翌日私は洋平の顔を見にふらっと職場へ向かった。一応自動ドアを抜けエレベーターに乗り込んでみる。洋平はちょうど会議中だったらしく私は片隅で気配を消してそれを見ていた。
休憩時間になって洋平が席を外したとき私はふわりと洋平のそばに行った。
「——名前?」
『うん』
「休憩だから、こっちこいよ」
そう言われて洋平に着いて行った。休憩室のソファで珈琲を飲みながら向かいに座った私に話しかける。
「さっきから、ずっと居ただろ?」
『あ、うん……気配は隠してたけどね』
「居るのなんとなくわかったんだよなぁ〜、なんか、不思議だよな」
『え?完全に消してたはずなのに?おかしいね。』
「なんか居るなってわかった、俺。」
『そう、まぁ、いいけど……でも、真剣な顔してたね洋平』
「バカ、当たり前だろ?仕事の大事な会議なんだし」
休憩のあいだ、私と洋平は他愛無い話をして、夜は部屋に行くと伝えてからいったん桜のもとに戻った。
*
三連休。ようやく彼女を海へ連れて行ってやれる。どうせ帰ったら部屋にいるはずだ。あの出窓に座って『おかえり』って、そう言うに決まってる。
明日行けると言ったらどんな顔をするだろう。でもあの子のことだからふ〜んとか、そ〜なの、としか、言わない気もする。
桜の精=高飛車、我が儘だもんな。でも、ほっとけないのはどうしてだろう。ただ、なんというか、それだけじゃない気もするんだよな……。
部屋に帰るとやっぱり居た。出窓に座って『おかえり』って、言ったんだ。それに対して慣れたように、「ただいま」といったあと俺はつづけた。
「明日、海連れてってやれるよ。朝早いけど、大丈夫だよな?」
『うん、日の出と共に起きるから平気』
しれっと、そんなことを言った。「なら決まり」と言ったものの、ありがとうとか、嬉しいとかそう言う言葉は出ないのか?とちょっとだけ思ったけどこれもまた彼女らしさで。まぁ仕方ないかと、苦笑いした。
その日、彼女は珍しく早々に引き上げていった。
翌朝、目が覚めて、リビングへ行こうとしたとき、何故か彼女の気配があって、ベッドから体を起こしてふと目をやると、ベッドの脇の部屋の隅で丸くなって眠ってる彼女の姿が目に入った。
「えっ……いつの間に来てたんだよ」
思いがけずそうつぶやいて彼女を見た。すやすやと気持ちよさげに眠っているのが、見るだけで分かる。普通なら毛布の一枚もかけてあげるんだけどかけても実体がないだけに駄目なんだよな。それでも、ベッドから降りて彼女のそばに行き、中腰になって手を伸ばした。寝てるときは、ホント可愛いのに……
「起きると、な〜んでああなるかねぇ……」
そうつぶやいて彼女の寝顔をずっと見ていた。恋人ならば、頬をつんとつついて起こしてやるんだけど。彼女はそうじゃないし、そもそも人間じゃないから、そういうことも出来ない。でもこんな寝顔を見たのは初めてだったから、じっと見ていたんだ。長い、ふさふさのまつげに弓形のきれいな眉。通った鼻筋とあの桜のような色のくちびる。桜の精だと言われれば納得してしまうほどに、綺麗な透明感がある。あくまでも見た目は、の話だけど。実際の彼女と来たら高飛車、我が儘。気位が高い——と三拍子そろっている。
「ほんと困ったヤツ……じゃない、困った桜の精だよなぁ」
そんなひとり言とつぶやいていて、ほどなくして、彼女がぱっちりと目を開けた。
「おはよ、名前……っていうか、いつからいたんだー?」
『ん? ああ、明け方……って、何覗き込んでるの?変態!』
第一声、いきなりコレだもんなぁ。参っちゃうよ。
「俺が起きたら名前がいるから驚いたんだよ、起こそうかと思ったら起きた」
そう言った俺に寝顔を見るなんてって文句を言っていたけど、そもそもは君が勝手に俺の部屋で寝ていたんだけどな……でも言えば倍になって返ってくるから言うのをやめた。
「俺、支度するから待ってて」
そう言って、シャワーを浴びに言ってる間に彼女はリビングのいつもの定位置、出窓に座っていた。
「急いで朝飯食べるから待ってて……って、名前は無理なんだよな」
『うん』
「あー、中に入る?」
『ううん、大丈夫』
「そっか」
そんな会話のあと、トーストとコーヒーで、簡単に朝食を済ませて、彼女を連れて車に乗り込んだ。
『洋平! 海!だよねっ?』
「そう、今日は隣に座ってろよ」
『う、うん……』
彼女は助手席に座りしばらく景色を見ていたけど、途中から俺の中に入った。さすがに、桜の木から離れすぎていて、俺の中に入らないと躰が辛いと訴えたんだ。こいつらの世界の常識が、俺には未だ掴めない。
彼女は俺を通して流れる景色を見ていた。やがて、海岸線が見え始めて俺が声をかける。
「名前、見えるかー?あれが海だぜ」
そう言うと、一瞬俺から抜け出て歓声を上げた。
『すごい!洋平あれが海なんだね、大きいきれい!』
ハンドルを握りながらちらっと見た彼女は見たこともないような笑顔だった。やがて、パーキングに車を停めた。
「海岸歩くぜ、中に入る?」
『うん、そうする』
「……入った?」
(うん。ねぇ、洋平……なに、この匂い?)
