべて突っ立っており三井は咄嗟に溜め息を漏らした。

「顔見て溜め息吐くなんて嫌なセンパイっスね」
「ミッチーずっと寝てたのか?」
「うっせーな…… なんだよ。」

宮城と桜木は顔を見合わせて、またニヤニヤと笑い出す。

「三井サン今週の土曜日、湘北で練習試合やるんで」
「あ?聞いてねーぞ、そんなの」
「オヤジがセンドーんとこに頼みに行ったんだよ」
「安西先生が?」

驚いて目を見開く三井に宮城が誇らしげな表情で告げた。

「土曜日、試合開始は午後8時。」
「…え?」
「ちゃんと自主練も怠らない事っ♪」
「宮城……」
「ヨロシクっ♪」
「ミッチー寝坊すんなよ!じゃーな!」

そう言って二人は三井に背を向けて帰って行った。
角を曲がって先に姿が見えなくなった桜木。宮城がそれを待って桜木を目で追った後にふと立ち止まって三井の方を向いた。

「三井サン!」
「あ?」
「名前ちゃん、呼ばないと意味ないスからね!」
「…わーってるよ」
「へへ、じゃね♪」

宮城は手を軽く上げ桜木が曲がって行った角を追いかけるように走って行った。三井は二人の姿が完全に見えなくなった事を確認して無意識に微笑んだ後、静かに玄関の扉を閉めた。

 その日の夜、三井は目覚まし時計を止めると急いで名前の自宅へと向かった。名前が玄関まで三井を出迎える事をしなくなったは、つい最近の事。最近ではベッドで横になっている事の方が増えた。
父親に玄関先で「部屋に居るぞ」と言われ、階段を登り横になっているであろう名前の姿を見る前に一応、声を掛けてみる。

「入るぞ」
「…うん、」

返事を待って名前の部屋へ入った三井の目にはベッドの壁に背中を預ける名前の姿。きっと今まで横になっていたのだろう。

「よう、」
「うん。」
「どうだ?調子は」
「……」
「名前?」

彼女に視線を落とした三井は気付いた。名前の左手が微かに震えている事に。

「せっかくCD製作まで提案してくれたのに……歌えなくなっちゃった、ごめんね。」

その言葉に三井は返答せずに窓際まで行くと、そっと窓の下を見降ろした。

「俺なんか変なことしてなかったか?」
「…え?」

三井は特殊フィルムをカラカラカラ〜と巻き上げて窓を開けた。

「こっから見てたんだろ?」
「… うん、」

名前はゆっくりと上体を三井の方へ向けて両足をベッドから降ろしてベッドに腰かけるように体勢を変えた。

「変な事って?」
「え?んー……歌ったりとか」
「ハハ、してないよ」
「逆立ちとか、ほふく前進とか」
「してない、してない」
「はは、だよな…ならいーけど」

名前はベッドから立ち上がると三井の方へ歩み寄り一緒に窓の外を眺める。

「私が最初に見たのはね?左足にギプスを付けてベンチに座っている三井寿。」
「……」
「長い時間、ずっとベンチに腰を下ろしていて何か考え事してるのかなって」
「ああ、あの日か」
「久しぶりにバスケットボールを触った感触はどんな感じだったの?」

名前が三井を顔を覗き込むと楽しそうに尋ねて来る。

「え?…あ、いや…嬉しかったよ単純に、ようやく戻って来れたなって」
「そっか…」

名前はまた窓の外に視線を向けた。

「私がライブから帰って来た時にバス停で寿君を見かけた日があって、ベンチで飲み物を飲んでいてね?」
「ああ」
「何か部活でもやっているのかなって」
「体力付けなきゃなんねーからな、たまに朝走り込みしてた」
「うん」

窓の外を眺めたままの名前を見つめてから三井は名前の腰にそっと腕を回して一緒に窓の外を見降ろした。

「それから少し経って、夕方過ぎにバス停に立ち寄った寿君がね?また何か考え事してた時があったの」
「ああ」
「暫くしたら二人組の…宮城さんと桜木君が歩いて来て」
「えっ?」
「寿君に宮城さんがバスケットボールをパスしたんだよ」
「…覚えてるよ、それ。綾南戦の後だな」
「あの時すごく嬉しそうだった…見てるこっちまで嬉しくなっちゃった」
「名前も見てたのか」

名前は窓を背にして振り返り小さく言った。

「私もそうだったの」
「……」
「初めてギターを手にした時、寿君と同じように嬉しかった」
「…そっか。」

名前と視線が合い微笑み掛けた三井はそっと名前を抱き締めた。

三井が帰ろうと階段を降りると、名前の両親がダイニングで座ってテレビを見ていた。「もう帰るのか」と聞かれたので「あまり無理させても」と遠慮がちに三井は答えた。そのままダイニングに足を踏み入れた三井を不思議そうに名前の両親が見上げた。

「あの…、」
「どうしたの?ひさし君」
「今週の土曜日なんですけど、名前の事少し外に出しても大丈夫ですか?」
「土曜日?」

名前の父親が尚も不思議そうに三井に聞き返す。

「俺の、バスケットしてる姿見てもらいたくて。」
「え?」
「バスケ部の連中が夜に試合組んでくれたんです」
「そうだったのか」
「土曜日、夜の8時から湘北高校の体育館に…名前の事連れて来てもらえませんか?」
「…ありがとう、ひさし君」
「名前も喜ぶよ」
「すんません…よろしくお願いします。」

三井は頭を下げると「おじゃましました」と玄関を出た。
暗闇の中で階段の手すりを掴んで立ち止まる。ふと月を見上げたあと一呼吸付いてからその長い階段を下りた。

「…ねえ!」

階段を下り切った頃、名前の声が頭上から聞こえたので思わず振り返ると階段の中間付近に立っている名前の姿。

「私の手こんなになっちゃったけど…私の声は聞こえてるよね?」
「名前…」
「聞こえてる?」
「……聞こえてるよ!」
「なら歌う、私…歌うから!」

その言葉に三井は大きく頷いた。

「またねっ」

名前は笑顔で三井に手を振って駆け足で玄関へ向かい、すぐに扉の閉まる音がした。
三井もそれを確認してまた足を踏み出す。何故か涙が止まらなかった。






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