06
何かを言おうと、日和が息を吸うのがわかった。天の名前を紡ぎかけたその時に、カララララッと勢いよくベランダのガラス戸が開く。その勢いに思わず肩が跳ねて、2人は揃ってベランダの方を見ると、寒さに鼻を赤くした南沢が難しい、何なら少し顔を蒼くして立っていた。
「……まずいことになった」
「は?」
天が眉を潜めると、南沢はガラス戸もそのままにサンダルを脱ぎ捨ててバタバタと玄関へ向かい、今度はバタバタと天の靴を持って戻ってくるとそれを押し付けてくる。
「なに、何なんです急に」
「あいつが来るから隠れてろお前」
「は?あいつって誰──……」
言って、理解する。
眉間のシワが自然と伸びて、天は一瞬表情をなくし、それから声を上げた。
「僕ですか!?」
「そう言ってんだろーが!早くしろよ!」
言ってないでしょ!と天が反論するも、南沢はバタバタと天がいた痕跡を消していくだけだ。日和は「タイミングですなあ」とぼやく。
「いや……つーかバタバタしてて忘れてたけど今日あいつと鍋やる約束してたんだよな……」
「は!?」
「え、何それひよりん聞いてない」
「お前は誘わねーよ」
目を逸らしながら気まずそうに言う南沢に、天も日和もそれぞれに違う感情を抱きながら衝撃を受けた。「なんっですかそれ!」と天が言えば「うるせーなレポート終わってテンション上がってたんだよ!」と南沢が返し「私誘われてません」と日和が入ってくる。
「とにかく隠れろ!もう近くまで来てんだよ!」
「隠れろってどこに!?トイレ……は駄目か!あ、ベランダ!」
「待てコート着ろ馬鹿!」
「うわ雪降ってる!」
放り投げられたコートに袖を通しながら靴を履いてベランダに出る。
それと同時にピンポーンとおもちゃのような音が鳴って、一瞬3人の動きが止まる。「ピンチでは?」小声で言う日和に南沢も極力小声で叫んだ。「わかりきったこと言ってんじゃねえ!天が帰るまでは隠れてろ!」ピシャンとベランダのガラス戸を閉められ、更にカーテンも引かれてしまえば中の様子は見えなくなってしまった。
「ひよりんも鍋パしたい」
「いや……えっ!?待って鬼城さんは隠れなくてもよくない!?」
「五月雨氏、しー」
並んでガラス戸の向こうを見つめる日和の存在に違和感を覚えた天は思わず大きな声を出してしまうが、日和は人差し指を口元に運んで宥めるだけだ。天は両手で口を塞いで、中の音に耳を澄ませると南沢と、もう1人の話し声──恐らくは未来の自分の声が微かに聞こえてくる。それから足音もして、天は慌てて日和の手を取ってガラス戸に影が写らないようにベランダの端まで移動する。
そっと2人しゃがみこんで、すぐ近くで互いを見やった。
声がガラス戸越しに聞こえてくる。それなりの勢いで何かを言い合っているようだった。けれど声の中には芯からの怒りは双方に含まれていないとわかる。
聞こえてくる声に、室内の空気を感じ取って、天はギュッと唇を固く結んだ。知らない感情が胸の奥で揺らめいている。早く消えてしまえばいいのに、なかなか消えないそれに、天は苛立った。
頭がぼんやりとしていた。まだ中にいた時の温度を体が覚えているのたろうか。吐く息は白いのに、体の中にある熱は冷めてくれない。
「五月雨氏?」
日和が覗き込むように天の顔を見た。金髪がカーテンの隙間から漏れる光を浴びてキラキラと光っている。星が瞬くように揺れる光から、天は逃げるように俯いた。
ああ、なんだこれは。なんなんだよこれは。
苛立ちに似た、けれどもっと違う、別の感情がずっと漂っている。この感情はなんと呼ぶものなのか、天は知らない。
『2人共、まだ僕と連絡を取ってるんですね』
『どうして鬼城さんは、まだ僕といるの』
違う。聞きたいことは、知りたいことは、そんなことではなかった。
本当に問いたいことは、問いたい相手は、日和でも、南沢でもない。
この時代にいる、未来の自分だった。
(なんで僕は、2人といるんだろう)
いつ途切れても大丈夫なように、天は今を生きている。それは日和と南沢に対してもだ。寧ろ天は、いつか途切れるだろうと信じてすらいる。
風化しない繋がりを、無理やりに断つことだってきっと自分はできる。
それなのに2人のいることを享受して、それを当たり前のように過ごして。
なんで。
そんな疑問ばかりか浮かぶ。だって本当にわからないのだ、今の自分では。どんな気持ちで、2人と共にいるのか、今の自分ではとても。
疑問が雪のように積もっていく。考えれば考えるほど思考が鈍るようで、体温が無駄に高いような気すらする。寒いせいか息をすると鼻の奥が痛くて、目が霞む。
ふっと、窓から溢れていた光が遮られて、顔を上げると目の前に日和の顔があった。その距離に、天は体を固める。金色の瞳が暗い中でもよく輝いていた。ドクリと重たく心臓が鳴って、無理やりに呼吸しようと短く息を吐く。伸びてきた細い指先が天の前髪を流して、こつりと額と額がぶつかる。
「……五月雨氏、熱ある?」
「……は?」
日和の言葉を上手く理解できずに、間の抜けた声が出た。
日和は額を離して、ぺたりと、今度は手のひらで天の体温を計る。熱の高さに、日和は僅かに眉を寄せた。
天も熱があると指摘されると、漸くその症状を自覚した。手のひらで額を押さえる。自覚してしまえば体が重くなるのを感じた。膝をついて、冷えたコンクリートが触れた肌から体温を奪っていく。
「五月雨氏」
日和が天の体を支えた。声はいつもより余裕がないように思う。大丈夫だと伝えたいのに、視界がちらつく雪に遮られるように狭まっていく。
金色の瞳が自分を見ていた。僅かに、だけどさっきよりもしっかりと寄せられた眉根が、自分を気遣っていると示している。
(ああ、そんな顔、君は)
思考は巡る。熱を孕んだままに、揺蕩うように。
疑問はいくつもあった。何で自分は未来の2人との繋がりを絶たないのか。何で南沢はタイムジャンプした天を受け入れたのか、タイムジャンプのことすら、天は南沢に話していない。それなのにこの時代の南沢はタイムジャンプのことも知っていた。自分が話したのだろうか。
(何でだろう。タイムジャンプだなんて信憑性のない話を、僕は先輩にするかな)
カロリーを消費しそうな内容だ。あの話を正しく伝えるとしたら、とても疲れる。そんなことはこの時代の自分だってわかる筈なのに。それでも話すことを選んだのなら、自分はまるで
(先輩、に……信頼を寄せてる、みたいな)
そう考えると自然と口元が緩んだ。自嘲が溢れる。
馬鹿みたいだと、熱が上がりそうな話だと、天は思考を打ち切ろうとした。日和に笑い掛けて、安心させなければいけないのに、閉じそうになる瞼の裏に、自分の名前を呼ぶ2つ年上の南沢を見た気がした。
(面倒で、意味もなくて、突拍子もないこんな話を)
話してもいいと思う日が来るのだろうか。いつか、近い未来で。
遠くなる意識の中、狭まっていく視界の端で、星が強く瞬いた気がした。