07
海というものを見たのは、その日が初めてだった。
頭がほうけるくらいにあざやかで眩しい青が、お天道様に照らされながらゆらりゆらりと踊るように揺らめいていて、それが無限に広がり、どこまでも果てなく続いていくのだ。その海を越えていくと、見たこともない景色を持った島々がたくさんあって、自分とは見た目も、服装も、好きなものも嫌いなものも、考え方も、いろんなことが違う人々が、数えきれないほどたくさん住んでいる。そして、さらに先へ先へと進んでいくと、ぐるりと一周して元の出発地点に戻ってこられる。私たちのいるこの星はまん丸なのだ。
そんなことを聞かされていたわけだったが、残念なことに私の記念すべき人生初の航海は、それを思い出すほどの余裕など、みじん切りした玉ねぎ一欠片ぶんすらなかった。それどころか、その目映いほどの青さえも、まともに見られた覚えがない。とにかくあの日は本当に必死で、死に物狂いだった。それからどれほどかの時間が経って──今になっても、あれが何日程度であったのかは一向にわからない──ようやく下船し、走って、走って、転んで、歩いて、転んで、歩いて、歩いて、転んで…………白の上で、無情に降り注ぐ白にうずめられ、とうとう眠ってしまいそうだった時に、物凄い衝撃と痛みで飛び上がったのは、今でもよく覚えている。
そんなことを、雪面の上で、心底冷たい雪にうずめられながら思い出していた。私の体の奥の奥の芯に刻み込まれた記憶が蘇ってきたのは、走馬灯の類いではなく、単に体の覚えている感覚が似ていたからだと信じたい。
ただ、あの時とひとつ違うのは、この今にも眠ってしまいそうな体を揺り動かしてくれそうな誰かは、おそらくいないだろうということだ。
*
「タヌキ、出てこい」
「おっ、おう……って誰がタヌキだ!」
おれはトニートニー・チョッパーだ! 小声で叫びながら、おれはトラ男に詰められた袋から顔を出した。薄い袋が足に絡まるが、ケッケッと蹴り飛ばしながらどうにか這い出る。
袋に入ってた頃から、おれの鼻は強い薬品類のニオイを感知していたが、出てきてからはさらに強くなった。部屋中に染み付いてるんだ。薬品のニオイは嗅ぎ慣れていたけど、でもこれが非人道的な実験のためのものだとわかっている以上、吐き気すら感じた。
「誰もいねェんだな」
「あァ……シーザーかモネがいると踏んでいたが……まあいい。こっちのほうが好都合だ」
「おれたちの行動がバレてるってことはねェかな?」
「……さァな」
「えーっ!? なんだよその間はァ!!」
「どちらにせよ、やるべきことは変わんねェだろ。時間は有限だぞ、トニー屋」
アゴでしゃくられ、ハッとなる。そうだ、おれは子どもたちに投与されたクスリについて調べに来たんだから。そのためにトラ男だってついてきてくれた。ごちゃごちゃ迷ってる暇はねぇ!
早速潜入調査開始だ。本棚や机の上に散乱した怪しい資料を手にとって、ハイスピードで目を滑らせていく。違う、これも違う。おれに不要なページを蹄で捲りつつ、ふと訊ね損ねていた疑問をトラ男に投げ掛けた。
「そういえば……カルビ、何の用事があったんだ?」
カルビはトラ男にお前もついてこいって言われてたはずだ。だけど今ここにはいない。用事ができたとかなんとか言って、一足早くあの研究所跡地を出ていってしまった。自由奔放なウチとは違って、凄く船長のトラ男に忠実な奴に見えたから、あいつの命令に背いてまで何かをするのは意外に感じられた。言葉もカタイし。
トラ男は少し何かを考えるように小さく首を回して、それから至って淡々と呟いた。
「さァな」
「トラ男、そればっかりだぞ。自分のクルーなのに……」
「アイツは時折おれの考えも及ばないことをする」
「ふーん……」
「手、止まってんぞ」
「はっ!!」
そういうトラ男は器用に調査を続けながら会話のやり取りをしていた。トラ男のこと、おれはまだ全然知らねェけど、ルフィはイイ奴だと思ってるって言ってたし、おれもそう思う。
だからその仲間のカルビだって、最初は敵だと思ったけど、イイ奴の仲間はきっとイイ奴だ。さっきもおれのほっぺたをもふもふと弄りながら(無遠慮な奴だ、とはまあ思った)非常食だと言って小さい袋に入ったクッキーをくれた。おれの鼻には少しレモンのようなニオイが強すぎる気がしたが、一枚食ったら物凄く美味かった。カルビは料理がうめぇんだなあ。おれはカルビのことをあの『透明壁』のおかげでちょっと警戒してたけど(決してビビってたわけじゃないから、そこは勘違いするなよ)今ではもうそんな気持ちもなかった。
──それからどれくらい時間が経っただろうか。壁に掛けてあった時計の長針は、かなり動いていた。二人分の人手があったおかげで、誰かが戻って来る前に必要な材料を揃えることができた。クスリの構造もなんとかわかったし、鎮静剤も見つけて、それを子どもたちに射つための注射器もかき集めた。
