新人の見学


 それは、朝の空きっ腹をくすぐる美味しそうな匂いが部屋中に広がってから、少し経った時のことだった。

「あれ、船長まだ寝てるの?」

 ぴしり。──そんな音が実際に聞こえたわけではないが、おれとしてはそう空耳したくらいに場が固まったのを感じた。その空気を作った張本人のかるたさんは、キッチンから顔を出したまま至って平然としているが、他の先輩クルーたちは何故だか一様に焦り始めている。「あーおれちょっと腹痛くて……!」「おれかるたの手伝いすっから!」「あっ! ずりィぞテメー! おれが! おれがやる!」「お前行けよ!」「おれこないだ行ったばっかだって!!」なんだなんだ、どうしたんだ一体。おれだけが着いていけずにいると、わあわあ言っていたうちの一人、シャチさんと視線がかち合った。

「あ! そういやお前、まだやったことなかったよな」
「えっ? な、何をですか?」

 シャチさんの発言を聞いた皆は、おれの狼狽なんて知ったことかと言わんばかりに一様にニヤニヤし出す。さっきまでの焦りは一体どこへ行ったんだ。その下品な笑みに、未だ状況は掴めずとも何かヤバイことがおれの身に迫っていることだけは勘づいた。

「よっし! 今日はお前が行ってこい!」
「は!? だから何を、じゃなくていやおれは遠慮し、」
「いやー助かったー!」
「命拾いしたわァ」
「ちょ、ちょ、ちょっ、」

 駄目だ。完全に置いていかれてる。かるたさんにまで「じゃあ、よろしくね」と軽く言われてしまう始末。えええ、そんな、待ってくださいかるたさんおれを置いてどこ行くんですか! あ、朝食の準備か。なんて一人で帰結していると、シャチさんは再びおれと目を合わせ、両肩にがしっと手を置いてきた。

「よし! それじゃあ早速お前、船長を起こしてこい!」
「……はい?」







「……船長ー、ロー船長〜……」

 恐る恐る、扉の外から声を掛けるが、耳を澄ませても返事は聞こえてこない。おれの五感が獣ほど良ければ呼吸音だとか、人の気配だとかがわかったのだろうけど、生憎凡人ルートを辿ってきた──ただの凡人が「あの」トラファルガー・ロー船長の船に乗ることになるわけがないだろう、と聞こえてきそうだが、そこは諸々の事情やタイミングが重なったのだと思ってほしい──おれには、何一つそれを気取けどることもできない。
 おれはひとつ息を吸い込み、それより長く時間を掛けて吐き出す。それから目の前の扉に手を掛けて、なるべく音を立てないようにゆっくりと開いた。

「お邪魔しま〜す……」

 言って、「おはようございます」のほうが場にあっていたなとすぐ思い直す。まあ、どちらにせよ船長に聞こえていないのなら問題にはならないけど。
 ゆっくりと床を踏みしめ、初めて入る船長の部屋に進入する。入ったら駄目だと言われてたわけでもないけど、なんとなく怒られそうな気がして、しっかり線引きはしておくべきだと思って、今まで前を素通りするのすらどこかコソコソと行っていた。
 誰かたちの部屋のような男臭い感じはとくにしない。別にフローラルな香りがするわけではないけど、なんていうか、本と、少しの薬がする、気がする。ロー船長らしいと思った。
 白いベッドの中で横たわっている船長に近付いて、そっとその細くてしっかりした肩を揺らす。

「ロー船長、朝です。メシの時間っすよ」
「ん……」

 少し鼻にかかったような、くぐもった声。低くて艶があって、もはや同性のおれですら色気さえ感じてしまう。この人、見た目も中身もかっこよけりゃ声までかっけーってどういうことだ? そりゃ皆も船長〜! はぁとはぁと、ってな具合になるわ。ここの名の由来はまだ知らないけど、彼らを見てるとまさに「ハートの海賊団」って気がしてくる。
 と思考を飛ばしながらも揺すり続けていると、ようやくロー船長の隈の酷い瞼が動いた。

