悪夢-b
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「あ?」
たった今まで寝ていたというのに、喉から随分はっきりとした音が漏れた。明かりの無い暗闇の中、目を凝らせばベッドの傍ら、布団を掛けたおれの腹あたりの位置に、どこか遠慮がちに腰かけている女が一人。しかし人様が寝入ってる時に、その寝床に尻下ろしてる時点で遠慮もクソもあったもんじゃねェ。その上、その腰かけた状態からころりと上半身を横に倒し、体の側面をおれの掛け布団の端に沈めやがった。
そちらを向けば、おれの視界のほとんどはこいつの髪色に染まる。至近距離の髪から、おれと同じシャンプーの香りがした。人の温もりがすぐそばから感じられる気がする。足は投げ出しているにせよ、半分はおれのすぐ横に寝転がる形になったこいつに、おれは腹の底で言い知れぬ怒りを覚えた。
「オイ……てめェ、頭沸いてんのか」
「……倫理観は、ある」
「馬鹿にも最低限の思考はあるみてェだな」
体は寝ているが、頭はこいつのせいで完全に覚めてしまった。腹いせも込めて、薄い背中を手で押しやるが、これがなかなか強情で出ていこうとしない。おれが本気で蹴り飛ばしたら、お前の抵抗なんてカスほどにも意味を持たねえことがわかってるはずだろうが。いや、それを言ったら、分かっていて本気で蹴り飛ばそうとしないおれもおれだ、とすぐに気付いて、また苛立ちが増していく。
「男が寝てるベッドに勝手に転がんな。というか部屋に入るな」
「じゃあ、船長、入ります」
「許可取れっつってんじゃねェ」
「……冗談で、こんなことしない」
ぽつりと呟かれた言葉だったが、その声からは出ていく気はないという意思の強さを感じた。だが、冗談じゃないなら、本気だとでもいうのか。いわゆる『そういう気』で寝てる男の布団の中に上がり込んできたとでもいうのか、この馬鹿女は。
腕に力を入れ、寝惚けた重い上体を起こす。かるたに掛け布団の端を踏まれているから、妙に動きにくかった。
背中を向けられてその表情は読み取れない。いっそこちらに引き倒して、その顔面がどう歪むのか拝んでやろうか、なんて考えが一瞬浮かんだが、馬鹿馬鹿しくなってすぐに打ち消した。うんざりしてため息を吐くと、それが聞こえたのか、かるたは縮こまるように背を丸めて見せた。
「……ゆめを、」
「あ?」
「嫌な夢を見て」
ゆめ……夢? 嫌な夢だと?
絶句した。わけがわからねェ。頭が可笑しいんじゃねェのか、こいつ。嫌な夢を見て、ひとりで寝るのが怖くなったってか? よほどガキならまだしも、そんな馬鹿馬鹿しいことがあってたまるか。それが、野郎の布団に上がり込んでくる理由になるのか。こいつは昔も、おれが寝入ってる時に勝手に部屋に上がり込んでくることはあったが、あの頃は互いに今よりもっとガキだったし、ベッドに入ってくるなんてことはなかった。
「寝たくなきゃ寝なければいいだろ」
「やだ……」
「ガキかてめェは」
「……おいてかないで、ローくん」
しんとした部屋に、愕然とするほど消え入りそうで弱々しい声が溶けて、おれは次にぶつけようとしていた言葉を失った。
かるたの表情は終始見えてはいなかったが、どんな顔をしてるのかが容易く想像できてしまうのが全く腹立たしい。こいつは人の怒りを、ここから蹴り落してやろうという気を、削ぐのがあまりにも上手すぎる。
わざとか無意識か、久々に聞いたその呼び方。このポーラータング号に乗り込んで、あいつらがクルーとしておれを船長と呼び出してから、久しく呼ばれていなかったおれの名前。甘えてやがるわけでも、意識を引こうとしているわけでもねェが、強いて言えばそれは縋るようだった。迷子の子どもみてェだった。
たった一人の夜に残されるのが、それほど嫌か。
「……どこにも行きゃしねェよ」
手を伸ばして、一度だけその頭を撫でる。同じシャンプーを使っていても、こいつの髪はおれと違い酷く指通りが良かった。手を放し、視線を外す。こちらに引き倒して、顔を拝んでやることは結局しなかった。
かるたは、おれが手を出すかもしれねェなんて露ほどにも思っちゃいねェに違いない。おれだってこいつに手を出す気などさらさらねェが、そういう問題じゃねェだろ。そういう問題じゃねェのに、おれはもうこいつをどうすることもできねェんだから、救いようのない馬鹿なのはおれも同じだったのかもしれない。もちろん、他の野郎にそんなことをするってんなら、海にでも突き落としてその緩んだ頭のネジを締めさせるが。
半分はおれに掛かり、半分は上からかるたが寝転がっている掛け布団を、縦半分で折るようにしてかるたに掛ける。かるたが細長く折られた布団に、挟まれるような形になった。同時に、それはおれとかるたを遮る最低限の壁となる。
掛けるものがなくなり少し肌寒いが、ブランケットを出すのも、こんなことで能力を使うのも面倒くせェ。諦めておれはそのまま、再び布団に寝転がった。
かるたの方に再び視線だけをやる。先程まで胎児のように丸まってた背中はいつの間にかリラックスしたように伸びていて、この一瞬でかるたは心地良さそうな寝息を立てていた。お前が起こしたこのおれを差し置いて、気づけば夢の中か。おれの隣でなら即寝落ちするんだ、さぞ良い夢が見られるだろうな。人には置いていくなだの何だのほざいておきながら、そのおれを差し置いて。
……明日起きたら覚えてろよ。
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