「トラ男、そろそろ子どもたちの元に戻──」
「ぐっ……」
必要なものをおれサイズに合うリュックに詰めていると、背後から聞こえた不自然な声がおれの言葉を遮った。何かと思って振り返ると、何をやっても倒れなそうな強いトラ男が、その長い足を曲げて床に膝をついている。帽子の鍔から影が落ちて、表情が窺えないが明らかに苦しそうだ。おれがその光景に目を丸めた、次の瞬間。
「うっ、ぐあぁぁアアアアッ!!?」
「なっ!?」
胸を押さえて、トラ男は絶叫し始めた。聞いたこともないトラ男の苦痛にまみれた声に、心臓がうっかり口から飛び出しそうになるのを抑えて、おれはすぐさま駆け寄る。酷い息切れと、発汗。叫んだり身悶えたりせずにいられないといった様子からして、おそらく激しい痛みだ。だが突発的に怪我を負ったわけでもないし、ならもしかして何かの持病だろうか? 押さえてるのは左胸、ちょうど心臓の位置だった。
「トラ男! どうしたんだ! なにかの病気か!?」
「ぐっ、ううゥゥうううッ……!!」
病気だとして、調べるにしたって時間がかかる。トラ男に直接尋ねるしかない。だけどトラ男は本当に苦しそうで、必死に呼吸をしようと喘いでる。これじゃ聞けそうにもない。──そうだ、カルビ! カルビなら何か知っているかもしれない。でも、今あいつがどこにいるのかもわからないのに、どうやって聞きにいく? それにあいつだって何も知らない可能性もある。そんな危うい可能性に懸けるわけにはいかない。
『うちの船長のこと、どうかよろしくお願いしますね』
不意に、別れ際に掛けられたカルビの声を思い出した。
そうだ。おれはあいつから大事な船長を任されたんだ。おろおろしてる場合じゃない。おれは医者だ! しっかりしろ!
まず、現状把握だ。もしかしたら外傷があるかもしれない。手足をついて背を丸めているトラ男の下に、小さい体格を生かして入り込む。トラ男はとにかく細長ェから、そこには十分な余裕があった。それからまずコートを脱がそうとして、おれは胸元を抑えるトラ男の手を無理やりどかそうとした。
「……あ……?」
喉から、ひしゃげたような擦り切れた声が出た。
手をどかそうとした過程で押し上げたそれ。トラ男の分厚いコートの上からでもわかる、その、恐ろしささえ感じるほどの奇妙な穴。
穴が、空いていた。
トラ男の心臓部には、明らかな"穴"が存在していた。
「なっ……な、な、なっ、な!?」
舌がうまく回らない。なんだこれ、なんだこれ。まさかトラ男は人間じゃないのか? 心臓がないのに、生きていられる人間なんていないハズだ。でも、トラ男がこんなに苦しんだり発熱、発汗しているのは紛れもなく人間である証拠だった。わからない、わからない。これは、なんだ。
「トニー屋……」
名前を呼ばれ、闇雲に猛回転していた思考が止まった。それから、リセットされたようになんとかまた正常に動き出す。今にも死んでしまいそうに歪められたトラ男の顔を見て、不安から滲みかけた涙を無理やり引っ込めさせた。
「トラ男! どうしたんだお前急に!」
「心、当たりは、ある……ハァ、ハァ……お前は、先に子どもたちのもとに、もど……ぐっ!!」
「おい、無茶すんな!!」
「生憎……ハァ、……無茶するしか、手が無ェみたいでな……」
「駄目だぞコノヤロー! お前ちょっともう黙ってろ!」
半ばキレ気味になりながら叫ぶ。心当たりがある? その言い方は、持病の類ではないということか? ならまさか、外部から『今まさに』攻撃を受けている、なんて言うんじゃないだろうな? それはどういうことだ? なんでおれには教えないんだ?
無茶するしか手がないだって? お前はそんな状態なのに? お前は、自分の命を軽く見ているんじゃないのか? 駄目だ、そんなの絶対に駄目だ。おれたちはもう『同盟』なんだから、おれがここでお前を見捨てて先に行くわけにはいかねーだろーが!!
言うことを聞かないおれに痺れを切らしたのか、トラ男は床についていた手を俺の顔に近づけた。その震えた手で、おれを掴んで投げ飛ばしでもするつもりか? オウ、どんとこい! 今のお前に負ける気は──
「──"ROOM"」
トラ男の声はそれが最後だった。
全身に掛かっていたトラ男の影が突然消える。視界が一気に開け、気がつけばおれはひとり、先程とは別の部屋にぽつんと立っていた。傍らにはおれたちで探し出した大事な資料やリュックサックも転がっていたが、おれがどれだけ嗅覚を研ぎ澄ませても、近くからトラ男のニオイがすることはなかった。
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