「あ、船長起きまし」
「"ROOM"……」

 ブゥン、と少しだけ聞き慣れてきた音。同時に体を薄水色の何かがすり抜けた。

「え、」
「……"タクト"」

 戸惑う間もなく、体を一気に駆け抜ける浮遊感。そうしておれの体は開けっぱなしの扉を潜り抜けて、その奥の硬い壁に叩きつけられたのだ。

「げふん!!」

 情けない悲鳴を上げて地面に潰れるマイボディ。背中と尻がじんじん痛む。嘘だろロー船長。痛すぎてちょっと目尻に涙が浮かんできた頃、この船の中で一番軽い足音が聞こえてきた。

「まだー? ごはんできたけど」
「うう……かるたさん、こんなの聞いてねーんですけど……」
「まあ言ったらやらないと思って……」
「おれにはもう無理です……船長また寝始めてるし……」

 言って視線で指した先では、ロー船長は先ほど使った腕を再び掛け布団の中にしまいこんで寝息を立てていた。ぐうっ、おれにこんなことしておいて自分は気持ち良く二度寝とは! なんたる横暴!!
 彼の様子にかるたさんはふう、と息を吐き出すと、おれなんかよりずっと綺麗な髪を少しだけ揺らして代わりに部屋の奥に入っていった。その後ろ姿を見届けていると、かるたさんが来た方から今度は別の先輩がやってくる。

「よお、綺麗にやられたみてーだなァ」
「あっシャチさん! 酷くないっすか!? 教えてくれてもいいんじゃないですか!?」
「だっはっは! 言ったらやんねーだろお前」
「同じこと言う!!」
「ま、新人の洗礼っつーか? 通過儀礼っつーか? お約束っつーか?」
「んなお約束いらないんですけどォ!?」

 船長が寝てるのも忘れてうっかりシャウトする。今度はバラバラに斬られでもするのでは……と思って恐る恐る室内に目を向けるが、杞憂だったらしい。船長はかるたさんにゆさゆさとゆすられながらも、未だ布団の中にいた。

「船長、船長。起きて下さーい」
「ん……」
「昼夜逆転は体に悪いですよ。ほれ、しっかりしてくださいお医者様でしょう」

 ぺしぺし、臆面もなくあのロー船長の頬を軽くたたくかるたさんには、畏敬の念を送らざるを得ない。そしてこうまでしても頑なに起きようとしない船長もなかなかに凄いと思う。しかもおれの時とは違って、さっさと"タクト"でぶっ飛ばすこともしない。──なるほど。きっとかるたさんは、ロー船長が自分にだけは手をあげることがないとわかっているに違いない。だからかるたさんはあんな風に臆することなく接することができるんだ。船長は時折おっかないけど、女性でコックのかるたさんには制裁を下すこともなく、ある程度紳士的なのだ。

「やっぱかるたさんはすごいなァ」
「いやあ、多分──」

 シャチさんの言葉が途切れると共に、室内から間髪を入れず「"タクト"」と低い声が聞こえてきた。その瞬間かるたさんの浮いた体はおれたちの方に吸い込まれていき、「ぎゃふっ!」「ぐえっ!」と元気いっぱいな二つの悲鳴が上がる。二人仲良く壁に叩きつけられたかるたさんと巻き込まれたシャチさんを見て、あ、やっぱり船長は女とか特に関係ねーんだなと思った。







 おれたち三名に無意識の制裁を加えてから、ようやくロー船長は寝惚けの海から浮上した。しかしまだ微睡みの波が襲っているらしく、自身のベッドに腰かけるようにして上半身は起きているものの、頭部は船を漕いでいる。上陸にはまだ少しの時間を要しそうだ。

「船長、さっさと着替えてください。はいこれ服」
「ん゛……」

 後から痺れを切らしてやってきたペンギンさんが、船長の洋服ダンスから勝手に服を取り出して差し出した。見事なまでの子ども扱いだが、しかし船長は甘んじてそれを受け入れ、大人しく上に着ていた服を脱ぎ始めた。露わになる鍛え抜かれた筋肉と黒く大胆なタトゥーに、同性ながら思わず目のやり場に困ってソワソワと視線を泳がす。あれ、おれこれ気持ち悪くない? 大丈夫? 皆引いてない?