「ああ、潮の匂いだな」
(潮って?)
「うーん、海水の匂い、かなぁ……海水って塩分濃度が強いんだよ」
(辛いの?)
「ハハ、塩っ辛いかな」
(ふーん……)
「飲めとかいうなよ?それはぜったいお断り」
(わかってるよー)
「名前、砂の感覚、わかる?」
砂浜を歩いていたときそう聞くと俺の感覚を通してわかるって嬉しそうに言うから、俺はふと思いついてそこで靴と靴下を脱いでズボンの裾を膝まで捲り上げた。
(え? なにするの?)
「まぁ、いいから。」
(なに?)
「これが波の感触、ちゃんと感じてろよ?」
(あ……うん。)
俺は波打ち際まで素足で歩いていった。
「うわっ、まだ冷たいな」
(きゃ、冷たい!)
同時に声が上がって、彼女がそのあと、興奮ぎみに言うんだ。これが海なんだ!すごい!すごい!って。なんだかそれが、すごく可愛く感じた。まるで本当にそこに彼女が居て、二人で並んで波と戯れてるようにさえ感じていた。
なんだろう、彼女の気持ちが、まるで��同化�≠キるように伝わってきてたんだ。
しばらくそんなことをして波打ち際を素足で歩いて大きな流木を見つけた俺は、そこに腰を下ろした。
「名前、大きいだろ?海って。」
(大きいね……)
「これ、果てしなくどこまでも続いてるんだぜ?」
(私がいた公園とは全然違うね)
「だな。」
(大きくて、なんていうんだろ……吸い込まれそう)
「来てよかった?」
(うん、来てよかった)
俺たちはしばらく、海を見ていた。一言、二言しか話さなかった彼女は海を見ながら、いったい、なにを考えていたんだろう。海に来て、彼女はとても静かにこうしてるのに何故この前はあんなに機嫌が悪かったんだろう。たしかに我が儘ではあるけど、この前は、いつもとは違う種類の我が儘で。なにか引っかかったんだ。
「——なあ、名前。聞いてもいい?」
(ん? なに、洋平。)
「この前の遊園地、さ……なんであんなに機嫌悪かったんだ?」
(……。)
「言えない? 俺、なんかしちゃった?」
(……あの、)
「ん?」
(なんか……イライラ、して……)
「へっ? イライラ?」
(あのとき、一緒に来た人と、ずっと話していて……私なんか、無視で)
「……」
(仕方ないってわかってるけどイライラしちゃって)
俺は、彼女にもわかるように話しかけていたのに。晴子ちゃんに話しかけるフリで、彼女も気付いてくれたらいいって、そう思っていたのに。きっと、寂しかったんだな。だから、あんな我が儘を。
「名前、俺、あのときさ……」
(ん?)
「彼女に話しかけるフリで名前に話しかけてたんだぞ?」
(えっ?)
「名前には上手く伝わってなくて、嫌な思いしたんだな……ごめんな?」
(……もう、嫌われたと思ってて、洋平があんなに、怒ったから……きっと私を否定したなって、もう会えないなって)
「ああ……このまえ言ってたよな、そー言えば」
(あのね?洋平と波長が合ってこうしてるけど……)
「うん」
(洋平が私を否定してしまったら、どんなに私が望んでも、洋平は私を感じることが出来なくなる)
——だから、諦めかけてた。
洋平を知って、知らない世界を見せてもらって……これから何十年、それ以上を桜と共に過ごして洋平と知り合う前の様に孤独に、ただ人を見て時を過ごすんだって。
「……」
(だから、洋平が来てくれたとき……嬉しかった)
なんだか、彼女の心の声まで聞こえた気がした。
「名前、そんなこと考えなくていーよ。」
俺は否定なんかしないよ。俺が連れて行けるところは連れて行ってやる、君の世界を、広げてあげたい。
「——な? そう、言っただろ?」
なんだか、洋平の心の声まで聞こえた気がした。
(……洋平、いいの?)
「此処まで関わったんだ。最後まで、付き合ってやるから安心しな」
(うん、ごめん。ちょっとだけ抜けるね)
彼女はそう言うと、俺の躰からすこしだけ抜けた。桜から離れすぎてて長くは無理なのは知っていたから「気を付けろよ」とだけ言った。ふわりと波打ち際を舞うように走ってる彼女。笑みを浮かべて、たしかに綺麗で——桜の精だよなと、あらためて思う。
なんだろう、自分の中に彼女と��ずっと一緒にいたい�≠ネんて言う気持ちが、生まれていた。桜の精……なのにな。……何故だろう。そんな俺に気付いたのか彼女が近づいてきた。
『洋平? どうかしたの?』
「え?ああ、なんでもない。そろそろ戻ろーぜ?まだ連れて行きたいとこがあるんだ」
『どこに行くの?』
「いいところだよ、着いてからのお楽しみ。」
そう言って彼女をいったん俺の中に戻し、車に乗り込んだ。