08
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「ハァッ、ハァッ……」
「見つかった時はどうしようかと思ったけれど……意外と呆気なかったわね」
時は少し前に遡る。パンクハザードの豪雪地帯に、女の影がふたつ。内一人は雪面を背に仰向けになっており、もう一人はその相手を見下ろし得物を向けていた。
「アナタの敗因は私を侮ったか、己の力を過信したことね。あるいはその両方か」
シーザー・クラウンの秘書であり、ユキユキの実を食べた雪人間、モネ。天候に似つかわしくない、夏の盛りのような薄着から伸びる翼の先には、能力で生み出した雪製の巨大なアイスピックが握られていた。追い詰められ、血の気の引いた手の中にも短いダガーしか握られていないかるたに、勝ち目は見えない。
「……いいえ、それはどちらも違います」
肩で呼吸をするかるたは、雪人間のモネによって熱を根こそぎ奪われ、著しく体温が低下している。その上この猛吹雪だ。呼吸に伴って鼻や喉はどんどん凍てつき、露出した頬や耳も過度な冷えで痛みを引き起こす。視界だけは、マリンキャップの鍔とサングラスが辛うじて守っていた。
「あの人は、お忙しい……私の『かもしれない』に、割く時間なんてないと判断したまでです」
モネはその答えに納得した様子はなかったが、諦めたように小さく息をついた。それから、刃先をかるたの上下する心臓にさらに近付ける。
「それにしてもアナタ、随分と鼻が利くじゃない。吹雪に"紛れていた"私に、どうやって気付いたのかしら」
「そう、ですね……今朝焼いて、貴方に差し上げたクッキー、レモンの香りが強かったんじゃありませんか?」
「……!? まさか、アナタその匂いで……!!」
「なぁんちゃって嘘でーす。本当に、文字通り『鼻が利く』とでも思いましたか」
突然の流暢な煽り口調に、常に余裕を崩さなかったモネの目尻がビキッとひきつった。怒り任せにアイスピックを振り下ろすが、それよりも早く、図ったようにかるたのダガーがモネの脇腹を捉えた。武装色の覇気を纏った鋭利な刃が、確実に肉を抉り裂き、嫌な音とともに鮮血が飛び散る。低い悲鳴を上げたモネは、反動で狙いが逸れ、かるたの心臓へと向けたはずのピック先は彼女の肩口に突き立てられた。今度はかるたの口から、痛ましい呻き声が漏れた。
両者は互いに間合いの外へ退避する。傷口を覆うモネの白翼が、じわじわと赤く染まっていった。かるたの白いコートの肩にも、次第に赤が広がっていく。
「ハァッ……さっきも、言ったじゃないですか。『かもしれない』なんかに、船長を付き合わせてなど、いられない」
ただの勘であったと、まるでそんな言い様だ。ただの勘でモネに尾行されている可能性にたどり着き、単独行動して、モネが雪から人間体へと姿を戻したところで、覇気を纏わせた得物を投げ飛ばした。そんなことがあり得るのか? しかも、よりにもよってこの頭の悪そうな女に。
「先には、行かせ、ま……」
かるたは再び武器を構えた。しかし彼女の体はとうに限界が近く、すでにほとんど力の入らないその手から、ダガーがするりと抜け落ちてしまう。ざくり、雪に突き立てられ、その隣にはかるたの体がぐらりと倒れ込んだ。その身が起き上がってこないのを確認して、モネは張り詰めた空気をそっと吐き出した。
「……この吹雪なら、じきに凍死するわね」
独り言ちたモネは、能力で傷口を凍らせて無理矢理止血する。電伝虫での報告途中にかるたからの襲撃に遭い、受話器も破壊された。早く続きを伝えに行かなければならない。
「……アナタの料理結構好きだったのに、残念ね。……さようなら」
モネのイエローの瞳に、ほんの僅かに名残惜しさのような色が浮かぶ。しかしそれも一瞬で、二、三度瞬きしたモネは痛みに耐えつつ翼をはためかせると、研究所に向かって羽ばたき、吹雪の中に消えていった。
──それからどれほど時間が経過しただろう。
依然として荒れ狂う吹雪は、冷えきったかるたの体に容赦なく吹き付ける。しかしかるたは、辛うじて意識の糸を繋いでいることしかできない。指一本を動かすことすら億劫で、思考も鉛のように重い。
そうしているうちに、かるたの体はどんどん雪に埋もれていく。そして彼女がうっかり走馬灯のようなものまで見た頃。不意に、足音が近づいてきた。
その音は雪の上でいてなお、重みを感じる足取りだった。じわじわと追い詰められるように音は大きくなり、それがいよいよかるたの隣で止むと──武装色を纏った長い竹の棒が、彼女の脇腹に強くめり込んで、その身を軽々と宙に投げ飛ばした。
「……ッ……!?」