「船長、コーヒー飲みますか?」
「んん゛……」

 ベッドに腰かけている船長に目線を合わせるように、コーヒーを用意したかるたさんは少しだけ屈んで静かに訊ねた。船長はのそのそと着替えながら返事するが、正直今のが「うん」か「ううん」か、おれには全くもってわからなかった。しかしかるたさんはそれをyesと捉えたようで、着替えを終えた船長にカップを渡していた。船長も船長で当たり前のように受け取るから、やっぱりかるたさんは正しかったらしい。

「寝癖やべーっすよ船長、直しますからそっち向いて」
「ん゛ー……」

 その直後に、今度はブラシとミストを用意したシャチさんがやってくる。船長はかるたさんの淹れたコーヒーを一口飲みながら、言われるがまま首をひねった。シャチさんは船長の大きく跳ねた後ろ髪にスプレーを吹きかけ、ブラシで梳かしていく。寝ぐせ直しの水なんておれは使ったこと無いけど、なんとなく、それがある程度値段の張るやつで、多分シャチさんたちが勝手に買ってきて船長の部屋に置いたものなのだろうと察した。そして恐らく、船長が自分ではそれを使ったことがないことも。

「…………」

 あの大人の男で超かっこよくてクールでストイックなロー船長の、だらだらと気の抜けきった姿。年上の人たちに、精一杯面倒を見てもらってる姿。
 むず、と喉の方で何かが疼いたがすかさず呑み込む。かるたさん、シャチさん、ペンギンさんにあれこれ世話を焼かれて行くロー船長は、数分してようやく人前に出られる格好になった。いや、別に船長の身だしなみが多少乱れてたっておれたちは気にしないし、むしろそういう抜けてるところがある方が親しみやすくていいとは思うけど、突然敵襲が来た時に完全オフモードだとやっぱり締まらないし。
 三人にぐだぐだ言われつつ連行され、ロー船長は重そうな足取りでダイニングへ向かう。中に入るとすでに食事は用意されていて、なんなら他の人たちはもう食べ始めていた。温かいうちに食べるのが一番美味しい、とかるたさんはよく言っているから、先に食べるよう言い残しておいたのだろう。そうでなくとも、船長がいなければ食事を始めてはならないなんていうルールはこの船にはなかった。正直、ここに入る前は「船長が絶対!」っていう感じの海賊団だと思っていたから、拍子抜けしたのは確かだ。

「はー腹減った〜。いっただっきまーす」

 全員がようやく席につき、さらに食卓は賑わいを増す。会話と共に大皿上を行き交うフォークや箸。かるたさんの影響なのか、この船は妙に箸を使う人が多かった。

「船長いい加減目ェ覚ましましょうよ〜」
「ん゛……」
「また遅くまで本読んでたんでしょう。駄目ですよ。夜更かしもそうだし、ぶっ続けで同じ体勢するのも……ちゃんとストレッチ挟みました?」
「……るさい」
「あっまたそんなこと言って。ほら、取り分けましたから食べましょう。冷めちゃいますよ」

 船長の取り皿に三品ほどおかずを乗せて渡すかるたさん。しかしそれを無視して船長は先に茶碗を持ち上げた。「あ、最初に糖質は駄目ったら。タンパク質か野菜のほうがいいですよ」そんなことを続けるかるたさんに、おれはとうとうたまらなくなって呟く。

「息子とお袋じゃん……」
「わかるそれなー」
「シャチさんとペンギンさんもですよ」
「えっ?」



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