悪夢-a
微かな物音と足音、それから人の気配にローは薄く瞳を開けた。室内に灯りはないが、ある程度の夜目は利くのと衣擦れの音が徐々に大きくなっていくことから、人が近付いてきていることがわかった。
あいつしかいない、とローは確信する。何にせよ、勝手に部屋に入り、あろうことか朝でもないのに寝入っている自分を起こすような、肝の据わった──もとい、命知らずな真似をやってのけるクルーなど、彼女しかいないことをローはよく知っていた。
「船長、起きてますか」
恐る恐る尋ねる、小さな女の声。瞳だけ寄越していたのを、今度はごろりと体を動かして顔を合わせる。布団に埋もれた半身。その目は未だ微睡んではいたが、しっかりと自身のクルーのことを見据えていた。暗闇の中、ローの視界に捉えられたとわかったかるたは「船長、」と再び彼を呼んだ。
「なんだ」
普段より少し低く、僅かに舌足らずで、あくまでもそっけない口ぶりの返答。しかし、その声は掠れていながらも、ほんの少しだけ砂糖を混ぜたような柔らかさがあった。かるたはわけもなくこんな行動は取らないと、きっとローは知っていた。
かるたはベッドの傍らまで近づき、横たわるローを見下ろす。それからそっと腕を伸ばすと、その指先でローの頬にひたりと触れた。
(……生きてる)
柔らかい、表面は冷たいが内にしっかり血の通っている、生きている人間の肌だ。今度は服で半分ほど隠れた左胸に手のひらを這わす。こそばゆいのか、ローの瞼が僅かにぴくりと動いた。明確な温もりと、トクトクと鼓動を刻む心臓の存在が皮膚越しに伝わり、かるたの肩からまた少し力が抜けた。ひたり、ひたり。確かめるように何度も触れ直していると、ばさりと布の動く音がして頬に衝撃。
「ベタベタ触んな」
「あひゃ」
上体を一気に起こしたローの、刺青の刻まれた大きな片手が包み込むようにかるたの頬を強く鷲掴む。彼女は唇を突き出す形になりながら、自分のことは棚にあげて……そんなことをこっそり思ったが、彼が本気で怒っているわけでもないことはわかっていたので黙認する。しかし力の強い鍛えられた腕だ。肉と歯と顎が強烈に指圧され、じんじんと痛みを訴える。
「いひゃひゃひゃ、いひゃいいひゃい」
「夜這いに来たわけでもあるめェ、とっとと用件を話せ」
「いえ、もうらいひょぶになりまひた、いひゃひゃ」
「あ?」
「ああああアゴ割える!」
叫んで訴えれば、「うるせェ騒ぐな」とようやく解放される。両頬を抑えながら、かるたはローが再び布団に潜り込んでいくのを見ていた。
(……痛い)
頬が痛む。押された感覚がじんじんと残る。そして、それをしたのは紛れもなく目の前の男で。
(この人は生きてる)
与えられた痛みに、かるたは自分ではなく相手の生を実感した。
(生きてる……)
生きてる、この人は生きてる。そう何度も口の中で言い聞かせた。
横たわったローはごろりと寝返りを打つ。無防備な背中がかるたの方に晒された。かるたはその背が、もう二度と動かなくなる幻覚を一瞬見て、また息が酷く詰まる心地を覚える。それを、その不安を拭い去るように、彼女は靴を脱ぎ捨てて静かにベッド脇に上がり込んだ。
軋む音と衣擦れの音が静かな室内に溶ける。自分のものではない他人の、しかし嗅ぎ慣れた匂いがした。どんな高い香水よりも、この匂いがかるたは好きだった。
かるたはゆっくりと体勢を変え、横になり、ローの大きな背中にそっと腕を伸ばして抱きつく。腕だけでなく、胸が、腹が、頬が触れるくらいに近い距離だった。服越しにぴったりとくっついた肌から、熱が伝わる。
あたたかい。
生きている人間の温もりだ。その体温は、酷い悪夢に苛まれたかるたに、莫大な安心感をもたらす。どうやっても自分では払拭できなかった不安と恐怖と吐き気が、音もなく消えていく。
ローはかるたの行動に反応するようにほんの少しだけうごめいたが、もう寝落ちたのか、こうなることを薄々予感していたのか、抵抗する様子はない。
(船長怒らないな)
かるたの位置からはローの表情は窺えなかったが、きっと嫌がってはいないと、そうだったらいいなと思った。
瞳を閉じて、もう少しだけローにくっついて見せる。彼の静かな寝息が先程より聞こえるようになった。
見える範囲に、手の届く範囲に、彼がいる。それはかるたにとって、とても大事なことだった。
(やさしいなぁ)
とてもとてもやさしい、私たちの尊い船長。
身命を賭して護るとかつて誓った人。
正夢になどさせない。仲間であり、恩人であり、日々であり、夢であり、希望であり、私の世界であるこの人を。私のこの命に変えても護り通す。そう心の深いところで再び誓った。
かるたはほんの小さな声量で、愛おしそうに呟く。
「おやすみなさい船長、また明日」
「……早く寝ろ」
「起きてんじゃないですか……」
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