翌日——。きっと会社にでも現れるだろうと思っていたが、彼女は来なかった。
でも帰ればきっと、あの出窓に座って『お帰り〜』なんて言うはずだと思ってた。だけど、部屋にも来なかった。
そんな日が三日ほどつづくとさすがに気になりはじめた。彼女が来ない、ただそれだけなのに。
あの高飛車な言い方にすっかり慣れてしまったせいだろうか。居ないと、面白くない。なんかよくわかんないけど気になる存在というか。いや、でもそうなる存在。でもなぁ……なんで遊園地であんなに機嫌悪かったんだろ。ほったらかしにしていたわけじゃない。彼女が乗りたいと言った物に乗ったんだ。
「……わっかんねぇ。」
でもまぁ、俺も怒ったけどそれで気にしてんのか。いやぁ、気にするようなタイプか? どうなんだろ、よくわかんねーけどさ。
仕方ない、一回会いに行ってみるか。と、翌日俺の足はすぐに桜の木の元へ向かった。桜は緑の葉をつけ始めて桜の花の終わりを告げていた。今年の桜ももう終わりなんだろう。あれだけ賑わった花見の客ももうどこにもいなくて人影は疎らだった。あれだけ賑やかに人がいたのに寂しいもんだな、なんて思いながら、彼女の元へ行った。桜の木の下で、声をかけてみる。
「名前?」
——と。しかし、返事はない。なので、もう一度。
「名前? いないの?」
そう声をかけると『いるけど』と。そんな声が聞こえた。いつもの枝に座って俺を見下ろしている彼女に何故かほっとしていた自分がいた。
『怒ってるのかと思った、もう私になんて、会いたくないんじゃないの?』
「え、なんでだよ。俺が名前を嫌う理由なんてないだろ?」
「だって、このまえ……」
「このまえ?……ああ、あれは。俺だけに迷惑がかかるんじゃなくて、他の子も居たから怒っただけで」
「……」
「べつにそれで名前を嫌うなんてことはねーよ」
我が儘なのは、いまにはじまったことじゃないし、それに、俺の体に入ることも嫌じゃない。
「付き合うって言っただろ?それは、いまも変わってないよ」
そんな俺の言葉にどこかほっとした顔をしたから、気にしてたのか?と思ったけど。だがそれは一瞬で、すぐいつもの彼女に戻った。
『ねぇ、洋平』
「ん?」
『昨日思いついたんだけど、海っていいところ?』
「いいところってか、広いし、まあ……綺麗だよ」
『じゃあ、そこに連れて行ってほしいな。海を知りたい』
「わかった。時間作るよ、また家にも来るんだろ?」
『う、うん……』
「じゃあ、そのときまた行く日を決めようぜ。とりあえず顔みれたから帰るよ」
そう言って背を向けたとき彼女が珍しく遠慮がちに聞いてきた。
『あの、今度は洋平だけだよね?海行くのって……』
「え?……ああ、そうだな。けど、なんで?」
そう言って振り返った俺に『そういうことならいいの!じゃあね!』と。そう言うと彼女は姿を消した。「変なヤツ」って。そうつぶやいて俺はまた背を向け歩き出した。
遊園地で洋平が怒ってしまってから、たぶんこれで洋平をもう誘いは出来ないし、きっと彼は、私を拒むだろうと思った。
だから会いに行けなくて、静かに洋平に出会う前のようにただ、この場所で通る人を見ていた。前と同じ時間が過ぎていて私は桜の木の下を通る人の話を聞いていた。そのなかで��海�≠ニいうのを聞いた。
海ってなんだろう——私にはわからないけど素敵なところだって言うのは、聞いていてわかった。でも、洋平には言えない。会いに行っても、もしかしたら、もう……同化できない可能性だってある。
私を拒否したときはもう洋平には私が見えていないだろうし、事実を知るのが怖かった。
私の知らない世界を教えてくれた。いつだって我が儘を聞いてくれた。