意識が一気に浮上する。しかしその衝撃は一定ラインを超過し、下手をすれば完全に気絶しそうなところをかるたは死に物狂いで繋ぎ止めた。
「カハッ……!!」
投げられた体が、受け身も取れずに雪の上へと落下する。酷く掠れた呻き声が漏れた。強烈な嘔気に見舞われながらも、かるたはどうにか瞳を動かし、その男の顔を確認する。
「──モネとの連絡が、突然途絶えたとシーザーから聞いてね。破壊音が聞こえたというので、敵襲に遭ったのだと当たりをつけた」
サングラスを掛けた坊主頭の男だ。頬になにか──ハンバーグの切れ端のようなものを装着している。珍妙なインカムか何かだろうか。一体この可笑しな男は誰だ。わからないが、しかし、かるたの味方でないことだけは充分すぎるほどにわかった。そして彼が、相当の実力者であることも。
「さて、モネはどこだ?」
どこも何も、さっき飛び立ちましたよ、入れ違いじゃないですか。バーカバーカ。そんな悪態を吐く体力も残っておらず、かるたが返せるのは沈黙だけ。血の味が滲む喉は、呼吸をするだけで精一杯だ。
しかし、運が良い。モネの伝達が遅れるほど、こちら側には有利に働く。この強者と思われる男を、どうにかここで、あと少しだけでも食い止める方法はないか。
「……質問を変えよう。お前たちは……トラファルガー・ローは何を企んでいる?」
「…………」
思わず見開きそうになった目に力が入る。駄目だ、平静を装え、悟られるな。落ち着いて考えろ。彼はどこまで知っている? どこまで気付いている? かるたが遮る寸前、モネはどこまで語っていた? 駄目だ、何もわからない。この場の最善策もだ。頭を使うのは元来得意ではないのに。
しばし待った男は、かるたの返答がないことに重くため息を吐いた。
「口を割るつもりはないか……時に、これは何だと思う」
ごそり。懐から取り出したなにかを、男は足元に転がるかるたに示した。片手で掴める程度のそれは、薄水色の膜に覆われていて、奇妙なことにどくん、どくんと一定のリズムを刻んでいる。
背筋が、凍った。
「あくまでも君が答えないつもりなら、それはそれで構わない。が……」
男は無慈悲にも、それを手袋越しに握り締めた。それはどくりと大きく跳ねて、意思を持って拒絶し、潰されまいと抵抗しているように見えた。しかし同時にそれは、強い苦痛に悲鳴を上げているようにも見えた。
この島に上陸してから、ローによって取り出された心臓は、他にいくつかある。しかしかるたには、その心臓がローのものであると直感でわかっていた。
かるたは落ちたダガーを反射的に握りしめ、弾けるように男に襲いかかった。息が出来なくて苦しい。得物を掴んだ手の感覚が残っていない。しかし、かるたの体は止まらない。
男の左胸目掛けて、刃を真っ直ぐに突く。吹雪を切る音が耳に届いた。男は手に握った心臓を盾にするように胸の前に掲げる。その動きを予測していたかるたは、男の手前で刃の軌道を真下に折った。柄が天を向いたダガーを今度は上に突き上げ、男の顎を狙う。これも、仁王立ちのまま上体を後ろに倒されて避けられる。男の視線が大きく逸れたところで、かるたはその手中にある心臓に手を伸ばした。
──しかし、指先が触れたところでかるたの腹に重い蹴りが直撃する。彼女の体は再び軽々しく吹き飛ばされた。今度は辛うじて受け身を取ったものの、地面に叩きつけられた体はとうに限界を越えている。それでもかるたは立ち上がろうと、手足に力を込める。今はただ、目の前の男に対する、喉の奥が煮えたぎるような怒りだけが彼女の体を突き動かしていた。
気がつけば男は倒れたかるたの傍らに、音もなく立っていた。彼女を煽るように、突き出した手は心臓を握り潰している。何度も何度も、抵抗するように跳ねる臓器に、四つん這いになったままのかるたの喉から獰猛な獣のように低い唸り声が漏れた。血走った目が鋭く男を睨み付ける。
かるたの震える手が、見せつけられた心臓へと伸びていく。指先から手のひら全体がゆっくりと触れるが、どれだけ力を込めようと、彼に強く握られたそれを奪うことなど到底できない。おおよそ奪取するのは無理であると、誰の目から見ても明らかであるというのに、かるたは決してそれから手を離そうとしない。
「……君には考える脳がないらしい」
男が呆れるように吐き捨てる。かるたは、彼の手から心臓を奪い取ろうとするように、それを掴み続ける。
「あんなに優秀に育ったローに、君のような無能な部下がついているとは……いや、ローもとっくに、愚かな犬に成り果てているがね」
「──……く、……る、な」