あの日から三日が過ぎようとしたころ、もう洋平は私のことなどどうでも良くなったんじゃないか?私を否定したんじゃないか、そんな気がしていた。
『……楽しかったなぁ』
洋平といた毎日を思い出して小さく溜め息をついた。桜の花が終わると同時に夢のような時間も終わるんだと思ってた。ずっと目を閉じて、桜から動かずにときを過ごして……。
五日目を数える朝、諦めがつきはじめていた。私はこれからこの桜が朽ちるまでのは長いときをこうして過ごすんだと。でもそれが桜の精として生まれた私のあるべき姿なのかも知れないと。そんなときだった、私を呼ぶ声が聞こえたのは——。
『名前?』
それは……洋平の声だった。同時に、嘘だって思った。怒って呆れて、もう私のことなどどうでもいいと思ったはずなのに。その声に思わずすぐ返事をしそうになって慌てて自分を取り戻す。
もう一度『名前?いないのか?』そう声が聞こえて、私はいつものように枝に座り洋平を見下ろしながら『いるけど』って答えた。
洋平は変わらない笑顔で、私を見上げていた。どうして?私は洋平にそれを問いかけていた。でも洋平は私を嫌う理由がないと言った。この前のことは、自分だけのことじゃなかったから怒っただけだと。
やっぱりこの人は優しい。でもそこで大人しくなれない、素直になれない。結局、いつもと同じ私が顔を出して、海へ行きたいといったら洋平は、すんなりとOKをくれた。いつ行くかはまた決めることになって彼の部屋にまた行くことになった。あの出窓に、また座って話が出来る。帰る彼の後ろ姿に私は聞いてしまった。
——あの、今度は洋平だけよね?海行くのって……と。洋平はなにを聞いてるんだといった顔で、ああ、そうだな。けど、なんで?と言ってくれてどこか安心した。結局洋平は「変なヤツ」ってつぶやいて帰って行ったけど。その後ろ姿が見えなくなるまで私は枝の上から見ていた。私と関わりを持った、たった一人の人間。どんなに我が儘を言っても叶えようとしてくれる、優しい彼。��ありがとう��——そんな言葉を私は飲み込んだ。
*
——翌日の夜。洋平の部屋に行った。もう座らないだろうと諦めていた出窓に腰を掛けた。
洋平は、私が来ると思っていたんだろうか。部屋の電気をつけていてくれた。いつだったか暗がりでこうして待っていたとき「電気……!つっても、付けられないんだよな、ごめん」って、いきなり来たのは、私なのに——そう言って謝った。
それ以来、洋平は電気をつけたまま、いつでも私が来られるようにしている。彼は、そう言う人だ。
しばらくすると、ドアが開いて洋平が帰ってきた。
『おかえり』と。そう言った私に「ただいま。ってかようやく来たって感じだなー」と、そう言って上着を脱ぐとソファに座った。
私は出窓に腰掛けたままで、久しぶりに洋平とこの部屋で話をした。
「あ、そーだ、名前、海行くって話なんだけど」
『うん?』
「今、仕事が立て込んでて少しだけ待ってられる?」
『うん、いいよ』
「時間、ぜったい作って連れて行ってやるから」
『わかった。ねえ、海ってどんな感じ?』
「え? あー、そうだなー」
洋平は雑誌を手に広げてコレと見せてくれた。青い海?だろうか、とても美しい景色がそこにはあった。『きれい……』と、そうつぶやいた私に「此処ほど、綺麗じゃねーけど、それは我慢しろよ?」そう言って笑った。
洋平がふっと顔を背けて、小さなあくびをした頃。私は部屋から帰っていった。「明日、一日社内にいるから」そう言った洋平に『気が向いたら行く』と言い残して私は窓から帰った。
背後から「また窓からっ……!」なんて言っている洋平の声が聞こえて、クスクス笑った。