かるたが、男に対して初めて口を開いた。無理に絞り出した声は嗄れていて、酷く痛々しい。途切れ途切れで、意味を乗せた言葉にすら昇華されていないそれは、しかしはっきりとした怒気と意思が感じられた。かるたは枯れた喉を潤すように唾を飲み込んで、今一度震える口を開く。
「……船、長を、侮辱、するな」
男は首をぐるりと回した。少し考えるような、或いは呆れるような仕草。そして、ほんの二秒ほどでそれを解く。
「甘いな……」
脳を、全身の骨を揺さぶる衝撃。目の奥に火がついたようにチカリと瞬いたと思えば、かるたの視界は一気に白んで、それから世界がプツリと断絶された。
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穴の空いた心臓部への想像を絶するような痛みは、何度か断続的に続いた。その度に全身が蝕まれ、体力を根こそぎ絞り取られていく。今はその遠隔攻撃も落ち着いたものの、血管を縛られたような圧痛は残り、先ほど吐き出した血が口の端から細く垂れている。研究所をさ迷う体はふらふらと覚束ない。故に彼は突然その男を目の前にした時も、先手を取り斬り掛かることができなかった。
「大きくなったな……ロー」
その口ぶりに、低く忌々しい声。記憶に深く刻まれたそれは、何年経とうと忘れられない。忘れるはずもない。
腹の奥からひっくり返されたような吐き気がした。脳味噌が掻き乱されたように思考が纏まらない。
「お前……が……なんで此処に……! ヴェルゴ!!」
研究所内の広い天井に、ローの吼える声が反響した。ヴェルゴと呼ばれた男は、「今しがたな」とおもむろに太い首を回した。長身のローよりさらに大柄なその体で、彼を見下ろして見せる。
「丁度ドレスローザにいてな。SADのタンカーが出るというので、乗ってきて正解だったよ」
「何が正解だ……! おれがお前らに危害を加えたか!?」
「すでに実害が出ていたらお前は今、生きていない。大人に隠し事をしてもバレるものだ……ロー」
「なら……消えてもらうしかねェな!」
身を低くしていたローが、駆け出すとともに抜刀する。しかしその身の丈より長い大太刀が、鞘から完全に抜け切るより早く、ヴェルゴが懐から取り出した何かをローに向かって投げ捨てた。
「────」
踏み込んだ長い脚が、ダンッと音を立てて止まる。柄を握った指の先にまで緊張感が満たされ、ローの動きを完全に停止させていた。
足元に落ちたそれを、ローは信じられないものを見るような目で見下ろす。酷く見覚えのあるそのマリンキャップには、少なくない血が染み付いていて──
「お前の部下の遺品だよ。冥土の土産に持ってい」
ヴェルゴの言葉は続かなかった。
瞬間的に間合いを詰めたローの剣撃。ヴェルゴが覇気を纏わせた竹棒で往なすも、予想外の重さに手から得物が弾け飛んだ。ローが投げ捨てた鞘がようやく地面に落ちる。能力で展開させていたROOMが追いつき、ローは丸腰のヴェルゴに再び斬りかかる。その斬撃を紙一重で躱すと、ヴェルゴの首があった位置の延長、広い天井に大きく亀裂が入った。
「…………」
すかさず距離を取り竹棒を拾うヴェルゴを、真っ直ぐ見つめるロー。低く荒い呼吸に、帽子の鍔で隠れた目は瞳孔が開いている。
ローは激昂していた。理性は辛うじて繋ぎ留められているようだが、その動きの速さは、人間が普段無意識に人体に掛けているリミッターが外れかけているように思える。鬼を思わせる刺々しい威圧感が、ヴェルゴの身を殴り付けた。──あの時の無力な少年とはまるで違う目をしていると、ヴェルゴはそう感じた。
ローが再び弾けるように駆け出す。ヴェルゴは隠し持っていたローの心臓を強く握った。──しかしタイミングが遅かったか、ローはまるで止まることを知らず、そのまま刀を振りかざした。ヴェルゴは身を低くして斬撃を避けると、手元で竹棒をくるりと回す。
「ひとつ、訂正しろ」
限界まで昂った感情は、ローの判断力を奪い視野を狭める。覇気で強靭な得物に仕立てあげられた竹が、ローの隙を突いてその頭に重く叩き込まれた。
「ヴェルゴ“さん”だ」
ぐらりとローの体が傾いた。帽子の下から鮮血が伝い、頬を流れていく。力の抜けた手からは刀が離れ、彼はそのまま倒れ込んだ。硬質な床の冷たさが伝わる中、ローは薄い唇を動かす。
「────……、」
彼の小さな呟きは、しかし微かに空気が揺れただけで、声にすら昇華されることなく消えていく。彼が最後に瞼の裏に見たのは、あのマリンキャップの下で笑うかるたの姿だった。
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